ページビューの合計

2024年7月29日月曜日

大都会

 あ~ぁ 果てしない 夢を追い続け あ~ぁ いつの日か 大空かけめぐる

学生時代に流行ったクリスタルキングの歌が、ちょうど車のラジオから流れていた。

私はたいがいドライブは大都市を避けていることが多いし、あまりショッピングモールなどに行きたがらないので、家内は私が街嫌いだと思っている。

家内は結婚するまで相生の小さな街に住んでいて、一度も都会の経験が無い。

あえて言えば、家内の通った大学は岡山の街の中にあったが、当時はまだ岡山駅の近くでも田畑があったそうだから、都会とは言えないだろ。

私の方は、小学校までは田畑のすぐ近くの住宅地に住んでいたが、中学校からは姫路の都会の街に通っていた。

少なくとも、姫路駅からの通学路には田畑は無かった。

そして、高校卒業後は神戸市、名古屋市、東京中野区、新宿区、横浜緑区での暮らしを経験している。


たぶん、家内は休日は賑やかな街、特にショッピングや観劇に出かけるのを楽しみにしてきたのだろう。

ところが、大都会に住んでいた頃の私は、休日といえば、田園地帯や、海岸に出かけることが多かった。

繁華街でも遊んだり、デートしたりしていっぱい楽しんだのだが、運転免許を持っていなかったので、都市部での運転は経験が無くて苦手だし好きでないのだ。

そもそも。二人とも渋滞が大嫌いなので、渋滞が当たり前の都市部のドライブは無理なのである。

だから、車で出かける時は、都市部を避けてしまう。

都市部には電車で家内と出かけることも多かったが、車の気軽さや快適さが身についてしまっているので、よほどでないと電車は使わない。

だから、家内は私が都会嫌いだと決めつけている。


たまたま、三田や川西の都市部をドライブする機会がこの日曜に生じた。

望んで都市の街並みに向かったのではなくて、いい加減にカーナビを使っていたら迷い込んだだけなのだ。

すると、ふと、自分が都会で暮らしていた時のことを思い出したし、もし、そのまま居続けていたら、こういうところで暮らしていたのかと思った。

私の大学時代の同級生は、殆どがこういう都市部で暮らしている。

むしろ、私のように農村地帯で暮らしている方が稀なのである。

学生時代は何の違和感もなく、都市部で暮らしていたのに、今はとても違和感を感じてしまう。

家内は「コンビニに駐車場がない」と驚いていた。

われわれ田舎の人間は、コンビニは車で行くところなのである。


都会暮らしの人にとっては、逆に田舎暮らしを異質に感じるのだろうと思う。

特に、一度も田舎暮らしを経験したことのない人には、田舎は異質な空間なのだろうと思う。

旅行でたまに行くところであって、住みたいと思わないのも理解できる。

私も以前はまた都会暮らしがしてみたいとずっと言っていたが、家内は嫌だと言っていた。

しかし、年金暮らしになった今は、田舎から離れたいとは思わない。

ただ、夢を追いかけていた頃を思い出すために、名古屋や東京にしばらく滞在して、若い頃の気持ちを取り戻してみたいとずっと思っている。

家内に1週間ほど東京で過ごすことを提案しているのだが、あまり乗り気ではない。

そう言いながら私も、大都会で夢に裏切られ、夢を裏切ってしまった場所であり、手放しに喜んで出かけていけるところではないことも事実だ。

私にとって大都会は「遠くにありて、思ふもの」なのかもしれない。


2024年7月26日金曜日

腰痛との再会

1993年の冷害の年に、私はピアノ以外を借家から全部新宅に運んだ。

当時はピックアップの乗用車を持っていたのでそれを使ったのだが、荷台が高くて上げ下ろしに苦労した。

引っ越しは安く済んだのだが、その後にとんでもない腰痛に見舞われてしまった。

車の運転もできずに病院まで家内に連れて行ってもらったりもした。

鍼灸を試したり腰痛ベルトを使って何年も腰痛対策をしてきた。

腰痛が何年も当たり前になっていたのだが、気がついたらいつのまにか腰痛はなくなり、コルセットや腰痛ベルトが必要でなくなっていた。


ところがである。

減量をかねて始めた水泳と、自然農法の手刈りがもとで腰痛を復活させてしまった。

水泳はクイックターンでのひねり、背泳のプルでの無理なひねりが原因だった。

農作業ではエン麦を手刈りしたのだが、長い間腰をかがめていたのと、無理な姿勢で刈った穂束を運んだりしたのが悪かった。

