つい先日(11/25)、道ばたに軽トラックが駐まっていて、お爺さんらしき人が脚立を持って立っている。
ちょうど、通りがかったウォーキングの集団が、「コウノトリがおる」と挨拶ついでに言ってくれた。
そして、その脚立のそばで大きなレンズをつけたカメラを構えている人が、近所の人だと分かった。
この人は、どうやらコウノトリを見て写すために高価な望遠レンズとカメラを買ったらしい。
私も携帯電話のカメラで写してみたが、豆粒ほどにしか写らない。
私には写真よりも、コウノトリが来てくれること自体が、非常に嬉しい。
秋から春先にかけて、コウノトリが鉄塔の上にいるだけで、散歩が楽しくなる。
そういえば、今の職場には豊岡に関係する職員が何名かいる。
他の職員も、西播よりも、東播や但馬の職員が多い。
冬になると雪が積もる地域に住む人は、やはりスキーが好きで、雪が恋しいと言っていた。
私は、たまに行くなら良いが、ずっと雪や氷に閉ざされる暮らしは耐えられないと思う。
スキーも殆どできない。
だから、コウノトリが冬場にやってくるのも、晴れが多くて暖かく、沼地で餌が豊富な上郡を選んでくれたと思っている。
残念ながらこのところ、長く居着いてくれない。
今年も一度見たきりで、その後は姿を消してしまった。
もっと、居心地の良いところを見つけたのかも知れない。
今の職場若い人も、いずれは地元に帰っていくのだろうと思う。
誰でも自分が生まれ育ったところが一番暮らしやすいのだろう。
でも、コウノトリのように、よその地域での暮らしを、一時でも楽しみながら暮らすの悪くないと思う。
私もいずれコウノトリのように、旅して回ってみたいと思っている。
そういえば昔は「旅ガラス」という渡世者シリーズがあった。
私は「旅コウノトリ」という、フィールドワーカーとして暮らしてみたいと思うのだが、果たして懐具合は・・・
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2018年11月29日木曜日
2018年11月27日火曜日
紅葉狩りドライブ~in 備前・美作
昨日(11/26)は、仕事の代休であり、家内もそれにあわせて年休をとってくれた。
この季節、休日はどこも混雑するのがわかっていたので、平日に出かけることにしていた。
いつも出かけるときに、家内に「どこに行きたい」と聞くと、決まって「どこにでも」と答えられる。
この返事が一番困るのだが、家内も気に入りそうなところを選んで出かける。
今回はめずらしく「津山」と答えた。
そこで、閑谷学校の紅葉を見物してから、そちらに行くことにした。
閑谷学校はこの季節、休日には観光客が大勢やってくるので、去年も車を停めるのに苦労した。
勤めているときには、一度も参らなかった椿山に初めて参った。
椿山から講堂を見るのも悪くないと思った。
残念ながら一番の名物「楷の木」は、葉っぱはもう全部落ちてしまっていた。
楓はまだきれいだったので、家内に解説しながら、奥のトンネルの方まで歩いて行った。
次の目的地に行こうと思って駐車場にいくと、本当に偶然にも以前お世話になっていた研修課長さんにであった。
ほんの少しの時間だったけど、その後のお互いの様子が知れて嬉しかった。
その後、一度も通った事の無かった「広域農道」を通って和気までいった。
いつもの川沿いの道路とは違って景色が抜群によかったが、非常に急な坂道で閑谷学校の職員が冬場は怖いと言っていたのがわかった。
その後は吉井川沿いを通って、途中から柵原の方にむかい、津山まで行った。
途中は殆ど川沿いの道で、紅葉は綺麗だったが、見せ所らしきものはあまりなかった。
それでも、大きな岩の壁があったり、そこそこ楽しめた。
以前津山に来た時は、お城に行ったが、家内が「道の駅 久米の里」へ行きたいというので、そちらに向かった。
初めて町の中を通っていったのだが、その大きさに驚いた。
今まで、車もあまり行き違わない、閑散とした道路を通ってきていたので、突然大きな都市が現れたという感じだ。
「久米の里」では、私はホルモン焼きうどんを食べた。
家内は私が前日に、「この頃疲れている」とこぼしていたので、気を利かせてネットで調べという。
私は大のホルモン好きなのだが、脂肪分に気を遣って食べていなかった。
家内は苦手なので、今回もソバを食べていた。
肉の名産地だけあって、ホルモンは新鮮でしっかりとしていて、非常においしかった。
平日ということもあって、近くの人が食べに来ているという感じだった。
土産に干し肉を買おうかと思ったのが、少々高いので安めの湯がいたすじ肉やホルモンの唐揚げを買った。
外にはガンダムが展示してあるが、私は殆どテレビで見ていなかった世代であり、家内の方が楽しんで見ていた。
そこから真庭まで行き、国道313号線を北上した。
この川沿いの道には、温泉宿が点在しており、有名な「湯原温泉」もあった。
自分の計画としては、途中から国道482号線で東にむかい、鳥取道で帰るつもりであった。
ところが、313号線と179号線が入り交じって分からなくなってしまった。
途中の蒜山高原地帯の景色は信州の山の中に迷い込んだようだった。
そして、三朝の道の駅まで行ってしまい、そこで休憩を取った。
日本海まで出て帰るには、時間が無いので引き返して、482号線に戻った。
そして、用瀬まで行き、そこから鳥取道に入った。
用瀬は鳥取道を使う時に、よく休憩に用いるところである。
鳥取道は早くて便利で無料なのは良いのだが、トンネルばかりで眠くなった。
そして、有料になる手前の平福出口で一般道で降りる頃には、薄暗くなりかかっていた。
そこからは、家内が相生の実家に寄りたいというので、作用・上月からテクノを回り相生に寄って帰った。
自分の家の周りにもいっぱい紅葉はあるが、こうして遠くまで紅葉を見に行くのも悪くは無い。
泊まりがけで遠くまで行かなくても、十分いろんな風景や違った暮らしの様子が見えてくる。
特に鳥取道を絡めれば、一日で回ることができる範囲も広がっていく。
今回は朝の10時に出て、戻ってきたのは夕方の5時半だった。
このような無料の自動車道をもっともっと増やして、地方に人を呼び込むべきだと思う。
京都や鎌倉などでの観光公害を減らすためにも、必要だろう。
また休日の混雑を減らすために、平日だけ無料にして、通勤にも使えば良いと思うのだが・・・
この季節、休日はどこも混雑するのがわかっていたので、平日に出かけることにしていた。
いつも出かけるときに、家内に「どこに行きたい」と聞くと、決まって「どこにでも」と答えられる。
この返事が一番困るのだが、家内も気に入りそうなところを選んで出かける。
今回はめずらしく「津山」と答えた。
そこで、閑谷学校の紅葉を見物してから、そちらに行くことにした。
閑谷学校はこの季節、休日には観光客が大勢やってくるので、去年も車を停めるのに苦労した。
勤めているときには、一度も参らなかった椿山に初めて参った。
椿山から講堂を見るのも悪くないと思った。
残念ながら一番の名物「楷の木」は、葉っぱはもう全部落ちてしまっていた。
楓はまだきれいだったので、家内に解説しながら、奥のトンネルの方まで歩いて行った。
次の目的地に行こうと思って駐車場にいくと、本当に偶然にも以前お世話になっていた研修課長さんにであった。
ほんの少しの時間だったけど、その後のお互いの様子が知れて嬉しかった。
その後、一度も通った事の無かった「広域農道」を通って和気までいった。
いつもの川沿いの道路とは違って景色が抜群によかったが、非常に急な坂道で閑谷学校の職員が冬場は怖いと言っていたのがわかった。
その後は吉井川沿いを通って、途中から柵原の方にむかい、津山まで行った。
途中は殆ど川沿いの道で、紅葉は綺麗だったが、見せ所らしきものはあまりなかった。
それでも、大きな岩の壁があったり、そこそこ楽しめた。
以前津山に来た時は、お城に行ったが、家内が「道の駅 久米の里」へ行きたいというので、そちらに向かった。
初めて町の中を通っていったのだが、その大きさに驚いた。
今まで、車もあまり行き違わない、閑散とした道路を通ってきていたので、突然大きな都市が現れたという感じだ。
