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2018年8月31日金曜日

ポーラ美術館コレクション

岡山県立美術館の「ポーラ美術館コレクション モネ、ルノワールからピカソまで」を昨日(8/26)家内と見に行った。
以前勤めていた職場で招待券をもらっていて、結局最終日にまで行くことができずにいた。
先週の日曜日も米の買い出しで、備前に行ったのが、今回は岡山の中心街にまで車で行く。
私は出張で、県庁舎に行ったことがあったが、その時もずいぶん道に迷った。
今回も、案内板が出ているのにもかかわらず、道を間違えて引き返さざるを得なかった。
まだ、駅を中心とした俯瞰図が頭の中で描くことができずにいる。
何とかたどり着いてが、今度は駐車場を探さねばならなかった。
見つけたパーキングから、美術館はそこそこ距離があり、真昼の炎天下の美術館までの道のりは少々厳しかった。

最終日と言うことで、人でも多いのかとも思ったが、入場で待たされることはなかった。
第一展示場は写真撮影が許されていて、多くの人が写真を撮っていた。
私も持ってきた携帯電話で気に入った絵を写真に収めた。
印象画の絵は、どれも心和ませてくれた。
絵によっては、今のアニメの世界と変わらないものがあったが、今のアニメの方がこれらの絵の影響を受けていると行った方が良いのだろう。
観覧者はやはり女性が多く、熱心にスマホで何枚も写真を撮る人もいた。
ただ、撮ってきた写真や買ってきた絵はがきというのは、結局日常の中で陳腐な絵になってしまう。
こういう展覧会の場で、本物の絵に触れる感動に変えられるものではないと思う。
ただ、毎日に散歩で田舎の自然風景に接している者としては、風景画はその延長上に感じた。
それでも、古い町並みや、建築物は別世界であり、その雰囲気の中に入るこむこともできるのが楽しい。
一方、ピカソの絵は、あまり長くみたいと思わなかった。
情緒不安定になりそうな気がした。

他の展示も見たいところではあったが、昼食もまだでおなかもすいたので、美術館を出ることにした。
また、パーキングまでの暑い道のりを戻り、いざ出ようとしたところ、出口バーの故障かなんかで20分近くも待たされた。
結局、300円のところ200円に安くしてもらったが、時間のロスとなってしまった。
せっかくだから駅前のイオンに寄ろうというので、イオンのパーキングに向かったが、満車状態で入れないと思い帰ることにした。
昼食をとれる手頃な店を探すが、その殆どが逆方面の車線側で、右折してまで入る気にはなれない。
結局、午後2時近くになって、丸亀製麺に入った。
そこで、冷やかけうどんと野菜のかき揚げ、レンコンの天ぷらを食べた。
我々夫婦にとって手頃なうどんをすするのが、なんとなく自然に思えた。
格調高い美術館に行った帰りに、うどんをすするというのも悪くない。
ただ、美味しそうでかき揚げをほおばったが、ずいぶん長く胃にもたれることになった。
夫婦とも忙しい日々の合間に無理して出かけたが、何よりもかけがえのない一時のように感じた。



2018年8月28日火曜日

昔の名前で・・・

私が在籍した大学院の一つ、東京都立大学はその名前を失っていた。
首都大学東京というけったいな名前になってしまって、私には親しみなどもてなかった。
ただ、私が通った校舎は既に八王子に移転してしまっていて、一度も足を踏み入れたことはない。
私の通った校舎は、東京都目黒区八雲1-1-1にあって、東急東横線の都立大学駅から柿の木坂を登ったところにあった。
校歌がなかったので、仲間で飲むとその当時はやった、志村けんの「東村山音頭」をもじって、「目黒区八雲 一丁目 一丁目 一丁目」とふざけて歌った。
私は「柿の木坂は駅まで三里」の歌詞のある『柿の木坂の家』の歌の方が、この大学にふさわしいと思った。
ただ、この歌は広島県の大竹市がモデルだそうだが、私は勝手に渋谷駅から三里離れていると解釈していた。
今の校舎は八王子市南大沢1-1-1にあるそうで、ここで「昔の名前で でています」と、2020年に再デビューするのだという。

