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2019年3月31日日曜日

桜の咲き別れ

桜の咲く頃には新しい出会いがある。
私も記憶をたどれば、恋人との出会いにも桜が花を添えてくれていた。
それは、青春真っ只中だけで無く、ときめく心には歳など関わりは無かった。
しかし、その記憶と同じように、別れの場面にも桜の花が添えられた。
父親を亡くした時にも、桜が咲いていた。
長くそばにいた仲間や恋人との別れ、娘が巣立っていった時も桜が咲いていた。
出会いと別れの景色の中に、桜は花を添えてくれる。
だから、桜はどの花よりも愛されるのかも知れない。

近所のお寺の門の近くでは、大分前からしだれ桜が咲いていた。
今はやっと、ソメイヨシノが咲き始めているのにである。
季節を先取りしてしまうと、何か寂しげでもある。
まだ、春でもないのに、満開になってしまった桜。
咲くには早すぎた桜だけれど、梅の花にはかなわない。

何にしても、時期を間違えてしまうと一人取り残されてしまうのが常なのかも知れない。
それは人生そのものにおいてもそうである。
結ばれる時期を誤って、暮らしに疲れて、別れてしまう恋人たち。
仕事を一人で背負い込んで、立派に責任を果たしながらも、夭逝する勤労者。
スポーツマンにしろ、研究者にしろ、名をはせながらも消えて行ってしまった人は多い。

私は毎年、この桜の咲く頃に心が揺さぶられてしまう。
一年の始まりが、冬至の近くの正月であるのに、日本では異動に関わる年度の始まりは4月だからだろう。
今年は、4月から一ヶ月後に年号も変わる。
桜は時代が変わる前に、時代への別れに花を添える形になった。
私にとって平成は仕事と子育ての時代だった。
新しい年号を前に、私も60になり、変わることを余儀なくされる。
来年の桜が咲く頃は、大きな出会いと別れが、私を待っているのだろうと思う。

2019年3月29日金曜日

梅と共に逝く

梅の花が庭先で咲き、それが散る頃その主【あるじ】は一人ひっそりと亡くなった。
主はずっと一人暮らしで、最近は持病を悪化させていた。
聞くところによると、電話、電気、水道も止められており、近くのコンビニが命綱だったようだ。
主は決して、借りていた家の中に人を入れることが無かったので、民生委員の人やお巡りさん以外は様子を知る人が無かった。
ただ、家の前には梅などの木々や花が植えてあり、一人で世話をして楽しんでいる様子を見ることが多かった。
亡くなった後入ってみると、家の中はゴミの山で、足の踏み場もなかったという。
たぶん、ゴミ袋を買う余裕も無かったのだろう。

主は元々は、クリーニングを営んでいたのだが、廃業して以来いろいろな仕事を転々として暮らしていた。
生活保護を受けるのを拒んで、貯金を頼りにしていたようだ。
それでも、数度は生活保護も受けたという。
年金の手続きをせずに、多額残された形になっていたそうだ。
要するに、主は自分が直接貯めていたお金だけで暮らそうとしていたようだ。
ただ、病気を患ってからは、民生委員の人にお世話になっていた。
それでも、時々歩く姿を見かけることがあった。
若い頃は自転車の選手もしたというスポーツマンだったが、自転車を盗まれてからは歩くことが多かった。
以前は健康のために、駅まで往復12kmを歩くのを日課にしていたこともある。

私は主とは話をする機会は何度もあったが、苗字以外は知らなかった。
亡くなって初めて、フルネームと年齢を知った。
年齢は74歳だった。
知った人の中では、60歳前後で亡くなる人も多く、それに比べれば長生きした方に思えた。
また、身寄りが無いのかと思っていたが、近くや遠くに兄弟がいた。
今回は、その遠くの兄弟によって葬られることになった。
主は兄弟とも関わりを持たず、一人で暮らしていたが、決して孤独な様子では無かった。
周りの人とも仲良く関わっていた。
そして、無くてはならない景色の一部になっていた。
主の姿は、この景色から消えてしまったのだが、これは誰もがもつ運命と同じである。
金に不自由なくても、短命で終わる人もいるし、金が無くてもそれなりに長く生きることもできる。
主は、その一つの生き方を景色の中で、見せてくれていたのだと思う。

