母が死んでから1年半を過ぎようとしている。
家の処分について以前から相談していた不動産屋から連絡がいきなりあった。
担当者が代わって、もう一度検討したいという。
見て貰った結果、家屋敷を綺麗に片付けてから、中古で売り出してはどうかと言うことになった。
ずっと、更地にしなければ売れないと思っていたのだが、自分たちの育った家屋敷が残る方が嬉しい。
更地で売却しても採算面でかなり厳しいことと、人口減で売却の可能性も低いと思っていたので、赤字さえならなかったら良いと思って、中古で売ることにした。
そこからが大変で、放っていた片付けをしなくてはならない。
母の生活感が残っている居間は、今までどうしても手がつけられなかった。
生きていた頃の記憶が蘇って、抱き続けていた母への申し訳なさの気持ちが込み上がってきたからだ。
ただ、1年半も過ぎるとその生々しい記憶も薄らいで、ようやく片付けをすることが、それほど苦痛では無くなっていた。
古物商にも来て貰って食器類を処分したが、まだ多くの遺品が残されている。
不動産屋は処理業者を紹介すると言ってくれたが、概算費用を聞くと50万円ほどかかりそうなので、できる限り自分ですることにした。
私は軽トラでずっと生活しているので、それを活用すれば問題ないのだが、大きな荷物運びには二人は最低必要だ。
今後は息子の手も借りねばならなくなった。
家の処分のことで思い当たるのは、アイヌの人のことだ。
アイヌの人は大人が亡くなると、その人が住んでいた家を焼く習慣が古くはあった。
理由はその人があの世で住む場所として必要だからということだった。
さすがにかつてのアイヌのような茅葺きとは違う現代の家は焼くことができないが、衣服や布団類を焼く理由に使えると思った。
本当は死の穢れ意識とか、想い出を消し去るためとしても、あの世で使ってくれると思った方が気が楽になる。
極楽浄土とかあの世は、死んだ人のためにあると考えがちだが、本当は残された家族やこれから死に向かう人にとってありがたい信仰で有ると思う。
信仰を失っているとしても他界をイメージする方が、現代人としても心の救いになるだろう。
かつて、家を代々継いでいける時代は、あの世の先祖と会うためのお墓や、祀るための仏壇などがあった。
年中行事にはあの世から戻ってくる、ご先祖様をお迎えする意識があった。
現代は子どもに継がせるる仕事も、子どもと一緒に住める家もなくて、かつての遺産を残せない未開人と変わらない状態になってきている人が多い。
未開人の多くは家は殆ど仲間と協力し合って建てていて、壊したり建て替えるのも簡単だった。
そして、亡くなった人は葬られた後、顧みられることは殆ど無い。
現代では家屋においては子育てには向かないだろうから、子育て期間中だけの家と独身時代や老後の家とを分けて考える方が良いだろう。
子育てのための家は、借家か売ることを前提に建てておいて、子育てが済んだら子どもに負担とならない簡単に処分できる家屋敷を探せばいい。
墓や仏壇も作ってもらわずに自然葬にしてもらい、自然に戻るという他界観を持っていれば良いと思う。
今の私にとってのあの世は、かつて未開人がイメージしていた、この世の鏡としてのあの世であるから、かつての死後の扱われ方になんら拘りは無い。
ただ、父母は昔ながらの扱われ方を持ち続けていただろうから、仏壇で供養を続けている。
父母は時代の変化を分からないまま逝くことができた最後の世代だろう。
私は墓や仏壇で供養して貰わなくても良いし、年忌供養もして貰わなくて良いと思っている。
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