私は高校生の頃は、やけに倍率の高い二期校の大学という以外に大して興味はなかった。
ただ、親しかった友人は、この大学に憧れて目指したが、結局二浪して慶応に行った。
都民にとっても、入学金などが安かったので人気があったらしく、都立大学に行きたかったという早稲田大出の人もいて意外に思った。
ただ、以前私の教え子に進学を勧めたことがあるが、筑波大学の方を選んで進んだ。
大学改名のニュースでの取材で学生が話していたように、ネームバリューも人気もなくなっているのだろうと思った。
また「首都大学東京」は、「東京都市大学」という私立大学があるように、名前が紛らわしくて格調もないように感じていた。
そもそも、東京都立大学は英語ではTokyo Metropolitan Universityで、大学のTシャツにはMのイニシャルを使っていた。
ちなみに、東京都市大学はTokyo City Universityだそうで、都市の大きさの差の表現というのもおかしなものである。

私が所属していた当時の東京都立大学大学院の社会人類学コースの魅力は、色んな大学の出身者がいたことである。
都立大学の学部の方から進学する者はあまりいなかった。
埼玉大学出身者が多かったが、東京大学や早稲田、慶応、ICU、から高知大学、信州大学など地方大学出身者も少なからずいた。
私のような、二流私立大学出身者にも門戸が開かれていたのは、ありがたいことだった。
東京大学のような上品なアカデミズムの砦ではなかった。
研究会ではビールを飲みながら激しく鋭く討論する荒稽古の場でもあった。
そこで鍛えられて、多くの研究者を輩出していったのだが、私のように研究者にならずに去って行った者も少なからずいた。
ただ、もし私が都立大学に学んでいなかったら、研究はとっくに捨てていただろうと思う。
生涯研究を続けていこうとしているのは、ここで学んだからだと思う。
今は敷居が高くて踏み入れられない所になってしまったが、ここで学んだこと自体が自分にとっての大きな支えになっている。
そして昔の名前が戻ることは、これからもいっそう私を支え続けてくれるような気がする。






2018年8月27日月曜日

実家の片付け

私の母はが入院している間に、一人暮らしをしていた実家を、遠方から来てくれた兄弟家族が片付けてくれていた。
膝を悪くして以来、動くにも不自由だった母の過ごしていた居間はかなり乱雑な状況だった。
私も気にはなっていたが、庭の手入れなどで結構手間がかかっており、そこまで手が回らなかった。
母が入院したことで、周りの者が本気になって、環境を整えるきっかけとなった。
私も休日を利用して、片付け切れていたないものを整理したり、ゴミを持って帰ったりした。

赤穂の実家は私が中学生以来の住居で、大学で下宿するまでと、大学院を出て教師になるまで暮らした家である。
私にとっては通算すれば10年も住んでいないので、それほど長く住んだというわけではない。
ただ、思春期から今まで色々な出来事の基点となったところで、非常に思い出深い場所であることにはかわりない。
そもそも、この家を建てるときからの様子を今でもつぶさに憶えている。

家はもともと田んぼだった所を、埋め立てたものである。
埋め立てる際には、周りが田んぼだったので、父が手作業で石垣を組んでいった。
今まで住んでいた尾崎の小さな平屋から、二階建ての家を建てることになって、父はすごく張り切っていた。
ある日などは、建築中の家を見に行って、夕方なかなか帰ってこないので呼びに行かされたが、建てかけの家の中で横になって眠っていた。
家が完成するのを、そこで夢見ていたらしい。
それだけ父の思いのこもった家なのだが、最近はどこやここやいたみが酷くなってきていた。
今回も、母が戻ってきて介護ベッドを入れるのも、それなりに手を加えねばならないと思った。

母の寝具をとりあえず二階に置いておこうと、二階の南部屋に久しぶりに上がった。
私が中学高校と一つ下の弟と二段ベッドを置いて二人で使った部屋である。
そのころは、南の窓から小豆島が遠くに美しく見えていた。
今は、隣の家が建っていて、窓を開けるのも気が引ける状態である。
それでも、布団を干しながら、昔、自分の布団を干していた頃を思い出した。
誰も使わなくなった部屋は、昔の面影をかすかに残す程度である。
気がつけば書棚には、私が残していった本がそのまま残っている。
私のこのブログのタイトルに参考にした藤井令一氏の「ヤポネシアのしっぽ」もあった。
6畳ほどの小さな部屋には、若かりし日の数々の思い出がいっぱい詰まっている。
母の退院後は、母の生活を支援するために、ここに訪れることも多くなると思う。
自分の原点、生活の原点を見つめ直すきっかけにもなるのではないかと思っている。

