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2025年3月28日金曜日

恋ヶ浜が恨ヶ浜に

 赤穂の鷆和には恋ヶ浜というしゃれた海岸がある。

これは通称だが、地元に人は綱崎と呼んでいたと思う。

江戸時代の頃に駆け落ちした男女の話からきているという。

私の生まれはこの浜からかなり離れた鳥撫という集落だった。

小さい頃に、盆前に親戚が集まった時に、ここで泳いだことがある。

母は、ワンピースを着たまま泳いだので驚いた。

また、父とは貝掘りに来たことがある。

小さい頃はハマグリが採れていたので、子ども達も鎌を砂地に立てて探りながら採っていたのを憶えている。


私はたまに懐かしくて、若い頃はバイクなどで出かけたことがあった。

巡回に回ってきた巡査から職務質問を受けたが、免許証の本籍地が鷆和になっていたので「失礼しました」と言って去って行った。

近年では、SUPをここでずっとやっていた。

ジェットスキーがたむろしている場所から離れたところで、のんびり海の上を漂ったり、立ち上がる練習をした。

バンド仲間のメグとSUPを楽しんだのもこの海辺だった。

工場も近くにあるし、採石場も無粋なのだが、直接車を海岸に乗り入れられるのが良かった。

何よりも、砂浜の海岸は赤穂でもそう多くなくて、唐船海岸は潮干狩りする海岸として有料化されたりしていた。

だから、唯一自由に利用できた都合良い海岸だった。


しかし、ジェットスキーなどをする人たちのマナーが悪かったようで、封鎖されてしまった。

昨日(3/28)に通院のついでに、SUPができないか確かめに行った。

海岸に通じる道はコンクリートブロックで封鎖されていた。

採石場の門からは入ることは、不法侵入になる。

もっと、東から入れるか調べたが、全部「私有地につき進入禁止」のロープが張ってあった。

そこまでして、海岸を封鎖するとは信じられなかった。

堤防が無く自然が残されていた海岸故に、ジェットスキーの愛好家を呼び込み、工業地が故にレジャー化には適していなかった。

私のふるさとの恋ヶ浜は誰も近づけないので、通称を恨ケ浜に換えることを提案したいくらいだ。




2025年3月24日月曜日

淋しい孤食ときままな個食

 家内は学童で働いていて、普段は昼食を一緒にとってから出かけていく。

ところが、長期休暇とその前後は午前中からの勤務になるので、一緒に昼食は取れない。

完全退職した昨年度も春休みや夏休み、冬休みには昼食は一人で食べるのが普通だった。

ただ、非常勤講師から解放された気分で春休みを過ごし、夏休みは昼食時間にプールに出かけて、腹を空かしていたので夢中で食べていた。

だから、淋しい孤食という感覚は無かったが、現役の頃はゆっくり食事のとれない職員室よりも、準備室の方での孤食の方が気楽で良かった。

ところが、年金暮らしも2年目になり、人との関わりも薄れているので、食事は家内との会話が大切なおかずになっていた。

初日の昨日(3/19)も、たまたま孤食で食欲がわかずにおかずは残したので、帰ってきた家内に「淋しくて食欲が無かった」とわざとぼやいてみせた。

このところ、人との関わりが薄れているのを改善しようと思っていたので、孤食を避けるための理由で街に出かけて、食べようかなと考えていたからである。


孤食で思い出すのは、一人暮らしをしていた母のことだ。

母は利用できる有料老人施設の食事が不味いからと言って、入所せずに病院から退院後は老健を経て自宅でひとり暮らしていた。

週に3回はデイサービスで昼食は食べていたが、そのほかは宅配の弁当や私や訪問ヘルパーさんが買ってきた具材で自炊していた。

私は母のため買い物する時は、昼食の弁当も買っていったが、一緒に食べて欲しそうだった。

私は色々と用事もあったし、二人で弁当を家で食べるのも気が進まなかったので、滅多に一緒に食べなかった。

結局、食生活も良くなかったのか病気を再発させてしまい、再びしばらく入院した後は有料老人施設に入ることになった。

それなら、自宅に戻らずに最初から施設に入っていれば良かったのだろうが、自分の好きな物を食べたいという食欲がそうさせたのだった。

もし、昼食だけでも毎日孤食を避けて食べる場が、あったら健康はもう少し保てたかもしれない。


家内の母も、コロナが原因で閉じこもるようになり、週に一度家内と買い物した具材を使って自炊していた。

やはり、孤食は食欲が出ないらしく、体重もどんどんと減っていった。

認知症が疑われたので、何度も介護認定を勧めたが、自分は大丈夫だと頑として受けようとしなかった。

そして、とうとう肺炎を起こしてしまい認知症も進んで、嫌がるのを無理に救急車で入院させて現在に至っている。

コロナの流行る前は外に良く出る人で、こんなことになるとは予想だにしていなかった。

孤食による栄養不足が病気や認知症を招くことを、本人が意識して気をつけなかったことが一番の原因だが、周りもそれなりの配慮ができたら良かったと思う。


私の孤食は昼だけで、しかも長くて1ヶ月程だけだ。

私は最近は滅多に昼には酒は飲まないが、以前の私だったらつい手を出しているかもしれない。

自由に食べられて、意見されることも無いから、家内が用意した物とは違う物に手が出てしまうことも確かだ。

実は大学院時代に修士論文を書いている際、昼はずっと孤食で、自分で唐辛子の良くきいたパスタを作ったりしたのが、十二指腸潰瘍の原因とも思える。