いわゆるぎっくり腰で、起き上がるのも辛かったが、痛み止めを飲んだり湿布をして、病院に行かずに回復させた。

なんとか一週間ほどで、腰痛は軽くなったが、怖くて未だにクイックターンや背泳のプルはしていない。

また、意外と車のシートに座ると痛かったりするので、リクライニングをしたり腰当てを買って使っている。

農作業では落花生や黒大豆、コウリャンなどの根元に生える雑草は、腰をかがめて手刈りをしたり、抜いたりしている。

やはり、腰に負担が大きくて痛みが取れないので、腰痛ベルトを注文した。


私の知り合いの農家の人で、70歳過ぎて少し腰が曲がってしまった人を知っている。

かかっている医者のすすめで毎朝、腰をかがめて歩いているのだが、1000歩程度だそうだ。

ちなみに私は毎朝7000歩は歩いているのだが、1000歩程度で腰痛対策できるのかちょっと疑問で、プールで歩いてみることをお勧めした。

プールではお年寄りがよく歩いているのだが、腰や膝に負担が少ないし、熱中症の心配がいらないので良いと思う。

ただ、同じところを行ったり来たりするのは退屈なので、水中歩行の指導を受けてたり、マニュアルを読んでしたほうが楽しいと思う。

私はスイミングのコーチをしていた時に、水中歩行の指導方法を少し学んだが、自分ではやりたいとはあまり思わない。

やはり、4種目を泳ぐ楽しみには勝てないのだ。


人間は農耕を始めてから、腰が曲がったり腰痛がひどくなってしまったようだ。

以前見たテレビ番組では、アフリカの農耕民は上手に腰をかがめて、腰痛が殆ど無いという。

それでも日本の古来の田植え、草取り、稲刈りなどは長時間腰を曲げての作業なので、昔のお年寄りは腰が曲がっているのだ普通だった。

これも、弥生時代に石包丁で穂刈りをしていた頃はたいしたことなかったのだろうが、鉄鎌で根刈りをし始めてからは、大変な作業となったようだ。

自然農法は古来の農作業に近いやり方だが、草刈り機をできる限り使うようにしている。

しかし、麦の収穫は草刈り機を使うと束ねるのが難しいし、落ち穂拾いが大変となるなど、後の作業が手間になるので、手刈りをせざるをえなかった。

また、作物の根元の草取りだけはどうしようもないので、腰をかがめての長時間作業となる。

これから、草マルチ農法をやる以上は、この腰痛との戦いは避けられないだろう。

求めていなかった腰痛との再会は、健康管理のステップアップを私に強いたのだった。



2024年7月23日火曜日

コウノトリの食事と余暇を大切に

 野生の動物は肉食鳥獣を除いて、何となく一日中食料を求めて動き回っているイメージなのだが、よく見る機会のあるコウノトリは、結構暇そうにしているのを見る。

確かに、一生懸命に田んぼの中の小動物を探して、食べている姿もみるのだが、電柱の上や田んぼの畦で何をするともなく、つがいでボーとしたり羽繕いをしている。

今近所にいるコウノトリは高圧線の鉄塔には停まらないが、以前いたコウノトリは高い鉄塔の上でのんびりしているのをよく見かけた。

恋の季節にはその鉄塔の上で、クチバシをかちかちを音を立てて求愛したりしていた。

また、空を旋回している時もトンビなどよりも、ゆっくりと空を楽しんでいるように見えた。

ただ、そののんびりとした暮らしを邪魔しているのはカラスで、鉄塔で休んでいたり、空を旋回しているのを邪魔しに来た。

一方カラスは、コウノトリに比べて忙しく餌を探しているし、トンビにけんかをふっかけるし、散歩する私に対しても警告鳴きをするなど、忙しい鳥だ。

また、雀は餌を採っているのか、おしゃべりしているのか分からないほど、騒がしく群れている。


最近やっと、若い人は仕事よりも余暇を楽しみたいと、普通に答えられるようになったらしい。

我々の世代は「24時間働けますか?」と、タフなビジネスマンを讃えていた。

飲み会まで仕事の延長上で、付き合うのが当たり前でもあった。

私はやらなかったがゴルフや釣りの付き合いも、仕事の延長上だったように思う。

そもそも、パチンコなども余暇と言うより、実益を兼ねた仕事の穴埋めだったのかもしれない。

狩猟採集民は一日に3~6時間ほど、食料を求める労働をするが、それ以外は日中などではおしゃべりをしていることが多いという。

