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2023年12月30日土曜日

となぜのじいちゃん

 私は生まれたときには、祖父はひとりしかいなかった。

母方の祖父は、母が子供の頃に戦死していたからだ。

父方の祖父は、元船乗りで、物心がついたときには、庭師をしていた。

一番の印象は、左手の中指と薬指の先が無かったことだ。

仕事で石を扱っていて潰してしまったそうだが、子供心にはその手を見るのが怖かった。

また、猟師もしていて、猟銃もあったし、ポインターも飼っていた。

その犬を非常に大事にしていたので、父は子供より可愛がっていて、自分は犬嫌いになったと言っていた。

しかし、その父も晩年は自分もプードルを飼って可愛がっていた。


祖父は、人に雇われずに生きてきたので、気が強く、強面であった。

子供に対しても厳しすぎるくらいだったので、長男は一緒に働くくらいなら、戦争に行った方がましだと、少年兵に志願して戦死した。

私の父も、子供の頃から厳しく育てられ、赤穂中等学校も中退させられて一緒に船に乗せられた。

その学校をあと1年で卒業できたのに、中退させられたことをずっと根に持っていたようだった。

祖父の家業は、鷏和で産する御影石を主に運ぶ仕事で、機帆船時代から始まり、当時は100トンくらいの木造船だった。

結局、本家は次男が継ぎ、父は独立して家業を続けたが辞めて、造船所の職工になった。


いわば、祖父は家長であり、もと親方でもあったので、子供とは一線を画してしまっていた。

正月や盆でも子供の家族が集まってくるのに、一緒に食事などはしなかった。

自分の子供とはあまり仲が良くなかったが、私のような孫は普通に可愛がるじいちゃんだった。

父には怖い祖父として聞かされていたが、叱られた記憶がない。

小さい頃は遊んで貰った記憶は無いが、お年玉をくれる有り難いじいちゃんだった。


そんな祖父との一番関わった経験は、庭師の仕事で、山に木を採りに行ったりするのを手伝わされたことだ。

当時高校生だった私は、山を登る70歳を超えた祖父の後をついて行くのがやっとだった。

孫の中で祖父と仕事をした経験があるのは自分だけだった。

そんな祖父も、83歳で脳梗塞に倒れて亡くなった。

だから、その後親戚が集まって、祖父の話題で懐かしく語ることが出来るのは、私と祖父の娘婿くらいだった。


父は最期まで祖父と仲良くなれなかったようだった。

祖父と父が仲良くしている姿の記憶が無い。

私も父とは思春期から結婚するまで非常に仲が悪くなったが、孫が出来てからは普通の親子に戻って一緒に農作業などをしたりした。

そこまで親子で確執を生んだ経緯は分かるが、祖父を理解することは、この歳になるまで分からなかった。

家や家業を守ることの厳しさを体に染みつかせていたのだと思う。

父も厳しかったが、月給取りの暢気さもあった。

私は最初から公務員の月給取りで暢気なものだ。

祖父は企業や官公庁に対等に渡り合って生きてきた強さを持っていた。


一番祖父の気丈さを思い知らされたのは、父の建てた家に庭を造るときのことだった。

当時高校生だった私は直接見ていないのだが、見ていた母親から聞かされた話である。

祖父を中心にして、庭を造ったのだが、その時にいつものように、祖父は猟犬を車に積んでいた。

猟期でも無いのに、猟犬を積んでいたのを見つけた私服警官が、祖父を問い詰めたそうである。

それを怒った祖父は、その警官の胸ぐらをつかんで「証拠でもあるんか」と怒鳴ったそうだ。

よく公務執行妨害で逮捕されなかったと思うが、私服警官をたじろがす迫力を持っていて、母も恐れをなしていた。

自分も、その祖父の血を少し受け継いでいると、思い当たる節もあるのだが・・・・

そんな祖父こそ、時に命がけで一揆さえも起こしていた、百姓の生き残りだったような気がする。





2023年12月25日月曜日

村の真のアナキスト?

