今回夏井いつき氏の講演を聞く機会を得た。
実は、私は俳句には全く興味が無くて、有名な方であるにも関わらず、全く知らなかった。
元教員から、俳人になられたということで、私が果たせなかった転身を立派に成し遂げられた大先輩でもある。
ただ、講演でも言われていたが、退職には不安はあったようで、ネット情報からでは、家庭の事情でやむを得ずということらしい。
それを機会に、新しい道を切り開いて、第一線で活躍できるというのは、尊敬すべき方である。
講演の話の中で、学校で行われた俳句会の逸話を語られていた。
小学生が俳句会で、親が離婚して母親と離れて暮らす自分の思いを精一杯託した俳句に込めたエピソードのことが、心を打ち涙がこぼれた。
普段の言葉では表すことが出来ないことを、託せる一つの手段が俳句だと思った。
俳句は短いから、それだけ思いを凝縮できるのだろう。
和歌や詩のように、長い言葉で表すのも一つの方法だが、学校のような場では多くの生徒が、参加できる俳句会が合っているかも知れない。
考えてみれば、昔から唄は生活の中にあった。
労働の時、祭の時、祝いの時、哀しみの時・・・
歌い継がれてきた歌の中に、自分の思いを込めて歌っていたと思う。
即興で歌を作って、相手に思いを伝えることも古代から行われてきた。
言霊信仰ではないが、言葉の力を信じ、大切にしてきたからだろう。
夏井さんが最後に言っていたように、ネット上で氾濫する心ない言葉は、哀しいことである。
皆に伝わるネットだからこそ、言葉の重みを知るべきものなのかも知れない。
私もそういう意味で、心してブログを書く必要性を感じた。
そして、俳句に限らず、心に歌を持ち続けて、歌っていかねばならないと思った。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2019年8月29日木曜日
2019年8月26日月曜日
近つ飛鳥博物館へのドライブ2019
昨日(8/25)の朝、急に思い立って、大阪の東河内にある「近つ飛鳥博物館」に行くことにした。
ここは以前から「百舌鳥・古市古墳群と土師氏」というテーマの特物展が開かれていることは知っていた。
電車で行こうとも思ったが、あまりにもアクセスが悪いので、家内とは休みを合わせて車で行くつもりだった。
山陽道や近畿道、南阪奈道を使うので、渋滞のなさそうな時期にとは思っていた。
この日は思った以上に渋滞はなく、渋滞が見られたのは三田のアウトレットに下りる出口付近だけだった。
この行程は、以前に奈良の博物館に行く時に使ったように思う。
山陽道自体、以前は通勤にも使っていたこともあるのだが、今回使うのは数年ぶりだった。
宝塚や吹田のあたりは、新名神ができたおかげで以前のような渋滞がなくて助かった。
順調に自動車道は進んだのだが、ICを下りてから、博物館に辿り着くのが不安だった。
スマホのナビと、博物館の案内板の指示が違っていたりしたからだ。
こんなところに博物館があるのかと思えるような道を通って、辿り着いたときその異様な建物に驚いた。
階段状になった屋根か外壁が、まるでピラミッドのようだ。
古代の古墳をイメージして設計されたのかも知れないが、博物館と知らずに訪れたとしたら、ダムと勘違いしたかも知れない。
既に多くの人が訪れていて、今日の講演会の整理券が配られていた。
講演会のことなど全く念頭になかったのだが、展示を見終わったので、せっかくだから聴くことにした。
会場は既に満杯で、外のモニターを見ることになった。
講演はこの博物館館長舘野和己氏による「古代土師氏とその後」であった。
席に座ってみて驚いたことに、13時半から15時まである。
まだ、食事も摂っていないので、隣の家内はおなかがすいたと言うし、どうしようかと思ったが帰られる雰囲気ではない。
結局しっかりと講演を聞くことになった。
内容は非常に興味深いもので、龍野に関係のある野見宿禰が重要な意味をもっていた。
まさか、埴輪と野見宿禰が関係しているとは、全く不勉強だった。
たつの市に土師という地名があるのも納得できた。
どうしても、帰りの混雑や時間が気になったので、予定の15時には講演は終わっていなかったが席を立った。
急いで、駐車場に行くと、駐車場に入れなかった車が路上に溢れていた。
これほど博物館が人気があるとは、世界遺産畏るべしと思った。
以前から考古学マニアが多いのは知っていたが、今回は歴史であるにも関わらず多くの人が参加していた。
古代には特にご高齢の方が関心があるらしい。
たぶん古代にはロマンを感じるのだろうと思う。
しかし、私は埴輪が作られる前は、生きた奴隷が土中に埋められ立たされて、嘆き苦しみながら死んでいき、動物に食われていたことの方が気になった。
古代はロマンもあるかも知れないが、私には残虐なイメージも感じられるのである。
帰りはコンビニによって軽い食べ物を買って車の中で食べながら帰った。
元来たICへの行き方を間違えて、結局羽曳野ICから自動車道に乗って帰ることになった。
道路も混んでいなくて順調に進み、三木パーキングで休憩を取って家内に運転を代わってもらった。
