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2018年12月31日月曜日

還暦を前にして

私は亥年で、来年は還暦である。
幼い頃から、猪突猛進で向こう見ずと言われ続けてきた。
それは今でもあまり変わりは無い。
ただ、この頃は後ろ向きに猛進してしまうことがある。
過去の思い出への執着が少々多くなった。

この年になると、「死」ということを考えざるを得ない。
新聞の死亡欄に目が行ってしまったりもする。
若くて死んでいった人のことを思ったりもする。
同僚や近所の人で還暦を待たずに死んだり、そう経たないうちに亡くなった人も少なからずいた。
その多くは膵臓癌だったり、心筋梗塞などであった。
人生50年という時代もあったし、そもそも60歳退職も当時の平均寿命から作られたものらしい。
今は、死ぬことそのものよりも、「認知症」になり自分がコントロールできなくなる方が恐怖になっている。
とある末期癌になったお坊さんが教え子の医者から「癌になって良かった」と喜んでもらえたという。
それはある意味で、認知症になる前に死ねると言うことを意味したのかも知れない。
そういう意味では、還暦前後に認知症にならずに亡くなった人は、決して不幸では無かったのかも知れない。

自分が若い頃の職場にいた定年間近の同僚や管理職は大変老けて見えた。
人によって違いは大きいけれど、今の職場の同年代の人と比べてもそう感じる。
食生活など健康管理や、医学の進歩の恩恵を被っているかも知れない。
そんな中で、昔の人のように老けて見えるのは、生きる目的を失ってしまっている人である。
自分に人に誇れるような大きな生きる目的があるわけでは無い。
ただ、今研究している学問が成し遂げるまでは、惚けたり死んだりはできないと思っている。
そして、自分の教え子などの中には、私の成そうとする学問をいくらか引き継いでくれそうな人もいる。
自分が追い求めてきた学問と理想の暮らしを実現するために、還暦を機会に甦るつもりで猪突猛進したいと思っている。






2018年12月29日土曜日

黒ニンニクの力

以前書いたように、しばらく黒ニンニクを食べていなかった。
精神的な落ち込みが続いたので、黒ニンニクを再び食べ始めた。
そうすると、不思議にも落ち込みが無くなってきた。
ダメ押しで、アルギニンのサプリも摂るようにして、意欲も湧いてきた。
以前見たネットでは、黒ニンニクの効果は、やめてみれば分かると載っていたが、それは事実だった。
若い時には、有り余るエネルギーをセイブする方が大変なときもあった。
年を重ねた今は、エネルギーを引き出すのが難しくなってきている。
特に精神面への影響は大きい。
黒ニンニクは今の私にとって、必需品になっているようだ。

黒ニンニクは普通、一片で良いのだろうが、私の場合は房の半分以上食べる。
自分の家ですべて作るので、高額の負担にはならない。
もし、買った黒ニンニクなら、毎日300円くらいの額になり、一月9000円と言うことになる。
そうすると、1年間で108、000円であるから、馬鹿にならない。
ニンニクが苦手な家内も、黒ニンニクは私が勧めると、薬を飲むようにお茶で飲み込む。
ある程度、黒ニンニクの効果を期待してくれているのだと思う。
黒ニンニクはがん予防にも良いと言われているので、私はずっと家内や息子に勧めている。

この黒ニンニクも、今年は多く作ったが、炊飯器の蓋がゆるくて、かちかちになってしまったのもある。
今回は、それをむいて焼酎に漬けてみた。
そろそろ呑みごろになったので、試してみたが悪くない。
ニンニクは刻んで、60℃のオリーブ油で熟成させるのが良いことは分かっている。
しかし、その飲食後の臭いは、人迷惑になってしまう。
生徒と接する機会の多い自分には不向きである。
臭いの殆どしない黒ニンニクこそ最強の味方なのである。

