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2023年10月28日土曜日

母と相棒に懺悔

 今の私にとってどうしても欠かせない相棒の一人はノートパソコンだ。

それが急に息を引き取ってしまった。

それはエプソンのエンデバーでかれこれ7年ほど付き合いになる。

母親の通院の付き添いの時に必ず持参したことが、一番の思い出となった。

というのも通常、受付をして、診察が終わるのは4時間以上経っていた。

その間、車椅子に乗っている母親のそばでパソコンを使って仕事したり、本を読んだりした。

そうすることによって長い時間待たされても、気が紛れることができたのだ。

年老いた母は「まだか まだか」と言いながら、時々鼻歌を歌ったり、居眠りをしていた。

当時、母親は心臓の具合が6年前くらいから悪くなり、入院したり循環器科に通院していた。

その母も去年、特養に入所してからは、私は付きそう必要がなくなったのだが、1年もたたないうちに亡くなってしまった。

母が亡くなったのが7月で、その3ヶ月後にパソコンも亡くなってしまったのだ。

デスクトップの画面背景には、このところ自分たち夫婦の結婚当時のデジタル化した写真アルバムを使っていて、そこには当時の両親の姿もしっかり残っていた。

私はそれを時々眺めながら、まだずいぶん元気だった50歳代後半の両親の姿を懐かしんでいたのだった。

アルバム自体は別のパソコンでも写せるけれど、壊れたパソコンは母との思い出が残るので処分せずに大事においておこうと思った。

それでも新しいのが必要なので、いろいろ探したがやっぱり同じエンデバーにすることにした。

外観は前のものとほとんど同じだが、ずいぶん操作が軽くなっているし、壊れる前のようなファンの音も殆どしない。

そういえば、壊れる前はそのファンの音が喘ぐように大きくなっていたし、時々突然シャットダウンしてしまっていた。

早めに新しいのと交代させて、仕事を軽くさせてやればよかったのだと後悔している。

これは、亡くなる前の母への気遣いがちゃんとできなかった後悔とも重なってしまう。

大して介護もしてあげてないのに、色々とトラブルのことで煩わしく思っていた当時の自分が情けなく、申し訳なく思う。

心のゆとりは単に仕事が忙しいとかどうかという問題ではなくて、何を優先して考えるかということであると失って改めて思い知らされた。

そして、ずっと今まで優先すべき大切な人や物を失って、後悔をどんどん積み重ねてしまっている自分を自分で哀れに思う。

哀れな私は、せめて今そばにいてくれる家族(愛犬も含む)や兄弟親戚、仲間、相棒であるパソコンや車なども大事にせねばならないと思わずにはいられない。


2023年10月22日日曜日

故郷は遠くにありても集うもの

 現在、私を含めて兄弟は誰も赤穂には住んでいない。

住所が赤穂市の弟も単身赴任中だ。

その弟が久しぶりに帰ってきて、自分たちの育った尾崎の風景を撮ってLINEにあげてきた。

京都に住む弟も先日用事で帰ってきて、懐かしかったらしくその投稿に共感していた。

私はちょっと前に、赤穂高校の近くにある畑がセイタカアワダチソウに被われていたので、それを必死で刈り取ったばかりだった。

故郷を感傷的に思うより、何とか荒れ果てる家や畑を復旧させねばならない立場だ。

私は農業と環境に拘ったので、赤穂よりも上郡を選んだ。