 アナキストと言えば、革命家とかテロリストのように思えるのだが、ここでいうアナキストは国家や宗教の権威による政治的支配を否定、または恩恵を拒んだ人という意味である。

もう。その人は亡くなってしまい、住んでいた家(土地は借地)は更地になった後、草だらけになっている。

もともと、その人はこの村で生まれたのではなく、親戚を頼って都会から移り住んで、しばらくはクリーニング屋をしていたという。

私がこの村に移り住んできた頃は、もう店も廃業して、色々とアルバイトをして暮らしていた。

頼った親戚も村を去ってしまって、もう親しい縁者は誰もいなくなってしまっていた。

このKさんとは、村の行事や仕事で会うとよく話をしたし、普段でも道で会うと声を掛け合う仲だった。

Kさんは年老いて、非常に貧しい生活をしていたので、一度だけ生活保護を受けたらと進言したことがある。

しかし、彼は貯金があるからと言って拒んだが、受けることを恥のように考えているようだった。

身なりもみすぼらしく、悪臭も放っていたKさんだが、Kさんなりにプライドを持っていた。


年老いて、出来る仕事も減ってしまい、車も維持できなくて、健康目的もかねて遠くまで歩くのを日課としていた。

一人暮らしのKさんは、村では隣保長はできないからとそのかわりに、公園の管理の仕事を毎年引き受けて、行事には熱心に取り組んでいた。

村作業でも、人一倍動くし、無理して高い草刈り機なども買って持っていた。

そんな元気だったKさんも、心臓の病気を患ってしまった。

ちゃんとした治療もあまり受けてないようで、見てからも症状が重いということが分かったが、家に居続けていた。

民生委員の人もKさんを気にかけて、定期的に訪ねていって、病院にも連れて行ってあげていた。

その民生委員の人がある朝訪ねていったら、Kさんはすでに亡くなっていた。


普通なら、村の人が葬式を手伝うだが、近くにいた兄弟は、本人とも関係を殆ど持っていなかったようで、直葬で済ませてしまった。

残ったのは、足の踏み場も無いゴミ屋敷だけと思ったら、Kさんは貰えるはずの年金が300万円も残っていたという。

身寄りの人は、そのお金を使う形で町に依頼して、その家を片付けて貰い更地にして、土地を地主に返したのであった。

Kさんがなぜ貰えるはずの年金を貰っていなかったのか、理由は分からない。

単に手続きが面倒でしなかっただけかもしれない。


生活保護も受けず、年金も貰わずに暮らしていたKさんが亡くなった年齢は74歳だった。

村では60歳にも達せず、自分で年金を使わずに亡くなった人は何人もいる。

その人たちの多くは、立派な持ち家に住み、しっかり収入を得ていた人たちだ。

私と同じ教師でも、年金を自分で貰わなかった人や、もらい始めてすぐに亡くなった人を何人も知っている。

年金も生活保護も受けずに暮らしたKさんは、その人たちよりもよほど長生きしたと言える。

男性の平均寿命に比べて74歳は長生きとは言えないが、私の父が77歳で亡くなったので、それより3歳若いだけだ。


かつてはクリーニング屋に雇われて技術を身につけ独立した後は、貧しいながら自由に生きてきたのがKさんだ。

民生委員の人以外は、誰の世話にもならず、迷惑もかけずにみんなと普通に暮らしていたKさんこそ真のアナキストと言えるのかもしれない。

ただ、Kさんは国家の支配を拒んだのでは無く、単に無関心だっただけかもしれないが、恩恵を拒んだことも確かだ。

国立大学に勤めながらアナキシズムを唱えて本を出版し印税を稼ぐ学者と、どちらがアナキストらしいのだろう?

