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2023年12月30日土曜日

となぜのじいちゃん

 私は生まれたときには、祖父はひとりしかいなかった。

母方の祖父は、母が子供の頃に戦死していたからだ。

父方の祖父は、元船乗りで、物心がついたときには、庭師をしていた。

一番の印象は、左手の中指と薬指の先が無かったことだ。

仕事で石を扱っていて潰してしまったそうだが、子供心にはその手を見るのが怖かった。

また、猟師もしていて、猟銃もあったし、ポインターも飼っていた。

その犬を非常に大事にしていたので、父は子供より可愛がっていて、自分は犬嫌いになったと言っていた。

しかし、その父も晩年は自分もプードルを飼って可愛がっていた。


祖父は、人に雇われずに生きてきたので、気が強く、強面であった。

子供に対しても厳しすぎるくらいだったので、長男は一緒に働くくらいなら、戦争に行った方がましだと、少年兵に志願して戦死した。

私の父も、子供の頃から厳しく育てられ、赤穂中等学校も中退させられて一緒に船に乗せられた。

その学校をあと1年で卒業できたのに、中退させられたことをずっと根に持っていたようだった。

祖父の家業は、鷏和で産する御影石を主に運ぶ仕事で、機帆船時代から始まり、当時は100トンくらいの木造船だった。

結局、本家は次男が継ぎ、父は独立して家業を続けたが辞めて、造船所の職工になった。


いわば、祖父は家長であり、もと親方でもあったので、子供とは一線を画してしまっていた。

正月や盆でも子供の家族が集まってくるのに、一緒に食事などはしなかった。

自分の子供とはあまり仲が良くなかったが、私のような孫は普通に可愛がるじいちゃんだった。

父には怖い祖父として聞かされていたが、叱られた記憶がない。

小さい頃は遊んで貰った記憶は無いが、お年玉をくれる有り難いじいちゃんだった。


そんな祖父との一番関わった経験は、庭師の仕事で、山に木を採りに行ったりするのを手伝わされたことだ。

当時高校生だった私は、山を登る70歳を超えた祖父の後をついて行くのがやっとだった。

孫の中で祖父と仕事をした経験があるのは自分だけだった。

そんな祖父も、83歳で脳梗塞に倒れて亡くなった。

だから、その後親戚が集まって、祖父の話題で懐かしく語ることが出来るのは、私と祖父の娘婿くらいだった。


父は最期まで祖父と仲良くなれなかったようだった。

祖父と父が仲良くしている姿の記憶が無い。

私も父とは思春期から結婚するまで非常に仲が悪くなったが、孫が出来てからは普通の親子に戻って一緒に農作業などをしたりした。

そこまで親子で確執を生んだ経緯は分かるが、祖父を理解することは、この歳になるまで分からなかった。

家や家業を守ることの厳しさを体に染みつかせていたのだと思う。

父も厳しかったが、月給取りの暢気さもあった。

私は最初から公務員の月給取りで暢気なものだ。

祖父は企業や官公庁に対等に渡り合って生きてきた強さを持っていた。


一番祖父の気丈さを思い知らされたのは、父の建てた家に庭を造るときのことだった。

当時高校生だった私は直接見ていないのだが、見ていた母親から聞かされた話である。

祖父を中心にして、庭を造ったのだが、その時にいつものように、祖父は猟犬を車に積んでいた。

猟期でも無いのに、猟犬を積んでいたのを見つけた私服警官が、祖父を問い詰めたそうである。

それを怒った祖父は、その警官の胸ぐらをつかんで「証拠でもあるんか」と怒鳴ったそうだ。

よく公務執行妨害で逮捕されなかったと思うが、私服警官をたじろがす迫力を持っていて、母も恐れをなしていた。

自分も、その祖父の血を少し受け継いでいると、思い当たる節もあるのだが・・・・

そんな祖父こそ、時に命がけで一揆さえも起こしていた、百姓の生き残りだったような気がする。





2023年12月25日月曜日

村の真のアナキスト?

 アナキストと言えば、革命家とかテロリストのように思えるのだが、ここでいうアナキストは国家や宗教の権威による政治的支配を否定、または恩恵を拒んだ人という意味である。

もう。その人は亡くなってしまい、住んでいた家(土地は借地)は更地になった後、草だらけになっている。

もともと、その人はこの村で生まれたのではなく、親戚を頼って都会から移り住んで、しばらくはクリーニング屋をしていたという。

私がこの村に移り住んできた頃は、もう店も廃業して、色々とアルバイトをして暮らしていた。

頼った親戚も村を去ってしまって、もう親しい縁者は誰もいなくなってしまっていた。

このKさんとは、村の行事や仕事で会うとよく話をしたし、普段でも道で会うと声を掛け合う仲だった。

Kさんは年老いて、非常に貧しい生活をしていたので、一度だけ生活保護を受けたらと進言したことがある。

しかし、彼は貯金があるからと言って拒んだが、受けることを恥のように考えているようだった。

身なりもみすぼらしく、悪臭も放っていたKさんだが、Kさんなりにプライドを持っていた。


年老いて、出来る仕事も減ってしまい、車も維持できなくて、健康目的もかねて遠くまで歩くのを日課としていた。

一人暮らしのKさんは、村では隣保長はできないからとそのかわりに、公園の管理の仕事を毎年引き受けて、行事には熱心に取り組んでいた。

村作業でも、人一倍動くし、無理して高い草刈り機なども買って持っていた。

そんな元気だったKさんも、心臓の病気を患ってしまった。

ちゃんとした治療もあまり受けてないようで、見てからも症状が重いということが分かったが、家に居続けていた。

民生委員の人もKさんを気にかけて、定期的に訪ねていって、病院にも連れて行ってあげていた。

その民生委員の人がある朝訪ねていったら、Kさんはすでに亡くなっていた。


普通なら、村の人が葬式を手伝うだが、近くにいた兄弟は、本人とも関係を殆ど持っていなかったようで、直葬で済ませてしまった。

残ったのは、足の踏み場も無いゴミ屋敷だけと思ったら、Kさんは貰えるはずの年金が300万円も残っていたという。

身寄りの人は、そのお金を使う形で町に依頼して、その家を片付けて貰い更地にして、土地を地主に返したのであった。

Kさんがなぜ貰えるはずの年金を貰っていなかったのか、理由は分からない。

単に手続きが面倒でしなかっただけかもしれない。


生活保護も受けず、年金も貰わずに暮らしていたKさんが亡くなった年齢は74歳だった。

村では60歳にも達せず、自分で年金を使わずに亡くなった人は何人もいる。

その人たちの多くは、立派な持ち家に住み、しっかり収入を得ていた人たちだ。

私と同じ教師でも、年金を自分で貰わなかった人や、もらい始めてすぐに亡くなった人を何人も知っている。

年金も生活保護も受けずに暮らしたKさんは、その人たちよりもよほど長生きしたと言える。

男性の平均寿命に比べて74歳は長生きとは言えないが、私の父が77歳で亡くなったので、それより3歳若いだけだ。


かつてはクリーニング屋に雇われて技術を身につけ独立した後は、貧しいながら自由に生きてきたのがKさんだ。

民生委員の人以外は、誰の世話にもならず、迷惑もかけずにみんなと普通に暮らしていたKさんこそ真のアナキストと言えるのかもしれない。

ただ、Kさんは国家の支配を拒んだのでは無く、単に無関心だっただけかもしれないが、恩恵を拒んだことも確かだ。

国立大学に勤めながらアナキシズムを唱えて本を出版し印税を稼ぐ学者と、どちらがアナキストらしいのだろう?