最近は「孤独のグルメ」など、孤食では無くて個食がドラマなどで人気があるが、一緒に食べる人がいないので、食事に集中させられるからだろう。

本当は、一緒に食べる人との楽しい会話が、一番良いスパイスになるはずだと思う。

そして、テレビを見ながら食事をするのは孤食を癒やしてはくれるけど、家族一緒の時は個食を促進してしまうので、これも考えものだ。

狩猟採集民や初期農耕民などは、仲間や家族とする食事をなによりも大切にしている。

我々文明人は食事の内容は豊かになったが、あり方は貧相になってしまったようだ。

鍋や焼き肉もひとりで食べるのが普通になってきている。

おひとりさまは施設に入っても、元気な内は個食を続けられるのだろうが、いずれ介護が必要となって個食ができなくなるのだが・・・・・






2025年3月21日金曜日

お爺さんはコインランドリーへ洗濯に

私は既に45年程前には、コインランドリーを利用していた。

最初は名古屋の地下鉄の池下駅の近くにあった銭湯のランドリーで、風呂に入っている間に洗濯機を回していた。

かぐや姫の「神田川」よろしく、風呂上がりに待ちぼうけで過ごしたのもそのコインランドリーだった。

乾燥機は使わず、たいがいは夜中にアパートの部屋の中に干したりしていた。

東京でも中野に住んでいた頃は、風呂屋に併設されてなかったので、休みの日にコインランドリーに出かけて洗濯をした。

その後は二層式洗濯機を買って自分で洗濯もしていたが、職に就いて洗濯機から遠のいていた。

家内が入院したりした時は、さすがに自分で洗濯したが、やり方をその時に教わり、しばらくして機械も変わると自分でやることが殆ど無くなっていた。


先日、家内の体調が悪くて、近くのコインランドリーまで付き添っていった。

自分一人で行けば良かったが、支払い操作する自信が無かった。

中に入ると、いつも散歩の時に出会う年配の男性が乾かした洗濯物をたたんでいた。

挨拶して、私がやにわにつかんで洗濯物を洗濯機に放り込むと、家内に叱られた。

「一枚ずつ入れるのよ」ともう一度やり直しを食らった。

隣にいる男性に「いつもしてないものですから」と照れながら言い訳をした。

その男性は、まだ小さな娘の衣類を中心にたたんでいて、おねしょをした時が大変だと言っていた。

私が「娘が おむつをかえてちょうだい」と、いつまでもおむつをしていたことを話すと笑われた。

幼い娘と若い奥さんのために労を惜しまない、熟年お父さんには感心しきりである。


最近はコインランドリーにやってくるのは年老いた男性が多いということで、扱い方が分からずに時々家内が教えてあげるということだ。

そして、坂の途中にあるので、自宅との往復も疲れるからかもしれないが、洗濯機の前で座って、何もせずにボーとしているという。

おそらく、奥さんに頼まれてしているのだろうが、1時間近くかかるのであれば時間潰しの方法も考えたら良いと思った。

私の東京中野のコインランドリーは近くにあったので、いったん下宿に戻っていた。

田舎では、車で行かねばならないところが多いので、ランドリーの中や車中で待っている人もいるようだ。

これから田舎では、こういう人のためにコンビニや喫茶店に併設してくれたら有りがたいと思う。

というのも、コインランドリーを使うのは雨の日が多いので、近くを散歩ができないからだ。

これからは、桃太郎話のように洗濯するのはお婆さんではなくお爺さんであり、お婆さんはカーブスで運動する時代なのだ。






2025年3月19日水曜日

モチ麦・大麦の米危機への期待

私は糖尿病なので、無精白モチ麦を買って食べていたのだが、自分の作ったモチ麦は消化が悪かったようで、十二指腸潰瘍を再発させてしまった。

どうも、自分で作ったモチ麦は肥料不足や天候で、ふすまの部分が多すぎたのが消化不良の原因のようだ。

調べてみると、やはりモチ麦は消化に悪いので、食べ過ぎないように注意が必要と書かれている。

私は運動や肉体労働をよくしている時は、胃腸も元気なので消化不良にならないことが多いが、デスクワークの生活が中心になると消化不良になってしまう。

胃腸の弱い人は、デスクワーク中心で無くても、消化不良になってしまうようだ。

家内が先日、精白したモチ麦を多めに入れたご飯を食べて、腹痛と下痢に襲われてしまった。

そもそも、家内は子どもの頃から麦飯なる物を食べた経験が無い。

私は幼いころから押し麦の入ったご飯を食べていて、学生時代も自炊のご飯に混ぜて食べたりもしていた。

幼いころからの食生活が大きく影響するようだ。


しかし、この米不足の時代には、モチ麦・大麦は大切な食料になることは間違いない。

夏場の高温障害に比べて、温暖化が進んだので麦への冷害の危険性が少ないと思う。

ただ、暖冬の影響の被害もあるようなので、絶対安心な作物とは言えないとは思う。

長期予測が困難な破綻気候のなかで、冬場と夏場で穀物を確保してそえぞれのリスクを補う必要があると思う。

米を主な収入源としていても、冬場はそれを補う収入ということで、どちらの価格も抑えられるように思う。

また、麦類は緑肥としても活用できるので肥料代の節約にもなるのが魅力でもある。


かつては二毛作が当たり前だったのが、特別な地域を除いて長い間途絶えていて、ウクライナ戦争の影響で小麦を中心に復活している。

世界の経済情勢はトランプの影響で混迷を極めつつある。

貿易戦争は農業製品にまで及び、食糧危機を招く可能性さえ出てきている。

