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2018年9月30日日曜日

我が子と学んだ水泳

私が水泳と深く関わるきっかけとなったのは、子供が水泳教室に通っていたことによる。
今でも、プールには一緒に泳ぐ親子を見かけるが、その光景がとても微笑ましい。
時には、選手にしようと厳しく指導する保護者も見かけるが、たいがいは一緒に泳ぎを楽しんでいる。
私の場合は、相生のプールに子供が通っていたので、土曜日などは送っていって、帰る時間まで泳いだ。
時間帯の違う子供二人通っていたので、ちょうど二時間ほどじっくりと泳げた。
単に、水泳だけが目的ではなく、容姿のすばらしい女性コーチにお目にかかるのも楽しみだった。
スイミングのコーチは、運動をしているだけあってどなたも、容姿端麗であったように思う。

そのうち上郡のプールの方にスイミングを移って、自分もコーチに習うことになった。
ちょうど、高校の水泳部の顧問をやることになったので、良い機会になった。
私は学生時代の頃は、中途半端に剣道をしており、教師になってからも剣道部の顧問をしていた。
赴任した高校は剣道に関しては全国を目指すようなクラブだったので、剣道専門の教員がいて、私はお手伝いする程でもなかった。
水泳部は速い選手は、スイミングで練習することが普通だったので、私のような素人顧問でも勤まった。
最初は、生徒の方に色々と泳ぎ方や練習方法を教わっていた。
たまたま女子が西播磨大会で総合優勝したりして、顧問としてやる気も増してきた。
その後は、どの学校でも水泳部の顧問を続けてきた。

クラブに関しては、教師にとって負担が重いという意見も多い。
確かにそうだと思う。
ただ、水泳に関しては練習時間もそう長くできないし、私は日曜日はレース以外は練習を設定しなかった。
レースには自分の子供も参加することもあって、クラブの部員と一緒に移動することもあった。
残念ながら、上郡中学校には水泳部がなかったので、子供たちは水泳から離れてしまった。
結局、子供と始めた水泳を続けたのは、父親である私一人になってしまった。
上郡のプールでは今も、当時から親子で水泳を続けている人がいる。
子供は一時は水泳から離れたようだが、就職した後でまたプールに戻ってきた。
そうやって、親子で続けられるのも水泳ならではだろう。
親子どころか、孫と祖父母というのも見られるようになっている。
プールの中で、世代を超えて老若男女が関われることが一番素晴らしいことだと思う。

2018年9月28日金曜日

一生の恩人

私が学生生活を続け、大学院に進み、教師になれたのも、大学時代にお世話になった大家さんのおかげだと思っている。
実は、私は名古屋の私立大学に進学できたのは、叔父の家に下宿するという前提条件があった。
4人兄弟の長男である私はには、一つ下の弟も受験を控えており、私学に進学する条件が、叔父の家に下宿することだった。
最初は、叔父の借りていた物置代わりのアパートに暮らさせてもらっていた。
しかし、さすがに不自由を感じたので、友達に相談したところ、友達のアパートは二間あるので、住まないかという。
彼にとっては、下宿代を折半できるし、大学も受け直すつもりだったので、ずっと卒業するまで一緒に暮らすつもりではなかった。

自分も、しばらくは一緒に住まわせてもらって、彼が希望する東京の大学に変わるときに新しい下宿にうつるつもりだった。
なぜなら、当時2万円の下宿代を払う余裕はなかったからだ。
そして、そのつもりで3月には新しい安い下宿も探していた。
アパートの大家さんにもそのことを言うと、下宿代は半分で良いから、居続けても良いよと言われた。
ところが、肝心の友達は受験に失敗し、名古屋に残ることになってしまった。
すでに、大家さんとの話が進んでいて、探していた下宿も断っていたので、自分としても困ってしまった。
友達はそれを見かねて、友達自身が出て新しい下宿を探して住むと言うことにしてくれた。
友達には本当に申し訳ないことになったが、私には本当にありがたいことだった。