Kさんはかつて、自転車選手として活躍していたことを話してくれたことがある。

きっと、あの世では衣食住の憂いも無く、自由に自転車を乗り回しているだろう。

かく言う我々もあの世へ行けばアナキストでいられるはずだが、神の国や天国に行きたい人はなりたくもないだろうけれど・・・


2023年12月23日土曜日

遠くで汽笛を聞きながら

 10月8日に、元アリスの谷村新司が亡くなったが、今日ラジオマンジャックの聞き逃し配信を聴いていて、谷村新司の追悼式の話題でまた思い出した。

私はアリスの曲はギターを弾きながら友達と一緒に歌ったり、一人でも部屋でよく歌った。

ステージの上では一度も歌ったことは無いが、盆や正月に親子兄弟でカラオケに行くと、必ずアリスの曲を一緒に歌っていた。

いとこは高校時代に「終止符」を自分でギター演奏して歌って録音したものを、谷村のラジオ番組に送って、ラジオでかけてもらった。

谷村本人からすごく褒められていて、いとこの母親も非常に喜んでいたのを憶えている。

私は当時隣に住んでいたいとこの様子をよく知っていたので、歌に本人のその時の気持ちがしっかり込められていたのが良かったのだと思っている。


私も「遠くで汽笛を聞きながら」は、自分の経験に重ねてしまう歌で、未だに時々一人で歌っている。

  俺を見捨てた女(ひと)を 恨んで生きるより

この言葉は心に突き刺さる。

正確には見捨てられたと言うより、愛想を尽かされた私は恨むことさえできなかった。

身勝手だった私は見捨てられて当然だったと思っていたので、この歌詞には違和感があったが、見捨てられたことを吐露する気持ちには共感できた。

しかし、自分が見捨てられたことの意味を自分に納得させることは、この歳になるまでなかなか出来なかった。

つまり、相手が自分にどんな感情を抱いたのかを、想像できない、否、したくなかったのだ。

そういう自分の心を誤魔化すには、

  せめて一夜の夢と 泣いて泣き明して

と心を通わせた日々が夢だったのだと、泣きながら歌い続けるしか無かった。

しかし、今は彼女がどんな気持ちで、私と訣別したのかを思い巡らせることができる。

自分が彼女の立場だったら、同じように愛想が尽きていただろうとも思う。


谷村新司の歌の素晴らしさは、こうして自分の気持ちを託せる歌詞とメロディーだ。

たぶん、いとこも

  あの夏の日がなかったら 楽しい日々が続いたのに

という歌詞に自分の気持ちを託したのかもしれない。

死にたいほど辛く傷ついた心でも、なんとか「生きていきたい」という自分の気持ちを、私もこの歌に託していた。

今住んでいる上郡の我が家では、遠くで貨物列車が通る音も聞こえるし、本当にたまに「汽笛」も聞こえる。

その線路をそばで眺めて、彼女と一緒にこのレールの上を寝台列車に乗って通ったことを思い出したりもした。

この歌の「汽笛」は青函連絡船の汽笛だそうだが、私にとってはかつての「あさかぜ」や「はやぶさ」と同じ電気機関車の鳴らす汽笛だ。

ただ、今住んでいる所は、二人で過ごした街とは全く関係が無く、「何も良いことが無かった街」では決して無い。

相変わらず身勝手な私を見捨てずに一緒に生きてくれている妻や子供と、心を開いて生き続けている村だ。

そういう意味では、この歌は自らも見捨てて忘れたかった、かつての若き日の自分への鎮魂歌として歌い続けているのだ。





2023年12月19日火曜日

となぜのばあちゃん

 私は父方の祖母をとなぜ(鳥撫)のばあちゃん、母方を相生のばあちゃんと言っていた。

私が幼い頃、相生のばあちゃんは母の子育てが大変な中で、しょっちゅう手伝いに来てくれていた。

やがて、相生から引っ越して隣のばあちゃんになった。

となぜのばあちゃんは、本家のばあちゃんで、私が男としては初めての孫だった。

本家にはいとこの姉がいたので、一緒に遊ぶことも多く、鳥撫から尾崎に引っ越した後も、本家に預けられることも多かった。

赤穂まで買い物に行くときに連れて行ってくれたりして、ソフトボールで使うグローブを買って貰ったのを憶えている。

ばあちゃんの名前はたつゑと言って、遠く小赤松(上月町)の出であって、近所には親戚はいなかった。

子供は7人できて、長男は戦死し、一人は溺死、一人は病死して、結局4人生き残った。

私の父は三男で祖父と同じ船乗りだったが、辞めて職工になって本家の鳥撫からも離れてしまった。

ばあちゃんの子供は仲が良く、正月や盆にその家族も一緒に集まって楽しく過ごしたが、それは祖母に惹かれて集まっていたと思う。

そういう和やかな場には、祖父は殆ど関わらなかった。

祖父は船乗りであり、経営者として厳格な性格であり、ばあちゃんはそれでかなり苦労したようだった。

また、本家を継いだ2男も夫婦で船に乗っていたので、いとこの姉はばあちゃんに育てられたのも同然だった。


先日、自分の写真を整理しようと思って、結婚式の写真を見たらそのばあちゃんが写っていたので驚いた。

自分の結婚式にわざわざ身支度をして参席してくれていたのだ。

私の母は結局、孫の結婚式には一度も参席せずに他界した。

となぜのばあちゃんは孫の私のために、無理して来てくれていたのだった。

実は、私は恥ずかしながら、学生時代にずっとばあちゃんからお金を貰っていた。

自分が苦学生だと知っていて、こっそり母に託してくれていた。

私はそのお礼をちゃんと言えないまま、ばあちゃんの葬式に参列しなくてはいけなかった。

ばあちゃんは調子が悪いのに、病院にかかるのを拒んで、入院もせずに急に旅立ってしまった。

結婚してから忙しさに感けて、ばあちゃんとゆっくり話す機会も無かった。

そのことを葬式の時に本家のいとこの姉に涙ながらに話すと、「気持ちはちゃんと届いとるで」と慰めてくれた。

ばあちゃんは全ての孫(全部併せて11人)を可愛がっていたが、亡くなって一番号泣して哀しんでいたのは、本家の近くに住んでばあちゃんの側にいた四男の娘であった。

私の母がこの七月に亡くなったが、その時のいとこほど泣いた孫はいなかった。


たぶん、祖母は孫と関わることによって、暮らしに生きがいを見いだしていたのだろうと思う。

私も祖母からの無償の愛情に育まれながら成長できた。

祖父母と孫の関わりの大切さを改めて感じている。

私の父母も孫(全部併せて6人)と関わるのを楽しんでいたし、立派になるのを喜んでいた。

自分にはまだ孫はいないし、将来もできないかもしれない。

子供が欲しくてもできない夫婦もいるのだから、高望みは言うまい。

せめて、孫のような子供や若者に、何か尽くすことができればと思っている。

と言いながら、今、関わっている高校生は孫と言ってもおかしくない年齢だが・・・



2023年12月15日金曜日

Imagineに託す希望

 NHKのアナザーストリー「ジョン・レノン そして「イマジン」は名曲になった 初回放送日: 2023年12月8日」を見て、授業でイマジンを紹介したいと思った。

この名曲を私が教えている高校生は殆ど知らない。

英語の授業のように、一文一文生徒に訳してもらい、解説を加えた。

そして、最後にYouyubeで動画を観てもらった。

普段授業中に寝ている生徒もこの時ばかりは真剣に聞いてくれていた。


NHKも戦争が多発している今だからこそ、ジョンレノンの命日に放送したということはよく分かる。

今年はFMラジオでもディスカバービートルズⅡが放送されていて、そこでもジョンのことを詳しく語られている。

私たちの世代はビートルズを知らない者は殆どいないと思うが、その4人の誰が好きかという好みの違いがある。

私はどちらかというとポールが好きだったし、バンドのボーカルとしては、仲間からジョンよりもポール的だと言われていた。

最近ポールの性癖を知ってからは、ジョンの方に惹かれるようになっていた。

また、オノヨーコはあまり良い印象では無かったのだが、Imagineの元となった詩は彼女が書いたことを知って、ジョンにとってのその存在の大きさが理解できた。


このImagineのことを山間部の生徒に語ったところ、生徒から自分の父親もビートルズが好きでよく聴いているという話を廊下で歩きながら聞かされた。

その生徒の父親は今でもバンドを続けていて、ベースを担当しているという。

生徒はその影響で、自分もギターを練習しているし、ビートルズの曲もよく知っているようだった。

ビートルズは親子とか、教師と生徒のように大きく離れた世代を結びつけてくれる力を持っている。

そして、Imagineは世界の人々の心を結びつける力さえ持っている。

それを生徒に知ってもらいたかった。

歌には人々の心に訴えかける力があり、こういう時代でも今日をしっかり生きていこうという気持ちにさせてくれる。


ジョンのHappy Xmas (War Is Over) は、勤務していた特別支援学校の忘年会の余興で職員バンドのボーカルとして歌ったことがあった。

Imagineに関しては、ステージで一度も歌ったことが無かったし、練習したことも無かった。

あまりにも有名すぎて、人前で歌う気にならなかったからだ。

NHKの番組を観てからは、ギターを弾きながら一人で家で歌って練習している。

できれば日本でも平和運動としてみんなと一緒に歌えればと思っているのだが・・・・



2023年12月13日水曜日

微笑みにやりがい

 山間部の高校生は男子も女子も、授業前後や廊下で親しく話しかけてくれる。

都市部の高校生は男子に関しては、話しかけてくれることもあるが、女子はきちっと挨拶をしてくれるが話しかけてはくれない。

用も無いのにこちらから馴れ馴れしく話しかけるわけにもいかない。

ただ、そのかわり都市部の生徒は、職員室の前の廊下であったりすると、たまに微笑みかけてくれる生徒もいる。

すると、こちらもちょっとした言葉を投げかけることもできる。


この年齢になると、店員や仕事上の知人で無い限り、女性から微笑みかけられることはまずない。

ましてや若い女性からは皆無と言って良いだろう。

それどころか、行き交う人の視線さえ感じることはまず無い。

それは私が人相が悪いからかもしれないが、若い頃は少しは視線を感じたこともあった。

白髪の髭を生やした老人はいくらお洒落しても、若い女性の眼中にはないことはよく分かる。

そういう老教師にでも微笑んでくれるのが、女子高校生だ。

気の重い仕事をしていても、そうした何気ない頬笑みでずいぶんと救われるということを最近感じた。


担任やクラブの顧問をしていた頃は、生徒とは親密に関わらざるを得ないので、真顔で接する機会の方が男女とも多かったと思う。

こうして、非常勤講師として接する機会の少ない老教師にとっては、そういう少ない生徒との関わりがやりがいを生んでくれる。

当然、そのやりがいだけで仕事が続けられるわけでは無いのだが、心に潤いを与えて少しでも頑張ろうと思える。

やりがい搾取を受けている身分でも、生徒からはこうしてお返しをもらっていると思わざるを得ない。


山間部の生徒とは常勤で勤めていた頃と変わらなく接することができるのも魅力でもある。

そういう魅力がありながら、片道約50kmで一時間もかかる通勤は非常勤講師には大きすぎる負担だ。

そして、何よりもⅠクラスしか無いので、非常勤講師には授業準備が大きな負担となる。

この年齢でやりがいを感じさせてくれる学校なのだが、その代償となる負担が続ける自信を失わせている。


私は得られる報酬だけで働いてはいないし、やりがいで搾取されているとばかり感じてはいない。

年金だけで十分暮らしていけるのに、非常勤講師を続ける教師も同じ気持ちだと思う。

私はこの都市部の学校では、模擬試験も受けない科目を担当していて、生徒のモチベーションも低い。

だから、少しでも関わりを持ちたいと思うのだが、山間部ほどは上手くいっていない。

そんな中で、仕事を続けられる大きなやりがいとして、こういう生徒の微笑みがあったのだと改めて感じた。



2023年12月10日日曜日

よそよそしい姫路城

 久しぶりに姫路駅周辺の商店街に行く用事ができた。

姫路には週に二度、非常勤講師の仕事で行っているのだが、お城は半年以上見ていない。

私は中学高校と6年間お城の側の学校に通っていたので、お城を見ると旧友に会ったような気持ちになる。

姫路は駅を中心に大きく様変わりしてしまい、50年前に有ったものを探すことさえ難しくなっている。