奴隷制度が発達しているところは、労働は奴隷に任せて、主人は信仰活動や芸術活動を楽しんでいたようだ。

要するちょっと前のビジネスマンは、奴隷並みに働いて、主人並の衣食住を手に入れていたのだろうと思う。

結局、奴隷主のように信仰も芸術にも関わりが無いので、労働しなくなると、ボーとするしかなくくなるのだろう。


この頃、もう退職したであろう年配の方が、コウノトリの写真を撮っているのをよく見かける。

狭い道路の路肩に車を停めて、コウノトリを追いかけているのだ。

コウノトリもまんざらではないのか、ポーズを決めていることもあるが、うっとうしくて飛び去ってしまうことも多い。

その瞬間が写真には良いのかもしれないが、コウノトリの身になって考えれば、面倒くさい存在だろう。

食事をしたりゆっくりと過ごす余暇を邪魔するのは、ボーとするのが嫌な退職者のように思える。

コウノトリが好きなら、少し離れたところで腰掛けて、ボーと様子を眺めた方がお互いに良いようにも思う。

私はたいがい犬の散歩の途中で出会うだけで、足を止めたり、写真を撮ることはまずない。

近所の写真愛好家は車に乗って追っかけているのだが、それが生きがいとなっているようだ。

その人たちは高価な望遠レンズで離れて撮っているので。それはそれで良いのかもしれない。

高価な望遠レンズがない人は、できる限りコウノトリの食事と余暇を邪魔せずに、少し離れて、コウノトリとおなじようにゆっくりと時間を過ごして欲しい。






2024年7月20日土曜日

酷暑はプールで乗り切ろう

 今年は、学校現場を離れたために、夏休みがいつから始まるかは気にしていなかった。

家内は学童保育の仕事をしているので、夏休みの方が忙しくなるから、そのことを大分前から聞いていたのだが、あまり真剣に聞いていなかった。

ところが、この金曜日(7/20)に、上郡町のプールに行って、小学生の大群に遭遇して、夏休みの始まりを思い知った。

当日は、終業式だったらしく、友達と誘い合わせて、プールに来たようだ。

私としては、小学校が授業で使用していたのが終わったので、ゆったりと泳げると思ったのだが、授業ほどではないにしろ、大賑わいだった。

授業で使われない時の、午後12時から4時までの時間帯は、ひとりで1コースを占有できるどころか、場合によっては一人だけで泳いでいることもあった。

水泳は個人競技だが、プールで監視員と自分だけの二人というのは、好きではなく、できれば一緒に誰かと練習したい。

だから、少しでも仲間がいる午後3時から5時頃に泳いでいたのだが、最近、遊びに来る小学生や中学生が増えてきたので、午後1時過ぎにしたのだった。

午後4時からは2コースしか使えなくて、しかも1コースは歩行用なので、遊びに来る子供たちと競合してしまうからだ。


ちゃんと泳げる人のためのコースをとってくれていたので、思う存分泳げたのだが、まるで海水浴場で水泳の練習をしている気分だった。

それでも、普段一人で黙々と歩くご老人や、友達とおしゃべりを楽しんでいる年配のご婦人は、その賑やかな様子のほうが楽しいようだった。

過疎の町や村では、家の近くで遊んでいる子供を見かけることがあまりないからである。

私の小学生の頃は、地区水泳があったので、小学校に毎日のように泳ぎに行っていたし、中学校になったら近くの海に泳ぎに行っていた。

お金を払ってまでプールに行ったことは、高校時代に一度だけ友達と姫路の市民プールに行っただけである。

ちなみに中学高校は学校にプールはなかったので、学校で泳ぐことはなかった。

大学時代は大学のプールでゆったりと泳いで、その後シャワーで身体を洗うのが夏場の日課だった。

ただ、大学、大学院時代で泳いだ特別な思い出として、奄美の与路での珊瑚の海の経験はある。


今の自分にとってプールは、糖尿病の治療目的と、研究と農作業の合間での気分転換のハードな練習であり、娯楽の場ではない。

4種目のメニューをいれて2000mは最低こなして、減量に勤めている。

やっと、泳ぐ前よりも4kgほど体重が落ちて、糖尿病の数値も改善している。

そして、プールはこのところ、避暑地でもある。

温水プールなのだけれど、このところ暑いので、入ると冷たくて気持ちが良い。

学校の屋外プールで水泳部の生徒と泳いでいた頃は、生ぬるくて気持ち悪くなったが、屋内プールはその点では快適なのだ。