2018年12月26日水曜日

結局はSSD

OSがWin10になってから、外付けのハードディスク(HDD)が使いづらくなっていた。
私は、1TBのポータブルの外付けハードディスクを、現在使用している。
どうしても、壊れやすいのでバックアップを欠かさずに、買い換えながら使い続けている。
そして、ドライブ名をXにして、文献を「読んでココ(OCR)」でテクストファイルにして、一太郎で編集し、それをリンクしたノートとして保存していた。
いわば文献ノートのデーターベースであり、自分で活用できるWikipediaを目指していた。
だから、外付けハードディスクは、どのパソコンでもドライブ名Xとして、ハイパーリンクによって活用できた。
これからは確かに、クラウド上でOne Driveをうまく活用することも可能である。
しかし、容量の限界もあるし、アカウントの問題で手間である。
そして、なによりも、膨大なデーターのリンクの変更は相当な労力を要する。

なんとかならないものかと、悩んでいたところ、自分が持って行ったパソコンが家ではうまくいかないのに職場ではうまくいく。
その違いはネット環境にあった。
家ではWiFiを使っているが、職場ではケーブルもWiFiもつながらない、スタンドアロンでの使用である。
要するにネット環境が、外付けの通信を邪魔している可能性があるということだ。
そこで、家では外付けハードディスクを使う時には、機内モードにした。
ところが、職場で機内モードで使うと調子が悪い。
ネット環境が無いところでは、機内モードは使わない方がうまくいった。
そして、もう一つ重要だったのは、私の場合One Driveを使っているので、それもオフにしておく必要があった。

しかし、こういう対策を色々しても、時として反応速度が遅くなってしまう。
全く、気まぐれとしか言いようの無い状態。
今日うまく反応してくれても、明日はどうなるか分からない。
家でうまくいっても、職場でだめな時もあり、その逆もありである。
ネット環境との関連は分かっても、原因が根本的に分かっていないだけに、対策のしようが無かった。
そこでついに決断したのは、SSDへの転換だ。
今個人で使っているパソコンは内蔵型のSSDが用いられている。
その速さを知っているだけに、外付けもSSDにすることにした。
問題は値段だが、ネットで480GBで9000円ほどで買えることが分かった。
念のために近くの電気屋で調べたら、240GBで同じ値段だった。
そこで迷わずネットで買った。
そして、それが本当の解決策になった。
HDDはテレビの録画とか、PCのバックアップにしか使えない時代が来たことが分かった。
何となく、記憶力が落ちた自分を重ねるような気分だった。




2018年12月24日月曜日

手紙

先日、卒業した教え子から手紙が来た。
大学卒業記念の書道展の案内だった。
赤穂高校の全日制で担任した生徒は、現役で大学に入学した場合は、来春卒業である。
今の私にとって、担任した最後の生徒ということになる。
手紙にはクラスが楽しかったことや、私が再び教壇に戻ったことを喜んでくれていることも、書き添えてくれていた。
わざわざ手紙にしたためて、言葉を送ってくれるのは本当に嬉しい。

今のようにメールでやりとりが、普通に行われる前は、手紙を良く書いていた。
おかしなもので、隣の町に住んでいた家内とは、結婚前にもほとんど手紙を書いていない。
会おうと思えばすぐに会えるし、電話でことは済んでいたのである。
やはり、手紙のやりとりをしていたのは、すぐには会えない人とであった。
学生の頃は、遠くの彼女から来る手紙を待ちわびていた。
郵便屋さんのバイクの音がするたびに、心ときめいたものである。
そして、手紙には普段言葉では表せない気持ちが込められていたし、自分も心込めて書いた。
メールも確かにその代用はできる。
しかし、じかに文字を書くことで、文字そのものに気持ちが込められていた。
私は、字が下手で、文字を書くことにコンプレックスがあるので、最近はパソコンで書いて印刷して手紙やはがきを送っている。
心を込めるには、直接文字を書いた方が良いに決まっているのだが・・・