「久米の里」では、私はホルモン焼きうどんを食べた。
家内は私が前日に、「この頃疲れている」とこぼしていたので、気を利かせてネットで調べという。
私は大のホルモン好きなのだが、脂肪分に気を遣って食べていなかった。
家内は苦手なので、今回もソバを食べていた。
肉の名産地だけあって、ホルモンは新鮮でしっかりとしていて、非常においしかった。
平日ということもあって、近くの人が食べに来ているという感じだった。
土産に干し肉を買おうかと思ったのが、少々高いので安めの湯がいたすじ肉やホルモンの唐揚げを買った。
外にはガンダムが展示してあるが、私は殆どテレビで見ていなかった世代であり、家内の方が楽しんで見ていた。
そこから真庭まで行き、国道313号線を北上した。
この川沿いの道には、温泉宿が点在しており、有名な「湯原温泉」もあった。
自分の計画としては、途中から国道482号線で東にむかい、鳥取道で帰るつもりであった。
ところが、313号線と179号線が入り交じって分からなくなってしまった。
途中の蒜山高原地帯の景色は信州の山の中に迷い込んだようだった。
そして、三朝の道の駅まで行ってしまい、そこで休憩を取った。
日本海まで出て帰るには、時間が無いので引き返して、482号線に戻った。
そして、用瀬まで行き、そこから鳥取道に入った。
用瀬は鳥取道を使う時に、よく休憩に用いるところである。
鳥取道は早くて便利で無料なのは良いのだが、トンネルばかりで眠くなった。
そして、有料になる手前の平福出口で一般道で降りる頃には、薄暗くなりかかっていた。
そこからは、家内が相生の実家に寄りたいというので、作用・上月からテクノを回り相生に寄って帰った。
自分の家の周りにもいっぱい紅葉はあるが、こうして遠くまで紅葉を見に行くのも悪くは無い。
泊まりがけで遠くまで行かなくても、十分いろんな風景や違った暮らしの様子が見えてくる。
特に鳥取道を絡めれば、一日で回ることができる範囲も広がっていく。
今回は朝の10時に出て、戻ってきたのは夕方の5時半だった。
このような無料の自動車道をもっともっと増やして、地方に人を呼び込むべきだと思う。
京都や鎌倉などでの観光公害を減らすためにも、必要だろう。
また休日の混雑を減らすために、平日だけ無料にして、通勤にも使えば良いと思うのだが・・・
2018年11月25日日曜日
消えゆく大工さん
11月23日は、我が家の地鎮祭が行われた日である。
今から25年前のこの日、奥村の神主さんによって行われた。
霧が深く立ちこめた日であった。
家を建ててくれたのは、同じ村の大工さんで、不動産屋の紹介であった。
この大工の棟梁は、棟上げ以外は殆どの建築仕事を一人でやってくれた。
我が家は当時では既に珍しくなっていた土壁で、棟梁は根気よく竹を組んでいたのを憶えている。
家は翌年の夏休みには完成して、引っ越しを行った。
当時乗っていた、ピックアップのハイラックスで、ピアノ以外は家内に手伝ってもらいながら、殆ど自分で運んだ。
そのせいで、腰痛を患い、その後何年も苦しめられた。
私はその細身の棟梁が、家ができるまでに死んでしまうのでは無いかと心配していた。
それくらい、痩せこけていたのである。
我が家はちゃんとできあがったが、その後10年も経たないうちに、棟梁は亡くなってしまった。
長年の無理がたたったのか、五十歳半ばだった。
この棟梁に建ててもらった、家屋は村の中に数軒残っている。
しかし、家の家が建った後では、大工さんの手作りの家は殆ど無くなり、工場で造られた物を組み立てるだけのものになった。
特に、阪神大震災の後では、手作りの木造建築は姿を消していった。
先日、村に残っていた、木造建築屋さんが倒産してしまったのを知った。
そこの親方は、村の自治会でも色々と、世話をしてくれている人だった。
私も、仲良くしてもらい、話を色々聞かせてもらっていた。
愚犬クロの前に飼っていたトラも、この家からもらってきた犬だった。
負債を抱えて自己破産し、親方の大きな家は売りに出されている。
庭には立派な白菜や大根がそのまま残った。
時代の流れと言えば、それまでなのだが、村の中心を担ってきた人が去って行くのは残念である。
自分たちが幼い頃は、大工さんになるというのも男の子の夢だった。
村にある木工所も操業を止めたりしている。
このままいくと、村の建築関係は殆ど廃業と言うことになるかも知れない。
そして、不動産屋の売りに出ている物件の価格には安さには驚かされる。
多額のローンを抱えて、生活を切り詰めながら支払った果ての価格である。
日産リーフほどの車の値段で、敷地50坪ほどの中古住宅なら近隣で手に入る。
我々の世代は、貧しかった昭和30年の半ばから、高度経済成長を経て豊かさを味わった。
私の家は、まさしくバブルのはじける前で、高騰する住宅価格に、早く建てないと焦ったものだった。
耐震構造では無いので、大きな地震がきたらひとたまりも無いかも知れない。
それでも、苦労して手に入れた家だけに、愛着が強いし、もう家を建て直す余力は無い。
私の実家も母親が一人で暮らしているし、家内の実家も義母が一人で暮らしている。
同じように親夫婦が苦労して手に入れた家である。
工場で作られた家屋と違って、大工さんが一生懸命建ててくれていた姿も知っている家である。
そういう家屋がどんどん失せてしまう時代というのは、本当に豊かな時代なのだろうかと考えさせられた。
今から25年前のこの日、奥村の神主さんによって行われた。
霧が深く立ちこめた日であった。
家を建ててくれたのは、同じ村の大工さんで、不動産屋の紹介であった。
この大工の棟梁は、棟上げ以外は殆どの建築仕事を一人でやってくれた。
我が家は当時では既に珍しくなっていた土壁で、棟梁は根気よく竹を組んでいたのを憶えている。
家は翌年の夏休みには完成して、引っ越しを行った。
当時乗っていた、ピックアップのハイラックスで、ピアノ以外は家内に手伝ってもらいながら、殆ど自分で運んだ。
そのせいで、腰痛を患い、その後何年も苦しめられた。
私はその細身の棟梁が、家ができるまでに死んでしまうのでは無いかと心配していた。
それくらい、痩せこけていたのである。
我が家はちゃんとできあがったが、その後10年も経たないうちに、棟梁は亡くなってしまった。
長年の無理がたたったのか、五十歳半ばだった。
この棟梁に建ててもらった、家屋は村の中に数軒残っている。
しかし、家の家が建った後では、大工さんの手作りの家は殆ど無くなり、工場で造られた物を組み立てるだけのものになった。
特に、阪神大震災の後では、手作りの木造建築は姿を消していった。
先日、村に残っていた、木造建築屋さんが倒産してしまったのを知った。
そこの親方は、村の自治会でも色々と、世話をしてくれている人だった。
私も、仲良くしてもらい、話を色々聞かせてもらっていた。
愚犬クロの前に飼っていたトラも、この家からもらってきた犬だった。
負債を抱えて自己破産し、親方の大きな家は売りに出されている。
庭には立派な白菜や大根がそのまま残った。
時代の流れと言えば、それまでなのだが、村の中心を担ってきた人が去って行くのは残念である。
自分たちが幼い頃は、大工さんになるというのも男の子の夢だった。
村にある木工所も操業を止めたりしている。
このままいくと、村の建築関係は殆ど廃業と言うことになるかも知れない。
そして、不動産屋の売りに出ている物件の価格には安さには驚かされる。
多額のローンを抱えて、生活を切り詰めながら支払った果ての価格である。
日産リーフほどの車の値段で、敷地50坪ほどの中古住宅なら近隣で手に入る。
我々の世代は、貧しかった昭和30年の半ばから、高度経済成長を経て豊かさを味わった。
私の家は、まさしくバブルのはじける前で、高騰する住宅価格に、早く建てないと焦ったものだった。
耐震構造では無いので、大きな地震がきたらひとたまりも無いかも知れない。
それでも、苦労して手に入れた家だけに、愛着が強いし、もう家を建て直す余力は無い。
私の実家も母親が一人で暮らしているし、家内の実家も義母が一人で暮らしている。
同じように親夫婦が苦労して手に入れた家である。
