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2024年8月30日金曜日

食変化と健康

 最近ネット情報などでは、日本人に合った食生活というようなことが、大きく流されている。

ゲノムの論文を読んでいると、日本人は思ったよりかなり多様性に富み、縄文系とか、弥生系だけでは済まなくなっているようだ。

それは、日本人の以前の二重構造説から三重構造説に変わってきていることからも分かる。

しかし、この考え方も疑問が多く残る。

まず、第一に縄文人は均質では無かったという説が最近有力になっている。

たまたま、貝塚で発見された人骨のDNAだけで、縄文人を判断するのはまずいと思う。

弥生人もかなり多様性を持っていることが分かっているし、その後の古墳から古代にかけて渡来した人たちは、かなり多種多様である。

中世以降の食生活は、日本人の中でもいろいろな生業形態で違っており、米だけに決して頼っていたわけでは無い。


そんな日本人が食生活を一変させたのは、戦後だと思う。

特に学校給食は、パンや牛乳を大きく普及させ、米の消費を減らすことに貢献した。

まさしくアメリカの思うつぼなのだが、アメリカの食文化を多く取り入れた食生活に大きく変化したことは確かだろう。

一番極端なのは、沖縄で米軍の食文化の波を被って、健康県から不健康県へと成り下がった。

沖縄では、旧石器人(hpRyukyu)や縄文人(hspOkinawa)から受けついだらしいピロリ菌が幸いして、胃がんが少ないというのに、近年の肥満が災いしているようだ。