ところが、姫路あたりから雨が降り出してきて、家の洗濯物が気になったりした。
山陽道は竜野で下りて、ガソリン補給をし、買い物をしてから家に戻った。
洗濯物は息子が取り入れてくれていた。
往復400kmほどの長いドライブになった。
この一日は時間と空間を超えた、古代へのドライブでもあった。
そして、今日は現代の日常に戻るブルーな月曜でもある・・・
ここは以前から「百舌鳥・古市古墳群と土師氏」というテーマの特物展が開かれていることは知っていた。
電車で行こうとも思ったが、あまりにもアクセスが悪いので、家内とは休みを合わせて車で行くつもりだった。
山陽道や近畿道、南阪奈道を使うので、渋滞のなさそうな時期にとは思っていた。
この日は思った以上に渋滞はなく、渋滞が見られたのは三田のアウトレットに下りる出口付近だけだった。
この行程は、以前に奈良の博物館に行く時に使ったように思う。
山陽道自体、以前は通勤にも使っていたこともあるのだが、今回使うのは数年ぶりだった。
宝塚や吹田のあたりは、新名神ができたおかげで以前のような渋滞がなくて助かった。
順調に自動車道は進んだのだが、ICを下りてから、博物館に辿り着くのが不安だった。
スマホのナビと、博物館の案内板の指示が違っていたりしたからだ。
こんなところに博物館があるのかと思えるような道を通って、辿り着いたときその異様な建物に驚いた。
階段状になった屋根か外壁が、まるでピラミッドのようだ。
古代の古墳をイメージして設計されたのかも知れないが、博物館と知らずに訪れたとしたら、ダムと勘違いしたかも知れない。
既に多くの人が訪れていて、今日の講演会の整理券が配られていた。
講演会のことなど全く念頭になかったのだが、展示を見終わったので、せっかくだから聴くことにした。
会場は既に満杯で、外のモニターを見ることになった。
講演はこの博物館館長舘野和己氏による「古代土師氏とその後」であった。
席に座ってみて驚いたことに、13時半から15時まである。
まだ、食事も摂っていないので、隣の家内はおなかがすいたと言うし、どうしようかと思ったが帰られる雰囲気ではない。
結局しっかりと講演を聞くことになった。
内容は非常に興味深いもので、龍野に関係のある野見宿禰が重要な意味をもっていた。
まさか、埴輪と野見宿禰が関係しているとは、全く不勉強だった。
たつの市に土師という地名があるのも納得できた。
どうしても、帰りの混雑や時間が気になったので、予定の15時には講演は終わっていなかったが席を立った。
急いで、駐車場に行くと、駐車場に入れなかった車が路上に溢れていた。
これほど博物館が人気があるとは、世界遺産畏るべしと思った。
以前から考古学マニアが多いのは知っていたが、今回は歴史であるにも関わらず多くの人が参加していた。
古代には特にご高齢の方が関心があるらしい。
たぶん古代にはロマンを感じるのだろうと思う。
しかし、私は埴輪が作られる前は、生きた奴隷が土中に埋められ立たされて、嘆き苦しみながら死んでいき、動物に食われていたことの方が気になった。
古代はロマンもあるかも知れないが、私には残虐なイメージも感じられるのである。
帰りはコンビニによって軽い食べ物を買って車の中で食べながら帰った。
元来たICへの行き方を間違えて、結局羽曳野ICから自動車道に乗って帰ることになった。
道路も混んでいなくて順調に進み、三木パーキングで休憩を取って家内に運転を代わってもらった。
ところが、姫路あたりから雨が降り出してきて、家の洗濯物が気になったりした。
山陽道は竜野で下りて、ガソリン補給をし、買い物をしてから家に戻った。
洗濯物は息子が取り入れてくれていた。
往復400kmほどの長いドライブになった。
この一日は時間と空間を超えた、古代へのドライブでもあった。
そして、今日は現代の日常に戻るブルーな月曜でもある・・・
2019年8月25日日曜日
消えた盆
今年の8月15日、月遅れの盆は台風で、近隣の殆どのイベントが中止された。
実は、私の住む村では台風に関係なく、今年は盆は取りやめになっていた。
盆踊りの中心となる婦人会が、今年の春から解散してしまっていたのがきっかけとなった。
これまで盆踊りは夏になくてはならない行事だったが、それを楽しみにする人が村では減ってしまった。
そして、また世話をする人も減ってしまった。
かつては、盆にはあちらこちらの村や町で賑やかな音楽や太鼓が聞こえていた。
櫓を組んで踊るのは大変だと、屋台を中心とした納涼祭という形に変えた村もある。
踊りは、町独自のよさこいや、岡山ではウラジャ、赤穂ではデーション祭に取って代わられた。
馴染みの地域の人が、寄りそって踊る場がなくなってしまった。
かつて、私が村落調査をした奄美の与路島でも、そうなりつつあった。
40年前の与路村と、上郡の我が村は変わらなくなってしまった。
奄美空港や名瀬港から一日、または二日かかる離島中の離島と、新幹線の相生駅から20分の村が同じになってしまったのだ。
