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2024年9月30日月曜日

うちのクロは立派な猟犬?

 このところ、田中二郎氏の『ブッシュマン―生態人類学的研究 新装版』 (1990 思索社)を読んでいるのだが、その中でイヌに関する次のような記述があった。

 犬はセントラル・ブッシュマンによって飼われる唯一の家畜で、狩猟の道具として有効に使われる。ゲムスボック等の大型カモジカや、ジャッカル、キツネは、犬の助けを借りて槍で狩られる。プッシュマンに飼われる犬は、狩りの際には酷使されるにもかかわらず、狩猟に成功したときに内臓や肉片を与えられる場合を除き、ふだんは餌を与えられないので、やせ細り、しばしば飢死することがある。自ら昆虫や小動物を狩って飢えをしのいでいるのであろう。プッシュマンによって犬が飼われるようになったのはそれほど最近のことではないようであるが、その起源については不明である。


つまり、我々が思うような家畜やペットではなくて、一緒についてくる狩りの仲間だったのだが、感覚としては昔は普通にいた近所の野良犬とそう変わりが無い。

基本は日々食べるものは自分で都合をつけて、人間が狩りの時に手伝っておこぼれをもらう。

イヌは自分で狩りをするより、人の狩りの方が確率は高いし大きな獲物の肉にも多量にあずかれたから、狩りの仲間になったのだろう。

前から書いてきたように、うちの愚犬クロは捨て犬が野良犬になって保護された元猟犬だ。

だから、もらってきた当初から、逃げ遅れた小鳥も丸呑みしたり、蛙、イナゴ、熟し柿が大好物で、大根も食べる。

困ったことは、拾い食いは当然のこと、他の犬の糞を食べたし、脱走して戻ってきた時の最初の糞は、腐葉土を食べたような真っ黒い色をしていた。

野良犬時代に身につけていた、生存能力が残っているのだ。

最大の欠点は大きな音が苦手で逃げ出してしまうが、獲物になる動物には突発的に向かっていく。

おそらく、銃の音が怖くて逃げるので捨てられたか逃げ出したようだが、銃を使わぬサン(ブッシュマン)の猟犬としては問題なかったはずだ。

八年以上経った今でも、ペットフードを十分与えているというのに、以前ほどでは無いにしろその癖は抜けきっていない。


江戸時代の日本では犬は紐でくくって飼うことが禁止されて、放し飼いにされていたようだ。

「犬の糞」という侮蔑の言葉が残っているように、人間の大便も犬の食料になっていたようだし、捨て子が食われたり、風葬されたり行き倒れた人が食われた話はよく聞かれた。

サン(ブッシュマン)は肉食獣に食われないように、遺体は地下深く埋めるようだから、人の死肉が犬を呼び寄せたのではなさそうだ。

縄文人よりも弥生人の方が、犬を食べた形跡があるのも、定住化によって犬が遺棄物処理兼、食料になったのかもしれない。

日本の古代では烏や犬が野ざらしされた死体の一部が都に住む貴族の邸内にもたらせるのを一番忌避したし、中世では犬が庶民の大切な食料であったことは有名である。

狩猟採集をしていた縄文人の方が犬を大切にしていたこととは対照的だ。

一方生類憐れみの令は、鷹狩りを行う時に犬も利用した武士の勝手な保護策だったようにも思える。


現代は、ペットとして高額な犬が販売されて、大切に飼われている一方で、不要になった犬が遺棄されたりして問題になった。

私が子どもの頃までは放し飼いがよくされてたし、野良犬も村や街で生きる権利を与えられていたが、今は処分される運命になる。

うちのクロはほぼ成犬状態で保健所で処分される前に、保護団体に助けられたのだが、現代は犬の間での格差は惨いものがある。

自分の力で生きられない犬が餓死する社会と、不要になった犬を処分する社会のどちらが犬にとって幸せなのか?