2019年3月26日火曜日

私の原点「コンチキ号探検記」

今、オセアニアに関する文献を読んでいるが、その中でT.ヘイエルダールの「コンチキ号探検記」が登場する。
ポリネシア人の起源を南米インカに求める筏による探検記だ。
私は小学校の三年生の頃、クラスの後ろにある学級文庫の中から、小学生向けに書かれたこの本を手にした。
非常に面白くて、わくわくしながら読んでだのを憶えている。
それが、人類学と関係していたのを知ったのは、大学で文化人類学を専攻し始めての頃で、すっかり忘れていた。

実は、私は大学時代は琉球、特に奄美を研究してきたが、大学院では当初はオセアニアのニューギニアを研究する予定だった。
当時はインドネシアの研究が盛んで、大学院の先輩も多くいたので、避けてニューギニアにしただけである。
しかし、当時の私にはニューギニアは手に負えなくて、結局奄美で修論を書くことにした。
それ以来、ニューギニアともオセアニアとも殆ど縁が無くなった。
しかし、日本や琉球を知る上で、オセアニアの研究は非常に参考になることに気がついた。
そんな中で、久しぶりに「コンチキ号探検記」の名前を目にしたのである。

小学生の時に読んだ本が、後の自分のライフワークに繋がっていたとは、妙な縁だと思う。
そこから得たのは、わくわくする冒険心だった。
それは、村落調査で奄美に渡った時と通じるものがある。
齢を重ねて、引きこもりがちになる心身だが、もう一度原点に戻らねばならないと思う。
三浦雄一郎さんのようにエベレストに登るほどのことはできなくても、またフィールドに戻ることは可能だ。
「コンチキ号探検記」の文字はそう自分に言い聞かせるきっかけとなった。

2019年3月24日日曜日

カップヌードルの思い出

朝のNHKドラマの「まんぷく」は、やっと「まんぷくヌードル」が完成した。
これは、カップヌードルのことだが、カップヌードルには特別な思い出がある。
私はインスタントラーメンは、子供の頃からずっとお世話になってきた。
その殆どが、鍋で沸かして作るラーメンで、一番お世話になったのは、大学時代の安いラーメンだ。
お金が無くて、一日三食ともラーメンを食べたこともある。
ただ、奄美に村落調査に行く時には、さすがにカップヌードルに頼るしか無かった。
カップヌードルは今でも値段が高い。
カップに入っていなければ、その値段の半額でラーメンは食べることができる。
しかし、奄美に行くフェリーの中では、カップラーメンが一番安い食事となった。

自動販売機でカップヌードルを買って、船室で仲間と食べた。
普段の生活からすれば贅沢なのだが、旅行と言うことになるとわびしい。
全ての食事をカップヌードルで済ませたわけでは無いけれど、フェリーでの食事と言えば思い出す。

今でもカップヌードルは贅沢品である。
普通のカップ麺は、100円程度で買えるのに、130円ほどするからだ。
量的にも物足りない感じがするので、カップ麺が必要な時は、安くて量の多いカップ麺を食べている。
テレビでカップヌードルがドラマになっておいしそうでも、買おうとは思わない。
自分にとっては、カップヌードルは特別なラーメンなのである。
いったい、これから先にどんな時にカップヌードルを食べようと思うのか?
たぶん、やはりフェリーの中だろうと思う。
船旅はおなかもそれほど空かないので、カップヌードルの量で足りるし、少し贅沢な気分になれるからだ。
いつその日が来るのか、楽しみにしておこう。

2019年3月22日金曜日

娘の誕生日

娘は3月に生まれた。
生まれた日のことは、昨日のように憶えている。
明け方に家内が産気づいて、急いでかかりつけの産婦人科に連れて行った。
満月の綺麗な夜だった。
まだ、息子は2歳で、眠っていたので、そのまま寝かしておいたのだが、帰ってくると玄関に立って待っていた。

私は娘の誕生日のことは、気にはしていたのだが、過ぎてから家内がメールを送ったと言われるまで忘れていた。
その代わり、このところどういうわけか、娘の夢をよく見ていた。
朝のNHKドラマの「まんぷく」では、夢枕や夢をよく使うが、夢はその人の情緒を描くのに適している。
いつも、自分の若い頃と比べて娘のことを考えている。
それが、夢の形で現れたのだろうと思う。

