早期退職してから、吉備の神社や最上稲荷、播磨の伊和神社には何度か足を運んだ。
次の良い仕事が見つかるようにということと、研究作品の完成祈願である。
ところが、ふと同僚と話をしていた時に、鹿島神社の話題が出た。
そういえば、近くにありながら、私は一度も鹿島神社に参っていない。
昔から受験の神様として人気で、参拝者が多いと聞いていた。
家内も高校受験の時に父親と一緒に参拝したそうである。
その時の人の多さだけを聞いていたので、あえて参ろうとは思っていなかった。
しかし、これだけ神社にお参りに行っていて、一願成就で名高い鹿島神社に行かない手は無いと思った。
吉備の最上稲荷をイメージしていったのだが、確かに大鳥居は共通するものがあったが、雰囲気は全然違う。
駐車場も無料で、楽に駐車することが出来た。
受験シーズンなので混雑を心配したが、参拝者の数も思ったより多くなかった。
周りの山は岩場がむき出しが多くて、遠くからでも山に登る人が見える。
参拝目的と登山目的を兼ねている人もいるようだ。
参道には屋台の店も出ていたが、落ち着いた雰囲気だった。
最上稲荷が近代的な神社に変身していたのに対し、昔ながらの趣を維持していた。
そして、受験生らしき若者や、子連れの家族が多く参拝している。
最近はパワースポットとして、若者にも神社仏閣が人気あるのだが、神社仏閣がもつ独特の雰囲気を言うのだと思う。
聖なる空間というような言葉で表したりもするが、日々の暮らしの中では容易に得られない場だと思う。
切実な祈りや願いは、日々の暮らしから切り離された場で、特別に行いたい。
そして、神社仏閣はその雰囲気を強く醸し出してくれる場なのだと思った。
当然、受験や事業などの取り組みには不断の努力が一番欠かせない。
しかし、その努力は必ずしも報われるものでは無いから、精神的に支えてくれる何かが必要だ。
だから、立場上不安定になった私とそれを支えてくれている家内が、参拝を繰り返しているのだと思う。
そういえば、私の祖母は父方も母方も信仰が篤かった。
若い頃はなぜそこまで熱心なのか分からなかった。
母方は戦争未亡人、父方は息子を戦争で亡くしていた。
肉親の戦死というやり場の無い気持ちが一生ついて回ったのだろうと思う。
弱い立場になって、自分もそういうことが分かるようになった。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2020年1月29日水曜日
2020年1月26日日曜日
雪の無い千種の山
25日の土曜日に千種に水を汲みに行った。
この暖冬だから、雪は無いだろうとふんだのだ。
ここ数日暖かい日が続いたので、路面の心配も要らないと思った。
何年も千種に水を汲みに行っているが、1月に汲みに行くのは初めてである。
冬場に貯めておいた水が無くなると、水道水を汲み置きしたり、龍野の山で汲んだこともあった。
以前は、スキーシーズンにはスキーの板を積んだ車によくであったが、今回は全く出会わない。
川の水も少なく、河川工事でもしているせいか、濁っている。
千種の町に近づいて、山を眺めても、全く雪の気配さえ無い。
以前は道路端に残雪が残っていたり、溝の目印の赤白の棒が立っていたが、それさえない。
水汲み場も、誰一人やってくる人も無く、暖冬と言いながら、やはり風は冷たく、家内は足を踏みならしながら、100円玉を投入していた。
なんと言っても、上郡よりは3℃以上気温は低いので、じっとホースで水を入れる作業は手がかじかんで寒い。
そういえば、以前勤めていた特別支援学校(当時は養護学校)では、千種に雪遊びに出かけていた。
ある年は雪が無くて、担当者が自分の責任のように、職員に侘びていたのを思い出す。
かれこれ、30年ほど前のことだから、30年前も暖冬に悩まされていたのだと思う。
当時は、まだ地球の温暖化がそんなに問題となっていなかった頃である。
聞くところによると、その特別支援学校は雪遊びはもうやっていないという。
経費節減のために、行事を減らしたのだという。
滅多に行けない雪山で児童生徒が楽しんでいた様子を憶えているだけに、少し残念だとも思える。
ただ、雪遊びは教師も相当体力を使うので、今やれと言われれば、それなりに覚悟はいると思う。
その点では、普通校のスキー中心の修学旅行は楽だった。
私は自分の子どもと雪遊びをしに千種に来たくらいで、プライベートではあまりスキーの経験はない。
冬場に楽しめるものは限られているので、また盛んになれば良いと思う。
行く道すがら、ある小学校がこの3月で閉校になるという案内板を見かけた。
雪が無いことは、千種の経済の打撃にもなるだろう。