先日勤務先の学校で、1年の担任の先生が、中学校で世話になった先生に手紙を書かせていた。
受け取った先生も嬉しかったようで、機会を見つけて学校を訪問してくれた先生もいた。
手紙には人の心を動かす力がある。
文章を書くのが苦手な生徒であればこそ、なおさらその思いが通じたのである。
去年は喪中の関係で、年賀状は書けなかった。
今年は、手紙ほどの思いは込められないが、せめて年賀状はしっかり出したいと思っている。
なんと言っても還暦を迎えるのだから・・・






2018年12月20日木曜日

谷深ければ

私は定時制の高校に勤務なので、朝は余裕がある。
だんだん寒くなって、起きる時間も遅くなったが、朝のNHK連続テレビ小説「まんぷく」迄には床を離れて新聞を読んでいる。
たいがいは、「まんぷく」を見ながら、朝食をとって、その後でクロと散歩する。
NHK連続テレビ小説はどのドラマも見ているわけでは無くて、気に入ったものしか見ない。
今回のように、毎回見ているのは、「ひよっこ」以来である。
「ひよっこ」は高度経済成長期の一般庶民の姿を描いていて、親しみを感じていた。
今回は波瀾万丈の発明家夫婦をモデルにしたものだが、なかなか見応えがある。
ただ、モデルの発明家が台湾出身であることが、表に出てこないがひっかかってしまう。
「おしん」をアジアに送り出したNHKなのだから、台湾も絡めて描いてほしいと思っている。

「谷深ければ、山高し」というのは、株相場の言葉らしいが、このドラマの実業家の人生にも当てはまるようだ。
私はそこそこの谷に落ちてしまった経験は幾度となくある。
そして、山に這い上がる前に、ずるずるとまた谷に落ちていったような気もする。
ただ、どの時もそばで支えてくれていた人がいたから、何とかがんばってこれたように思う。
私はかつて、東京で生活も破綻し、大学院の博士課程進学を諦めて、アルバイトをしていた。
その時に、子供を抱えたまま離婚して、生活に苦労している女性から言われた言葉が忘れられない。
「人生は、平均すれば、皆同じよ」
つまり、どの人も良い時と悪い時を経験していて、それを均せば同じようになると言うことだ。
まだ、20代半ばの自分が、人生に絶望してしまうのは、早すぎるということを言ってくれたのだ。

あれから30年以上経って、一番大きな試練は、自分の「老い」とどう向き合うかである。
やり直しのきく年代と違い、気力も体力も失っていく自分をどう元気づけるか。
ただ、若い時と違うのは、「人の人生は、平均すれば、それほど変わらない」ことの意味が分かっていることだ。
経済的に裕福な人も、それなりの苦労をしてきたであろうし、そしてそれを失う恐れを抱き続けなくてはいけない。
名誉も、死んでしまえば、その人自身には何の意味も持たなくなる。
これからは無理をせず、自分の生きがいを求め続けるしか無い。
それが私にとって、ずっと何十年も続けている研究なのである。
高校生の中には、「自分がやりたいことが見つからない」と言う生徒もいる。
私にはそれがあるだけ幸せなのかも知れない。







2018年12月18日火曜日

書道に白衣

失敗をしてしまった。
白衣を着たまま、書道の手伝いをしてしまった。
おかげで新品の白衣には、墨のシミがいっぱいついてしまった。
たぶん、これは洗濯しても絶対落ちないであろう。
ふと、その手伝いをしている時に、思い出したのは「○○の白袴」ということわざだった。
他の職員に尋ねたら、「紺屋の白袴」と教えてくれた。
意味としては、その時はよく分からなかったが、場違いの服装という意味では無いことが分かった。
後で調べてみると、「他人のためにばかり働いて、自分のことに手が回らないこと。」であった。
白衣は染めるための物では無いので、このことわざにはふさわしくはない。
ただ、自分のことに手が回らない教師は、同じように多いと思った。
それは、「医者の不養生」の方にに近くて、生徒には立派なことを言いながら、自分ができていない。
特に自分を含めて、健康管理ができていないように思う。