奄美は、健康で長生きのイメージがあるが、戦後主食がサツマイモから米に変わってかなり変化している。

食生活は豊かになったようだが、健康に問題を抱えることが多くなったようだ。


地域の自然環境などで、その食生態にあわせた身体ができてきたのに、食生活を急激に変化させれば、健康を害するのは当たり前である。

論文によればガンなどもその影響を受けているようだ。

一括して日本人とせずに、これからはDNAの型によって、どういう食生活がふさわしいかを示すのが本来の医学だろう。

それによって、徐々に普段の食生活を変化させていくのが、健康促進になると思う。

健康食品やサプリの宣伝で危機を煽ったりする商法に、きちっと対応した情報を医学界は報告すべきだと思う。

ただし、病気がなくなってしまったら病院は不利益になるので、ゲノム研究は医学以外でももっと研究する方が良いかもしれない。




2024年8月28日水曜日

女ものの靴やサンダル

 我が家の玄関から、女性用の履き物が減って久しい。

娘が大学に通うのに下宿し始めて、娘の履き物が無くなった。

今残っているのは、家内のサンダルと運動靴くらいである。

家内はたくさん履き物は持っているが、大切に下駄箱に入れてあるので、玄関で見かけるのは、2足くらいである。

仕事には運動靴を履いていくので、玄関に小さなサンダルだけが1足残されている。

私は男兄弟が多い中で育ち、家族で女性は母一人だったので、玄関に母親の履き物は目立っていなかった。

玄関に女性の履き物があることが、いかに嬉しいことなのか思い知ったのは、学生時代に生活が破綻して、伴侶の履き物が無くなった時である。

いつも、そこにあったはずの、女性用のかわいい靴やサンダルが消えてしまうことほど、寂しさを感じさせることはない。


男用の私と息子の履き物は、履き古されて汚れていたり、くだびれてしまっていて、あまり見たくもない。

そもそも、磨いた革靴を履いて通勤することも無かったし、出かける時も歩きやすい靴を履いていて、見栄えの良い物は無い。

だから、一足でもかわいいサンダルが、玄関にあるとホット安心する。

そして、一つ残されているサンダルを見るたびに、玄関から女性用の履き物が無くなった寂しさを思い出してしまう。

そういえば、母が亡くなってから、実家の玄関をまだ片付けていないが、かなり昔に亡くなった父親の靴は全く残っていない。

私はまだ、亡くなった母の靴を処分できていない。

履き物が残っていることで、まだ生きていた頃を感じ続けている。

きれいな服や着物ではなくて、履き物に人を感じてしまうのもおかしな話だ。


2024年8月25日日曜日

そうめん やっぱり揖保乃糸

 秘密のケンメインショーでたつののそうめん「揖保乃糸」が紹介された。

兵庫県を紹介する画像のトップはいつも神戸の港だが、播磨地方を紹介するなら、せめて姫路城を出して欲しかった。

播州人にとっては、神戸は摂津国で、播磨国とはかなり違う。

そもそも、兵庫県は明治政府が神戸の外港を維持するために、5つもの国をくっつけてしまった。

だから、丹波の人も、但馬の人も、淡路の人も、播州人と同じように神戸を代表されると疎外感を感じるだろう。

そもそも、神戸の洋風の食文化と他の地域の食文化はかなり違ってきていると思う。

神戸の人もそうめんを地の物のように紹介していたが、神戸の人がそれほどそうめんに親しんでいるとは知らなかった。


そもそも、私らの世代はそうめんは普段食べられたものではなくて、盆など特別な時に親戚と一緒に食べたように思う。

夏には普段は冷や麦を食べていて、中に青色や赤色の麺が入っているのが楽しみだった。

たぶん冷や麦はそうめんより値段が安かったので、子どもが4人もいた我が家では、冷や麦を大量にゆでて出したのだと思う。

それとつけるつゆだが、自分ところでいり干しで出汁を取って、それこそヒガシマルの薄口醤油などで味付けしていた。

母方は祖母も母親も、酢を入れるのが好きで、冷や麦やそうめんは酸っぱいつゆで食べていたが、最近私も懐かしくて普通の酢や、らっきょを漬けていた酢を入れたりしている。

ネギは入れていたが、わさびなどは昔は入れることは無かったと思う。


もともとは冷や麦とそうめんは製法が違っていたらしいが、今は同じ製法だという。

私はそうめんは子供心に何か苦い感じがしたので、冷や麦の方が好きだった。

結婚してからは、家内がそうめんのひねを買ってきたり、新しいのをタッパに入れてねかして、こしのあるそうめんをおいしく食べてきた。

ただ、そうめんは腹持ちが悪くて、すぐに腹が減ったと私が言うし糖質過多になるので、最近は家内もあまり作らなくなった。

今家内が作るそうめん料理は、中にいっぱい野菜やハム、おろしたり刻んだ長いもを入れて、つゆを上にかけたもので、腹持ちも栄養バランスも良い。

一方でこのごろは、そうめんはお中元に買って贈るものということになっている。

結婚する前の私は高級なそうめんがあることを知らなかったし、贈られて喜ばれる物だとは知らなかった。

奄美ではこの日持ちするそうめんを贈られると喜ばれるのを学生時代は知らなかった。

調査に行く時に手土産で名古屋のういろうや、大阪の粟おこしのように、重くてかさばる物を持って行ったが、そうめんを持って行けば良かったと思っている。


たつのにはおいしいそうめんを出してくれる店も何軒かあるし、「そうめんの里」のように観光客が多く訪れるところもある。

私は、たつの公園の上にある、すくね茶屋で食べたそうめんがおいしかったことを記憶している。

たつのには縁があって、市内にある学校に長く勤めたのに、そうめんよりもイトメンのチャンポン麺の方をよく食べていた。

こちらも幼い頃から食べてきたもので、出汁も和風だし、麺が細くて、具材に入っている小さな干しエビを食べるのが過ぎである。

このチャンポン麺はそうめんに通じるものがあり、いつも買い置きしてあって時々食べている。

たつののそうめん製造は、ラーメンなども作る大きな工場だけで無く、小さな町工場もたくさんあって、品質を保ちながらまとめて揖保乃糸をなのっているという。

夏場は木箱を作って、冬場に麺を作る家内工業はたつの近辺の大切な地場産業になっている。

このそうめんもたつのを活気ある町にしている大切な産物なのだと改めて納得した。


それにしてもたつの出身の漫才コンビ・インディアスの片割れの田渕章裕は、新宮出身で実家がそうめん製造をしているという。

新宮町は市町村合併以前は揖保郡であり、有名なブンセンという食品メーカーもある。

私は、たつの市の合併前の学校に勤めていたので、新宮町民がたつの市民をなのることにまだ違和感を感じている。

確かに彼は、龍野高校出身でたつのにゆかりがあるが、そうめんにはちゃんと「揖保」という名前が残っている。

かれは堂々と、揖保を名なのって、大声で叫ぶよりCMフレーズで「そうめん やっぱり 揖保の糸」と歌って欲しかった。





2024年8月22日木曜日

ハイビスカスによせる思い

 


今年はハイビスカスが庭でいっぱいの花を咲かせてくれている。
これまでは、多くて一日に2から3個くらいしか咲いていなかった。
今年は、化学肥料をそれなりに与えていたので、たくさんのつぼみをつけてくれたのだと思う。
この花を買ったのは2020年の5月だ。
それまでは、家内と一緒にホームセンターにいった折に、売られているのを見て買いたいと言うと、家内には枯らすから駄目と言われ続けていた。
たまたま加西のフラワーセンターに行って、ホームセンターより安かったので、枯らしても文句は言われまいと思いきって私は買った。
私は以前は、「花より団子」「花でおなかが膨らむのか?」といって、花好きの家内には嫌みを言っていた。
そして、庭には花よりも野菜を植えたりしていた。
専業主婦だった家内は、プランターなどで花を栽培するのを楽しみにしていた。
しかし、子どもが大きくなって臨時で働き始めてから、花に関わることは殆ど無くなっていた。
一方で、私は畑を借りて本格的にやり出したので、庭に野菜を作る必要も無く、花にも興味を持たず花を育てることは無く庭も淋しいものになっていた。

そういう私も、肥満気味となり、糖質制限もしなくてはならなくなって、団子はおあずけの身になった
また、退職してからは気持ちに余裕が持てるようになって、花にも興味を持ち始めていた。
どうしてハイビスカスかというと、奄美に村落調査に行っていた頃に、与路島でよく見かけていたからだ。
民宿や宿泊所の庭先に路地植えされて大きく育ったハイビスカスに、いっぱい花が咲き、アゲハチョウが寄ってきていた。
学生時代に支えてくれていた伴侶と長津田のアパートに引っ越してベランダができたので、その懐かしいハイビスカスを近くで買ってきて育てた。
ハイビスカスを見て、奄美を思い出し励まされながら修論を書いたのだが、博士課程にすすめるだけには仕上がらなかった。
伴侶と夢を追いかけていた生活も破綻してしまい、郷里の赤穂にひとり戻って立て直すことになった。
何とか部屋で冬を越して、これから咲こうとしていたのだが、私は地元に戻るのに、ベランダに置いて帰らざるを得なかった。
辛い思い出が重なってしまった、ハイビスカスを持って帰ることをためらったというのが偽りの無い気持ちだ。