小学生や中学生はお小遣いを使ってプールに泳ぎに来るのは負担が多いように思うけど、家でゲームをするよりましだと思う。

ましてや、熱中症の恐れのある屋外での遊びは避けるべきだろう。

私は小学生の頃は、夏休みに地区のソフトボールチチームの選手として選ばれて練習に励んでいたが、今の時代ではお勧めできない。

その点で言えば屋内プールで友達と遊びながら、泳ぐのは健康にも良いと思う。

今の子供は遊びながら、身体を鍛える機会があまりないそうだから、ぜひプールを利用して欲しい。

できたら、町内の児童生徒には割引券を配ってあげれば良いのにとも思う。

町長は知事に忖度してワインを贈ったようだが、選挙権のない子供たちにも気を遣ってあげて欲しい。


2024年7月16日火曜日

欲しくなくなる感謝状や賞状

 私は兵庫県教員として永年勤務したということで、当時の井戸知事から感謝状を頂いた。

本当は、自分でもらいに行かねばならなかったのだが、県庁までもらいに行くのが面倒くさく思って行くのを断ったら、わざわざ事務長がもらってきてくれた。

25年勤務の時は、同期の先生が預かってきてくれたので、同じようなものだと思っていたので恐縮した。

しばらくは、それ以前にもらった教育委員会からの25年勤務の表彰状は床の間において、感謝状は書斎の本棚の上に載せて置いた。

数年前から、こういうものはこれから先もらうことも無いと思って、座敷の鴨居に教育委員会の表彰状と一緒に飾ってある。

私の知り合いの研究者は博士の大きな学位証を実家の座敷に飾ってあったが、本当はそちらをもらって飾りたかった。

修士の学位証では飾るほどでもないので、大事にしまっておいたが、早期退職後の臨時講師に採用された時に学歴証明に役に立った。

これから先は使うこともないようだから、感謝状と並べて飾っても良いかもしれない。

感謝状と違って、給料計算に役立ってくれたし、母校で出された修士の総数も兵庫県知事の感謝状ほど多くないはずで、修士しかもってない研究者も少なくないはずだ。

そして、博士課程進学に結びつかなかった論文タイトルが書いてあり、見ると心が疼くので却って戒めとして良いかもしれない。


このところ、兵庫県知事がマスコミを賑わしている。

今年で、3年目だそうだから、2年前から多くの永年勤めた退職教員は、この知事の名前で感謝状をもらっているはずだ。

この先、知事を続けるということになれば、来年もこの知事の名前の感謝状が渡される。

これまでもらっている人は、今の知事の名前の入った感謝状を私のように飾っているのだろうか?

同じ県の職員を自殺にまで追い込んだ知事の名前入りの感謝状を飾りたいと思うだろうか?

そして、これから退職する県職員・教員はこの知事から感謝状をもらいたいと思うのだろうか?

これは、県職員だけでなく、知事の名前の入った賞状を受け取る県民みんなの問題でもある。


ところで、小池東京都知事も公職選挙法違反で訴えられていて、失職する可能性があるらしいが、前回の桝添氏も、前々回の猪瀬氏も一期で途中辞任している。

小池さんは今回で3期目だが、同じように辞任どころか失職する可能性も出ている。

兵庫県出身だということで、親しみを感じていた。

ただ、関学を中退した後に、カイロ大学に留学して学士を得たことの真偽が問題となっている。

「学歴なんか、関係ないわ、高卒でも立派に職務を全うしているのよ」と開き直って欲しいところだ。

権力を失って、学歴詐称が明るみになってしまったらどうするのだろう。

そもそもこういう歴代の知事を仰ぐ都民は、都知事の名前入りの感謝状や賞状をありがたいと思っていたのだろうか?

感謝状や賞状に名前を刻む人は、権力だけでなく、名誉も大切にして欲しいと、どちらにも縁の無い私は思う。

ただ、あまり名前の知られていない知事よりも、全国的に知られている知事の名入りの感謝状や賞状もののほうが、話題になるし目立つかもしれない・・・・・





2024年7月12日金曜日

オープンにしたらまずい

 ビートルズのWhy don’t we do it in the road? は、スラングを使ってセックスの表現を用いていたとずっと解釈している。

ネットでは、ポールとジョンの確執を解説しているのだが、セックスの表現に関しては触れていない。

道ん中でも大ぴろっげで(セックスを)やろうぜ!

