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2023年9月28日木曜日

快適な暮らしの果てに

 私はブログを書く時間も惜しんで、研究のための文献を読みあさり、原稿も書き進んでいた。

しかし、どんな素晴らしい研究も、研究者自身の生活は、自ら食糧等を生産する行為とは結びついていないと思うようになった。

どんなに現代文明の批判を行っていても、その文明の恩恵を享受しているのだ。

以前、割り箸を使うことを批判してマイ箸の使用を訴えていた学生が、燃費の悪い車を乗り回していたのと同じなのだ。

今年の異常な暑さが環境破壊が原因だと分かっていて、乗り切るためにはそれを助長するエアコンでしのぐしか無い自分とも同じだ。

何よりも、私が研究している奄美大島のシマジマは、黒糖地獄と言われていた時代の方が元気だった。

開発が進んできたのに、過疎はいっこうに止まらない。

開発、生活向上という価値観で行けば、見捨てられる運命なのだ。

かく言う私も、寂れ行く田舎にいて、自分は何を追い求めてきたのだろうかと自問している。

しかし、皮肉なもので、多くのことを犠牲にして打ち込んだ仕事のお陰で、年金を受給でき生活の不安もずいぶん解消できる。

それなのに、子や孫と楽しく過ごす時間がもてた父母と同じことができそうにない。

中学校しか出ていない父母の方が、大学院まで出た私よりも、余程生き甲斐を感じながら生きていたのだ。

私は父母よりも、たぶん良い食事をして、快適な暮らしをして、遠くまで旅行に出かけられている。

なのに、子や孫や親戚、友人との関わりにおいては、格段父母の方が充実していたのだ。

ただ、田舎で細々と百姓をしながら暮らすことをおぼえたお陰で、近所の人や散歩の途中で会う人と、ちょっとしたふれ合いができていることが慰めだ。

今、非常勤で勤めている職場には、家にいてもやることが無いから、片道1時間半もかけて遠くから通っている人がいる。

その人は75歳で、仕事があることに喜んでおられる。

その一方私は、先日職場でぞんざいに扱われて、自分の経験が自分の価値にはなっていないことを身にしみて知って哀しみや悔しさを覚えた。

やることが無いからだとか、金が無いからだとか思われて、仕事を回して貰う立場から逃れたいと思った。

それが長く教師を務めたなれの果てであることも自覚した。

だから、これからは本来あるべき生活とは何かを考えながら、暮らしていこうと思う。

私の父親が最後まで百姓することに拘ったように、自分も拘り続けようと思っている。

それは私が奄美でお世話になったオッショーやアンマの暮らしとも通じる。


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