その後はハイビスカスを見ると、当時を思い出して胸が痛むので、買おうとは思わなかった。
あえてガジュマルのように、奄美だけの思い出に繋がるものを買って育て続けたが、こちらは30年近くたっている。
絶望の日から35年の月日が経って、ようやく辛い記憶も懐かしさに変わって初めて育てようと思い出した。
今はハイビスカスの花は、黄色やピンクなど様々な色があるが、当時と同じ真っ赤な色を選んだ。
買った当時は、ほんの30cmほどだった鉢植えのハイビスカスも、今は鉢も大きくして1m以上になっている。
冬には2階の書斎部屋に入れて大切に冬を越させて、花の咲く夏になると下の庭に持って降りて人に見てもらう。
学生時代は花が咲くのを一度見ただけで、記憶と共に置き去りにしてしまったハイビスカス。
今は、4年間も花を咲かせ続け、今年は満開である。
この満開になったハイビスカスのように、私はその後何とか積み重ねてきた研究を開花させたいと思っている。
たとえ、ハイビスカスのように実のならない花だとしても・・・・・





2024年8月20日火曜日

空襲警報発令!?農薬散布ヘリ機及びドローン機襲来

 JAからの通知で、今度農薬散布をするので、通知した曜日の時間帯には、洗濯物は外に出さず、窓を閉めてくださいという知らせの紙が、郵便受けに入っていた。

稲作地帯に住んでいる者は、米農家に協力するために、農薬の空中散布を受け入れねばならない。

ずっと、ブログで書き続けているように、EUでは禁止されている農薬の空中散布を日本では許可し続けている。

それが当たり前のように、紙切れ一枚の注意喚起で平然とJAは空中散布を挙行する。

既に、大規模農家では自前のドローンで農薬空中散布をしているのだが、何の予告も無く平然と行われている。

この地域の人はその大規模農家に水田を任せている人が多いので、自前でドローンを使う方法と、JAに委託する方法が普通になってきた。

他にも、昔ながらのホースを使ったやり方や、トラクターを使ったやり方をする中規模農家や営農団体も見かけるが、空中散布が増えてきたように思う。


洗濯物を取り入れて、窓を閉めねばならない毒物をまき散らされて、我慢せねばならないのが水田地帯にあえて住んでいる住民の定めなのだろう。

以前なら、農薬散布は各農家が自分で行っていた。

私の父も稲を作っていた頃は、自分で農薬を噴霧して、その後しばらく気分悪くて横になっていたことを思い出す。

家内の母方の叔父はミカン農家だったが、農薬をよく使っていた。

おそらくその被害だと思うが、肝臓がんになって60歳そこそこで亡くなってしまった。

また、太子町の方はハウスでトマトを作る人が多かったが、ハウスも農薬が欠かせず、肝臓を患って早死にする人が多かったと聞いた。


ささやかながら農業をやっている私は、収益をえるためには農薬が必要なのは、十分分かっている。

病気や虫にやられて、作物がまともにとれないことなどしょっちゅうだからだ。

私は自給用だから我慢できるが、生活がかかっていれば死活問題だろうし、有機農法しか無かった時代のように飢饉を招く可能性がある。

これは原発は将来の危機を招くことが分かっていても、使わないと今の生活が成り立たないと一緒だと思う。

大きなリスクを背負いながら、豊かさを享受しているのが現代の生活なのだから仕方ないのかもしれない。

テレビ番組では、里山の自然や山中や海辺のポツンと一軒家などの自然な暮らしに、国民の目をそらしている。

どの報道も農薬の空中散布の問題を取り上げることは無く、本当の農業の姿を原発同様に隠蔽し続けている。

EUが取り組めているのに、なぜ日本は取り組めないのだろうか?

これも、政治家と企業や圧力団体の癒着からくるものなのだろうか?