自分は娘と同じ年の頃は、親のことを殆ど考えていなかった。
娘は既に就職して自立しているが、私は不安定な状況だった。
自分のことを何とかすることで、精一杯で親のことを考える余裕さえ無かった。
おそらく、娘も仕事や生活のことで、親のことを思う余裕が無いのだろうと思う。
そのころ私の親は、不安定な状況の息子を心配していたのだろうと、今更思う。
これは、私が娘を心配しているのと同じである。
この繰り返しが、家族というものなのかもしれない。
誕生日は、生まれた本人よりも、生んだ親を思う日だとよく言う。
この年になって、それが分かるようになったのだから、ずいぶん身勝手な人間だなと反省しきりである。
娘は私よりも早く、それに気づいて欲しいとは思うが、私の娘だから・・・

親子将棋

最近は藤井聡太七段の活躍で、将棋がマスコミに多く取り上げられるようになった。
まさしく将棋人気なのだが、私は長いこと将棋を指していない。
子供の頃は父親と良く将棋を指していた。
父親は職場の昼休みに将棋を指していたので、そこそこ強く、また早指しだった。
次の手を考えるのに私が時間をかけすぎると、よく馬鹿にされていた。
「下手な考え、休みに似たり」といつも言われた。
父親に負けるのが悔しくて、何とか勝とう思ったが、高校生くらいまでは勝てなかった。
代わりに弟と将棋をして、そちらでは勝てたので、その鬱憤は晴らしていた。
その代わり、鬱憤の貯まった弟は時々負けると、将棋の駒をぐしゃぐしゃに巻き散らかした。

今考えると、ドライブなどで出かけることの少なかった家族団らんの時だったのだろうと思う。
私の息子は将棋は苦手で、パソコンなどでゲームをしたりして楽しんでいる。
以前は職場などに将棋盤が置いてあったが、今は見かけることも無い。
将棋がしたい時は、将棋ゲームをすれば一人でも楽しめるようになった。
将棋は二人でするのだが、その周りにも指南役がいたりした。
特に、父親は兄弟で将棋を指していると、色々と口を出してきた。

こうした世代を超えた楽しみが将棋だったのだと思う。
せっかくブームになっているのだから、親子や友達とへぼ将棋をしても良いのでは無いかと思う。
ただ、負けるのが大嫌いな私には、将棋を楽しむことはできないだろう。
勝ち負けにこだわる癖を、なくそうとは思うのだが、反面それが無いとやりがいが無いことも確かだ。
とりあえずは、将棋ゲームから始めるしかないかな・・・

2019年3月17日日曜日

相生との縁

今私は相生市で働いている。
私は相生とは関わりは多かったのだが、住んだことも働いたことも無かった。
相生は母親が子供の頃育った町である。
そして、父親も船乗りをやめてから、ずっと相生の造船所や発電所で働いていた。
また、家内も相生生まれの相生育ちである。
私自身は、小さい頃から、相生に住んでいた母方の祖母の家に、よく泊まりがけで遊びに行った。
子供の頃は相生には電車で行くしかなく、赤穂線ではトンネルを3つも越える遠い別世界に思えた。
祖母が住んでいた会社分譲長屋は、皆同じように家が並んでいるので、時々間違えた家に入っていったこともあった。
それでも直ぐ近くに商店街があって、当時住んでいた赤穂尾崎からすると都会に思えた。
何より楽しみだったのはペーロン祭りで、家族みんなが泊まりがけで楽しんだ。

中学校から姫路に電車通学した関係で、通学の相生駅は途中の駅になった。
塾も相生の塾に通っていたが、半年もしない内にやめてしまった。
ただ、その塾の先生は強烈な個性の方で、色々と刺激を受けた。
特に、霊体験の話は後々まで私の脳裏に染みついて離れなかった。
相生には中学高校と友達や仲良くしてもらった先輩がいた。
とにかくIHI関連の町で、先輩のお父さんも後で、工場長さんだったと知った。
一度だけ、IHI関連の人たちが集うホームパーティーに友達と招かれて、ハイソサエティな別世界を体験した。
私はその後、IHIと関係はしなかったが、その場にいなかった弟は、大学卒業後にIHIへ入社したのだから縁はある。