2018年8月23日木曜日

米の買い出し

私はもう10年以上玄米食を続けている。
玄米を白米に戻したら、便秘になってしまった。
以前は私一人分だけ、土鍋で玄米を炊いてもらっていた。
今は、玄米を柔らかく炊いて、ギャバも摂取できるという炊飯器を使って家族全員で食べている。
玄米は近所の農家から手頃な値段で30kgを分けてもらっている。
ところが、その玄米を頼んだところ、もう無くなったという。
新米が採れるまでは1ヶ月以上かかると思うので、何とか安く玄米を手に入れたいと手を尽くした。
しかし、近隣のJAの直売所では、30kg単位は年間予約が必要だったという。
少ない量では割高になるので、ネットを調べたりして安い玄米を探した。
しかし、送料もかかるせいか、なかなか安い玄米は見つからない。
そんな時、和気のJAの直売所に米が売っていることを、家内がネットで調べた。

私は青少年教育センター閑谷学校に指導員として半年勤めていたので、和気は職場の直ぐ近くである。
閑谷学校の山陽本線での最寄り駅は吉永で、和気は岡山寄りの次の駅となる。
因みに、閑谷学校までは自宅から車で30分ほどで、赤穂へ行くのと変わらない。
しかし、家内は殆どこの方面に行かないので、遠くに感じたようである。
私自身、吉永より西に滅多に行かなかったし、和気の町自体に行くことは無かった。
今回初めて、和気の町のJA直売所に立ち寄ったのである。
米は地元の米を販売しており、5kg袋だったので30kgをまとめて割り引いて買えないか聞いた。
すると、可能だという。
同じJAでも西播磨とは違うようである。
1年間同じ値段で、30kgを購入できるそうである。
近所の人に分けてもらうよりは、1000円ほど高いけれど、ネットに比べればずいぶん安い。
近所の米が無くなったら、ここを利用しようと思った。

この和気のJA直売所は、上郡の直売所よりずいぶん大きく、野菜、果物、魚まで売ってる。
しかも、日曜だとはいえ多くの人が買い物に来ていた。
この和気からは、備前片上に向かったが、今まで通ったことのない道を通った。
そして、かつては子供とよく日曜日に買い物にやってきた、天満屋の廃墟ビルの前の道にでた。
子供の小さかった頃は、日曜日の午後にはドライブがてら、このあたりまで来て、赤穂の実家によって帰るのが日課だった。
今回は天満屋ではなくて、備前の海の駅に寄ってから、入院している母を見舞いに行った。
近くにあった魅力ある直売所を発見したことで、これからの休日のドライブコースが一つ増えた。

2018年8月21日火曜日

末期癌のお坊さんに学んだこと

義父の初盆で家内の実家に行った。
そろそろ、時間の11時なのになかなか、お坊さんが来られない。
玄関先で待っていると、10分近く遅れてやってこられた。
ご挨拶をして、「お体の具合はいかがですか」と尋ねると、「薬がはずれて」というので、てっきり薬が不必要になったと思った。
実はお坊さんは末期癌で、余命も宣告されていた。
まだ、70歳代で元気そうなので、気の毒に思っていた。
このお坊さんは、以前は中学校の教師をしながら住職を勤めてきた人だった。

おつとめが済んで、お話をしている中で、その癌のことに及んだ。
「私は病気だが、病人では無い」という。
つまり、治療をしながら、普通に生活をしていると言うことである。
実は、「薬がはずれて」というのは、朝にしていた「点滴をはずして」という意味だった。
身体には自宅でも点滴ができるようにな装置を付けていて、自宅で点滴治療をしているという。
来るのが少々遅くなったのも、その影響であったかもしれない。
薬で治療しているが、その薬も効かなくなって、新しいのを試したりしているそうだ。
その新しい薬を合わせるのも、結構大変なことだという。
そしてお元気そうに見えるのだが、確実に癌の病巣は大きくなっているという。