ちょうど、ヤマトヤシキも解体されていて、昔のまま残っているデパートは無くなってしまったと思う、

私は中学部時代に通学として使っていたのは主に御幸通りだったが、高等部になってからはお溝筋を使ったり、大手前通りの歩道を歩いたりした。

今日は、城に向かうときはお溝筋を通っていった。

しょっぱな、フォーラス(旧ジャスコ)がマンションに変わっている姿に、改めて時代を感じさせられた。

フォーラスがあった頃はお溝筋も賑やかだったが、今は本当に路地裏の飲食店街になってしまったように思う。


通学していた頃は、市民会館の前を通って直進したが、今日は途中から御幸通りに戻った。

私がフォークギター(yamaki)を友達に選んでもらって買った楽器屋に立ち寄ってみたが、店の中は店の人は一人で楽器を修理していたが、とても殺風景だった。

因みにこのギターは糸巻きを取り替えて、今でも私には欠かせないものとなっている。

本町商店街は、やはり薩摩屋が懐かしい、もう日の丸の鉢巻きをして店の前にいたおじいさんはいないが、残っているだけでも嬉しい。

古本屋にも立ち寄ったが、昔はおじいさんがいたはずだったが、おばあさんが店番をしていた。

本が雑然と並べてあって、洋書で出物が無いか見てみたが、積み上げられた本で探すことさえ難しかった。

大手前公園はコスプレのイベントがあったらしく、華やかと言うよりも、異質な別空間という感じだった。

サムライ姿のコスプレには姫路城がふさわしく思われているのだろうが、歩兵連隊本部があったことを考えれば軍服のコスプレもお奨めである。


大手門をくぐって天守閣を見上げると、こんなに荘厳だったかと改めて見直した。

通学していた頃は毎日見飽きていて、雪が降ってきれいな時くらいしかその美しさを感じることは無かった。

私が苦手としていた東北弁の美術の先生が、ずっと城を描き続けていたことが分かるような気がした。

因みに私は小学校の時には絵を習っていて自信があったのだが、どうもその先生とは合わなくてよく叱られていたし、成績も悪かった。

その先生はお城の波風の形を覚える方法を授業で語っていたが、当時は全く関心が無くて憶えていない。

姫路城が他の城よりもずいぶん立派に見えるはやはり大千鳥破風のおかげだろう


私は天守閣と動物園の間の坂を通って学校に向かっていたのだが、その道は当時は舗装されていなかった。

一番驚いたのは、動物園そばのもみの木が大木になっていたことだった。

これこそ、半世紀の時の流れを視覚で感じるものだった。

きれいに舗装された道は歩きやすかったが、かつて無かったロープでの進入禁止、石垣の鉄条網付きのネット塀が無粋に思えた。

確かに見上げた天守閣は今でも心を奪われるほど荘厳で美しい。

しかし、世界遺産になって、それを維持管理するために人を寄せ付けなくなった感じがした。

かつては、堀の上の石垣に登って、友達としゃべくっていた所にも、立ち入りができなくなっていた。

私たちはかつて、天守閣の周りを冬場には体育の時間に走らされたり、国語の時間に俳句を作るために歩かされたりした。

特に天守閣の北側の公園は、友達と放課後にぶらついて歩く楽しみの場所でもあった。

学校の三階トイレの窓から用を足しながら眺める天守閣が一番好きだった。

ただ、姫路西校に出張で行く用事があって、上階の南側の窓から眺める天守閣が今までに無く素晴らしいと思ったこともある。


今日は土曜日で観光客や修学旅行生徒で溢れた城だったので、余計に昔と変わったのかもしれない。

また、平日の人が少ないときにやってくれば、昔のように親しみを感じさせてくれるだろう。

ただ、私の通っていた学校は建て替えられてしまって、当時の面影は体育館横のコンクリート塀と、北側の教会だけに残されたのみだった。

と言うことで、母校よりもお城の方が懐かしい存在であり続けてくれている。

いずれ、動物園も消えてしまうと言うので、今はよそよそしく感じる城は、一番親しい存在になるだろう。


駅の方に戻るときは、御幸通りを使った。

一番に目に飛び込んだのは、アーケードに取り付けられたイルミネーションだった。

この通りがシャッター街にならず、今でも賑やかであり続けるのは、お城のお陰だと思う。

播磨姫路こそ城でもっているのだと改めて思った。


2023年12月7日木曜日

コウノトリの来訪(2023年12月)

 今日(12/7)は仕事が無いので、朝の9時過ぎにのんびりとクロと散歩をしていた。

すると、姫上線(兵庫県道5号姫路上郡線)から南に伸びた道路の路肩に、見覚えのある白い車が停まっている。

やっぱりそうだ 近所のコウノトリの追っかけカメラマンOさんが撮影している。

思わずその近くの鉄塔を見上げると、2羽がてっぺんにとまっている。

Oさんの車が無かったら完全に見逃していた。

Oさんに手を振ると、彼も嬉しそうなポーズを返してくれた。

Oさんは重い持病を抱えているのだが、コウノトリが冬場に戻ってくると俄然元気が出る。

早速、うちに帰ると家内にも、いさんで報告したら、家内も一緒に喜んでくれた。


今年は稲が大きく伸びるまで、3羽も長く滞在してくれていた。

きっと帰ってきてくれると心待ちにしていたのだが、心配事がある。

その一つは、山陽自動車道が赤穂付近で通行止めになっているので、姫上線に多くの車が迂回して通っている。

特に大型のトラックが頻繁に通っているので、その騒々しさで嫌にならないかということだ。

もう一つは、キツネが昼までも走り回っていることだ。

先日も、夕方の散歩の途中に大きな貯水池の土手に上がると、いきなりキツネが走って逃げていった。

どうも、貯水池の水際にいる水鳥を狙っていたようだ。

まだ、若ギツネのようだから、狩りは下手だとは思うが、安心はできない。

そして何よりも、今年の猛暑の影響で、餌となる小動物が減っているということだ。

前にも書いたように、農薬の空中散布の影響などもあって、昆虫や小動物が減ってしまい、雀やツバメも減ってしまっている。


そういう心配がありながら、コウノトリの我が地域への来訪は何よりも楽しみである。

冬場の何も無い水田の景色の中に、コウノトリの姿を見いだすと本当に救われた気分になる。

そして、大空を悠然と翼を広げてい飛んでいる姿は、自分も空を飛んでいる心地にさせてくれる。

昔の人はコウノトリも鶴として大切にし、幸せを願う心を託していたのだと思う。

まさしくOさんはコウノトリに生きる力をもらっていると言って過言では無いだろう。

ニュースでは戦争や犯罪、政治家の腐敗など気の重くなることばかり流れてくる。

そんな中で、コウノトリの来訪は、私にとっても日々の励みを与えてくれるものだ。

まだまだ、捨てたもんじゃないよ!

この幼稚園が廃園になってしまった過疎の村も!

きっと、赤ん坊も運んで来てくれるでしょう・・・




百姓のすすめ

 自分たちは農作業をすることを百姓すると言っていた。

父方の本家には田んぼもあって、幼い頃に父親が田植えを手伝うのについて行ったりしていた。

父は三男であり、結婚当初は鳥撫(鷏和)では借家暮らしで、夫婦と子供と雇い入れた若者とで木造船に乗って石などを運んでいた。

明石沖で遭難しかかったことをきっかけに船の仕事を辞めて造船所の職工になり、尾崎に小さな中古の家を買って移り住んだ。

父は百姓が好きだったようで、畑や田んぼを私の母方の祖母と共同で持つようになった。

田植えや稲刈りには祖母の家族(祖母も伯母も夫に先立たれていた)も手伝いに来てくれたりしたが、殆ど父が一人でやりくりしていた。

母は町育ちだったので、百姓仕事は嫌いで、たまに父に言われて手伝う程度だった。

田んぼは高校用地で1枚が売れて資金ができたので、別の田んぼを埋め立てて家を建てたので、自分が中学校の頃には無くなり畑だけになっていた。


私は長男だったので、どこに行くのにも連れて行かれたが、特に畑仕事は自転車の後ろ乗せられてついて行っていた。

だから一通りの作業は教え込まれていたが、父が昔からの経験でやるのを手伝っただけであった。

一番嫌だったのは草抜きだった。

先日も、かつて同じように畑仕事を手伝わされた四男がしぶしぶ草抜きをしていて、父に家に帰れと叱られたことがあったことを聞かされた。

四男はそういう経験もあって、近くに父から受け継いだ畑があっても、百姓は今でもしようとはしない。

自分はどちらかというと、耕したりする時に、力があることを見せて父に認めてもらいたい方だった。

4人兄弟の全員が百姓の手伝いをさせられているのだが、結局今でも続けているのは私だけである。


と言いながら、中学受験を小学校6年から始めて、大学院を出て教師になるまでは、たまにしか父の手伝いはしなかった。

私が百姓をし始めたのは、結婚後、赤穂の大津に借家住まいをして、子供ができてからである。

子供に安全で美味しい野菜を食べさせてやりたいというのが動機だった。

だから、当初から無農薬であり、そのうち化成肥料も使わず有機肥料に変えた。

雑誌の「現代農業」を定期購読し、農業書も色々読んだりもした。

30年ほど前に上郡に移り住んだのも本格的に農業をやりたかったからだった。

ところが、稲作地帯の近隣では、畑仕事は女性の片手間仕事で、畑も少なくなかなか貸してもらえなかった。

また、農業資格がとれるだけの機械や倉庫も無かったし、基盤整備した農地は高額で、農地は取得できなかった。

現在のように1反ほどの休耕田を借りて畑を作り始めたのは、10年ほど前からである。

当初は自分一人ではタマネギ一つまともに作れなかったのに、今は無農薬・有機肥料で大抵のものは作れるようになった。

特別支援学校では農作業を担当したりもした。


子供も育ち、孫もいない現在でも百姓に拘るのは、単に健康志向からだけではない。

自分達が食べるものを少しでも、自分で手に入れたいという思い入れと、作ることそのものに楽しみがあるからだ。

その楽しみとは、自分がてしおにかけた作物達が立派に育っていき、それを有り難くいただいたり、種として残してまた育てる楽しみである。

近所の人も、百姓をしている人は、作る楽しみを感じながらやっているようで、余分に作って人にあげるのも楽しみの一つだ。

中には田んぼで死ねたら本望だという人さえいる。

その一方で近所の同年代の人の多くが、若い頃に無理矢理農作業をやらされたので、今はしたくないという。

自分は幸いに学業を理由に、若い頃は逃げてこられたので、嫌にならずにすんでいるのだろうとも思う。

それは無理矢理やらされていた勉強やスポーツと同じで、好きにならないと続くものではない。

考えてみれば私は勉強もスポーツも好きなことしかやってこなかった。

だから、百姓は好きだからやっている。

たぶん、出荷して金を儲けようとしたとしたら、楽しみでは無くなって辞めていたかもしれない。

同じ村の専業農家の余裕のない働きぶりを見ていると、自分には向いてないと思う。

それじゃ単に趣味だと言われるかもしれないが、退職してからは生きがいの一つでもある。

百姓をしているときの方が体調も良く、気分がよく、研究はその合間でやる方がいい。

近所の早期退職後に本格的に農家になった人が、肺がんを克服したのも分かるような気がする。


世の中が近代化される前では、学問がすすめられた。

近代化されて疲弊している現代では、百姓をすすめるべきのように思う。

特に、退職後で年金や賃労働の収入に不安を抱えるものにとっては、百姓は収益という意味では気休めではあるが、暮らしとしては心強いものでもある。

因みに百姓は山野河海で食べられるものは、自分で何でもちゃんと手に入れたり、交換したりする。

多くの歴史学者や民俗学研究者が言うように、百姓は農作業だけしていたのではない。

私は百姓の原点に立ち戻りながら、学問も進めたいと思っている。

作物や自然の恵みに感謝しながら・・・



2023年11月28日火曜日

子育てと恋愛

「子供は3歳までに一生分の親孝行をする」という言葉を久しぶりに聞いた。

今勤めている職場の若い男性職員に、年配の職員が言って説明していた。
若い男性職員は生まれて間もない赤ん坊の子育ての真っ最中である。
私はある先輩教師からクラブ活動の指導で忙しくて、一番関わってやらねばならない時にできなくて、後悔していると聞かされたことを話した。
私自身は、先輩に聞いた言葉から、なるべく関わりが持てるようにしたつもりだが、あまり自信はない。
ただ、娘のスイミング通いやレースにはよく付き合うことができた。