私はこの盆が台風で台無しになったのは、海外旅行にも行けない人、子や孫が戻ってこない人の「やっかみ」だと家内に話した。
それは、自分の「やっかみ」であった。
海外旅行はともかく、この歳にもなって孫の一人もいないことの寂しさを感じる。
昔からお年寄りは、幼い孫に長生きする喜びを感じていたのだと思う。
与路では孫に魂を残していくと言われた。
孫に同じ名前をつけたり、孫との関係を大切にしていた。
人の命がつがっていくことの大切さと幸せを表してきたのだと思う。
本土では月遅れの盆、沖縄奄美では旧暦の八月(中秋の名月)に老若男女が踊ってきた。
これは命のつながりの大切さを、先祖と共に祝う行事であったように思う。
それが失われることは、その大切さが見失われることを意味するように思えてならない。
実は、私の住む村では台風に関係なく、今年は盆は取りやめになっていた。
盆踊りの中心となる婦人会が、今年の春から解散してしまっていたのがきっかけとなった。
これまで盆踊りは夏になくてはならない行事だったが、それを楽しみにする人が村では減ってしまった。
そして、また世話をする人も減ってしまった。
かつては、盆にはあちらこちらの村や町で賑やかな音楽や太鼓が聞こえていた。
櫓を組んで踊るのは大変だと、屋台を中心とした納涼祭という形に変えた村もある。
踊りは、町独自のよさこいや、岡山ではウラジャ、赤穂ではデーション祭に取って代わられた。
馴染みの地域の人が、寄りそって踊る場がなくなってしまった。
かつて、私が村落調査をした奄美の与路島でも、そうなりつつあった。
40年前の与路村と、上郡の我が村は変わらなくなってしまった。
奄美空港や名瀬港から一日、または二日かかる離島中の離島と、新幹線の相生駅から20分の村が同じになってしまったのだ。
私はこの盆が台風で台無しになったのは、海外旅行にも行けない人、子や孫が戻ってこない人の「やっかみ」だと家内に話した。
それは、自分の「やっかみ」であった。
海外旅行はともかく、この歳にもなって孫の一人もいないことの寂しさを感じる。
昔からお年寄りは、幼い孫に長生きする喜びを感じていたのだと思う。
与路では孫に魂を残していくと言われた。
孫に同じ名前をつけたり、孫との関係を大切にしていた。
人の命がつがっていくことの大切さと幸せを表してきたのだと思う。
本土では月遅れの盆、沖縄奄美では旧暦の八月(中秋の名月)に老若男女が踊ってきた。
これは命のつながりの大切さを、先祖と共に祝う行事であったように思う。
それが失われることは、その大切さが見失われることを意味するように思えてならない。
2019年8月14日水曜日
千種の水汲み2019年夏
今年も去年と同じように、盆前の水汲みになった。
本当は日曜の今日(8/11)ではなくて、土曜の昨日に行く予定だった。
ところが、蜂に刺された左手が痛かったので、一日先延ばしにして、息子の力も借りることにした。
息子は家に水の容器を運び入れる時の中継ぎ役で、少しでも助かる。
息子が手伝える夕方に戻るために、出かけたのは午後二時頃だった。
私は空調服を着込んで万全の体制で、準備して出かけた。
途中の道路はほんとにお盆前なのかというくらい、車も少なく人もいなかった。
あまりの暑さに出かけるのを控えているのだと思った。
しかし、南光町あたりから川で遊ぶ人が増えてきた。
南光自然観察村には、川遊びをする人でいっぱいだった。
車やテントも多くて、いつもの夏の風景だった。
ところが、千種の道の駅付近から、路肩に停めている車が増えていった。
パトカーが巡回して回るほどの車の量である。
当然、道の駅の駐車場は満杯になっていた。
要するに格安で過ごせるデイキャンプ場が人気なようである。
また、付近の川は水深も浅く緩やかで、川遊びに持ってこいである。
路上に停めて付近で遊び、道の駅のトイレやレストランを使えば安上がりである。
また、Aガイヤ付近の川や、水汲み場の川でも家族連れが水遊びやバーベキューを楽しんでいた。
家内は海より川の方が、塩分でべたつかないので良いと言う。
確かに、水の綺麗な千種川に入って身体を冷やした方が、気持ちいいかも知れない。
最近は海でも泳ぐのではなくて、海水につかったり浮かぶだけの人が殆どだ。
海水浴は明治時代に健康増進のために始まったとテレビ番組でやっていた。
今は熱中症にならずに森林浴も出来る川遊びの方が健康的なのかも知れない。
水汲み場は日陰になっていて、しかも気温もそれほど高くなくて、空調服はあまり役に立たなかった。
上郡に戻ってくると、また灼熱地獄に逆戻りで、家の中に水を運び入れるのに、空調服は役に立った。
最近は涼しいショッピングモールに行くことさえ嫌になる暑さである。
クーラーの効いた家に閉じこもっているのが良いのかも知れない。
しかし、健康的でしかも気分転換できるのは、千種のような涼しいところでの川遊びをするのが一番に思えた。
同じ千種川でも、上郡付近まで下ってくると、干上がった河原に人はいない。
温暖化は人を川の上流へと導いているようだ。
いっそ、企業や学校も上流に移せば良いように思う。