そんな中で、我々消費者は食生活を見直して、農家を支援する必要があるように思う。

米だけに依存せず、色んな作物を工夫して食べていく事が大切だろう。

私は米・麦は機械を維持する倉庫や管理費をまかなえる資力が無いので、モチ麦はネットで安い物をこれからも購入して食べることにしている。

ご飯に混ぜて食べられない人には、製粉してうどんや小麦粉の代用としても使えるようだ。

福崎のようなモチ麦の産地では、モチ麦麺としても売り出している。

また、甘酒などとしても、使えるというので米よりも安くつく。

穀物は芋類よりもかさばらず、グラムあたりのカロリーも高く長期保存が可能な優れものである。
真剣に食の安全保障と我々庶民の生活防衛を考えるのに麦は欠かせないと思う。

このところ、関税を高くても外国の米の方が安くなって輸入が増えている、それが進めば日本の農家はお終いになるだろう。

安い米を生産できる農家にとっても、麦は必要になってくると思う。




2025年3月16日日曜日

害木・害竹のはびこる山

 このところ、フィリップ・デスコラ*1「「野生」と「馴化」」*2 読んでいて、考えさせられたことがある。

そこには

(日本の)高地に住む村人たちにとって、葉に光沢のある木や落葉性の木からなる古くからの森は、文明的〔=馴化された〕(domestique)生活のための有益な資源が得られる場所であるだけでなく、そこにいます神々によってその調和や美しさがもたらされるところであったが、それに続いた針葉樹の植林が喚起するものは、無秩序、陰鬱、無規律以外の何ものでもない(knight1996*3)。ろくに手入れもされず、野原や空地を覆いつくし、その商品価値のほとんどを失ってしまった、これらのびっしりと単調に整列する「黒々とした木々」は、もはやその植樹者たちの社会的・技術的管理の手をも免れてしまっている。山としての「ヤマ」、森としての「ヤマ」、人住まぬ場所としての「ヤマ」、これら三つの語は重なり合っている。だが、その全体が馴化されたにもかかわらず、山の人工林は心情的にも経済的にも砂漠と化し、結局は、それが取って代わったところの自然林に比べ、はるかに「未開」の状態になってしまったのである。


日本の山の害木・害竹で荒廃した姿を「砂漠」と表現して、的確に分析している。

私は活用されることも無く、花粉をまき散らして被害を人に与える木を害木と呼び、同じようにはびこって農地や家屋敷に被害を与える竹を害竹と呼ぶことにする。

かつてイノシシや鹿などは貴重な食料だったが、今は山林や農地に被害を与えるから、害獣と言われて駆除する対象になっている。

木や竹は本来が人が植えて管理して活用すべき物だったので、どちらかというと外来の動植物と同じだが、杉は自生したものを増殖させたので少し違う。

焼き畑農耕が衰退して、その代わりに植えらた杉などの木が本州を中心に、花粉症の大被害を発生させているのだから、本来は害木として駆除すべき物だろう。

農地改革を逃れられた山林地主の保護のためであるのなら、本末転倒と言うべきだろう。


こういう人間の都合のために人工林が増えて、餌場を無くした鹿やイノシシ、熊などが害獣として駆除されていく。

害木を減らして、バイオ燃料や食料になる草木や、動物たちの食料となる木々を植えるのが自然環境を守っていくことなのではないだろうか。

日本の学校では乾燥地帯の過放牧や、アマゾンの熱帯雨林の無秩序な開発を環境破壊として学ばせる。

デスコラは日本の山を「砂漠化」として同じように扱ってることを、どう捉えるべきだろうか。

あたかも自然豊かに見える針葉樹の山々が、実は、酸素供給を帳消しにする人的被害の原因であることをきちっと認識すべきだろう。

熱帯雨林も動物や人が多く住むことができる場所ではない、だけど人的被害を出さずに酸素を供給してくれている。

熱帯雨林と日本の人工林は全く違ったものなのだ。

かつて、日本は戦国時代に荒廃した山野を江戸時代に回復させた。

山野は自然の恵みだけでなく、水田の肥料や家畜の飼料としても活用できるし、バイオエネルギーとしての草木材も活用可能だろう。

映画のWOOD JOBでは、魅力的な林業と山暮らしを、伝統的な信仰や祭りを織り交ぜて、郷愁を感じさせて、娯楽として表現してくれていた。

林業地帯の生徒が中学校などで、見せて貰っていることを、山間部の高校に勤めて知った。

確かに林業で生活をしている人も多いので、それなりの対策をする必要があるだろう。

しかし、食糧危機と人口減で建築材が不要になってきそうな将来に向けての、新たなビジョンを示してあげないと、山間部の人たちが暮らし続けることはできないと思う。



*1 フランスのコレージュ・ド・フランスの人類学教授(一九四九年生まれ)。二〇一四年度の「コスモス国際賞(人間・自然・地球をめぐる諸間題の解明を目指す研究活動や業績に贈られる)」を受賞。

*2 『交錯する世界 自然と文化の脱構築―フィリップ・デスコラとの対話』(京都大学学術出版会)

*3 Knight, J. (1996) When Timber Grows Wild: The Desocialisation of Japanese Mountain Forests. In Descola, P. and G., Palsson (eds.), Nature and Society: Anthropological Perspective, pp. 22 1-239. Roudedge.