とにかく、われわれ水田地帯に住む者は、ウクライナやガザよろしく空からの襲来に備えねばならない。

何よりも可哀想なのは、稲に被害を加えない罪無き虫たち、そしてその餌を奪われる蛙、蛇、鳥たちだろう。

ハマスが市民に紛れていることで殺されるガザ市民のようだ。



2024年8月18日日曜日

ミストは必需品

 今年も、水道局の通知で漏水注意がポストに入れられていた。

去年もそうだったが、この季節には必ず、この通知が入れられる。

ミストを一日中使っているので、使用量が大幅に増えてしまう。

水道料金も馬鹿にならないので、何か良い方法はないか考えているのだが、それには貯水タンクやポンプなどの設備投資が必要になることが分かっている。

渇水対策にも備えて、出費覚悟で早めに取りかからねばとは思っている。

今年も例年通りに水道水によるミストなのだが、晴天続きでずっと水を止めることができなかった。

ところが、一日だけ夕立があって、4mmばかり雨が降ったので、ミストを夕方には水を止めて、翌日もそのままにしていた。

すると、翌日の午後には、ミストの下にあったハイビスカスの葉が萎れてきている。

要するに、今までミストの下の植物が元気でいたのは、夜にしっかりとミストの水を受けていたからなのだ。

4mmばかりの雨量では、この灼熱をしのげないのである。


とりあえず、昼過ぎの暑い時であったが、ホースで水をたっぷりとかけて、ミストも使い始めた。

しばらくすると、萎れかけた葉も元通りになって、ホッとした。

植物の葉などを見て、もっと関わりの深い農家の人や植木職人の人は、色んな要求を聞いてあげられるようだが、水を要求していることをせいぜいか感じられる程度だ。

それにしても、我が家では鉢植えの植物はミストなしでは、生きていけないということがよく分かった。

地植えしているのも、水を2日に1回ぐらいはホースでまいている。

それでも、ミョウガやホトトギス花は葉が黄色くなってきたし、カラーはもう殆ど枯れている。

何とか生け垣のカナメや梅は持ちこたえているが、葉は元気が無い。

来週には雨の予報があるので、それに期待するしかあるまい。


以前は8月には、雨台風が西日本にはやってきて、恵みの雨にもなっていた。

このところ、台風は関東や東北に行ってしまう。

台風で農作物に被害が出るのは困るのだが、適度な雨をもたらしてくれるのは歓迎だ。

この播州平野には貯水池が多くて、干魃に耐えられるようになってはいるのだが、それはあくまで水田用である。

庭の草木を守るためには、家にも干魃対策をしなければならない時代になったと思う。

庭の草木は少しでも、涼しさを保ってくれているからだ。

ミストは必需品になったのだから、水道料金を抑えるための対策を、来年の夏までにはしておこうと思っている。

これからの灼熱時代には家においてもちゃんとした対策が必要となったことを思い知った。


2024年8月15日木曜日

死にざま

 私の父方の祖母は、私のことをずっと気にかけてくれた人で、苦学生時代にはたびたび1万円を母に託してくれてありがたかった。

私の結婚式にもわざわざ参列してくれたのに、ちゃんとお礼を言えていなかったのが今でも悔やまれている。

その祖母は、足がむくんで調子が悪いのに、病院に行くのを拒んで、自宅で亡くなった。

家族に迷惑をかけたくなかったのか、死を予感して自宅で死を迎えたかったのか分からない。

死ぬ何ヶ月前に会った時は、そんなに早くなくなる状態とは思わなかった。

そのように、親類縁者の中で自ら入院を拒んで死んだのはその祖母だけだ。


私は以前、原ひろ子氏の『へヤー・インディアンとその世界』1989平凡社を読んでいた時に、

次の内容の報告を目にして、祖母と重ねて考えずにはいられなかった。

「外からの観察者としてへヤー・インディアンを見るとき、彼らは自分の死ぬときを自分で決めているように見えてくる。」

ヘアー・インディアンは、ちょっとした風邪でも、自分がもう死ぬ時だと思い込むと、食事を拒んだりして、簡単に死んでしまう。

それを、西洋医学の病院看護婦は嘆くのだが、狩猟採集民にとって自分をきちっと始末できないと、周りの者を危機に陥れることから、こういう死にざまができあがったらしい。

祖母が入院して、周りの家族が危機に陥ることは無かっただろうし、8人もの子どもを産み育て、5人は健在だったのだから、頼れば良かったと思う。

しかし、考えようによっては、それだけしっかりと生きてきた人間にとって、弱って子どもに頼る姿を見せたくなかったのかもしれない。

それは、その夫である祖父が脳梗塞で倒れた時に、周りに気を遣ったことであろうから推測できる。


今は、認知症が進んでしまったら、自分の死にざまを自分で決めることはできない。

家族がいれば病院に行くのを拒むことも難しいだろう。

その一方で、家族がいない人の中には、病院にも行けず孤独死する人もいる。

かつてヘアー・インディアンは、狩猟のための移動について行けない者は、自ら一人テントに残って死を迎えた。

ただ、先住民に年金が政府から支給されるようになって、老人がうって変わって大切にされるようになったそうだ。

今の日本では、大切にされるだけの年金を受け取れない老人も多いし、多い場合によっては振り込み詐欺に狙われたりする。

必ずしも、日本の方が老人にとって暮らしやすいとは言えないだろう。


自分も年金生活者になって、死にざまを考えねばならない年齢になった。

Lineで大学時代の同級生の写真を家内に見せたら、同じだと言われてかなりショックだった。

あまりにも老けて見えたからだ、自分自身も彼らを大学時代の印象で思い出していたように、自分自身も今の自分の姿を錯覚しているのだろう。

認知症になって、自分で自分の死にざまを考えられなくなる前に、しっかり考えておこうと思っている。

祖母の死にざまは、そういう意味で一つの見本でもあるかもしれない。




2024年8月13日火曜日

食糧危機の警告:令和米騒動

 スーパーの米販売のコーナーに米が無い。

JAが経営する直売店にも米が無い。

私は、養父の道の駅で高い玄米を衝動的に購入した。

本当は、ネットで無農薬・無化成肥料の米を以前は購入したのだが、あまりにも高いので近隣の特別栽培米の玄米を購入することにしていた。

