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2019年12月7日土曜日

今は漕ぎいでな

前のブログで自称「旅を忘れたフィールドワーカー」と名乗った。
10年ほど前までは、奄美や鹿児島に行って追跡調査などをしていた。
実は定時制の高校に移ったのも、もう一度調査旅行に出たかったということもあった。
しかし、定時制は予想に反して、進路部長等を担当したので全日制よりも負担が多くなり、まとめて休みが取れなくなってしまった。
結局、早期退職して研究の機会を得るために執筆に励んだが、家内との約束の半年は過ぎてしまった。
元々、構想していたのは半年で完成できる内容ではなかった。
そしてその後、目的も果たせず職を転々として、現在の常勤の臨時教諭となっている。

考えてみれば、私は教師という職業は続けていたのだが、職場は転々としてきた。
常勤講師を含めると全部で教員では11校、長期研修生(大学院)1校、指導員1施設、インストラクター1施設ということになる。
「職を転々」という言葉はあまり良い意味に聞こえないのと同じく、職場を転々というのもあまり良い意味とは言えないかも知れない。
ただ、住居は結婚して借家に住んだが、現在の家を建ててからは住居を移らずに済んだ。
弟たちが転職や単身赴任などもあって住居を転々としたのとは対照的ではある。
考えようによっては、職場を生業の場と思えば、生活の糧を得るために場所を転々と移動してきたのと同じなのである。
家に居る時は、食事や睡眠が時間として多いので、職場が主な活動の場所であったわけだ。
ただ、家での私は農作業によっても、生活の糧の一部を得ていたので、職場だけに依存していたわけではない。

最近、後藤明氏の『海のモンゴロイド』(2003年 講談社)を、わくわくしながら読んでいた。
専門書で有りながら、ロマンを感じさせる内容だった。
後藤氏は「われわれ(日本人)は、もともと移動してきた民であり、また多方面の知識やアイデアを取り入れる、柔軟な頭を持った民」とし、
「移動するということに対して、何かネガティブなイメージ」を歴史的に築いてきたことに、現代の日本人の自信喪失の原因を見いだす。
その一方で安定した職場を得られなかった「就職氷河期」世代の問題を考えると、自由に活動できたエリート研究者の主張の限界も感じはする。
そういう意味では、公務員として安定した収入を得ながら、転勤という旅をし続けられたのもそれに似ているのかも知れない。
研究者なら日本国中、または、世界を駆け巡ることが出来たのだろうが、私にはできなかった。
その代わりに、海人が守り続けたような「嶋(シマ)」には、居続けることは出来た。

奄美の与路島では、旅に出る人の安全と無事に戻ってくることを祈る習慣があった。
最近、朝日新聞で与路島の北にある加計呂麻島出身者の、大阪での孤独死を大きく取り上げていた。
その人のシマにも同じような習慣はあっただろうと思うが、祈る人も絶えていたのかも知れない。
奄美に限らず、農村の多くは若い人の働く場が失われ、老人達が取り残されている。
それと同じように、賑やかな都会でありながら、誰にも看取られない孤独死が増えているよいう。
そして、東京は直下型地震で壊滅的な災害を受ける可能性を指摘されながら、拡大し続けている。
関東大震災後の歴史が教訓として残っているのにも関わらずである。

所詮、東京(江戸)は破壊と創造を繰り返すと言えばそれまでだが、そのために多くの市民が命を落として良いはずがない。
東京に限らず、大都会の自然災害における脆弱ぶりは指摘され続けている。
今こそ、大都会からの船出が必要なのでは無いだろうかと思う。
後藤氏は前述の書の中で「クック諸島:ルーの物語」という航海神話を紹介している。
人口増加で困窮した海人たちが、勇気を持って新しい嶋を求めて旅立っていく神話である。
危機を前にした大都市の話として考えるべき時が来たように思う。



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