2025年3月14日金曜日

梅を観ると思い出す

梅は綾部山梅林に毎年家族で行っていて、今は家内と二人で出かけている。

家内の父が存命中で元気だった頃に、2月11日に幼い子ども達と一緒に観に行ったのも懐かしい。

毎年のように親子で出かけていき、撮った写真は年賀状に載せたりした。

今年はやっと梅が咲いて観に行けるようになった。

赤穂は桜が市の花で、御崎の桜が有名だが梅もけっこう咲いている。

実は現役の教師の頃に、春休み中に昼休憩を利用して職場の仲間と、梅をみながら食事をしたことがある。


その頃には、英語のALTの女性教師Mさんもいて、同じ文化人類学を大学時代に専攻していたということで、気があって音楽バンドも一緒に組んだりした。

Mさんは駅前の宿舎からマウンテンバイクの自転車で通勤していた。

私も職場にはロードレーサーの自転車を置いていて、トレーニングや仕事の用事に使っていた。

同じ部署にいるメンバーと梅見をしに御崎に出かけるのに、車で行くのと自転車で行くのに別れた。

結局、自転車はそのMさんと私だけになった。

坂道の上にある神社の駐車場に車と自転車を置いて、海岸沿いにある食堂で魚定食をみんなで食べた。

その店の料理も美味しく景色良かったのだが、残念ながらもう営業していないようだ。

食後は梅や海を観ながら、元小学校があった細い道を通って神社まで戻った。


せっかくここまで上がってきたのだからと、自転車の二人はちょっと高台にある公園に行って梅と海の島々の景色を眺めた。

そして、自転車を自分で担いで梅の咲く細い山道を通って、さっきの海岸まで降りていった。

海沿いにある細い道を自転車で元の神社に戻って行くのに、急な坂道を上がって行ったが、Mさんは自転車から降りずに登り、私は自転車を押して上がった。

その道は私が中学高校の頃に泳ぎに行くときに自転車で通った道だったが、その頃は自転車から降りずに登れたのにと情けなかった。

そして、職場に戻るのに、わざわざ遠回りして唐船海岸のレンガ道を自転車で走って、風景を存分に楽しんだ。


Mさんに聞いたら、彼女はアメリカではお父さんとよく自転車で長旅行したそうだ。

因みにMさんは日系アメリカ人で、両親とも日本人なので彼女は日本語が堪能だった。

そのお父さんはお母さんとは離婚して、別の女性と暮らしているという。

もう会うことが難しくなったお父さんの代わりに、この時は私が彼女と一緒にサイクリングをしていたということだった。

彼女はアメリカでは野外活動の指導員をしていて、自転車のみならず、カヌーも子どもの頃からしていて得意だった。

それで、私がSUPをしていることを知って、一緒にやることになった。


いつも練習していた赤穂の恋ヶ浜の海に出かけて一緒にSUPをやった。

私はまともに立って漕げないのに、彼女はちゃんと立って沖の方まで漕ぎ出した。

カヌーをやっていただけあって、バランス感覚が優れているのだ。

私もその後に、仕事上でしかたなくカヌーもマスターしたが、ひっくり返ったら最後だ。

彼女は着替えも平気で草むらに入ってすることができていた。

これは私の完全なミスで、女性の着替えのことを考えていなかった。

以前は恋ヶ浜にはシャワーや更衣所があったのだが、それも当時は無かったのだ。

本当は、それがある唐船海岸や御崎の海岸でやるべきだった。


こんな逞しい女性とは、彼女以外には出会ったことはない。

彼女は日本の梅よりも、南国のハイビスカスの花が似合っていたように思う。

その後、フィアンセの待つアメリカに帰ってしまったが、きっとアメリカの自然を駆け巡っていることだろう。

日本では熱心に教師の仕事をしていたが、アメリカに戻ってはする気は無いし、プライドが持てる仕事でも無いと言っていた。

日本や東洋では教師はそれなりにプライドが持てるし、給料もそこそこ良いのだがアメリカではそうではないらしい。

日本だからこそ、彼女は父母の育った日本で教師をしてくれたのだった。




2025年3月12日水曜日

水泳より歌への挑戦

いつも通っているプールの監視員さんに、私の以前にアップしたYoutubeの動画を見て貰った。

非常に褒めて貰ったが、今の私とは体型などが違って別人みたいと言われた。
確かに、アップ時は今より歳は若いのだが、体型は今の方が良くなっているはずだ。

要するに、黒い服を着ていたので、プールでの裸よりスリムに見えたのだ。

