母が亡くなって一年が経って、一周忌の法要を、父の17回忌と併せて行った。
母が亡くなって葬式を済ませた後は、遺品を整理したりするたびに、もっと大切にしてあげれば良かったと後悔ばかりしていた。
今でもその気持ちに変わりはないが、生きていた頃の現実感が次第に無くなって、過去のこととして心の痛みも少しずつ消えていった。
先日も、家内が一周忌を前にして、仏壇のお供えに季節外れの高いミカンを買ってきてくれた。
母はどういうわけか、ミカンを年中食べたがって、夏場でも輸入物の温州ミカンを買ってきて、施設住まいの母に渡した。
元気な頃は、買ってきたミカンをそのまま渡すと、全部いっぺんに食べてしまうので、施設の担当者に預けて、少しずつ出してもらっていた。
私は法事のことで、気が回らなかったのだが、家内が思い出して買ってきてくれたのでうれしかった。
法事には子供や孫、その連れ合い、そしてひ孫も一人加わった。
誰一人赤穂に現在住んでいる者はいなくて、遠くは東京から駆けつけてくれた。
孫の一人は、パイロットをしているので、ロサンゼルスから関空に向かう勤務にしてもらって駆けつけたという。
ひ孫は二人いるが、その一人はまだ、一歳にもなっておらず、母親と一緒に来てくれたのだが、法事の後は実家にしばらく滞在するそうだ。
もう一人のひ孫は、葬式の時には来てくれていたが、今回は母親が臨月で里帰りしているので、来ることはできなかった。
赤穂のお寺で法要を行ったのだが、そのひ孫の発する声が、厳粛な法要には少々耳障りになったが、かえって眠気を覚ましてくれた。。
亡くなった人のための法要だが、幼い命が繋がっていることを実感させてくれるのも、法要だ。
4人の子供のうち、3人までが60歳を越えてしまっているが、その連れ合いは今回事情で二人来られなかった。
6人の孫全員が参列してくれたが、19歳から30歳代と若々しくて元気な姿を見せてくれたのも、何よりもの供養となった。
お寺での法要の後の食事は、弟家族が宿泊の予約をしていた赤穂御崎の宿舎にした。
宿舎は私たち兄弟が育った尾崎にあり、遠く小豆島や家島を望む向山の中にあった。
弟の一人は、事情があって、食事もとらずに帰らねばならないので、海の見えるラウンジで残された家屋敷の今後のことを話し合った。
同じ兄弟でも、長男として両親に深く関わった自分と気持ちの違いを感じざるを得ない。
母の亡くなった当初は、私は早く処分して金銭的な負担を無くそうとしたのだが、父母が一生懸命に我々を育てた大切な場所を少しでも長く残したい気持ちになっていった。
ただ、自分の子供の世代にまで、負担を持ち越すことはできないから、処分せねばならないことも確かであった。
これは両親の兄弟の家の殆どが抱える問題で、既に亡くなった叔父の一人の家屋敷は売却されて、叔母は息子夫婦の家で暮らしている。
本家でさえ、家屋敷に住み続けている孫はいなくて、一人暮らしになっているし、結婚した孫世代に引き継がれた家屋敷は一つも無い。
食事は孫・ひ孫の世代と子供の世代と分かれた席となり、世代を超えて話をする機会も殆ど無かった。
そして、車で帰る必要から飲むことができる者も少なくて、食べ終わるとすぐにお開きになった。
宿泊したのは弟の一家族と私の家族だが、集まれる者が一つの部屋に集まって、飲みながらいろいろ話をしたが、亡くなった父母の話題は殆ど無かった。
今までも、祖父母の法事や父の法事に参加してきたが、故人の思い出を語り合うことはあまりなくて、自分たちの昔話や今の生活ぶりを語り合うことが殆どだった。
葬式とはまた違って、法事は残されてた者に唯一残された大切なコミュニケーションの機会だと思う。
盆や正月に集まって楽しく過ごした雰囲気とは大きく違ってしまったが、孫の世代の連れ合いや子供が新たに加わっている。
この一周忌と来年の三回忌を終えると七回忌まで、このメンバーが集まることはまず無いと思う。
そういう意味では、法事というのは家族親戚のお別れの儀式でもあった。
それでも、久しぶりに弟や甥とゆっくり話できたのが良かったと思う。
なかなか寝付かれない朝を迎えて、朝風呂にも入って、朝食を一緒にとることになった。
たくさん並べられた食事をなんとかこなそうと夢中で食べていた。
すると隣の姪の向こうに座らせてもらっている姪の赤ん坊が、私に向かって呼びかけくる。
当然言葉にはならず、こちらを向いて呼びかけてくるだけなのだが、私も同じように一言返事をする。
それが、何度も何度も繰り返されて、その隣で離乳食を食べさせているその子の祖母には申し訳なく思えるほどだった。
なぜ私にだけ呼びかけてくるのか?
白髭の生えたじいさんが面白いのかなと思ったりした。
食事も済ませて、帰る時にはその女児ともバイバイして別れた。
家に戻ってから、夕方散歩に出かけて、昨日から今日までのことを思い起こしていた。
なぜか姪の子供とのやりとりが一番心に残っていた。
考えてみればこの児は、母が亡くなった後に生まれた初めての女の子である。
母の命が尽きた代わりに誕生した命なのである。
何となく母の面影をその児の笑顔に見いだそうとしていた。
母は歌好きの明るい人だった。
その母がその児を借りて、私に語りかけていたように思えたりもした。
私が長年研究を続けてきた奄美では祖父母の魂が孫に残されると言われた。
奄美ではイキマブリ(生き霊)の信仰があったので、祖父母が生きている間でもそういう意識を持った。
我々は死んだ人の魂を意識するので、亡くなった人の魂の継承をどうしても意識してしまう。
私は今のままでは孫さえいなくて、私の魂を残していく者は誰もいない。
孫のいる弟夫婦はそれだけでも幸せであるように思えた。
少子化問題は単に経済問題ではない。
新しい命を育む心の問題であり、それによって勇気づけられる親や祖父母の問題でもある。
親孝行は子孝行と昔から言われているが、死者や祖先を大切にすることと、子や孫を大切することは同じなのだと思う。
自分だけで生きることに精一杯になっていたり、自分の欲望に任せて生きる人生は、本当は哀しい人生のような気がする。
引き継いだ身体と魂を次の世代に引き継げないのだから。
たとえ血が繋がっていなくても、共に暮らすだけでも魂は引き継がれると思う。
現代とは多くの人が哀しく人生を終える時代になったことも確かなのだろう。
それにしても、私は弟の孫に今回は心を救われた。
葬式の時も別の孫がいたのだが、喪主である私にはその児と関わる気持ちの余裕などなかった。
今回も朝食の出来事がなかったら同じようになっていたかもしれない。
しかも、呼びかけてくれたのはその児からなのだ。
姪の赤ん坊を通して、孫がいなくてもせめて次の世代に残せることを続けようという勇気をもらうことができた。
母の一周忌は母のためだけではなくて、残された子や孫のためのものだったことに気がついた。
来年もそういう機会を得られることに感謝しなくてはいけない。