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2024年2月29日木曜日

核家族では無かった実家

 私は自分の育った家の家族構成は、住民票の上では父母と4人兄弟だった。

中学生までは、それが家の生活単位で、たまに母方の祖母が泊まりがけで母を助けに来てくれていた。

中学生の1年生から、近くに家を建てて、隣に祖母と伯母、いとこ二人が住むようになった。

垣根もない隣には祖母の家族が住むようになり、いつでも出入りできる環境となった。

特に、祖母はしょっちゅう我が家にやってきて、飼っていた小鳥の相手をしたり、好きな焼き芋を食べていた。

父はサツマイモを作ることに凝っており、冬場はストーブの上でいつも焼いていた。

子供達は飽きて食べないので、祖母はそれを遠慮無く食べていった。

小鳥はセキセイインコだったり、文鳥だったりした。

祖母がセキセイインコに「びーちゃん」と呼びかけるので、セキセイインコも言葉を覚えて、同じように「びーちゃん」としゃべっていた。


私も、隣にはいとこの兄もいたので、頻繁に出入りした。

酒の飲める歳になると、行くと昼までも酒が出されて、つい飲んでしまっていた。

親同士はそんなに仲が良いわけではなかったのだが、いとこ同士や、祖母と孫の関係は仲良くやっていた。

いわば、別棟の家族のような関係だった。

しかし、その関係も子供が大きくなって、結婚して所帯を持つと変わっていき、関わりは無くなっていった。

去年の7月に自分の母が亡くなった時も、伯母もいとこも、誰一人参列することは無かった。

伯母は入院しているので仕方なかったが、いとこの特殊な個人的事情や仕事の都合で来られず、時代のなせるわざかなと思って、淋しく思った。


というのも、祖母が亡くなった時には、私は葬式やその後の伯母の事務手続きをを一生懸命手伝った経験があったからだ。

母は姉である伯母よりも、早く亡くなったのだが、伯母は入院していて気弱になっていることから、いとこから知らせないで欲しいと言われて、その通りしている。

おそらく、伯母はいまだに自分の妹が死んだことを知らないでいるだろう。

たぶん、伯母が元気であったなら、こんな疎遠な状態にはなっていなかったと思う。


こうして、姉妹が隣同士で住むというのは、近隣でも珍しいことだったが、祖父が戦死して母子家庭で助け合って育った姉妹の絆でそうなったように思う。

一方、父方の祖父母の方は、父が自分の実家より、嫁の方の関係が親しくなったこともあって、盆正月以外のつきあいはあまりなかった。

祖父母の方は、あととりの伯父やいとこ夫婦、孫も一緒に暮らしていた。

分家した叔父の家族は近くに住んでいたので、孫達がしょっちゅう出入りしていた。

分家した叔父の家族も、完全な核家族では無かった。


私の家族は自分の実家も嫁の実家も車で30分ほどかかるので、しょっちゅう出入りするわけではなく、週末に顔をのぞかす程度だった。

どちらにも内孫がいなかったので、いとこ同士の関係もできなかった。

他の兄弟家族のように、盆正月や冠婚葬祭しか会わない関係ではなかったが、自分たちが育った、祖母家族が傍にいた状態とは大きく違っている。


近くに祖母がいて良かったと思うのは、親とは違う価値観をもっていて、穏やかに接してくれたことだ。

祖母は「偉い人なんかに ならんでええ」とよく言っていた。

両親が勉強頑張って偉い人になれというのとは真逆であって、言われた頃は祖母は時代遅れと思っていた。

しかし、この歳になると、たぶん、孫ができて話すことができたら、同じ言葉をかけてやるだろうと思う。

親は生きていくための力を重視して、それで子供を叱咤激励するのだが、祖母は長い人生で大切なものは何かがよく分かっていたのだろうと思う。

偉くなってしまって、大切な人との関係が疎遠になることが、結局は孤独を生んでしまう。

それが、自分たちの世代なのだろうと思う。


自分は大して偉くはなっていないが、当時の父よりも収入を多く得ている。

最近当時の四〇年前頃の日記を読み返していて、手取りが月給15万円だと、父が言ったことが書かれてあった。