もう、特別栽培米にこだわれないと思って、たまたま道の駅で見つけた普通の玄米5kgを購入したのだ。

実は、我が家は近所の米農家から玄米は購入しているのだが、除草剤や農薬、化成肥料をしっかり使っているのを知っているので、私は他のを試し始めたところだった。

今回は山間の農村地帯の道の駅で売っているのだから、それなりの品質があると思って衝動買いをしてしまった。


実は私は玄米は一週間で1合ほどしか食べない。

ご飯は自分で3合炊くのだが、玄米以外に1合のモチ麦玄米、半合のそばの実、半合のキヌアを入れている。

その3合ほどを一週間かけて食べているのだ。

宮沢賢治は「雨ニモマケズ」で一日2合も玄米を食べると言っている。

私の2週間分の玄米の消費量が賢治の一日分の消費量なのだ。

昔の人はいかに米に頼っていたかを示すのだが、これを現代人がやると完全に米はなくなってしまうだろう。

ただ、現代人は米以外の農産物、海産物にを消費して、その多くを輸入に頼っている。

こちらの方も、どうやら怪しくなってきている。

ウクライナ戦争での小麦不足もさることながら、世界各地の気候破綻で農産物の収穫も不透明だ。

米は自給率100%を誇っていたのに、それが危うい背景にインバウンドがあるという。

インバウンドでの米の消費は輸出と同じ意味だということだ。

要するに、安い円のお陰で、外国からの観光客に米を食べられてしまっているということだ。

そして、一般の日本人に回せる米が不足してしまっている。

また、米そのものの収穫も気候の関係もあって質も量も落ちてしまったのだという。


私は今年作った作物はことごとく失敗している。

トマト、なすび、キュウリなどはまともに作れていない。

それは、モチ麦の収穫作業や高黍の植え付け作業で手が回らなかったこともあるが、猛暑と雨不足が大きな原因でもある。

今、畑で元気なのはオクラと高黍であり、どちらも高温乾燥に強い作物だ。

高黍の原種は中国では新石器時代から作られていたようで、水稲が普及する前の大切な穀物だった。

水稲は、灌漑施設が整ってこそ安定して作られる作物で、奄美などでは江戸時代にならないとまともに栽培できなかったようだ。

だから、奄美では甘藷を主食するとともに、ソテツの幹や実を日常的にも利用したし、海産物や山野の椎の実、百合根など色々と食料にしてきた。

沖縄は戦前にソテツ地獄になったと言われているが、日常的にソテツを利用していた奄美では、ソテツを食べて亡くなった人はいない。

要するに奄美よりも豊かであった沖縄が経済危機になって、慣れないソテツをまともに処理せずに食べたので死人がでたようだ。


これから、食糧危機を迎える我々は、米に頼らなくても生きていける食習慣と身体を身につけなければまずいと思う。

固いからだとか、不味いからだとか言って米や小麦製品しか食べられなかったら、食べるものがなくなってしまう。

米を品種改良して高温乾燥に耐えられる品種を生産することも取り組むだろうが、すでに米不足が始まっているのだから、生活防衛をもう始めなくてはいけないと思う。

私はオクラや高黍以外に、今年からモリンガの栽培にも取り組み始めた。

道の駅で苗が800円もの値段で売られて驚いたが、遅ればせながら大切に種から苗を作って育てている。

この先は冬を越させるのが課題となるが、鉢植えしているので室内に取り込もうと思っている。

冬場はモチ麦とジャガイモを主力にするつもりだ。

令和の米騒動は、南海トラフ大地震の予兆と同様に、我々に危機を警告してくれていると思う。



2024年8月11日日曜日

祖父の戦死

 母の父、つまり私の祖父は太平洋戦争において東シナ海で戦死した。

元々は職業軍人であったのだが、退役して会社に勤めていて徴兵されたのだった。

戦死した当時、母は小学校の低学年で、二つ上の姉とふたり姉妹だった。

祖父は海軍の機関兵で、戦死すれば遺体は戻らないことは分かっていたので、遺髪を知り合いに預けていた。

祖母はひとりで遺族年金と仕事の収入で二人の娘を育て上げた。

母は父親がいなくて苦労しただろうけれど、苦労話はあまりしなかった。

戦争の話もたまにしたが、祖父を殺したアメリカ軍よりも、当時の日本の厳しい生活統制を憎んでいた。

却って戦争を知らない私の方が、アメリカ軍に対しては良い感情を持っていない。

要するに戦争当時の日本政府の方が、むしろ国民を追い詰めていた。

そして沖縄のように地上戦も無く、自分自身が機銃掃射や空襲を受けていなかったのでアメリカ軍を身近に感じなかったからだろうと思う。

敗れたにしろ、戦争が終わってくれた方が、子どもの母にとっては嬉しかったらしい。


広島の原爆記念碑に、「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませんから」という有名な言葉がある。

残虐な原爆を落としたアメリカに対する言葉では無くて、そういう無謀な戦争に日本を導いたてしまった後悔の言葉だろう。

今、長崎の平和式典の問題で、イスラエルの大使を招かなかったことで、G7の在日本大使が式典をボイコットしたことが問題となっている。

イスラエルが何万人ものパレスティナの市民を殺戮しても、日本以外のG7の国ぐにはイスラエルを支持している。

自分たちが正義だと思った場合、相手の国の市民がどれほど犠牲が出ようと、同情などしないのが戦争だろう。

むしろ、市民に紛れ込んで戦う、ハマスのゲリラ戦法に問題があるとするのだろう。

それは、日本が日中戦争で市民に紛れ込んだ中国軍を掃討するために行った虐殺行為とも通じるのかもしれない。

また、また太平洋戦争のマニラ戦でも10万人ものマニラ市民が犠牲になったのも同じように思える。

地上戦での損失を無くし、戦後の主導権を握るために、何十万もの広島と長崎の市民を虐殺したアメリカも今のイスラエルにも勝る残虐なやり方だと思う。

現在は簡単に核兵器が使用できないから、市民に紛れたテロ組織(軍)を掃討するために市民もろとも殺戮する。

広島・長崎に通じるやり方なのだから、そういう当事国を招待しないのは理解できる。

むしろ、広島がイスラエル大使を招いたのは、戦争ではそれに加担する市民は軍もろとも殺戮されても仕方なかったことを表明したのだろうか?


