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2024年11月29日金曜日

安上がり長時間デスクワーク対策

 私は完全退職以来、読書をしたりものを書いたりということで、特に農閑期ではデスクワークの時間が増えてしまった。

現在は十二指腸潰瘍で苦しんでいるのだが、以前の農繁期では腰痛で苦しんでいた。

その時に買ったのが、立ったまま操作するのに使うノートパソコンスタンド パソコン台だった。

ノートPCはディスプレイを大型に拡張して使っているので、外付けのキーボードとマウスを乗せて使っていた。

慣れるのに時間がかかったうえ、やはり夜などは疲れているので、立ってしようとは思わなかった。

それで、椅子に座る時間が増えてしまって、とうとう十二指腸潰瘍を再発させてしまった。


十二指腸潰瘍は腹が空くと痛くなるのだが、食事をした後も座った姿勢でいると痛くなった。

ただ、車ではリクライニングができるので、身体を楽にさせると痛みは治まった。

また、散歩したり泳いだりすると、痛みも軽減されたり忘れることができた。

ところが、今回は用事があって、図書館で時間を潰さなくてはいけなくなった。

図書館は立ち読みする場所などないので、窓際の机が高くて椅子も使えるし、立ってでも読める場所を見つけてそこで雑誌を読んでいた。

やはり、立って読み続けると、疲れてきたので、座面の高い椅子に座ってみると、意外にも痛みが来ない。

つまり、座面の低い位置の姿勢が長く続くことで、痛みが来ていたということだった。


そこで、さっそく戻ってから、立って座れる椅子を探すと、可動式の机用の可動式椅子というのが見つかった。

要するに、座ったり立ったりしてデスクワークをする可動式デスクには可動式の椅子が必要だったのだ。

そこでそれを注文しようかと考えたが、ふと以前買ったアウトドアチェア 伸縮式 キャンプ椅子のことを思い出した。

これは農作業用に買って使っているのだが、これを椅子の上に置いて使ってみると、座り心地はすこぶる悪いが何とか使える。

また、以前にニトリで丸形の分厚いクッションを買っていて、使わずにいたのを思い出して上にのせると、座り心地も良くなった。

ずっと立ってPCを使うことを考えれば、ちょっとした休憩として使えば問題ない。


考えてみれば、動物は同じ姿勢でいられるのは横たわっている時だけだろう。

これも床ずれなどを起こして問題となるが、立ったままとか座ったままよりはましであるが仕事にはならない。

座ったままの場合、楽そうに見えるが、意外と腰やお尻、胃腸に悪い。

長時間自転車に乗る人や、車を運転する人などは、腰痛持ちが多いことはよく知られている。

机にかじりついている研究者も、痔とか腰痛、胃腸の潰瘍に苦しんでいる人もよく知られている。

また、腰をかがめてする仕事の多い農家の人も、腰や背中が曲がってしまって、その痛みに苦しんでいる人を知っている。

その点で言えば教師は立ったり座ったり、スポーツをしたりして健康面では悪くなかったはずだ。

しかし、それを打ち消すだけのストレスを受けるブラックな仕事になってしまったということだ。


一方家内のリューマチは、同じ姿勢が悪いだけで無く、動かさなければ痛みが増してくる。

だから、ドライブに行く時は、助手席にいるより運転をしたがっている。

最初は、私が違反して減点され運転免許証の停止が間近なのが理由だったが、その心配がなくなっても運転をしたがった。

私の運転が不安だというのでは無くて、どうもリューマチの痛み対策であることを、私が同じ姿勢で痛むことを言うと話してくれた。

人にはなかなか理解されない痛みがそれぞれあって、家内には十二指腸潰瘍の痛みがあまり理解できないようだ。

とにかく、人は同じ姿勢を長時間できるような身体の仕組みになっていないということは確かであり、それを意識しないと身体を壊すことになる。

ところが、小学生の頃からじっと机の前で座っていることが習慣づけられて、身体を動かすことの大切さをだんだん忘れさせられてきてしまった。

特に受験勉強などはその極めつけだろう、また大学生の論文作成などもそうだと思う。

同じ姿勢を続けることが、身体に悪いことを強く意識せねばならないと思った。





2024年11月26日火曜日

酒と病

毎晩ビールを楽しみにしていた家内はリューマチを患って以来、医者から飲酒を止められてしまった。

今でも関節の痛みが続いているせいもあって、酒類は一滴も飲まない。

その代わりに、コーヒーや緑茶を何杯も飲むので、私はカフェイン中毒だと言っている。

私は逆に、コーヒーやお茶は何杯も飲もうとは思わない。

その代わり、ビール、ワイン、日本酒、焼酎と毎日欠かさず少しずつ飲んでしまっていた。

ところが、十二指腸潰瘍を再発して以来、一滴も飲む気がしなくなった。

飲むと痛むのが分かっているからで、結局家内のリューマチと同じになってしまった。

不思議なもので、入院時は別として体調が悪くても飲んでいた酒類が欲しくないのである。

これは以前に痔を患って漢方を飲んだ際に、酒を飲むと気分が悪くなったので、漢方を飲んでる間飲めなかった時以来である。

断酒するにはこの方法があると思ったが、そこまでして断酒する必要が無かった。


考えてみれば、大学や大学院時代には普段はそう酒は飲んでいなかった。

たまに飲むとかなり飲んだが、毎日飲む金も無かったし、飲まないと済まないわけではなかった。