千種のJAのスーパーマーケットも、大分前から閉じられたままだ。
どんどん、寂れていく様子を見ているのは忍びない。
ただ、私はそんなに遠くない未来に深刻な食糧不足が訪れると思っている。
きっと、その時に我々の地方が見直されると信じている。
それまで、どう持ちこたえるかが課題だけれど・・・
この暖冬だから、雪は無いだろうとふんだのだ。
ここ数日暖かい日が続いたので、路面の心配も要らないと思った。
何年も千種に水を汲みに行っているが、1月に汲みに行くのは初めてである。
冬場に貯めておいた水が無くなると、水道水を汲み置きしたり、龍野の山で汲んだこともあった。
以前は、スキーシーズンにはスキーの板を積んだ車によくであったが、今回は全く出会わない。
川の水も少なく、河川工事でもしているせいか、濁っている。
千種の町に近づいて、山を眺めても、全く雪の気配さえ無い。
以前は道路端に残雪が残っていたり、溝の目印の赤白の棒が立っていたが、それさえない。
水汲み場も、誰一人やってくる人も無く、暖冬と言いながら、やはり風は冷たく、家内は足を踏みならしながら、100円玉を投入していた。
なんと言っても、上郡よりは3℃以上気温は低いので、じっとホースで水を入れる作業は手がかじかんで寒い。
そういえば、以前勤めていた特別支援学校(当時は養護学校)では、千種に雪遊びに出かけていた。
ある年は雪が無くて、担当者が自分の責任のように、職員に侘びていたのを思い出す。
かれこれ、30年ほど前のことだから、30年前も暖冬に悩まされていたのだと思う。
当時は、まだ地球の温暖化がそんなに問題となっていなかった頃である。
聞くところによると、その特別支援学校は雪遊びはもうやっていないという。
経費節減のために、行事を減らしたのだという。
滅多に行けない雪山で児童生徒が楽しんでいた様子を憶えているだけに、少し残念だとも思える。
ただ、雪遊びは教師も相当体力を使うので、今やれと言われれば、それなりに覚悟はいると思う。
その点では、普通校のスキー中心の修学旅行は楽だった。
私は自分の子どもと雪遊びをしに千種に来たくらいで、プライベートではあまりスキーの経験はない。
冬場に楽しめるものは限られているので、また盛んになれば良いと思う。
行く道すがら、ある小学校がこの3月で閉校になるという案内板を見かけた。
雪が無いことは、千種の経済の打撃にもなるだろう。
千種のJAのスーパーマーケットも、大分前から閉じられたままだ。
どんどん、寂れていく様子を見ているのは忍びない。
ただ、私はそんなに遠くない未来に深刻な食糧不足が訪れると思っている。
きっと、その時に我々の地方が見直されると信じている。
それまで、どう持ちこたえるかが課題だけれど・・・
2020年1月23日木曜日
南山大学の恩師の退職
年末に南山大学で教えて頂いていた坂井信三先生より喪中欠礼と退職の件が書かれたはがきが届いていた。
坂井先生は南山大学の卒業生でもあり、文化人類学研究会のOBでもあったので、色々とお世話になった。
一度だけ、新婚早々のご自宅にお邪魔して、酒の肴に出された美味しい里芋を頂いたのを今でも憶えている。
公私にわたりお世話になった坂井先生とは、年賀状のやりとりだけになっていた。
坂井先生は、私が大学2年の頃に赴任してこられ、ずっと南山大学で勤められた。
だから、かれこれ約40年のお勤めということなのだろう。
私は大学院を出てから、殆ど学会にも顔を出さなかったので、お目にかかる機会が無かった。
一度だけ、出版した本を持って、南山大学に行ったけれど、敷居が高く感じてお目にかかることはためらわれた。
今回、3月28日14時から南山大学で退職記念の講演会と、その後の茶話会があるという連絡を受けて、是非参加したいと思った。
おそらく沢山の卒業生や在校生が参加するので、坂井先生とは挨拶程度になるかも知れない。
しかし、ひょっとしたら、大学に行ける最後の機会になるかも知れないと思った。
私は、南山大学の同級生にも声をかけて、この機会に会えるようにすることを思い立った。
次の出版のモチベーションを上げるために、大学時代や大学院時代のことを思い起こしていた矢先だったので好機会に思える。
できれば、これを機会に繋がりが広がったらと期待もしている。
ネットで調べたら、クネヒト・ペトロ先生はご健在のようだし、是非お話を伺いたい後藤明氏も南山大学にはいらっしゃる。
南山大学は入学する時は不本意ながら入った大学だったけど、これまでで一番楽しくて充実した大学となった。
だから、この大学に行けて本当に良かったと思っている。
できれば、当時同じキャンパスで過ごした仲間と会えて想い出を語り合えればと思う。
