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2024年3月23日土曜日

「馬の糞」の後悔が満足に

 私は大学院での博士課程への、進学失敗や妻との離婚をずっと後悔し続けていた。

いっそ、大学院など行かずに、幸せな家庭を築くことに努めれば良かったとも思った。

しかし、大学院で学んだことの、資格と自信がなかったら、当時教職に就くことも難しかっただろうとも思う。

確かにもう一年修士を続けて良い論文を書いて、博士課程に進学できたかもしれないが、幸せな家庭を築けていたかどうか分からない。

オーバードクターが多くいる中で、先行きは当時は全く見えなかった。

そんな中で、大学院研究科の方も学生を採らざるを得なかったので、研究者で無くても生きて行けそうな私を入れてくれたようにも思う。

それでも、後に通った兵庫教育大学の大学院とは違って、私の専門に近い一流の学者を講師として招いてくれていた。


その人が民俗宗教学の故桜井徳太郎先生だったし、奄美研究の上野和夫先生だった。

都立大学大学院OBのつながりとして、渡邊欣雄先生や笠原政治先生とも懇意にさせて貰った。

奄美研究会が立ち上がったときに、幹事役を勤めさせて貰っていたが、それを通して他の大学の院生とも交流ができた。

また、学部時代から懇意にしていただいていた、奄美研究の第一人者であった故山下欽一先生からも励ましを受けていた。

おそらく、南山大学の大学院ではそれだけの研究の幅は広がらなかったと思う。

しかし、元々実力不足の私は、松園万亀雄先生には「君は修士だけのつもりでとった」と宣告されていたのだから、博士課程以外の道も考えておくべきだった。

結果的にそのとおりになり、駆け落ちまでして一緒になった妻にまで見限られて失ってしまった。

一緒になったときは、私が立派な研究者になって、妻に報いるつもりでいた。


しかし、考えようによっては、博士課程に進んでも、研究者になれたかどうかも分からないし、もっと妻に苦労をかけた可能性もあった。

現実的に生活ができる教職を目指したのは、全くの間違いとはいえない。

もし、妻が私を見限らなかったら、そういう決断はできなかっただろう。

研究は高校教師をしながらは、大変ではあったが、不可能では無かった。

現に故山下欽一先生も長い間高校教師を勤めておられた。

私の場合は、高校や特別支援学校での仕事の方が合っていたように思う。

生徒と関わっているのが楽しくて、研究には熱が入らなかった。

それでも、夢が捨てきれなくて、思い出したように研究もしていた。


この歳になって気がついたことがある。

それは努めて忘れようとていた元妻の献身的な支えに、どう恩返しをすれば良いのかと言うことだ。

前に出版した書籍の謝辞にはその人の名前を書いていない。

絶対に書き添えるべき人であった。

だから、今は前回の書籍を上回るようなちゃんとした研究書を書き上げ、彼女に謝辞を書き添えようと頑張っている。

それは、私の研究に理解してもらって、苦労をかけている家内に対しては、それにも増して感謝を表さねばと思っている。

こうやって、教師を退職した後も、研究に情熱を持ち続けられているのは、大学院で3年間学ぶことができたからだろ思う。