転じて正々堂々とやろうぜ!

こっそりセックスをしている他の動物を私は知らない。

類人猿の研究者から言えば、人間が他の類人猿と大きく違いとされるのが、セックスの秘匿性だ。

これは、一夫一婦制度には、有効な決まりで、特定の男性と女性にセックスが限定されて、成り立つ制度だ。

一夫多妻制でも、母系制度でも一人だけの相手ではないが、セックスは普通は人前ではやらない。

ただ、祭りの時や歓待儀式、戦闘下では、比較的人前でも行われたこともあったようだ。


このセックスの秘匿性は、売春にも有効だ、

猿の中には、セックスをした見返りに、食べ物をもらう雌もいるようだが、見返りを求めてセックスをしていないようだ。

比較的自由にセックスができる場合は、その価値も高くない。

ただ、特定の雄にしか認められない場合は、その価値は高く、熾烈な争いとなってしまう。

人間にとっても、特定の女性とのセックスの独占は大きな価値を持ってきた。

人は生活力のある男は、特定女性とのセックスを独占できたのだが、そうでない場合は、買春をせざるを得なかった。

だから、ローマの時代から売春は女性にとって大きな収入ともなっていたようだ。

売春・買春は夫婦や家族を築けなかったり、逆に家制度のしがらみから解放できる避難措置でもあったようだ。


ところが、現代の日本では自由なセックスが広がっていき、梅毒の感染も増えているそうだ。

無理にして結婚してまでセックスする必要が無いので、独身でも性欲は満たせられる。

また、経済的に余裕のないものは、ネット上でもエロビデオは氾濫して自慰によって性欲の解消が可能だ。

人類が営々と築き上げてきた家族は、オープンにされたセックスやVRセックスでも崩壊の危機を迎えているようにも思える。

まだ、堂々と人前では行われていないのだが、そのうち特定の場所限定で同性、異性を問わずオープンにできるようになるかもしれない。

その方が、ボノボのように平和に暮らしていけるのかもしれないが、未熟で産まれる赤ん坊にとっては大変なことになる。

誰の子か分からないのに、男は子育てを手伝わないだろう。

母系制では、子供の婆さんや母親の兄弟であるおじさんが大きな役割を果たしたが、それも現代では難しい。

親族や家族が崩壊した現代人の赤ん坊にとっては、セックスのオープンは非常に危うい。

話題にはなりにくいが、少子化の問題とも関連が十分考えられる。



2024年7月8日月曜日

不健康広場

 私が住んでいる村には、村の人が土地を寄付して作られた健康広場がある。

村の人の健康のためと、車社会になって道で子供が遊ぶと危険だから作られたようだ。

子供のためのブランコや滑り台があったが、ブランコは劣化して取り外された。

勿論、村にはそこで遊ぶような子供は既にいない。

近くの村では遊具は全て撤去され、駐車場にされたりしている。

以前は老人が元気で、ゲートボールをしていたが、世話をする人がいなくなって、とっくに使われなくなっている。

そのご老人のために作られたトイレは、誰も使用せず維持費と管理が負担となっている。

だから、老人は維持管理がいらない小学校の運動場を休日に借りて、グランドゴルフを楽しんでいる。


この健康広場は夏休みには、小学生のラジオ体操に使われたが、今は行われていない。

村の行事としては、盆踊りとトンドに使用されたが、盆踊りはコロナの時に中止されて、今年納涼祭として復活する予定だ。

それは、以前は踊りの主力となっていた婦人会が解散してしまい、踊りの主力を欠いてしまったので、踊りができないからだ。

果たして、これが今後維持できるか見通しも立っていない。

唯一、トンドには欠かせないのだが、他の村では個人の田んぼで行っているのが多く、十分田んぼで対応できる。


ということで、この健康広場は殆ど役に立っていないのである。

ところが、草だけは春から生え始めるので、5月から10月頃まで、二つの班に分かれて毎月草刈りにかり出される。

7月は盆前でもあって、村の組(小字)の各家から一人ずつ駆り出される。

ところが、以前は草刈りの後で、墓地の草刈りをしていたのだが、暑いことや人手が足りず、広場の草刈りと同時にするようになった。

墓地には、村全員が墓を持っているわけではなく、村外の人の墓も残っている。

今年はそこに、主力の人員を割かれた形で、健康広場の草刈り作業が行われた。


そうなると、主力でない後期高齢者が健康広場には多くなり、60歳代以下の者は数人で、熊手の女性も多い。

なかには90歳近くで家の庭の草さえも刈れないご老人も、熊手を持って参加している。