それ以来私は、風呂こそないが、2Kでしかも、東と南に窓のあるアパートに一人住むことになった。
しかも、地下鉄池下駅から歩いて10分ほどで、バス停も近い立地条件で月1万円で暮らすことができた。
南山大学には少々遠くて、自転車で通ってはいたので、坂が多くて結構大変であった。
それでも、途中に友達の下宿もあって、しょっちゅう立ち寄っていた。
何よりも、寝室と勉強部屋とを分けることのできる、快適な環境となたった。
これは、赤穂の自宅でも経験のないことだった。
私にとってこのアパート丸美荘は、その後の人生の方向を決める掛け替えのない場所となった。

ずいぶん、大家のお婆さんはお世話になり、病気になったときには食事を持ってきてくれたりしてくれた。
大家さん夫婦には子供がなくて、我が子のように可愛がってくれた。
にも関わらず、ずいぶん好き放題をして、迷惑をかけていたと思う。
卒業後の大学院在籍中に、思い立って挨拶しに行ったときには、既にお婆さんは亡くなっていた。
残されたお爺さんも私の顔を見ても、分からなくなってしまっていた。
ただ、仏壇に手を合わせるしか私にはできなかった。
10年程前に、名古屋に行く機会があったので、アパートを訪ねにいったが、そこにはもうアパートはなかった。
私にとって大切な大家さんの思い出や、大学時代の日々の記憶がいっぱい詰まった場所が失われてしまったことに、底知れぬ寂しさを感じた。

私は、大家さんから受けた恩は、他の人にお返しするしかないということをずっと思い続けている。


2018年9月26日水曜日

泥棒との遭遇

先日相生に住む義母の隣に泥棒が入ったという。
間の悪いことに、その人は裏口でその泥棒に鉢合わせになり、急いで警察に連絡したという。
幸い泥棒も逃げてくれたようで、被害はなかったようだが、パトカーが集まってきて大騒動だったそうだ。
それ以来、義母は泥棒を恐れて、夜間の外出などを控えたりしている。
以前から、相生の駅近くにある義母の家付近では、泥棒の話を聞いていた。
義父が存命の時からも、二階の窓やトイレの窓にはつっかえ棒を念のためにしていたくらいだ。
義父が亡くなって一人暮らしになった義母にとっては、不安な材料が増えたと言える。

私たちは上郡の今の村に引っ越して以来、その泥棒への備えが甘くなっている。
前にもブログでこの書いたが、村全体が防犯になっている。
誰か知らない人が歩いていると、農作業で外に出ている人の注目を浴びる。
夜間は、街灯は殆どないので物騒に思えるが、庭で飼われている犬が不審者に吠える。
特に私の家のクロは、見知らぬ人に吠えることが多い。
ただ、気分次第で吠えないときもあるので、万全とは言えない。
村によっては、猟犬を多く飼っている家もあるので、そういうところには散歩しづらい。
地元の者にとっても、用事のない限りは他の村には、あまり行かないというのが普通だろう。

この高田地区にも、駐在所があるのだが、朝の通学時以外はお巡りさんに滅多にお目にかかることはない。
ただ、こんな田舎でもたまに交通事故もある。
通園や通学する児童生徒の見守りは大切な仕事に変わりはない。
これはお巡りさんだけではなく、地域のボランティアの人の活躍も重要だ。
村の生活は不自由なところが多いが、泥棒などの犯罪からの不安が少ないので、住み心地は悪くない。
これも楽園の大切な条件だろう。


2018年9月23日日曜日

楽園はそばに

人生の9月15日に近所の料理店『四季菜の里 秋翠亭』がテレビ朝日の『人生の楽園』に取り上げられた。
散歩の時にで目にしていた店ではあるが、一度もいったことも無く、どういう店かも知らなかった。
ただ、熱心に畑をやっている人がいるなとは思っていた。
テレビでは隣接する高田台ネオポリスはあまり映されていなかった。
場所的には私の住む中野より、新興住宅地に近く、県道のそばで、コンビニも近くにある。
だから、山深い村というイメージで来られると、がっかりされるかもしれない。
ただ、場所的に山際にあって、見晴らしが良くて、私の散歩道は主人公の秋岡安子さんの散歩道とかぶっていた。
この一帯は水田が広がっているが、番組でも紹介されていた高田米が有名である。
というのは山が落葉樹で覆われて、有機質の水が水田に供給される。
山からの水を利用している高田地区の水田は美味しいのである。
同じ高田地区でも、千種川の水を利用している水田は有機質が少ないので品質は劣る。

