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2018年11月25日日曜日

消えゆく大工さん

11月23日は、我が家の地鎮祭が行われた日である。
今から25年前のこの日、奥村の神主さんによって行われた。
霧が深く立ちこめた日であった。
家を建ててくれたのは、同じ村の大工さんで、不動産屋の紹介であった。
この大工の棟梁は、棟上げ以外は殆どの建築仕事を一人でやってくれた。
我が家は当時では既に珍しくなっていた土壁で、棟梁は根気よく竹を組んでいたのを憶えている。
家は翌年の夏休みには完成して、引っ越しを行った。
当時乗っていた、ピックアップのハイラックスで、ピアノ以外は家内に手伝ってもらいながら、殆ど自分で運んだ。
そのせいで、腰痛を患い、その後何年も苦しめられた。

私はその細身の棟梁が、家ができるまでに死んでしまうのでは無いかと心配していた。
それくらい、痩せこけていたのである。
我が家はちゃんとできあがったが、その後10年も経たないうちに、棟梁は亡くなってしまった。
長年の無理がたたったのか、五十歳半ばだった。
この棟梁に建ててもらった、家屋は村の中に数軒残っている。
しかし、家の家が建った後では、大工さんの手作りの家は殆ど無くなり、工場で造られた物を組み立てるだけのものになった。
特に、阪神大震災の後では、手作りの木造建築は姿を消していった。

先日、村に残っていた、木造建築屋さんが倒産してしまったのを知った。
そこの親方は、村の自治会でも色々と、世話をしてくれている人だった。
私も、仲良くしてもらい、話を色々聞かせてもらっていた。
愚犬クロの前に飼っていたトラも、この家からもらってきた犬だった。
負債を抱えて自己破産し、親方の大きな家は売りに出されている。
庭には立派な白菜や大根がそのまま残った。

時代の流れと言えば、それまでなのだが、村の中心を担ってきた人が去って行くのは残念である。
自分たちが幼い頃は、大工さんになるというのも男の子の夢だった。
村にある木工所も操業を止めたりしている。
このままいくと、村の建築関係は殆ど廃業と言うことになるかも知れない。
そして、不動産屋の売りに出ている物件の価格には安さには驚かされる。
多額のローンを抱えて、生活を切り詰めながら支払った果ての価格である。
日産リーフほどの車の値段で、敷地50坪ほどの中古住宅なら近隣で手に入る。

我々の世代は、貧しかった昭和30年の半ばから、高度経済成長を経て豊かさを味わった。
私の家は、まさしくバブルのはじける前で、高騰する住宅価格に、早く建てないと焦ったものだった。
耐震構造では無いので、大きな地震がきたらひとたまりも無いかも知れない。
それでも、苦労して手に入れた家だけに、愛着が強いし、もう家を建て直す余力は無い。
私の実家も母親が一人で暮らしているし、家内の実家も義母が一人で暮らしている。
同じように親夫婦が苦労して手に入れた家である。
工場で作られた家屋と違って、大工さんが一生懸命建ててくれていた姿も知っている家である。
そういう家屋がどんどん失せてしまう時代というのは、本当に豊かな時代なのだろうかと考えさせられた。


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