坂井先生は南山大学の卒業生でもあり、文化人類学研究会のOBでもあったので、色々とお世話になった。
一度だけ、新婚早々のご自宅にお邪魔して、酒の肴に出された美味しい里芋を頂いたのを今でも憶えている。
公私にわたりお世話になった坂井先生とは、年賀状のやりとりだけになっていた。
坂井先生は、私が大学2年の頃に赴任してこられ、ずっと南山大学で勤められた。
だから、かれこれ約40年のお勤めということなのだろう。
私は大学院を出てから、殆ど学会にも顔を出さなかったので、お目にかかる機会が無かった。
一度だけ、出版した本を持って、南山大学に行ったけれど、敷居が高く感じてお目にかかることはためらわれた。
今回、3月28日14時から南山大学で退職記念の講演会と、その後の茶話会があるという連絡を受けて、是非参加したいと思った。
おそらく沢山の卒業生や在校生が参加するので、坂井先生とは挨拶程度になるかも知れない。
しかし、ひょっとしたら、大学に行ける最後の機会になるかも知れないと思った。
私は、南山大学の同級生にも声をかけて、この機会に会えるようにすることを思い立った。
次の出版のモチベーションを上げるために、大学時代や大学院時代のことを思い起こしていた矢先だったので好機会に思える。
できれば、これを機会に繋がりが広がったらと期待もしている。
ネットで調べたら、クネヒト・ペトロ先生はご健在のようだし、是非お話を伺いたい後藤明氏も南山大学にはいらっしゃる。
南山大学は入学する時は不本意ながら入った大学だったけど、これまでで一番楽しくて充実した大学となった。
だから、この大学に行けて本当に良かったと思っている。
できれば、当時同じキャンパスで過ごした仲間と会えて想い出を語り合えればと思う。
2020年1月16日木曜日
播磨と吉備での参拝
この12日日曜は、朝の8時からトンド作りの村作業に出かけた。
大勢の人でやったので、一時間ほどで仕上がった。
火をつけるのは夕方の4時からなので、午後からは家内と買い物に出かけることになった。
龍野で買い物が終わって、「どこへ行く?」と聞かれたので、「どこでも」と答えると、運転している家内は北に向かった。
どこに行くのかと思ったら、伊和神社に行くという。
私は正月から近所の荒神さんや八幡神社を参拝していたので、神社にお参りに行くという考えはなかった。
宍粟市の一宮にある伊和神社には、このところ季節ごとにお参りに来ている。
私の仕事が不安定なので、家内はこの神社にお願いをしている。
3月で常勤の勤務を退職して、4月から非常勤の仕事を考えているので、家内としても不安なのだと思う。
揖保川沿いの道路を通ると、やはりトンドを作ったり、はや燃やしているところがある。
煙が上がっていると、トンドのように思えるが、ただのたき火だったりもした。
神社の前の道の駅は思ったより混んでいなかったが、大きな観光バスが着いたところだった。
ご年配の方がたくさん降りている最中で、駐車するのにも気を遣った。
何回もお参りに来ているが、団体客に出逢うのは初めてである。
まず、参拝をして、道の駅で買い物をした。
帰りの道沿いは、やはりあちこちでトンドが行われており、賑やかなところや数人しかいないところなどまちまちだった。
私も帰宅後、クロの散歩を済ませてから、村のトンドに行った。
トンドは既に火が付いていて、大きな木を燃やすのを私も手伝った。
途中で強く雨が降り出して、雨に濡れた服を乾かしながら、村役の仲間とお酒を酌み交わした。
翌日13日は成人の日で休みだったが、午後から吉備の神社かお寺に参りに行こうと思っていた。
以前から家内から独身の頃に家族で最上稲荷へ正月に行って、道が大変混んでいて途中で引き返した話を聞いていた。
だから、あまりに混んでいたら、途中で引き返しても良いと思っていた。
以前に倉敷に行った時に総社行きのバスが走っていたので、倉敷の方から向かうことにした。
途中から吉備路への案内板が出ていたので、その方面に向かえば問題なかった。
少々不安を抱えながらも、以前通った道に出ると、何とか最上稲荷の入り口に着いた。
そこで、駐車場の客引きのおばさんに誘導されながら、駐車したが1000円もの駐車料金に驚いた。
後で分かったが、もう少し山の方に上がって離れたところなら、500円の所もあった。
車から降りて、門前町の参道には多くの屋台が出され、多くの人で賑わっている。
前日行った伊和神社とはまるっきり違い、まるでお祭りだ。
前回北のは夏で、縁日でもなかったので、人通りも閑散としていたし、閉めている店も多かった。
多くの人がお参りを済ませて坂を下りてくる中、家内と二人で人混みを避けながら上っていった。