本当は日曜の今日(8/11)ではなくて、土曜の昨日に行く予定だった。
ところが、蜂に刺された左手が痛かったので、一日先延ばしにして、息子の力も借りることにした。
息子は家に水の容器を運び入れる時の中継ぎ役で、少しでも助かる。
息子が手伝える夕方に戻るために、出かけたのは午後二時頃だった。
私は空調服を着込んで万全の体制で、準備して出かけた。
途中の道路はほんとにお盆前なのかというくらい、車も少なく人もいなかった。
あまりの暑さに出かけるのを控えているのだと思った。
しかし、南光町あたりから川で遊ぶ人が増えてきた。
南光自然観察村には、川遊びをする人でいっぱいだった。
車やテントも多くて、いつもの夏の風景だった。
ところが、千種の道の駅付近から、路肩に停めている車が増えていった。
パトカーが巡回して回るほどの車の量である。
当然、道の駅の駐車場は満杯になっていた。
要するに格安で過ごせるデイキャンプ場が人気なようである。
また、付近の川は水深も浅く緩やかで、川遊びに持ってこいである。
路上に停めて付近で遊び、道の駅のトイレやレストランを使えば安上がりである。
また、Aガイヤ付近の川や、水汲み場の川でも家族連れが水遊びやバーベキューを楽しんでいた。
家内は海より川の方が、塩分でべたつかないので良いと言う。
確かに、水の綺麗な千種川に入って身体を冷やした方が、気持ちいいかも知れない。
最近は海でも泳ぐのではなくて、海水につかったり浮かぶだけの人が殆どだ。
海水浴は明治時代に健康増進のために始まったとテレビ番組でやっていた。
今は熱中症にならずに森林浴も出来る川遊びの方が健康的なのかも知れない。
水汲み場は日陰になっていて、しかも気温もそれほど高くなくて、空調服はあまり役に立たなかった。
上郡に戻ってくると、また灼熱地獄に逆戻りで、家の中に水を運び入れるのに、空調服は役に立った。
最近は涼しいショッピングモールに行くことさえ嫌になる暑さである。
クーラーの効いた家に閉じこもっているのが良いのかも知れない。
しかし、健康的でしかも気分転換できるのは、千種のような涼しいところでの川遊びをするのが一番に思えた。
同じ千種川でも、上郡付近まで下ってくると、干上がった河原に人はいない。
温暖化は人を川の上流へと導いているようだ。
いっそ、企業や学校も上流に移せば良いように思う。
2019年8月11日日曜日
厄介な遺産
また、アシナガバチに刺されてしまった。
しかも、去年と同じように玉つげの枝を剪定している時にである。
どうもアシナガバチは玉つげの木に巣を作ることが多いらしい。
左手の指や甲を数カ所刺された。
今回は実家の庭の木を剪定している時に起こった。
赤穂の実家の庭は、鳥撫での祖父が造園業をしていた関係で、立派なものを作ってもらった。
父が元気な頃は、池には大きな鯉も飼っており、松も黒松で綺麗に選定していた。
父は歳をとるに従い、自分で庭を管理するのが苦痛になってきた。
最後の方は、祖父が残した庭を恨みがましく言っていたそうである。
父が亡くなった後は、シルバー人材に頼んでやってもらったりした。
大事に選定していた黒松も邪魔になる部分は伐ったりしてもらっている。
そして、そういう作業の際に、大切な石灯籠の一部が壊されたりもした。
シルバー人材は労賃も高い上に仕事が雑なので、私が管理することになった。
去年からは、充電式の小型チェーンソーや、高枝刈機も買って効率よく手入れすることが出来るようになっていた。
今年は空調服を着て、順調に作業が進んでいた矢先に、事故は起こってしまった。
とりあえず冷やしてから実家に戻った。
途中でじんま疹が出て痒くなったり、咳が急に出始めたりした。
明らかにアレルギー反応だった。
去年も刺されたので、アナフィラキシーショックを心配したが、それは大丈夫だった。
家内が戻ってくるのを待って、町の内科医院に診察してもらった。
その医師によると、今年は蜂に刺される人が例年の5割増しだそうである。
蜂は暑さに苛立っているのかなと言っておられた。
私は玉つげが原因のように思う。
充電式の剪定機で簡単に素人がするようになったようになったからだと思う。
素人には、巣が分かりにくくて、まさかと思ってしまう。
アシナガバチにすれば格好の隠れ場所なのである。
腫れがひいて、今度赤穂に行く時には殺虫して、木は切ってしまう予定である。
祖父の残した庭は、今では厄介な遺産となってしまった。
以前、豪邸の庭を管理している人も、維持できなくなったとテレビで言っていたが、庶民にはなおさらの負担だ。
今は日本式の庭を造る人もいなくて、売ることも出来ないようだ。
母が死んだ後、家に住む者がいなくなった先、どうしようかと思う。
家の管理を含めて、色々考えねばならない。
家はシロアリの巣になり、庭は蜂の巣になってしまうだろうから。
しかも、去年と同じように玉つげの枝を剪定している時にである。
どうもアシナガバチは玉つげの木に巣を作ることが多いらしい。
左手の指や甲を数カ所刺された。
今回は実家の庭の木を剪定している時に起こった。