飲酒以外に楽しいことがいっぱい有ったからだと思う。

ただ、修士論文作成時は、酒が必要となり、タバコとトウガラシとの相乗効果で体調を崩していった。

毎日晩酌をし始めたのは、教職について結婚してからだと思う。

酒の量が増えたのは、二校目の困難校に赴任してからで、肝臓数値が悪くて病院にかかった。

そして、痔も患ったために、一時は酒も飲めないような常態になっていった。

転勤して痔を手術して、酒も普通に飲めるようになった。


その後転勤を繰り返したが、病と回復の繰り返しになった。

痔の次になったのは痛風であったが、この時もしばらくは飲めなかった。

次の糖尿病は教育入院中だけで無く。退院後もしばらくは飲まなかった。

次に入院したのは脱腸だったが、入院中だけ飲まなかった。

一方、タバコは大学院時代はチェーンスモーカーで缶ピースが好きだったが、金が無いので普段は新生(SHINNSEI)を吸っていた。

それが子どもの誕生を機会に、何とか時間を掛けて辞めて、今では吸おうとは思わない。

私の場合は酒も持病の糖尿病に良くないし、酒を飲むとどうしても食事量が多くなって肥満になって健康を害している。

ただ、大きく違うのは、タバコと違って家族には直接迷惑をかけることはないのである。

また、一度友人の医者に勧められて禁酒をしたが、逆に自律神経失調症を患ってしまった経緯もあった。

だから、酒は私の精神状態を保つための薬とも言える。


私の父は完全にアルコール依存症であった。

休みの日は朝、昼、晩と安い焼酎を飲んで、3日で一升ほど飲んでしまっていた。

休みに子どもとドライブなどに行く時は、カップ酒などを持ち込んで後部座席で飲んでいた。

実は祖父も酒好きで、朝から酒を飲んでいたが、コップ一杯に留めていた。

祖父は結局脳梗塞で亡くなったが、83歳まで生きて当時としては長生きだった。

父は、脳梗塞を患ってから、さすがに酒を止めたが77歳で亡くなった。

亡くなるまで、子供らが集まって飲むたびに、「飲むな 飲むな」と言い続けていた。

その私の兄弟でも難病の持病を抱えている次男は殆ど飲めないし、痛風の四男はビールが禁じられている。

長男の私と三男が相変わらず、何でも多く飲んでいるのである。


今後、我々兄弟がどれだけ長生きできるかで、酒の評価も分かるだろう。

父の兄弟は父以外は普通に酒を嗜んでおり、酒での差は分からなくて、大企業の勤め人だった三男の父と五男が早く死に、自営業だった次男や雇われ店長だった四男は長命だ。

私の解釈では、大きい組織の方がストレスが多くて、自分の健康管理を優先できないのだろうと思う。

私も、県立学校の教職員として同じような立場にあった。

一番健康を害した次男の弟は、初任は一流企業の丸の内本社勤めだった。

ストレスから逃れるために早期退職した自分が、酒と関連のある十二指腸潰瘍を再発させるのも皮肉だ。

もう酒に頼らなくてもストレスはさほど無いはずなのに、以前からの飲み方が止められていない。

学生時代のように、飲酒以外の楽しみをもう一度見つけて、酒との関わりを変えていこうと思う。

実は昨日からギターの弾き語りの練習をしているが、もっとギターの腕を上げて再び舞台に立ったりYoutubeにアップしたいと思っている。







2024年11月23日土曜日

忘れじの渚の想い出

私が中学生の時に初めてシングルレコードを買ったのは、ミッシェル・ポルナレフの忘れじのグローリア」だった。

英語もままならないのに、フランス語など分かりもしないどころが、文字をたどって発音することもできなかった。

それでも音を耳コピーして、たどたどしくまねて歌っていた。

彼の曲は日本では「愛の休日」が一番有名だと思うが、どの曲も日本人の情感に合って惹きつけられたように思う。

私はその後、ポルナレフの日本公演のライブ盤などを買って何度も何度も聴き続けていた。

そして「愛の願い(Love Me Please Love Me)」などを、一部だけよく口ずさむことが多かった。


赤穂には大好きな海岸が何カ所か有るが、やはり一番好きなのは唐船ビーチだ。

いまでこそ、ビーチと言われているが、子どもの頃は塩田の先にある堤防の向こうの砂浜でしかなかった。

小学生の頃から潮干狩りや魚釣り、海水浴によく友達と一緒に行った。

年頃になってからは、友人と夜にたき火をして騒いだり、彼女とデートするのにも使った。

この唐船の海岸だけでなく、千種川の河口から続く東側の河原の方が、私には青春を刻んだ場所であった。

この近くの高校に勤めるようになって、ここに来る機会も多くなった。

校内マラソン大会には、唐船山のすぐそばで立ち番もしたりした。


毎日のようにこの砂浜に通ったのは、近くの高校の定時制に勤め始めた時だった。

定時制の勤務時間は昼過ぎからなので、家で昼食をした後で運動がてらで唐船に来て歩いてから職場に行った。

たった1年定時制の勤務をして早期退職した数年後に、同級生の校長に頼まれて、再び定時制の非常勤講師をすることになった。

そのときは、授業前の夕方にまず唐船を散歩した。

必ずその時にスマホで聴いたのは、ミッシェル・ポルナレフの渚の想い出(Tous les bateaux, tous les oiseaux)」である。


きみにあげよう

海とカモメを
そして金の果実
宝の島
星のうえの
大きな舞踏会を
泣かないで、僕の恋人(一部ネットから引用)