我々日本人は総力戦が何であるかを理解できずにいるのかもしれない。

母がアメリカ軍よりも当時の日本政府や軍を憎んだのは、総力戦の意味を理解できていなかったのだろう。

近代では国家と軍による繁栄を国民が享受する代わりに、戦争においてはその代償を支払わなくてはならないのだと思う。

繁栄はありがたく受けるが、戦争は絶対反対とは言うのは虫が良すぎるということだろう。

これは、黒船がやってきた時から分かっていたはずなのだが、外国からの侵略を受けていない、沖縄以外の国民は江戸時代のままなのかもしれない。


祖父の墓は、小さくて戦死者の墓だとは分からない。

祖母はあえて、戦死者の兜巾(ときん)型の墓は建てなかった。

祖父の遺影は、正式な軍服の写真が無かったので、祖父に似た親戚の人をモデルにした、立位の軍服姿の肖像画がだった。

幼い頃はそのりりしい姿を格好良く思うことがあったが、祖父のことを戦死した英雄と思うことは無かった。

子どもができてからはむしろ、幼い娘を二人残して航空母艦に乗らねばならなかったことへの、辛さをずっと思っていた。

祖父は燃え上がる艦の機関室から甲板まで辿り着いたが、その後は助からなかったという。

勇ましい兵士の姿はどこにも無い。

祖母は遺族年金を貰いながら、その後靖国神社などにことあるごとに参拝していた。

悔やまれるのは、祖母に祖父の戦死をどう思ったかを一度も聞いたことが無かったことだ。










2024年8月7日水曜日

口癖が「死ね」だった担任

 最近、芸能人の暴言が物議を醸している。

相手を誹謗する言葉として「死ぬ」という言葉を使ったのが発端だったようだ。

ネットで誹謗文書を発してしまうと、取り返しがつかないことは分かっていたはずだが、いつものノリでやってしまったのかもしれない。

形として残る文字だけでなく、音声だけの言葉も、一度発してしまうともう、取り戻すことはできない。

いくら、後で訂正したり謝っても、一度発した言葉は、相手の心に刻まれてしまう。

私も文章や、音声を発してしまって、後で後悔したことが少なからずある。

特に、教師として生徒に発する言葉は重い意味を持つので、気をつけていたのだがそれでも後悔することはあった。


私は中学校から私学の男子校だったが、中1と中2の担任のF先生は生徒に対して、叱責の言葉と共に「死ね」を乱発する人だった。

その影響が生徒にも感染って、生徒の方でも相手を誹謗する時に「死ね」をよく使うようになった。

「あほ」や「馬鹿」という相手の能力を否定する言葉に対して、「死ね」は存在そのものを否定する言葉だと思う。

相手に「消えて亡くなれ」という意味が強く表現される。

それはまた自分は生きる価値があるけれど、相手は生きる価値がないという意味も含むだろう。

その担任が単に虚勢を張っていたのか、それほど生徒を蔑視していたのかは分からない。

ただ、授業もまともにせず漢字のプリントだけするような人だったので、授業へのコンプレックスを隠していたのかもしれない。

ひどい時は、定期考査で問題を作成してこずに、黒板に問題を書いたことがあった。

いい加減な教師としてその存在を生徒に見透かされて危うくなっているので、誤魔化すために日常的に「死ね」を使っていたのかもしれない。


自分の存在を危うくしてしまいそうな相手に対する言葉だとすれば、誹謗した本人は誹謗した相手に危機意識をもっているのかもしれない。

誹謗した本人は傍若無人に振る舞うことで、自分の存在価値を見いだしていたのかもしれない。

しかし、誹謗された相手の何とか懸命に生きていこうとするひたむきさに、却ってその危うさが露呈しまうのが怖かったのかもしれない。

そして問題なのは、周りの権力や権威をもった先輩が若いタレントの振る舞いを利用したことだ。

暴言を発した本人と同時に、そのタレントをうまく利用してきた芸能人や関係者にも責任を感じてもらわねばならないと思う。

学校の教師であれば、校長や教頭などが責任を持ってその担任の指導に当たるべきだったのだが、それがうまく機能していなかった。

結局担任だったその教師も、ことを起こして辞職せざるを得なくなったと聞く。

自分の弱さに真剣に向き合い、ひたむきに授業をしようとしなかった結果でもあろうとも思う。

これは、ひたむきさを忘れがちな自分自身への戒めでもある。





縁切り黒い糸

 ふと、洗面所の鏡越しに裏の畑の高黍(コウリャン)を見ると、緑色の小鳥が何羽も実ってきた穂をついばんでいる。

この鳥は、ネットで調べたらそうも「かわらひわ」のようだ。

とりあえず、今まで使っていなかった、ネットを張り巡らしたが、背の高い高黍の上を覆うことはできない。

そこで、田んぼの害獣対策でラジオを使っていたのを思い出して、携帯プレーヤーを使って音楽を流してみたが、しばらくは寄ってこなかったが、また、寄ってきた。