私は健康管理を怠って、糖尿病になってしまった。
ストレスが多い仕事は、そのストレスを解消する方法を真剣に見つけなければならない。
私の場合は安易に、酒や食べ物にその解消を、見いだしたからに他ならなかった。
聞いてみると20代の若い人でも、健康診断で検査を受けるよう指示を受けたという。
さすがに、私は20代ではそこまでは悪くなっていなかった。
仕事熱心で、まじめな性格の多い若い職員は、意外と健康面で問題を抱えているようにも思えた。

私自身は、健康に気をつけているように思うのだが、それ以上に加齢による体調不調が加わる。
自分の症状を調べてみると、「更年期障害」に近いように思えたりもする。
「スーパー50代」を目指して、走ったり泳いだり、自転車を走らせてきたが、ここのところそれができていなかった。
犬との一時間あまりの朝の散歩で十分と思えていたのだが、今の仕事ではそれでも不十分だったのだろう。
食事の面でも、以前食べていた「黒ニンニク」を食べていなかった。
健康管理というのは、常に自分の生活に関心を持ち続けなければならないと思った。
時に応じて服装を変えるように、運動や食事も年齢や仕事に応じて変えていかねばならない。
そして、ベースになるものは、しっかり守り続けていかねばならないと思った。
今回のように、書道の手伝いに白衣を着ているようでは、だめなのである。

2018年12月16日日曜日

涙する思い

先日、とある新聞社の方と話す機会があり、その方は大学4年間新聞奨学生をしていたという。
私はほんの数ヶ月新聞奨学生をしただけで、恥ずかしいと思いつつ。
当時、私が新聞奨学生として、新聞を配りながら涙したことを話した。
そうすると、その方もやはり新聞を配りながら、涙が溢れたことを話してくれた。
自分は親の反対を押し切って勝手にしたことなのだが、その方は経済的な理由でそうせざるを得なかった。
実は私は高校時代マスコミ関係に進みたいこともあって、新聞奨学生にも応募した。
その方は、新聞奨学生を続けたことがきっかけで、新聞社に就職したという。

定時制の生徒の中には、自分の学業のためと言うより、家族のために働かなければならない生徒もいる。
そんな中で、何のために苦しい思いをして、アルバイトをしているのかと感じていしまうのも当然だ。
恵まれた環境の人たちはいくらでもいる。
なぜ、自分だけがなんでこんな辛い思いをしなくてはいけないのか。
それは、新聞配達をしながら学業を続けていた人にも通じることで、その新聞社の方もそう言っていた。
そんなやるせない気持ちに接すると、涙しか流せない自分がいた。
生徒に教えられた思いがした。
自分のために働ける者の方が、まだ幸せだったのだ。

私は以前のブログで生徒に良くパッチアダムスの映画を見せる話を書いた。
「患者は同時に医者である。」
つまり、病院は医者が患者に一方的に治療するところでは無くて、患者から医学を学ぶところでもある。
これは学校も同じであった。
教師は一方的に生徒に教えるのでは無くて、生徒から教育を学ぶところである。
これは子育てをする親が、子育てを通して親として成長するのと同じなのである。

辛い思いをしている生徒には、何もしてあげることはできないかも知れない。
ただ、その思いを少しでも受け止めて力添えできることが、せめて教師にできることなのかも知れない。
単純労働者を外国から受け入れることによって、ますます不遇な境遇の生徒は追い詰められるかも知れない。
それなのに、新聞社の方によると、今は新聞奨学生への応募者も殆どないそうだ。
つまり、恵まれた境遇の生徒が多い一方で、辛い思いをしてでも学業を続ける段階まできていない生徒もいる。
社会は不平等の両極に引き裂かれているのかも知れない。
そして多くの教師自身も、長時間の仕事で涙する力さえ失っているのかも知れない。