ただ最近は上郡の空中農薬散布に非常に危機感を感じている。

皮肉にも田畑の荒れた赤穂の方が却って環境に優しい農業ができるのだ。

だから、これからは赤穂の畑にも力を入れていこうと思っている。

先日来、生徒に赤穂八幡神社の秋祭りの紹介とその役割を説明している。

祭の盛んな地域の生徒が多いので、熱心に聞いてくれている。

そこではデヴィッド・グレーバーの「人間経済と商業経済」の対比からの視点で、祭の意味を説明している。

私は祭では人間経済が今でも生き続けていると思っている。

そして、商業経済とは一線画した職業が教師や看護師、介護士などだろうとも思っている。

商業経済にとっては、魅力の乏しいこういう田舎でも、人間経済にとっては価値ある所だと思う。

それに気付いてくれる人が必ず、集まってくれると私は信じている。

弟たちはこういう私を変わり者としか思わないかもしれないけど・・・・

2023年10月15日日曜日

シバ栗が一番

 栗の季節になった。

丹波篠山では大きくて甘い栗が売られ出した。

圧力を掛けてはじいた栗は格別に美味しい。

この時期の篠山は観光客で一杯なのだが、年に一度は訪れている。

それにもまして、今の私の楽しみは散歩の道すがらシバ栗を拾いそれを食べることだ。

シバ栗は木によって大きさも違うが、ドングリよりも小さい物も多い。

しかし、普通に店頭で売っている栗よりも甘くて美味しい。

近所の山には植えながら放置してしまった栗の木もあり、近くの人が勝手に拾ったりしている。

私も以前は、なるべく早く散歩に出かけて拾ってきたりした。

大きい栗はそうして皆が拾うが、シバ栗は見向きもされず、鹿などの動物の餌になっている。

だから、動物との競争にはなるが、朝早く行くとポケット一杯くらいにはなることもある。

この季節は大粒のシバ栗のある遠くの山にまで、散歩に出かけることもある。

以前は面倒なので茹でたりしていたが、今年からはシャトルシェフを使って蒸している。

蒸したシバ栗をテーブルに置いておいて、おやつやつまみ代わりに食べている。

因みにテーブルの上には、家で穫れたサツマイモ、落花生や買った銀杏も同じように蒸した物が並ぶ。

家内には栗の皮などが下に落ちるのでいつも小言を言われている。

日本人の前歯はシャベル状になっていると言うことだが、栗の実を皮からへずりとるのにちょうど良い。

小さな栗は爪で剥くのは面倒なので、全部歯で剥いて食べている。

だから、食べかすは鹿などの動物のものとよく似ている。

石臼で磨り潰していた縄文人よりも退化してしまっている・・・・



2023年10月13日金曜日

サツマイモへの思い入れ

 私の父はサツマイモを非常に大事に育てた。

私の幼かった頃は、稲も作っていたし、小麦も作っていた。

おそらくそれで、家族の主食は賄われていたと思う。

職工で昼間もきつい肉体労働をしていたのに、夏場は早朝や夕方に田畑に出たり、休日は農作業をいつもしていた。

子どもが4人もいたので、米は足らなかったのだろうと思うが、朝は小麦を製粉して貰ってホットケーキ(当時はべた焼きと言った)をみんなで食べた。

田圃は一枚は高校用地に売れ、残った一枚に新しい家を建てたので、畑だけが残った。

父はそこで、一番食糧になるサツマイモ作りに力を注いだ。

家のローンや子どもを大学に入れるのに、出費がかさむのでそれを補うためだったのだろう。