赤穂の実家の庭は、鳥撫での祖父が造園業をしていた関係で、立派なものを作ってもらった。
父が元気な頃は、池には大きな鯉も飼っており、松も黒松で綺麗に選定していた。
父は歳をとるに従い、自分で庭を管理するのが苦痛になってきた。
最後の方は、祖父が残した庭を恨みがましく言っていたそうである。
父が亡くなった後は、シルバー人材に頼んでやってもらったりした。
大事に選定していた黒松も邪魔になる部分は伐ったりしてもらっている。
そして、そういう作業の際に、大切な石灯籠の一部が壊されたりもした。
シルバー人材は労賃も高い上に仕事が雑なので、私が管理することになった。
去年からは、充電式の小型チェーンソーや、高枝刈機も買って効率よく手入れすることが出来るようになっていた。
今年は空調服を着て、順調に作業が進んでいた矢先に、事故は起こってしまった。
とりあえず冷やしてから実家に戻った。
途中でじんま疹が出て痒くなったり、咳が急に出始めたりした。
明らかにアレルギー反応だった。
去年も刺されたので、アナフィラキシーショックを心配したが、それは大丈夫だった。
家内が戻ってくるのを待って、町の内科医院に診察してもらった。
その医師によると、今年は蜂に刺される人が例年の5割増しだそうである。
蜂は暑さに苛立っているのかなと言っておられた。
私は玉つげが原因のように思う。
充電式の剪定機で簡単に素人がするようになったようになったからだと思う。
素人には、巣が分かりにくくて、まさかと思ってしまう。
アシナガバチにすれば格好の隠れ場所なのである。
腫れがひいて、今度赤穂に行く時には殺虫して、木は切ってしまう予定である。
祖父の残した庭は、今では厄介な遺産となってしまった。
以前、豪邸の庭を管理している人も、維持できなくなったとテレビで言っていたが、庶民にはなおさらの負担だ。
今は日本式の庭を造る人もいなくて、売ることも出来ないようだ。
母が死んだ後、家に住む者がいなくなった先、どうしようかと思う。
家の管理を含めて、色々考えねばならない。
家はシロアリの巣になり、庭は蜂の巣になってしまうだろうから。
2019年8月8日木曜日
温暖化対策に空調服
何年か前からか、ファンが付いた作業服のことは知っていた。
店で見るたびに、良さそうだけど値段が高すぎると思っていた。
作業服とファン、バッテリーを合わせたら、2万円ほどかかる。
そして、どれだけ効果があるのか疑っていた。
ところが、先日職場に着てきた職員がいて、感想を聞いてみた。
涼しいという返事、そばにいた他の職員も、建築現場で働いているお父さんが、これを着ると、手放せないと言っていたという。
これは何としても手に入れようと思った。
このところ、農作業は本当に大変で、特に草刈りや、耕耘、灌水作業では汗まみれになった。
私は虫に刺されやすい方なので、中にコンプレッションの下着をつけて、長袖の服を着てする
そうすると、終わるころには水を被ったように作業服は汗で重くなり、身体に張り付いていた。
そこで、家内に頼んでネットで調べて安い物を注文してもらった。
注文した後で、量販店で安いのが出ているのを見て、悔しくは思ったが、一刻も早く欲しかった。
そして、昨日その空調服のセットが届いた。
最初の充電に意外と時間がかかったが、今朝から使い始めた。
全く聞いたとおりである。
昨日と同じように、重いエンジンポンプを使って灌水作業を行ったが、疲れ方がまるで違う。
当然、襟元以外は作業服に汗は付いていない。
私の場合は朝の一時間ほどの農作業に使う程度なので、そんなに性能が良くなくても良い。
これならもっと早く手に入れておけば良かったと思った。
そして、この空調服はもっと広く使えるようになれば良いと思った。
高校でも職業科の生徒の実習や、特別支援学校の生徒の作業学習にも使えば良い。
機械関係で鉄粉が出る作業には向かないそうだが、冷房が使えないところではもってこいだ。
ベストタイプの物を使えばちょっとしたスポーツや通学、通勤にも使えそうである。
問題はファンの音であるが、これも改良と工夫をしたら、静かな物になるはずだ。
そしたら、静かな室内で使用しても問題が無くなり、授業や講演会、会議にでも使用できる。
広く使えるようになれば、値段ももっと下がるだろう。
冷房をガンガン使うより、温暖化対策に効果抜群のように思えた。
店で見るたびに、良さそうだけど値段が高すぎると思っていた。
作業服とファン、バッテリーを合わせたら、2万円ほどかかる。
そして、どれだけ効果があるのか疑っていた。
ところが、先日職場に着てきた職員がいて、感想を聞いてみた。
涼しいという返事、そばにいた他の職員も、建築現場で働いているお父さんが、これを着ると、手放せないと言っていたという。
これは何としても手に入れようと思った。
このところ、農作業は本当に大変で、特に草刈りや、耕耘、灌水作業では汗まみれになった。
私は虫に刺されやすい方なので、中にコンプレッションの下着をつけて、長袖の服を着てする
そうすると、終わるころには水を被ったように作業服は汗で重くなり、身体に張り付いていた。