2018年12月13日木曜日

体感温度の違い

今職場では、私の席の近くにガスストーブがある。
私の家では真冬でも、室温をあまり高くしておらず、体は寒さに慣れている。
だから、温度が高い職場が辛くなっていた。
以前勤めていた普通校では準備室があったので、教壇に立つ以外では、そこで主に仕事をしていた。
しかし、今の職場のように準備室が無いところでは逃げ場が無い。
そして、もっとストーブに近い若い人は、その温度が苦痛ではなさそうなのである。
その職員は普段から、汗も殆どかかないそうである。
改めて体感温度の違いを思い知らされた。

私は、今はできないでいるが、真冬でも温水プールに入ってい泳いできた。
今は、朝に愚犬クロと散歩して汗をかくので、必ずシャワーをしている。
湯冷めで風邪を引くと言うことはまず考えられない。
思い出すのは、母校の淳心では中間体操というのがあって、真冬でも上半身裸で校庭を走っていた。
雪がちらついて、寒風の吹きすさぶ中を走っていたのを思い出す。
だからといって、寒さに特別強いわけでは無く、温暖な赤穂に生まれ育ったので、寒い上郡に来た時は、寒さに震え上がった。
ただ、30年近くも住み続けると、体が寒さに適応するらしい。
そして、逆に冬場の暖房への適応力が落ちている。
だから、これからは服装で対応するしか無い。
薄着になって袖をまくったりしているが、職員室をでると非常に寒い。
この寒暖の差が結構こたえる。
だから、服を着たり脱いだりこまめにしなければならない。
いっそ、ポンチョでも着るか・・・


2018年12月11日火曜日

お墓に納骨

義父が亡くなって1年が経ち、一周忌の法事が営まれ、墓への納骨も行われた。
これまであまり気にしていなかったのだが、集まってくる親戚は殆ど県外である。
我が家の3人と、一人暮らしの義母を除いて、広島と千葉、奈良、そして娘の香川ということになる。
家内の両親は広島県の出身なので、親戚の殆どは広島県である。
葬式の時には近所の人も来てくれていたので、あまり感じなかったのだが、考えてみれば49日、初盆も県外が殆どだった。
新幹線や車を使って遠くからわざわざ来ていただいている。
自分の父親の法事では、赤穂の親戚が中心となるので、その違いを改めて感じた。

相生は造船所に勤める人の関係で、方々から移り住んだ人が多い。
その中には朝鮮半島から渡ってきた人もいる。
今回も墓地に設置されていた朝鮮半島から来てなくなった人の慰霊堂を改めて知った。
義母の葬式の時も、行い方が赤穂や上郡とは違い近所の人との関わりが薄いとは感じていた。
実は私の母も祖母も相生で長く暮らしていた。
私の父親は相生の造船所に勤めていたので、相生とは関わりが深い。
自分自身も相生には仲の良い同級生がいたし、今もその同級生に歯を治療してもらっている。
それほど関わりがあっても、相生での様子を知らずにいた。

義母の思いもあって、相生の墓地に墓を建てて義父の納骨を行った。
山の上の墓地には立派な墓がたくさん建ち並んでいた。
ただ、跡継ぎの息子夫婦が千葉にいて、将来この墓を管理することはできない。
おそらく家内がすることになるだろう。
法事の時にお坊さんと話をしていて、お寺に残された江戸時代の墓を整理した話を聞いた。
古いお寺では、お墓を管理する人がいなくなって、お寺で整理せねばならないようだ。
墓を造りたいという気持ちはよく分かる。
私の住む村の共同墓地でも無縁墓が多くて、それをどうするか困っているそうだ。
この地で頑張って生きて、その生きた証を残してあげたい。
しかし、現代では同じ土地に留まって、家を守り続けることはかなり難しい。
赤穂に生まれながら、上郡に暮らす私とて同じような立場である。