この番組を通じて、是非高田米が知れ渡ればと思うが、品薄になって手に入らないのも困る。
でも、飼料米を作っている水田もあるくらいだから、まだ増産する余地はあるようには思える。
そういえば、数週間前にテレビの撮影隊らしき人たちが、朝の水田風景を撮影していた。
たぶんこの番組のための風景取りだったのだろうと思う。
蓮の花の咲く様子も映像で流してくれたので、またそれも関心を呼んでくれれば良い。
これからは、米だけではなくて、野菜も色々と取り組んで行ければと思う。
専業農家だけでなく、一般の人が農作業を楽しめる市民農園のような場所もできれば良い。
採算重視の野菜農家は、出荷先は姫路などになっているようなので、地元で販売できる場所も必要だろう。

この楽園に移り住みたい方は、それなりの覚悟がいると思う。
村の付き合いは、結構密である。
たぶん負担に思うのは、村作業だと思う。
草刈り作業などは。早い村などは朝の6時から始めているところもある。
出不足金を払うところもあるが、ないところの方が実は厳しい目がある。
それに対して、高田台ネオポリスではそういう作業は殆どないようなので、苦手な人はそちらがむいていると思う。
高田台ネオポリスは町の暮らしと同じような生活ができると思う。
しかも、周りの自然を満喫できる。
今は空き家が増えてきて、安い価格で売り出されている。
ただし、坂の多い町なので、高齢者には少々住みづらいかも知れない。

2018年9月20日木曜日

姫路本町68番地の知り合い

先日ふと国立病院への入院という話のきっかけで、母校の淳心学院界隈のことが話題になった。
因みに姫路の国立病院は姫路陸軍衛戍病院であり、淳心学院の敷地には陸軍の第10師団の指令本部があったと聞く。
また、今の美術館の建物は第10師団の倉庫であった。
要するに戦前は軍関連の施設があった場所なのである。

話の相手はもと裁判所にお勤めだった人で、淳心学院のそばの庁舎にお勤めだったという。
姫路城の公園整備で、今は美術館や博物館になっているところには、市役所、裁判所などがあった。
市役所の現在の位置への移転は1980年だそうだから、私が名古屋で学生していた頃に移ったようだ。
姫路市民でもなかったので、市役所にも縁はなかったし、ましてや裁判所には縁はなかった。
何か古めかしい建物が建っているなというくらいしか記憶にない。

裁判所勤めの人との話で出てきたのは、よく飛んできたクジャクの話である。
私は、白いクジャクの方が印象に残っている。
別に放し飼いにしていたわけではないようだが、ケージの上にネットを張っていなかったようで、よく動物園から飛んで出ていた。
私は朝はわざと、駅から遠回りして動物園と姫路城の間の道を通学で通っていたので、そのクジャクはいつも目にしていた。
朝は吠えザルが「ホー オ」と鳴いて賑やかで、生徒の中にはそれを真似してふざけたりした。
また、内堀の中の水鳥を眺めるのも面白く、暇があると姫路城の内堀の周りを散歩したりした。
裁判所勤めの人の気持ちも、その雰囲気に心和ませていたのだろうと思う。
思い出話がクジャクになるのは、そういう環境で過ごしたおかげである。

姫路城の中堀の姫路本町68番地は世界遺産として名だたるものになった。
私などのようにそこで過ごしていた者にとっては、クジャクが飛んできたり、動物園の動物の鳴き声などが思い出せる場所であった。
城の南側の賑やかな場所より、北側の何もない広場の方が落ち着けた。
そして東側の戦前までは軍関連の施設が建っていた場所は、こういう平和な場所に生まれ変わったようだ。
そういう場所で6年間学べたのも、私にとっては掛け替えのない経験だと今は思える。

