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2025年1月12日日曜日

心の船旅(Sailing)

 ロッドスチュアートのSailingは、大好きな曲で歌詞も難しくなかったので、高校時代に憶えてよく歌っていた。

幼い頃に船生活していた以外は、たまに旅行で金比羅さんや小豆島に行く時に船に乗る程度だった。

この歌を船旅に結びつけて歌ったのは、弟やいとこ、友達とこっそり小豆島にキャンプに行った時だった。

私は大学受験生であるにも関わらず、親には内緒でめったにない自由を味わえた。

I am sailing, stormy waters,to be near you, to be free.”とキャンプで星空をみんなと眺めながら歌った。


大学に入って奄美に村落調査をし始めて、船旅が身近になった。

初めて1980年の年末に下見で神戸から大島運輸で名瀬に向かった時は、船が小さかった上に大しけでまともに船室で立って歩けなかった。

その日は飛行機も飛べないほど荒れた天気で、年末の臨時便に乗りこんだのだった。

2等船室の乗客は横になって動かず、中には船酔いでもどす人もいて、船内は悪臭に満ちており、甘くない船旅の洗礼を受けた。

もっと、凄かったのは、古仁屋から与路島に渡るさいに乗った「せとなみ」で、うねりの底に入ると下の船室の窓から空が消えた。

海が荒れる季節の船旅は大変だったが、帰りの関西汽船は大型で、夜は展望娯楽室で仲間とジュークボックスの音楽を楽しんだ。

加計呂麻島での下見(1980)


それから、春と夏は神戸の中突堤から名瀬まで28時間の船旅が繰り返された。

2等船室は知らない人との酒盛りとなり、売店で買った黒糖焼酎を飲みながら仲良くなった。

ある時などはデッキの椅子で酒盛りをしながら一緒に歌って、里帰りの奥さんから奄美ゆかりの歌を聴かせて貰ったりした。

夏は学生の観光客が多くて、バカンス的な雰囲気だったが、夜にデッキから空を眺めると、星が雪のように降ってきそうだった。

また、夜明けに水平線から昇ってくる朝日が美しく、ちょうど大隅半島あたりの海岸風景も素晴らしかった。

屋久島やトカラ列島の島々を眺めるのも楽しかった。

仲間との長い船旅を退屈に思うことなど無かった。

調査仲間と(1981)


今は、格安航空の影響でか、奄美・沖縄を結ぶ航路は鹿児島から以外は無くなってしまった。

2008年に奄美に行った時は、行きは鹿児島からフェリーに乗ったが、帰りは飛行機で笠利から伊丹に戻った。

飛行機は便利なのだが、奄美にいた余韻が直ぐ消し去られてしまって、味気なく感じた。

因みに、名古屋からで鉄道で神戸、神戸から船で名瀬、名瀬からバスで古仁屋、古仁屋から船で与路の行程に費やす時間は、良くて3日、悪くて4日必要だった。

ただ、船の2等船室の運賃が1万円ほどで安く、食事もカップ麺などで安く済ましていた。

貧乏学生にはありがたい船旅だったのだが、今は格安航空の方が安上がりになっている。

請島・与路島に渡る船「せとなみ」(1981)


私は修学旅行の引率では、団体列車の旅が長く感じたが、グァムも、北京、北海道などの飛行機の旅はあっというまだった。

仕事での旅ゆえに旅情など無く、奄美に村落調査で行った時の船旅とは雲泥の差だった。

私が未だに奄美与路島に心を寄せ続けるのは、この素晴らしい船旅があったからだと思っている。

海外に飛行機で行くよりも時間がかかった与路島は、交通不便な島だったからこそ魅力が残された島だった。

速さと結果を求める現代にあって、のんびりと過程を味わえる価値を見直す必要があるように思う。

高額をはたいて乗らねばならないクルージングとは違った船旅が、神戸に復活してくれたらと思うのだが・・・・・・

今はただ、”Sailing”を歌いながら、記憶の船旅を楽しむしかないようだ。







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