このお坊さんも、癌が分かった当初は、「なんで私が?」「なんでこの歳で?」と辛かったそうである。
そのうち、教え子の癌の専門医と話をしたりして、限りある時間をしっかり生きようと思い苦しくなくなったという。
「病気であっても、病人になってはいけない」
というのが、このお坊さんの教えである。
そういえば、私も糖尿病だが、病人とは思っていない。
病気によっては、入院治療や自宅療養で仕事ができない人もいる。
しかし、自宅で点滴治療をしながら、こうして僧侶としての務めを果たしておられる末期癌患者もいらっしゃる。
仕事ができなくても、生きていることそれ自体に意味がある人もいる。
義母が義父の存在の意味を死によって初めて分かったとこの初盆で言っていた。
末期癌は、死を迎える前に、その人の存在意味を自他共に知らしめてくるものかも知れない。
「死」を意識しないということは、逆に「生」そのものを意識しないことなのだと思う。
そして、病気や死、苦難をどう意味づけるかは、本人の気持ちであり、前向きに意味づけるか後ろ向きに意味づけるかで生き方も違ってくる。
後ろ向きに意味づけてしまうと、いわゆる「病人」になってしまうと言うことだ。
お坊さんと初盆は、大切なことを学んだと思う。


2018年8月20日月曜日

あしなが蜂に刺されて

昨日(8/16)、仕事でタマツゲの剪定を電動バリカンで行っていた。
何本か何事も無く、順調に刈り上げていたのだが、ふいに左手に鋭い痛み、同時にアシナガバチらしきものが飛び立った。
刺された数は3カ所以上で、痛くて場所を特定もできない。
事務所に戻り、ネットで対策を調べてもらったら、水で流して毒を絞り出せという。
しかし、刺された場所らしきところは、痛くて絞り出すことなどできない。
とにかく、冷やして病院に行くことになった。

病院では消毒をして、湿布を貼るだけ、すでに首筋にじんましんが出ていたが、アナフィラキシーに備えて安静にするだけだった。
幸いじんましん以外のショック症状も無く、職場に戻ることになった。
今晩は風呂は駄目で、腫れが引くまではプールには入れないという。
左手はすでに腫れ上がって痛くて、物をつかむこともできないので、当然運転ができない。
私の車はマニュアル車で、左手が使えないと運転ができない。
家内に連絡をとって、迎えにこれるようにしてと頼んでおいた。

結局、仕事はこれ以上不可能で、自宅に戻ることになった。
家内に迎えに来てもらい、自宅に戻ってから、左手が濡れないようにシャワーを浴びて、安静にした。
じっとしていても、左手は脈拍にあわせてドクドク痛む。
お医者さんには酒は駄目と言われたが、酒どころか食欲もない。
何とか食事をすませて ,居間でそのまま眠っていた。
寝室で寝ようと、二階に上がると寒気がする。
気温も低くなっていたが、熱があるらしい。
押し入れから、布団を引っ張り出してくるまって眠った。

翌朝は比較的痛みは治まったが、上の写真ように腫れは広がっている。
家内が以前蜂に刺されたときに、アロエが効いたというので、アロエを貼り付けたりした。
この日は、午前中はできるだけ安静にして、午後からは仕事に出かけた。


2018年8月18日土曜日

村の盆踊り2018年

今年は我が家は村自治会の隣保長にも当たっている。
盆踊りの準備をだいぶ前からしていた。
といっても、集まってうだうだと話をしただけで、村役のメンバーが殆どしてくれていた。
当日(8/13)の朝は、盆踊りを行う広場の草刈りから始まった。
草刈りは一度は盆踊りのために行っているが、それから時間が経ってしまっているのでかなりぼうぼうになっている。
私は事前に分かっていたので、完全装備で草刈り機を持って出かけた。
この村作業は全員参加が原則なので、多くの人が出てくるが、お年寄りや年配の女性は日陰で観ているだけである。
若い人を中心に汗にまみれて作業をしているのだが、お願いされても手伝う気配も無い。
と言いいながら、手伝われて倒れられても困るのだが・・・・
朝の草刈りとやぐら建ての準備は何とか済んで、夕方5時に集合となった。

夕方になって準備にかかろうとすると、雷の怪しい雲いき。
黒い雲が北側の空をおおっているし、時折雷鳴も聞こえる。
準備に来た人たちは準備にかかるか、中止するか決断を待っているが、なかなか責任者は判断できない。
ポツポツと雨が降り出したので、同世代の役員と近くの倉庫の庇の下でうだうだと喋っていた。
その話の中で、来年は盆踊りでは無くて、近くの村のように納涼祭にしてはどうかという話になった。
盆踊りのようにやぐらを建てて大がかりに準備しなくて良いからである。
その代わり、焼きそばや鶏の唐揚げを準備するというものである。
確かに、踊り手の少なくなった現在ではそちらの方が現実的なような気もした。