そこで、家内に頼んでネットで調べて安い物を注文してもらった。
注文した後で、量販店で安いのが出ているのを見て、悔しくは思ったが、一刻も早く欲しかった。
そして、昨日その空調服のセットが届いた。
最初の充電に意外と時間がかかったが、今朝から使い始めた。
全く聞いたとおりである。
昨日と同じように、重いエンジンポンプを使って灌水作業を行ったが、疲れ方がまるで違う。
当然、襟元以外は作業服に汗は付いていない。
私の場合は朝の一時間ほどの農作業に使う程度なので、そんなに性能が良くなくても良い。
これならもっと早く手に入れておけば良かったと思った。
そして、この空調服はもっと広く使えるようになれば良いと思った。
高校でも職業科の生徒の実習や、特別支援学校の生徒の作業学習にも使えば良い。
機械関係で鉄粉が出る作業には向かないそうだが、冷房が使えないところではもってこいだ。
ベストタイプの物を使えばちょっとしたスポーツや通学、通勤にも使えそうである。
問題はファンの音であるが、これも改良と工夫をしたら、静かな物になるはずだ。
そしたら、静かな室内で使用しても問題が無くなり、授業や講演会、会議にでも使用できる。
広く使えるようになれば、値段ももっと下がるだろう。
冷房をガンガン使うより、温暖化対策に効果抜群のように思えた。
2019年8月6日火曜日
鷏和の夏
先日法事で、鷏和に住んでいる親戚も多く集まった。
私は幼稚園に入る前までは鷏和に住んでいた。
鷏和というのは、隣接する槙村と鳥撫(となぜ)村を会わせた呼び方で、祭や付き合いは別々である。
来てくれたお坊さんが、鷏和の石を寺で用いた話をされた。
実は、鷏和は花崗岩の産地として以前は知られていた。
しかし、赤穂の人の多くがそれを知らない。
本家の家業も、石を商って船で運ぶ仕事であった。
父も私が小さい頃までは、木造船で石などを運ぶ仕事をしていて、私も船に乗せられていた。
私の父は転職して、造船会社に勤めるようになったが、本家の伯父は長くその船の運送に携わった。
鳥撫には親戚が多いが、船などの運送業の家が多かった。
私の家族は、学校に通うのに不便な鳥撫の借家から尾崎に古家を買って移り住んだ。
父親は鳥撫に家を構えたかったようだが、旨く進まなかったようで、子供にとっては通学の上で助かった。
今でこそ、幼稚園や小学校は近くにあるが、当時は遠く塩屋まで通わなくてはならなかった。
私は住んでいた頃の鳥撫の記憶はあまりないが、夏休みに本家の家に預けられたりしたので、その想い出は多い。
本家には祖父母と、伯父、伯母、学生の叔母、6歳上の従姉妹が住んでいた。
伯父伯母は夫婦で船に乗っていて、殆ど家にいなかった。
尾崎の家には、年子の弟がいたので、やんちゃで手のかかる自分はひとり本家に預かられていたのだ。
そこでは、従姉妹の姉が私をかわいがってくれて、夏休みは楽しく過ごせた。
近所の女の子とよく花いちもんめをしたのを憶えている。
また、一人で裏山に蝉を捕りに出かけたり、海へ行ってカブトガニを捕ったりして遊んだ。
毎朝ラジオ体操も一緒にした。
子供会からのバス旅行で、宝塚や姫路の遊園地まで行ったりして、殆ど鳥撫の子供と変わらなかった。
楽しかったので、家に帰りたくないと電話で母親に言って、「もう帰ってこんでええ」と突き放され、当時、高校生の叔母といやいや帰った記憶もある。
とにかく預けられなくなっても、小学生の頃は盆と正月には、長く鳥撫の本家にいるのが当たり前であった。
今の鷏和は様変わりしてしまった。
元の本家は崖崩れで壊れて、別の所に移築した。
当時、二階の窓から、鉄橋を電車が渡っていくのを眺めるのが楽しみだったのを思い出す。
私のふるさとの原形は鳥撫だが、もうそこには無い。
けれど、今の上郡にはそのころの鳥撫に似たような風景が、それなりに残っている。
海がないのが残念だが、小野豆の山に登れば何とか見える。
故郷は遠くにありて思うものと言うべきか・・・
とにかく、今回の夏の法事は、遠い昔の幼き日の鳥撫の記憶を甦らせてくれた。
私は幼稚園に入る前までは鷏和に住んでいた。
鷏和というのは、隣接する槙村と鳥撫(となぜ)村を会わせた呼び方で、祭や付き合いは別々である。
来てくれたお坊さんが、鷏和の石を寺で用いた話をされた。
実は、鷏和は花崗岩の産地として以前は知られていた。
しかし、赤穂の人の多くがそれを知らない。
本家の家業も、石を商って船で運ぶ仕事であった。
父も私が小さい頃までは、木造船で石などを運ぶ仕事をしていて、私も船に乗せられていた。
私の父は転職して、造船会社に勤めるようになったが、本家の伯父は長くその船の運送に携わった。
鳥撫には親戚が多いが、船などの運送業の家が多かった。
私の家族は、学校に通うのに不便な鳥撫の借家から尾崎に古家を買って移り住んだ。
父親は鳥撫に家を構えたかったようだが、旨く進まなかったようで、子供にとっては通学の上で助かった。
今でこそ、幼稚園や小学校は近くにあるが、当時は遠く塩屋まで通わなくてはならなかった。
