私は大学院での博士課程への、進学失敗や妻との離婚をずっと後悔し続けていた。
いっそ、大学院など行かずに、幸せな家庭を築くことに努めれば良かったとも思った。
しかし、大学院で学んだことの、資格と自信がなかったら、当時教職に就くことも難しかっただろうとも思う。
確かにもう一年修士を続けて良い論文を書いて、博士課程に進学できたかもしれないが、幸せな家庭を築けていたかどうか分からない。
オーバードクターが多くいる中で、先行きは当時は全く見えなかった。
そんな中で、大学院研究科の方も学生を採らざるを得なかったので、研究者で無くても生きて行けそうな私を入れてくれたようにも思う。
それでも、後に通った兵庫教育大学の大学院とは違って、私の専門に近い一流の学者を講師として招いてくれていた。
その人が民俗宗教学の故桜井徳太郎先生だったし、奄美研究の上野和夫先生だった。
都立大学大学院OBのつながりとして、渡邊欣雄先生や笠原政治先生とも懇意にさせて貰った。
奄美研究会が立ち上がったときに、幹事役を勤めさせて貰っていたが、それを通して他の大学の院生とも交流ができた。
また、学部時代から懇意にしていただいていた、奄美研究の第一人者であった故山下欽一先生からも励ましを受けていた。
おそらく、南山大学の大学院ではそれだけの研究の幅は広がらなかったと思う。
しかし、元々実力不足の私は、松園万亀雄先生には「君は修士だけのつもりでとった」と宣告されていたのだから、博士課程以外の道も考えておくべきだった。
結果的にそのとおりになり、駆け落ちまでして一緒になった妻にまで見限られて失ってしまった。
一緒になったときは、私が立派な研究者になって、妻に報いるつもりでいた。
しかし、考えようによっては、博士課程に進んでも、研究者になれたかどうかも分からないし、もっと妻に苦労をかけた可能性もあった。
現実的に生活ができる教職を目指したのは、全くの間違いとはいえない。
もし、妻が私を見限らなかったら、そういう決断はできなかっただろう。
研究は高校教師をしながらは、大変ではあったが、不可能では無かった。
現に故山下欽一先生も長い間高校教師を勤めておられた。
私の場合は、高校や特別支援学校での仕事の方が合っていたように思う。
生徒と関わっているのが楽しくて、研究には熱が入らなかった。
それでも、夢が捨てきれなくて、思い出したように研究もしていた。
この歳になって気がついたことがある。
それは努めて忘れようとていた元妻の献身的な支えに、どう恩返しをすれば良いのかと言うことだ。
前に出版した書籍の謝辞にはその人の名前を書いていない。
絶対に書き添えるべき人であった。
だから、今は前回の書籍を上回るようなちゃんとした研究書を書き上げ、彼女に謝辞を書き添えようと頑張っている。
それは、私の研究に理解してもらって、苦労をかけている家内に対しては、それにも増して感謝を表さねばと思っている。
こうやって、教師を退職した後も、研究に情熱を持ち続けられているのは、大学院で3年間学ぶことができたからだろ思う。
故石川栄吉先生には「修士は馬の糞」と言われていたが、先生に修士に入れて貰ったお陰で「馬の糞」は糞なりに研究に生きがいを見いだしている。
「馬の糞」はそれで満足のような気がする。