2018年9月17日月曜日

スポーツ心臓

私は5年程前から、心電図の検査をすると異常な波形が出るようになった。
職場の健康診断で精密検査を受けるように指示され、かかりつけの総合病院で検査を受けた。
その結果は心臓に異常はなく、いわゆるスポーツ心臓だろうと言われた。
その頃は、水泳をやったりジョギングをしたりで、スポーツを盛んにしていて、脈拍も1分間に50回代であった。
スポーツ心臓とはネットなどで調べると、心臓が大きくなったり、壁が厚くなったりする。
しかし、スポーツ選手にはまったく正常であり、危険ではないという。
私の場合も、若干血圧は高かったけれど、全然問題はなかった。

今は激しい運動は殆どなくなったけど、緩やかな運動は続けている。
その分、脈拍も多くなり、血圧は逆に下がったりしている。
しかし、先日心電図の検査をすると、依然異常な波形が出ている。
以前の職場では精密検査の結果を報告していたので、問題なかった。
今回はいったん退職しているので、検査を受けた病院が問題視してしまった。
以前に別の病院で問題ないと言われたことを言っても、納得してくれない。
それはこの病院で受けた過去のデーターと、今回のデーターだけで判断した結果である。
その間の精密検査の結果は、別の病院にあるので考慮されない。
医師にとっては手に入るデーターが全てなのであろう。

こんなところで、スポーツ心臓が災いするとは思わなかったが、現代の医学の普通の検査では常識外ということが分かった。
そういえば、健康番組で病気の原因が分からず、いくつもの病院を渡り歩く話をよく特集している。
そして、結果として名医と呼ばれる医者が、常識をくつがえし原因を特定するというものだ。
普通の医者の常識的な見方では見つからないのが難病である。
スポーツ心臓は難病ではないのだが、常識的な心電図の見方では異常と見なされる。
私の場合は名医を探す必要はなく、かかりつけの総合病院で健康診断を受けられれば問題なかったのだ。
また、病院同士でデーターや検査結果の情報交換が簡単に行われれば、問題ないはずである。
スポーツをやり過ぎて、ちょっと厄介な身体になっているようだ。

2018年9月14日金曜日

時には昔の話を

以前、岡山県立美術館に行った帰り、車の中で加藤登紀子の「時には昔の話を」がラジオから流れてきた。
「紅の豚」のエンディング曲で使われたこの曲は、ずっと良い曲だなとは思ってはいた。
でも、歌詞の内容についてまで、意識することはなかった。
それが、「小さな下宿屋に いくにんもおしかけ 朝までさわいで 眠った」という歌詞が私の記憶をふいに蘇らせた。
学生時代の自分たちの風景である。
加藤登紀子の歌の世界は学生運動の時代であるが、私は文化人類学を学びあった仲間との時代である。
学生運動のように熱い時代ではなく、しらけながらも理想の世界を語り合った。
大学院の時には子持ちの人もいて、雑魚寝した後朝早く起きて、子供を保育園に送りに行くと言って帰って行った。

ふと、その歌がもう一度聴きたくて、Youtubeで夜空を観ながら聴いてみた。
加藤登紀子の語りかけるような、低くて心に響く歌声に魅了されながら、自分も歌いたくなった。
そのカラオケにあわせて小声で歌ってみると、しんみりと心地よい。
そして、「今でも見果てぬ夢を描いて 走り続けているよね」という歌詞に今の自分を重ねていた。
3年も早く早期退職して、見果てぬ夢を実現しようとしている自分、結局自分は昔のままなのだと思った。
それは見方によれば成長のないこと、また見方によれば初心を貫くこととなる。
ただ、歌詞と同じように「夢を描いて」であって、「夢を追って」ではない。
「描く夢」は生活の中で、変わっていった。
この歳になると「歩き続ける」ことはできるけど、「走り続ける」ことはできない。
そして、傍で寄り添ってくれる家族はいるけど、朝まで語り合える仲間は今はいない。
昔のままなのは、結局「見果てぬ夢を描く」ことだけなのかもしれない。