故石川栄吉先生には「修士は馬の糞」と言われていたが、先生に修士に入れて貰ったお陰で「馬の糞」は糞なりに研究に生きがいを見いだしている。

「馬の糞」はそれで満足のような気がする。




2024年3月16日土曜日

思い出作りの子育て

 以前勤めていた高校で、土日も殆ど野球部の顧問として働いていた同僚から聞いた言葉として、忘れられない言葉がある。

「思い出作りに、やってるだけですよ」

つまり、クラブ指導は大した手当が付くわけでは無い。

むしろ、個人的に持ち出しの方が多くなる場合もある。

だからと言って、強豪チームならいざ知らず、甲子園に出られるわけでも無い。

部員の中には、野球の経験が進路に結びつく者もいるが、そうでない生徒の方がむしろ多いだろう。

教師も生徒も高校時代の思い出作りに、打ち込んでいるだけだという、自虐的な言葉である。

この先生には、お子さんも二人いたが、普段の週末は関わってあげられないと言うことで、正月などのクラブを休める時に泊付きの家族旅行を必ずしていた。

それに関しては我が家よりも、しっかり家族サービスはしていた。

しかし、普段は母子家庭のようなものだと、ぼやいていた。


考えてみれば、子育ても思い出作りだ。

子供に一生懸命に、経済的に支援し、時間もそれなりに割いている。

確かにそれが、子供の自立につながっていくのだから、大切な役割を担っている。

それは、高校のクラブ生徒が成長するのと、さほどかわらないかもしれない。

そして、昔なら親元に残ったり、近くにいて、老後の親の面倒を見るのだ普通だった。

しかし、田舎に住む我々親には、それが殆ど期待できない。

私や家内はたまたま、両親の家の近くに住んでいたので、それなりに関わることができたが、一番両親が期待していた弟夫婦は盆正月にも、殆ど帰ってこなかった。

私とても、東京の大学院で学んでいたのだから、もし、順調にいっていたら、地元には戻ってこなかっただろう。

弟と同じようになっていたかもしれない。


自分の隣の県に住む娘夫婦も、盆正月にさえ帰ってこない。

連絡さえ滅多によこさず、親を気遣っている風でも無い。

こちらは、子供が元気であれば良いと思うが、親子というのはこういうものだったのかと思う。

自分達は何とか、親の老後の世話を少しはできたが、自分の子供に同じことを期待しているわけではない。

今は、施設も整っているし、何とかなりそうだからだ。

そういう意味では、子育ては思い出作りだったのだと、納得してしまう。

思い出としては、本当にかけがえのないもので、人生の中で一番の思い出だとも思う。

子供達の写真や、ビデオは今でもたまに見る。

だから、おひとりさまで気楽で良いと言っている人には、気の毒にさえ思う。

そもそも、私たちの世代までは、子育てをするのが当たり前であり、疑問さえ起こらなかった。

今は、子育ては当たり前ではなくなっているようだ。


同性の結婚が認められるようになれば、ますます、子育ての意味が失せるだろう。

同性の恋人や友人と結婚して、扶養してあげたり、扶養して貰うことも可能になるのだろうか?。

健康保険や年金も、同じように同性の恋人や友人と結婚すれば優遇されるのだろうか?