私は、バタフライを50mを55秒で泳いだり、フリーを50mを45秒以内で泳いで見せたりしているのに、一度も監視員さんから若いと褒められたことが無い。

全国レベルからすれば情けないタイムだが、65歳としてはこのプールの利用者の中で速いほうだと思う。

監視員さんは水泳の経験が殆どないので、このスピードを出すのにそれなりの努力が必要であることが分かっていないようだ。

ただ、学生時代にちゃんと水泳をやっていなかったので、本当に選手経験をした人とは歴然として泳ぎが違うから、褒めて貰えないというのもあるだろう。


一方、歌の方はご自分でもカラオケなどで歌うから、上手下手がよく分かるし、曲を歌いこなすには努力や才能が必要だということもよく分かっていると思う。

中学生のからバンド活動で必死に練習してきた歌の方が、やはりちゃんと評価してくれるようだ。

こういう評価は私と同世代だけで無く、若い世代にも通じる。

普段聴いていたり、好きではない曲でも、歌の上手下手はすぐに分かってしまうのだ。

そして、好きな曲のジャンルが違っても、歌を通しての話ができるのが良いし、ロックバンドでボーカルをしていたというと見直されたりもする。

どんなヒット曲を聴いて育ったかを知れば、だいたいの年齢の見当がついて話がしやすい。

すごく若く見えてた人も、それを聞いてすぐにそんなに若くないことが分かったりする。

若い人は古い曲を知らないが、私は新しい曲も知っているので、歌を通した会話も成り立つのも魅力だ。


水泳は一部の限られた人としか、関わることができない。

今、プールで言葉を交わしているのは監視員さんを除いて、5人だけだ。

歌はカラオケクラブや、音楽サークルなど地域には多くの人が集える機会がある。

ただ、私は元々バンド活動が中心だったので、音楽嗜好が違う人と一緒にやるのは苦手で、サークルに誘われたが参加しなかった。

だから、一人カラオケや弾き語りの世界に浸ってしまっている。

監視員さんからもっとYoutubeにアップしてと言われたが、教師をしているときからずっと生徒達からも言われていた。

一緒に演奏できる仲間が見つかれば直ぐにでもやりたいが、職場を離れた今はほとんど不可能だ。

クラシックをピアノが弾ける家内にもわざわざ楽譜本を買って、伴奏をずっとお願いしているのだが、断られ続けている。

こうなったら、仲間ができるまではひとりで何役もこなして作品を作るしかない。

水泳より孤独な作業にはなるが、ネットを通して大勢の人と関われたら、水泳よりも楽しくなると思う。

それが生きがいとなって健康に暮らせるなら、水泳に劣らずやる意議のあるものだと思っている。


この日曜日(3/10)にサザンオールスター三昧がNHKのFMであった。

家内とドライブしていて聴いていたし、今日も農作業をしながら聞き逃しで聴いていた。

私は熱狂的なファンでもないし、曲を舞台で歌ったことは無い。

しかし、高校時代には友達と集まってギター片手に「勝手にシンドバッド」などは良く歌って騒いでいた。

学生の頃はアルバムをカセットテープに録音してずっと聴いていて、曲が流れると当時を思い出す。

「いとしのエリー」などは、大学時代に私が片思いをしていたガールフレンドの名前が「えり子」だったので、気持ちを込めてよく歌った。

これはあるあるなのだが、好きな女性の名前に変えて歌ったりした。

ラジオでも司会者や解説者が言っていたように、ベスト1を決められないくらい大好きな曲が一杯だ。

彼らは日本の大衆音楽を語るのに欠かせない存在だろうが、私もかつてはそういうミュージシャンになることに憧れていた。


私が「研究者になる」とか「(歌の)プロになる」と何十年も言い続けながら、現在は年金暮らしをしながら趣味で続けている。

そういう夢を叶えられなかった無念さなどは実はあまり感じていない。

本当にその道で生きていくことは、並大抵のことでは無いことは分かっていて、趣味の方が気楽で楽しい。

夕方に第3のビールを片手に一人カラオケをパソコンでしたり、ギターの弾き語りをしながら、Youtubeでまた発表することを夢見ている。

私のかつての作品は現在2114回視聴して貰っている。

これだけ視聴して貰っている自分が発表したブログ作品は一つも無い。

これを超える作品を何とかアップしたいと思っている。




2025年3月10日月曜日

前途危うい公立校

 私は現役で大学には入れず、入校試験を受けて神戸御影の大道予備校に通った。

そこには、私学の灘高校や甲陽高校出身の生徒がわんさかいたが、公立の長田高校や姫路西高校などの生徒も少数ながら混じっていた。