サツマイモは自分で苗を作るほどで、冬場は一つずつ靴下などにいれて、リビングの暖かい場所に置いていた。

また、干し芋にしたり、固くして粉にして食べたりしていた。

私は当時はサツマイモは好きになれなかったが、大学に入って下宿生をしていたときは、芋を送って貰って食糧の足しにした。

安いラーメンばかりで飽きていたので、サツマイモは主食に近い形で食べていた。

父は晩年はサツマイモを掘るのも辛くなったようで、私が掘るのを手伝ってあげることも多かった。

そういうサツマイモだが、自分自身は貧乏学生の時代に嫌というほど食べたので、自分であまり作ろうとは思わなかった。

家内もサツマイモはそれほど好きではなく、弁当のおかず程度に欲しいというだけなので、少しだけ作っていた。

しかし、今年からは食糧自給に向けて、サツマイモの作付けを大幅に増やした。

冬場はもち麦を中心とした麦類とジャガイモ、夏場はタカキビを中心とした雑穀とサツマイモが私の食糧自給戦略である、

そして、今年のサツマイモの出来はまずまずだ。

先日来、収穫した芋はふかして、小腹が空いたときや、酒の当てにして食べている。

かつての奄美や沖縄の人のように主食にはできないが、副食としてこれからもしっかり作り続けようと思う。

それにしても、私はだんだん親父に似てきたようだ。

2023年10月9日月曜日

ど根性大根大ちゃんになれない大根

 2005年、兵庫県相生市でアスファルトを割ってそそり立った大根が一世を風靡した。

時々、その場所を通るが、そこにはちゃんと案内が立っている。

それと引き換え、うちの大根と蕪はダイコンハムシにやられて、蕪は壊滅、大根はボロボロの状態でしなっている。

1回目は普通に蒔いて、ボロボロになったので、2回目は同じ所に蒔いて、百円ショップの不織布を被せて置いた。

しかし、一度入ったハムシは居続けたようで、今度はどちらも根こそぎ喰われてしまった。

もう今年は駄目かとも思ったが、蕪なら間に合うと思い、別の場所をバナーで焼いて、肥料(有機石灰と鶏糞)を入れ耕しておいた。

春菊が虫予防に効くというので、あらかじめ買っておいた種を真ん中に蒔いた。

そして、昨日(10/8)種を買いに行ったら、10月でも間に合う大根の種があったので、蕪と一緒に買って帰った。

今日は昨日からの雨で畑はぬかるんでいたが、朝早く起きて大根と蕪の種を蒔いた。

そして、あらかじめネットで買っておいた不織布を被せて、今度は厳重にその裾も抑えて置いた。

はたして、今度こそ上手くいくかどうか分からないが、3回買った種代だけでも馬鹿にならない。

どうしても、農薬を使いたくないので、こんなに苦労する。

以前は少し大きくなったところを青虫にやられて困ったが、壊滅状態になったことは無かった。

これも、農薬空中散布のせいで、天敵が減ってしまったせいかもしれない。

というのも、私は畑防衛隊と名付けたアマガエルが非常に少ないし、カマキリや蜘蛛も減ってしまった。

ただ、コオロギはそこそこいるが、ありがたいことにイナゴはずいぶんと減った。

近所の農家は農薬を普通に使っているので、ネットを使わずに立派に育っている。

最近は大根なども値上がりしているので、農薬使って作った方が安上がりなことも確かだろう。

皮肉なもので、ハムシのいないアスファルトの道の側で作った方が、大根は逞しく育つ時代なのだろうか?