これは、今の人間にとっても言えることなのかもしれない。

飢餓や病気との闘いで苦しみながら、犬とも協力し合って自力で生きていた狩猟採集民。

現代人は不要になったらといって処分されることは無いだろうが、自分たちの脅威となる害獣害虫、そして人間自身を処刑したり戦争で殺してしまう文明人。

ただ、今の私たちは狩猟採集民のように自力で食料を調達して生きていける力を殆ど失っている。

学校は近代の社会生活を保障してくれるけれど、自然に生きる力を奪ってしまうシステムだ。

もう、うちのクロ同様に、野良にはもどれない。






2024年9月27日金曜日

金食うミスト

 恐ろしい水道料金が請求された。

先月も1万円を超えていたが、今月は14,000円と過去最高である。

これは下水をしていない料金なので、都会の人の水道料金とは意味が違う。

確かに、東京の水道料金はベラボーに高かったのを憶えているが、こういう田舎では考えられない額である。

それも、酷暑が続いたのでミストを使い続けねばならなかったからだ。

因みに、去年は1ヶ月だけ1万円を超えただけ済んでいた。

以前は、平気で裏の畑に水道水を使ったが、さすがに今年は小型のエンジンポンプを購入した。

これも馬鹿にならない出費だが、これだけ雨が降らないと水を作物に大量にやらねばならないので仕方ない。


今は、裏の畑だけでなく、庭にも撒かないと、木や草花も弱ってしまっている。

既に、庭の茗荷が半分ほど枯れてしまっている。

唯一元気なのは、ミストのそばにあるベランダのモリンガやガジュマルなどと、ベランダ下のミストがかかっているモリンガやハイビスカスなどだ。

そういう意味ではミストは役に立っているのだが、その代償は非常に高くついている。

そこで、用水路の水をミストに使う計画を立てて、早速、電動式ポンプも予約した。

いったん、50Lほどのタンクに貯めておいて、電動ポンプでミストに水を送るつもりだ。

問題なのはミストは小さなゴミでも、穴詰まりを起こすのでそれなりに濾過が必要だ。

とりあえずは、エンジンポンプでタンクに貯める時に、ホースの先に靴下をかぶせてゴミを除去した。

また、長い間タンクに貯めておくと、用水は藻が発生するのであまり大きいタンクで手間を省くことはできないだろう。


日本列島では大雨で大変になっているところもあれば、私たちの地方のように渇水で困っているところもある。

これからの破綻気象の時代を生き抜くためには、それへの対策をきちっとしておかねばならない時代になったと思う。

エンジンポンプなどは洪水で家に水が入ってきた時に、排水するのに使えるだろう。

電動ポンプは風呂の水を活用する時に使えそうだ。

登呂遺跡は1000年以上に1度の大洪水で埋まってしまったというが、今回の能登の水害も1000年に一度の確率だそうだ。

この破綻気象では毎年1000年に一度が繰り返されてくるかもしれないので、今の時代はかつて1000年に一度であった大災害の時代が日常化すると考えた方が良いだろう。


エアコンを使うと建物の中だけは涼しい反面、発電によってますます地球温暖化を加速させてしまう。

原子力を使えば別の意味での環境を破壊してしまう。

できるだけ、庭に草木を植えたり、ミストなどを使って電機消費を少しでも抑える必要があるだろう。

できれば、ミストへの補助金とか夏場だけ水道料金を下げてくれれば、電動ポンプも必要で無くなる。

山間部では山林という貯水機能があって、その川からの水を水田だけでなく、それをうまく生活に活用できるようにすれば、エアコンもそれほど必要で無くなると思う。

この危機的な破綻気象への一つの対策だと思うのだが・・・・



2024年9月24日火曜日

海から山への魚食文化へ

 以前、上郡の地元育ちの人と話していた時に、昔は鯉とか、鮒、鯰を食べることのほうが多かったと聞かされて驚いた。

その人は、私より6歳年上だったので、生きておられれば71歳である。

私は赤穂の海辺育ちなので、食べる魚介類は殆ど海産物で、何度か鮒の濃く煮付けたのも食べさせられたが、臭くて余り食べなかった。

鮭はすごく塩辛い塩鮭は食べたが、鮎やモクズガニなどの川の魚介類は食べることは無かった。

そもそも、幼少期には冷蔵庫など無くて、毎日来る行商の魚屋さんで買ったのがその日のおかずだった。

安いので、シャコやイシガニ、ダイチョウ、カレイなどは鍋いっぱいにゆでて、嫌というほど食べた。

また、穴子は夏には毎日のように七輪で焼かれて、骨までカリカリに焼いて食べさせられたのでうんざりしていた。

一方で、マグロや鰹などの遠洋で捕れる魚は小さい頃には食べたことは無かったが、鯨だけはよく食べさせられ、そんなに好きではなかった。


今のように新鮮でおいしい海の魚介類が普段から食べられるようになったのは、冷蔵技術が確立されてからである。

家庭にも冷蔵庫が普及して、スーパーでも普通に買えるようになった。

それまでは、海から遠いところでは、新鮮な魚介類は淡水魚で、海のものは乾物、缶詰、塩漬けや発酵させたものだったようだ。

ということは、日本人が海産物をよく食べるようになったのは、一家に一台冷蔵庫が普及した1970年代以降だと思う。

そして、以前は女性は魚がさばけて当たり前だったのが、それができなかったり面倒に思う人が多いようで、要するにパック詰めの魚食文化でしかない。

日本人全体の海産物の魚食文化は、できあがって50年ほどしか経っていないのである。

半世紀も経てば伝統文化といえるのかもしれないが、その伝統食文化は魚介類の乱獲の上で成り立っている。

そして、漁獲高が激減して日本の伝統食文化が失われるとニュースでは嘆かれているのだ。


私が子どもの頃は、近くの千種川で蜆がよくとれたが、あまり人気がなくて採っていなかったのが、健康ブームで乱獲されて今は採取禁止になっている。

海岸に行けばアサリなどは普通にとれて、よく友達や父親ととりにでかけた。

遊びの一環で釣っていたハゼやテンコチも、夕食のおかずに重宝された。

天然のウナギやカレイなどもヤスで突いて捕っていた。

今はそれらの殆どが、海岸や河口では簡単にはとれなくなっている。

趣味・娯楽としての釣りや貝掘りの乱獲で、資源が枯渇してしまったようだ。


森林で捕っていた動物から家畜に換えていったように、この創られた伝統食文化は養殖をして維持しなければならない時代になったということだ。

TVニュースでは、海水温のデーター分析で漁獲量を上げることを特集していたが、ますます乱獲されて漁獲量は減ってしまうだろう。

また先日、人新生の時代を明確にするものとして、地質に含まれる核実験に使われたプロトニウムが上げられていた。

おそらく、原発廃棄物やマイクロプラスティックも、海底に積もるだけでは無く、魚介類を通して我々人体に蓄積されていくだろう。

このところ、PFASが問題になっているが、隣の岡山県では山間地でも深刻になっている。

人新生における安全な食文化は、海に頼るのでは無くて、浄化された地下水を利用した養殖にあるのかもしれない。

すでに実験プロジェクトは始まっていて、養殖で出る糞や汚水は肥料に使われているようだ。

これからの安全な食文化を、自然が守られた山間地に求めていく時代が来ているように思える。


ところが、昨日千種町に水くみに行ったら、いつもの水くみ場の給水器が閉じられていて、少し値段が高いが別のところで汲んできた。

閉じられていた給水器に書かれていた説明によれば、水が涸渇してしまったという。

これは推測でしかないが、南海地震予測パニックで大量に水をくんだ影響かもしれない。

リニアモーターカーの建設で地下水の涸渇が問題になっているが、大切な山間地の地下水の保全も真剣に考えるべきだろう。

産業廃棄物を山間地に処分するなどもってのほかだ!