何とかできそうだというので、準備にかかり始めた。
私は村の一人から、音響機器を借りに行くのを手伝いに行った。
その音響機器の持ち主は、写真やカラオケなど多趣味な人で、離れを趣味の部屋にしている。
そこには素晴らしい音響機器と、長年集めたカメラが陳列されていた。
前から一緒に歌うことをお誘いされていたのだが、カラオケ装置もしっかりと設置されている。
今度同じ村の音楽好きの仲間と一緒に押しかけるのも良いかなとも思った。
軽トラに一式積み込んで、会場のやぐらの下に設置した。
そして、用意された飲み物を準備係の人と飲みながら、村の人が集まるのを待った。
今回もビールか発泡酒かで迷ったあげく、発泡酒と酎ハイになった。
ビールを出さないから、盆踊りにやってこないのだというが、予算的に厳しい。
私が普段飲んでいる第三のビールは、候補にさえ挙がらなかった。
村の人は発泡酒より高いビールを飲んでいるらしい。

本当に多くの人が来てくれるのか心配したが、結構多くの人が集まってきてくれた。
親戚の子供なども混じっているが、これだけ多くの人が村には居たのだと改めて思った。
ただ、顔を見ても誰なのか分からない場合が殆どである。
新しい住宅地に引っ越してきた人たちは殆ど参加していなかった。
そう言いながら、私自身も子供が大きくなってから、係になるまで殆ど参加してこなかった。
盆踊りの主役は子供や若い人、ご婦人であることもあって、何となく気後れがしていた。
こうやって多くの人が楽しめるのなら、誰もが気軽に集まってこられる催しにできないかと思う。
今は飲食物やビンゴゲーム、福引きで人集めしているが、もっとゆっくり気楽に楽しめる催しになって欲しいと思った。
そして、どうせ踊るのなら、今はやりの「ダンシングヒーロー」の盆踊り版などをやってみるのも手だと思った。
私はディスコ(表現が古い)の方が好きなのだが・・・・

2018年8月16日木曜日

千種の水汲み2018盆

今年の夏の水汲みは盆前になった。
以前、8月初旬に水汲みに行ったときは、南光町のひまわり祭りの期間で渋滞にあって困った。
今回はその期間を外れていたので、渋滞には遭わずに済んだが、ひまわりは殆どおじぎをしていた。
おじぎをしているひまわりは、「この暑さたまらないな」としょげているように見える。
娘が幼かった頃連れてきて「こっちを向いていて恐い」と言ったひまわりにはほどとおい。

川の方は、水遊びをしている家族連れが多くいた。
特に、南光町のキャンプ場や千種の道の駅の付近は、多くの家族連れで賑わっていた。
道の駅は満車状態で、立ち寄ることもできない。
エーガイヤ付近のコンビニもいつになく大賑わい。
エーガイヤの前の川の中にも、水遊びをする家族連れやアベックが多くいた。
水汲み場のそばにある川の土手の上でも、犬を連れたグループが食事を楽しんでいた。
こんな賑やかな千種は、長い間水汲みを行ってきたが初めての経験である。
お盆ならではこそと思うが、普段から多くの人が訪れてくれたらと思う。

地域起こしとかと言って、特産物や道の駅を考えるのも良いことだが、豊かな自然を便利に利用できる方法も良いだろう。
こういう所で、一番困るのはトイレや更衣室、シャワーだから、それを夏場の川端に設置しても良いだろう。
実際、夏場の海水浴シーズンだけ設置している海水浴場もある。
若い人以外にも、来てもらうためには猪名川町のように、美味しい蕎麦のようなものを食べさせてくれれば年配の方でも何度でも行くと思う。
清流と共に、そうめんをすするというのも良いと思う。
近くに龍野というそうめんの名産地もあることだし、千種の鮎や特産品と絡めてもいい。
それには駐車場などの施設もしっかり確保する必要があるだろう。
そしたら、私どものように水汲みのついでにぜひ立ち寄りたいと思うのだが・・・