80歳以上でもゆっくりと草刈り機でやる人は良いのだが、その熊手のご老人は大きな桜の木陰で立ち尽くしたままである。

作業に出ないからと、出不足金を取られるわけではないので、出てこなくて良いはずなのだが、やはり世間体が悪くて出てこざるを得ない。

もちろん、そんなことお構いなしで、若くても出てこない人もいるのだが、今までの付き合いの良かった人は、そうして出てくるのが普通だ。

私は、80歳以上は免除させてあげたらと、提案したのだが、そうすると人手がなくなると一蹴された。

また、腰痛に苦しんでいる70歳代の人も、無理して出てきて次の日は一日動けなかったどうだ。


特にこの暑い7月は午前8時から始めても、汗まみれになってしまう。

私は冷却ベストと空調服で作業をしたが、殆どの人はそんな格好はしていない。

どういうわけか、パチンコや釣りでけっこう金をつぎ込んでも、そういうものには金をかけない。

やはり、高齢の人は適当に作業した後、まだ終わってないのに途中でやめて立ち話をして休んでいる。

高齢者には酷だと分かっていても、懸命に作業を続けている者にとっては、目障りに感じてしまうのだ。

この不健康極まりない村作業は、どこの村でも負担となって、自動走行の草刈り機や、トラクターにつけた草刈り機を用いているところもある。

時給1000円の時代に、平気でただ働きさせられる村作業を維持しているのは、時代遅れに感じていしまう。

しかし、改められないのが村であり、新しい意見を聞く耳も持ってくれないのも村である。

もう10年もすれば、おそらくこんなやり方はできなくなるだろうが、できなくならないと改められないのも村である。

健康広場はもはや不健康広場となったが、今後もっと過疎と高齢化が進み、いずれそこいらにある竹藪のようになってしまう日がくるだろう。

2024年7月5日金曜日

住宅ローンと債務労働

 身近な人の中に、家を建てたとたんに、転勤となって単身赴任になってしまったり、すぐではなくて子供が転勤で連れて行けなくなった頃に、単身赴任というケースを知っている。

公立の教員が単身赴任するのは、結婚後に採用されて、奥さんや子供の関係で、単身赴任していた人を知っているが、大抵は管理職になるためだった。

私はどちらのケースでもなかったので、単身赴任の経験はないが、民間に勤めている弟3人は単身赴任を全て経験している。

そして、全員が家屋敷を持っている。


元来終身雇用は、労働者を確保するための仕組みだった。

現代は一つの企業や団体しか雇用された経験が無いという人は少ないだろう。

でも、家屋敷をもったり、子供が大きくなってから転職する人は少ないと思う。

弟の一人は、家屋敷を持っていて、通えるところではあるが転職したが、子供がいなかったからできたのだと思う。

私は、家のローンが終わり、子供も独立したので転職したかったが、果たせず早期退職した。

単身赴任が全て悪いとは思わない。

江戸時代の武士は、参勤交代で江戸にいる時は、妻子が人質の大名以外は単身赴任だったようだ。

ただ、現代のように何年も続けて単身赴任生活をすることは無かったようだ。

また、江戸時代は遊郭での楽しみを期待していた武士も多かったようだが、現代ではどうだろう?


発展途上国の人の中には借金を背負って過酷な労働をさせられて、問題になっている。

かつて奄美のヤンチュは税が払えず、身売りして強制的に黒糖生産の労働させられた。

ヤンチュの場合は税さえ厳しくなかったら、債務労働はしなかっただろう。

与路では殆ど自給自足で生活できていたし、貧しくても家は自前で建てられた。

戦前まではこういう自給自足できる人には、税や小作料で借金を背負わせて身売りさせ、強制労働させたり、売春をさせるのが普通だった。

自己破産が可能な現代ではそういうことはできないので、家屋敷のローンを抱えた者が、単身赴任のような強制労働をせざるを得なくなる。

単身赴任が原因で健康を害したり、離婚したり、子供に問題が起こっても、雇用側には一切責任はない。

雇用側の都合で配置転換できるのだ。

ただ、中には親の介護から逃れたりする時に、都合の良い言い訳にできることも確かだから、一方的に雇用者側が悪いとも言い切れない。

一時CMで「亭主元気で留守が良い」流行ったが、わがままな亭主はいない方がましなようだが、退職後の夫婦はどうなったか気になる。


ということで、結婚していない人や、家屋敷にローンを抱えず賃貸などの人は、この強制労働から逃れることができる。

今まで企業が単身赴任で家族をバラバラにしているのを知っている世代は、あえて同じ轍を踏むのだろうか?