娘が結婚したことを機会に、撮りだめていた写真をデジタル化して渡すつもりで整理していた。
結局、未だに整理が終わらず、渡すことができていない。
子供の頃の写真は親にとっては懐かしいものだが、本人にとってはあまり関心がないようにも思えて、整理も滞っている。
ただ、パソコンのデスクトップの背景にして、眺めて楽しんでいる。
成長した今の娘とは全く別人であり、その時その時の様々な姿と関わることができたことが、親としての幸福だったのだと思える。
年頃になってからは、他の父娘よりも距離があると感じざるを得なくなったが、3歳までにその分よりも愛情深くに関わることができたと自分で慰めている。
もう二度と当時の娘には出会えないことは、別れた恋人と全く同じである。
今思いを寄せているのは、あくまで昔の姿であり、愛情である。
そういう意味では恋愛も子育ても同じなのかもしれない。

自分に愛情を求めてくる子供に対して、できうる限りの愛情を注ぐのが子育てだった。
それは互いの愛によって求め合える恋愛と一緒である。
ただ、子供は親の愛情から巣立っていかねばならないし、親も子離れしなくてはならない。
恋愛は結婚することで、関係が続けられるのとは少し違うが、夫婦間の愛情は子育てによって育まれていくことも確かだ。
中には子供に恵まれない夫婦もいるが、私の知った人の中にはあえて里子を養子にもらって、夫婦で育てるのを生きがいにしている人もいる。
不妊治療が多くなされるのも、夫婦にとって子育てがいかに大切なものかを物語っている。

先日、少子高齢化の問題で調べたら、昔から日本人は恋愛が苦手であり、私の世代でも若い頃に恋愛経験があったのは2割ほどだった。
若者が結婚しないのは、恋愛とは関係なく、現在では結婚するための仕組みが失われてしまい、それで結婚も子育てもできないという。
昔は恋愛ができなくても、見合いや職場での交際で結婚して子育てができた。
今は恋愛も子育てもできない時代になってしまったのかと思う。
ただ、恋愛結婚という呪縛から解かれて、子育てを通じて愛はしっかり築けるものだと再認識すべきかもしれない。
かくいう私は恋愛結婚に躓いて、見合い結婚で救われた一人である・・・・




2023年11月23日木曜日

髭と髪とデニムジャケット

 髭を蓄えるようになって4ヶ月以上経つ。

はじめは無精髭だった。

目的は農作業の時に顔を蚊に刺されるので、少しでも防ごうと思った。

ちょうど夏休みということもあったので、非常勤講師の仕事もなく都合がよかった。

新学期には剃っていくつもりだったが、母の49日の際にそのまま臨んだら、似合っていると弟嫁から褒められた。

そうなると、髭を嫌がっていた家内にも言い訳がたった。

そして、ネットで手入れ方法を調べて、それなりの道具もそろえた。

自分に髭があると、他の人の髭も気になる。

単に無精で伸ばしていると思っていたが、結構手入れしていることがわかった。

髪の毛と同じで、ちゃんと整えないとみっともなく見える。


最近は諦められたのか、家内も髭に関しては何も言わなくなった。

私自身、髭がある方が男として自然に思えてきたので、剃るつもりはなくなった。

一方、髭はちゃんと生えるのに、髪の毛が薄くなってしまっている。

ネットの情報につい乗って、発毛剤を定期的に購入してしまった。

ちゃんとした確証はないのだが、効果があるように思える。

何よりも、長く伸ばしてもまとまりができて、薄さをごまかせるようになった。

そういうことで、私は半年以上散髪をしていない。


髭もあって、髪も長いとなると、それなりにお洒落をしなくてはいけない。

夏場のように、綿パンに半袖の襟付きTシャツでは済まされない。

そこで、お気に入りのデニムジャケットを身につけて、中に着るポロシャツもピンクを着たりした。

すると、女生徒から「今までで一番コーデがいい」と褒められてしまった。

山間部の高校の生徒は人なつっこく、物怖じせず教師の着こなしを評価してくる。

私は初めて生徒からお洒落だと言われた。

そこで、都市部の高校でもどうかと同じ服装で出勤した。

都市部の生徒は挨拶はしっかりとしてくれるが、私にはあまり関わってこなくて、全く反応はなかった。

ところが、職場の知人の女性教師から、山間部の生徒と同じように褒められてしまった。

その方は着こなしに気を遣っていて素敵な方だ。

本当はその方のコーデも評価すべきだったのだが、「若く見せるために」と照れ隠しでただ答えるだけだった。


若いときはお洒落をしなくても、それほどみっともないとは思わないのだが、年をとるとそれなりのお洒落が必要だと気がついた。

まるで、高校時代に戻ったかのように、身なりに気を使い始めた。

以前は晩年の南方熊楠の放埒な容姿を理想としたが、今はジーンズとTシャツの似合う白洲次郎が目標である。

白洲次郎のようにこざっぱりとはできないので、私はあたかも学者のような趣を出したいと思っている。

そういえば、大学院の恩師も長髪だったり、髭があった方もいらっした。

思春期は女性にもてるためにお洒落をしたが、今は貧相に見られないようにお洒落をしなくてはいけないと思うようになっている。

実のならない雄花ならば、せめて花びらを散らすまでは、しっかりと萎れず咲いておくのがお洒落だと自分に言い聞かせている。

まさしく「美しさは生きる力」かもしれない・・・





2023年11月17日金曜日

蕎麦の収穫と麦播種

 蕎麦は以前にも作ったことがあるが、まともに収穫したことはなかった。

今回もまた失敗して家内に笑われそうに思いながら挑戦した。

それも、もち麦と高黍(こうりゃん)の収穫に自信をつけていたからだ。

前回は実をつけながら、丁寧に刈り取らなかったので失敗した。

今回は、高黍の穂刈りの経験から、最初は実をしごき採ったが、途中で面倒になってしまった。

そこで、下から全部手で刈り取って、シートをかぶせて置いておいた。

そして、時間のできた今日(11/16)、その半分を手で脱穀した。

まず、実を葉が少しついたまま、しごいて採って、粗めの篩(土木用のとおし)で実をほぐして落とす。

今度は目の細かい篩にかけて、葉っぱのかけらなどのゴミを落とした。

試しに以前しごきとって乾燥していた実を籾すりすることにした。

そば殻をなんとか外そうと、麦と同じように精米機にかけたが、全く歯が立たなかった。

そこで、小型のミルミキサーにかけると、殻が外れて粗い粉となって現れた。

本当は蕎麦粒にできると思っていたのだが、粉になってしまった。

そこで、ざるを篩にして荒いそば粉をボールにとった。

次に、仕方ないので30年ほど前に親から譲り受けていた家庭用の電動製粉機を用いて細かくした。

この製粉機は古くて調節レバーがうまく動かなくて、なかなかきれいに粉にしてくれなかった。

製粉機がない場合は、思ったより蕎麦は柔らかいので、擂り粉木などでも粉になりそうだ。

今回はだいたい500ccほどの蕎麦の実で、100ccほどの粉をとった感じだった。

蕎麦は20㎡ほど作ったので、この作業はしばらく続けねばならない。

製粉に関しては手間を考えると全く割には合わないが、栽培に関しては手間いらずで時期も都合がいい。

生存維持的自給生活を目指している自分にとって、必要な作物として位置づけようと思っている。

このところ、やっともち麦の種まきも終わり、最初にまいた種は芽が出てくれている。

今回は、エン麦の種も買って播いてみた。

これまで冬場は、タマネギ、ニンニクとジャガイモ程度だったが、これからは麦も加わって期待が増えた。

何よりも毎日の主食となるものだけに、その価値は重要だ。

心配した大根と蕪は今のところなんとか生長してくれている。

このところ、間引いた大根と蕪の漬け物を毎日食べている。


蕎麦の後日談(11/17)

昨日粉にした蕎麦をそばがき?にして食べた。

ネットでは熱湯をかける方法、鍋にかける方法、電子レンジで熱する方法の三種類があったが、一番簡単そうな電子レンジにした。

分量も適当で、玉ができないように水で練った上で、600wで3分かけた。

どうも時間をかけすぎたみたいで、少し固いパンの塊のようになってしまった。

それでも、意外といける物で、生臭い匂いが気になったが、何もつけなくても飽きの来ない味である。

家内が間引いた大根をふりかけにしてくれていたので、それと一緒に食べると普通においしい。

冷えると匂いも消えて、小麦パンよりもいけると自画自賛。

だけど、家内も息子も見た目が黒くて悪いのか食べてくれなかった。


製粉機の分解補修(11/18)

今回使用した製粉機は30年以上も前の物で殆ど使わず放置していたのだけど、なんとか動いて細かく挽いてもくれているが調子が悪い。

ネットで電動製粉機や石臼なども調べたけれど、高額なのでまだ買う踏ん切りがつかなかった。

とにかく、古い製粉機を分解して調整してみようと中を開けた。

この製粉機はちゃんと分解掃除できるようになっている。

なのに一度も分解掃除をした記憶がないのである。

製粉部分の構造は至ってシンプルだったので、潤滑スプレーをかけて動きにくい調節レバーを動きやすくした。

これでまだまだ使えるかもしれない。




2023年11月10日金曜日

やりがい搾取と教師

 このところ教員の中から、教師としてのやりがいを訴えて、教師になることを若い世代に訴える新聞投稿等を見かける。

実際、生徒とのふれあいやその生長、教壇に立って生徒から真剣に話を聞いてもらえることにやりがいを感じることは確かである。

先日、非常勤講師をしている高校のとある先生から、夜の10:30頃にLineで教務事項に関する問い合わせがあった。

翌日、家から送ったのかと聞くと、学校からだと言う。しかも、そういう時間は日常茶飯事だと聞いた。

その人は責任あるポジションであり、仕事熱心なことは見てからわかる。

かつて、現役で亡くなっていった教師のことも話したが、今の彼には仕事をこなすことが先決で、減らすことなどできないことは十分理解できる。

私が訴えたかったのは、現役で亡くなった教師は、自ら進んで仕事をしていた人が多かったということだ。

大きな仕事をこなすことにやりがいを感じているのは、側にいてよくわかった。

亡くなった人の中には文科省から表彰された人もいた。

夜中まで働く教師や管理職がそういうやりがいのある仕事をして、活躍してくれるお陰で成り立っていることも事実だ。

かく言う私も授業準備や校務、クラブ活動で同じように時間外勤務をして、やりがいを感じていたことも確かである。

その結果が医者から「あんた死ぬで」と言われたHgA1cが12.0になった糖尿病である。

今働いている職場にも、年金で十分暮らせて、余分に稼ぐ給料は税金や保険料で消えてしまうと言っている人がいる。

その人も糖尿病だが、膵臓がんの発症を怖れつつ、仕事にはやりがいを感じているようだ。

そもそも、教師の多くは自分がやりがい搾取を受けているとは思っていないと思う。

むしろ、そのやりがいを失ったら生活が成り立たない仕事人間でさえある場合が多いように思える。

退職教師の場合、仕事を生きがいとして健康や精神的安定が保てる人もいるので、一概に悪いとは言えないが、そのことが教師全体の待遇改善の足を引っ張っている可能性もある。