2018年8月13日月曜日

赤穂市民の夕べ2018年

上郡町の川祭りは台風の影響で中止になってしまった。
花火2000発は見ることができなかった。
と言っても、花火を見に行くことは子供が大きくなってからはあまり無くなってしまった。
今回は花火をじっくり見る機会に恵まれた。
実は、母親が入院し、しかも事情があって個室に入ることになった。
その部屋からきれいな花火を見ることができるので、家内や息子と一緒に見ることにした。

この日(8/11)は、入院している母親の見舞いに遠くから弟家族が訪れていた。
夕方からは近くのスーパーで買い物をして、一緒に食事をした。
食事の後は、うちの家族以外は一番末の弟がバンド出演する海浜公園へ観に行き、うちの家族は病院に出かけた。
冷房のよく効いた病室で花火をじっくり観ることは、滅多に経験できることでは無い。
しかも、どの部屋でも見えるわけではなくて、その部屋にいられたのは不幸中の幸いというところである。
母親も花火を楽しそうに眺めていた。

赤穂の市民の夕べは、大学生時代から楽しんでいた。
その頃は、総合運動公園でやっていたと思う。
千種川の川原でやっていた頃は、橋の上から眺めたりもした。
実は海浜公園になってからは、一度も観にいたことはなかった。
今回も、母親の入院がなかったら見に行くことは無かっただろうと思う。
花火をきっかけに、色んな思い出が蘇ってきた。
そういえば、家内の浴衣姿は結婚前の市民の夕べ以来みていたないな・・・



2018年8月12日日曜日

初めてのカヌー体験

今日(8/10)本格的なカヌーに初めて乗った。
ビニール製の安物のカヌーには乗ったことはあった。
まず、座ることにも苦労する。
人に持ってもらって、狭くて足を入れるのにも一苦労。
ふらふらしながら、パドルの使い方も知らず、漕ぎながら教えてもらった。
パドルは右手首の回しでかく面を操作する。
ところが、一生懸命かいてもまっすぐに進まない。
こんなに、まっすぐに進むのが難しいとは思わなかった。
後で聞くと、カヌーはまっすぐ進む方が難しいそうだ。
今練習しているSUPには、フィンがついているので比較的楽にまっすぐ進んでくれる。
今回のカヌーにはフィンが全くついていないので、すぐに回転してしまうのである。
本来は回転しやすい方が安全だと言うが、初心者にはまっすぐ進まないことの方がストレスになる。
まっすぐ進まないと覚悟して、これからは漕いだ方が良さそうである。

今回は上郡の大きな池で、同じように初心者の中学生と乗った。
中学生は1年2年3年の各一名だった。
付き添いの職員も来てくれていたが、一番飲み込みの早いのは低学年の生徒だった。
私は生徒が来る前に一度練習をし、二回目の時に一緒に乗ったので少しは面目は保てた。
しかし、万が一の救助に役に立つのかと自分ながら、恥ずかしかった。
他にベテランのインストラクターがいてくれて、その人の操作は全く別物であった。
パドルの水への入れ方がだいたい違う。
カヌーの舳先の方から大きくかいていた。

だんだん慣れてくると、遠くまで漕いでいったり、スピードを楽しめるようになった。
ただ、漕いでいるのに一生懸命なので、池の上での気分を味わうということはできない。
自然豊かな池の水面で優雅にカヌーを楽しむのが本来の目的だろうが、カヌーを操ることに夢中だった。
普段こういう経験ができない3人の生徒にとっては良い体験になったようで、この後にウォーターバルーンに入って水の上で遊んで楽しんでいた。
カヌーが転倒して池には落ちなかったが、ひもの外れたウォーターバルーンを取りに生徒と一緒に池に飛び込んだ。
意外と気持ちの良い、池の水だった。

陸に上がると、太ももがやたら張っている。
バランスをとるために、またに力を入れて開いていたためである。
簡単にはひっくり返らないとは思うようになったが、簡単に揺れたり回転することに不安を感じ続けていた。
SUPの練習では、何度も何度も水中に落っこちたが、カヌーでは何とか水中に落ちずに済んだ。

二日目のカヌー体験は、一日に比べて楽に操作できるようになっていた。
池の水面の上で、風景を楽しむこともできた。
二日間目は女子で、怖くて固まってしまいベテラン講師に牽引してもらう者もいた。
その女子生徒は後で、池の中に飛び込んで遊んでいた。
要するに、カヌーの揺れが怖かったのである。
今回私は、浮桟橋に上がるときに池に落ちてしまった。
ずぶねれの二日間だったが、ひとつ世界を広げたように思えた。