そこで、聞いて驚いたのは、公立高校の生徒は学校では勉強していないふりをして、家では必死で勉強していたという。

その理由が当時の私にはよく分からなかったが、教師として公立高校に勤めて理由が分かった。

私たちのような私立高校の生徒は大学からの指定校推薦があっても、早稲田大学や慶応大学などを除いて殆ど使おうとしていなかった。

そして、当然一般推薦などを受ける生徒はいなかった。

ところが、公立は指定校にしろ一般にしろ、推薦入学を利用する生徒が多くいる。

そうなると、校内での選抜や内申書評価が重要となってくるのである。


授業中は勉強する雰囲気をあまり作らずに、競争相手の足を引っ張ったり、油断させておいて、家や塾で必死に勉強すると内申書評価が上がると考えるのかもしれない。

内申書評価は完全な絶対評価では無いので、学校内での順位などが重要となる。

私学の場合などは、逆に相対評価にすると一般入試の内申書評価が公立に比べて悪くなるので、絶対評価的になっていた。

これは高校だけでなく、中学校でも同じなのではないかと思う。

特に、高校入試の内申書の利用率は大学よりも高いはずである。

中学校の生徒が塾に通うのが普通になっているのもそのせいだろうと思う。

教師の側も内申書評価をちらつかせておいた方が、生徒の指導がしやすいように思える。


私がいた私立高校は、授業が面白くないと勝手に自分の勉強したり、おしゃべりをしていた。

推薦入試など利用しないので内申書評価はあまり関係なかったからだ。

私のバンド仲間が塾などに行かず、学年最下位でありながら早稲田大学の法学部に現役合格できたのも、授業中は入試に必要な科目だけ勉強していたことによる。

私学や予備校などは、一般の模擬試験に参加せずに生徒のデーターを独自に持っているところもある。

データーを出さずに一般模試で対応している公立校より有利に受験をすすめるためである。


公立高校でも受験に必要ない科目は、定期考査の点数だけ気にして、授業中は居眠りしたり、別の科目をこっそりやってはいる。

最近目につくのは、タブレットパソコンを持っているので、利用するふりをして別のことをしている例だ。

授業中の学習態度を評価にきっちりつければ良いのだが、授業を進めるのが非常に煩雑になってしまう。

仕方ないので、私はトランプをくじのようにして、突然質問する方法にしたが、一回答えると安心してしまうので、これも効果が薄かった。

定期試験問題を難しくして授業中もしっかり勉強させる手もあるが、複数教師で一つの科目を担当している場合はそれも難しい。

結局、受験科目以外を大して勉強しないのは公立も私学といっしょになってしまう。


近年はAO入試が高く評価されだしたが、これは家庭の経済力が非常に影響されるようだ。

学校でできない体験をするにはそれだけの負担を家庭が負うことになる。

学校でもAO入試に対応できる特色の有る学校は人気が出ているようだ。

私が勤めていた公立の大学附属高校もその例だが、中学入試の定員割合も増えたが、そもそも通学や寮費に多額の費用が必要だ。

本来、公立は貧富に関係なく、進路を努力によって確保するべきところに思うが、現実は私学と変わらなくなってきている。


公立校では塾や予備校に通うのが普通になってきたので、結局のところは私学の高い授業料と負担が同じになる。

どうせ同じなら、進学指導が徹底していて、生徒指導上の問題の少ない私学に人気が移っても仕方ないだろう。

そして授業料が無償化されれば私学の方が公立より却って負担が少なくなる。

一方で、地元に密着した公立中学・高校に弟は通って、地元の友達と卒業後も仲良くしていた。

私と同じように私立中学・高校に行った弟は、地元の小学校の友達といまだに仲が良いのに、高校の同窓生とは関わりもなく、同窓会には全く行ってないようだ。

私も小学校の同窓生と耕作している畑が隣同士なので、畑や病院で会うと長々と話をしてしまう。

地域に根ざした公立の学校は、友達や仲間を作るのに無くてはならないし、地域にとっても奉仕活動などで助けて貰えると思う。

崩壊しつつある地域の中では、公立校は生き残るのが厳しいのかもしれない。





2025年3月7日金曜日

惨めな元教頭を読んで

 ネットの記事「惨めです…〈年金月21万円・退職金2,700万円〉65歳で完全引退した元教頭の男性、悠々自適な毎日を送るはずが「わずか4ヵ月」で老後破産の危機」を読んだ。