その一方、家庭の事情や個人的な考えから、時間外勤務を殆どしない人もいることも確かだ。

本当はそちらの方が普通であるべきなのに、白い目で見られることもある。

やりがい搾取の実態に目を伏せて、若い世代にやりがいだけを説くのは甘言を用いた勧誘のように思える。

若い世代が教師を志望しなくなれば、しばらくは従来のやりがい搾取に無頓着な教師で学校を維持せねばならないのだろう。

それはやりがい搾取を受けていない現役の正教員には都合がいいことかもしれないが・・・

このところ、完全退職教師に対して、現場復帰への勧誘がなされたりもしているが、私は来年度は非常勤講師に対するやりがい搾取を放置するのならば続けるつもりはない。

2023年11月5日日曜日

阪神日本一からもらった希望

 1985年は私の運命を変えた年だった。

その年から38年後、再び阪神が日本一になるのをテレビで観た。

野球観戦をテレビでじっくり観るのは何年ぶりだろうか。

若い頃は野球を見るのが好きで、大学時代には彼女と阪神ー中日戦をナゴヤ球場に見に行ったこともあった。


実は38年前は修士論文の執筆中で、阪神を応援する余裕がなかった。

それでも、阪神の優勝に触れて、それが自分にもいい結果へと結びついてくれるものと信じた。

しかし、結果はその逆となってしまった。

この年になって、阪神の優勝がそん時のつらい記憶を蘇らせるとは皮肉なものである。

ただ、38年前選手として活躍していた岡田選手が今年監督として阪神を日本一にしたことは、自分には大きな希望だ。

私にも別な形で研究を実らせる励みとなる。

岡田監督は66歳なので、私も66歳までにはまだ時間がある。


一方、オリックスは播磨養護(特別支援)学校に勤務していたときに、校内のマラソン大会などに来てくれたチームだ。

当時活躍していた、イチロー選手も間近に見ることができたし、田口選手ともお話ができた。

小学生から応援していたのは阪神だが、18年前からはオリックスのファンでもあった。

オリックスの山本由伸選手は隣の備前市の伊部出身ということで応援していた。


この両チームが日本一を競うことは嬉しいことだったが、どちらかというと今回は連覇のオリックスより38年ぶりの阪神の優勝を願った。

それにしても、阪神は自分のように夢を果たせなかった者に親しみと希望を持たせてくれるチームだ。

財界と官界で推進している大阪万博が胡散臭いのに対して、一般庶民が希望と勇気を与える阪神優勝の方がよほど価値がある。

それは幼い頃からソフトボールなどを自分で楽しんだり、野球に励む選手を身近に見ていたからだろう。

今度の大阪万博は奇妙なキャラクター「ミャクミャク」が象徴するように、何か得体の知れない感じがする。

万博は採算にあうかどうかよりも、一般庶民に何をもって希望と勇気を与えられるかが重要に思える。

阪神日本一以前に開催された大阪万博を再びやる以上、阪神優勝以上に心弾ませるものを期待したい。

はたして万博開催の開催責任者に岡田監督はいるのだろうか・・・・







生存維持からの視点

 デヴィッド・グレーバー2016(2011)『負債論―貨幣と暴力の5000年』の研究の流れから現在はジェームス・C・スコット著(政治学者、人類学者)『モーラル・エコノミー ―東南アジアの農民叛乱と生存維持』を読んでいる。