2018年8月10日金曜日

少年回帰の葬式

昨日(8/6)は義理の叔父の葬式があった。
最近は父方の親戚とは、やはり名古屋の亡き叔父の法事に顔を合わせる程度である。
私は跡取りなので、亡き父親や、動きがとれない母親の代わりというと言うことで家内と一緒に参加する。
法事には従兄弟は来ないので、従兄弟と会うのは葬式くらいである。
前回の葬式から既に5年以上経ているので、その分風貌も互いに変わっている。
そして、子育ての最中だった従兄弟は既に子供は就職したり、大学に進学したりしている。
私自身も、現役の教師を退職して、アルバイト暮らしの状況でずいぶん状況が変わった。
そして、年老いた伯父や伯母は、名前を言って顔を見せても、もう判別できなくなっている。
叔父伯母の中には元気で、昔と変わらない人もいるが、何より私の母親が入院していて参列できなかった。

従兄弟は自分にとっては特別な存在で、本家の家で盆正月を一緒に過ごした仲でもある。
また、幼かった従兄弟は私が遊園地に連れて行ったりもした者もいる。
本家の従兄弟の姉は、私が夏休みなど本家に預けられていた時に、ずっと遊んでくれたお姉さんである。
また、私は大学には名古屋の叔父を頼っていたので、その従兄弟とも関わりが深かった。
だから、昔のままの関係の延長で、接することができる。
だから未だに「○○ちゃん」と呼んでいる。
そうして親戚の従兄弟との関係は濃密だった関係も、末の弟の頃は疎遠になってきていた。
だから、葬式などで食事になっても、その弟は話をするのも困っている。

とうの今回亡くなった義理の叔父もの孫は、息子の孫と娘の孫がいるのだが、様子を見ていると殆ど会話をしていない。
こちらは従兄弟同士疎遠な関係がよく分かる。
今回の葬式は近所の参列者の無い、親戚だけのものだったが、その親戚さえ疎遠な関係が見て取れるものだった。
そんな中で、昔関わりがあった者同士が旧交を温める場所となっていた。
私自身は、昔の頃の気持ちに戻り、現在自分が置かれている状況も忘れることができた。
幼い頃から、青年期を経て壮年期、そして老齢まで様子を知っている関係。
自分が生まれ育った赤穂を離れている私にとっては、それを知っている数少ない人たちである。
その一人を失った葬式だが、関わりを蘇らせた葬式でもあった。






2018年8月6日月曜日

鹿児島での夏

去年は早期退職以来仕事に就いていなかったので、10月までは春休み、夏休み、秋休みと続いた。
しかし、今年から仕事について以来、五月の連休も無く、この夏は盆休みさえ無さそうである。
ただ、閑谷学校の指導員を辞めて以来、10日ほど仕事をしていなかったので、長期の休みはそこそこあった。
今はアルバイトという形なので、週休2.5日という感じである。
だから、夏休みが無いのはそう苦にはならないが、人生において夏休みの無い夏は初めてのような気がする。
私は学校生活、教師生活と夏休みはずっとあった。
それなのに、教師になってから夏休みに観光旅行に行ったりしたことは一度も無い。
今から思えば、勿体ないことをしたなと思う。

では、教師になってから仕事以外に夏休みは何をしていたのだろうかと思う。
教師は夏期休暇以外に、普段とるのが難しい年休を夏休みに使うことが多い。
だから、教師によっては海外旅行を毎年のように行う人もいる。
実は、私も観光旅行は無いけれど、研究のために鹿児島や奄美には長期に旅行はしている。
鹿児島では今の民泊に匹敵するようなアパートの一室を借りて一週間滞在して、図書館に通い続けた。
今年は大河ドラマで「西郷どん」が流されているので、多くの人が関心を持っているかも知れない。
私は、文献で鹿児島のことを調べているので、こういうドラマは素直には見られなくて、見ていない。
ただ、奄美の描き方が、今までとは違うということだけは知っている。
鹿児島で文献を調べたのは主に郷中教育だったが、それ以外にも鹿児島は他の県とはかなり違う独自の歴史と文化・社会がある。
かなりむかしの時代劇に「素浪人 月影兵庫」という、旅物があった。
浪人月影兵庫と焼津の半次という旅烏が、各地で悪者と戦う時代劇である。
何年か前に再放送で見て、鹿児島は外国のように描かれていたのは納得がいった。