古い方の本殿は、赤穂の木津の大工さんが作ったと案内板に書いてあった。
まさか、吉備の最上稲荷が赤穂と関わりがあると思ってもいなかった。
参拝も終え、お守りも買った。
私は今年こそ出版までこぎつけるように「お願い地蔵尊」で家内は健康祈願のお守りだった。
南の岡山方面に向かう来た道は来る時にすごく混んでいたので、いったん北に向かうことにした。
案の定、途中から吉備SAに向かう道に辿り着き、そこから山陽自動車道に入ることが出来た。
SAでトイレを済まして、土産物も買った。
和気まで山陽自動車道で走り、その後国道二号線で上郡に帰った。
播磨と吉備でちゃんとお参りをしたので、きっと今年はいい年になるだろうと思う。
神社やお稲荷さんはそんな気持ちにさせてくれる、パワースポットなのかも知れない。
難しい教義を説かれるよりも、肌でそれを感じるのがアニミズムを古代から受け継いできた私たちなのかも知れない。
そして、何よりも歴史がそこにまた息づいており、それを体感できるのも魅力でもある。
大勢の人でやったので、一時間ほどで仕上がった。
火をつけるのは夕方の4時からなので、午後からは家内と買い物に出かけることになった。
龍野で買い物が終わって、「どこへ行く?」と聞かれたので、「どこでも」と答えると、運転している家内は北に向かった。
どこに行くのかと思ったら、伊和神社に行くという。
私は正月から近所の荒神さんや八幡神社を参拝していたので、神社にお参りに行くという考えはなかった。
宍粟市の一宮にある伊和神社には、このところ季節ごとにお参りに来ている。
私の仕事が不安定なので、家内はこの神社にお願いをしている。
3月で常勤の勤務を退職して、4月から非常勤の仕事を考えているので、家内としても不安なのだと思う。
揖保川沿いの道路を通ると、やはりトンドを作ったり、はや燃やしているところがある。
煙が上がっていると、トンドのように思えるが、ただのたき火だったりもした。
神社の前の道の駅は思ったより混んでいなかったが、大きな観光バスが着いたところだった。
ご年配の方がたくさん降りている最中で、駐車するのにも気を遣った。
何回もお参りに来ているが、団体客に出逢うのは初めてである。
まず、参拝をして、道の駅で買い物をした。
帰りの道沿いは、やはりあちこちでトンドが行われており、賑やかなところや数人しかいないところなどまちまちだった。
私も帰宅後、クロの散歩を済ませてから、村のトンドに行った。
トンドは既に火が付いていて、大きな木を燃やすのを私も手伝った。
途中で強く雨が降り出して、雨に濡れた服を乾かしながら、村役の仲間とお酒を酌み交わした。
翌日13日は成人の日で休みだったが、午後から吉備の神社かお寺に参りに行こうと思っていた。
以前から家内から独身の頃に家族で最上稲荷へ正月に行って、道が大変混んでいて途中で引き返した話を聞いていた。
だから、あまりに混んでいたら、途中で引き返しても良いと思っていた。
以前に倉敷に行った時に総社行きのバスが走っていたので、倉敷の方から向かうことにした。
途中から吉備路への案内板が出ていたので、その方面に向かえば問題なかった。
少々不安を抱えながらも、以前通った道に出ると、何とか最上稲荷の入り口に着いた。
そこで、駐車場の客引きのおばさんに誘導されながら、駐車したが1000円もの駐車料金に驚いた。
後で分かったが、もう少し山の方に上がって離れたところなら、500円の所もあった。
車から降りて、門前町の参道には多くの屋台が出され、多くの人で賑わっている。
前日行った伊和神社とはまるっきり違い、まるでお祭りだ。
前回北のは夏で、縁日でもなかったので、人通りも閑散としていたし、閉めている店も多かった。
多くの人がお参りを済ませて坂を下りてくる中、家内と二人で人混みを避けながら上っていった。
古い方の本殿は、赤穂の木津の大工さんが作ったと案内板に書いてあった。
まさか、吉備の最上稲荷が赤穂と関わりがあると思ってもいなかった。
参拝も終え、お守りも買った。
私は今年こそ出版までこぎつけるように「お願い地蔵尊」で家内は健康祈願のお守りだった。
南の岡山方面に向かう来た道は来る時にすごく混んでいたので、いったん北に向かうことにした。
案の定、途中から吉備SAに向かう道に辿り着き、そこから山陽自動車道に入ることが出来た。
SAでトイレを済まして、土産物も買った。
和気まで山陽自動車道で走り、その後国道二号線で上郡に帰った。
播磨と吉備でちゃんとお参りをしたので、きっと今年はいい年になるだろうと思う。
神社やお稲荷さんはそんな気持ちにさせてくれる、パワースポットなのかも知れない。