この作品は書かれたのが1976年で、翻訳本が出たのは1999年だった。

もし、1976年にオリジナルを読んで理解できていたら、自分の研究は大きく違っていたろうと思う。

この著者をネットで調べたら藤原帰一氏の留学時代の指導教員と言うから、なるほど、鋭さと反骨さは合点がいった。

そして、羊を育てていることには親しみを感じた。

奄美の人々のみならず、貧しかった時代の人々を生存維持の視点から考えるべきだったと後悔している。

それは自分の祖父母や父母の生き方の理解に通じることでもある。

戦争も終わり、高度成長の中で豊かさを手に入れながら、自由を謳歌できた自分たちの世代は、生存維持よりも、自己実現という名の下、競争に明け暮れた。

生きていけることだけで価値があるのに、競争に疲れて自ら死を選んだ人も知っている。

そういう自分も死にたいと思ったことは数知れずあるのだから、別の意味で生存維持の脅かされている時代に生きたともいえるかもしれない。

飢餓と戦っていた人々は、生存を脅かす権力と戦う底力があった。

権力を手に入れようと戦う自分たちは、生存を脅かす権力にひれ伏してしまう。

そして、その権威を身につけた人に人生相談までしてしまう。

社会保障のなかった時代に、生存維持のために家庭を築き、子育てをしていた人々の存在を忘れたかのような発言をされて納得してしまう。

そして、世襲で権力を手に入れた政治家にはその生存維持の理解ができないようだ。

ジェームス・C・スコット氏は税によって生存維持を脅かされた農民の叛乱を理路整然と説明してくれている。

今の日本では飢餓は身近ではないだろうが、孤独や絶望とは隣り合わせである。

お一人様でも生きていける権威ある人には乗り越えられても、権威のないものにとっては乗り越えることの困難な試練である。

我々は叛乱どころか、孤独死や絶望死を覚悟せねばならないのだろうか・・・・


2023年11月4日土曜日

熊目撃情報と柿

 昨日(11/3)の回覧板で、上郡町の與井新でクマが目撃された通知があった。

近所では柿の実がいっぱい鈴なりになっている。

先日も近所の方から土嚢袋いっぱいの柿を例年通りもらった。

去年はお返しにはサツマイモをあげたが、今年は不作なので枝豆を差し上げたが、土嚢袋は底がちょっと膨らんだ程度だった。

近所でさっそく夕方には柿をとる姿が見受けられた。

急いでいるのか、太い枝ごと採ってしまっていた。

気がつけば隣の家の柿の実も殆ど採り尽くしている。

その人に話を聞けば、上郡や有年は結構出没するらしい。

私は毎朝早くクロと散歩するので、気をつけねばならない。

曲がりなりにもクロはハウンドで、イノシシ狩りにも使われる犬種だが、からっきし意気地がない。

以前も我が家の庭に出没したアナグマと格闘して、鼻をひっかかれてうずくまってしまったことがある。

ましてやその何倍もあるクマと格闘すらできないだろう。

とにかく、用心のために散歩には釣り竿ケースにゴルフクラブを入れて持ち歩くことにした。

今朝はうっかり何も持たずに薄暗い霧の中を散歩したが、長い棒を持って散歩しているご老人にも会った。

おそらく杖を兼ねた護身用だろう。

先日も職場から帰りに国道端で猿がゆっくりと草を食べているのを目撃した。

波賀町在住の同僚から話を聞くと、クマと猿を見かけたら必ず役場に連絡しなくてはいけないそうだ。

そして、どこで目撃してどちらに向かっていったかを必ず言わねばならないそうだ。

たぶん上郡町では義務づけはされていないと思うが、万一目撃した連絡せねばならないと思う。

山に食べ物がなくて、里の柿の実を食べねばならないクマも哀れだが、殆ど食べずに放置している柿に振り回されている町民も哀れだ。

元はといえば気象の大変動を引き起こした人間が悪いのだが・・・・

2023年10月28日土曜日

母と相棒に懺悔

 今の私にとってどうしても欠かせない相棒の一人はノートパソコンだ。

それが急に息を引き取ってしまった。

それはエプソンのエンデバーでかれこれ7年ほど付き合いになる。

母親の通院の付き添いの時に必ず持参したことが、一番の思い出となった。

というのも通常、受付をして、診察が終わるのは4時間以上経っていた。

その間、車椅子に乗っている母親のそばでパソコンを使って仕事したり、本を読んだりした。

そうすることによって長い時間待たされても、気が紛れることができたのだ。

年老いた母は「まだか まだか」と言いながら、時々鼻歌を歌ったり、居眠りをしていた。

当時、母親は心臓の具合が6年前くらいから悪くなり、入院したり循環器科に通院していた。

その母も去年、特養に入所してからは、私は付きそう必要がなくなったのだが、1年もたたないうちに亡くなってしまった。

母が亡くなったのが7月で、その3ヶ月後にパソコンも亡くなってしまったのだ。

デスクトップの画面背景には、このところ自分たち夫婦の結婚当時のデジタル化した写真アルバムを使っていて、そこには当時の両親の姿もしっかり残っていた。

私はそれを時々眺めながら、まだずいぶん元気だった50歳代後半の両親の姿を懐かしんでいたのだった。

アルバム自体は別のパソコンでも写せるけれど、壊れたパソコンは母との思い出が残るので処分せずに大事においておこうと思った。

それでも新しいのが必要なので、いろいろ探したがやっぱり同じエンデバーにすることにした。

外観は前のものとほとんど同じだが、ずいぶん操作が軽くなっているし、壊れる前のようなファンの音も殆どしない。

そういえば、壊れる前はそのファンの音が喘ぐように大きくなっていたし、時々突然シャットダウンしてしまっていた。

早めに新しいのと交代させて、仕事を軽くさせてやればよかったのだと後悔している。

これは、亡くなる前の母への気遣いがちゃんとできなかった後悔とも重なってしまう。

大して介護もしてあげてないのに、色々とトラブルのことで煩わしく思っていた当時の自分が情けなく、申し訳なく思う。

心のゆとりは単に仕事が忙しいとかどうかという問題ではなくて、何を優先して考えるかということであると失って改めて思い知らされた。

そして、ずっと今まで優先すべき大切な人や物を失って、後悔をどんどん積み重ねてしまっている自分を自分で哀れに思う。

哀れな私は、せめて今そばにいてくれる家族(愛犬も含む)や兄弟親戚、仲間、相棒であるパソコンや車なども大事にせねばならないと思わずにはいられない。


2023年10月22日日曜日

故郷は遠くにありても集うもの

 現在、私を含めて兄弟は誰も赤穂には住んでいない。

住所が赤穂市の弟も単身赴任中だ。

その弟が久しぶりに帰ってきて、自分たちの育った尾崎の風景を撮ってLINEにあげてきた。

京都に住む弟も先日用事で帰ってきて、懐かしかったらしくその投稿に共感していた。

私はちょっと前に、赤穂高校の近くにある畑がセイタカアワダチソウに被われていたので、それを必死で刈り取ったばかりだった。

故郷を感傷的に思うより、何とか荒れ果てる家や畑を復旧させねばならない立場だ。

私は農業と環境に拘ったので、赤穂よりも上郡を選んだ。

ただ最近は上郡の空中農薬散布に非常に危機感を感じている。

皮肉にも田畑の荒れた赤穂の方が却って環境に優しい農業ができるのだ。

だから、これからは赤穂の畑にも力を入れていこうと思っている。

先日来、生徒に赤穂八幡神社の秋祭りの紹介とその役割を説明している。

祭の盛んな地域の生徒が多いので、熱心に聞いてくれている。

そこではデヴィッド・グレーバーの「人間経済と商業経済」の対比からの視点で、祭の意味を説明している。

私は祭では人間経済が今でも生き続けていると思っている。

そして、商業経済とは一線画した職業が教師や看護師、介護士などだろうとも思っている。

商業経済にとっては、魅力の乏しいこういう田舎でも、人間経済にとっては価値ある所だと思う。

それに気付いてくれる人が必ず、集まってくれると私は信じている。

弟たちはこういう私を変わり者としか思わないかもしれないけど・・・・

2023年10月15日日曜日

シバ栗が一番

 栗の季節になった。

丹波篠山では大きくて甘い栗が売られ出した。

圧力を掛けてはじいた栗は格別に美味しい。

この時期の篠山は観光客で一杯なのだが、年に一度は訪れている。

それにもまして、今の私の楽しみは散歩の道すがらシバ栗を拾いそれを食べることだ。

シバ栗は木によって大きさも違うが、ドングリよりも小さい物も多い。

しかし、普通に店頭で売っている栗よりも甘くて美味しい。

近所の山には植えながら放置してしまった栗の木もあり、近くの人が勝手に拾ったりしている。

私も以前は、なるべく早く散歩に出かけて拾ってきたりした。

大きい栗はそうして皆が拾うが、シバ栗は見向きもされず、鹿などの動物の餌になっている。

だから、動物との競争にはなるが、朝早く行くとポケット一杯くらいにはなることもある。

この季節は大粒のシバ栗のある遠くの山にまで、散歩に出かけることもある。

以前は面倒なので茹でたりしていたが、今年からはシャトルシェフを使って蒸している。

蒸したシバ栗をテーブルに置いておいて、おやつやつまみ代わりに食べている。

因みにテーブルの上には、家で穫れたサツマイモ、落花生や買った銀杏も同じように蒸した物が並ぶ。

家内には栗の皮などが下に落ちるのでいつも小言を言われている。

日本人の前歯はシャベル状になっていると言うことだが、栗の実を皮からへずりとるのにちょうど良い。

小さな栗は爪で剥くのは面倒なので、全部歯で剥いて食べている。

だから、食べかすは鹿などの動物のものとよく似ている。

石臼で磨り潰していた縄文人よりも退化してしまっている・・・・



2023年10月13日金曜日

サツマイモへの思い入れ

 私の父はサツマイモを非常に大事に育てた。

私の幼かった頃は、稲も作っていたし、小麦も作っていた。

おそらくそれで、家族の主食は賄われていたと思う。

職工で昼間もきつい肉体労働をしていたのに、夏場は早朝や夕方に田畑に出たり、休日は農作業をいつもしていた。

子どもが4人もいたので、米は足らなかったのだろうと思うが、朝は小麦を製粉して貰ってホットケーキ(当時はべた焼きと言った)をみんなで食べた。

田圃は一枚は高校用地に売れ、残った一枚に新しい家を建てたので、畑だけが残った。

父はそこで、一番食糧になるサツマイモ作りに力を注いだ。

家のローンや子どもを大学に入れるのに、出費がかさむのでそれを補うためだったのだろう。

サツマイモは自分で苗を作るほどで、冬場は一つずつ靴下などにいれて、リビングの暖かい場所に置いていた。

また、干し芋にしたり、固くして粉にして食べたりしていた。

私は当時はサツマイモは好きになれなかったが、大学に入って下宿生をしていたときは、芋を送って貰って食糧の足しにした。

安いラーメンばかりで飽きていたので、サツマイモは主食に近い形で食べていた。

父は晩年はサツマイモを掘るのも辛くなったようで、私が掘るのを手伝ってあげることも多かった。

そういうサツマイモだが、自分自身は貧乏学生の時代に嫌というほど食べたので、自分であまり作ろうとは思わなかった。

家内もサツマイモはそれほど好きではなく、弁当のおかず程度に欲しいというだけなので、少しだけ作っていた。

しかし、今年からは食糧自給に向けて、サツマイモの作付けを大幅に増やした。

冬場はもち麦を中心とした麦類とジャガイモ、夏場はタカキビを中心とした雑穀とサツマイモが私の食糧自給戦略である、

そして、今年のサツマイモの出来はまずまずだ。

先日来、収穫した芋はふかして、小腹が空いたときや、酒の当てにして食べている。

かつての奄美や沖縄の人のように主食にはできないが、副食としてこれからもしっかり作り続けようと思う。

それにしても、私はだんだん親父に似てきたようだ。

2023年10月9日月曜日

ど根性大根大ちゃんになれない大根

 2005年、兵庫県相生市でアスファルトを割ってそそり立った大根が一世を風靡した。

時々、その場所を通るが、そこにはちゃんと案内が立っている。

それと引き換え、うちの大根と蕪はダイコンハムシにやられて、蕪は壊滅、大根はボロボロの状態でしなっている。

1回目は普通に蒔いて、ボロボロになったので、2回目は同じ所に蒔いて、百円ショップの不織布を被せて置いた。

しかし、一度入ったハムシは居続けたようで、今度はどちらも根こそぎ喰われてしまった。

もう今年は駄目かとも思ったが、蕪なら間に合うと思い、別の場所をバナーで焼いて、肥料(有機石灰と鶏糞)を入れ耕しておいた。

春菊が虫予防に効くというので、あらかじめ買っておいた種を真ん中に蒔いた。

そして、昨日(10/8)種を買いに行ったら、10月でも間に合う大根の種があったので、蕪と一緒に買って帰った。

今日は昨日からの雨で畑はぬかるんでいたが、朝早く起きて大根と蕪の種を蒔いた。

そして、あらかじめネットで買っておいた不織布を被せて、今度は厳重にその裾も抑えて置いた。

はたして、今度こそ上手くいくかどうか分からないが、3回買った種代だけでも馬鹿にならない。

どうしても、農薬を使いたくないので、こんなに苦労する。

以前は少し大きくなったところを青虫にやられて困ったが、壊滅状態になったことは無かった。

これも、農薬空中散布のせいで、天敵が減ってしまったせいかもしれない。

というのも、私は畑防衛隊と名付けたアマガエルが非常に少ないし、カマキリや蜘蛛も減ってしまった。

ただ、コオロギはそこそこいるが、ありがたいことにイナゴはずいぶんと減った。

近所の農家は農薬を普通に使っているので、ネットを使わずに立派に育っている。

最近は大根なども値上がりしているので、農薬使って作った方が安上がりなことも確かだろう。

皮肉なもので、ハムシのいないアスファルトの道の側で作った方が、大根は逞しく育つ時代なのだろうか?