昔ながら一部の特権階層しか建てられなかった石墓を、一般庶民も建てられるようになったのは良いことかもしれない。
しかし、現代はその特権階層だった人でも、墓を守り続けることは難しい。
「人間到る処青山あり」とする現代は、後生に残す石墓はふさわしくないのかも知れない。
むしろ、生まれ変わりをの思想をもって、お寺の納骨堂に納めてもらうか、山野河海に散骨された方が良いようにも思える。






2018年12月6日木曜日

鉄道旅の一番の思い出

このごろよく鉄道旅の番組が放映される。
必ず見るのは、NHKの「六角精児の呑み鉄本線・日本旅」である。
実は自分も学生時代に青春切符を使うことが多くて、非常に時間があるし、風景を楽しむためにビールなどを飲んでいた。
その時は必ずトイレの近くの車両に乗っていた。
特に憶えているのは、帰省で名古屋から赤穂に戻る時に、わざと関西本線を使って飲みながら帰ったときのことだ。
関西線は景色もよくて、ちょうど旅する人と相席になって、話をしたりしたが、その人は当然飲まなかった。
新幹線などではよく飲む人を見かけるが、鈍行ではあまり見かけない。
鈍行の旅での呑み鉄は、少々肩身が狭いと感じた。
私は、鹿児島から赤穂、東京から赤穂や、四国一周など多くの鈍行の旅をした。
サークルの仲間などの友達と一緒の時もあったが、たいていは名古屋近辺であった。
長旅はたいてい一人旅で、鈍行以外にも寝台列車にも良く乗った。

一番楽しかった思い出としては、やはりまだ小さかった子供たちと一緒にいった東京旅行である。
これは家内の弟の結婚式に出るついでに、子供を浅草・上野や、NHK放送センター、ディズニーランドに連れて行ってやった。
姫路駅から新幹線に乗ったのだが、その時の様子はビデオカメラに収めており、思い出したように何度も見返す。
駅で列車を待つ時の様子や、車内での様子、特に車内で弁当を買って食べている様子などが懐かしい。
私は車外の風景も時折入れていたので、風景と共に楽しめたりする。
子供たちと新幹線に乗って旅に出たのは、この一度限りであった。
それ以外は、車で出かけることが殆どだった。
だから、一生に一度の我が子との鉄道の旅となった。

近年は豪華列車の旅が宣伝されていて、高額な費用を1泊や2泊で使っている。
確かに一生に一度そういう豪華な旅をするのも、良い思い出になるかも知れない。
だけど、ささやかな旅でも、子供や孫と一緒に旅行する方がどんなにか楽しいだろうと思う。
自分にはまだ孫がいないが、自分の親たちは孫と旅行できるのを楽しんでいたのを思い出す。
ただ、普段仕事に忙しかったり、孫の世話に明け暮れている人には、夫婦二人でゆっくり過ごすのも良いのかも知れない。
自分たちには高額の費用を負担する余力が無いので、格安航空やレンタカー、そして鉄道をうまく活用して、気楽な旅をやってみたいと思っている。
それまでに、金の代わりに心身の余力を蓄えておかねばならないt思っている。


2018年12月4日火曜日

ワークマンとモンベル

私は以前から農作業に使えるのでワークマン(WORKMAN)で衣類を買うことが多かった。
これは農作業以外でも、犬の散歩などで汗をかくちょっとした運動にも適していた。
特に、アンダーウェアは暑さや寒さの対策に適しており、機能性と耐久性をかねてしかも手頃に思えた。
また、長靴などや手袋も他では買えない良いものがそろっている。
ただ、教壇に立つ時には、アンダーウェアはともかく、作業着はさすがに着ることははばかれた。
特に今の職場は、職業科の先生が本格的な作業着を着こなしているので、中途半端な格好はみっともなく思える。