難しい教義を説かれるよりも、肌でそれを感じるのがアニミズムを古代から受け継いできた私たちなのかも知れない。
そして、何よりも歴史がそこにまた息づいており、それを体感できるのも魅力でもある。
2020年1月12日日曜日
新たなる「いでたち」
先日、二通目の年賀状が、沖縄(琉球)や中国を研究されている大先輩から届いた。
おそらく、私の年賀状が遅く届いたので、勘違いされたのだと思う。
その賀状には、都立大学の名前が復活することが書かれてあった。
大先輩御自身、大学院時代の母校でもあり、勤務校ともなった都立大学には、強い思い入れがあることを改めて知った。
東急の駅名にも残っている都立大学は、2011年に首都大学東京なり、名前を失ってしまっていた。
私は1985年に修士を修了して以来、一度も母校に足を踏み入れたことはなかった。
ましてや、名前の変わってしまった大学には、なんら親近感などは持てずにいた。
先日、Googleのストリートビューで眺めたら、大学の跡地は公園になっていて、まったく懐かしさはなかった。
この大学前の「柿の木坂」は、ちょうど今頃、修士論文を出す時に、ふらふらになりながら上っていったことを思い出す。
当時、大先輩は都立大の赴任が決まっており、私は博士に進学したら、大先輩のお手伝いをする予定でもあった。
結局、志半ばでそこを去らなくてはならなかった今となっては、辛い思いの風景でもある。
年末から学生時代のものを整理していたが、その中で、学生から社会人になる時の日記を繙いた。
その表紙には「いでたち」と書かれてあった。
夢と希望を失いながらも、高校教師になろうと赤穂に戻り、中学校、高校の臨時講師や発掘作業の臨時雇いをしながら生活した頃である。
教員採用試験に臨みながら、何とか這い上がろうとしていた頃の気持ちが甦ってきた。
私はつい最近まで、「就職できない。このままでは結婚もできない」と悩んでいる夢をよく見ていた。
この頃の辛い経験が夢の中で何度も再現されたわけだ。
そして、何とか採用試験に補欠合格して、4月から地元の養護学校(特別支援学校)に赴任が決まった。
その時に、もう一度過去の絆を取り戻そうともしたが、一度切れた糸はもう繋がらなかった。
そんな折りに家内と出会い、自分は立ち直っていったので、家内には今更ながら感謝せねばならない。
このところ、せっかく教員の採用試験に合格して、学校に勤めながら途中で退職している新任が多いと新聞記事で知った。
確かに、私の新任時代も、けっこう先輩から注意を受けたりして、辛い思いも多くした。
しかし、大学院時代の論文作成の苦しさや、採用されるまでの苦労に比べれば、とるに足らないものだった。
何よりも、普通の家庭を築くことが出来る希望が持てていた。
あのまま大学院に残っていたら、不安定な生活がその後も何年も続いていたはずだった。
その代わり、研究半ばの後悔を引きずって生きねばならなくなってしまった。
ようやく、本が出版できたのは2006年で、20年の年月が過ぎてしまっていた。
それから14年も経ったのだが、その後悔は挑戦する気持ちに変わってきている。
自分にとって新たなる「いでたち」なのである。
都立大学の名前が復活するように、私の研究も復活させたいと思う。
おそらく、私の年賀状が遅く届いたので、勘違いされたのだと思う。
その賀状には、都立大学の名前が復活することが書かれてあった。
大先輩御自身、大学院時代の母校でもあり、勤務校ともなった都立大学には、強い思い入れがあることを改めて知った。
東急の駅名にも残っている都立大学は、2011年に首都大学東京なり、名前を失ってしまっていた。
私は1985年に修士を修了して以来、一度も母校に足を踏み入れたことはなかった。
ましてや、名前の変わってしまった大学には、なんら親近感などは持てずにいた。
先日、Googleのストリートビューで眺めたら、大学の跡地は公園になっていて、まったく懐かしさはなかった。
この大学前の「柿の木坂」は、ちょうど今頃、修士論文を出す時に、ふらふらになりながら上っていったことを思い出す。
当時、大先輩は都立大の赴任が決まっており、私は博士に進学したら、大先輩のお手伝いをする予定でもあった。
結局、志半ばでそこを去らなくてはならなかった今となっては、辛い思いの風景でもある。
年末から学生時代のものを整理していたが、その中で、学生から社会人になる時の日記を繙いた。
その表紙には「いでたち」と書かれてあった。
夢と希望を失いながらも、高校教師になろうと赤穂に戻り、中学校、高校の臨時講師や発掘作業の臨時雇いをしながら生活した頃である。
教員採用試験に臨みながら、何とか這い上がろうとしていた頃の気持ちが甦ってきた。