工場で作られた家屋と違って、大工さんが一生懸命建ててくれていた姿も知っている家である。
そういう家屋がどんどん失せてしまう時代というのは、本当に豊かな時代なのだろうかと考えさせられた。
2018年11月22日木曜日
夙川のオアシスロード
昨日は出張で西宮に出かけることになった。
前もって、行き先はネットで調べておいた。
阪神香櫨園駅から歩いて23分と出ていた。
最近は車を使うことが多く、ナビやスマホなどに頼るので、目的地には比較的楽に到着できる。
私は持ち歩いているのは、ガラホやタブレットなので、歩きながら地図を見ることは難しい。
前もって、ネットの地図をプリントしてから出かけている。
しかし、駅に着くと、まずどう進むか不安になってしまう。
今回の出張は目的地に18時につく予定のもので、夜道を帰ることも考えて歩かねばならない。
香櫨園駅から外に出ると、地図には無かったオアシスロードというのが、すぐ目の前にあった。
幹線道路はそばに見えなかったので、そこをとりあえず歩くことにした。
このオアシスロードは夙川の土手沿いにある道で、バイクや車の乗り入れ禁止となっており、歩行者や自転車に乗る人が利用しているようだ。
道はきれいに整備されており、松の大木や桜の木がたくさん植えられていた。
ベンチも所々に設置してあり、市民が憩えるように配慮されている。
ネットのマップのルートとは違うが、目的地のそばにある道と確認できたので、歩いて行くことにした。
多くの仕事帰りの人や、学校帰りの人が行き交っている。
まさしくオアシスと名付けられるとおり、都会のコンクリート沙漠の中の自然公園である。
かつて、名古屋にも東京にも住んだことがあるが、これほど川の土手沿いが整備された道路公園は見たことが無い。
京都は明らかに観光目的のこういう道路はあるが、ここでは日常の通勤や通学にたくさんの人が用いているようだ。
だから観光名所らしきものは殆どなくて、そばに図書館や郷土館があるだけのようだ。
私はとりあえず目的地を見つけておいて、コンビニで軽い弁当などを買って、この河川公園で食べることにした。
学校帰りの中学生などが多く行き交うので、それを避けるように土手の途中にあるベンチに座って、弁当を食べた。
もう、すでに暗闇が迫っており、紅葉した木々が幻想的な雰囲気を醸し出している。
薄ら寒いので、ゆっくりと食べているわけにはいかず、早々に食べて、図書館に向かった。
時間までに少し時間があったので、そこでしばらく雑誌を読んだりして過ごした。
そういえば、以前にこの夙川の桜の話は聞いていた。
満開の時期は多くの人で賑わうようだ。
華やかな春とは違い、暮れなずむ晩秋の夕暮れも趣があって良いものである。
遠く西宮まで行かねばならない出張で、当初は気が重いものではあったが、このオアシスロードのおかげで、ちと気も楽になった。
ただ、帰りのラッシュを経験したので、こういうところに住みたいとは思えなかった。
整備されていなくても、村全体が自然公園のような暮らしの方が私には合っているようだ。
前もって、行き先はネットで調べておいた。
阪神香櫨園駅から歩いて23分と出ていた。
最近は車を使うことが多く、ナビやスマホなどに頼るので、目的地には比較的楽に到着できる。
私は持ち歩いているのは、ガラホやタブレットなので、歩きながら地図を見ることは難しい。
前もって、ネットの地図をプリントしてから出かけている。
しかし、駅に着くと、まずどう進むか不安になってしまう。
今回の出張は目的地に18時につく予定のもので、夜道を帰ることも考えて歩かねばならない。
香櫨園駅から外に出ると、地図には無かったオアシスロードというのが、すぐ目の前にあった。
幹線道路はそばに見えなかったので、そこをとりあえず歩くことにした。
このオアシスロードは夙川の土手沿いにある道で、バイクや車の乗り入れ禁止となっており、歩行者や自転車に乗る人が利用しているようだ。
道はきれいに整備されており、松の大木や桜の木がたくさん植えられていた。
ベンチも所々に設置してあり、市民が憩えるように配慮されている。
ネットのマップのルートとは違うが、目的地のそばにある道と確認できたので、歩いて行くことにした。
多くの仕事帰りの人や、学校帰りの人が行き交っている。
まさしくオアシスと名付けられるとおり、都会のコンクリート沙漠の中の自然公園である。
かつて、名古屋にも東京にも住んだことがあるが、これほど川の土手沿いが整備された道路公園は見たことが無い。
京都は明らかに観光目的のこういう道路はあるが、ここでは日常の通勤や通学にたくさんの人が用いているようだ。
だから観光名所らしきものは殆どなくて、そばに図書館や郷土館があるだけのようだ。
私はとりあえず目的地を見つけておいて、コンビニで軽い弁当などを買って、この河川公園で食べることにした。
学校帰りの中学生などが多く行き交うので、それを避けるように土手の途中にあるベンチに座って、弁当を食べた。
もう、すでに暗闇が迫っており、紅葉した木々が幻想的な雰囲気を醸し出している。
薄ら寒いので、ゆっくりと食べているわけにはいかず、早々に食べて、図書館に向かった。
時間までに少し時間があったので、そこでしばらく雑誌を読んだりして過ごした。
そういえば、以前にこの夙川の桜の話は聞いていた。
満開の時期は多くの人で賑わうようだ。
華やかな春とは違い、暮れなずむ晩秋の夕暮れも趣があって良いものである。
遠く西宮まで行かねばならない出張で、当初は気が重いものではあったが、このオアシスロードのおかげで、ちと気も楽になった。
ただ、帰りのラッシュを経験したので、こういうところに住みたいとは思えなかった。
整備されていなくても、村全体が自然公園のような暮らしの方が私には合っているようだ。
2018年11月20日火曜日
カラスと犬に食われる柿
うちの近辺では、柿の木がやたら多い。
今年もたわわに実がなって、赤くなっている。
しかし、柿は人気が無い。
だから、庭に植えている人も、必要なだけ採って放っている。
畑の片隅に植えている柿の木は、立派になっていても放りっぱなしである。
実が熟してくると、カラスがつつきに来る。
そして、半分食べさしの実が、道ばたに転がっているのである。
それを愚犬クロは、がっついて食べるのである。
飼い犬にしては、見苦しい限りではあるが、道の掃除にもなると思って食べさせている。
先日も、庭先においておいた、コンテナに柿がいっぱい入れてあって、中にくれた人が特定できる写真が入っていた。
この柿の実は、私の弁当のデザートになったりしている。
そして、クロの餌の大事なデザートでもある。
自分の母親にもお裾分けして、何とか少なくなった。
私は決して、柿は嫌いでは無い。
昔から、熟し柿が大好きだった。
しかし、糖尿病を患ってからは、極力甘い果実は避けているのである。
去年は、もらった柿を干してから、焼酎に漬けたりもした。
今年は、アルコールの飲む量も減らしている。
子供の頃に住んでいた、赤穂尾崎の家の向えの家には、柿の木があった。
子供の頃は貧しくて、果物など滅多に買ってもらえなかったので、その柿の実がおいしそうに見えた。
お裾分けしてもらうと、兄弟で喜んで食べた。
当時は、柿は滅多に食べられない、贅沢品だったのである。
今は、誰も見向きもされなくなった柿。
柿酢が健康に良いというので、作ってみるのも手ではある。
せっかく、たわわになっている柿の実を、カラスや犬に食わせるのはもったいない。
今年もたわわに実がなって、赤くなっている。
しかし、柿は人気が無い。
だから、庭に植えている人も、必要なだけ採って放っている。
畑の片隅に植えている柿の木は、立派になっていても放りっぱなしである。
実が熟してくると、カラスがつつきに来る。
そして、半分食べさしの実が、道ばたに転がっているのである。
それを愚犬クロは、がっついて食べるのである。
飼い犬にしては、見苦しい限りではあるが、道の掃除にもなると思って食べさせている。
先日も、庭先においておいた、コンテナに柿がいっぱい入れてあって、中にくれた人が特定できる写真が入っていた。
この柿の実は、私の弁当のデザートになったりしている。