それは。家のローンなど色々引かれてのことだと思うが、五〇歳代半ばにしては厳しい収入だったと思った。

それでも、その頃は私の兄弟や隣の家族とも賑やかに、楽しく暮らせていた。

母が元気だった頃、一番楽しかった時期として、その頃に一緒に泊まりがけで行った旅行を挙げていた。

今の自分にはそれ以上の収入がありながら、そんな楽しい生活は期待できない。

せいぜい、日曜に家内とドライブに行く楽しみしかない。

これが、少しだけ偉くなった生活なのだ。

そんな親の生活を見ていて、誰が子供を作ろうと思うだろうか。

みんなで仲良く楽しめる生活がないのに、がんばって子育てしようと思わない方が当たり前なのだと思う。

これが、頑張って大学を出ても地元に働く場所がない者達の実情のような気がする。

2024年2月20日火曜日

ちょっとした災害ならボランティア不要の時代

 私の父の本家は鷏和の鳥撫という集落にあった。

昭和51年(1976)の時の大雨で裏山が崩れて全壊した。

当時も危険地帯と分かっていたので、祖父母は避難していて無事だったが、近くに住む叔父が家を見に行っていた。

そこに土砂が崩れてきたのだが、幸い叔父は庭にあった池にはまって助かった。

祖父母は一時的に、尾崎にあった我が家にも避難したが、食事や生活が合わないということもあって、そんなに長くはいなかった。


私が憶えているのは、その後しばらく経って、壊れた家を片付けの手伝いに行った時のことだ。

親戚で手伝える者は全員集まって、高校生だった私もかり出された。

そして、集落の多くの人たちも手伝いにやってきてくれていた。

大きい材木などは、大人の男性が担い、私も体格が良かったので手伝った。

その時に、教えて貰ったのは、太い材木を運ぶ時には皆と同じ右肩で担わなければいけないということだ。

以前、違う担い方をして、下ろす時に材の木に巻き込まれて死んだ人がいると言うことだった。

当時は重機も殆ど無く、人手だけが頼りだったが、集落は今と違って元気盛りの人も多かった。


瓦などの小物は女の人も手伝って、リレー方式で片付けていった。

その時、家に思い入れの深かった叔母は涙を流しながら、手渡しをしていたのをよく憶えている。

家だけでなく、崩れた斜面に拵えてあった墓も崩れたので、一緒に山道を運んでいくのを手伝ったりした。

とにかく、集落の皆さんは労を惜しまずに、よく手伝ってくれたと思う。

自分も少しは大人並みに役に立てたのが嬉しかった。


もう今はこの集落にはそういうことが出来る体制にはなっていないだろうし、親戚とてもそのようにできないだろう。

昔は家を建てる時の棟上げには必ず、村の人に餅を巻いたりして振る舞っていた。

今のように作られた部屋をトラックで運んできて組み立てることはまず無かった。

家屋も村の人の祝福を受けて完成されるものだった。

そして、万一、こういう災害に関しては助けてくれるものだった。

私が村落調査をしたある村では、火事を起こした家がその後のお見舞いを受けて、却って元より裕福になるので「焼け福」とまで言われていた。


高齢化が進んだ村や、人間関係の疎遠になってしまった都会では、見ず知らずのボランティアに助けて貰わねばならない。

また、大規模な大災害には、ボランティアは欠かせないだろう。
江戸時代から、他地域からの支援行動はあったという。

それも悪いシステムでは無いとは思うが、それに頼ってばかりはいられないだろう。

地縁血縁の互助関係が崩壊した現代にあっては、それに代わる保証制度が必要だろう。

金銭面では災害保険で対応できるとして、人材の確保のための対策が広域でなされるべきだと思う。

また、昨日も朝のNHKのラジオニュースで聞いたのだが、地域に水などを独自に確保できる施設が必要だと言うことだ。

昨日も近所の人と話したのだが、立派な瓦屋根をもつ二階建て建築は危険極まりない。

今までは、それが豊かさや権威の象徴だったのだが、ただの砂上の楼閣に過ぎなくなってしまった。

今の時代のこれから建物は災害に遭ったときのことを優先的に考える必要に迫られている。


2024年2月17日土曜日

南海トラフ地震の現実

 今まで自分たちは上郡という内陸部で暮らしていたので他人事のように思っていた。