私はつい最近まで、「就職できない。このままでは結婚もできない」と悩んでいる夢をよく見ていた。
この頃の辛い経験が夢の中で何度も再現されたわけだ。
そして、何とか採用試験に補欠合格して、4月から地元の養護学校(特別支援学校)に赴任が決まった。
その時に、もう一度過去の絆を取り戻そうともしたが、一度切れた糸はもう繋がらなかった。
そんな折りに家内と出会い、自分は立ち直っていったので、家内には今更ながら感謝せねばならない。
このところ、せっかく教員の採用試験に合格して、学校に勤めながら途中で退職している新任が多いと新聞記事で知った。
確かに、私の新任時代も、けっこう先輩から注意を受けたりして、辛い思いも多くした。
しかし、大学院時代の論文作成の苦しさや、採用されるまでの苦労に比べれば、とるに足らないものだった。
何よりも、普通の家庭を築くことが出来る希望が持てていた。
あのまま大学院に残っていたら、不安定な生活がその後も何年も続いていたはずだった。
その代わり、研究半ばの後悔を引きずって生きねばならなくなってしまった。
ようやく、本が出版できたのは2006年で、20年の年月が過ぎてしまっていた。
それから14年も経ったのだが、その後悔は挑戦する気持ちに変わってきている。
自分にとって新たなる「いでたち」なのである。
都立大学の名前が復活するように、私の研究も復活させたいと思う。
2020年1月5日日曜日
二作目への挑戦
先日、ふとAmazonで自分の著書が37,000円とか52,000円で売り出されているのを見て驚いた。
しばらくして、「この本は現在、取り扱いできません」という表示に変わったが、定価3,000円が10倍以上に取引されるとはどういうことかと思った。
今は、「日本の古本屋」で検索すると、3,580円の値段をつけている本屋があった。
普通の本は古本で買うと値段が安いのだが、定価以上の値段が付くということはどういうことなのかも考えた。
要するにそれなりにニーズはあるのだが、出版社は再版しないだろうと言うことで、プレミアムが付いたということかなと思う。
私は現在二作目を執筆中だが、なかなか思うように進んでいない。
次の本は一作目の内容がよく分かるように論を進めているので、二作目によって評価が上がることを期待している。
だから、二作目によって、一作目の再版も可能ではないかとも思っているのである。
だから、再版が不可能と評価されるのは、執筆への発憤材料にもなった。
私は調査研究をしていた学生時代の日記や手紙を繙くのを避けていた。
夢が叶わなかったことの原因を、生活のあり方に帰したので、まともに向き合うことが辛かった。
しかし、歳のせいにして、気弱になっていく自分が、当時どういう思いで、また、どういう支えがあって研究を続けていたのかを振り返ろうと思った。
それらを繙いていくと、自分が当時のことを決めつけていたり、誤解していたことが多かったことに気がついた。
そして、研究と当時の暮らしや人との関わりは一体のものであったと改めて気がついた。
これは、今も同じことで、私が研究を続けられているのは、ありがたいことに家内が理解して支えてくれているからだ。
今は、どうしても仕事の上でのストレスもあって、執筆活動が疎かになりがちだが、当時のように追い詰められているわけではない。
だから、却っていい加減にもなっているし、モチベーションを失いがちである。
その自戒の意味を込めて、当時のことをしっかりと自分で受け止めようと思えるようになった。
それができるまで、35年という年月はあまりにも長すぎるが、それが歳を重ねることの意味なのだろう。
そして、何よりも自分が夢かなわなかった本当の理由が分かったように思う。
それは、自分がその当時に出来ることの見極めが出来ていなかったということだ。
今もそうだが、ある期間に仕上げねばならないことは、その期間で出来ることを見極めることが一番重要だ。
当時、妙な意地があったり、欲を出し手を広げすぎて、まともな修士論文に仕上がらなかった。
それは、早期退職して、半年で出版できなかったことと重なる。
今は、期間を延長することができる、本当は当時もできたのだが、当時の自分は自分を見失っていた。
そしてその結果、その時に夢と掛け替えのない絆を失ってしまった。
今改めて、その経験から次の作品に気を引き締めて臨もうと思う。
それは当時、私を支えてくれていた方への少しでも感謝の気持ちを表したいからである。
そして何よりも、今も自分を支えてくれている家内の苦労に、恥じないようにと思うからである。
しばらくして、「この本は現在、取り扱いできません」という表示に変わったが、定価3,000円が10倍以上に取引されるとはどういうことかと思った。