Kさんはかつて、自転車選手として活躍していたことを話してくれたことがある。

きっと、あの世では衣食住の憂いも無く、自由に自転車を乗り回しているだろう。

かく言う我々もあの世へ行けばアナキストでいられるはずだが、神の国や天国に行きたい人はなりたくもないだろうけれど・・・


2023年12月23日土曜日

遠くで汽笛を聞きながら

 10月8日に、元アリスの谷村新司が亡くなったが、今日ラジオマンジャックの聞き逃し配信を聴いていて、谷村新司の追悼式の話題でまた思い出した。

私はアリスの曲はギターを弾きながら友達と一緒に歌ったり、一人でも部屋でよく歌った。

ステージの上では一度も歌ったことは無いが、盆や正月に親子兄弟でカラオケに行くと、必ずアリスの曲を一緒に歌っていた。

いとこは高校時代に「終止符」を自分でギター演奏して歌って録音したものを、谷村のラジオ番組に送って、ラジオでかけてもらった。

谷村本人からすごく褒められていて、いとこの母親も非常に喜んでいたのを憶えている。

私は当時隣に住んでいたいとこの様子をよく知っていたので、歌に本人のその時の気持ちがしっかり込められていたのが良かったのだと思っている。


私も「遠くで汽笛を聞きながら」は、自分の経験に重ねてしまう歌で、未だに時々一人で歌っている。

  俺を見捨てた女(ひと)を 恨んで生きるより

この言葉は心に突き刺さる。

正確には見捨てられたと言うより、愛想を尽かされた私は恨むことさえできなかった。

身勝手だった私は見捨てられて当然だったと思っていたので、この歌詞には違和感があったが、見捨てられたことを吐露する気持ちには共感できた。

しかし、自分が見捨てられたことの意味を自分に納得させることは、この歳になるまでなかなか出来なかった。

つまり、相手が自分にどんな感情を抱いたのかを、想像できない、否、したくなかったのだ。

そういう自分の心を誤魔化すには、

  せめて一夜の夢と 泣いて泣き明して

と心を通わせた日々が夢だったのだと、泣きながら歌い続けるしか無かった。

しかし、今は彼女がどんな気持ちで、私と訣別したのかを思い巡らせることができる。

自分が彼女の立場だったら、同じように愛想が尽きていただろうとも思う。


谷村新司の歌の素晴らしさは、こうして自分の気持ちを託せる歌詞とメロディーだ。

たぶん、いとこも

  あの夏の日がなかったら 楽しい日々が続いたのに

という歌詞に自分の気持ちを託したのかもしれない。

死にたいほど辛く傷ついた心でも、なんとか「生きていきたい」という自分の気持ちを、私もこの歌に託していた。

今住んでいる上郡の我が家では、遠くで貨物列車が通る音も聞こえるし、本当にたまに「汽笛」も聞こえる。

その線路をそばで眺めて、彼女と一緒にこのレールの上を寝台列車に乗って通ったことを思い出したりもした。

この歌の「汽笛」は青函連絡船の汽笛だそうだが、私にとってはかつての「あさかぜ」や「はやぶさ」と同じ電気機関車の鳴らす汽笛だ。

ただ、今住んでいる所は、二人で過ごした街とは全く関係が無く、「何も良いことが無かった街」では決して無い。

相変わらず身勝手な私を見捨てずに一緒に生きてくれている妻や子供と、心を開いて生き続けている村だ。

そういう意味では、この歌は自らも見捨てて忘れたかった、かつての若き日の自分への鎮魂歌として歌い続けているのだ。





2023年12月19日火曜日

となぜのばあちゃん

 私は父方の祖母をとなぜ(鳥撫)のばあちゃん、母方を相生のばあちゃんと言っていた。

私が幼い頃、相生のばあちゃんは母の子育てが大変な中で、しょっちゅう手伝いに来てくれていた。

やがて、相生から引っ越して隣のばあちゃんになった。

となぜのばあちゃんは、本家のばあちゃんで、私が男としては初めての孫だった。

本家にはいとこの姉がいたので、一緒に遊ぶことも多く、鳥撫から尾崎に引っ越した後も、本家に預けられることも多かった。

赤穂まで買い物に行くときに連れて行ってくれたりして、ソフトボールで使うグローブを買って貰ったのを憶えている。

ばあちゃんの名前はたつゑと言って、遠く小赤松(上月町)の出であって、近所には親戚はいなかった。

