先日法事で、鷏和に住んでいる親戚も多く集まった。
私は幼稚園に入る前までは鷏和に住んでいた。
鷏和というのは、隣接する槙村と鳥撫(となぜ)村を会わせた呼び方で、祭や付き合いは別々である。
来てくれたお坊さんが、鷏和の石を寺で用いた話をされた。
実は、鷏和は花崗岩の産地として以前は知られていた。
しかし、赤穂の人の多くがそれを知らない。
本家の家業も、石を商って船で運ぶ仕事であった。
父も私が小さい頃までは、木造船で石などを運ぶ仕事をしていて、私も船に乗せられていた。
私の父は転職して、造船会社に勤めるようになったが、本家の伯父は長くその船の運送に携わった。
鳥撫には親戚が多いが、船などの運送業の家が多かった。
私の家族は、学校に通うのに不便な鳥撫の借家から尾崎に古家を買って移り住んだ。
父親は鳥撫に家を構えたかったようだが、旨く進まなかったようで、子供にとっては通学の上で助かった。
今でこそ、幼稚園や小学校は近くにあるが、当時は遠く塩屋まで通わなくてはならなかった。
私は住んでいた頃の鳥撫の記憶はあまりないが、夏休みに本家の家に預けられたりしたので、その想い出は多い。
本家には祖父母と、伯父、伯母、学生の叔母、6歳上の従姉妹が住んでいた。
伯父伯母は夫婦で船に乗っていて、殆ど家にいなかった。
尾崎の家には、年子の弟がいたので、やんちゃで手のかかる自分はひとり本家に預かられていたのだ。
そこでは、従姉妹の姉が私をかわいがってくれて、夏休みは楽しく過ごせた。
近所の女の子とよく花いちもんめをしたのを憶えている。
また、一人で裏山に蝉を捕りに出かけたり、海へ行ってカブトガニを捕ったりして遊んだ。
毎朝ラジオ体操も一緒にした。
子供会からのバス旅行で、宝塚や姫路の遊園地まで行ったりして、殆ど鳥撫の子供と変わらなかった。
楽しかったので、家に帰りたくないと電話で母親に言って、「もう帰ってこんでええ」と突き放され、当時、高校生の叔母といやいや帰った記憶もある。
とにかく預けられなくなっても、小学生の頃は盆と正月には、長く鳥撫の本家にいるのが当たり前であった。
今の鷏和は様変わりしてしまった。
元の本家は崖崩れで壊れて、別の所に移築した。
当時、二階の窓から、鉄橋を電車が渡っていくのを眺めるのが楽しみだったのを思い出す。
私のふるさとの原形は鳥撫だが、もうそこには無い。
けれど、今の上郡にはそのころの鳥撫に似たような風景が、それなりに残っている。
海がないのが残念だが、小野豆の山に登れば何とか見える。
故郷は遠くにありて思うものと言うべきか・・・
とにかく、今回の夏の法事は、遠い昔の幼き日の鳥撫の記憶を甦らせてくれた。
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