そして、クロの餌の大事なデザートでもある。
自分の母親にもお裾分けして、何とか少なくなった。
私は決して、柿は嫌いでは無い。
昔から、熟し柿が大好きだった。
しかし、糖尿病を患ってからは、極力甘い果実は避けているのである。
去年は、もらった柿を干してから、焼酎に漬けたりもした。
今年は、アルコールの飲む量も減らしている。
子供の頃に住んでいた、赤穂尾崎の家の向えの家には、柿の木があった。
子供の頃は貧しくて、果物など滅多に買ってもらえなかったので、その柿の実がおいしそうに見えた。
お裾分けしてもらうと、兄弟で喜んで食べた。
当時は、柿は滅多に食べられない、贅沢品だったのである。
今は、誰も見向きもされなくなった柿。
柿酢が健康に良いというので、作ってみるのも手ではある。
せっかく、たわわになっている柿の実を、カラスや犬に食わせるのはもったいない。
2018年11月18日日曜日
千種の水くみ2018年秋
何とか今日(11/17)は雨が降らなかったので、千種に水くみに行った。
上郡の我が家の方は、これから紅葉が本格的に始まるという段階だが、千種の方では本格的に進んでいる。
途中でも紅葉祭りの幟を見かけたりもした。
落ちない城で有名な「白旗城祭り」は、来週の23日である。
きっと、来週の土曜日は大勢の人で賑わうのだろうと思いながら通り過ぎた。
家内が道沿いに見える銀杏の木の色づきが意外と遅いと言う。
確かに家の近所のより遅いようにも思える。
これは以外と川沿いの方が暖かいのか、それとも種類が違うのかわからない。
千種にに近づくにつれて、紅葉も色濃くなっていった。
千種高校では、部員らしき球児が4人だけでバッティング練習をしていた。
いつもながら、淋しげな校庭である。
このところ水くみ場で、殆ど他に汲む人と出会ってなかったのだが、今回は軽トラックが止まっている。
老夫婦が二人で水汲みをしているのだが、軽トラが横付けにされていて近くに止められない。
そこで、縦に止めてもらうように頼んで、こちらの軽トラも並べることができた。
この老夫婦は福崎から来たそうで、ホースを持っているのだが、つなぐことができずに、手で運んでいた。
距離からすると、あまり変わらないのかもしれないが、福崎からと言うと、市川、夢崎川、揖保川を通り越して千種川の上流に来たことになる。
なぜ、ここまで来るのかと聞くと、以前知り合った大学の先生が、ここの水汲み場が一番水質が良いと言ったからだという。
我が家と同じく、水質にこだわって、何年も通い続けているらしい。
かなりのご高齢で、お婆さんは階段を降りるのも、怖々であった。
しかも、自動販売機の操作もうまくこなせず、家内が手伝ったり、最後は100円硬貨を販売機に忘れて、お爺さんが持って気がついて持って帰る始末である。
そんなご高齢でも、ここに来るのが楽しみなのだそうだ。
この福崎のご夫婦が帰った後すぐに、別の老夫婦がやってきた。
さっきのご夫婦に比べると若いが、そこそこ高齢の方で高砂から来たという。
ここの水の自動販売機は2つ吸水口があるのだが、一つがどうも硬貨が貯まりすぎて使えない。
家内が管理者の連絡先に電話したら、一人は相生に出かけており、一人は山に登っていてすぐには来れないという。
仕方ないので、私たちが済むまで待ってもらった。
硬貨が詰まるのは、販売機の管理がいい加減になっているのか、それとも人気が意外と高くなって管理が追っつかないのかわからない。
それでも、こうしてひっきりなしに汲みに来る人に出会うのは、結構、根強い人気があるように思えた。
人気が出すぎて、待たされるのも困るが、人気が無くて維持管理できなくなるのも困る。
なんせ、ここの水の水質検査に、結構、多額の金がかかっていると聞いた。
今は、金さえ出せば、この頃は良い水を簡単に手に入れることができるようになった。
重い水を運んだり、遠くまで出かけていくのは、若い人にとっては時間と労力の無駄に思えるのかもしれない。
しかし、私たちには福崎から来た老夫婦と同じように、汲みに来ること自体が楽しみにもなっている。
子供が小さい頃は一緒に来て、帰りに南光町のひまわりの館で、力うどんを食べる楽しみもあった。
千種の道の駅で、特産物を買うのも一つの楽しみだ。
しかし、何よりも楽しみなのは、千種川沿いの素晴らしい景色なのである。
帰りの道沿いの山は、紅葉に染まり、山を絨毯で覆ったみたいだった。
重い水容器を運び入れる苦労が待ってはいるが、体が続く限り続けたいと、いつも家内と話している。
上郡の我が家の方は、これから紅葉が本格的に始まるという段階だが、千種の方では本格的に進んでいる。
途中でも紅葉祭りの幟を見かけたりもした。
落ちない城で有名な「白旗城祭り」は、来週の23日である。
きっと、来週の土曜日は大勢の人で賑わうのだろうと思いながら通り過ぎた。
家内が道沿いに見える銀杏の木の色づきが意外と遅いと言う。
確かに家の近所のより遅いようにも思える。
これは以外と川沿いの方が暖かいのか、それとも種類が違うのかわからない。
千種にに近づくにつれて、紅葉も色濃くなっていった。
千種高校では、部員らしき球児が4人だけでバッティング練習をしていた。
いつもながら、淋しげな校庭である。
このところ水くみ場で、殆ど他に汲む人と出会ってなかったのだが、今回は軽トラックが止まっている。
老夫婦が二人で水汲みをしているのだが、軽トラが横付けにされていて近くに止められない。
そこで、縦に止めてもらうように頼んで、こちらの軽トラも並べることができた。
この老夫婦は福崎から来たそうで、ホースを持っているのだが、つなぐことができずに、手で運んでいた。
距離からすると、あまり変わらないのかもしれないが、福崎からと言うと、市川、夢崎川、揖保川を通り越して千種川の上流に来たことになる。
なぜ、ここまで来るのかと聞くと、以前知り合った大学の先生が、ここの水汲み場が一番水質が良いと言ったからだという。
我が家と同じく、水質にこだわって、何年も通い続けているらしい。
かなりのご高齢で、お婆さんは階段を降りるのも、怖々であった。
しかも、自動販売機の操作もうまくこなせず、家内が手伝ったり、最後は100円硬貨を販売機に忘れて、お爺さんが持って気がついて持って帰る始末である。
そんなご高齢でも、ここに来るのが楽しみなのだそうだ。
この福崎のご夫婦が帰った後すぐに、別の老夫婦がやってきた。
さっきのご夫婦に比べると若いが、そこそこ高齢の方で高砂から来たという。
ここの水の自動販売機は2つ吸水口があるのだが、一つがどうも硬貨が貯まりすぎて使えない。
家内が管理者の連絡先に電話したら、一人は相生に出かけており、一人は山に登っていてすぐには来れないという。
仕方ないので、私たちが済むまで待ってもらった。
硬貨が詰まるのは、販売機の管理がいい加減になっているのか、それとも人気が意外と高くなって管理が追っつかないのかわからない。
それでも、こうしてひっきりなしに汲みに来る人に出会うのは、結構、根強い人気があるように思えた。
人気が出すぎて、待たされるのも困るが、人気が無くて維持管理できなくなるのも困る。
なんせ、ここの水の水質検査に、結構、多額の金がかかっていると聞いた。
今は、金さえ出せば、この頃は良い水を簡単に手に入れることができるようになった。
重い水を運んだり、遠くまで出かけていくのは、若い人にとっては時間と労力の無駄に思えるのかもしれない。
しかし、私たちには福崎から来た老夫婦と同じように、汲みに来ること自体が楽しみにもなっている。
子供が小さい頃は一緒に来て、帰りに南光町のひまわりの館で、力うどんを食べる楽しみもあった。
千種の道の駅で、特産物を買うのも一つの楽しみだ。
しかし、何よりも楽しみなのは、千種川沿いの素晴らしい景色なのである。
帰りの道沿いの山は、紅葉に染まり、山を絨毯で覆ったみたいだった。
重い水容器を運び入れる苦労が待ってはいるが、体が続く限り続けたいと、いつも家内と話している。
2018年11月15日木曜日
30年に一度の大祭
11月11日は、我が村の中野で「中開帳特別大祭」といって、普段は「観音さん」と呼ばれている寺で、30年に一度の大祭があった。