2024年9月21日土曜日

高齢者の幸せな癌

 以前に「末期癌のお坊さんから学んだこと」(投稿: 編集 (blogger.com)で、末期癌のお坊さんについて書いたことがある。

そのお坊さんは義父の3回忌にはもう亡くなっておられて、息子さんが代わりに勤めてくれた。

その時書いたブログには、教え子の医者から「癌であることは幸せだ」とお坊さんが言われたということはあえて書かなかった。

自分には癌であることの幸せが分からなく、恩師であるお坊さんに気を遣って教え子の医者が慰めたと思っていた。

しかし、自分の父母が認知症を患い、現在は義母も認知症を患っている。

特に、母の認知症は酷くて、弄便することで施設の人に迷惑をかけたし、認知症の悲惨さを思い知った。

私は尊厳を失ってしまった父母の死に方を、何とか避けられないかと思い続けていた。

そして現在の義母の認知症をまたもや間近にして、お坊さんが言われた「癌であることは幸せ」が理解できるようになった気がする。


人によって違うのだろうが、80歳前後になると認知症になって当たり前になってしまう。

身体よりも先に脳の老化が進んでしまうようだ。

若年性の認知症もあるし、90歳でも頭脳明晰な人もいるから、年齢の問題だけではないとは思う。

私の母の姉は認知症になるのを懼れてずっと専門の医者にかかったりしていたので、認知症は患っていないが身体の老化が進み寝たきりになっている。

私が知った人の中で、元気でしっかりしていた人が知らぬ間に眠ったように亡くなった例は一人しかいない。

その人は腰が曲がっていても、洗濯は洗濯機を使わずタライで自分でしていた。

こういう人は本当に希有な存在であろう。


ただ、癌で早死にしてしまうのは、本人も家族も耐えがたく哀しいことだと思う。

何度も書いてきたように、定年前後に膵臓癌で亡くなってしまった人が、「癌であることは幸せ」など感じることなど無かったとは思う。

お坊さんの教え子の医者は、当然年齢(70歳半ば)を考慮して言ったものだと思う。

80歳以上になってくると、認知症を患って哀れな死に方をしてしまうことがある。

それよりは、死を覚悟して今を精一杯生き、頭もしっかりした状態で死んでいける。

それは、自分の尊厳を失わずに死ねるから幸せなのだということだろう。


私の父母も、義父母も認知症の親を介護した経験が無い。

母も義母も夫が認知症になった経験がありながら、自分が認知症になることを心配していた様子は無かった。

それは父は過度な飲酒や熱中症が原因の脳梗塞、義父は怪我による脳出血という原因との関連性があって、単に高齢による認知症では無かったからだと思う。

無茶な生活や怪我をせず普通に暮らしていても、高齢によって認知症を患ってしまう懼れを抱いていなかったのだ。

おそらく、認知症の介護の経験のない人の大半は同じだろう。

年老いて癌で死ぬことが幸せとは決して思わないだろう。

しかし、私は年老いて眠ったように死ねないのなら、癌で死んだ方が幸せなように今は思える。

事故災害、心臓発作、大動脈解離、脳溢血、脳梗塞などの突然死よりも、自分も周りも死に対する準備ができる。

また、認知症で行方不明の人が年間二万人もいるそうだが、普通に葬式も上げてもらえない、上げてあげられないことの哀れさを感じざるを得ない。


象は死ぬまで元気で活動して、ぽっくり死んでいくそうだ。

昔の多くの人もそうだったのかもしれない。

ただ、民族誌では認知症を患った老婆をいきなり斧で殺したりした例も報告されている。

また、北極圏の狩猟採集民は他の家族に負担と思ったら、そんなに高齢でなくても死を選ぶようだ。

姥捨山の伝説も全くの作り話とは言えないだろう。

民俗誌の中では、老夫婦が山小屋に隠ったことは普通に書かれているが、ポツンと一軒家に夫婦だけとか一人暮らしもそれに準ずるように思える。

この問題は長寿を得たホモ・サピエンスの宿命でもある。

高齢者にとって癌での死は、ホモ・サピエンスに与えられた幸せな死の一つなのかもしれない。

ただし、痛みを軽減する麻薬(モルヒネ)や薬が使えるということが前提だが・・・・







2024年9月17日火曜日

敬老ではなく自ら養老

 私は65歳なので、れっきとした高齢者だ。

最近は65~74歳を准高齢者とか前期高齢者というそうだが、高齢者には違いない。

本来なら敬老の日の対象となるべき立場なのだが、全く縁が無かった。

孫のいない高齢者には、敬老の日は無関係なのかもしれない。

そういえば、敬老の日の前日に家内と回転寿司に行ったのだが、若い夫婦の家族や年頃の孫と一緒のお年寄りが目立った。