子供は7人できて、長男は戦死し、一人は溺死、一人は病死して、結局4人生き残った。

私の父は三男で祖父と同じ船乗りだったが、辞めて職工になって本家の鳥撫からも離れてしまった。

ばあちゃんの子供は仲が良く、正月や盆にその家族も一緒に集まって楽しく過ごしたが、それは祖母に惹かれて集まっていたと思う。

そういう和やかな場には、祖父は殆ど関わらなかった。

祖父は船乗りであり、経営者として厳格な性格であり、ばあちゃんはそれでかなり苦労したようだった。

また、本家を継いだ2男も夫婦で船に乗っていたので、いとこの姉はばあちゃんに育てられたのも同然だった。


先日、自分の写真を整理しようと思って、結婚式の写真を見たらそのばあちゃんが写っていたので驚いた。

自分の結婚式にわざわざ身支度をして参席してくれていたのだ。

私の母は結局、孫の結婚式には一度も参席せずに他界した。

となぜのばあちゃんは孫の私のために、無理して来てくれていたのだった。

実は、私は恥ずかしながら、学生時代にずっとばあちゃんからお金を貰っていた。

自分が苦学生だと知っていて、こっそり母に託してくれていた。

私はそのお礼をちゃんと言えないまま、ばあちゃんの葬式に参列しなくてはいけなかった。

ばあちゃんは調子が悪いのに、病院にかかるのを拒んで、入院もせずに急に旅立ってしまった。

結婚してから忙しさに感けて、ばあちゃんとゆっくり話す機会も無かった。

そのことを葬式の時に本家のいとこの姉に涙ながらに話すと、「気持ちはちゃんと届いとるで」と慰めてくれた。

ばあちゃんは全ての孫(全部併せて11人)を可愛がっていたが、亡くなって一番号泣して哀しんでいたのは、本家の近くに住んでばあちゃんの側にいた四男の娘であった。

私の母がこの七月に亡くなったが、その時のいとこほど泣いた孫はいなかった。


たぶん、祖母は孫と関わることによって、暮らしに生きがいを見いだしていたのだろうと思う。

私も祖母からの無償の愛情に育まれながら成長できた。

祖父母と孫の関わりの大切さを改めて感じている。

私の父母も孫(全部併せて6人)と関わるのを楽しんでいたし、立派になるのを喜んでいた。

自分にはまだ孫はいないし、将来もできないかもしれない。

子供が欲しくてもできない夫婦もいるのだから、高望みは言うまい。

せめて、孫のような子供や若者に、何か尽くすことができればと思っている。

と言いながら、今、関わっている高校生は孫と言ってもおかしくない年齢だが・・・



2023年12月15日金曜日

Imagineに託す希望

 NHKのアナザーストリー「ジョン・レノン そして「イマジン」は名曲になった 初回放送日: 2023年12月8日」を見て、授業でイマジンを紹介したいと思った。

この名曲を私が教えている高校生は殆ど知らない。

英語の授業のように、一文一文生徒に訳してもらい、解説を加えた。

そして、最後にYouyubeで動画を観てもらった。

普段授業中に寝ている生徒もこの時ばかりは真剣に聞いてくれていた。


NHKも戦争が多発している今だからこそ、ジョンレノンの命日に放送したということはよく分かる。

今年はFMラジオでもディスカバービートルズⅡが放送されていて、そこでもジョンのことを詳しく語られている。

私たちの世代はビートルズを知らない者は殆どいないと思うが、その4人の誰が好きかという好みの違いがある。

私はどちらかというとポールが好きだったし、バンドのボーカルとしては、仲間からジョンよりもポール的だと言われていた。

最近ポールの性癖を知ってからは、ジョンの方に惹かれるようになっていた。

また、オノヨーコはあまり良い印象では無かったのだが、Imagineの元となった詩は彼女が書いたことを知って、ジョンにとってのその存在の大きさが理解できた。


このImagineのことを山間部の生徒に語ったところ、生徒から自分の父親もビートルズが好きでよく聴いているという話を廊下で歩きながら聞かされた。

その生徒の父親は今でもバンドを続けていて、ベースを担当しているという。

生徒はその影響で、自分もギターを練習しているし、ビートルズの曲もよく知っているようだった。