これは海にちなんだ曲だが、ラース家の舞踏会(Le Bal des Laze)」や哀しみの終わる時(Ça n'arrive qu'aux autres)」などをYouTubeで聴きながら歩いた。

そして、海浜公園に入って中に小高い芝山があって、そこから海と島を眺めながら、時に仰向けになったりして聴いていた。

ポルナレフの甘くて切ない曲が、目の前の景色とすごく合っていた。


先日は久しぶりに通院するのに時間ができたので、寄ってみた。

夕日に染まった海岸を昔のようにポルナレフを聴きながら歩いた。

しかし、かつての姿を失っていた。

温暖化の影響か、昔海に出ていたコンクリートの波消しは波を被り、昔はたくさんいたカモメも見当たらない。

そして、何よりも千種川の河口の河原が浸水している。

唐船から伸びる1km程の防波堤は、江戸時代に造られ300年以上の歴史をもつ。

塩田のために築かれた防波堤は海面上昇のために役立つことになっている。

私にとっては忘れじの渚である。

家内にはできればここに散骨して欲しいと言っている。

5年程前の風景、向こうの大きな島は小豆島、小さいのは取揚島





2024年11月21日木曜日

残った傷にも 血が滲む

 「また君に恋してる」は、私にとって身につまされる、思い入れの強い曲である。

作詞は松井五郎氏だが、私はどちらかというと安全地帯の名曲との関連で名前をおぼえていた。

この曲の次の歌詞


  若かっただけで 許された罪

  残った傷にも 陽が滲む


この「罪」に聴く方は、いろいろの自分の過ちや後悔を重ねるだろう。

私は大学院時代に自分の小ささから招いた生活の破綻を重ねる。

当然、心の傷は残ったままだが、本当に痛みを伴う「傷」も残っている。

それは、十二指腸潰瘍である。

(この病気が発症した経緯やその後については以前の「十二指腸潰瘍」に詳しく書いた)