「観音さん」正式な寺の名前としては、「宝重寺」といい、弓削道鏡が神護景雲の頃(767~769)に建立されたという。
その後荒廃したものを、嘉吉年間(1441~1443)に再建されたという。
この寺に安置されている「観世音菩薩」を30年に一度、開帳して祭りを行っているのである。
このご本尊は近年一度盗難に遭ったが、その後知らぬ間に戻されていたという。
盗難されたときに複製したので、それを合わせると二体観音像はまつられていることになる。
我が家は今年は隣保長を務めており、この大祭のために色々と手伝わねばならなくなった。
この大祭に合わせて、昨年から中野の各家から寄進を毎月募って、お寺の改修工事を行ったりしていた。
そして、今回の開帳祭りでは、法要の後で稚児行列が行われ、その後餅投げ、昼食会、余興というプログラムが予定されていた。
法要に関しては、本来はこの寺は禅宗だったそうだが、近隣では禅宗寺が殆どないので、近隣の浄土真宗の寺の住職が4人で勤めることになった。
稚児行列の参加を募ったが、当初は集まりが悪かったが、親戚縁者を辿ってなんとか数は集まった。
一番困ったのは、昼食会での振る舞いで、村は二つの字に分かれているが、我が家の属する上中野も、下中野の「やきそば」のように何か作らねばならない。
結局、JAに勤めている役員が唐揚げを作ろうと提案して、フライヤーもJAから借りることになった。
大祭前の金曜日から、家内は仕事を休んで持ち作りの手伝いに行った。
全部で90kgある餅米を搗いて丸めるのに、手が真っ赤になったと言って戻ってきた。
次の土曜日も、その餅の袋詰めの手伝いに出て行った。
そして、赤飯と餅が各家に前日には配られた。
私は大祭当日に、唐揚げの手伝いとして参加することにしていた。
3日とも家内にやってもらうのは、負担が重いと思ったからだ。
本来は、隣保長の男性は法要や稚児行列にも、式服を着て参列しなくてはならない。
しかし、私は唐揚げ準備にかこつけて普段着で参加し、式典には加わらなかった。
そして、準備をしながら気楽に眺めて、携帯電話で写真を撮っていた。
午前から用意した唐揚げも、昼食時にはすぐに無くなってしまった。
私は振る舞われた、ちらし寿司や久しぶりの本物のビールを飲みながら、ゆっくりできた。
余興が始まり、近くの公民館で練習しているフラダンスチームが、踊りを披露してくれた。
仏教関連の大祭にフラダンスとは、少し違和感を感じたが、結構皆さん上手で、観客も見入っていた。
そして、子供会から余興は、荻野目洋子の「ダンシングヒーロー」の盆踊り版である。
これも自治会長さんなども参加して、微笑ましく感じられた。
最後はお決まりのビンゴゲーム、これがやたら長く続いた。
そして、終わって私たち役員の男性は片付けに入った。
こうして、30年に一度の大祭は幕を閉じることになった。
おそらく、30年後には私はこの世にはいないだろう。
村の人にとっても、30年に一度の機会なのだから、もっと集まってきても良さそうにも思えた。
ただ、私はたまたま隣保長になっていたから、参加したのであって。
もし、そうでなかったら参加していなかっただろうと思う。
そうは言いながら、観音さんには何か困ったりしたら、お参りに行ったりする。
正月も欠かさず、お参りに行く。
ひっそりしたお寺は、それなりに心のよりどころになっているのである。
大祭は寄付を募って修繕する口実でもあるので、お寺を維持するためには欠かせない。
こうして何百年もお寺は守られてきたのだろう。
時代の流れが速い今だからこそ、こういうお寺の価値を見直すべきかもしれない。
「観音さん」正式な寺の名前としては、「宝重寺」といい、弓削道鏡が神護景雲の頃(767~769)に建立されたという。
その後荒廃したものを、嘉吉年間(1441~1443)に再建されたという。
この寺に安置されている「観世音菩薩」を30年に一度、開帳して祭りを行っているのである。
このご本尊は近年一度盗難に遭ったが、その後知らぬ間に戻されていたという。
盗難されたときに複製したので、それを合わせると二体観音像はまつられていることになる。
我が家は今年は隣保長を務めており、この大祭のために色々と手伝わねばならなくなった。
この大祭に合わせて、昨年から中野の各家から寄進を毎月募って、お寺の改修工事を行ったりしていた。
そして、今回の開帳祭りでは、法要の後で稚児行列が行われ、その後餅投げ、昼食会、余興というプログラムが予定されていた。
法要に関しては、本来はこの寺は禅宗だったそうだが、近隣では禅宗寺が殆どないので、近隣の浄土真宗の寺の住職が4人で勤めることになった。
稚児行列の参加を募ったが、当初は集まりが悪かったが、親戚縁者を辿ってなんとか数は集まった。
一番困ったのは、昼食会での振る舞いで、村は二つの字に分かれているが、我が家の属する上中野も、下中野の「やきそば」のように何か作らねばならない。
結局、JAに勤めている役員が唐揚げを作ろうと提案して、フライヤーもJAから借りることになった。
大祭前の金曜日から、家内は仕事を休んで持ち作りの手伝いに行った。
全部で90kgある餅米を搗いて丸めるのに、手が真っ赤になったと言って戻ってきた。
次の土曜日も、その餅の袋詰めの手伝いに出て行った。
そして、赤飯と餅が各家に前日には配られた。
私は大祭当日に、唐揚げの手伝いとして参加することにしていた。
3日とも家内にやってもらうのは、負担が重いと思ったからだ。
本来は、隣保長の男性は法要や稚児行列にも、式服を着て参列しなくてはならない。
しかし、私は唐揚げ準備にかこつけて普段着で参加し、式典には加わらなかった。
そして、準備をしながら気楽に眺めて、携帯電話で写真を撮っていた。
公民館での法要 |
稚児行列 |
宝重寺での法要 |
餅まき |
私は振る舞われた、ちらし寿司や久しぶりの本物のビールを飲みながら、ゆっくりできた。
余興が始まり、近くの公民館で練習しているフラダンスチームが、踊りを披露してくれた。
仏教関連の大祭にフラダンスとは、少し違和感を感じたが、結構皆さん上手で、観客も見入っていた。
そして、子供会から余興は、荻野目洋子の「ダンシングヒーロー」の盆踊り版である。
これも自治会長さんなども参加して、微笑ましく感じられた。
最後はお決まりのビンゴゲーム、これがやたら長く続いた。
そして、終わって私たち役員の男性は片付けに入った。
こうして、30年に一度の大祭は幕を閉じることになった。
おそらく、30年後には私はこの世にはいないだろう。
村の人にとっても、30年に一度の機会なのだから、もっと集まってきても良さそうにも思えた。
ただ、私はたまたま隣保長になっていたから、参加したのであって。
もし、そうでなかったら参加していなかっただろうと思う。
そうは言いながら、観音さんには何か困ったりしたら、お参りに行ったりする。
正月も欠かさず、お参りに行く。
ひっそりしたお寺は、それなりに心のよりどころになっているのである。
大祭は寄付を募って修繕する口実でもあるので、お寺を維持するためには欠かせない。
こうして何百年もお寺は守られてきたのだろう。
時代の流れが速い今だからこそ、こういうお寺の価値を見直すべきかもしれない。
2018年11月13日火曜日
さらばLet's note ようこそEndeavor
突然のことだった。
いつ壊れても不思議はないと思っていたが、突然「プツッ」と音がして、画面が消えた。
その前にACアダプターが壊れて、別のボルトが高いもので充電していたのが悪かったのだろうか。
CF-R5のドライブがないもので、12年ほど前に当時大学生協で15万円ほどした。
一度動かなくなり、初期化して復活した。
数年ほど前からフリーズすることが多くなり、無理な使い方はしていなかった。
家では画面が小さいので大きなディスプレイにつないで使ったりしたが、職場に持って行って使うのには便利だった。
買った当初はプロジェクターを使った授業でずっと使っていた。
暑い教室でハードディスクが壊れてしまったこともあった。
兵庫教育大に長期研修に行っていたときも、教室や図書室でよく使った。