私も孫がいれば、こういうところで腹一杯食べさせてやりたいと思いつつ、いつものように夫婦で1皿に2つ乗った寿司を1つずつ分け合って食べた。

小食の家内だが寿司だけは私と同じくらい食べるので、色んな種類のネタの寿司を食べるためにそうしている。

翌日の敬老の日は、昼は少し足を伸ばして、道の駅の十割そばを家内と食べに行ったが、私たちのような老夫婦や一人だけの老チャリダーが目立った。

敬老の日だから値段を割り引いてくれればありがたいのだけど、それも無かった。

ということで、この三連休は全く敬老とは無関係だった。


高齢者に対して、ネットやテレビで色々と話題にされている。

そもそも、年齢だけでくくってしまうこと自体がもう時代とは合っていない。

現役で仕事している人もいれば、年金暮らしの人もいる。

資産があって悠々自適の人もいれば、浮浪者もいる。

高齢者で無い人との違いは、年金をもらう資格があることくらいかもしれない。

家内は少し年金が出るようになったが、まだ働きたいと言っている。

たぶん、専業主婦が長かったので、もっと働いていたいと思っているのだろう。

私は、ブラックな教師を長年続けてきたので、もう、賃労働はしたくないと思っている。

しかし、金にはならないけど、やりたい仕事や作業は山ほどあり、暇を持て余すどころではない。


以前、沖縄のご老人がかなり高齢になっても、キビ畑でしっかりと鍬を持って働いている姿を見て、こういう人になりたいと思っていた。

今日の朝のテレビで玉川徹さんが、日焼けが嫌で農作業はしたくないと臆面も無く言っていた。

私は空調服で上半身を覆い、麦わら帽子にサングラスをかけ、防虫ネットで顔を覆っているので、あまり日焼けしない。

水泳部の顧問をしていた時は、おなかと手と足の裏以外は真っ黒だった。

だから、足が白いのがなんか恥ずかしいが、朝の散歩では上はランニングだが下は短パンでその下にはスパッツをはいている。

猛烈な暑さ対策以外の目的は日焼け防止では無く、蚊、ブヨ、蟻、マダニなどの虫に刺されるのが嫌だからだ。

玉川さんも日焼けを理由に農作業を嫌うなら、私と同じ格好で顔も日焼け除けをすれば良い。

ただ、1年に一度しか着ないのに空調服を買うのはもったいないので、こういう人のためのレンタルがあれば良いのかもしれない。

因みに私は家で机に向かったり、ドライブに行く時のための、真横に穴のついた空調服も手に入れて使っている。

そうすれば、冷房を強くしなくて済むので、省エネになるからだ。


有機農業を本格的に志す者としては、高齢者扱いとは無縁で、村の草刈り作業では若い者には負けてはいない。

また、元マスター水泳選手としても、Free50mを1分サークルで泳いで、年下スイマーには負けずに頑張っている。

と言いつつ、血尿を出して膀胱癌検査をしたのだから、無理はできないとは思っている。

高齢者として敬われない時代だからこそ、健康に留意して病院にかからないようにせねばならない。

高齢者として自覚して自分の身体をいたわる養老が必要なのだ。

子や孫に回転寿司に一緒に行ってもらえそうにない高齢者は、自分たちの力で長く通えるように健康管理せねばならない。

むかし、かぐや姫の歌「あかちょうちん」に「月に一度の贅沢」として、お酒を上げていたが、私らにとっては回転寿司で、その日が敬老ならぬ月一の養老の日なのだ。






2024年9月14日土曜日

我が青春のエリック・カルメン

 エリック・カルメンの雄々しき翼』 (Boats Against the Current) が、ネックスピーカーからふいに流れてきた。

私はいつも土曜の朝は、前の週のNHKラジオのラジオマンジャックを聞き逃しを散歩しながら聴いている。

目の前の風景は朝の光を浴びた稲穂の景色だが、40年ほど前に車の中で見た北関東地方の夜の道路風景が蘇ってきた。

その時、車のFMラジオから流れていたのは、その次にかかったAll By Myself だった。

私は、伴侶と弟の3人で東京近辺をたまにドライブに出かけていた。

当時院生の私には免許が無かったので、伴侶と二人では電車が普通だったが、時に弟に運転してもらってレンタカーで出かけることも何度かあった。

その伴侶はそれから2年して去って行ったが、この曲が流れると特別なドライブの風景がいつも目に浮かんでくる。


エリック・カルメンとの出会いは、以前にも書いたようにラズベリーズ時代の”Ecstasy”をコピーして、キダタローのラジオ番組コーナーにバンドで出演して歌ったことに始まる。