今回は、その殆ど忘れかけていたし、もう無縁だと思っていたこの病気が再発してしまった。

完全退職で仕事からのストレスも解放されたはずだし、いまは農繁期も過ぎて比較的ゆっくりと過ごしている。


実はそのゆっくりしすぎた暮らしが原因だったようだ。

つまり、去年までは週に4日は非常勤講師をして、教壇に立つ仕事があった。

だから、季節に関係なく立ち仕事があったのだ。

ところが、それをやっていない今の季節は、立ち仕事が殆ど無くなってしまったのだ。

毎日の犬との1時間余りの散歩は当然続けているのだが、あとは殆ど読書や書き物をしている。

要するに、机に座っている時間が非常に増えてしまった。

立ってPCが使える器具も購入したのだが、あまり使っていなかった。

週に2回程度の水泳も欠かさずしたが、それでは足りなかったようだ。


ついに医者に診て貰うことにして、近くの内科を受診した。

その時に聞かれたのは、便の色だった。

私は黒っぽい便が出ていることを告げると、出血の可能性があることを言われた、。

空腹時に痛くなることから、十二指腸潰瘍だろうと言うとその通りだと言われた。

本来なら大きい病院で胃カメラを飲むところだが、貧血と炎症の血液検査をして悪く無かったので、当面は薬を飲んで様子見となった。

私の残った傷に、胃酸などによって血が滲んでいたようだ。

だから、粘膜を守る薬と胃酸を抑える薬を出して貰った。

来週はピロリ菌の検査も行うことになった。

帰宅してネットで調べるとピロリ菌が原因となることも書いてあった。


大学院時代は、修論の提出もあったし、お金が無かったので、医者に言われたように入院はせずに、修論提出後は自力で治した。

それはジョギングだった。

近くの恩田川の堤防道路を無我夢中で走った。

最初は、すぐに息の切れる状態だったのだが、長津田のアパートから横浜線の十日市場駅まで行って帰るくらいになった。

体力がつくと共に、病気も回復していった。

今回もその経験を活かして、運動で回復させることに決めた。

ジョギングはもう無理なので、水泳の練習メニューの内容を軽くして回数を増やすことにして実行している。


それにしても、松井五郎氏は「また君に恋してる」で、「残った傷にも が滲む」と「陽」を用いたのだろう。

普通は「陽」を長い年月と考えて、長年寄り添った夫婦と考えるべきなのだろう。

そうすると、この曲を夫婦とした場合に、夫婦の背負った罪と傷というなら駆け落ち夫婦や不倫に絡んだ結婚、略奪婚のように考えられる。

松井五郎氏はそういう辛い思いをしても、ずっと愛を育んでいる夫婦を描きたかったのだろうとは思う。

そうなるとずっと夫婦のままでいられなかった自分には酷な歌になってしまう。

私はどうしても自分に都合良く解釈したいので、別れた妻や恋人を思い出して「また恋してる」と無理矢理に解釈した方が自分でも歌いやすい。

だから、本当は癒やされることのない「残った傷に血が滲む」としたいのだが、そうすると別れた人への思いが当てつけがましくなってしまう。

激しく愛し合ったが故に背負った傷を、年月がいやしてくれていると言った方が気持ちを軽くしてくれるだろう。

現実は、私のように昔背負った傷から血が滲んでしまうこともある。

若かった頃は心の傷も身体の傷も忘れてしまいたいものだったのに、年月が懐かしさに換えて架空の蘇った恋愛を夢見る。

まだその時の「残った傷にも が滲む」けれど「まだ 君に恋してる」という自虐的な替え歌にして歌って良いかもしれない。








2024年11月18日月曜日

クイーン(地獄に道づれ)からブルーハーツ(Train-Train)へ

 クイーンの「地獄に道づれ」(Another One Bites the Dust)は、よくラジオなんかで流れているが、英語だから平気で聴いていられる。

銃を乱射して殺し合う世界が歌われていて、日本語に直して歌うにはかなり抵抗があるだろう。

そういえば、ポールマッカートニーの「死ぬのは奴らだ」(Live and let die)も、直訳すれば「くたばらして生きろ」ということだろう。

これも日本語で直して歌うには抵抗があるが、クイーンのように生々しさはない。

日本のロックで銃を撃ちまくると歌ったのは、The Blue Hearts がTRAIN-TRAINでだが、ここではあくまで「見えない銃」なのである。

クイーンのように生々しい銃は出てこない。

1980年にリリースされたシングル「地獄へ道づれ」は、全世界で700万枚以上売り上げ、アメリカの『キャッシュボックス』誌の年間チャートでは1位に輝いたそうだ


アメリカ人の心をしっかりつかんだというわけだが、日本ではタイトルのきわどい響きと曲のリズムが、若者を中心に惹きつけたのだと思う。

歌詞の内容は、ライフル銃を使った西部劇のような世界ではなくて、マシンガンを使った乱射事件の世界だ。

アメリカの銃乱射事件を引き起こした殺人鬼の頭の中で、この曲が流れていたようなイメージでさえある。

私は歌詞そのものよりも日本語タイトルの「地獄へ道づれ」が、これからのトランプが率いるアメリカを表現しているように思える。

今読みかけの本の『「人新世」時代の文化人類学の挑戦―よみがえる対話の力』*1の中で、森田敦郎氏は次のように語っている。


 地球システムの今の状態は、一九五〇年からの急激な経済成長、いわゆる「グレート・アクセラレーション」つまり「大加速」によって形作られました。その結果、大気中の二酸化炭素濃度は、産業革命前の二五〇ppmから急上昇し、現在では四〇〇ppmを超えています。この水準を超えるのは二〇〇万年ぶりとされており、かつてこの水準だった時代は鮮新世の中期以前と言われています。


ということは、たった70年ほどで、200万年の環境変化に地球上の全生物は適応せねばならなくなったということである。

この恐ろしい現実の中で、トランプはかつて大統領の時にパリ協定を離脱し、今回も離脱することが予想されている・

石油を「掘って 掘って 掘りまくれ」とまくし立てるトランプは、人類だけでなく多くの生き物を地獄に道連れしているかのようだ。

かつて、日本も戦国時代は動物よりも人を簡単に殺してしまい、自然破壊も進んでいたという。

その日本が狩猟用以外の銃を封印して自然も回復させていったいっぽうで、欧米は市民革命と世界侵略でグローバル・ネットワークの近代を築いていった。

それは、地獄に道づれの始まりだったのだろう。

日本も関ヶ原以来の体制を維持した薩長を中心に「銃を撃ちまくって」日本を地獄への道づれにしていった。

そして、為政者のみならず学者や文学・芸術家もこの甘美で魅力ある近代の「地獄への道づれ」の先頭に立って、教師も追随していった。


今の時代は、マシンガンも核兵器も地獄行きには必要ない。

今の生活を続けていくだけで良い。

むしろ、The Blue Hearts がTRAIN-TRAINで歌っているように

「見えない自由がほしくて(=限りない欲望) 見えない銃(=CO2)を打ちまくっている」のが我々なのだろう。

栄光に向かって走っているはずの列車は、地獄への道づれ列車だったというわけかな?