私は住んでいた頃の鳥撫の記憶はあまりないが、夏休みに本家の家に預けられたりしたので、その想い出は多い。
本家には祖父母と、伯父、伯母、学生の叔母、6歳上の従姉妹が住んでいた。
伯父伯母は夫婦で船に乗っていて、殆ど家にいなかった。
尾崎の家には、年子の弟がいたので、やんちゃで手のかかる自分はひとり本家に預かられていたのだ。
そこでは、従姉妹の姉が私をかわいがってくれて、夏休みは楽しく過ごせた。
近所の女の子とよく花いちもんめをしたのを憶えている。
また、一人で裏山に蝉を捕りに出かけたり、海へ行ってカブトガニを捕ったりして遊んだ。
毎朝ラジオ体操も一緒にした。
子供会からのバス旅行で、宝塚や姫路の遊園地まで行ったりして、殆ど鳥撫の子供と変わらなかった。
楽しかったので、家に帰りたくないと電話で母親に言って、「もう帰ってこんでええ」と突き放され、当時、高校生の叔母といやいや帰った記憶もある。
とにかく預けられなくなっても、小学生の頃は盆と正月には、長く鳥撫の本家にいるのが当たり前であった。
今の鷏和は様変わりしてしまった。
元の本家は崖崩れで壊れて、別の所に移築した。
当時、二階の窓から、鉄橋を電車が渡っていくのを眺めるのが楽しみだったのを思い出す。
私のふるさとの原形は鳥撫だが、もうそこには無い。
けれど、今の上郡にはそのころの鳥撫に似たような風景が、それなりに残っている。
海がないのが残念だが、小野豆の山に登れば何とか見える。
故郷は遠くにありて思うものと言うべきか・・・
とにかく、今回の夏の法事は、遠い昔の幼き日の鳥撫の記憶を甦らせてくれた。
2019年8月4日日曜日
夏の散歩は早朝に
以前、私は夏はたいてい5時半頃には起きて、散歩やジョギングをしていた。
ところが定時制の仕事の都合で、起きるのが7時半頃という習慣になってしまっていた。
さすがに、いくら竹笠を被っていても暑くて、戻ってくると汗まみれになった。
夏休みになって、起きるのが6時になったが、朝食を食べて7時頃から散歩しても、あまり状況は変わらなかった。
朝曇りの日でも、途中から陽が差してきて、歩くのが辛くなってきた。
沙漠に住む人が、太陽の絵柄を嫌う理由がよく分かった。
クロも、何度も用水路や池に入って身体を冷やしていた。
先週の木曜から仕事の都合で、朝早く起きることになり、5時半頃の起床に変わり、食事前に散歩に行くことになった。
つまり、夏本来の従来の生活パターンに戻ったわけである。
しかも、服装も以前は農作業が直ぐ出来るように、コンプレッションの上下の長下着に作業ズボンをはいていた。
それを、上は袖なしシャツ、下は短パンツをはいた。
なんと今までの辛い散歩が嘘のように楽になった。
今までは散歩している時に人に出会うことは殆どなかったが、この時間帯はけっこう出会う。
その分、犬の散歩の人に出会うと、クロが過剰反応するので面倒と言えば面倒にはなった。
これまでの散歩が根本的に間違っていたようだ。
私は同年齢の人には、健康のために散歩をお勧めしている。
しかし、忙しい人が多く、時間があってもたいていの人は朝はゆっくり過ごしたいようだ。
先日、私よりも3歳年下の人から、足に血栓ができて腫れたり、肺の一部が詰まったりした話を聞いた。
入院して医療処置をする際に、奥さんは延命処置をするかどうか聞かれたそうだ。
その話を別の人に話すと、その人にも首に血栓があって薬を飲んでいると言うので驚いた。
血栓のあるお二人とも、普段から運動をするタイプの人ではなく、首に血栓がある人には散歩を勧めたりしていた。
そこまでになっていたら、無理な散歩は出来ないかもしれない。
命の危険がある人がけっこう身近にいることを改めて知った。
かく言う自分も糖尿病で医者から「あんた死ぬで」と言われた人間だ。
私の散歩はある意味で、延命のための運動とも言える。
しかし、そのやり方を間違えれば、命取りにもなりかねなかった。
今日(8/4)は日曜でも早起きして、山陰になる道を選んで歩いた。
長く歩いても、疲労の度合いは全く違っていた。
たかが散歩だが、夏場はよく考えて行わねばならないとつくづく思った。
ところが定時制の仕事の都合で、起きるのが7時半頃という習慣になってしまっていた。
さすがに、いくら竹笠を被っていても暑くて、戻ってくると汗まみれになった。
夏休みになって、起きるのが6時になったが、朝食を食べて7時頃から散歩しても、あまり状況は変わらなかった。
朝曇りの日でも、途中から陽が差してきて、歩くのが辛くなってきた。
沙漠に住む人が、太陽の絵柄を嫌う理由がよく分かった。
クロも、何度も用水路や池に入って身体を冷やしていた。
先週の木曜から仕事の都合で、朝早く起きることになり、5時半頃の起床に変わり、食事前に散歩に行くことになった。
つまり、夏本来の従来の生活パターンに戻ったわけである。
しかも、服装も以前は農作業が直ぐ出来るように、コンプレッションの上下の長下着に作業ズボンをはいていた。
それを、上は袖なしシャツ、下は短パンツをはいた。
なんと今までの辛い散歩が嘘のように楽になった。