ビートルズは親子とか、教師と生徒のように大きく離れた世代を結びつけてくれる力を持っている。

そして、Imagineは世界の人々の心を結びつける力さえ持っている。

それを生徒に知ってもらいたかった。

歌には人々の心に訴えかける力があり、こういう時代でも今日をしっかり生きていこうという気持ちにさせてくれる。


ジョンのHappy Xmas (War Is Over) は、勤務していた特別支援学校の忘年会の余興で職員バンドのボーカルとして歌ったことがあった。

Imagineに関しては、ステージで一度も歌ったことが無かったし、練習したことも無かった。

あまりにも有名すぎて、人前で歌う気にならなかったからだ。

NHKの番組を観てからは、ギターを弾きながら一人で家で歌って練習している。

できれば日本でも平和運動としてみんなと一緒に歌えればと思っているのだが・・・・



2023年12月13日水曜日

微笑みにやりがい

 山間部の高校生は男子も女子も、授業前後や廊下で親しく話しかけてくれる。

都市部の高校生は男子に関しては、話しかけてくれることもあるが、女子はきちっと挨拶をしてくれるが話しかけてはくれない。

用も無いのにこちらから馴れ馴れしく話しかけるわけにもいかない。

ただ、そのかわり都市部の生徒は、職員室の前の廊下であったりすると、たまに微笑みかけてくれる生徒もいる。

すると、こちらもちょっとした言葉を投げかけることもできる。


この年齢になると、店員や仕事上の知人で無い限り、女性から微笑みかけられることはまずない。

ましてや若い女性からは皆無と言って良いだろう。

それどころか、行き交う人の視線さえ感じることはまず無い。

それは私が人相が悪いからかもしれないが、若い頃は少しは視線を感じたこともあった。

白髪の髭を生やした老人はいくらお洒落しても、若い女性の眼中にはないことはよく分かる。

そういう老教師にでも微笑んでくれるのが、女子高校生だ。

気の重い仕事をしていても、そうした何気ない頬笑みでずいぶんと救われるということを最近感じた。


担任やクラブの顧問をしていた頃は、生徒とは親密に関わらざるを得ないので、真顔で接する機会の方が男女とも多かったと思う。

こうして、非常勤講師として接する機会の少ない老教師にとっては、そういう少ない生徒との関わりがやりがいを生んでくれる。

当然、そのやりがいだけで仕事が続けられるわけでは無いのだが、心に潤いを与えて少しでも頑張ろうと思える。

やりがい搾取を受けている身分でも、生徒からはこうしてお返しをもらっていると思わざるを得ない。


山間部の生徒とは常勤で勤めていた頃と変わらなく接することができるのも魅力でもある。

そういう魅力がありながら、片道約50kmで一時間もかかる通勤は非常勤講師には大きすぎる負担だ。

そして、何よりもⅠクラスしか無いので、非常勤講師には授業準備が大きな負担となる。

この年齢でやりがいを感じさせてくれる学校なのだが、その代償となる負担が続ける自信を失わせている。


私は得られる報酬だけで働いてはいないし、やりがいで搾取されているとばかり感じてはいない。

年金だけで十分暮らしていけるのに、非常勤講師を続ける教師も同じ気持ちだと思う。

私はこの都市部の学校では、模擬試験も受けない科目を担当していて、生徒のモチベーションも低い。

だから、少しでも関わりを持ちたいと思うのだが、山間部ほどは上手くいっていない。

そんな中で、仕事を続けられる大きなやりがいとして、こういう生徒の微笑みがあったのだと改めて感じた。



2023年12月10日日曜日

よそよそしい姫路城

 久しぶりに姫路駅周辺の商店街に行く用事ができた。

姫路には週に二度、非常勤講師の仕事で行っているのだが、お城は半年以上見ていない。

私は中学高校と6年間お城の側の学校に通っていたので、お城を見ると旧友に会ったような気持ちになる。

姫路は駅を中心に大きく様変わりしてしまい、50年前に有ったものを探すことさえ難しくなっている。

ちょうど、ヤマトヤシキも解体されていて、昔のまま残っているデパートは無くなってしまったと思う、