町の真ん中では、農薬の空中散布など絶対あり得ないから・・・・・

2023年10月7日土曜日

非正規雇用と心の支え

 私は大学院時代に親からの支援が一切無くて、アルバイトに打ち込まざるを得なかった。

家庭教師のアルバイトをするまでは、郵便局で短期働いたり、警備会社で高校の宿直や交通整理をしたりした。

宿直の仕事は身体的にも精神的にも負担が重くて、長く続けられなかった。

家庭教師は家庭教師センターに登録して紹介してもらい、裕福な家を常時数軒掛け持っていたので、比較的収入を上げることができた。

しかし、当然ながらアルバイト中心の生活となり、何のために大学院に進学したのか分からない状態だった。

その後、私を支援してくれる人のお陰で、研究に打ち込めたが、結果としては研究も生活も破綻してしまった。

破綻しても未練から、しばらく設計事務所で常勤のアルバイトをしたり、塾のアルバイトをしていたが、生活にも精神的にも行き詰まってしまった。

失意の内に赤穂に戻ってからは、教員になるしか道が開けそうに無かったので、試験までは親の厄介者になった。

試験が終わってからは中学校の短期間の常勤臨時講師と赤穂市の発掘調査のアルバイトをしてすごし、採用前は高校の産休裏の常勤臨時講師をしていた。

大学時代の短期アルバイトを含めて、10年くらいは非正規の仕事をしていたことになる。

その間、年金も横浜市に支払ったはずなのに、その記録は消えてしまっていた。

採用された教師は57歳で早期退職したので、64歳の今日まで7年間は無職や非正規雇用で過ごしてきた。

それができたのは家内の理解と支えがあったらなのだが、若いときの非正規の仕事以上に悲哀を味わわざるを得なかった。

それは、正規の仕事を30年間してきたから余計に感じたのかもしれない。

やはり、仕方ないとは言え、若い人からぞんざいに扱われるのが一番辛かった。

また、仕事を引き受けてから、最初の話と大きく違うこともあり、管理職と実務者の意向の違いが甚だしく、正規以上の過酷さを強いられることもある。

そもそも、授業の時給換算であるので、その準備や定期考査の採点、評価、課題の点検に費やす時間は無給となる(学校によって有給もあるが時間としては割に合わない)。

いくら授業自体の時給が高くても、それに付随する労力を換算すると決して高くは無い。

しかも、一クラスしか無い授業の場合は、時間換算で行くと兵庫県の最低時給を下回るはずである。

そして、通勤時間の負担は、常勤よりも重くなる。

また、夏休み等の長期休みには無給になるので、プールの監視員のような短期のアルバイトを入れて体を壊した若い教師もいた。

だから、正規の教師になる目的を持っている、教師そのものにやり甲斐を感じている、家にいてもやることが無い等、という人しか続けられないと思う。

非常勤講師には過重な新課程に移行している現在、私には家にいてもやることがないからと、引き受けられるような生やさしいものには思えない。

私は今年度、その新課程の過重さを知らなかったものだから、勤務内容も交渉せずに安請け負いしてしまった自分を恥じている。

選択科目が多い高校では非常勤講師は欠かせないだろうに、もう私のような脳天気の退職教師(管理職は見透かしていたようだ)はそんなに多くはいないと思う。

ただ、正規の仕事の時のように、辞めることはいつでも自由だと思い、追い詰められて自律神経を患うことは無い。

以前のように出勤前の吐き気も最近はあまりない。

先日もぞんざいに扱われたのがきっかけで、正規の時に言ったことも無かった「来年度は絶対辞めます」と管理職に公然と言った(後日、実際に継続を断った)。

それは、自分たちが正規の時は、非常勤の人にはそれなりに気を使っていたことを引き合いに出してのことだった。

また別の所では、冗談を粧いながら、管理職に騙されて今年は勤めているが、来年はここで仕事はしないと公言している(こちらも後日、継続を断った)。

非正規は不安定ではあるけれど、辞める選択肢があって、精神的に自分を追い詰めてしまわなくても済む。

来年度からは年金が満額出るので、家内に迷惑を掛けなくて済むと強気でいられるのも確かだ。

やはり、私にとって非常勤講師で働いた動機は、家内への配慮だった。

そして何より、自分を今精神的に救ってくれているのは、若いときからの研究なのである。

希望に満ちた生活を破綻させた研究なのだが、今は心のより所になっている。

それも、家内の理解があってのことで、ありがたく思っている。

たぶん家内も私から研究をとったら、気儘なぐうたら人間でしかないと思ったからなのかもしれない。

皮肉なもので、正規の教師としての仕事の経験は心の支えにはならず、非正規の時にしていた研究の方が心の支えとなっているのだ。

プロの研究者は正規の仕事も心の支えにもなっているのかもしれないが、プロはプロなりに追い込まれてもいるのだろうとも想像はする。

私の研究はプロで無いばかりか、金を多額つぎ込んでそこからの収入もなく、全く道楽でありながら気楽でいるのは少々恥ずかしい。

身を削ることが美徳であるなら、自分は全くそれに欠けているのかもしれない。

研究につぎ込む金は、近所の人がパチンコに金をつぎ込むよりはましぐらいにしか思っていない。

今、ちょうど研究しているのはデヴィッド・グレーバー2016(2011)『負債論―貨幣と暴力の5000年』に関連したものだ。

この高名な人類学者は59歳で波乱な人生を閉じている。

アナーキストでありながら、結局商業経済の中で命を縮めたように思える。

私は恩師である故村武精一先生のお言葉「長生きしてこそ研究は生きる」を信じている。

因みにこのお言葉は、現役で癌で亡くなった知人である人類学者を悼んでおっしゃったものだ。

また、同じく恩師の石川栄吉先生も80歳で亡くなられるまで、ずっと研究を続けておられた。

私は多くの人に「恩」という人間経済の「負債」を背負っているのだが、佐久間寛氏の「返済論」ではないけれど、商業経済とは無縁の研究を通して少しずつ「返済」していこうと思っている。