下の表は*1の別の章からの抜萃ですが、これが現実です。




2024年11月15日金曜日

三鷹といえば

再放送の「孤独のグルメ」を家内はビデオに撮っておいてよく見ている。

家内は自分ではあまりあれこれ食べないのに、こういう食に関する番組をよく見るが、自分では食べられないけど、食べた気持ちなれるので良いそうだ。

私は見ていると腹が空いてくるので、夜中にはなるべく見ないようにしている。

この番組は主人公の五郎が出張で地方や海外にも行くけれど、中心は都内やその近郊だ。

私は学生時代のバイトの警備員や家庭教師、塾講師の関係などで東京の色んな所を経験している。

当然住んでいたJR中野駅界隈や、西武新宿線の新井薬師駅近辺、大学のある東急東横線の都立大学駅付近などはなじみの場所だった。

もう40年も経つのだから、ずいぶん街の様子も変わっているが、雰囲気が残っているところも結構あって懐かしく思う。

そういえば中野の象徴的なビルの、中野サンプラザが壊されてしまったというが、私はずっと駅を利用する時に見ただけで、入ったことは無かった。

あれが無くなると、私の知っている中野ではなくなるなと感慨ひとしおである。


先日、ふと家内が見ていた「孤独のグルメ」の画面の電信柱に「上連雀」という地名が出てきた。

上連雀と言えば三鷹であるが、私は三鷹で3ヶ月ほどとある高校の宿直のバイトをしていた。

大学院に入学して、東京の中野の安アパートに下宿していた当時に、すぐに必要だったのがアルバイトだった。

短期間の中野郵便局のバイトは終わってしまい、次に応募したのは警備員のバイトだった。

夜警の宿直は勉強しながらできると思ったからである。

中野から三鷹まで中央線で通ったが、夕方に行って朝戻ってくるのを週に3回ほどしていた。


最初、先輩の警備員にやり方を教わるのだが、その年配の警備員の方は広島出身の人で、土木工事の飯場も経験した人だった。

その飯場でのスコップを用いた生々しい暴力事件を聞かされて、法律や警察とは無縁の世界があることを知って驚かされた。

社員としての警備員とは別に私たちのようなアルバイトが仲間にけっこういて、司法試験にチャレンジしている人や、極真空手の格闘家などもいた。

格闘家は芸能人のボディーガードもたまにやっているようだった。

宿直以外にたまに交通整理の応援を頼まれて、そういう人と話す機会もあった。

新宿のデパートの駐車場誘導係の仕事では、こちらの指示を無視する高級車に乗った奥様の存在に驚いたりもした。


高校の宿直の仕事では、生徒とは殆ど関わることが無くて、たまに教員と関わることがあった。

そんな中で、私はまのがれたのだが、酔って迫ってきた教員に髪をひっぱらた社員の警備員もいて、気をつけるように言われた。

その教員は、東大出で奥様が大学教師と言うことで、コンプレックスのはけ口が、酔った時の乱暴だったり、性癖に問題をもっているようだった。

当時は学校でも飲む機会があったようで、一度だけその人が酔って絡んできたが、他の年配の先生になだめて連れて行って貰った。

社員の警備員は反撃しなかったらしいが、私なら反撃しかねなかったので助かった。


宿直の仕事では、夜中の見回りが気持ち良いものではなかった。

チェックする場所があって、そこで携帯型のタイムカードのような円形の紙に、そこに置いてあるキーで打刻する。

骸骨の模型の置いてある薬品の匂い漂う理科準備室や、道路の向こうにある体育館の教官室に行くのも気持ち悪かった。

私は剣道の経験があったので、万一に備えて警棒は携帯していたが、私は人よりも霊的なものを恐れていた。

祖母がそういう話を良くしていたし、文化人類学はそれを否定する学問ではなかったからだ。

この宿直の経験は後に寮を備えた兵庫県立大付属高校の宿直では役に立たなかった。

どちらかというと、回数こそ少ないが翌日にも勤務のある付属高校の寮の宿直の方がきつかった。


こういうこういう警備システムは1970年の大阪万博を機会にできあがったという。

それから50年以上経って、はたして今度はどんな新しい仕事が誕生するだろうか。

警備は無人の機械警備になっていったが、どんどん無人化していく方向が示されるのかもしれない。

無人化は人手不足の省力化で良いのかもしれないが、どんどん無機質な世界が広がっていくのだろうと思える。

とっくに妖怪は漫画の世界になったが、アニメやSFの世界では霊的な世界が生き生きと描かれ続けている。

人類のもつ自然界との繋がりが形を変えて、まだ残っているのだろうと思う。

むしろ、180度転換して人間世界を超えたマルチピーシーズの世界を広める仕事が誕生すればと思う。


奇しくも三鷹は三鷹事件で有名で、当時、三鷹でバイトしていると言ったら、物騒な街と思っていた母親は心配していた。

家内も三鷹のことは、三鷹事件でしか知らなかった。

私はその後、三鷹には大学院の研究室での調べ物があって国際基督教大学に行くことが何度かあった。

その大学の敷地は世界に誇った中島飛行機の研究所があったところで、そこにアメリカ型の大学ができあがった。

三鷹事件といい、大学といい、アメリカ支配の最先端の場所だったと気づかされる。

中島飛行機もその後復活してSUBARUと日産で生き残ったが、日産の方は大変な状況になっているようだ。

アメリカ大統領がトランプに代わって、依然とその従属下にある日本も変わらざるをえないよるだろう。

Expo70の時の警備会社創設のように、朝鮮半島や台湾で戦争が起こって民間軍事会社の創設にならねば良いが・・・・