せっかくキダタロー先生に褒めていただきながら、エリック・カルメンの曲を人前で歌うことはそれ以降無かった。

大学時代に入った軽音楽部では、当時流行のプログレッシブロックを歌わされたが、結局、クラブとしてのやり方とは肌に合わず足を洗ってしまった。

その後はカラオケでたまに歌ったり、ベストアルバムをカセットテープにうつして聴き続けていた。

文化祭や忘年会など人前で歌いたいと思わなかったのは、辛い別れをした伴侶とのなつかしい思い出がリアルに蘇ってきてしまうからだったのかなとも思う。

バンド活動を辞めるまでは、エリック・カルメンのようなミュージシャンになることを夢見ていた。


ソロになってからのエリック・カルメンの歌の多くは甘く切ないメロディーが多く、その上に彼の深みのある柔らかな声が心に伝わってきた。

そのエリック・カルメンが今年74歳の若さで亡くなってしまった。

自分の青春の思い出も同じように消えてしまうような気がした。

ラジオマンジャックが特集してくれたのは、今度彼のアルバムが出るということからだった。

You Tubeで彼の曲はずっと聴いているのだが、聞く曲にも限りがある。

ぜひ、今度はそのアルバムを手に、思い出が消えないようにしておこうと思っている。


 邦題の「雄々しき翼」の原題は”Boats Against the Current”だ。

「二人は最後まで流れに逆らっていく進む舟だ」とかつて一緒に夢見たふたりが別々の世界に生きていくことを歌った曲だ。

まさしく、当時の私たちふたりの生き方とかさなる曲だ。

当時駆け落ちした私たちふたりは世間の常識や権威に逆らったdreamerにすぎなかった。

私は力尽きて舟を進めることができず、耐え続けていた彼女も一緒に漕ぐことを諦めて去って行ってしまった。

本当は流れや風に逆らわずに力を合わせて漕いでいけば良かったのだが・・・・

私はその航海を諦めたが、かつての夢見た旅をずっとその後も思い描き続けた。

今でも相変わらず時代という流れに逆らいながら、その後出会った妻と一緒にささやかな夢への旅の舟を漕いでいる。

そして、最後に追い求めるものを見つけ、人生の夕暮れにはきっとロマンスがあると信じ続けている。

エリック・カルメンの歌とともに・・・・





2024年9月12日木曜日

補助金目当ての農家に任せっきりの地主

 近くの田んぼに植えられた大豆が草まみれになっている。

植えっぱなしで、除草もしないし、病害虫対策の農薬散布もしていないようだ。

私が作っている畑の隣の休耕田は、去年大豆が草まみれになって収穫できず、トラクターの草刈りアタッチメントで刈り倒してしまった。

その後の小麦はうまくいったが、今年は大豆は作らず草まみれである。

人気のあるモチ麦では無く、小麦を作るのは買い取ってもらえるからだそうだ。


調べたら、「水田活用の直接支払交付金」制度があって、10a(1反)あたり3.5万円から最大5万円の交付金が受けられるそうだ。

これは、交付金目当てで植えっぱなしで、収穫もまともにしない農家が増えて、2022~26年度の5年間に一度も水張りをしなかった水田は対象外にするそうだ。

そうなると、大豆も小麦も作らなくなり、年中草だらけの田んぼになるのが目に見えている。

近隣では水当番をする代わりに、地主は小作料をもらっているようだが、既に小作料なしで田んぼを任せている地主が増えている。

今でさえ頼める農家を探すのに苦労しているのに、交付金がなくなればますます困難になるだろう。


今日の新聞折り込みチラシに、岡山県の津山市の米商店が、こしひかり(1等2等)60kgを22,000円で売ってくださいとあった。

先日、波賀町の道の駅で昨年度の古米が5kg3000円で売っていたが、白米とはいえ60kgで36,000円とは余りにも高いが買えるだけましなのか。

我が家は近所の農家からひのひかり玄米30kgを8,000円(60kg16,000円)で分けてもらっていたが、今年の値上がりは覚悟せねばならないだろう。

こういう今回の米騒動で、来年から地主さんが米をまた作り始めるかもしれないが、機械類を処分せずに持っていた人に限られるだろう。

政府が備蓄米を放出しないのは、農家支援もあるだろうが、却って逆効果かもしれない。

そもそも、銀行にお金を預けていても、殆ど利子が付かないのに、加重負担になった田んぼで小作料をもらうのも時代錯誤だろう。

因みに小作料は不動産所得と同じ扱いだそうだが、あまり気にしていなかったが、近所の殆どの家は田んぼからの不動産所得を得ていたことになる。

親が残した土地家屋で固定資産税を支払いに苦労している者にとっては、少々うらやましい。

今回の米騒動で、田んぼが投資の対象となり、農業が振興されるのか、それとも、大して労働の割に実入りの少ない小規模農家が離農していくのか。

異常気象や水害でリスクを背負わねばならない農業支援を根本的に考えていかねばならないのに、政府はスター誕生の総裁選びで、マスコミも乗っかっているばかりだ。

この米騒動下でも食糧問題対策を挙げる候補が殆どいない。

今回の米騒動が今年だけにとどまるのか、これから先も同じように続くのか。

確実なのは、近所の米を作らないの地主さんには殆ど家の跡継ぎがいないことだ。

やがて、山に作られていた水田や畑のように放置されて、太陽光発電用地になるかもしれない。







2024年9月9日月曜日

最悪の外来種はマングース?

 奄美でマングースが絶滅したという。

1979年と言えば私が大学1年の時だが、30匹のマングースが放たれて、ハブとは戦わずにクロウサギなどを食い荒らしていったという。

私は1982年から奄美へ村落調査で出かけたが、名瀬のハブセンターでハブとマングースの決闘がショーが行われていた。

私は一度もハブセンターに行ったことがなかったが、ハブの焼酎漬けを土産で買って帰って祖父にあげたが、飲みづらいと言われた。

ハブは一度だけ焼いたのを食べたことがあるが、骨ばかりで肉はあまりなく、味は鶏肉と変わりなかった。

与路島で山道や獣道を歩いたりしたが、幸いなことに野生のハブとは一度も遭遇せずに済んだ。

奄美のクロウサギは当時は、与路島の小中学校で飼育されていたのを見たことがある。

この天然記念物になったクロウサギもかつては大切な食料だったようだ。

人間の勝手で持ち込まれて、結局害にしかならなかったマングース。

ハブは捕っても持って行ったらお金になるようにして、かなり減ったと聞く。

そちらの方が効果的だったのだ。

また、徳之島は家猫が野生化して、問題になっているがこれも人間の都合だ。

そして、山羊も放し飼いにして、野生化していたが、与路島では子ヤギが猛禽類の餌食になってそんなに増えていないと聞いた。


そもそも、琉球諸島には鹿やキョンが生息していた。

そこに旧石器時代に人類がやってきて以来、絶滅してしまったようだ。

本土では明治以降にどれだけ野生動物を絶滅させたか数え切れない。

自然保護団体は、絶滅危惧種の保護を声高に訴えているが、ホモ・サピエンスこそアフリカからやってきた最悪の外来種だという自覚が無いように思える。

この外来種は多くの生物を絶滅させただけでなく、地球の温暖化を招いて全生物を巻き込んだ破壊を行っている。

こういう自覚をせずに、単にマングースの絶滅をあたかも、世界に類を見ない成功というのはどうも見当違いだと思う。

人間の都合によって保護したりペット、家畜、作物として活用するのが人間だ。

そして、役に立たなくて生活に不都合な生物は、害獣、害虫として駆除していこうとする。

地球環境にとって、本当は人類こそ駆除すべき存在なのかもしれない。


罪深き立地点に立って環境保護活動をすすめていくのが本来の筋だと思う。

こうなると、宗教がかってしまうのだが、近代科学の最大の欠点は倫理観の喪失だと思うので、それをもう一度求める時代になったと思う。

ダーウィンの進化論以来、適者生存で強い者が生き残るのだと教わってきた。

自分のDNAを残すために、生物は他生物と闘っていくのであって、他生物との共生という地球生態システムの根幹を疎かにした

これは、欧米の軍事力と経済力による世界侵略に都合の良い論理であり、日本人もそれに追随してしまった。

日本人は本来、罪深き殺生の意識から供養塔を建てたり、「一寸の虫にも五分の魂」という言葉は、弱者を侮るなという意味とは別に、命を大切にするべきと解釈してきたと思う。