そんな時に良いと思えたのは、モンベル(mont bell)の衣類である。
モンベルは以前にSUP用のウェットスーツを買ったことがあった。
それ以外はなじみが無かったのだが、以前に勤めていた職場の制服のパンツに使われていた。
そのトレッキング用の黒パンツは各自二着ずつ貸与されて、着古しているので結局やめる時は返さなくて良いことになった。
これは非常に着心地がよくて、ちょっとした作業や運動にも使える。
しかも、普通の作業着よりも見た目が良くて、ポケットにチャックがついていて便利である。
このところ、ずっと愚犬クロとの散歩用にはいていた。
私の秋の散歩姿は、モンベルのトレッキングパンツと迷彩服の上着、登山用の帽子だった。
まるで、山歩きか猟に出る格好であった。

この頃、寒さも増してきたので、ナイロンのオーバーパンツをはくようになり、モンベルを職場ではくことにした。
私は白衣を着ているので、白衣の下はあまり目立たない。
本当はジーンズでもはきたいところだが、それは少し抵抗を感じるので、モンベルのパンツがちょうど良い。
そこで、冬用にと思い岡山のモンベル店に出かけた。
姫路にもあるが、岡山の方が断然規模が大きい。
やはり、値段がワークマンとは違っていた。
普段買っているワークマンの作業ズボンの三倍以上の値段だった。
それでも思い切って一着買ってみた。
夏用のパンツの良さを知っていたからである。
農作業着はワークマン、仕事着はモンベル、カジュアルはショットやユニクロというような買い方がどうも自分には理想に思えた。





2018年12月2日日曜日

越夏ジャガイモ

今日(12/1)の午前中に赤穂の畑に行ってジャガイモを掘った。
実は、今年は春先に植えたジャガイモを、夏の初めに掘り起こしきれなかった。
その時期は、当時閑谷学校の職員であったので、非常に忙しく、身体的に余力が残っていなかった。
梅雨時分にかかるジャガイモ掘りは、毎年重労働にはなっていた。
無理をして、熱中症になってしまったこともある。
それは、汗をいっぱいかいたのに、十分水分補給をせずに、上郡の家に戻った。
その結果、途中から寒気や頭痛がし始めて一日寝込み、疲労感が回復するのに数日かかったように思う。

だから、ジャガイモ掘りは無理をせずに、場合によってはそのまま放っておく。
夏を越しても、早めに掘れば何とか食べられる。
しかし、秋ジャガイモが芽を出し始める時期になると、ジャガイモは大根のように固くなってしまって食べづらい。
今年は、夏の終わりは、スイミングスクールのコーチをしており、やはり身体的に余力が無かった。
それで、ジャガイモどころか、殆ど赤穂の畑は雑草地と化していた。
その中で、ジャガイモがすくすくと大きくなりだしたのである。
実は、芽が出始めた頃に、一度雑草と一緒に刈ってしまっているので、二度目に出た芽が伸びたというのが本当である。
だから、成長は本来秋ジャガイモで植えるものより遅い。
それでも、今年は暖かかったので、霜にやられずにまだ青々している。
そして、掘ってみると、そこそこ大きなジャガイモが新しくできていた。

種芋になった掘り残した親ジャガイモは、最初は捨ててしまおうと思った。
しかし、本来種芋はしなびてしまうものなのに、大きいのである。
ひょっとして、里芋のように親芋が生長したのかも知れないと思って。持って帰ることにした。
食べられなくても、種芋になりそうだと思ったからである。
結果的には、新ジャガイモと親芋は同じくらいの量になってしまった。
これで、新芋も親芋もうまく活用できたら、この越夏ジャガイモは一つの栽培方法にできるかも知れない。
本当は、秋ジャガイモとして、きちっと種芋を植えるべきなのだが、無精農法としてありかなとも思う。