私も記憶をたどれば、恋人との出会いにも桜が花を添えてくれていた。
それは、青春真っ只中だけで無く、ときめく心には歳など関わりは無かった。
しかし、その記憶と同じように、別れの場面にも桜の花が添えられた。
父親を亡くした時にも、桜が咲いていた。
長くそばにいた仲間や恋人との別れ、娘が巣立っていった時も桜が咲いていた。
出会いと別れの景色の中に、桜は花を添えてくれる。
だから、桜はどの花よりも愛されるのかも知れない。
今はやっと、ソメイヨシノが咲き始めているのにである。
季節を先取りしてしまうと、何か寂しげでもある。
まだ、春でもないのに、満開になってしまった桜。
咲くには早すぎた桜だけれど、梅の花にはかなわない。
何にしても、時期を間違えてしまうと一人取り残されてしまうのが常なのかも知れない。
それは人生そのものにおいてもそうである。
結ばれる時期を誤って、暮らしに疲れて、別れてしまう恋人たち。
仕事を一人で背負い込んで、立派に責任を果たしながらも、夭逝する勤労者。
スポーツマンにしろ、研究者にしろ、名をはせながらも消えて行ってしまった人は多い。
私は毎年、この桜の咲く頃に心が揺さぶられてしまう。
一年の始まりが、冬至の近くの正月であるのに、日本では異動に関わる年度の始まりは4月だからだろう。
今年は、4月から一ヶ月後に年号も変わる。
桜は時代が変わる前に、時代への別れに花を添える形になった。
私にとって平成は仕事と子育ての時代だった。
新しい年号を前に、私も60になり、変わることを余儀なくされる。
来年の桜が咲く頃は、大きな出会いと別れが、私を待っているのだろうと思う。