そうしたら、思い出作りに子育てをして、苦労することなど、裕福な人以外は空しくなるだろう。

野球部の顧問の自虐的な言葉を、子育て夫婦が使うようになるように思えてしまう。






2024年3月12日火曜日

鉄道の価値再認識

 大阪で、古代メキシコ展をやっていて、前から家内とふたりで行くことにしていた。

私は仕事を完全退職したので、いつでも行けるのだが、やっと家内が平日に休みが取れたので、行くことができた。

実は、私はこのごろJRを遠くまで使うのに、行きは上郡駅からスーパーはくとに乗っている。

理由は長い時間トイレを我慢するのが辛いからだ。

以前、新快速でトイレのある車両にわざわざ乗って、大阪駅のかなり手前で入ろうとしたら、ずっと使用中になっていた。

どうも、非常に混雑していたので、中の便座に座っていたらしい。

この経験から、尿意をよくもよおす午前中には、特急列車を用いることにした。

昔のように、グリーン車がどの車両にもついていたら、それを利用するのだが、この辺ではまだ通勤時の一部しか無い。

午後はそれほどでもないので、普通に新快速で帰ることができる。


スーパーはくとの自由席は、空いていて快適なのだが、問題はエンジン音である。

骨伝導のイヤホンを持ってきたのだが、うるさくて殆ど聞こえないので、ずっと景色を見ていた。

私は中学高校と姫路まで、予備校時代は神戸まで通学した経験があるので、景色は変われども懐かしく旅情に浸ることができた。

明石からの海の景色を見終えるまで、尿意は我慢してから、用を足した。

やはり、席を立って、何度もトイレに行くのは恥ずかしいからだ。

特急料金は痛いのだが、我慢する辛さに比べれば、自分にとっては必要経費なのだ。


古代メキシコ展の展示は、目を見張るものが多かった。

特に私は今、ジェームズ、C,スコットの文献をもとに、国家について考えているので、この都市国家のあり方には興味が持てた。

国家と兵士、奴隷の関係、そして祭り、生け贄の関係というのは、あまり触れたくないことだが、重要なことだと思っている。

今回の展示は、写真撮影が可能だったので、たくさん撮らせて貰った。


帰りは大阪駅で、ダイヤが乱れてずいぶん待たされた。

新加速では何とか座れたが、車内は混雑しており、行きの特急に比べて旅情は味わうことは出来なかった。

ただ、はくとのようにエンジン音がうるさくないので、骨伝導イヤホンで聞き逃しのラジオを聞くことができた。

普通車に乗り換えの姫路駅でもダイヤが乱れていたが、何とかここでも座ることができた。

ちょうど、学生の帰る時間帯と重なり、大学生や高校生が車内にはたくさんいた。


私は、この一年間ずっと高校生の授業を担当して、高校生とは接する機会はあったのだが、大学生以上の若い世代はあまり接点がなかった。

電車の中には、お年寄りからサラリーマン、高校生まで老若男女がいる。

当たり前の情景なのだが、高校生以外の若い世代を見るのは久しぶりだった。

特に若い女性が、寒さをものとせず、いかに美しく着飾っているかを、改めて感じた。

そのことを家内に言うと

「若い頃のおしゃれは 我慢よ おばちゃんは 見た目より 現実の寒さ対策よ」と

家内は素朴なダウンジャケットを着ている。

因みに私はダサいダウンジャケットを着るのが嫌だったので、中に「ひだまり」の保温肌着を着込んで、ピンクのポロシャツにお気に入りのデニムジャケットを羽織っただけだった。