今は、「日本の古本屋」で検索すると、3,580円の値段をつけている本屋があった。
普通の本は古本で買うと値段が安いのだが、定価以上の値段が付くということはどういうことなのかも考えた。
要するにそれなりにニーズはあるのだが、出版社は再版しないだろうと言うことで、プレミアムが付いたということかなと思う。
私は現在二作目を執筆中だが、なかなか思うように進んでいない。
次の本は一作目の内容がよく分かるように論を進めているので、二作目によって評価が上がることを期待している。
だから、二作目によって、一作目の再版も可能ではないかとも思っているのである。
だから、再版が不可能と評価されるのは、執筆への発憤材料にもなった。
私は調査研究をしていた学生時代の日記や手紙を繙くのを避けていた。
夢が叶わなかったことの原因を、生活のあり方に帰したので、まともに向き合うことが辛かった。
しかし、歳のせいにして、気弱になっていく自分が、当時どういう思いで、また、どういう支えがあって研究を続けていたのかを振り返ろうと思った。
それらを繙いていくと、自分が当時のことを決めつけていたり、誤解していたことが多かったことに気がついた。
そして、研究と当時の暮らしや人との関わりは一体のものであったと改めて気がついた。
これは、今も同じことで、私が研究を続けられているのは、ありがたいことに家内が理解して支えてくれているからだ。
今は、どうしても仕事の上でのストレスもあって、執筆活動が疎かになりがちだが、当時のように追い詰められているわけではない。
だから、却っていい加減にもなっているし、モチベーションを失いがちである。
その自戒の意味を込めて、当時のことをしっかりと自分で受け止めようと思えるようになった。
それができるまで、35年という年月はあまりにも長すぎるが、それが歳を重ねることの意味なのだろう。
そして、何よりも自分が夢かなわなかった本当の理由が分かったように思う。
それは、自分がその当時に出来ることの見極めが出来ていなかったということだ。
今もそうだが、ある期間に仕上げねばならないことは、その期間で出来ることを見極めることが一番重要だ。
当時、妙な意地があったり、欲を出し手を広げすぎて、まともな修士論文に仕上がらなかった。
それは、早期退職して、半年で出版できなかったことと重なる。
今は、期間を延長することができる、本当は当時もできたのだが、当時の自分は自分を見失っていた。
そしてその結果、その時に夢と掛け替えのない絆を失ってしまった。
今改めて、その経験から次の作品に気を引き締めて臨もうと思う。
それは当時、私を支えてくれていた方への少しでも感謝の気持ちを表したいからである。
そして何よりも、今も自分を支えてくれている家内の苦労に、恥じないようにと思うからである。
2020年1月1日水曜日
庚子に期待を込めて
私の元旦は例年通り、愚犬との散歩から始まった。
神社への賽銭だけポケットに入れて、初陽を拝みながらまずは散歩する。
歩き始めてしばらくして、いきなりクロがダッシュして引っ張られて、痛めている腕がうずいた。
元旦早々、クロを怒らねばならなくなった。
そもそも、クロには元旦だからという意識はないのだから仕方ない。
考えてみれば、子どもの頃は元旦から親に叱られたこともある。
それとあまり変わりは無いのかも知れない。
いつもの観音さんと、荒神さんのお参りを済ませて、自宅で朝の祝いを簡単に済ませた。
今年も例年通り、息子は勤務、娘は旅行で、二人だけの年越し、そして元旦となった。
そして、宮総代として10時までに八幡神社に行かねばならなかったので、そうゆっくりは出来ない。
早々に身支度を調えて、自治会長さんのと落ち合わねばならなかった。
この日ばかりは、上着とネクタイの正装をしなくてはならない。
寒い境内に備えて、しっかり防寒対策をして出かけた。
祭礼を待っている間に、同年代で別の村の宮総代の人と話をした。
その人は、元金融関係に勤めていた人で、私より二つ上で、退職して年金暮らしをしている。
東京で単身赴任していたということもあって、色々と共通の話ができていた。
その人は、今は農作業の悠々自適の生活をしておられる。
聞いてみれば、JAの農産物の直売所に里芋を出荷している言う。
儲けにはならないけど、ネットから売り上げ情報が入ってくるのが、わくわくして楽しいそうだ。
暮らしを維持するための出荷ではなくて、自分の作った農産物を買ってもらえると言うことが喜びになっているようだ。
私が思い描いていた暮らしを実現していることを知って、非常にありがたかった。