鹿児島まではその時には車で行ったので、知覧や坊津まで見学に行った。
そこには、鹿児島市とは違う別の顔があった。
どちらも歴史を背負った場所だった。
特攻隊基地を記念した博物館(上の写真)で、日本各地から集まってきた特攻隊委員人物像に触れることができた。
今でも残る郷士の屋敷は江戸時代がそのまま生き続けているようだった。
知覧は、それ以外に茶畑が広がる雄大な景色も、心に刻まれた。
琉球や東南アジアの交易の拠点にもなった坊津(上の写真)は、海の向こうへの世界を感じさせてくれるものがあった。
歴史を感じながら旅するのもなかなか良いものだと思った。
ただ、1000CCのビッツでの旅は、少々過酷でもあった。





2018年8月3日金曜日

癒やしの蓮の花

このところの暑さで、朝のクロとの散歩もなかなか大変である。
できれば、軽く済ませたいとも思うこともあるが、蓮の花を今朝も見たいと思うと頑張れる。
先週の恵みの台風のおかげで、蓮の花も復活したように思う。
一時はまばらになって、このまま盆を迎えてしまうのかなと思ったが、これで一安心である。
以前は夏の花と言えば、ダリヤやカンナだった。
庭先によく咲いていたが、最近では見当たらない。
子供の頃は、カンナの葉っぱをとって遊んだりした。
小学校の教材でよく使われた、朝顔も身近にあった。
朝早く、ラジオ体操にで帰るときに、咲いている数を数えたりした。

この酷暑では、庭先の花も暑さに耐えながら咲いているように思える。
いつもきれいに咲いてくれる畑のオクラの花も、今年はまだ咲いていない。
そんな中で、池に顔を浮かべて、清々しく咲いている蓮の花は、その暑さを忘れさせてくれる。
このほんの一時の、蓮の花とのふれあいのために、全身に汗をかきながら散歩をしている。

2018年8月1日水曜日

日常語になった「ハゲ」

自分に放たれた「ハゲー」と言うことばに、おどけて見せるしかなかった。
一人の園児が、スイミングキャップをとった私に投げかけた言葉である。
私は「じじい」と言われたので、白髪が目立たないように短いスポーツ刈りにした。
今までそうすると若く見られることが多かったからである。
しかし、地肌の見えるの短髪に、園児はそう感じてその言葉を放ったようである。
確かに、頭頂部はかなり薄毛になっているが、下から見上げられてわかるはずはない。
長い間教師をしてきたが、面と向かってハゲと言われたのは初めてである。
当然、陰で言われていただろうとは思うけれど・・・

園児が人に対して、何のためらいもなく「ハゲ」という言葉を発せるのは、普段から使われているからだろう。
そういえば、国会議員が秘書に対して「この、ハゲー」と罵倒したニュースがしばらく流れた。
その時に、いつの間にか茶の間では「ハゲー」が市民権を得てしまったのかもしれない。
結局、その国会議員は辞職に追い込まれるのだが、ハゲという言葉は日常に根付いてしまったのかもしれない。

若いころは髪の毛は剛毛で、むしろ多くて困っていた。
それが、だんだんと薄くなり、白髪も多くなってしまった。
弟の一人は若い時から薄毛で悩んでいたが、独身だったので深刻だったのだろうと思う。
勤めだしてから、車が一台買えそうな金額を、鬘につぎ込んでいた時期もあった。
髪の毛に問題のない人には、理解しがたいことだと思うが、髪の毛は結構重大な問題だ。
「ハゲ」という言葉は、面白半分や気軽に使える言葉ではない。
若いころはそう考えずに、使っていただろう言葉を、今思い知らされる。

そして、年齢の高いものに対する言葉づかいも、時代を感じさせられるのである。
今の時代は昔のような怖いおじいさんというのはいなくなって、何を言っても許される優しいおじいさんが普通の時代なのだろう。
こういう時代だからこそ、老いても誇りを持てるものを持ち続けたいと、研究活動だけは続けている。
これはある意味で、プロになり損ねた選手が、アマチュアで頑張っているのと同じかも知れない。
スポーツと違って、プロになる可能性は少しはある。
そして、世間には認められていない身だけれど、ハゲという言葉に打ち勝つ力にはなる。