校長試験を敢えて受けずに、教頭で終わり、元校長達への劣等感から投資に打ち込み、多額の損失を出している元教頭の話である。

私が管理職を考えさせられていた頃は、特に教頭は激務で過労死をしたりする例が兵庫県では多かった。

校長になるのも命がけだったようにも思えたので、管理職になりたいとは思わなかった。

教育大に長期研修したのに管理職になろうとしないことで、校長から嫌みを言われたが授業料等の多額の負担をしており、毅然と反論していた。

上司に勧められて教頭になっておきながら、校長にならないのも私には理解できない。

私は、そのように管理職にもならず、3年も早く早期退職したので、退職金はこの元教頭よりかなり安かったが、貰っている年金は同じようなものだ。

私は高校で元教頭は中学校という違いはあるが、元教頭の勤続年数が40年以上で、私は院卒なのでたかだか30年(内2年は長期研修)ほどだ。

私は手当のつく特別支援学校を10年以上勤めているし、給与の高い特別な高校で働いていたので、そのお陰だと思う。

ただ、年金が支給されるまでの期間はかなり、家内に迷惑をかけた生活を送ってきた。

私は管理職との付き合いが無いので、元教頭のような場には呼ばれないが、母校の同窓会では管理職もいた。

しかし、同窓生は意外と管理職にはなっておらず、惨めに感じることも無かった。


現役の教師の中には、管理職など目指さず、株の取引に熱心な人も少なからずいた。

理科や数学の先生が多かったが、社会情勢をよく調べていて、地歴・公民科の私とは話が良く通じた。

株取引に熱心な人は奥さんも教師でお金に不自由が無い場合や、資産家で不動産収入がある人だった。

知り合いの高校女性教師の旦那さんは中学教師だったが、株取引に専念するために早期退職をしたと聞いた。

私が懇意にしていた理科の先生は奥さんも教師だったが、株で2億円稼いだら教師は辞めると言っていたが、教師の仕事を楽しんでいるところがあった。

この教師は株でもうけたお金は、子どもがいなかったこともあって、好きな音楽等の趣味や車につぎ込んで、車などは外車も含めて3台ほど持っていた。

株をやっている人との会話はついて行けなくて、ちょっと売り損ねて50万円損したとか言うが、儲けたことはあまり言ってくれなかった。

こういう風に、現役の時から投資に携わっていなくて、退職後に多額の投資に手を出すなんて無謀なことだと思う。


校長になっておけば、退職後に色々と仕事が世話される。

例えば元体育教師などは社会教育施設の役職に就くことが多い。

私の知っている中学校の体育上がりの元校長は、とある研修施設でパソコンが扱えなかったので、薪割りをして多くの時間を過ごしていた。

高校の元校長の多くは私立大学の生徒募集担当に採用されて、校長のネットワークを使い高校を回って生徒を集めている。

また、小・中学校の元校長は市町村の教育関連の機関に再就職している人も多いようだ。

そして、初任者研修指導には元管理職があたることが多く、授業を担当するよりは負担無く高収入が得られる。

教頭の激務を耐えたなら校長になった方が、退職後が断然有利であることが歴然である。


私が知っている教頭止まりの人は、教頭で再任用できないので、別の高校の平教諭に戻ってなり手の少ない学年主任を任されてたが、非情で過酷に思えた。

成功例としては、女性教頭で現役退職した知人で、私立大学に採用されて教育科長を勤めていた。

働いていた研修所でたまたま出会った時に、何かあったら相談してと名刺を頂いたが、これは私が惨めに感じて相談できなかった。

こういう教育実践に造詣の深い人は、大学の教員養成担当として採用される例が多い。

特に、管理職経験者は大学からの要望があるようだ。

この場合は、元校長よりも、生徒や教師の指導の経験が大切なので、現場にはり付いていた元教頭の方が良いかもしれない。


管理職で無くても、受験指導や教科指導の堪能な人は、今は現場から求められることが多い。

70歳を過ぎても受験指導などで非常勤講師をしたり、私立高校の常勤講師をする人もいる。

中学校の元校長でも、授業をするのが好きだと言って、高校の臨時講師を非常勤や常勤でしていた人を知っている。

私は去年までは非常勤講師をしていたが、新課程の対応が煩雑で割に合わないので、延長を求められたが断った。

学校厚生会から定期的に来る冊子には、「助けてください」と退職会員に講師応募への切実なるお願いが書かれてある。

見限られた教育職には、現場経験の豊富な退職者が最も必要とされている。

無謀な元教頭先生の例は、下手に管理職になって失敗した例外的な愚例だと思う。






2025年3月4日火曜日

私学の負い目

私は中学校から受験して私学に通っていた。

家は裕福では無かったので、公立にはない授業料を支払うために親は苦労していた。

赤穂市からも奨学金を借りたり、母の親姉妹からも援助を得ていた。

だから、勉強をせずに遊んだり、ボーとしていると必ず父から高い授業料のことを持ち出せれて怒られていた。

私は元々勉強が好きだったわけでなくて、小学校では学校以外で勉強することは無く、担任の先生がゴンタクレの私を案じて母に奨めてくれたのだった。

その担任の先生の口利きで通い始めた進学塾でその気にさせられて、半年あまり必死で受験勉強して144人中24番の成績で合格した。

最初は、受験の延長で中学入学後も勉強を真面目にして、2年生頃までは上位の成績を保っていた。

しかし、もともとの奔放で遊び好きの性格が表に出始めて、バンド活動や女性との恋愛にのめり込んだ。

それ以来、大学に入るまで父親とは金のかかる私学の負い目を背負いながらのいさかいが続いていた。


結局、大学受験も失敗し浪人までしたのに、一流でない私学*しか受からなかったので、その結果への父の対応は厳しかった。

私学なら叔父の家に世話になるという条件で、名古屋なら許されたので仕方なく滑り止めに受けた。

別日程だった小樽商科大学は遠方過ぎて諸経費がかかりすぎるので、願書さえ出させて貰えなかった。

大学で授業料は払ってくれたが、叔父の物置長屋の居候からアパートに移っても、家賃が月に1万円かかるのに仕送りは2万円しか無かった。