そして、奄美の与路島や鹿児島なのに調査に行ったときも、ずいぶん役に立った。
私にとって一番思い出深いパソコンといえるだろう。
近年調子が悪くても使い続けていたのは、OCRの「読んでココ」をどうしても使いたかったからだ。
「読んでココ」はXP以外ではうまく動かなかったので、ネットが使えなくなっても使い続けた。
Win10になってスムーズに動き出したので、最近は最新機の補助として使っていた。
壊れてしまってから、Let's noteの後継機を探したが、結局EndeavorのNA513Eというポータブルなノートパソコンを買った。
今回はボーナスセールということで、特価品が出ていたからだ。
これよりも高機能で安いパソコンは他のメーカーにあったが、信頼性を重視した。
私は以前にはデスクトップのEndeavorやEdicubeをずっと家で仕事用に使っていたからだ。
子供や家内が使い出したので、家庭用はNECや富士通の製品を使うようになっていた。
注文した後で、Youtubeで1万円の中古のLet's noteをチューンアップしているのを見て、自分もすればよかったかとも思った。
今後、場合によって職場で使うのに、高性能の中古の安いパソコンを改造する手もあると思った。
今回のNA513EはCore i5-7200ではあるが、SSDを使っているので軽快だ。
家庭用に買った富士通がi7の最新鋭を使っていたのに、非常に重かったのとは大違いである。
画面も13.3型ながら、以前のLet's noteのように不自由は感じない。
外付けのハードディスクの読み取りや書き込みが、富士通のパソコンは悪かったのだが、それもだいぶましになっている。
ディスクドライブも、滅多に使わないので外付けの安いのを買った。
Let's noteとは12年のお付き合いだったが、今度は何年お付き合いできるだろうか。
考えてみれば以前うちで飼っていた犬も、12年ほどで亡くなってしまったので、同じような寿命といえる。
ドッグイヤーという言葉は、最新のパソコンの世界では通用しないが、私には十分通用する。
ましてや「読んでココ」などは、よほどいいのが出ない限り、一生使い続けるだろう。
これからは良いものを、上手に再利用していくのが身の程に合っていると思っている。
いつ壊れても不思議はないと思っていたが、突然「プツッ」と音がして、画面が消えた。
その前にACアダプターが壊れて、別のボルトが高いもので充電していたのが悪かったのだろうか。
CF-R5のドライブがないもので、12年ほど前に当時大学生協で15万円ほどした。
一度動かなくなり、初期化して復活した。
数年ほど前からフリーズすることが多くなり、無理な使い方はしていなかった。
家では画面が小さいので大きなディスプレイにつないで使ったりしたが、職場に持って行って使うのには便利だった。
買った当初はプロジェクターを使った授業でずっと使っていた。
暑い教室でハードディスクが壊れてしまったこともあった。
兵庫教育大に長期研修に行っていたときも、教室や図書室でよく使った。
そして、奄美の与路島や鹿児島なのに調査に行ったときも、ずいぶん役に立った。
私にとって一番思い出深いパソコンといえるだろう。
「読んでココ」はXP以外ではうまく動かなかったので、ネットが使えなくなっても使い続けた。
Win10になってスムーズに動き出したので、最近は最新機の補助として使っていた。
壊れてしまってから、Let's noteの後継機を探したが、結局EndeavorのNA513Eというポータブルなノートパソコンを買った。
今回はボーナスセールということで、特価品が出ていたからだ。
これよりも高機能で安いパソコンは他のメーカーにあったが、信頼性を重視した。
私は以前にはデスクトップのEndeavorやEdicubeをずっと家で仕事用に使っていたからだ。
子供や家内が使い出したので、家庭用はNECや富士通の製品を使うようになっていた。
注文した後で、Youtubeで1万円の中古のLet's noteをチューンアップしているのを見て、自分もすればよかったかとも思った。
今後、場合によって職場で使うのに、高性能の中古の安いパソコンを改造する手もあると思った。
今回のNA513EはCore i5-7200ではあるが、SSDを使っているので軽快だ。
家庭用に買った富士通がi7の最新鋭を使っていたのに、非常に重かったのとは大違いである。
画面も13.3型ながら、以前のLet's noteのように不自由は感じない。
外付けのハードディスクの読み取りや書き込みが、富士通のパソコンは悪かったのだが、それもだいぶましになっている。
ディスクドライブも、滅多に使わないので外付けの安いのを買った。
Let's noteとは12年のお付き合いだったが、今度は何年お付き合いできるだろうか。
考えてみれば以前うちで飼っていた犬も、12年ほどで亡くなってしまったので、同じような寿命といえる。
ドッグイヤーという言葉は、最新のパソコンの世界では通用しないが、私には十分通用する。
ましてや「読んでココ」などは、よほどいいのが出ない限り、一生使い続けるだろう。
これからは良いものを、上手に再利用していくのが身の程に合っていると思っている。
2018年11月10日土曜日
白衣の転師
私はかつて龍野実業高校で白衣を着て以来、冬場は白衣を着ることが多かった。
一番の理由は、白衣を着ていると、下に着る服装は隠れるので、割と自由に服が選べたことである。
次に、白衣を着ているのは、医療関係や理系の研究者の人が多いので、インテリぽく見える。
そして、生地は薄いのであるが、膝まであるコートなので、意外と暖かいのである。
冬場の体育館での行事では、この白衣が威力を発揮した。
理科の教師でも無い自分が、白衣を抵抗なく着られるのは、母校の淳心では教師が科目に関係なく着ている人が多かったことにもよる。
私は滅多にチョークは用いないが、チョークの粉で服が汚れるので、着ていたのだろうと思う。
理科以外の人で白衣を着る人は、大抵はスーツなどがチョークで汚れるのを嫌うからだと思う。
私は、チョークを使わないし、スーツなどは特別な時にしか着ないので目的は違う。
生徒から「なんで、理科の先生や無いのに、白衣着るん?」とよく聞かれる。
その時は、「私は白衣の天使やから」と冗談でまず返すのだが、たいていは白けられる。
そこで、「偉い先生そうに見えるやろ?」と付け加えておく。
私は以前にも書いたが、普段は体育の教師によく間違えられる、職業高校では作業服をきていると職業科の先生に間違えられる。
私は家では農作業を昔から続けてきているので、体育科や職業科の教師よりも色が黒い。
せめて学校では座学中心の教科の教師として、「ホワイトカラー」(時にブルーカラー
になる)で通したいわけである。
しかし、夏場は白衣は暑くて切られないし、水泳部の顧問をしているときは、誰よりも黒かった。
所詮、私は冬場だけの「ホワイトカラー」であった。
今回、再び教壇に立つことになり、寒くなるにつれて白衣が欲しくなった。
家内に聞くと、もういらないと思って退職したときに全て捨てたという。
私は、白衣を大切に4着くらい持っていて、黒ずんだ物は家内に頼んで藍色に染めてもらっていた。
ムラになって染め上がった白衣(青衣)は、意外と評判が良くて気に入っていた。
私にはまだまだ着られると思っていた物もあったのに、残念だった。
しかし、やはり白衣は捨てがたい、ネットで探して1着1700円ほどの物を2着買ってもらった。
以前、学校の生協でも3000円ほどしたのだから、ネットで買えば安いものである。
これでかつての自分らしさを取り戻せる。
実は、今の職場の若い男性教師は、職業科の人以外、体育科を含めてスーツにネクタイという人が多い。
これで何とか少しは体裁を繕うことができそうである。
私は、転々と学校をかわったり、今回のように退職してまた復職する転勤、転職教師である。
これからは、「転師」という字を「天使」にもじって使わねばならないだろう。
まさしく、転んでばかりの教師である・・・・Like a rolling stone?!