オオカミは欧米人の農業指導によって家畜のために駆除される前は、神様として祀られたりしていた。

熊もエゾオオカミもアイヌの人たちにとっては神の使いであった。

結局、天敵を失った鹿たちが、温暖化で勢力を増し伊吹山のように災害を引き起こす時代になってきている。

江戸時代の生類憐れみの令は確かに行きすぎた政策だが、江戸エコシステムの一役を担ったことも確かだろう。

最悪の外来種の人類は、その自覚の元で暮らしていくべきなのだと思う。

だから、奄美でのマングースの絶滅を安易に誇るべきでは無い、勝手な人間の犠牲にしてしまったと反省すべきだろう。






2024年9月7日土曜日

血尿と膀胱癌検査

 突然、経験したことも無い血尿が出た。

私は大学時代に剣道部の合宿に参加して、宿舎の小便器が血で染まっていたのを見たことがあったが、自分が血尿を出すとさすがに不安になった。

すぐに私はネットで原因を調べた、一番可能性があったのは症状から腎結石だった。

腎結石の原因となるような飲食に心当たりがあり、特にナッツ類をよく食べていた。

とにかく、ネットでは血尿が出たら、病院に必ず行くようにと書いてあったので、以前かかっていた総合病院に電話で予約を取った。

そして初回は尿検査と問診だけで原因が分からず、後日CTを撮ることになり、その週の金曜日に検査に行った。

CTは造影剤を入れるのに、針が神経に障ったらしく、右手首が痺れるように痛いので、左手に変更された。

右手の痛みは後遺症として動かした時に痛くて現在も痛みは続いている。

全身が熱くなったり、あまり気持ちいいものではなく、検査員が副作用(アナフィラキシーショック)を警戒しているのが不安にさせた。

検査後に出た尿は薄い茜色で、便器も多くのそういう患者が使ったと見えて色がこびりついていた。

翌週の火曜日に診察を受けたが、CTの画像には結石は写っていなくて、痛いけど内視鏡をいれて膀胱癌の検査するといわれたが、次出たら受けますと言って断った。

自分は勝手に腎結石だと思い込んでいたのに、膀胱癌の恐れがあって内視鏡検査が必要と言われてもそれに気持ちが対応できなかったのだ。

原因が分からないので、薬は出してもらえず、それがまた不安ともなった。


家に帰ってから膀胱癌も色々調べたが、熱中症でも血尿が出る場合があると書いてあったので、自分はそれではないかと良い風に見立てて自分を安心させた。

早朝の散歩で汗まみれになり、夕方の農作業では冷却ベストを中に着た空調服で作業していたが、これも汗まみれだった。

また、プールに行って2000mほど泳ぐと、汗が出たせいか体重は2kgほど落ちていた。

とにかく、糖尿病の改善のため体重を落とすのに、無理な運動や作業をし続けていた。

一番悪かったのは、夕方からの晩酌で、350mm缶ビール1缶、赤ワイン、白ワインそれぞれ1杯ずつ飲んだ。

そして、寝る前に寝酒として、炭酸割りの芋焼酎をそこそこ飲んでいたのだった。

普通の熱中症の症状は無かったけれど、きっと身体が悲鳴を上げているのだと解釈して、一番恐れた膀胱癌は考えないようにした。

何せ、二ヶ月ほど前から水分不足のせいか排便に苦しみ、酸化マグネシウムを毎月通院している医師に言って出してもらっていたが、その量も増やしてもらっていた。

ただ、膀胱癌の症状の多くが今の自分に当てはまった。

腰痛はその最たるもので一時はまともに動けないほどで、しばらくして収まっていたがまた痛くなっていた。

ただ、内臓からくる腰痛は安静時でも痛むが、私は動かした時に痛いので違うようにも思えたが、不安は不安だった。

ネット情報では膀胱癌の原因に喫煙と飲酒が上げられていた。

たばこを吸わない自分にとって原因と考えられたのが飲酒だが、以前から排尿するたびに膀胱に負担をかけているとはずっと思っていた。

それで今度、血尿が出たら必ず内視鏡検査をする決心はついていた。


不安ではあったので、なるべく水分を多く摂って、翌日の水泳もゆったりと泳ぐことに努めた。

ただ、飲酒に関してはいつものようにやってしまった。

それが災いしたのか、翌日の午後に恐れていた少し血尿がまた出てしまい、腹を決めて病院に電話して翌日の予約を取った。