祖母の家族は赤穂に引っ越ししてきたので、大学進学後は殆ど相生とは縁は無かった。
ところが、赤穂に戻って教員をし、相生に関係する家内と結婚して、再び相生とは関わりが深くなった。
家内の両親は広島出身なので、家内は広島弁の混じった相生弁を話す。
つまり、住んでいるところは相生でも、家の中は広島であった。
だから、家内の実家に行っても、子供の頃の祖母の家とはまるっきり雰囲気は違っていた。
といいつつ、祖母は赤穂の福浦出身だったので、純粋の相生とは言えなかった。
相生はIHIの企業城下町で、いろんな地方から人が集まってきていたので、当然と言えば当然だった。

今勤めている職場では、職員で相生出身者は誰もいない。
他の職場では、相生生まれの相生育ちの人とは関わりはあった。
相生生まれの相生育ちで相生と関係している知人は、中学高校の同級生で相生で歯医者をしているS君だけだ。
ただし、S君は相生に住居を構えていなくて、実家の近くに歯科医院を開業した。
彼以外の相生の同級生は、教師や役場勤めで相生に暮らしている者もいるが、職場は相生ではない。
こういう自分も赤穂に生まれながら、上郡に住んで、今は相生で仕事をしているわけだ。
いっそ姫路のように、赤穂、相生、上郡が合併しても良かったはずなのだが、結局、何の思惑があってか一つにならなかった。
この2市1町は互いに深い関わりを、住民自体がもちながら一つになれない地域である。
中世に栄えた上郡、近世に栄えた赤穂、近代に栄えた相生の歴史のなせる業なのかも知れない。







2019年3月11日月曜日

備前長船清光

テレビを視ていて偶然大石内蔵助の愛用の刀が、備前長船清光であったと知った。
自分の名前が刀の名前から来ていることは知っていた。
母親が人から聞いたことをよく言っていたからだ。
それが大石内蔵助と関係しているとは知らなかった。
赤穂の剣道を通じた同年代の知人の中には、自分と同じ清光という名前の人もいる。
私の名前は、名前を見てくれる人から父方の祖母が、選んでもらってきた名前である。
母方の祖母は、拝んでいる時に光が差してきたので、「照」という字を使った名前にしたかった。
結局、その「照」は弟の名前に使われた。

私も少しは剣道を嗜んだので、刀には興味を持っている。
今は、女性にも人気のある工芸品として話題になっている。
工芸品としての美しさはそれはそれなりに素晴らしいが、切れ味の素晴らしさも重要だと思う。
当然、私は真剣を維持する財力と余裕は無い。
私は、農作業で大鎌や鉈を用いて切れ味を楽しんでいる。
竹は刃の角度をきれいに斜めにあてると、本当に綺麗に切れる。
背丈ほど生い茂った雑草を大鎌で切る時には、まさしく合戦気分である。
刃先を上手く当てないと、まともに切れない。
剣道での竹刀は丸いので刃先を意識しないで叱られるが、実際に大鎌で草刈りをさせると分かるだろう。

赤穂に生まれ育ち名刀の名前をつけてもらいながら、私は剣道は下手極まりない。
因みに、私と同じ清光という名の人は、剣道の達人である。
剣道が駄目な分、私は農作業で腕を磨いている。
当然、武士の家系では無いのだから、身分相応と言うべきか・・・




2019年3月8日金曜日

ひねもすのたり農作業

2月中旬の土曜日(2/16)は農作業にはもってこいの天候だった。
赤穂の方の畑には現在ニンニクを植えている。
種を植える時に、マルチをしていたら良かったのだが、マルチもせずに急いで植えたので、その後草に覆われてしまった。
1月にも一度、草を抜きに来たのだが、その後もしっかりと生えてきた。
このところ、雨や暖かい日和が続いたので、草にはもってこいのコンディションとなていた。
土曜日はクロの散歩を済ませた後、赤穂のホームセンターで肥料を買ってから、畑に着いた。
肥料は、これから植えようと思っているジャガイモ用であり、畑の小屋に置いておくつもりだ。
草抜き用のホーを片手に、ニンニクの周りに生えた草を抜き始めた。
草抜き作業は退屈なので、小さな携帯ラジオをポケットに入れて、イヤホンで聴いた。
土曜の昼前の時間は、征平・吉弥の土曜も全開!!』(ABCラジオ)を聴いている。
ラジオ聴き、春の日差しを背中にいっぱい浴びながら、しぶとい草を抜いていった。
まだ、完全には抜ききってはいないが、正午を過ぎたので帰ることにした。
家に戻ると、農作業の後のおいしい第三のビールを飲んだ。
休日の農作業後の昼ビールは、普段よりも幸せを感じさせてくれる。