宮総代は面倒な役割だと思い続けていたが、こういう情報をもらえる良い場でもあるときがついた。
70歳以上の年配が大半を占めて、地元出身ではない自分は会話にはなかなかついて行けなかった。
自分と共通話題での会話が出来る数少ない宮総代がいてくれるだけありがたい。
また、自分が地元の高校で教鞭を執っていた時の教え子に声をかけられた。
私は当然憶えていなかったが、しっかり名前を覚えてくれていて嬉しかった。
今は失業中で、再就職のための訓練を行っているという。
年齢も39歳で氷河期と言われた世代でもある。
こうやって地元の神社の祭礼に一般参加して、広く関わりを持とうというのは良いことだと思った。
どうしても、神社の行事は年寄りと子どもの行事になってしまうが、若い世代や働き盛りの人にも加わってもらいたい。
今の若い宮司は、今年から小学生に秋祭り浦安の舞の参加、正月に絵馬の奉納など、新しい取り組みも行ってくれている。
地域が寂れていく中、もっともっと地元のことを考える人が増えていってくれればと願わずにはいられない。
今、地球が温暖化で環境崩壊が叫ばれ、日本は地震や猛烈台風など災害の危機が懸念されている。
「庚子」が表す意味は、新たな芽吹きと繁栄の始まりだそうである。
この危機的な状態を変えて行くには、新しい考え方生き方が必要だと思う。
私は今年こそ、執筆でもそれを訴え、生活でも実践していきたいと思っている。
神社への賽銭だけポケットに入れて、初陽を拝みながらまずは散歩する。
歩き始めてしばらくして、いきなりクロがダッシュして引っ張られて、痛めている腕がうずいた。
元旦早々、クロを怒らねばならなくなった。
そもそも、クロには元旦だからという意識はないのだから仕方ない。
考えてみれば、子どもの頃は元旦から親に叱られたこともある。
それとあまり変わりは無いのかも知れない。
いつもの観音さんと、荒神さんのお参りを済ませて、自宅で朝の祝いを簡単に済ませた。
今年も例年通り、息子は勤務、娘は旅行で、二人だけの年越し、そして元旦となった。
そして、宮総代として10時までに八幡神社に行かねばならなかったので、そうゆっくりは出来ない。
早々に身支度を調えて、自治会長さんのと落ち合わねばならなかった。
この日ばかりは、上着とネクタイの正装をしなくてはならない。
寒い境内に備えて、しっかり防寒対策をして出かけた。
祭礼を待っている間に、同年代で別の村の宮総代の人と話をした。
その人は、元金融関係に勤めていた人で、私より二つ上で、退職して年金暮らしをしている。
東京で単身赴任していたということもあって、色々と共通の話ができていた。
その人は、今は農作業の悠々自適の生活をしておられる。
聞いてみれば、JAの農産物の直売所に里芋を出荷している言う。
儲けにはならないけど、ネットから売り上げ情報が入ってくるのが、わくわくして楽しいそうだ。
暮らしを維持するための出荷ではなくて、自分の作った農産物を買ってもらえると言うことが喜びになっているようだ。
私が思い描いていた暮らしを実現していることを知って、非常にありがたかった。
宮総代は面倒な役割だと思い続けていたが、こういう情報をもらえる良い場でもあるときがついた。
70歳以上の年配が大半を占めて、地元出身ではない自分は会話にはなかなかついて行けなかった。
自分と共通話題での会話が出来る数少ない宮総代がいてくれるだけありがたい。
また、自分が地元の高校で教鞭を執っていた時の教え子に声をかけられた。
私は当然憶えていなかったが、しっかり名前を覚えてくれていて嬉しかった。
今は失業中で、再就職のための訓練を行っているという。
年齢も39歳で氷河期と言われた世代でもある。
こうやって地元の神社の祭礼に一般参加して、広く関わりを持とうというのは良いことだと思った。
どうしても、神社の行事は年寄りと子どもの行事になってしまうが、若い世代や働き盛りの人にも加わってもらいたい。
今の若い宮司は、今年から小学生に秋祭り浦安の舞の参加、正月に絵馬の奉納など、新しい取り組みも行ってくれている。
地域が寂れていく中、もっともっと地元のことを考える人が増えていってくれればと願わずにはいられない。
今、地球が温暖化で環境崩壊が叫ばれ、日本は地震や猛烈台風など災害の危機が懸念されている。
「庚子」が表す意味は、新たな芽吹きと繁栄の始まりだそうである。
この危機的な状態を変えて行くには、新しい考え方生き方が必要だと思う。
私は今年こそ、執筆でもそれを訴え、生活でも実践していきたいと思っている。
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