町の真ん中では、農薬の空中散布など絶対あり得ないから・・・・・

2023年10月7日土曜日

非正規雇用と心の支え

 私は大学院時代に親からの支援が一切無くて、アルバイトに打ち込まざるを得なかった。

家庭教師のアルバイトをするまでは、郵便局で短期働いたり、警備会社で高校の宿直や交通整理をしたりした。

宿直の仕事は身体的にも精神的にも負担が重くて、長く続けられなかった。

家庭教師は家庭教師センターに登録して紹介してもらい、裕福な家を常時数軒掛け持っていたので、比較的収入を上げることができた。

しかし、当然ながらアルバイト中心の生活となり、何のために大学院に進学したのか分からない状態だった。

その後、私を支援してくれる人のお陰で、研究に打ち込めたが、結果としては研究も生活も破綻してしまった。

破綻しても未練から、しばらく設計事務所で常勤のアルバイトをしたり、塾のアルバイトをしていたが、生活にも精神的にも行き詰まってしまった。

失意の内に赤穂に戻ってからは、教員になるしか道が開けそうに無かったので、試験までは親の厄介者になった。

試験が終わってからは中学校の短期間の常勤臨時講師と赤穂市の発掘調査のアルバイトをしてすごし、採用前は高校の産休裏の常勤臨時講師をしていた。

大学時代の短期アルバイトを含めて、10年くらいは非正規の仕事をしていたことになる。

その間、年金も横浜市に支払ったはずなのに、その記録は消えてしまっていた。

採用された教師は57歳で早期退職したので、64歳の今日まで7年間は無職や非正規雇用で過ごしてきた。

それができたのは家内の理解と支えがあったらなのだが、若いときの非正規の仕事以上に悲哀を味わわざるを得なかった。

それは、正規の仕事を30年間してきたから余計に感じたのかもしれない。

やはり、仕方ないとは言え、若い人からぞんざいに扱われるのが一番辛かった。

また、仕事を引き受けてから、最初の話と大きく違うこともあり、管理職と実務者の意向の違いが甚だしく、正規以上の過酷さを強いられることもある。

そもそも、授業の時給換算であるので、その準備や定期考査の採点、評価、課題の点検に費やす時間は無給となる(学校によって有給もあるが時間としては割に合わない)。

いくら授業自体の時給が高くても、それに付随する労力を換算すると決して高くは無い。

しかも、一クラスしか無い授業の場合は、時間換算で行くと兵庫県の最低時給を下回るはずである。

そして、通勤時間の負担は、常勤よりも重くなる。

また、夏休み等の長期休みには無給になるので、プールの監視員のような短期のアルバイトを入れて体を壊した若い教師もいた。

だから、正規の教師になる目的を持っている、教師そのものにやり甲斐を感じている、家にいてもやることが無い等、という人しか続けられないと思う。

非常勤講師には過重な新課程に移行している現在、私には家にいてもやることがないからと、引き受けられるような生やさしいものには思えない。

私は今年度、その新課程の過重さを知らなかったものだから、勤務内容も交渉せずに安請け負いしてしまった自分を恥じている。

選択科目が多い高校では非常勤講師は欠かせないだろうに、もう私のような脳天気の退職教師(管理職は見透かしていたようだ)はそんなに多くはいないと思う。

ただ、正規の仕事の時のように、辞めることはいつでも自由だと思い、追い詰められて自律神経を患うことは無い。

以前のように出勤前の吐き気も最近はあまりない。

先日もぞんざいに扱われたのがきっかけで、正規の時に言ったことも無かった「来年度は絶対辞めます」と管理職に公然と言った(後日、実際に継続を断った)。

それは、自分たちが正規の時は、非常勤の人にはそれなりに気を使っていたことを引き合いに出してのことだった。

また別の所では、冗談を粧いながら、管理職に騙されて今年は勤めているが、来年はここで仕事はしないと公言している(こちらも後日、継続を断った)。

非正規は不安定ではあるけれど、辞める選択肢があって、精神的に自分を追い詰めてしまわなくても済む。

来年度からは年金が満額出るので、家内に迷惑を掛けなくて済むと強気でいられるのも確かだ。

やはり、私にとって非常勤講師で働いた動機は、家内への配慮だった。

そして何より、自分を今精神的に救ってくれているのは、若いときからの研究なのである。

希望に満ちた生活を破綻させた研究なのだが、今は心のより所になっている。

それも、家内の理解があってのことで、ありがたく思っている。

たぶん家内も私から研究をとったら、気儘なぐうたら人間でしかないと思ったからなのかもしれない。

皮肉なもので、正規の教師としての仕事の経験は心の支えにはならず、非正規の時にしていた研究の方が心の支えとなっているのだ。

プロの研究者は正規の仕事も心の支えにもなっているのかもしれないが、プロはプロなりに追い込まれてもいるのだろうとも想像はする。

私の研究はプロで無いばかりか、金を多額つぎ込んでそこからの収入もなく、全く道楽でありながら気楽でいるのは少々恥ずかしい。

身を削ることが美徳であるなら、自分は全くそれに欠けているのかもしれない。

研究につぎ込む金は、近所の人がパチンコに金をつぎ込むよりはましぐらいにしか思っていない。

今、ちょうど研究しているのはデヴィッド・グレーバー2016(2011)『負債論―貨幣と暴力の5000年』に関連したものだ。

この高名な人類学者は59歳で波乱な人生を閉じている。

アナーキストでありながら、結局商業経済の中で命を縮めたように思える。

私は恩師である故村武精一先生のお言葉「長生きしてこそ研究は生きる」を信じている。

因みにこのお言葉は、現役で癌で亡くなった知人である人類学者を悼んでおっしゃったものだ。

また、同じく恩師の石川栄吉先生も80歳で亡くなられるまで、ずっと研究を続けておられた。

私は多くの人に「恩」という人間経済の「負債」を背負っているのだが、佐久間寛氏の「返済論」ではないけれど、商業経済とは無縁の研究を通して少しずつ「返済」していこうと思っている。