このところ、田中二郎氏の『ブッシュマン―生態人類学的研究 新装版』 (1990 思索社)を読んでいるのだが、その中でイヌに関する次のような記述があった。
犬はセントラル・ブッシュマンによって飼われる唯一の家畜で、狩猟の道具として有効に使われる。ゲムスボック等の大型カモジカや、ジャッカル、キツネは、犬の助けを借りて槍で狩られる。プッシュマンに飼われる犬は、狩りの際には酷使されるにもかかわらず、狩猟に成功したときに内臓や肉片を与えられる場合を除き、ふだんは餌を与えられないので、やせ細り、しばしば飢死することがある。自ら昆虫や小動物を狩って飢えをしのいでいるのであろう。プッシュマンによって犬が飼われるようになったのはそれほど最近のことではないようであるが、その起源については不明である。
つまり、我々が思うような家畜やペットではなくて、一緒についてくる狩りの仲間だったのだが、感覚としては昔は普通にいた近所の野良犬とそう変わりが無い。
基本は日々食べるものは自分で都合をつけて、人間が狩りの時に手伝っておこぼれをもらう。
イヌは自分で狩りをするより、人の狩りの方が確率は高いし大きな獲物の肉にも多量にあずかれたから、狩りの仲間になったのだろう。
前から書いてきたように、うちの愚犬クロは捨て犬が野良犬になって保護された元猟犬だ。
だから、もらってきた当初から、逃げ遅れた小鳥も丸呑みしたり、蛙、イナゴ、熟し柿が大好物で、大根も食べる。
困ったことは、拾い食いは当然のこと、他の犬の糞を食べたし、脱走して戻ってきた時の最初の糞は、腐葉土を食べたような真っ黒い色をしていた。
野良犬時代に身につけていた、生存能力が残っているのだ。
最大の欠点は大きな音が苦手で逃げ出してしまうが、獲物になる動物には突発的に向かっていく。
おそらく、銃の音が怖くて逃げるので捨てられたか逃げ出したようだが、銃を使わぬサン(ブッシュマン)の猟犬としては問題なかったはずだ。
八年以上経った今でも、ペットフードを十分与えているというのに、以前ほどでは無いにしろその癖は抜けきっていない。
江戸時代の日本では犬は紐でくくって飼うことが禁止されて、放し飼いにされていたようだ。
「犬の糞」という侮蔑の言葉が残っているように、人間の大便も犬の食料になっていたようだし、捨て子が食われたり、風葬されたり行き倒れた人が食われた話はよく聞かれた。
サン(ブッシュマン)は肉食獣に食われないように、遺体は地下深く埋めるようだから、人の死肉が犬を呼び寄せたのではなさそうだ。
縄文人よりも弥生人の方が、犬を食べた形跡があるのも、定住化によって犬が遺棄物処理兼、食料になったのかもしれない。
日本の古代では烏や犬が野ざらしされた死体の一部が都に住む貴族の邸内にもたらせるのを一番忌避したし、中世では犬が庶民の大切な食料であったことは有名である。
狩猟採集をしていた縄文人の方が犬を大切にしていたこととは対照的だ。
一方生類憐れみの令は、鷹狩りを行う時に犬も利用した武士の勝手な保護策だったようにも思える。
現代は、ペットとして高額な犬が販売されて、大切に飼われている一方で、不要になった犬が遺棄されたりして問題になった。
私が子どもの頃までは放し飼いがよくされてたし、野良犬も村や街で生きる権利を与えられていたが、今は処分される運命になる。
うちのクロはほぼ成犬状態で保健所で処分される前に、保護団体に助けられたのだが、現代は犬の間での格差は惨いものがある。
自分の力で生きられない犬が餓死する社会と、不要になった犬を処分する社会のどちらが犬にとって幸せなのか?
これは、今の人間にとっても言えることなのかもしれない。
飢餓や病気との闘いで苦しみながら、犬とも協力し合って自力で生きていた狩猟採集民。
現代人は不要になったらといって処分されることは無いだろうが、自分たちの脅威となる害獣害虫、そして人間自身を処刑したり戦争で殺してしまう文明人。
ただ、今の私たちは狩猟採集民のように自力で食料を調達して生きていける力を殆ど失っている。
学校は近代の社会生活を保障してくれるけれど、自然に生きる力を奪ってしまうシステムだ。
もう、うちのクロ同様に、野良にはもどれない。