一番の理由は、白衣を着ていると、下に着る服装は隠れるので、割と自由に服が選べたことである。
次に、白衣を着ているのは、医療関係や理系の研究者の人が多いので、インテリぽく見える。
そして、生地は薄いのであるが、膝まであるコートなので、意外と暖かいのである。
冬場の体育館での行事では、この白衣が威力を発揮した。
理科の教師でも無い自分が、白衣を抵抗なく着られるのは、母校の淳心では教師が科目に関係なく着ている人が多かったことにもよる。
私は滅多にチョークは用いないが、チョークの粉で服が汚れるので、着ていたのだろうと思う。
理科以外の人で白衣を着る人は、大抵はスーツなどがチョークで汚れるのを嫌うからだと思う。
私は、チョークを使わないし、スーツなどは特別な時にしか着ないので目的は違う。
生徒から「なんで、理科の先生や無いのに、白衣着るん?」とよく聞かれる。
その時は、「私は白衣の天使やから」と冗談でまず返すのだが、たいていは白けられる。
そこで、「偉い先生そうに見えるやろ?」と付け加えておく。
私は以前にも書いたが、普段は体育の教師によく間違えられる、職業高校では作業服をきていると職業科の先生に間違えられる。
私は家では農作業を昔から続けてきているので、体育科や職業科の教師よりも色が黒い。
せめて学校では座学中心の教科の教師として、「ホワイトカラー」(時にブルーカラー
になる)で通したいわけである。
しかし、夏場は白衣は暑くて切られないし、水泳部の顧問をしているときは、誰よりも黒かった。
所詮、私は冬場だけの「ホワイトカラー」であった。
今回、再び教壇に立つことになり、寒くなるにつれて白衣が欲しくなった。
家内に聞くと、もういらないと思って退職したときに全て捨てたという。
私は、白衣を大切に4着くらい持っていて、黒ずんだ物は家内に頼んで藍色に染めてもらっていた。
ムラになって染め上がった白衣(青衣)は、意外と評判が良くて気に入っていた。
私にはまだまだ着られると思っていた物もあったのに、残念だった。
しかし、やはり白衣は捨てがたい、ネットで探して1着1700円ほどの物を2着買ってもらった。
以前、学校の生協でも3000円ほどしたのだから、ネットで買えば安いものである。
これでかつての自分らしさを取り戻せる。
実は、今の職場の若い男性教師は、職業科の人以外、体育科を含めてスーツにネクタイという人が多い。
これで何とか少しは体裁を繕うことができそうである。
私は、転々と学校をかわったり、今回のように退職してまた復職する転勤、転職教師である。
これからは、「転師」という字を「天使」にもじって使わねばならないだろう。
まさしく、転んでばかりの教師である・・・・Like a rolling stone?!
2018年11月7日水曜日
焼き栗と菊
3年生が沖縄に修学旅行に行くので、姫路のバスターミナルまで家内に運転してもらって見送りに行った。
何とか7時40分の出発まで間に合って見送った後、家内に迎えに来てもらってドライブに出かけた。
朝食はまだだったので、途中で喫茶店に入りモーニングを注文した。
家内と朝に喫茶店に入ってモーニングを食べた記憶が無いので、初めてのことだと思う。
当初は播磨清水寺の紅葉を見ようかと思っていたが、まだ色づいていた無いので篠山まで行くことにした。
篠山ではJAの直売所で買い物をしたが、生椎茸や生落花生など、そして思わず店頭で焼いている焼き栗を衝動買いした。
焼き栗は販売しているおばさんの話を聞いていると、地元産では無くて九州産だそうだ。
焼き栗の香りが車いっぱいに広がった。
この日(11/4)は篠山で駅伝の県大会があったので、渋滞を考えて引き返すことにした。
焼き栗は手が汚れると言って、スマホを使う家内は食べるのを敬遠したので直ぐには食べなかった。
途中で陶芸館に立ち寄って、加西のイオンタウンで昼食を取り、県立フラワーセンターに何年かぶりに行った。
フラワーセンターの近くはよく通るのだが、立ち寄ることが無かったのである。
まだ、11月4日では紅葉も進んでいなかったが、菊が見事に展示されていた。
温室の中で熱帯植物を観賞して、池を左回りで回っていった。
バラも少しは咲いていたが、貧相な感じはした。
噴水の傍のベンチで、しばらく休憩したが、子供が小さかった頃によく連れてきたことを思い出していた。
フラワーセンターは子供を連れて、自宅からはちょうどドライブして帰るのに手頃な距離だった。
家内も花が大好きなので、色んな季節の花を楽しみに訪れていた。
春の梅の咲く季節や、秋の葉の色づく頃に訪れた。
ここで買った人参ガジュマルも今では1m以上に大きくなっている。
子供と一緒に行った場所は多くあるが、今でも訪れようと思うところは少ない。
フラワーセンターは夫婦二人でも行こうと思う場所でもある。
行楽シーズンであるにもかかわらず、家族連れは少ない。
先ほど賑わっていたイオンタウンとは対照的である。
そういえば隣で食事をとっていた家族連れでは、幼い子供が手巻き寿司を「まずはマグロから」と言っていた。
弁当を持って、フラワーセンターで子供と一緒に食べたのとは大違いである。
花より団子ならぬ、紅葉よりマグロの時代なのであろう。
何とか7時40分の出発まで間に合って見送った後、家内に迎えに来てもらってドライブに出かけた。
朝食はまだだったので、途中で喫茶店に入りモーニングを注文した。
家内と朝に喫茶店に入ってモーニングを食べた記憶が無いので、初めてのことだと思う。
当初は播磨清水寺の紅葉を見ようかと思っていたが、まだ色づいていた無いので篠山まで行くことにした。
篠山ではJAの直売所で買い物をしたが、生椎茸や生落花生など、そして思わず店頭で焼いている焼き栗を衝動買いした。
焼き栗は販売しているおばさんの話を聞いていると、地元産では無くて九州産だそうだ。
焼き栗の香りが車いっぱいに広がった。
この日(11/4)は篠山で駅伝の県大会があったので、渋滞を考えて引き返すことにした。
焼き栗は手が汚れると言って、スマホを使う家内は食べるのを敬遠したので直ぐには食べなかった。
途中で陶芸館に立ち寄って、加西のイオンタウンで昼食を取り、県立フラワーセンターに何年かぶりに行った。
フラワーセンターの近くはよく通るのだが、立ち寄ることが無かったのである。
まだ、11月4日では紅葉も進んでいなかったが、菊が見事に展示されていた。
温室の中で熱帯植物を観賞して、池を左回りで回っていった。
バラも少しは咲いていたが、貧相な感じはした。
噴水の傍のベンチで、しばらく休憩したが、子供が小さかった頃によく連れてきたことを思い出していた。
フラワーセンターは子供を連れて、自宅からはちょうどドライブして帰るのに手頃な距離だった。
家内も花が大好きなので、色んな季節の花を楽しみに訪れていた。
春の梅の咲く季節や、秋の葉の色づく頃に訪れた。
ここで買った人参ガジュマルも今では1m以上に大きくなっている。
子供と一緒に行った場所は多くあるが、今でも訪れようと思うところは少ない。
フラワーセンターは夫婦二人でも行こうと思う場所でもある。
行楽シーズンであるにもかかわらず、家族連れは少ない。
先ほど賑わっていたイオンタウンとは対照的である。
そういえば隣で食事をとっていた家族連れでは、幼い子供が手巻き寿司を「まずはマグロから」と言っていた。
弁当を持って、フラワーセンターで子供と一緒に食べたのとは大違いである。
花より団子ならぬ、紅葉よりマグロの時代なのであろう。
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1995年11月12日 |
2018年11月3日土曜日
剣道とは腐れ縁
私は小学生の頃少年剣道団に入っていた。