昔のことの話をするのは、自分の歩んでいく姿勢をもう一度確かめることだと思う。
金が無くても不安がなかったのは、自分の可能性を信じられたからだと思う。
可能性が狭まった今は、金が無いことの不安はつきまとう。
でも、当時よりは不安は少ないはずなのである。
不安を忘れるために仲間と語り明かし、飲み明かしたところもあった。
あの頃の自分の姿を、感傷じみた思い出話としてではなく、これからの自分への檄として話したい。

2018年9月12日水曜日

眺めの良いトイレ

以前、昔の淳心学院のトイレから、美しい姫路城が見えて、それを眺めながら小用をたすことの爽快さを書いた。
実は、うちの二階のトイレは東側に小さな窓がついていて、座って用をたすときに周りの景色が見える。
東側の山は椿峠のある山で、車の行き来が分かるので、雪の日や、先日のように通行止めの時に動きがよく分かる。
山際まで、水田が広がっていて、稲の生育の様子や、仕事をする人の様子もよく分かる。
何よりも、季節季節に彩りを変えていってくれる、山の景色には心癒やされる。
そんなに長く座っているわけではないが、朝の一時に安らぎを得られるのはありがたい。

ただし、今年の異常な夏は、このトイレを試練の場に変えてしまった。
トイレには、気温計を置いていたが、35℃くらいになることもある。
そして、東側から日光が降り注ぎ、いくらスダレをしていても暑い。
この密室空間では、外の景色を見る余裕もなく、暑さと戦っていた。
汗びっしょりになり、トイレを済ました後でシャワーを浴びねばならなかった。
なぜ、そこまでして2階のトイレを使うかというと、1階のトイレの流れが悪いからである。
家内から流すこつを教えてもらって、実行した頃は、既に灼熱の夏は終わっていた。
実は、それまで「流れる」という家内の言う言葉を信用していなかった。
涼しくなってきた今となっては、二階のトイレの方が快適である。
1階のトイレの窓からは隣の倉庫しか見えないし、そもそも窓に背を向けて用を足す。

よく、金の便器とか、この上なくきれいなトイレというのが脚光を浴びてきた。
景色を眺めながら、ゆっくりと用がたせるトイレというのはあまり聞いたことがない。
昔の淳心学院でさえ、座って用を足すときには姫路城は観られなかった。
そういう意味で、うちの二階のトイレは得がたい場所である。
ただ、お客さんにすすめる場所ではないので、誰にもお見せして自慢できない。
トイレの神様の歌でもあるように、トイレは大切な場所である。
奄美の与路島では、「生」と「死」を司る神様がいると言われた。
神様をお迎えするには、きちっと掃除はできていないが気がかりではある。
それでも、健康と心に関わっている大切な所として、ありがたく感謝すべき場とは思っている。



2018年9月10日月曜日

診療所の待合所

このところ体調を崩して、ついに病院に行かねばならなくなってしまった。
私は定期的には赤穂の中央病院に通っている。
以前は知り合いに会う機会が多くて、待っている時間はそういう人と話す機会も何度かあった。
ただ、最近では滅多に知り合いと会うことはなくなっていた。
今回は、自宅近くの診療所に行くことになった。
すると、近所のYさんがやってきて、待っている間色々と話をする。
Yさんは、村では挨拶をする程度の人なのだが、初めて話をするのにずいぶんと立ち入った話もした。
それは同じ村でいつも顔を合わせているし、同じ村の仲間という気安さがあるからである。
その人は、元々御両親は高知県出身だが、仕事の関係で尼崎などで暮らした後で、退職後に村に移り住んだことを初めて知った。
自然が大好きで、庭にはいっぱい花や野菜が植えている。
退職後に移り住んだ人は、村の人との付き合いは難しいのだが、Yさんは隣村の特定の仲間と仲良くしている。
ちなみに、私たちは子育てを通して、村に溶け込んでいった。
子供は夫婦だけでなく、地域の人とのかすがいにもなる。