結婚しない人や子供を産まない人が増えたのは、こういう経営本位の人事風土が招いた結果ではないだろうか?

かつて『仕事の人類学-労働中心主義の向こうへ』(  中谷文美 宇田川妙子編 2016 世界思想社)を読んでいて、家族や親戚が暮らしのために協力し合っている姿を知った。

賃金労働が当たり前になった現代でも、優先すべきを家族や親戚とすれば働き方も変わってくる。

こういうことを言っても、自己実現を掲げて学歴社会を生き抜いた企業戦士には笑われるだけかもしれない。

確かにその企業戦士もその一方で債務労働者として苦労した人も多かっただろうが、都会の人は家屋敷は立派な財産となったのだろう。

しかし、地方の多くでは家屋敷は財産どころか負の遺産になってしまっている。

このままでは単身赴任までしてローンを支払い維持した家屋敷を、子供に迷惑かけられないので赤字覚悟で処分せねばならない人もいるだろう。

まさしく、地方のサラリーマンは発展途上国の債務労働者とかわらなくなったのではないだろうか?




2024年7月1日月曜日

母の一周忌と孫・ひ孫

 母が亡くなって一年が経って、一周忌の法要を、父の17回忌と併せて行った。

母が亡くなって葬式を済ませた後は、遺品を整理したりするたびに、もっと大切にしてあげれば良かったと後悔ばかりしていた。

今でもその気持ちに変わりはないが、生きていた頃の現実感が次第に無くなって、過去のこととして心の痛みも少しずつ消えていった。

先日も、家内が一周忌を前にして、仏壇のお供えに季節外れの高いミカンを買ってきてくれた。

母はどういうわけか、ミカンを年中食べたがって、夏場でも輸入物の温州ミカンを買ってきて、施設住まいの母に渡した。

元気な頃は、買ってきたミカンをそのまま渡すと、全部いっぺんに食べてしまうので、施設の担当者に預けて、少しずつ出してもらっていた。

私は法事のことで、気が回らなかったのだが、家内が思い出して買ってきてくれたのでうれしかった。


法事には子供や孫、その連れ合い、そしてひ孫も一人加わった。

誰一人赤穂に現在住んでいる者はいなくて、遠くは東京から駆けつけてくれた。

孫の一人は、パイロットをしているので、ロサンゼルスから関空に向かう勤務にしてもらって駆けつけたという。

ひ孫は二人いるが、その一人はまだ、一歳にもなっておらず、母親と一緒に来てくれたのだが、法事の後は実家にしばらく滞在するそうだ。

もう一人のひ孫は、葬式の時には来てくれていたが、今回は母親が臨月で里帰りしているので、来ることはできなかった。

赤穂のお寺で法要を行ったのだが、そのひ孫の発する声が、厳粛な法要には少々耳障りになったが、かえって眠気を覚ましてくれた。。

亡くなった人のための法要だが、幼い命が繋がっていることを実感させてくれるのも、法要だ。

4人の子供のうち、3人までが60歳を越えてしまっているが、その連れ合いは今回事情で二人来られなかった。

6人の孫全員が参列してくれたが、19歳から30歳代と若々しくて元気な姿を見せてくれたのも、何よりもの供養となった。


お寺での法要の後の食事は、弟家族が宿泊の予約をしていた赤穂御崎の宿舎にした。

宿舎は私たち兄弟が育った尾崎にあり、遠く小豆島や家島を望む向山の中にあった。

弟の一人は、事情があって、食事もとらずに帰らねばならないので、海の見えるラウンジで残された家屋敷の今後のことを話し合った。

同じ兄弟でも、長男として両親に深く関わった自分と気持ちの違いを感じざるを得ない。

母の亡くなった当初は、私は早く処分して金銭的な負担を無くそうとしたのだが、父母が一生懸命に我々を育てた大切な場所を少しでも長く残したい気持ちになっていった。

ただ、自分の子供の世代にまで、負担を持ち越すことはできないから、処分せねばならないことも確かであった。

これは両親の兄弟の家の殆どが抱える問題で、既に亡くなった叔父の一人の家屋敷は売却されて、叔母は息子夫婦の家で暮らしている。