そこで、ネットで調べていろいろ考えた結果、以前梅の花をついばむ雀対策に用いたように、テグスを使うことにした。

透明か黒色か迷ったが、黒糸を使うことにして、ネットで注文した。


梅の対策の時は、テグスを梅の枝をそのまま利用できたが、高黍にはテグスを結べない。

そこで、竹を立ててそこに結びつけることにした。

高くしないと、上からの襲来を防げないので、高く張り巡らすために、脚立を使って高い位置に結びつけた。

購入した黒糸は思ったより細くて、釣りに使う一番細いハリスのようだ。

たぶん、鳥の目には目立たないほうが、よけるのが難しくて恐れさせるのだと思う。

ところが、細い分だけ結びにくいし、すぐに切れてしまう。

高黍の周りに黒糸を張り巡らせるのに非常に苦労した。


そして、翌日設置した高黍の様子を見ていると、鳥は来るには来るがすぐに飛び去っていく。

そして、やはり勇気のあるのもいるようで、平気でついばむものもいたが、数日で殆ど来なくなった。

これから、この黒糸は細いので、すぐに切れたり、解けたりするだろうから、維持管理をきちっとしなければならない。

何カ所にも今年は高黍を栽培しているので、畑中張り巡らせることになる。

そういえば、焼き畑は鹿、イノシシなどだけでなく、鳥などの空からの襲来との闘いであったことを現実に思い知らされた。

お婆さんや子どもはこういう鳥を追い払う役目を担っていたようだ。

また、やってきた動物も捕まえて食料にしていたのだろうと思う。

縄文時代ではカラスも食べていたようだ。

現代では野鳥を勝手に殺すと犯罪になるので、こういう対策しかすべは無い。


最近は稲に関しては農薬をよく使っているせいか、雀などの小鳥はあまり寄りつかないし、その数も激減していて、田んぼでは対策をしていない。

以前はプロパンガスを使って爆発音をだしたり、田んぼ中に脅しになるテープや糸を張り巡らしていた。

最近は農薬の空中散布や除草剤の影響で、虫や小鳥が減ったので、対策は主にイノシシや貉に対して電気線での防除だ。

こちらは黒い糸など全く効果は無いだろう。

夫婦や恋人との深い絆の関係は「赤い糸」に喩えるが、近づいて欲しくない鳥との関係は「黒い糸」が実際に関係を切ってくれる。

同じように見えない細い糸でも、関係を結ぶことも切ってしまうこともできるのだから、糸は人にとって大切なものだ。




2024年8月4日日曜日

私は縄文系アスリート?

 今、私は奄美の人々のヤポネシアにおける歴史的な位置づけを考えている。

最近はDNA研究が大きな役割を担っていて、その論文はオープンなので誰でもネットを使って読むことができる。

ただ、殆どが英文なので、私はDeepLという翻訳アプリを利用して読んでいる。

今までは英文の単行本は高価な上に、読むのに時間がかかりすぎていたので、翻訳本ばかりに頼っていた。

当然、雑誌などの論文も手に入れるのが難しかったこともあって、孫引きをするのがせいぜいだった。

それが、DNA研究に関しては、私のような者でも英文の論文に取り組むことができる。

ただ、DNA関連は科学、特に化学や医学的の専門用語が多いので、そちらを理解するのに苦しんでいる。

DNA研究が研究費をもらって非常に推進されているのは医学に利用できるからだろう。

研究者も医学委関連の研究機関や大学が多いので、我々文化人類学の視点とは少々かけ離れていることも確かだ。


そんな中で、縄文人と弥生人の遺伝的な違いで、血糖値の問題を次の論文で見つけた

Modern Japanese ancestry-derived variants reveal the formation process of the current Japanese regional gradations. Watanabe Y. and Ohashi J. in iScience, March 17 2023

つまり、狩猟採集を中心としていた縄文人のDNAには、糖をよく吸収する遺伝子が組み込まれている。

それに対して、大陸から渡来した農耕民は、かなり古くから農耕が始まっており糖質を吸収する能力のDNAは強くないということだ。

今の日本人は縄文人と弥生人(農耕渡来人と縄文人の混血)がさらに混血して成り立ている

そして、日本人は均一なDNAではなくて地域によって偏りがあるので、縄文系のDNAを多く持つ人が、糖質を過剰に取ると糖尿病になる危険性が増すということになるのだ。

糖尿病が遺伝するというのはこのことかと思った。

それでネットで調べてみると、案の定縄文系のDNAをよく引き継ぐ、東北や北海道が糖尿病の患者が多い。

北海道は縄文人の末裔と言われるアイヌ系の人もいるが、東北出身者が多いことで知られている。

同じように沖縄も縄文系のDNAが多いのだが、これまでの糖質が米より少ない甘藷の主食から米食や麺食が中心の食事になったりして肥満が進んで、糖尿病患者が増えているようだ。