そのうち、知り合いのOさんも夫婦連れでやってきて、色々と村仕事のことや、墓地の相談をした。
Oさんは診療所でなくてもよく話をする人だが、診療所でも話をする良い機会になった。
桂文珍の落語ネタで病院の待合所を題材にしたものがあるが、それに似たような雰囲気なのかも知れない。
病院に来ていないと調子が悪いのかと心配するネタである。
私の母親も以前は、近所の医院に足繁く通い、そこで話をするのを楽しみにしていたようだった。
その母親も入院して以来、総合病院に転院して一人で気軽に通えなくなった。
一人で気軽に通える病院の待合所こそ、コミュニケーションの場になる。
今のところ、私はそういう仲間には入っていないが、仲間入りするのもそう遠くはないように思えた。

2018年9月7日金曜日

高齢者ボランティア

一躍、尾畠春夫さん(78)が山口県周防大島町で行方不明の子供を救助したことで有名になり、高齢者がボランティア活動で活躍していることが知れ渡った。
尾畠さんのような災害地のボランティアは注目されて、マスコミにも多く取り上げられている。
その一方で、家内が加わっている町内の高齢者に対する給食ボランティアなどは、あまりよく知られていない。
家内は高齢者ではないが、この給食ボランティアは他の自治体にもあり、高齢者も多く加わっているという。
高齢者に安く昼食を配るボランティア活動なのだが、利用するご老人の方が配達するボランティアの人より若かったりするという。

この高齢者のボランティアに関して、アメリカの高齢者を長く研究してきた佐野(藤田)眞理子が、「高齢者」山下晋司編『公共人類学』2014 東京大学出版会で報告している。
それは、アメリカのシニア・センター,とりわけ,ミール(食事)・プログラムを中心とした公共サービスのことである。
佐野氏は日本の高齢者に対するメディアの「孤独死」や「無縁社会」の報道に対して、アメリカの状況で疑問を投げかけている。

まず、アメリカでは
「一人暮らしの高齢者」は当たり前であり,むしろ,自立・独立の象徴として称賛されるからである.また,一人で暮らしをしているからといって,社会的に孤立しているとは限らない.」
という。

私は、自分自身、家族や親戚、地縁関係が崩れて、孤独に陥る高齢者を自分の将来として不安を抱き続けてきた。
現代の社会のシステムからすれば、それが当然の成り行きのように考えていた。
しかし、アメリカでは「一人暮らしの高齢者」に対するケアを1980年代から既に行っており、対策がなされてきていた。
各地のシニア・センターでは.高齢者が,1日1回は,温かい,栄養バランスの取れた食事ができるように.ミール・プログラムが提供された。
そして、実際の食事を提供するサービス運営には,高齢者のボランティアの協力が果たす役割が大きかった。
高齢者ボランティア自身も自分の能力を発揮できることで、自尊心を持つことができる。
また、センターに来られない人たちは,同じメニューの宅配食が配られる。
近年は宅配利用者が増えてきているようだが、重要なのは高齢者によるボランティア活動である。

日本では格差が広がり、学校給食が大切な食事になっている児童生徒もいる。
これを高齢者にも自治体の給食と言うことになれば、財政は持たないだろう。
高齢者自身がお互いに助け合う気持ちを持って、給食センターを担えるシステムを作れば可能だと思う。
行政は、そのセンターを設置しボランティアの活動を活用するのである。
これには企業や高所得者の寄付も必要となる。
場合によっては農家や漁業関係などの生産者からの協力も得れば良いとも思う。
自分の母親の介護が必要となり、自分自身も遠からずそうなる歳になって改めて考えさせらている。
災害ボランティアは確かに大切だが、こういう目立たないけれど誰にとっても関わりのある高齢者へのボランティアを真剣に考えねばならないと思う。
「孤独死」や「無縁社会」を克服し、高齢者を通した未来への社会進化を果たす一歩のような気がする。


2018年9月5日水曜日

星の見えるベッド

今、寝室として、以前まで娘が使っていた二階の東側の部屋を使っている。
その部屋の窓は、東側と南側にあって、夜になると星をベッドに横たわりながら眺めることができる。
私は主だった星座は判別できるが、明けの明星、宵の明星以外の星は殆どわからない。
ただ、今年は火星大接近と言うことで、南側の窓にひときわ赤く輝いている火星は判別して眺めている。