小学生の頃は、何でもやりたくてカブスカウトにも入っていたし、ソロバンや習字も習っていた。
習字は直ぐにやめてしまったが、他はそれなりに続けていた。
ただ、剣道は当時指導者も殆どついておらず、自分らで勝手にしていた。
きちっと指導者がついたころになると、だんだんと重荷になってきた。
練習はあまりしない割に、試合はそこそこ強かったので、続けていただけである。
カブスカウトからボーイスカウトになり、忙しく日々を送っていたが、担任の先生の強い勧めで中学受験をすることになった。
剣道の練習をしていると、「そんなことをしている場合ではない」と、担任の先生から叱られた。
それほど、好きでもなかったので、剣道は止めたし、ボーイスカウトも活動する時間が無くなった。
中学に入ってから、しばらくは部活動はしていなかったが、思い立って剣道部に入った。
しかし、中高一貫校の部活は、高校生とも練習せねばならず、結構大変だった。
何とか夏休みの校内合宿は乗り切ったが、嫌になって止めてしまった。
それからしばらくして、ロックバンドの練習にのめり込んでいった。
大学に入ってからは、最初軽音楽部でロックバンドの練習に打ち込んだが、趣向があわずやめてしまった。
そこで、思い立って剣道部に入ったのだが、やはりまともに練習してこなかった者にとっては非常に負担となった。
ここでも夏休みの合宿は乗り切って、顧問からも筋が良いので続けるように言われたが、秋になるとやはりやめてしまった。
その後は、文化人類学研究会に入って、それがきっかけとなり研究を続けることになった。
教師になって、少しは指導できる運動部は剣道しかなかったので、赤穂で成人でも練習できる教室に通った。
そこでは全国で二位になった赤穂高校の女子部員も練習していたが、男性は小学生か成人だったので練習は厳しいものではなかった。
チームとして試合にも出て、グローリーとあたり、私は簡単に負けてしまった。
勝てなくても、負けない方法を知らない自分を実感させられた。
練習仲間で赤穂御崎の野外活動センターに泊まりに行ったりして楽しかった。
職場が変わって忙しくなってからは、通う余裕がなくなってしまった。
龍野実業ではしばらく剣道部の顧問をして、生徒と練習したがちゃんと指導できる顧問ではなかった。
剣道をきちっと練習してきた人と交代してもらって、私は音楽系統の副顧問などをした。
上郡高校でも当初は剣道部の副顧問をしていたが、全国出場を目指す部だったので、体育科の専門の顧問もいて出番はなかった。
若い顧問に代わって指導方針も違ったので、剣道部から水泳部の顧問に代わった。
それ以来、私は主に水泳部の顧問をして剣道部との縁はしばらくなくなった。
姫路特別支援学校では、授業の中で剣道を少ししたが、本格的ではなかった。
今回定時制で剣道部の副顧問をすることになり、他に教員の中で経験者がいないので一人の生徒の練習に付き合うことになった。
いい加減に保管していた防具は、ボロボロになっていて、小手を通販で買った。
胴紐の留め具は百円ショップのキーホルダーで代用したし、胴紐も肩の方は一本はつないでつかっている。
前回の練習では垂の帯紐までちぎれてしまった。
週二回の20分ほどの練習のために、多額の出費はきついので、これも修理することにしている。
剣道の練習そのものは、思った以上に身体は動いてくれた。
そして、竹刀も息子が高校時代に使っているが、高校生用を使っているので扱いやすい。
全日制の本格的な練習と違い、無理のない練習なのでやって行けそうにも思う。
生徒も昼間働いているので無理はあまりできないようだ。
昇段試験も受けにいったことも無く、いい加減な剣道しかしてこなかったので、生徒にはただの練習相手でしかない。
ただ、剣道をしていて楽しいと思ったことは無いけれど、今回は面白く感じる剣道をしてみたいと思っている。
小学生の頃は、何でもやりたくてカブスカウトにも入っていたし、ソロバンや習字も習っていた。
習字は直ぐにやめてしまったが、他はそれなりに続けていた。
ただ、剣道は当時指導者も殆どついておらず、自分らで勝手にしていた。
きちっと指導者がついたころになると、だんだんと重荷になってきた。
練習はあまりしない割に、試合はそこそこ強かったので、続けていただけである。
カブスカウトからボーイスカウトになり、忙しく日々を送っていたが、担任の先生の強い勧めで中学受験をすることになった。
剣道の練習をしていると、「そんなことをしている場合ではない」と、担任の先生から叱られた。
それほど、好きでもなかったので、剣道は止めたし、ボーイスカウトも活動する時間が無くなった。
中学に入ってから、しばらくは部活動はしていなかったが、思い立って剣道部に入った。
しかし、中高一貫校の部活は、高校生とも練習せねばならず、結構大変だった。
何とか夏休みの校内合宿は乗り切ったが、嫌になって止めてしまった。
それからしばらくして、ロックバンドの練習にのめり込んでいった。
大学に入ってからは、最初軽音楽部でロックバンドの練習に打ち込んだが、趣向があわずやめてしまった。
そこで、思い立って剣道部に入ったのだが、やはりまともに練習してこなかった者にとっては非常に負担となった。
ここでも夏休みの合宿は乗り切って、顧問からも筋が良いので続けるように言われたが、秋になるとやはりやめてしまった。
その後は、文化人類学研究会に入って、それがきっかけとなり研究を続けることになった。
教師になって、少しは指導できる運動部は剣道しかなかったので、赤穂で成人でも練習できる教室に通った。
そこでは全国で二位になった赤穂高校の女子部員も練習していたが、男性は小学生か成人だったので練習は厳しいものではなかった。
チームとして試合にも出て、グローリーとあたり、私は簡単に負けてしまった。
勝てなくても、負けない方法を知らない自分を実感させられた。
練習仲間で赤穂御崎の野外活動センターに泊まりに行ったりして楽しかった。
職場が変わって忙しくなってからは、通う余裕がなくなってしまった。
龍野実業ではしばらく剣道部の顧問をして、生徒と練習したがちゃんと指導できる顧問ではなかった。
剣道をきちっと練習してきた人と交代してもらって、私は音楽系統の副顧問などをした。
上郡高校でも当初は剣道部の副顧問をしていたが、全国出場を目指す部だったので、体育科の専門の顧問もいて出番はなかった。
若い顧問に代わって指導方針も違ったので、剣道部から水泳部の顧問に代わった。
それ以来、私は主に水泳部の顧問をして剣道部との縁はしばらくなくなった。
姫路特別支援学校では、授業の中で剣道を少ししたが、本格的ではなかった。
今回定時制で剣道部の副顧問をすることになり、他に教員の中で経験者がいないので一人の生徒の練習に付き合うことになった。
いい加減に保管していた防具は、ボロボロになっていて、小手を通販で買った。
胴紐の留め具は百円ショップのキーホルダーで代用したし、胴紐も肩の方は一本はつないでつかっている。
前回の練習では垂の帯紐までちぎれてしまった。
週二回の20分ほどの練習のために、多額の出費はきついので、これも修理することにしている。
剣道の練習そのものは、思った以上に身体は動いてくれた。
そして、竹刀も息子が高校時代に使っているが、高校生用を使っているので扱いやすい。
全日制の本格的な練習と違い、無理のない練習なのでやって行けそうにも思う。
生徒も昼間働いているので無理はあまりできないようだ。
昇段試験も受けにいったことも無く、いい加減な剣道しかしてこなかったので、生徒にはただの練習相手でしかない。
ただ、剣道をしていて楽しいと思ったことは無いけれど、今回は面白く感じる剣道をしてみたいと思っている。
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