私は中学部時代に通学として使っていたのは主に御幸通りだったが、高等部になってからはお溝筋を使ったり、大手前通りの歩道を歩いたりした。

今日は、城に向かうときはお溝筋を通っていった。

しょっぱな、フォーラス(旧ジャスコ)がマンションに変わっている姿に、改めて時代を感じさせられた。

フォーラスがあった頃はお溝筋も賑やかだったが、今は本当に路地裏の飲食店街になってしまったように思う。


通学していた頃は、市民会館の前を通って直進したが、今日は途中から御幸通りに戻った。

私がフォークギター(yamaki)を友達に選んでもらって買った楽器屋に立ち寄ってみたが、店の中は店の人は一人で楽器を修理していたが、とても殺風景だった。

因みにこのギターは糸巻きを取り替えて、今でも私には欠かせないものとなっている。

本町商店街は、やはり薩摩屋が懐かしい、もう日の丸の鉢巻きをして店の前にいたおじいさんはいないが、残っているだけでも嬉しい。

古本屋にも立ち寄ったが、昔はおじいさんがいたはずだったが、おばあさんが店番をしていた。

本が雑然と並べてあって、洋書で出物が無いか見てみたが、積み上げられた本で探すことさえ難しかった。

大手前公園はコスプレのイベントがあったらしく、華やかと言うよりも、異質な別空間という感じだった。

サムライ姿のコスプレには姫路城がふさわしく思われているのだろうが、歩兵連隊本部があったことを考えれば軍服のコスプレもお奨めである。


大手門をくぐって天守閣を見上げると、こんなに荘厳だったかと改めて見直した。

通学していた頃は毎日見飽きていて、雪が降ってきれいな時くらいしかその美しさを感じることは無かった。

私が苦手としていた東北弁の美術の先生が、ずっと城を描き続けていたことが分かるような気がした。

因みに私は小学校の時には絵を習っていて自信があったのだが、どうもその先生とは合わなくてよく叱られていたし、成績も悪かった。

その先生はお城の波風の形を覚える方法を授業で語っていたが、当時は全く関心が無くて憶えていない。

姫路城が他の城よりもずいぶん立派に見えるはやはり大千鳥破風のおかげだろう


私は天守閣と動物園の間の坂を通って学校に向かっていたのだが、その道は当時は舗装されていなかった。

一番驚いたのは、動物園そばのもみの木が大木になっていたことだった。

これこそ、半世紀の時の流れを視覚で感じるものだった。

きれいに舗装された道は歩きやすかったが、かつて無かったロープでの進入禁止、石垣の鉄条網付きのネット塀が無粋に思えた。

確かに見上げた天守閣は今でも心を奪われるほど荘厳で美しい。

しかし、世界遺産になって、それを維持管理するために人を寄せ付けなくなった感じがした。

かつては、堀の上の石垣に登って、友達としゃべくっていた所にも、立ち入りができなくなっていた。

私たちはかつて、天守閣の周りを冬場には体育の時間に走らされたり、国語の時間に俳句を作るために歩かされたりした。

特に天守閣の北側の公園は、友達と放課後にぶらついて歩く楽しみの場所でもあった。

学校の三階トイレの窓から用を足しながら眺める天守閣が一番好きだった。

ただ、姫路西校に出張で行く用事があって、上階の南側の窓から眺める天守閣が今までに無く素晴らしいと思ったこともある。


今日は土曜日で観光客や修学旅行生徒で溢れた城だったので、余計に昔と変わったのかもしれない。

また、平日の人が少ないときにやってくれば、昔のように親しみを感じさせてくれるだろう。

ただ、私の通っていた学校は建て替えられてしまって、当時の面影は体育館横のコンクリート塀と、北側の教会だけに残されたのみだった。

と言うことで、母校よりもお城の方が懐かしい存在であり続けてくれている。

いずれ、動物園も消えてしまうと言うので、今はよそよそしく感じる城は、一番親しい存在になるだろう。


駅の方に戻るときは、御幸通りを使った。

一番に目に飛び込んだのは、アーケードに取り付けられたイルミネーションだった。

この通りがシャッター街にならず、今でも賑やかであり続けるのは、お城のお陰だと思う。

播磨姫路こそ城でもっているのだと改めて思った。


2023年12月7日木曜日

コウノトリの来訪(2023年12月)

