私は生まれたときには、祖父はひとりしかいなかった。
母方の祖父は、母が子供の頃に戦死していたからだ。
父方の祖父は、元船乗りで、物心がついたときには、庭師をしていた。
一番の印象は、左手の中指と薬指の先が無かったことだ。
仕事で石を扱っていて潰してしまったそうだが、子供心にはその手を見るのが怖かった。
また、猟師もしていて、猟銃もあったし、ポインターも飼っていた。
その犬を非常に大事にしていたので、父は子供より可愛がっていて、自分は犬嫌いになったと言っていた。
しかし、その父も晩年は自分もプードルを飼って可愛がっていた。
祖父は、人に雇われずに生きてきたので、気が強く、強面であった。
子供に対しても厳しすぎるくらいだったので、長男は一緒に働くくらいなら、戦争に行った方がましだと、少年兵に志願して戦死した。
私の父も、子供の頃から厳しく育てられ、赤穂中等学校も中退させられて一緒に船に乗せられた。
その学校をあと1年で卒業できたのに、中退させられたことをずっと根に持っていたようだった。
祖父の家業は、鷏和で産する御影石を主に運ぶ仕事で、機帆船時代から始まり、当時は100トンくらいの木造船だった。
結局、本家は次男が継ぎ、父は独立して家業を続けたが辞めて、造船所の職工になった。
いわば、祖父は家長であり、もと親方でもあったので、子供とは一線を画してしまっていた。
正月や盆でも子供の家族が集まってくるのに、一緒に食事などはしなかった。
自分の子供とはあまり仲が良くなかったが、私のような孫は普通に可愛がるじいちゃんだった。
父には怖い祖父として聞かされていたが、叱られた記憶がない。
小さい頃は遊んで貰った記憶は無いが、お年玉をくれる有り難いじいちゃんだった。
そんな祖父との一番関わった経験は、庭師の仕事で、山に木を採りに行ったりするのを手伝わされたことだ。
当時高校生だった私は、山を登る70歳を超えた祖父の後をついて行くのがやっとだった。
孫の中で祖父と仕事をした経験があるのは自分だけだった。
そんな祖父も、83歳で脳梗塞に倒れて亡くなった。
だから、その後親戚が集まって、祖父の話題で懐かしく語ることが出来るのは、私と祖父の娘婿くらいだった。
父は最期まで祖父と仲良くなれなかったようだった。
祖父と父が仲良くしている姿の記憶が無い。
私も父とは思春期から結婚するまで非常に仲が悪くなったが、孫が出来てからは普通の親子に戻って一緒に農作業などをしたりした。
そこまで親子で確執を生んだ経緯は分かるが、祖父を理解することは、この歳になるまで分からなかった。
家や家業を守ることの厳しさを体に染みつかせていたのだと思う。
父も厳しかったが、月給取りの暢気さもあった。
私は最初から公務員の月給取りで暢気なものだ。
祖父は企業や官公庁に対等に渡り合って生きてきた強さを持っていた。
一番祖父の気丈さを思い知らされたのは、父の建てた家に庭を造るときのことだった。
当時高校生だった私は直接見ていないのだが、見ていた母親から聞かされた話である。
祖父を中心にして、庭を造ったのだが、その時にいつものように、祖父は猟犬を車に積んでいた。
猟期でも無いのに、猟犬を積んでいたのを見つけた私服警官が、祖父を問い詰めたそうである。
それを怒った祖父は、その警官の胸ぐらをつかんで「証拠でもあるんか」と怒鳴ったそうだ。
よく公務執行妨害で逮捕されなかったと思うが、私服警官をたじろがす迫力を持っていて、母も恐れをなしていた。
自分も、その祖父の血を少し受け継いでいると、思い当たる節もあるのだが・・・・
そんな祖父こそ、時に命がけで一揆さえも起こしていた、百姓の生き残りだったような気がする。