今までは散歩している時に人に出会うことは殆どなかったが、この時間帯はけっこう出会う。
その分、犬の散歩の人に出会うと、クロが過剰反応するので面倒と言えば面倒にはなった。
これまでの散歩が根本的に間違っていたようだ。
私は同年齢の人には、健康のために散歩をお勧めしている。
しかし、忙しい人が多く、時間があってもたいていの人は朝はゆっくり過ごしたいようだ。
先日、私よりも3歳年下の人から、足に血栓ができて腫れたり、肺の一部が詰まったりした話を聞いた。
入院して医療処置をする際に、奥さんは延命処置をするかどうか聞かれたそうだ。
その話を別の人に話すと、その人にも首に血栓があって薬を飲んでいると言うので驚いた。
血栓のあるお二人とも、普段から運動をするタイプの人ではなく、首に血栓がある人には散歩を勧めたりしていた。
そこまでになっていたら、無理な散歩は出来ないかもしれない。
命の危険がある人がけっこう身近にいることを改めて知った。
かく言う自分も糖尿病で医者から「あんた死ぬで」と言われた人間だ。
私の散歩はある意味で、延命のための運動とも言える。
しかし、そのやり方を間違えれば、命取りにもなりかねなかった。
今日(8/4)は日曜でも早起きして、山陰になる道を選んで歩いた。
長く歩いても、疲労の度合いは全く違っていた。
たかが散歩だが、夏場はよく考えて行わねばならないとつくづく思った。
2019年8月1日木曜日
小豆島の見えた窓
私の書斎は二階にある。
書斎と言っても、元は夫婦の寝室で、娘の部屋が殆ど使われなくなったので、そちらに寝室が換わっただけである。
だから、雑然とした部屋で、研究を続けていただけの話だ。
ところが、夏になると西の部屋なので非常に暑い、エアコンもつけているが、使うのがもったいない。
そこで、夏場は下の座敷に避難する。
この一階の座敷は、娘が帰ってきた時とか、母親が来た時に用いている。
普段は息子がテレビを見る時に使う程度である。
ここは夏場でもけっこう涼しい。
簡易テーブルを持ち込んで、ここで仕事をしている。
そんな時ふと、赤穂の実家の座敷や、自分の部屋を思い出した。
実家の座敷は祖父が庭師だったので、良い庭が拵えてあった。
大学生になり、二階の南の部屋は弟に譲ったので、戻ってくると座敷を使うことになっていた。
そこで、私は大学院を受験するための勉強をした。
大学受験は二階の自分たちの部屋でしたのだが、そこは弟と共同だった。
二階の窓は南に向いていて、そこからは小豆島が見えた。
そのころは、周りには家は殆ど建っていなくて、周りは田んぼだった。
二階の窓からは遠く小豆島が見えた。
この小豆島には、浪人をしている時に、弟やいとこ、弟の友達とこっそりキャンプに出かけた想い出の島でもある。
今の家の座敷からは、隣の家の壁と庭に置いてある軽トラックしか見えない。
考えてみれば、赤穂の実家は贅沢な家だったのだと思う。
そこで、勉強よりもギターを弾いたり、歌うことが多かったのだが、それなりのお膳立てがあったのだ。
今は荒れてしまった庭になり、二階からは小豆島も見えない。
私たち兄弟を育ててくれた実家は、母の静かに暮らす場所になっている。
いずれ、私の今住んでいる家もそうなるのだろう。
書斎と言っても、元は夫婦の寝室で、娘の部屋が殆ど使われなくなったので、そちらに寝室が換わっただけである。
だから、雑然とした部屋で、研究を続けていただけの話だ。
ところが、夏になると西の部屋なので非常に暑い、エアコンもつけているが、使うのがもったいない。
そこで、夏場は下の座敷に避難する。
この一階の座敷は、娘が帰ってきた時とか、母親が来た時に用いている。
普段は息子がテレビを見る時に使う程度である。
ここは夏場でもけっこう涼しい。
簡易テーブルを持ち込んで、ここで仕事をしている。
そんな時ふと、赤穂の実家の座敷や、自分の部屋を思い出した。
実家の座敷は祖父が庭師だったので、良い庭が拵えてあった。
大学生になり、二階の南の部屋は弟に譲ったので、戻ってくると座敷を使うことになっていた。
そこで、私は大学院を受験するための勉強をした。
大学受験は二階の自分たちの部屋でしたのだが、そこは弟と共同だった。
二階の窓は南に向いていて、そこからは小豆島が見えた。
そのころは、周りには家は殆ど建っていなくて、周りは田んぼだった。
二階の窓からは遠く小豆島が見えた。
この小豆島には、浪人をしている時に、弟やいとこ、弟の友達とこっそりキャンプに出かけた想い出の島でもある。
今の家の座敷からは、隣の家の壁と庭に置いてある軽トラックしか見えない。
考えてみれば、赤穂の実家は贅沢な家だったのだと思う。
そこで、勉強よりもギターを弾いたり、歌うことが多かったのだが、それなりのお膳立てがあったのだ。
今は荒れてしまった庭になり、二階からは小豆島も見えない。
私たち兄弟を育ててくれた実家は、母の静かに暮らす場所になっている。
いずれ、私の今住んでいる家もそうなるのだろう。
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