私は自分の育った家の家族構成は、住民票の上では父母と4人兄弟だった。
中学生までは、それが家の生活単位で、たまに母方の祖母が泊まりがけで母を助けに来てくれていた。
中学生の1年生から、近くに家を建てて、隣に祖母と伯母、いとこ二人が住むようになった。
垣根もない隣には祖母の家族が住むようになり、いつでも出入りできる環境となった。
特に、祖母はしょっちゅう我が家にやってきて、飼っていた小鳥の相手をしたり、好きな焼き芋を食べていた。
父はサツマイモを作ることに凝っており、冬場はストーブの上でいつも焼いていた。
子供達は飽きて食べないので、祖母はそれを遠慮無く食べていった。
小鳥はセキセイインコだったり、文鳥だったりした。
祖母がセキセイインコに「びーちゃん」と呼びかけるので、セキセイインコも言葉を覚えて、同じように「びーちゃん」としゃべっていた。
私も、隣にはいとこの兄もいたので、頻繁に出入りした。
酒の飲める歳になると、行くと昼までも酒が出されて、つい飲んでしまっていた。
親同士はそんなに仲が良いわけではなかったのだが、いとこ同士や、祖母と孫の関係は仲良くやっていた。
いわば、別棟の家族のような関係だった。
しかし、その関係も子供が大きくなって、結婚して所帯を持つと変わっていき、関わりは無くなっていった。
去年の7月に自分の母が亡くなった時も、伯母もいとこも、誰一人参列することは無かった。
伯母は入院しているので仕方なかったが、いとこの特殊な個人的事情や仕事の都合で来られず、時代のなせるわざかなと思って、淋しく思った。
というのも、祖母が亡くなった時には、私は葬式やその後の伯母の事務手続きをを一生懸命手伝った経験があったからだ。
母は姉である伯母よりも、早く亡くなったのだが、伯母は入院していて気弱になっていることから、いとこから知らせないで欲しいと言われて、その通りしている。
おそらく、伯母はいまだに自分の妹が死んだことを知らないでいるだろう。
たぶん、伯母が元気であったなら、こんな疎遠な状態にはなっていなかったと思う。
こうして、姉妹が隣同士で住むというのは、近隣でも珍しいことだったが、祖父が戦死して母子家庭で助け合って育った姉妹の絆でそうなったように思う。
一方、父方の祖父母の方は、父が自分の実家より、嫁の方の関係が親しくなったこともあって、盆正月以外のつきあいはあまりなかった。
祖父母の方は、あととりの伯父やいとこ夫婦、孫も一緒に暮らしていた。
分家した叔父の家族は近くに住んでいたので、孫達がしょっちゅう出入りしていた。
分家した叔父の家族も、完全な核家族では無かった。
私の家族は自分の実家も嫁の実家も車で30分ほどかかるので、しょっちゅう出入りするわけではなく、週末に顔をのぞかす程度だった。
どちらにも内孫がいなかったので、いとこ同士の関係もできなかった。
他の兄弟家族のように、盆正月や冠婚葬祭しか会わない関係ではなかったが、自分たちが育った、祖母家族が傍にいた状態とは大きく違っている。
近くに祖母がいて良かったと思うのは、親とは違う価値観をもっていて、穏やかに接してくれたことだ。
祖母は「偉い人なんかに ならんでええ」とよく言っていた。
両親が勉強頑張って偉い人になれというのとは真逆であって、言われた頃は祖母は時代遅れと思っていた。
しかし、この歳になると、たぶん、孫ができて話すことができたら、同じ言葉をかけてやるだろうと思う。
親は生きていくための力を重視して、それで子供を叱咤激励するのだが、祖母は長い人生で大切なものは何かがよく分かっていたのだろうと思う。
偉くなってしまって、大切な人との関係が疎遠になることが、結局は孤独を生んでしまう。
それが、自分たちの世代なのだろうと思う。
自分は大して偉くはなっていないが、当時の父よりも収入を多く得ている。
最近当時の四〇年前頃の日記を読み返していて、手取りが月給15万円だと、父が言ったことが書かれてあった。
それは。家のローンなど色々引かれてのことだと思うが、五〇歳代半ばにしては厳しい収入だったと思った。
それでも、その頃は私の兄弟や隣の家族とも賑やかに、楽しく暮らせていた。
母が元気だった頃、一番楽しかった時期として、その頃に一緒に泊まりがけで行った旅行を挙げていた。
今の自分にはそれ以上の収入がありながら、そんな楽しい生活は期待できない。
せいぜい、日曜に家内とドライブに行く楽しみしかない。
これが、少しだけ偉くなった生活なのだ。
そんな親の生活を見ていて、誰が子供を作ろうと思うだろうか。
みんなで仲良く楽しめる生活がないのに、がんばって子育てしようと思わない方が当たり前なのだと思う。
これが、頑張って大学を出ても地元に働く場所がない者達の実情のような気がする。