小学生の頃は、尾崎小学校で夜に星の観察会があって、母親や兄弟と一緒に出かけたりした。
一生懸命、北斗七星や北極星を探したのを憶えているし、流れ星に心躍らせた。
星が一番すごいと思ったのは、夏休みに奄美大島に村落調査に行くフェリーの上だった。
夜、フェリーの一番上のデッキの上から見える星は、こんなに星が空にあったのかと思った。
空から星が降り注いでくるのではないかというほど、迫ってくるものがあった。
他にもキャンプに行ったときには、星空を何度も眺めたが、東シナ海の洋上で観た星ほどのスケールではなかった。
本当は、訪れた奄美の与路島でも美しかったはずだが、夜に家の外にいるときは、ハブを警戒して懐中電灯で照らした足下ばかり見ていた。
また、確かに姫路科学館のプラネタリウムの星も幻想的で美しかったが、自然に勝るものではなかった。

その洋上の星には叶わないが、気軽に横になって眺められるベッドは、フェリーのデッキよりも居心地が良い。
20代の頃に感じた心象が、星空と共に時に蘇ってきて、当時の自分であるかのように錯覚する。
また、星空を眺めながら、眠ってしまうことができる。
そして、お気に入りの音楽を聴きながらも眺められる。
夜中にふと目が覚めると、月が昇っていて得をした気分にもなる。
周りに明かりの少ない上郡ならではの恵なのである。
果たして娘はこの星空を憶えているのだろうか。
私は娘の置いてあったベッドと同じ位置にして寝ている。
寝坊助の娘は、星を眺めることすらなかったかも知れない。
お月さんや星がずっと、窓からずっとのぞいていたというのに・・・



2018年9月2日日曜日

あきらめの夏休み

私は教員になったので、社会人になってからも夏休みとの関わりがずっとあったのが、今年は盆休みさえもなかった。
そして、何よりも母親が8月3日入院して、23日退院し、その後しばらく我が家にいたので、その世話で忙しかった。
ようやく、母も自宅で少しずつ日常生活に戻りつつあり、今後デイサービスを受けながら一人暮らしを続ける予定である。
しかし、以前のよりも生活を気をつけてやらねばならず、弟夫婦と協力し合って支援していくつもりだ。
幸いなことに、10月からは母の世話ができそうな、仕事もみつかった。
その仕事の話は、急に日曜(8/26)に美術館へ行った帰りの車の中で進んだ。
その時、口から出てきた言葉は「捨てる神あれば、拾う神ありやな」であった。
仕事の上でも、生活の上でも見通しが立ちづらい中で、降ってわいてきた話だったからである。

若い頃のように、自分の仕事や子育てだけを考えていたら良かった立場は終わり、自分の親のことを考えねばならない立場になった。
人によっては、仕事や、子育てが大変で親の面倒は見られないという人もいるだろう。
そんな中で、少しでも多くそれができるというのは、ありがたいことだと思っている。
それは、早期退職していたと言うこともあるが、退職後の考え方自体が変化して、生活重視志向になっていた。
以前から、生活のための仕事であって、仕事のための生活ではないと思っていた。
実際は、仕事のための生活を余儀なくされている場合が多かったと思う。
そんな中で、生活のための仕事ができるというのは、恵まれていることかも知れない。

先日ニュースで、女性が子育てのために離職して、失われる金額3兆円というのがあった。
失われるのではなくて、子育てこそ3兆円には換えられない価値があるのだと私は思う。
何でも金に換算した価値でしか評価できないことを助長するマスコミには疑問を感じた。
老人介護に関しても、同じことが言えると思う。
つくづく大変なことだとは思ったが、金には換えられない価値があるからこそ何とか続けられると思う。
しかし、それは子育てと同じで、決して一人ではできず、周りの協力や支援が必要だと身にしみて分かった。
人類は子育てを協力し合って社会進化したという。
これからは老人介護を通じても、社会進化するときが来たようにも思える。
誰もが子供はいなくても、必ず老後はやって来る。
夏休みはあきらめても、老後をあきらめるわけにはいかない。