2023年9月28日木曜日

快適な暮らしの果てに

 私はブログを書く時間も惜しんで、研究のための文献を読みあさり、原稿も書き進んでいた。

しかし、どんな素晴らしい研究も、研究者自身の生活は、自ら食糧等を生産する行為とは結びついていないと思うようになった。

どんなに現代文明の批判を行っていても、その文明の恩恵を享受しているのだ。

以前、割り箸を使うことを批判してマイ箸の使用を訴えていた学生が、燃費の悪い車を乗り回していたのと同じなのだ。

今年の異常な暑さが環境破壊が原因だと分かっていて、乗り切るためにはそれを助長するエアコンでしのぐしか無い自分とも同じだ。

何よりも、私が研究している奄美大島のシマジマは、黒糖地獄と言われていた時代の方が元気だった。

開発が進んできたのに、過疎はいっこうに止まらない。

開発、生活向上という価値観で行けば、見捨てられる運命なのだ。

かく言う私も、寂れ行く田舎にいて、自分は何を追い求めてきたのだろうかと自問している。

しかし、皮肉なもので、多くのことを犠牲にして打ち込んだ仕事のお陰で、年金を受給でき生活の不安もずいぶん解消できる。

それなのに、子や孫と楽しく過ごす時間がもてた父母と同じことができそうにない。

中学校しか出ていない父母の方が、大学院まで出た私よりも、余程生き甲斐を感じながら生きていたのだ。

私は父母よりも、たぶん良い食事をして、快適な暮らしをして、遠くまで旅行に出かけられている。

なのに、子や孫や親戚、友人との関わりにおいては、格段父母の方が充実していたのだ。

ただ、田舎で細々と百姓をしながら暮らすことをおぼえたお陰で、近所の人や散歩の途中で会う人と、ちょっとしたふれ合いができていることが慰めだ。

今、非常勤で勤めている職場には、家にいてもやることが無いから、片道1時間半もかけて遠くから通っている人がいる。

その人は75歳で、仕事があることに喜んでおられる。

その一方私は、先日職場でぞんざいに扱われて、自分の経験が自分の価値にはなっていないことを身にしみて知って哀しみや悔しさを覚えた。

やることが無いからだとか、金が無いからだとか思われて、仕事を回して貰う立場から逃れたいと思った。

それが長く教師を務めたなれの果てであることも自覚した。

だから、これからは本来あるべき生活とは何かを考えながら、暮らしていこうと思う。

私の父親が最後まで百姓することに拘ったように、自分も拘り続けようと思っている。

それは私が奄美でお世話になったオッショーやアンマの暮らしとも通じる。


2023年9月26日火曜日

雀・燕激減と農薬空中散布

 昨日(9/25)夕方、犬の散歩をしながらふと気がついた。

以前なら、実った稲の周りには鳥よけがなされていたのに全くない。

上郡に引っ越ししてきたときに一番驚いたのは、田圃で鳥を脅すためのプロパンガスをを使った爆音機の音だった。

さすがに、それは苦情が出たのか、禁止されたのか、聞かなくなって久しい。

つい最近までは、田圃の中には鳥よけテープがしっかりと張られていたし、呪いのようにジャガイモを串刺しにして、周りに立てている人もいた。

つい数年前までは、雀に稲をかなり食べられている田圃も見かけた。

夕方でもあって雀は家にでも帰ったのだろうかとも思ったが、ネットで調べたら雀や燕が激減しているとある。

そう言えば、家の庭の木には雀がよく集まってきて、うるさいくらいだったのに、最近はそういうことが無い。

燕や蝙蝠も最近はあまり見かけない。

そこで、今日(9/26)は朝の散歩で気をつけてみてみた。

田圃の周りには殆どいないのだが、農業倉庫の回りや、山ぎわの家屋の屋根や草原、稗の生えた水田利用の大豆畑にはしっかりいた。

サギやカラスは沢山いたが、燕は殆ど見かけなかった。

ネットでは新しい建築方法のせいで、棲めなくなったことも原因と言うが、上郡は古い建築方法の家がかなり残っている。

そこで、歩きながら色々考えたのだが、近年で思い当たることは農薬の空中散布だ。

最近ではリモコンヘリだけで無く、ドローンも使って、広範囲に使用され始めた。

そして、もう一つ気がついたのは、以前は蜘蛛の巣がいっぱい、葉や穂の周りにあったのに、それがほとんど無い。

空中散布の広範囲に拡がる強力な効果で虫がいなくなって、雀や燕、蝙蝠、蜘蛛の餌が無くなり、生きていけなくなったのだと思う。

また、農薬のしっかり染みこんだ米に、雀は危険を察知しているのかもしれない。

現に、米を食べない小鳥やサギなどは田圃の周りに沢山いる。

ネットで調べたら、日本ではどんどん空中散布を広げているというが、EUでは農薬の空中散布は原則的に全面禁止だそうだ

それを知って、早速私は無農薬の玄米をネットで予約した。

近所の農家から美味しくて、安い玄米を買っていたのだが、雀や燕を犠牲にした米は控えようと思う。

たとえその農家が農薬の空中散布をしていなくても、近くでしていれば同じことになる。

これからは少々高くても、無農薬のお米を家族の健康のためと無農薬栽培の農家を応援するために買うことにした。

そして、畑で無農薬、無化学肥料で作ったもち麦やタカキビのくずは、雀のため畑の隅に置いてやることにした。

せっかく、コウノトリが3羽も長くいてくれていたのに、雀のいなくなった村はその価値を台無しにしてしまう。


後日談

今日(9/28)夕方散歩していたら、雀の大群が稔った田圃に群がっているのを見かけた。

山の坂を下りたその田圃だけに、大群が集中しているのだ。

理由は分からないが、農薬をあまり使っていないのかもしれないとも思った。

そう言えば、散歩の時によく会って話をする農家の方から、「おるところには、いっぱいおる」と聞かされていた。

そして、幸生剤も除草剤を使っていないと思われる大豆を植えている田圃には、稗がいっぱい生えていて、それに雀が群がっている。

農薬散布を行わない自分の家の周りにも、人通りの少ない日中には、雀はそこそこ群がっているようだ。

農薬を使っている田畑は自分たち人間でも臭いで分かるので、それと同程度の能力のある鳥には農薬を使っているのが分かるのかもしれない。

一方、絶滅しかかっているとは言え、稲を食い荒らす雀を見かけると、苛立ってしまっている自分もいる。

ただ、稔りの季節は、雀にやられてしまわないように工夫することこそ、田舎暮らしの面白さと考えるしか無いか・・・・



2023年9月24日日曜日

もしあの時100万円あれば

 私は家内がテレビの宝くじのコマーシャルを観て、「宝くじに当たって7億円でも入れば何でもできるのに」という度にこう言う。

「俺は(大学)院時代に100万円さえあったら、人生は変わっとった。お金の価値など単に額やない。」

「そうね、私と結婚せずに済んだもんね」

と必ず言われるので、

「いや、100万円無かったから、お前と結婚できたんやから、無かって良かったんや」

と、いつも繕って誤魔化すのが定番だ。

よくよく考えたから、当時お金が無かったから、私を支えてくれた人と手作りの暮らしをすることができた。

それが破綻したのは、金が無かったからでは無く、夢と希望を自分で消し去ってしまったからだ。

ただ、大学時代は特別奨学金の36,000円があったが、大学院時代には貰える可能性があった、60,000円が貰えなかった。

この差は100万円以上の差となって、自分自身を追い詰めていたとことも確かだとも思う。

もし、大学院時代に奨学金が貰えてたら、自分も私を支えてくれた人も精神的に追い詰めなくて済んだかもしれない。

その一方で、あの時の破綻があって、お金以上の本当の価値が少しは分かる。

夢や希望さえ有れば少々の貧しさは感じない。

逆に今のように貯金と年金やバイトで、暮らしに不安が無くても、残された健康寿命の不安を抱えねばならない。

必要なお金は、夢と希望を分かち合える人と支え合って生きていくのに、暮らしにあった額で良い。

支え合って生きてい行ける人を失って、一人ぼっちになってしまったら、何億円あっても全く価値がない。

そういう意味では、夢と希望があっても現実的に食べていけない人と、お金があっても一人ぼっちで孤独な人を結びつけてあげる方法があれば良いのかもしれない。

ということで、本当はあの時に自分に100万円無くても、支え合って生きていく価値をしっかり分かっていれば破綻は無かった。

目の前にあるお金に換えられない価値を、当時は認識、理解できなかっただけなのだ。

夢と希望を恋愛に結びつけることができるのが、若さの特権だった。

日々の安寧を愛情に結びつけることができるのが、歳を重ねた者の特権でもある。

しかし、そのかけがえのない「若さの特権」の行き場を失った理由を、家内には100万円で誤魔化して取り繕うしかないのが今の私でもある。



2023年9月22日金曜日

もち麦の栽培と調理

 昨年秋にもち麦の種は、播種用のダイシもち麦と食用の玄麦を用いました。

播種用の方は思ったより量が少なかったので、収穫した物は次年度用に置いています。

食用の方もちゃんと育って、多く実りました。

蒔いて、芽が伸びた後に、麦踏みを一度した程度で、殆ど何もしませんでした。

それでもちゃんと実って、色づいたので刈り取りをしたのですが、面倒くさいので、普通に草刈り機で刈ってしまったのです。

それが大きな間違いで、バラバラになった麦を集めるのも一苦労で、結局山積みにしてブルーシートを掛けて放ってしまいました。

その後、脱穀しようと足踏み脱穀機を使おうとしましたが、上手くいかず、結局手で穂をちぎって、最初は大きな鍋を臼代わりにつきました。

篩を使ってそぎ落としたりもしましたが、なかなか効率よくいきません。

そこで、家に今は使っていない精米機があるのを思いだして、それを使いました。

ちぎった穂を精米機に掛けると。上手く脱穀できました。

ただ、できる分量は少なくて、一生懸命3時間ほどやって、一週間分食べる量ができる程度でした。

そこで、皮付きのダイシもち麦を買って、家のもち麦と半々で炊きました。

ところが、今までより非常に固くて、ちょっと消化不良気味になりました。

それで、分かったのですが、精米機は脱穀だけで無く、精白もしてくれていたのです。

だから、私は今まで完全に玄麦100%を食べていたのではなくて、幾分か精白したもち麦を食べていたということなのです。

因みに古くなった家の精白機で4分ほど回していますが、何分搗きになったか分かりません。

その後は買ったダイシもち麦も6分ほど精白して炊いています。

因みに家では3~4時間程度水に浸け後炊いて、シャトルシェフに5~6時間入れてます。

固いときは電子レンジでもう一度加熱してます。

水加減が難しくて、水気が残っていたり、お粥のようになることがありましたが、芯が残っていたことはありません。

これからは、大豆や蕎麦の実などの雑穀も入れて色々工夫してみる予定です。

これから私は水稲の米から卒業したいと思っています。

稲を作るなら陸稲にしようと思っています。

理由は、村の中で水稲を作る場合、水利組合に入って管理や補修作業等の仕事をしなくてはいけません。

そもそも、水稲は田圃一枚借りねばならず、それに対応できる機械など持っていません。

農薬なしでは、病気や害虫にやられるし、除草剤を使わないと、大変な除草作業となります。

その点で、稲以外の雑穀類は、無農薬で問題なかったし、夏も冬も雑草取りに追われることは無かった。

肥料も有機石灰と油粕と鶏糞を最初にすき込んだだけで、追肥はしなかった。

何よりも皮肉なことですが、雀が激減(農薬の空中散布のせいと思われる)していて、その食害が殆どない。

30年ほど前に、赤穂で小麦を作ったときには、雀や鳩の食害に手を焼きました。

確かにお米のご飯は美味しいと思うけれど、私の場合は糖尿病としての警戒感が勝るので、安心して食べられる雑穀の方が食べる喜びを感じています。



2023年9月20日水曜日

逃げるは恥だが役に立った早期退職

私は57歳にして高校教諭の職を辞した。

本当は55歳の免許更新時に退職しようと思ったのだが、事務長から強く引き留められたこともあって、退職を諦めその後定時制に変わった。

定時制も同じように多忙を極め糖尿病も悪化したので、たった1年で早期退職した。

その後、色んなアルバイトや臨時の仕事をしたが、結局常勤や非常勤のの高校教師に戻ってしまっていた。

昨年は賃労働は一切しなかったのだが、今年は家内に申し訳なくて非常勤講師を引き受けた。

昨年度からの新課程では定期考査や成績処理が煩雑になり多忙で、随分と過酷だった。

私は昨年勤務していないので全くその認識がなく、頼んできた校長が元同僚だったので、気安く安請け合いしたのが運の尽きだった。

何度も辞めたいと思ったが、何とか1学期は切り抜けた。

それでも、夏休みのお陰で、ここ10年ほども果たせなかった、糖尿病の改善が果たせたのだ。

 これは、早期退職して、農作業にも力を注ぐことができ、もち麦を自分で栽培して食べることができたお陰だと思う。

もし、去年賃労働をしていたら、そこまで出来ていなかっただろうと思う。

だから、来年は年金も満額出るので、農作業と研究中心の生活に戻したいと思っている。

そんな中で、血糖値が異常に高いのに、激務に健康を顧みられない現役教師を見かけている。

かつて、60歳前の現役で亡くなった人は、真面目で責任感の強い人が殆どだった。

私は自律神経失調症になって、仕事を続けるのが辛く病院に通いながら休みがちになった時期がある、その時も責任が重く多忙を極めていた。

先日も他校で一緒に仕事をした女性教師が精神的に病んで長期の病欠に入った。

彼女は学生時代少林寺拳法をしていたような闊達な人で、一緒だった職場でもその快活な仕事ぶりに感心させられていた。

その彼女は以前勤めていた学校に戻ってきて、その変貌に失望していた。

責任を背負わなくてはならない教師が追い詰められていくのを見ると、当時の自分と重なってしまう。

15年ほど前は教師志望が多くて、生徒を教育学部に入れるのが困難な時代があった。

その当時高校生だった娘は教員にはなろうとはしなかったので、自分も薦めなかった。

今の現場をみるとつくづく、教師を薦めずに良かったと思う。

ある早期退職した非常勤講師から聞いたのだが、その娘さんはが父親と同じように教師になったが、娘さん自身いつも帰宅が遅く、仲間の新任教師が辞めていくという。

教師を追い詰めていく政策(例えば免許更新)がなされ、その政策を担ったのも同じ教師自身で有ることも事実だ。

不登校の生徒や退職や病欠の教師が増えた学校は疲弊しているとしか思えない。

今回の新課程の指導方法は、私どものような非常勤講師には耐えられないように思うし、常勤の教師もまた一つ仕事を大きく増やされたと思う。

途中で辞めたいくらいだが、いったん引き受けた以上は何とか冬を乗り切ってから逃げようと思う。

「逃げるは恥だが役に立つ」は、ハンガリーのことわざ「Szégyen a futás, de hasznos.[7] の和訳で「恥ずかしい逃げ方だったとしても生き抜くことが大切」の意味(逃げるは恥だが役に立つ - Wikipediaだそうだ。

沖縄の「命ドゥ 宝」とも通じて、早期退職の私には相応しい言葉のように思える。

問題なのはむしろ逃げ先で、そこでどう生き抜いていくかを考えるのが重要だろう。


2023年9月12日火曜日

玄麦(もち麦)の血糖値低下効果

 久しぶりに投稿するのは、その書きたい衝動に駆られたからです。

実は、この7月に糖尿病の検査数値、HgA1cが7.0にもなって、危機感を抱いていました。

ところが、この8月に6.5、9月にはなんと6.1まで下がり、薬も変わりました。

お医者さんも驚きの改善です。

実は7月はちょうど、母の死も重なっていたので、その影響もあって7.0になって、このままでは薬を強くせねばならないところまで来ていたからです。

ただ、幸いなことに非常勤講師を務める高校は夏休みに入って、実家と自分の家の後片付けや農作業に打ち込むことができました。

また、収穫して置いた、もち麦も脱穀、籾すりをしてようやく食べることが可能になったのです。
外での仕事はアイスベストと空調服を着て行いましたが、午前中の仕事でダウンし、午後からはゆっくりと過ごしました。

体重もそこそこ減ったと思います(実は怖くてなるべく気にしないようにしていた)。

玄麦(もち麦)は水にしっかりと漬けておいて、煮た後シャトルシェフに入れておきました。

最初は固くて、アゴがだるくなるほどでしたが、水を増やしたりして、少しは柔らかくなりました。

最初は玄米と玄麦が半々くらいにして食べていたですが、今はほぼ玄麦100%です。

当然固いので、今まで使っていなかった部分入れ歯も毎食つけています。

また、仕事の始まった今月からは職場にも持って行っています。

ただ、肉体労働が減ったので、体重は減っていません(体重計は先月新たに買いました 身長は173cmで86kgを行き来してます)。

お医者さんが言うには、もち麦そのものの成分が良いのではなく、しっかり噛むことが良いのだろうということです。

玄麦はしっかり噛まないと飲み込めないのです。

ネットでは玄麦100%は良くないと書いてあったと思います。

当然、消化に悪く、当初はおならが頻繁に出ました。

今でも出ていますが、腸がなれたのか、回数や量は減ったと思います。

家内には健康のためだと言って、我慢して貰っています。

この玄麦食事療法はその人の胃腸の強さで割合を考えた方が良いでしょう。

強靱な胃腸の方以外は、徐々に割合を増やしていった方が良いと思います。

なお、玄麦は私は自分で作った有機作物ですが、ネットでも売っています。

麦は冬場に栽培するので、稲ほど農薬に頼らなくて良いと思います。

私も無くなったら購入しようと思っています。

それと、もう少しすればタカキビ(コウリャン)やサツマイモも収穫できるので、それも加えようと思っています。

ジャガイモやサツマイモを主食に試しましたが、今までの食生活とかなり違うので続けづらかったですが、麦食は米食にかなり近くて続いています。

よかったら試してください。