本家でさえ、家屋敷に住み続けている孫はいなくて、一人暮らしになっているし、結婚した孫世代に引き継がれた家屋敷は一つも無い。


食事は孫・ひ孫の世代と子供の世代と分かれた席となり、世代を超えて話をする機会も殆ど無かった。

そして、車で帰る必要から飲むことができる者も少なくて、食べ終わるとすぐにお開きになった。

宿泊したのは弟の一家族と私の家族だが、集まれる者が一つの部屋に集まって、飲みながらいろいろ話をしたが、亡くなった父母の話題は殆ど無かった。

今までも、祖父母の法事や父の法事に参加してきたが、故人の思い出を語り合うことはあまりなくて、自分たちの昔話や今の生活ぶりを語り合うことが殆どだった。

葬式とはまた違って、法事は残されてた者に唯一残された大切なコミュニケーションの機会だと思う。

盆や正月に集まって楽しく過ごした雰囲気とは大きく違ってしまったが、孫の世代の連れ合いや子供が新たに加わっている。

この一周忌と来年の三回忌を終えると七回忌まで、このメンバーが集まることはまず無いと思う。

そういう意味では、法事というのは家族親戚のお別れの儀式でもあった。

それでも、久しぶりに弟や甥とゆっくり話できたのが良かったと思う。


なかなか寝付かれない朝を迎えて、朝風呂にも入って、朝食を一緒にとることになった。

たくさん並べられた食事をなんとかこなそうと夢中で食べていた。

すると隣の姪の向こうに座らせてもらっている姪の赤ん坊が、私に向かって呼びかけくる。

当然言葉にはならず、こちらを向いて呼びかけてくるだけなのだが、私も同じように一言返事をする。

それが、何度も何度も繰り返されて、その隣で離乳食を食べさせているその子の祖母には申し訳なく思えるほどだった。

なぜ私にだけ呼びかけてくるのか?

白髭の生えたじいさんが面白いのかなと思ったりした。

食事も済ませて、帰る時にはその女児ともバイバイして別れた。


家に戻ってから、夕方散歩に出かけて、昨日から今日までのことを思い起こしていた。

なぜか姪の子供とのやりとりが一番心に残っていた。

考えてみればこの児は、母が亡くなった後に生まれた初めての女の子である。

母の命が尽きた代わりに誕生した命なのである。

何となく母の面影をその児の笑顔に見いだそうとしていた。

母は歌好きの明るい人だった。

その母がその児を借りて、私に語りかけていたように思えたりもした。


私が長年研究を続けてきた奄美では祖父母の魂が孫に残されると言われた。

奄美ではイキマブリ(生き霊)の信仰があったので、祖父母が生きている間でもそういう意識を持った。

我々は死んだ人の魂を意識するので、亡くなった人の魂の継承をどうしても意識してしまう。

私は今のままでは孫さえいなくて、私の魂を残していく者は誰もいない。

孫のいる弟夫婦はそれだけでも幸せであるように思えた。

少子化問題は単に経済問題ではない。

新しい命を育む心の問題であり、それによって勇気づけられる親や祖父母の問題でもある。

親孝行は子孝行と昔から言われているが、死者や祖先を大切にすることと、子や孫を大切することは同じなのだと思う。

自分だけで生きることに精一杯になっていたり、自分の欲望に任せて生きる人生は、本当は哀しい人生のような気がする。

引き継いだ身体と魂を次の世代に引き継げないのだから。

たとえ血が繋がっていなくても、共に暮らすだけでも魂は引き継がれると思う。

現代とは多くの人が哀しく人生を終える時代になったことも確かなのだろう。


それにしても、私は弟の孫に今回は心を救われた。

葬式の時も別の孫がいたのだが、喪主である私にはその児と関わる気持ちの余裕などなかった。

今回も朝食の出来事がなかったら同じようになっていたかもしれない。

しかも、呼びかけてくれたのはその児からなのだ。

姪の赤ん坊を通して、孫がいなくてもせめて次の世代に残せることを続けようという勇気をもらうことができた。

母の一周忌は母のためだけではなくて、残された子や孫のためのものだったことに気がついた。

来年もそういう機会を得られることに感謝しなくてはいけない。