 今日(12/7)は仕事が無いので、朝の9時過ぎにのんびりとクロと散歩をしていた。

すると、姫上線(兵庫県道5号姫路上郡線)から南に伸びた道路の路肩に、見覚えのある白い車が停まっている。

やっぱりそうだ 近所のコウノトリの追っかけカメラマンOさんが撮影している。

思わずその近くの鉄塔を見上げると、2羽がてっぺんにとまっている。

Oさんの車が無かったら完全に見逃していた。

Oさんに手を振ると、彼も嬉しそうなポーズを返してくれた。

Oさんは重い持病を抱えているのだが、コウノトリが冬場に戻ってくると俄然元気が出る。

早速、うちに帰ると家内にも、いさんで報告したら、家内も一緒に喜んでくれた。


今年は稲が大きく伸びるまで、3羽も長く滞在してくれていた。

きっと帰ってきてくれると心待ちにしていたのだが、心配事がある。

その一つは、山陽自動車道が赤穂付近で通行止めになっているので、姫上線に多くの車が迂回して通っている。

特に大型のトラックが頻繁に通っているので、その騒々しさで嫌にならないかということだ。

もう一つは、キツネが昼までも走り回っていることだ。

先日も、夕方の散歩の途中に大きな貯水池の土手に上がると、いきなりキツネが走って逃げていった。

どうも、貯水池の水際にいる水鳥を狙っていたようだ。

まだ、若ギツネのようだから、狩りは下手だとは思うが、安心はできない。

そして何よりも、今年の猛暑の影響で、餌となる小動物が減っているということだ。

前にも書いたように、農薬の空中散布の影響などもあって、昆虫や小動物が減ってしまい、雀やツバメも減ってしまっている。


そういう心配がありながら、コウノトリの我が地域への来訪は何よりも楽しみである。

冬場の何も無い水田の景色の中に、コウノトリの姿を見いだすと本当に救われた気分になる。

そして、大空を悠然と翼を広げてい飛んでいる姿は、自分も空を飛んでいる心地にさせてくれる。

昔の人はコウノトリも鶴として大切にし、幸せを願う心を託していたのだと思う。

まさしくOさんはコウノトリに生きる力をもらっていると言って過言では無いだろう。

ニュースでは戦争や犯罪、政治家の腐敗など気の重くなることばかり流れてくる。

そんな中で、コウノトリの来訪は、私にとっても日々の励みを与えてくれるものだ。

まだまだ、捨てたもんじゃないよ!

この幼稚園が廃園になってしまった過疎の村も!

