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2018年8月21日火曜日

末期癌のお坊さんに学んだこと

義父の初盆で家内の実家に行った。
そろそろ、時間の11時なのになかなか、お坊さんが来られない。
玄関先で待っていると、10分近く遅れてやってこられた。
ご挨拶をして、「お体の具合はいかがですか」と尋ねると、「薬がはずれて」というので、てっきり薬が不必要になったと思った。
実はお坊さんは末期癌で、余命も宣告されていた。
まだ、70歳代で元気そうなので、気の毒に思っていた。
このお坊さんは、以前は中学校の教師をしながら住職を勤めてきた人だった。

おつとめが済んで、お話をしている中で、その癌のことに及んだ。
「私は病気だが、病人では無い」という。
つまり、治療をしながら、普通に生活をしていると言うことである。
実は、「薬がはずれて」というのは、朝にしていた「点滴をはずして」という意味だった。
身体には自宅でも点滴ができるようにな装置を付けていて、自宅で点滴治療をしているという。
来るのが少々遅くなったのも、その影響であったかもしれない。
薬で治療しているが、その薬も効かなくなって、新しいのを試したりしているそうだ。
その新しい薬を合わせるのも、結構大変なことだという。
そしてお元気そうに見えるのだが、確実に癌の病巣は大きくなっているという。

このお坊さんも、癌が分かった当初は、「なんで私が?」「なんでこの歳で?」と辛かったそうである。
そのうち、教え子の癌の専門医と話をしたりして、限りある時間をしっかり生きようと思い苦しくなくなったという。
「病気であっても、病人になってはいけない」
というのが、このお坊さんの教えである。
そういえば、私も糖尿病だが、病人とは思っていない。
病気によっては、入院治療や自宅療養で仕事ができない人もいる。
しかし、自宅で点滴治療をしながら、こうして僧侶としての務めを果たしておられる末期癌患者もいらっしゃる。
仕事ができなくても、生きていることそれ自体に意味がある人もいる。
義母が義父の存在の意味を死によって初めて分かったとこの初盆で言っていた。
末期癌は、死を迎える前に、その人の存在意味を自他共に知らしめてくるものかも知れない。
「死」を意識しないということは、逆に「生」そのものを意識しないことなのだと思う。
そして、病気や死、苦難をどう意味づけるかは、本人の気持ちであり、前向きに意味づけるか後ろ向きに意味づけるかで生き方も違ってくる。
後ろ向きに意味づけてしまうと、いわゆる「病人」になってしまうと言うことだ。
お坊さんと初盆は、大切なことを学んだと思う。


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