美術館に行くのに、それなりに我慢のおしゃれが必要と感じたからだ。


普段ドライブに出かけて、店や食堂でもお年寄りしか会う機会のない私には、非常に新鮮に感じた。

若い人のおしゃべりも聞こえるし、若い女性は着飾って花のように咲いている。

車と違って鉄道が良いのは、色んな人の様子を知ることができることだろう。

残念ながら、私は結局一度も鉄道を使った通勤をしなかった。

自宅も職場も駅からかなり遠かったからだ。

せめて、これからはなるべく鉄道を使って、色々回ってみたい。

今回、初めてモバイルICOCAを使って便利なことも分かった。

実は今回、私の大好きな青春18切符のことを忘れていた。

この切符を使って、快速で行けば、時間はかかるが、経費はずいぶんと節約できた。

要するに、トイレに行きたくなれば駅に降りれば良いし、そもそも、快速は新快速ほど混んでいない。

ただ、弱点は一時間に1本未満の運行では、駅に降りると大幅に到着が遅れてしまう。

それでも、何を隠そう、私は学生の頃は乗り鉄だったのだが、職に就いてからは、滅多に鉄道は利用していない。

これからは、乗り鉄に戻って、日本中をゆっくりと駆け巡ろうと思っている。


2024年3月8日金曜日

ただ去りゆく老教師

 「老兵は死なず ただ消え去るのみ」はマッカーサーの退任演説で有名だが、元々はイギリス将校の歌う兵隊歌だったそうだ。

「役割を終えたものは表舞台を去る」という意味だそうだが、私も高校教師としての役割を終えることができた。

3年前、定時制の非常勤講師をしていたときには、教頭から来年の仕事は無いと校長からの伝言を言い渡された。

まだ年金が出ない私は「ああ~ もう定時制にも働く場所が無いのだな」と惨めな気持ちになった。

以前も、県教育委員会に講師登録したが、雇って貰えなかったので、校長の口利きが無いと駄目なんだなと思って講師登録さえしてなかった。


一昨年は、講師登録がデジタル化して簡単になっていたので、ダメ元で登録していた。

すると、元同僚の校長が私の名前を見つけて声をかけてくれた。

最初声をかけてくれたのは、姫路市南西部にある、そこそこ進学実績のある高校だった。

理由は簡単だった。

新課程になって地理の教師が不足し、おまけに地理教諭が産休に入ってしまったからだった。


次に声がかかったのは、宍粟市の山奥にある、一学年一クラスの学校で、生徒の学力にかなり差があり、3つの類型が設置された学校だった。

この学校は、今いる地歴科教師が日本史の受験指導経験が無いから、是非来て指導して欲しいと言うことだった。

仕事について、それは口実であることが直ぐに分かった。

3年生の受験指導は無く、2年生の受験指導と、1年生の公民を持たされたからだ。

知りあいの校長はたった1年で別の高校に転任してしまい、文句の言い様がなかった。

要するに、こちらはあまりにも僻地で、非常勤講師のなり手が見つからなかっただけのようだった。


そして、何よりも私のような老教師に声がかかったのは、新課程の観点別指導法によって、負担が増してしまい、退職教師からのなり手が減ってしまったようだ。

要するに新課程の負担の多さを知らなかった私が、安易に応募したのが間違いだった。

私は、両行併せて3種類もの新課程の試験を作ることになり、1学期の中間試験から音を上げてしまった。

姫路の高校は、入試に使わない文系生徒の地理総合を3クラス担当したが、そのうちの一クラスは私語こそないものの、授業中の態度は酷かった。

宍粟市の高校は、2年生は10人の進学クラスを歴史総合、1年生は全員の公共だった。

生徒の授業中の態度は非常に良く、1年生は反応も良くしていくれて、授業するのは楽しかった。

そして、何よりもこの町は、私が赤穂の尾崎小学校4年の時に担任してくれた先生の出身地で、この町の話も聞かされていた。

私は3年の時には登校拒否になりかけていたが、その先生に替わってからは、ずいぶんと可愛がって貰って元気を取り戻した。

その先生は赤穂に移り住まれたが、先生の生まれ故郷で少しでも恩返しできたことが、自分には感慨深かった。


私は年金が少し出るようになった時点で、途中でも辞めたいと思った。

しかし、途中で辞めるのは無責任に思い、何とか続けることにしたが、次年度の継続は両校とも断った。

姫路の高校の知りあいの校長からは、私を見込んでお願いしたのにと言われたが、いくら見込まれても無理なことは無理だった。


姫路の高校の最後の授業は学年末試験前で、最後の挨拶どころか、試験勉強させた。

職員室では、昼休みに校長・教頭も不在の中で無理矢理挨拶させられた。

宍粟市の高校は2年生は生徒に最後の挨拶できたが、1年生は授業を勘違いしていて挨拶できなかった。

というのも、この高校は普通の授業担当以外に、時給が3分の1程度の支援担当があって、それを授業と勘違いしていた。