きっと、赤ん坊も運んで来てくれるでしょう・・・




百姓のすすめ

 自分たちは農作業をすることを百姓すると言っていた。

父方の本家には田んぼもあって、幼い頃に父親が田植えを手伝うのについて行ったりしていた。

父は三男であり、結婚当初は鳥撫(鷏和)では借家暮らしで、夫婦と子供と雇い入れた若者とで木造船に乗って石などを運んでいた。

明石沖で遭難しかかったことをきっかけに船の仕事を辞めて造船所の職工になり、尾崎に小さな中古の家を買って移り住んだ。

父は百姓が好きだったようで、畑や田んぼを私の母方の祖母と共同で持つようになった。

田植えや稲刈りには祖母の家族(祖母も伯母も夫に先立たれていた)も手伝いに来てくれたりしたが、殆ど父が一人でやりくりしていた。

母は町育ちだったので、百姓仕事は嫌いで、たまに父に言われて手伝う程度だった。

田んぼは高校用地で1枚が売れて資金ができたので、別の田んぼを埋め立てて家を建てたので、自分が中学校の頃には無くなり畑だけになっていた。


私は長男だったので、どこに行くのにも連れて行かれたが、特に畑仕事は自転車の後ろ乗せられてついて行っていた。

だから一通りの作業は教え込まれていたが、父が昔からの経験でやるのを手伝っただけであった。

一番嫌だったのは草抜きだった。

先日も、かつて同じように畑仕事を手伝わされた四男がしぶしぶ草抜きをしていて、父に家に帰れと叱られたことがあったことを聞かされた。

四男はそういう経験もあって、近くに父から受け継いだ畑があっても、百姓は今でもしようとはしない。

自分はどちらかというと、耕したりする時に、力があることを見せて父に認めてもらいたい方だった。

4人兄弟の全員が百姓の手伝いをさせられているのだが、結局今でも続けているのは私だけである。


と言いながら、中学受験を小学校6年から始めて、大学院を出て教師になるまでは、たまにしか父の手伝いはしなかった。

私が百姓をし始めたのは、結婚後、赤穂の大津に借家住まいをして、子供ができてからである。

子供に安全で美味しい野菜を食べさせてやりたいというのが動機だった。

だから、当初から無農薬であり、そのうち化成肥料も使わず有機肥料に変えた。

雑誌の「現代農業」を定期購読し、農業書も色々読んだりもした。

30年ほど前に上郡に移り住んだのも本格的に農業をやりたかったからだった。

ところが、稲作地帯の近隣では、畑仕事は女性の片手間仕事で、畑も少なくなかなか貸してもらえなかった。

また、農業資格がとれるだけの機械や倉庫も無かったし、基盤整備した農地は高額で、農地は取得できなかった。

現在のように1反ほどの休耕田を借りて畑を作り始めたのは、10年ほど前からである。

当初は自分一人ではタマネギ一つまともに作れなかったのに、今は無農薬・有機肥料で大抵のものは作れるようになった。

特別支援学校では農作業を担当したりもした。


子供も育ち、孫もいない現在でも百姓に拘るのは、単に健康志向からだけではない。

自分達が食べるものを少しでも、自分で手に入れたいという思い入れと、作ることそのものに楽しみがあるからだ。

その楽しみとは、自分がてしおにかけた作物達が立派に育っていき、それを有り難くいただいたり、種として残してまた育てる楽しみである。

近所の人も、百姓をしている人は、作る楽しみを感じながらやっているようで、余分に作って人にあげるのも楽しみの一つだ。

中には田んぼで死ねたら本望だという人さえいる。

その一方で近所の同年代の人の多くが、若い頃に無理矢理農作業をやらされたので、今はしたくないという。

自分は幸いに学業を理由に、若い頃は逃げてこられたので、嫌にならずにすんでいるのだろうとも思う。

それは無理矢理やらされていた勉強やスポーツと同じで、好きにならないと続くものではない。

考えてみれば私は勉強もスポーツも好きなことしかやってこなかった。

だから、百姓は好きだからやっている。

たぶん、出荷して金を儲けようとしたとしたら、楽しみでは無くなって辞めていたかもしれない。

同じ村の専業農家の余裕のない働きぶりを見ていると、自分には向いてないと思う。

それじゃ単に趣味だと言われるかもしれないが、退職してからは生きがいの一つでもある。

百姓をしているときの方が体調も良く、気分がよく、研究はその合間でやる方がいい。

近所の早期退職後に本格的に農家になった人が、肺がんを克服したのも分かるような気がする。


世の中が近代化される前では、学問がすすめられた。

近代化されて疲弊している現代では、百姓をすすめるべきのように思う。

特に、退職後で年金や賃労働の収入に不安を抱えるものにとっては、百姓は収益という意味では気休めではあるが、暮らしとしては心強いものでもある。

因みに百姓は山野河海で食べられるものは、自分で何でもちゃんと手に入れたり、交換したりする。

多くの歴史学者や民俗学研究者が言うように、百姓は農作業だけしていたのではない。

私は百姓の原点に立ち戻りながら、学問も進めたいと思っている。

作物や自然の恵みに感謝しながら・・・