この3月初旬の土曜日(3/2)は、赤穂の畑に行って、小型耕運機で鋤きに行った。
うちの畑のお隣さんは、自転車屋のご主人だが熱心な方で、この日も農作業を行っていた。
やはり、私と同じようにジャガイモを植えるための下拵えである。
私は、とにかく何も植えずに草が生えているところを一度鋤いてから、先週買ってきていた有機石灰や菜種滓を植えようと思うところに撒いた。
畑を南北に行ったり来たり、今回は急いできたのでラジオは忘れてきた。
一番力がいるのは、畝を立てることで、平鍬を使って溝を掘っては土を盛り上げていった。
カラスが土の中の虫を狙ってやってくる。
セキレイもやってくるが放っておく、カラスだけは追い払う。
カラスは畑のビワの実を食べてしまうので、いわば敵なのである。
そうこうしているうちに昼も過ぎてしまい、午後一時になってしまった。
お隣さんはとっくに帰ってしまっている。
家に帰ると、家内も昼食を待ってくれていた。
そして、いつもの第三のビール。
これが農作業の最高のご褒美なのである。
夏の暑い時期の農作業は辛いが、初春のひねもすのたり農作業は良いものだ。




2019年3月6日水曜日

御津綾部山梅2019年

梅が咲くこの季節になると、御津町の綾部山の梅林が気になる。
いつも、期末試験中に年休が取れるので、それを利用して家内と出かけている。
今年は、2月の下旬ということになった。
いつもの年は3月上旬が多い。
今年は、行く前に弁当を買っていくことにした。
綾部山に行くルートはいつもいい加減で、去年もたまたまそちらに向かう送迎のマイクロバスの後を追っていった。
今年も適当なところで、綾部山に向かう路地を通り抜けていった。
良い道路や陸橋は去年同様建設中で、完成にはしばらくかかりそうである。

綾部山入り口付近には菜の花畑がひろがっていて、そこには多くの人が花を摘んでいた。
梅だけでなく、菜の花も見せるところが心憎い。
平日だと言うこともあって、人出は大したことは無かった。
今年は暖かいといっても、まだ梅はつぼみが多くて、満開とは行かない。
しかし、しっかりと梅の香りがあたりいっぱいに漂っていた。
何よりも、それほど暖かくないので、坂道を登ってもそれほど熱くならない。
私は薄着にダウンジャケットを羽織って、いつでも脱ぐことができるようにしていた。
家内は靴下の分厚いのをはいていて、展望台まで上がると暑いと言って脱いでいた。
この展望台はいつも人が多いのだが、この日は少なかったので、ベンチに座って弁当を食べることができた。
梅は大して咲いていないが、海の見える絶好の景色をおかずに食べる弁当は本当においしい。

弁当を済ませて、いつもの島の見える展望コースにいき、そこから戻って食堂に行った。
休日なら島の見える展望コースにも飲み物のサービスがあるのだが、平日は食堂だけである。
今年は猿回しも平日にそこでやっていたが、ちょうど昼食の休憩中だった。
いざ、甘酒を飲もうと家内は引換券を探したが見当たらない。
鞄の奥の方にしまい込んでいて、やっとの思いで探し当てた。
甘酒を飲まないと、綾部山に来た気がしない。
殆ど梅ジュースを選ばないが、暑くて一度だけどうしても喉が渇いて飲んだことがある。
家内は甘酒が薄くなったと言っていたが、普段甘い物を食べない私には十分濃かった。

この綾部山の景色が朝のNHKニュースで、空中から映像として報じられた。
黄色い菜の花畑と、色が濃くなった梅山が見事に映し出されていた。
家内は思ったより山は高いと、今更納得していたが、空中からの映像は私には平坦に見えた。
この放送で、これからたくさんの人出で賑わうだろう。
そしたら、駐車場付近の屋台で暇そうだったお兄さんたちも一稼ぎできるに違いない。
猿回しのサルも大活躍できるだろう。