それからは、最悪の膀胱癌を覚悟して、治療方法などをネットで色々調べた。

家内には最悪のケースでは、5年生存率が50%かもしれない、70歳までに死ぬかもしれないと話したりした。

深刻になって暗くなってはいけないので、冗談を交えながら、膀胱癌のことを話した。

そして、私はいつもの”Romeo must die"と嘯いていた。

これは、筋書きで行けば必ず死ぬ運命という意味らしいが、私はロメオのように美男子だから早死にするのだと勝手に普段から冗談で言っている。

私は何か健康に不安があるといつも「死ぬかもしれんよ」というのが、口癖にもなっているが、今回は本気の大安売りだった。

夕方にはいつものように農作業したが、さすがに、その日は缶ビール一杯だけで飲酒は控えたので、食欲がなく翌日の体重は1kg減っていた。


翌日の午前の内視鏡検査を受けるまでは、ずっと膀胱癌と決めつけていた。

というのも、昨日の血尿は水分不足や熱中症とは無縁で、ネットでは血尿の原因を癌以外に見つけることができなかったからだ。

自分のように激しい作業や運動をして、水分をビールやワインで補って血尿になるケースはあまり無いのだろうと思う。

そういう人は、痛風になるのはよく聞く話で、その経験ある私はそちらには気をつけて尿酸値を低くするよう心がけていた。

予約の時間を1時間も待たされ、問診を少しした後ですぐに処置室に行き、検査用のパンツをはいて、検査椅子に股を開き足を上げて座った。

年配の女性看護師さんに陰茎を消毒される恥ずかしさより、これから内視鏡を入れられる怖さの方が勝った。

前にはカーテンが掛けてあって処置する様子は分からず、内視鏡を尿道に入れられる時はもどかしい痛みを感じたが、尿道の痛みは検査後の排尿時にだけ翌日まで続いた。

看護師さんから斜め上にある画面を見るように言われ、膀胱内の様子が映っていたが、自分にはよく分からず、なぜか白い浮遊物が多くて濁っていると指摘されていた。

検査する前に膀胱内の尿のことを気にしたのだが、やはり検査で漏れたので看護師さんが拭いてくれていた。

痛い思いをして受けた内視鏡検査では、結局癌は見つからなかった。

医者も出血の原因が分からないようだったが、炎症が見られるので薬(クラビット)を出してくれた。

そして、血尿がまたあるまでは来る必要が無くなった。

さっきまでとは一転、私は晴れやかになり、ラインで結果を家内に送った。

家から病院に出かける時は、ショックでメールできないかもしれないと言っていたのが嘘のようだった。


しかし、今回思い知ったのは、家内は喀血した時に医者からは「十中八九は癌だと思っていた」と言われていたことや、手術で癌になる手前の腫瘍を摘出したことがあったことだ。

今回の、血尿による膀胱癌検査だけでも不安になり、ひょっとして70歳まで生きられないのかと思ったりした。

家内のその当時の不安をくみ取れることはできていなかった自分に気がついた。

今回は今のところ癌ではなさそうだが、本当に癌になっている人がどれだけ不安とともに生きているのだろうかと思う。

私のまわりに膵臓癌で亡くなる人が多いので、そちらには注意していたのだが、きっと盲点があると思った。

一方で、万一膀胱癌であったとしても、森永卓郎さんと同じように、書くべき本を書き終えないと死ぬに死ねない、書き上げるまで生きてやろうと思った。

だから、癌ではないにしろ寝酒は辞めることにしていたので、医者には寝付きが悪くなる理由を言って、睡眠導入剤を出してもらった。

そして、医者は絶対ではないので、癌を含めていろいろ見逃している可能性があるので、65歳の年齢相応の仕事や運動をすることにした。

血尿は家内の小言以上の絶大な効果を私に及ぼすことになったわけである。


(その後1)

薬も6日後に切れて、排尿に少々違和感を感じ始めた。

それでネットで調べるとグランベリーがこういう症状には良さそうなので、注文して飲んでいる。

また、家内がかつて膀胱炎になった時に、飲んでいた漢方薬が期限切れながら残っていて、それも飲んでいる。

とにかく、身体への負担を減らし、水分補給をこまめにして用心しているので、1週間以上経った今のところ、血尿は出ていない。






2024年9月5日木曜日

教師は役人か職人か?