2024年11月12日火曜日

犬との生成コミュニケーション

 我が家の飼い犬のクロは、元来猟犬なので庭で飼っているが、吠えると近所迷惑になるから、無駄吠えをさせないように厳しくしつけていた。

本来猟犬は主人に獲物の居場所を告げるために、よく通る吠え方が求められているのだから、クロには酷なことだ。

一番効果があったのは「水」で、夜中でも無駄吠えをしている時には上のベランダから、掛けることもしばしばあった。

また、水鉄砲を用意していて、無駄吠えをすると掛けることも効果があった。

そうする内に、無駄吠えをすると怒られるので、来客の時以外はほとんど吠えなくなった。

だから、吠えると来客だと思って、玄関に見に行くことが夫婦とも習慣になった。

しかし、今回はそれを逆手に取られて、来客でも無いのに吠えて、二階にいる私を呼び寄せた。

要するに来客があるふりして、私を呼び寄せて散歩や餌をねだろうとしたのだ。

うちのクロはこういう嘘もつくことがあって、餌をもらって食べているのに、帰宅した家内に餌を貰っていないような鳴き声をしてもらったりした。

だから、嘘をつく犬として、鳴き声には疑ってかかってもいる。


私は、元猟犬に「お手 おかわり」をさせるのもおかしいと思って、そういう類いのしつけはしていない。

むしろ、捨て犬から野良犬になったので、普通の飼い犬に戻すのが大変だった。

猟犬を散歩している人を見ると、猟犬は匂いを嗅ぎ回ってまともには歩いていない。

そのような犬を私の横について歩けるまでに、何年もかかってしつけたが、それでも匂いを嗅ぐ癖は残っているし、突発的にネコなどの獲物に飛びかかろうとする。

そんな、野性に近い犬だが、何を求めているかは仕草や、目で分かる。

家内は一方的にクロに話しかけているが、私は自分の意思は目で伝える。

怒っている時は、じっと黙って怒った表情で目でにらむ。

クロも都合の悪い時には目をそらすが、一番目をそらすのは糞をしていて恥ずかしい時だ。

散歩に行きたい時は、吠えると叱られるので、出かける方向をむいて行こうと誘う。

そういうようなボディーランゲージも身につけてるのである。


その肝心の目なのだが、虹彩の色が薄いので瞳の黒が強調されて、鋭い目つきに見える。

愛玩犬などは虹彩の色が濃くて、愛くるしい目に見えるのだが、ハスキー犬ほどではないにしろ、くっきりと鋭い瞳が強調される。

これは狼などと同じようにアイコンタクトの名残でもあるようで、人間の場合は白眼もしっかり分かって狼や犬と共通するコミュニケーションがなされている。

これは本来集団で狩猟をすることの共通性によるものだという。

犬も鳴き声である程度の意思を伝えていることは分かるが、何よりも目が雄弁に語っており、目を見ればだいたいの気持ちが分かる。

それに加えて、尻尾がうれしさや興味を持っていることの表現として分かるし、犬の方も人の発する言葉もある程度は理解できているようだ。

ただ、時々散歩している途中で、私が不意に歌い出すと怪訝そうな目つきで振り向いたりするが、さすがに歌の意味は分かるはずは無い。

そして、クロも夕方にサイレンが鳴ったり、救急車の音がすると調子外れの音程で遠吠えによる合唱が始まるが、これも私の歌と同じだろう。

これらは文化人類学者久保明教氏の言葉を借りれば、「結びつくことで以前とは異なる存在へと変化」としての「生成」と言うべきかもしれない。

私とクロとの間のコミュニケーションは、音声だけに頼らない、種を超えたれっきとした生成コミュニケーションなのである。





2024年11月9日土曜日

山すそのたまにカニ食う現代人

『南の島のよくカニ食う旧石器人』 藤田祐樹 2019 岩波書店には沖縄のサキタリ洞で旧石器人が食べたと思われるカニが多く見つかったことが面白く書いてある。

時々、カニの産卵でうじゃうじゃカニが道路を歩いている映像がテレビで放映されたりするが、その頃の沖縄でもそんな状況だったのかと思ったりする。

日本古来や奄美などでは、カニを使った幼児の発育祈願があって、子どもの健やかな生長をカニにあやかることがなされてきた。

奄美の与路ではカニを神様の使いという信仰があることも古老から聞かれた。

古来から人の生活や信仰と密接に関わっていたのがカニだった。


私の子どもの頃は、カニを捕るのが楽しみで、バケツと火ばさみをもって、近所の溝でカニ捕りをした。

小さなカニから大きなカニまで、捕ることだけが楽しみで、夕方には母親に溝に返させられた。

そのころも、一番捕って自慢できていたのが、千種川の川辺でとれる自分たちは「ムラサキガニ」と呼んでいた爪が紫色をした大きなカニだった。

川辺に行くのは小さな頃は親から止められていたので、夏休みなどは暑い中をひとり近所を歩き回ったのを思い出す。

食べるのは以前紹介したイシガニで、鍋いっぱいに湯がかれたのをよく食べたが、ズワイガニなどの大きなカニを食べ出したのは社会人になってからであった。

今でも、私は小さなイシガニの方が味が濃くておいしいと思っている。


赤穂に住んでいた時は、身近にカニがいて当たり前と思っていたのだが、上郡に住み始めて滅多に見ることがなくなった。

たまに、川辺で沢ガニを見かけたが、近所の溝には全くカニは見かけなかった。

ところが、実はモクズガニがいたはずなのだが、このカニは普段は穴に棲息するし、関心が無かったので、気がつかなかっただけだったようだ。