だから、1年生は私が来年は来ないことは告げられなかった。

本当は、この1年生だけでも来年度は担当したいくらい、生徒と仲良くなっていた。

職員には挨拶の言葉は用意していたが求められずに、職員室を出るときにお世話になりましたと言っただけだった。


私が辞める理由は、新課程の負担の大きいのが第一だが、それと同じように年齢を考えたことだ。

今日もラジオで著名な方が、80歳で亡くなったと聞いた。

ああ~自分はあと15年したら、同じように死ぬのかなと思った。

この頃、新聞の死亡記事では必ず年齢を見てしまう。

自分の寿命が気になるが、何よりもいつまでしっかりと頭が働くかだ。

私には、し残した研究がある。

それを仕上げなければ、死ぬに死にきれないのだ。

今年度は新課程に振り回されて、あまり研究は進まなかった。

来年度こそ、年金も満額出るので、家内には遠慮無く研究に打ち込めると思った。


確かに高校教師としての表舞台を去るのは淋しいところもある。

しかし、今度はできれば、研究の表舞台に立ちたいと思っている。

老教師は死なず、次のステージに向かうだけだ。

マッカーサーは戦死せずに軍を去ることを誇ったそうだが、私は現役死せずに無事に教壇を去ることを気休めにはできる。

私は、現役死した教師や、退職してまもなく亡くなった教師を幾人も知っている。

また、トラブルを起こして懲戒免職になったり、辞職せざるを得なかった教師も幾人か知っている。

無事に教壇を去ることが簡単そうで、意外と難しかったのだ。

これからの人生は、特に現役で亡くなった方々の英霊に対して、恥ずかしくない生き方と死に方をしなくてはいけないと思っている。



2024年3月6日水曜日

バブル時代との違い

 平均株価が史上最高値で、バブル時代の再来かとも言われている。

ニュースなどでは、かつてのバブルを経験した人が、当時の浮かれたバブル時代とは大きく違うことを話している。

バブル時代に、私たち教職公務員は取り残されていた。

給料が安いので、教師のなり手が無くて、ポスターまで作って募集した。

朝礼で校長が知りあいの中に、教師のなり手はいないかと、呼びかけねばならないほどだった。


教師の待遇も改善された頃には、今度はバブルがはじけて、公務員人気となった。

よく憶えているのは、教師の定年退職者が増えるというので、17年前くらいには、教育学部の人気が高くなった。

生徒の中にも教員志望が増えたのだが、教育学部にはなかなか入られなかった。

しかし、教師の給料が上がった分、周りからの風当たりが強くなっていった。

私が採用された頃は、夏休みなどは、大学教員のように自由に研修ができたのが、だんだんと厳しくなっていった。

また、定時制などは、毎日のように研修がとれるので、出勤時間は授業の始まる前で良かったが、今は勤務時間通りである。

全日制でも、時間外にクラブ活動をしている見返りもあって、夏休みなど暇なときは自由に帰宅できた。

特別支援学校は、クラブは盛んでは無かったが、休憩時間がとれないので、その分早帰りしていた。

ところが、それを見張っていて、教育委員会に訴える、活動家が現れたりした。

それで、早帰りも自由にできなくなっていった。


そのうち、だんだんと教員の仕事量が増していき、年齢構成もいびつなことから、負担の偏りも生じてきた。

そして、あのバブル期のように、教員のなり手がいない。

違うのは、当時は給料が相対的に安いので、なり手が無かった。

今はブラックな職業としてなり手が無い。

クラブ指導など長時間労働が給料に見合わないし、仕事内容も煩雑化されて、ストレスも増してきている。

教員の精神的な疾患も増えているという。

働き方改革に取り残されてしまっているのが実情だと思う。


私たちが若い頃から、学級の生徒人数を減らすことが提案されてきた。

生徒あたりの教員の数は少ないわけではない。

要するに、学校での煩雑な事務的な仕事に教師は追いまくられているのだ。

聞くところによると、やっと学年費の会計が外部委託されるそうだ。

私は、生徒会の会計で、年間1000万円も扱ったことがあるが、できるならこれも外部委託した方が良い。

コンピューター関係も、特定の教師に負担が偏るので、学校外に専門職員を雇用して、派遣できるようにすれば良い。


今度のバブルは一部の富裕層が投資で稼いでいると聞く。

若い人も、高所得の非正規の仕事をしながら、投資で稼げれば、ブラックな職業は避けられるだろう。

物作り、人作りを忘れた、日本の未来は、再びバブルがはじけて、永遠に失われていくのかもしれない。

それを変えていくべき筈の、政治家が一番金に狂ってしまい、それで多くの国民も手懐けられているのだから、手の施しようが無い。

危惧するのは、絶望した若者や弱者がテロに走ってしまうことだ。