私は教師は一種の職人だと思っていた。

社会に出て生きていけるだけに学力、生活力、健康管理力などを生徒が身につける手助けをする。

かつては、家族、親戚、地域の人々が担っていた役割だが、産業社会になって家業などでは生活できなくなった故の仕組みだと思う。

父方の祖父は、家業を継がせるために、子どもに厳しい指導をしたので、子どもから遠ざかってしまった。

長男は、父親と一緒に舟に乗るくらいなら、戦争に行った方がましだと海軍少年兵に志願して、戦死したと父から聞かされた。

私の父も祖父から受けた厳しい体罰や、叱責で苦労したことをよく話していた。

船乗りは命がけの職業なので、祖父はかなり厳しく指導したのだと思う。

そういう私の父も祖父ほどでは無かったが、体罰もしたし厳しくて妥協を許さない方だった。

昔の学校の教師も似たようなところがあって、体罰は当たり前の時代もあった。

私も、教師にも何度か殴られたが、自分に責任もあることは分かっていた。


ある職業高校の他県から採用された先輩先生から聞いた話では、ある先生は生徒に向かってナイフを投げていたという。

投剣術の心得があって、絶対外さない自信があったので、脅すために生徒に投げたという。

それは極端な例だが、チョークを投げていた教師は知っているし、体罰が日常だった教師も知っている。

しかし、今の時代にそういうことをしたら、即、懲戒ものだろう。

今の時代は親も体罰をしないし、教師も体罰をしてはいけない。

私は体罰に頼る指導は邪道だと思うが、学級崩壊を招くのを防ぐには何らかの抑止力が必要であることは確かだろうと思う。

今の時代では説得力で指導せねばならないし、どうしてもだめなら規則や法によって処分せねばならない。

それは、武力に頼らない役人の世界と同じなのだと思う。


今回の斉藤兵庫県知事のニュースで思い知ったのは、官僚、役人の世界のすごみである。

力の源泉は人事権なのだろう、もし、指示に従わなければ部署を変えてしまうことができる。

長く公務員を務めていたら、退職して民間に勤めることがいかに困難かをよく知っている。

私も早期退職してそれを思い知ったのだが、天下りは役職に就いていた公務員にとって、ありがたいシステムだったのだ。

それは、ある学校の元管理職が退職後に社会教育施設で、まともに仕事ができなくても役職について高給をもらっていることで知った。

それで、思い出したのだが、私は管理職志望の教師と初対面の歓送迎会で怒鳴り合いのけんかをしたことがある。

その先輩教師は「教師は役人だから、上意下達が当たり前だ」と私に説教を始めたからである。

その管理職志望の教師は、教師は役人だから上意下達であるべきというのが当たり前だという考えであった。

そういう官僚システムで上意下達の役割を果たしていたら、おねだりもできるし、ちゃんと天下りのご褒美が待っていたのである。


学校現場が徐々に役人教師の世界となって、官僚のようにサービス残業が日常化し、上意下達で管理職の指示に従うのが当たり前になった。

免許更新制などはその最たるもので、教師を法的に分限(罷免)できる手立てとなったが、実際は政府の力を見せつける脅しそのものだった。

私が30歳代の頃までは、職員の校務分掌も自分たちが選んだ世代ごとの代表職員で決めていっていた。

それにも問題があったのだが、官僚システム化でブラックな職業になるのは防がれていたのだとも思う。

これからの時代に、官僚システムをもつ大企業や官公庁、学校がふさわしいのかどうか試されているのだろう。

自信を持って職人の組織に戻るべきとは言えないが、組織の力に頼る方法はこれからの激動の時代にはそぐわないように思う。

それは自民党の派閥崩壊もさることながら、今回のことで県の採用試験の辞退者の多さが物語っている。

そして、残業手当を出さずに給料を上げて金に釣られた役人教師を増やそうというのも本末転倒だと思う。

学校教育も社会教育や民間教育機関との連携を図り、ネットワークを通じて補完し合うべきだと思う。

学校管理職の天下り先に社会教育施設を使うより、一般職員の人事交流も行ってしかるべきだろう。

受験指導に予備校や塾の講師を活用しているが、スポーツ、健康管理やカウンセリングなどにもっと民間機関と連携すべきだろう。

上意下達の役人の縦割りシステムでそういう仕事ができるのだろうか?





2024年9月3日火曜日

かつての人類の地球温暖化

 よく知られていることだが、約1万年前に更新制から完新世への変化で地球は温暖化された。

そして、それまでの狩猟採集から農耕へと変わる地域が増えていき、文明社会が誕生した。

地域によっては、狩猟採集民は絶滅し、農耕民だけの社会になってしまったところもあった。

しかし、日本のような島では農耕民の移動数に限界があったので、狩猟採集民が農耕民に絶滅させられずに済んだ。

よく言われているのは、日本のDNAには、大陸では失われて殆ど残っていないタイプが残っている。

ヤポネシア(日本本土・琉球列島・北海道)は環境の変化に、徐々に社会が変わっていく社会だった。

対照的に、大陸などでは劇的に変化していったところも少なからずあった。


今回の温暖化は約1年前に人類が経験したものよりも、急激らしい。

よく人新生という言葉で今の時代を表しているが、これからヤポネシアに生きる我々の生活を考える時が来たのだろう。

完新世への温暖化のヤポネシアは大陸のように、急速に農業が広まっていかず、狩猟採集の生活を続けていた。

だから、新石器時代という用語は、農耕を伴うのが普通なので、日本では縄文時代を新石器時代ということがためらわれてきた。

旧石器時代のように非定住型から定住型の狩猟採集と、どんぐりや小豆を管理して食料維持してきたのがヤポネシアだった。

ここでは水稲による本格的な農業は本土では約3000年前から、琉球では約1000年前で、北海道では本格化したのは150年ほど前だ。

ただし、一部の階層や町民を除いて米は日常食では無く、琉球ではサツマイモが戦前まで主食だった。

本土の地質から考えると水稲が一番ふさわしい作物だというが、人新生にふさわしい作物かどうかを考えねばならない時代だろう。


今年は、暑さに強いと思われていた、里芋やサツマイモも日照りの影響で、近辺では生育が非常に悪い。

関東の方は逆に雨が多かったので、良かったかもしれない。

日照りに強い高黍とオクラは生育には問題は無かった。

ただ、高黍は台風などの風に弱いので、巨大台風が来る人新生に向けて、品種改良する必要があるだろう。

そして、何よりも食生活の見直しが必要だ。

私自身本当に白米だけを食べ始めたのは、小学校に弁当を持って行き始めてからで、麦飯は恥ずかしいので白米だけに親が変えたのだった。

ただし、家で作った米は完全な白米ではなく、5分づきや7分づきだった。

また朝食は、家で作った小麦を米屋で製粉してもらって、べた焼き(パンケーキ)を毎日食べていた。

これからは、比較的作りやすい冬場にできる麦などにも力を入れるべきで、私はモチ麦を、近所の専業農家は小麦をやりはじめている。

米不足でパニックになるよりも、この機会に白米に多く依存しない食生活を考えるべきだろう。

学校給食も、それに応じたメニューを考えるべきだと思う。

私が非常勤で勤めていた千種高校の給食には、そういうメニューがちゃんと定期的に組まれていた。

確実に時代は変わっている、縄文人のように環境に応じて徐々に生活を変化させないといけないと思う今日この頃である。


また、旧石器時代から縄文時代への変化は北の文化と南の文化の混合による物だった。

縄文時代から弥生時代への変化は、大陸、半島からの水稲農耕文化の渡来によるのだった。

現代の学校教育文化に疲弊した日本人よりも、外国の柔軟な教育文化に育まれた人々を受け入れる時が来たのかもしれない。

これまでの文化が急激に変わらない程度に、外国からの移民も受け入れるべき時が来たのだと思う。

縄文系の弥生人と渡来系の弥生人が共存したように、外国からの移住者と共存する時が来たように思う。

日本人の少子化を嘆くより、いかに外国からの移住者を受け入れるべきかを考えねばならない時代になったと思う。