何年か前に息子が知り合いから、いっぱいモクズガニを貰ってきたのをおいしく頂いたことはあったが、買ったり捕ったりしようとは思わなかった。

私は海近くの育ちなので、淡水の魚はドジョウ以外は滅多に食べたこともは無かったし、家内が鮎を含む淡水の魚が嫌いなので、食卓には上らなかった。

だから、淡水のモクズガニにも関心が無かったのだが、自分の家の前の用水路にかなり大きなモクズガニを見つけたので、衝動に駆られてそれを捕まえた。


ネットで食べ方が載っており、大きな桶にいれて1週間ほど泥抜きをした。

そして、今日(11/9)はいよいよいただくことにして、まず竹串で絞めたのだが、動かなくなるまでけっこう時間がかかった。

その後の毛の生えている爪を綺麗にするのが大変で、包丁で削いだりしたが少し残ったりした。

蒸すのが一番おいしいと書いてあったが、胃腸も弱っているので茹でることにした。

そして、夕方にはありがたく頂いて、久しぶりにおいしいカニを味わった。

淡水なので生臭くないかと心配したが、海のカニと同じ香りと味で、ズワイガニなどより濃厚だった。

イシガニは足は細いので身が入っていないが、今回のモクズガニはかなり大きかったのでハサミだけでなく、足にも身が入っていた。

雄だったので、卵はなかったが、みそは格別おいしかった。


ずっと、1週間ほど泥抜きのために、水を替えたりたまに餌を与えてきたので、情も移っていたのだが、自然の恵みに感謝して頂いた。

モクズガニを食べると身体が温まるということも聞いたが、生きているところを知っているので、その命をささえた力を貰った気持ちになった。

釣った魚は水が切れると直ぐに死んでしまうが、カニは少しの水でしっかり生き続けるので、新鮮さを味わうことができるのだと思う。

その生命力に古来からカニを大切な食料と同時に、縁起の良い物として発育祈願に使ったのだろう。

そもそも、カニはサワガニ以外は海との関わりを必ず持っているということで、このモクズガニも海からの来訪者なのである。

今朝も、散歩していたらモクズガニの甲羅だけが川のそばの道に落ちており、おそらく野生の動物に食べられたのだと思う。

人間だけで無く、野生の動物の大切な食料ともなっていることが分かる。

旧石器の時代から日本列島、琉球列島ではこういうカニの恩恵を受け続けてきたのだろう。

この地域に住んでいたであろう古代人との繋がりをもモクズガニは感じさせてくれた。








2024年11月6日水曜日

子連れより犬連れ

 11月3日に加西にあるフラワーセンターに家内と行ってきた。

この晴れの特異日の日には、この施設や、丹波篠山に出かけることが多い。

昨日までの台風崩れの大雨に打って変わって、非常に良い天気で、各地でイベントが開かれて賑やかそうである。

まずは腹ごしらえと、加西の大きなモールに入ったのだが、そのキッチンコーナーで以前利用したこともある店が閉店している。

あれだけ流行っていたのにと思いながら、真向かいの店に入って今年初めての牡蠣フライの入ったセットを食べた。

早めに来たので、すぐに席に着けたが、店を出る頃には順番待ちの人でいっぱいだった。

食べられる店舗が減ったので、待つ人も増えたようだ。

モールも人が多かったので、フラワーセンターも多いだろうと、覚悟して駐車場に入ったが非常にすいている。

その理由は、入ってしばらくして分かった。


いつものようい、温室を見て回ってから、池のそばの遊歩道を歩いて、バラ園の方に向かった。

バラが殆ど咲いていない、それどころか貧相な枝振りなのだ。

これでは見に来る人はいないなと納得した。

いつもの年ならバラが無くても、紅葉の季節でそれを楽しめるが、それもまだ早い。

唯一綺麗に咲いているのは、ダリアであった。

噴水の周りの庭園にダリアが見事に咲いている。

この噴水の周りはよく子どもたちが楽しそうに遊んでいる風景が見られていた。

ところが、こどもがあまりいない。

私たちも子どもが小さい頃に連れてきていたのだが、子連れが少ないのだ。

それに代わって多いのは、ペットの犬を連れた夫婦や女性である。

バギーを押している人を見かけるが、そのバギーは犬用であったりする。


当然、犬の殆どが室内犬で、洋犬が多くて柴犬は少なくて、大型犬は殆ど見られなかった。

家内と我が家のクロを連れてきたらという話をしたが、そもそも身体を洗うことができないので、軽トラ以外では連れてこれない。

そしてたとえ軽トラで連れてきたとしても、他の犬を見たら興奮状態になって、抑えるのが大変なのだ。

クロはれっきとしたハウンド(猟犬)だから、こういう所に来ること自体が場違いなのだ。

この歳になると、車に一緒に連れて行けるような犬が欲しいと思う。

本来なら孫を連れて楽しませてあげるべき歳なのだが、孫がいないので愛犬と一緒に楽しみたい。


考えてみれば、私たち夫婦は子どもが直ぐにできなかったので、犬を飼うことから始まった。

当時は犬の価格も安かったので購入して、シェルティーのメスのモモを庭で飼っていた。

そのモモが12歳で死んだ後は、近所の紀州犬がかかった雑種を子どもが貰ってきた。

娘がトラと名付けたその雄犬は非常に娘になついていたが、10歳の頃に突然死んでしまった。

その後はしばらくいなかったのは、近所にはもう雑種の雌犬を飼っていてくれる人がいなくて高い犬を購入しなくてはならなくなったからだ。

今でもそうだが、高い費用を犬に掛ける余裕は無い。

そこで、ネットで調べて保護犬を譲り受けたのである。