例外は香川県で、ここは縄文系が少ないが、朝からうどんを食べるなど、糖質を過剰に摂取しているうどん県で糖尿病が多い。


私の父方の親族は縄文系なのか、糖尿病が多い。

母方は母を含めて肥満の体型もいるが、糖尿病はいない。

私の4人兄弟で糖尿病は私だけだ。

他の兄弟との大きな違いは、私だけがスポーツをしてきたことだ。

小学生から球技、剣道をしてきたし、高校で体育系クラブに入らなくても、運動は欠かさなかった。

社会人になってからは、剣道以外にランニング、水泳など、レースや試合に参加してきた。

叔父の中でも糖尿病なのは、若い時にスポーツを激しくやっていた人だ。

だから、単に縄文系の遺伝だけではなくて、スポーツに励んで糖質を吸収しやすい体質を作り上げたからだと思う。


対策として、縄文系のDNAを多く持つと思ったら、縄文人に近い食生活をすることだろう。

さすがに、どんぐりは無理だが、糖質の少ない食事に心がけることだと思う。

そして、狩猟採集の生活のように、身体をよく動かすことだ。

縄文人は海洋性食物を多く摂っていたし、海に潜ったりして、泳ぐのも得意だったようだ。

父方の親戚は前にも書いたように、海人の生活だったので、縄文系だろうと思う。

純血とは言えないが縄文人のDNAを引き継ぐ末裔として、その生活を意識せねばならないだろう。

残念ながら昔はいやほど食べていたアサリを中心とした貝は、浜辺でとれるところはないし、国産のアサリや牡蠣は高くて滅多に食べられない。

もう、縄文人のように貝塚など築くことなどできない。

ただし、縄文人は食人の習慣などもあったようだが、人を食うようなまねは駄目だろう・・・






2024年8月1日木曜日

わしゃ ヤンマがええな

 昔のCMで農家のじいさんが、ヤンマートラクターを宣伝していた時の台詞である。

数年前から、農機ではなくて、蚊などの虫除けにオニヤンマ君(模型のオニヤンマ)を物干し竿や、玄関先につるしている。

以前は、犬の散歩前に、玄関や庭先で蚊に食われていたのだが、最近は食われてないので多分効果があるのではないかと思っている。

そういえば、こちらでは蚊に「食われる」というのだが、標準語では当然「刺される」である。

また、こちらの地方では「噛まれる」というのも普通に使う。

こちらでは刺すのは蜂で、血を吸う虫は「食う」「噛む」と表現する。

ただ、ブト(ブユ)やアブには「噛まれた」と表現するのが普通で、血を吸うのがはっきりしているから蚊は「食う」と表現すると思う。

人によっては、まったく蚊に食われない人がいて、平気で短パンと半袖Tシャツで農作業をしている。

その人には、「マダニが怖いで」というのだが、暑さ対策の方を優先しているようだ。

ネットで調べると、噛まれやすい人として、「汗をよくかく」というのが当てはまっている。

だから、私は防虫スプレーや防虫ネットを使ったり、空調服を着て散歩したりしていた。


ところが、空調服を着る時には、中に保冷ベストを着込まねば却って暑いだけなので、支度する準備が大変だ。

やむなく、早朝5時過ぎの散歩には、ジョギングをしていた時のランニングシャツと短パン、ただし、短パンの下にはマダニ対策のコンプレッションをつけている。

これで、気軽に涼しく散歩できると思っていたのだが、山際を歩く時にはブトが顔によってくる。

たぶん、ブトは吐く息に寄せられてくるのだと思うが、それを手で払うのが面倒なのだ。

ブトに食われると私は、大きく腫れ上がってしまい、以前はまぶたを噛まれて大変なことになってしまった。

だから、なんとかできないものかと、思案していた。

光る物が苦手かと、アルミ網の帽子を被ってみたが、大して効果は無かった。

そんなときに、帽子にオニヤンマ君をつけて散歩している人を見かけた。

吊しているのを使う手もあるが、いちいち取り外すのは面倒なので、さっそくネットで注文した。


小さい頃は、すばしっこいギンヤンマを捕ることができれば大満足だった。

捕ったギンヤンマをひもにつけて、他のヤンマを捕まえたりもした。

オニヤンマなどは滅多にお目にかかれる物では無かった。

シオカラトンボや赤とんぼは、狙う相手ではなかったが、指を回して目を回らせて捕まえて楽しんだ。

糸トンボなどは、溝や池にいっぱいいて、誰も捕ろうともしなかったが、今は滅多に見かけない。

ヤゴの生息できる溝や池が農薬で汚染されてしまったからかもしれない。

今はあれほどいたメダカさえ絶滅して売られているのだから、仕方ないことかもしれない。


今朝も、赤トンボが田んぼの上をいっぱい飛んでいるのを見かけたが、このトンボたちのお陰で、農道ではブトや蚊に刺されなくてすんでいる。

できれば、山際にもやってきて食べて欲しいのだが、田んぼの方が獲物が多いのだろう。

といいながら、最近では稲の葉には蜘蛛の巣を見かけない。

以前は、田んぼの全面に蜘蛛の巣がかかっていて、朝や夕方はそれが光ってきれいだった。

おそらく、農薬のせいで、蜘蛛もいなくなったのだろう。

畑にいたアマガエルなどもめっきり減ってしまった。

家の中では網戸のお陰であまり蚊や蠅に悩まなくなったが、あれほどいたハエトリグモなどもいなくなった。

虫たちと共に暮らしていた生活は終わって、模型に頼る寂しい時代になったのだと思う。

私は、本当は模型のヤンマより、本物のヤンマが大好きなのだが、これは人類滅亡への虫の知らせかもしれない。