ただ、弟が赤穂の海のそばに家を建てて住んでいるので、気にはなっていた。

ところが、ネットで毎日新聞の被害予想記事を読んではっと気がついた。

娘は、住まいは岡山だが、香川県の坂出の造船所で働いて海のそばで仕事している。

全く他人事ではないことに、今更気づくなんて我ながら恥ずかしい。


前から、不思議に思っていたのだが、死者予想を今回は四国で最大9万人超と平然と記載されていることだ。

コロナの時もパンデミックになれば、こうなるというのが現実化した。

今回も同じように地震が起こればこうなるというのが現実化するのだろうか。

アンダマン人が神話からの掟に従い地震が起こったら山に逃げることで、部族の全員の命が救われたのは有名だ。

要は、逃げるしかないのだが、何よりも地震が起こって逃げられる道と場所の確保だろう。

今回の能登でも車の移動が問題になったが、どんなに経費と時間がかかっても、ともかく車の移動を含めた大がかりな実践避難訓練で備えるべきだろうと思う。

実際に起こって、娘の安否を気遣うことを思うと、切実に対策をお願いしたいと思っている。

2024年2月11日日曜日

島津藩の琉球支配と米国の日本支配

 歴史上よく知られていることだが、琉球王国は島津藩に実質支配されていながら、見せかけの独立王国を維持していた。

奄美諸島では島津藩の植民地支配を受けながら、幕府に対しては琉球王国だった。

島津藩は軍事力を背景に間接的に支配して、現地の支配階層を手懐けていった。

奄美では地元の郷士格が藩からの経済的な支配を受けつつも、政治的には強力な力をもって支配していた。

そんな中で、経済格差がどんどん開いていって、徴税負担によって身売りしたヤンチュを黒糖栽培の強制労働に追い込んでいった。

まさしくこの構図は現代の日本である。

よく言われるように、日本国憲法より優先されるのは日米安全保障条約である。

アメリカは圧倒的な軍事力を背景に日本を間接的に支配して、日本の支配階層を手懐けている。

軍事的、経済的にアメリカの支配に甘んじながら、日本政府は金権による支配力を持って国民を支配している。

そんな中で、経済格だがどんどん開いていって、非正規雇用の人々が過酷な労働に追い込まれている。


奄美の貧しい農民やヤンチュは強制労働させされながらも、焼き畑のサツマイモ栽培などを中心にソテツや椎の実、海産物など漁撈採集によって最低限の生存を維持した。

住む場所も家内ヤンチュは別として、サクバと呼ばれる農地のなかで、粗末ながら自分たちの手でヤドリという出小屋を建てて暮らしていた。

今の日本国民には、最低限の生活保護という仕組みがあって、食べることも住むこともできて、かつての奄美の貧しい人々のような生活はしなくていい。

一方、当時の奄美のヤンチュには、シマ(村)の行事には普通に参加でき、同じ郷士格以外とであれば恋愛は自由だった。

ただし、子供はヘダ(膝)と呼ばれて、ヤンチュの主人のものとなった。

われわれ国民は同じように自由に何でも出来るが、結局多くは子供に継がせられる家業がなくて、賃労働で雇われて働かせなくてはならない。

そして、子供に老後の世話など期待できないのだ。

それほど、地元の歴史研究者や郷土史家から債務奴隷とまで言われたヤンチュとそんなに変わらないのではないだろうか。


よく、現代の若者などを政治的無関心として批判されている。

当時の貧しい農民やヤンチュ達は本土のように百姓一揆は殆ど起こしていない。

アメリカの間接支配の中で、企業献金で金にまみれた日本政府の支配と、島津藩の間接支配の中で、黒糖利益にまみれた郷士格支配とどこが違うのだろう。

しかし、奄美の貧しい農民やヤンチュ達は自然の中で生きていける力を身につけていた

日本人の多くはいい加減な政府の方針で歪められた学校教育で、企業向けの学力以外に生存維持する力を身につけていないことを私は一番危惧する。

このような日本政府の政治に期待できない以上は、せめて生存維持ができるすべを身につける必要があるだろう。

それが自然回帰になるのか、グローバルな経済活動になるのかは、それぞれの適性によるものだろうが、今の大学を含めた学校にその力を求める時代は終わってるように思える。