今までで一番手のかかった犬となったが、孫のいない夫婦にとっては欠かせない存在となっている。

たぶん、これからも私たちのような夫婦には犬などのペットが必要に思えている。

子はかすがいと言うが、ペットも大切なかすがいとなっていると思う。


私の父母は室内犬を飼っていて、非常に可愛がっていたが亡くなってしまった。

その後、父も亡くなり、一人暮らしになった母は猫を可愛がるようになった。

実は室内犬も猫も弟に押しつけられたものだったが、親にとってはありがたい贈り物になった。

その猫も死んでしまった後で、猫を欲しがったが、世話ができるような状態では無かった。

きちんと、掃除や糞の始末をこまめにしていなかったので、ノミをわかせてしまい、来客者に迷惑を掛けていた。

それで、声の出るぬいぐるみの犬を自分で購入して、話しかけていた。

ペットより早く飼い主が死んでしまうと、残された人がペット好きではないと大変なようだ。

これだけ、人の生活に密着してかけがえのない存在になっているのだから、行き場を失っているペットの対策も重要に思う。






2024年11月3日日曜日

借地百姓の躍如

 我が家の近隣の家は農業調整池なので原則は農家で、普通は農地を所有しているが全く作物を作っていない家が増えている。

しかし、うちのように非農家が何軒か紛れ込んでいるのだが、我が家はちゃんと農業もしている。

農地は水田に関しては小作料もはいるので売る必要が無く地価も高くて簡単に手に入らないので、近所の農家から借りている。

その家は、跡継ぎが家を離れているので、私が管理することで無料で借りているのである。

いわば昔で言うところの水呑百姓であるが、小作料も税金も払っていない。

ただ、農地だけではなく、周りの道の雑草も刈り取らねばならなくて、手間と言えばそこそこ手間でもある。

私は引っ越してくる前の赤穂にいる時から、有機農業をしていて、草も生い茂ることが多かった。

だから、こちらで同じことをしていたら、完全に素人と見なされていた。

私自身も経験が乏しく、引っ越してきた当初はタマネギでさえまともに作れていなかった。


今年も、トマトもナスビも失敗し、キュウリも余りとれなかった。

近隣では畑は主に女の仕事で、男は手伝う程度なのだが、専業農家の畑は奥さんが立派に作物を作っておられる。

草が多くて、作物も実っていない私が作っている畑は、青々とした大豆や落花生、サツマイモ、オクラ、高黍などしか見る物がない。

落花生を知らない村の人からは「草だらけやん」と嫌みを言われる始末だった。

ところが、隣の家のNさんでは、我が家以上に不作で、大豆もサツマイモもできていないという。

旦那さんが調子が悪くて、奥さんに任せっぱなしだったせいもあるが、見た目には草もなく綺麗に育っている畑に見えていた。


この家からは、毎年のようにトマトの苗などを頂いていた。

ところが、何でも自分で作っておられるので、返す物がない。

田舎はもらったら必ず返すのが常識である。

農家には返す作物が難しいので、サツマイモと落花生を返礼用に作っている。

柿を植えてないので、近所のOさんから柿をバケツいっぱいもらうので、それに対するお礼はサツマイモでした。

隣のNさんは普段はサツマイモもしっかり作っているので、去年は落花生も不作で返礼できる物がなくて返せなかった。

それで、Nさんも今年はトマトの苗をくれることはなかった。

Nさんから不作を聞いて1年越しにやっとトマトの苗のお返しが、枝豆によってすることができた。

農家に作物をあげるだけに上達したことが嬉しかった。


他にも、近所の非農家の奥さんから、帰郷したお土産だと長野のお焼きを頂いた。

こういう場合はこちらも旅行した時の土産を返すのが普通だが、我が家は遠くに旅行などすることがない。

そこで、その奥さんにもサツマイモをあげたらたいそう喜んでくれた。

うちのサツマイモはシルクスイートなので、甘くておいしいはずだ。

普通のスーパーではあまり売っていないので、違いが分かってくれたと思う。

作物を返礼に使う時には、もらった物の価格が気になるが、そこは適当にするしかない。

家の木になっている柿と、店で売っている柿は品種も違うし、価格は分からない。

野菜の苗なども、品種もいい加減なのだ。

要は、とにかく気持ちを込めて返すのが大切で、貰いぱなしにはできないので、もしそういうやりとりをしたくない人であれば、もらうのを丁重に断る。

特に専業農家には返す物がないので、丁重に断ってきた。


田舎ではお金がなくても、こういう物々交換があるので、色んな物がかつてはやりとりされていた。

以前は、釣り好きの人がいたので、魚を貰ったりしていた。

トンドなどの折に、アワビや鹿肉、牡蠣などを振る舞う人もいて、酒を酌み交わしながらトンドの火で焼いておいしく頂いたりした。

そもそも、自宅で葬式をする人は、手伝いに来てくれた近所の人に飲食を振る舞うのが返礼のようなものだった。

最近はトンドも簡略化していき、葬式も家族葬で近所の人を頼まなくなったので、こういうやりとりはめっきり減った。

そんな中でも、自分が作った物を交換するというのが、田舎に住むことの意味だと思っている。

人によってはJAの直売所に出荷することを楽しみにしているが、出荷の手間やもしものクレームに対応できそうにないので考えていない。

もっと、作るのが上手になれば、余った物をどんどん贈与・交換できるのだが、まだまだそこまでは至ってはいない。

農家にも作物をあげられるようになっただけ、一歩前進はできた気がするが・・・・