期待はまじめに勉強して翌年国立大学に入学した弟にかけられて、一方の私は就職に関しても期待されなくなって、もう金を理由に指図されることは無くなった。

何とか特別奨学金3万6千円を途中から手に入れて、倹約した生活や土木作業のアルバイトなどで奄美にも自費で村落調査に行けていた。

ミュージシャンになる足がかりも失って、世間知らずで夢を追うことしかできない自分が、本気で取り組めたのが文化人類学という学問だった。

親からも期待されず、私学の負い目で貧しい暮らしとなっていたが、恋人もできて楽しい日々も過ごすことができた。


進学した大学院は公立であり私学の負い目は無くなったが、大学以上の進学は親は認めていなかったので一切の援助は無かった。

3番目4番目の弟の大学進学が予定されており、中学高校と公立だったふたりには、下宿して私立大学行くのが普通だったので全く親にはゆとりが無かった。

大学院では入学当初は奨学金募集枠が1人しかなく、親の収入が競争相手で社会学院生の親(自営業)よりも高かったので、選考に落ちて受けられずにいた。

それで家庭教師などのアルバイトに明け暮れたが、2年目から伴侶からの支援を受け、親の扶養から外れたことで得られた奨学金で何とか研究は続けられた。

そして、授業料を払わずに済むために1年間休学して、3年かけて修士論文に臨んだ。

しかし、元々修士だけと教官から宣告されていた上、研究の仕上げ方を誤り進学レベルに達せず、他の大学院も奨められたが私学だったので学資のめどが立たなかった。

何とか研究を続けようとしたが、伴侶との生活も終わることになって、再起を期して教師になるべく実家に戻らざる得なかった。

多額に積もった奨学金の返還を免除されるには、教師になるのが一番だったからだ。


母は私の最悪事態を恐れていたので温かく迎えてくれたが、父は厄介者が帰ってきたという気持ちをあからさまに表した。

それでも臨時教員として働きだし、教員採用試験に受かってからは手のひらを返したように協力的になってくれた。

それ以降、私学で負担をかけていた親への負い目からやっと解放されることになった。

ただ、中学校から私学に行きながら、大学は一流でない私学しか行けなかった負い目は死ぬまで残ることになってしまった。

以前にも書いたことがあるが、先輩の中には関西ではトップの私学に入りながら、恥ずかしいと言って自殺した人のことも聞いていた。

私学の負い目は単に経済的な問題だけでは無いことも、留意せねばならないと思う。


私学の授業料が無償化になることは、経済的な負い目から解放されることかもしれない。

無償化になれば勉強しなくなるという人もいるが、それは人それぞれだろう。

私のように多額の負担を理由にけしかけられていても、勉強しなかった者もいる。

しかし、私学の自由な校風やそこで得られた仲間との体験が、その後の人生を形作ってくれている。

私は学歴ロンダリングのお陰と、教師になった同級生も多いので、高校の同窓会には色んな仲間に会いたくて今でも必ず参加している。

私学もスパルタ教育指導していたところもあるし、私の母校のように自由で生徒の主体性に任せるところもある。

世界が多様化していく時代だからこそ、それに応じた生き方ができる若者を育てる必要が有ると思う

おそらく、公立中学・高校もそれなりの特色を出さないと入学希望者が減ってしまうだろう。

授業料の無償化になれば教育内容・指導法、集まってくる生徒資質によって学校が選ばれる時代になるということかもしれない。

そして、大きな所得格差が生じないように、私立の小学校や中学校の授業料も無償化した方が良いと思う。

不登校が多い現在において、それを防げる私学をもっと作るべきだと思う。

仕事が多すぎる上、縛りの厳しい公立の教員では対応が困難だと思うからだ。

因みに、私の高校の担任は部活指導を殆どしてなかったし、自宅で塾もして同級生を教えていたようだ。

ただ、私学にすすむことは精神的な負担のリスクを背負うことだけは知っておくべきだと思う。


曽野綾子『太郎物語』では、太郎さんは慶応大学の補欠を蹴って、あえて南山大学の文学部人類学科に入学されたが、私はそこしか合格できなかった。南山大学に関する物を調べたり、過去問をやっていなかったので人類学が何かも知らなかった。当然、当時は『太郎物語』は全く知らなくて、NHKの『太郎の青春』が放映されたのは大学2年の時だったが、下宿にテレビは無かったので殆ど観ていない。太郎さんは既に院生だったが、飲み会で議論した懐かしい想い出もあるし、聴講生だった奥さんの暁子さんとは机を並べてフランス語の勉強をしたことも懐かしい。







2025年3月2日日曜日

コウノトリの愛の棲

昨年はコウノトリが村の中の電信柱に巣を作って、それを電力会社が撤去する事の繰り返しが生じてしまった。

撤去だけで無く、不安定な柱の上で強風に煽られて飛び散ってしまった時も有った。

コウノトリはどちらかというと、家が密集していたところに、巣を作っていた。

それを見かねた地元の有志の方が、100万円以上の募金を集めて巣作り用の鉄塔を拵えた。

場所は少し家が密集した所から離れていたが、幹線道路から離れて、行きずりに見物する人から遠ざけるのに良い場所に思えた。

山も近くにあって、小枝を集めるのにも問題は無い。

ただ、餌を付近で探している姿は、私はあまり見かけていなかった。

また、近くには幹線道路に続く抜け道があって、村以外の車両も多く通っていた。


ところが、何週間か前から、私が普段クロと散歩する道の電信柱の上で、コウノトリのつがいが交尾するのを見かけていた。

そこは、人家から少し離れた、車もそこそこ行き交う道路の路肩であった。

この道路は地元の人以外は通ることが殆ど無いし、散歩で歩いている人もあまり見かけなかった。

私も散歩の折には、手前の三叉路で川端の農道に曲がって、電信柱の下は通らないようにしていた。

ここは、餌場となる水田が近くに広がっているし、巣の材料となる小枝も近くに山があるのでとって来るのに便利なところだった。

しばらくすると、そこには大きな巣ができていた。

コウノトリは地元の有志が準備した巣作り用の鉄塔ではなくて、やはり普通の電信柱に巣を作ってしまった。

巣作り用の鉄塔をコウノトリが知らなかったわけではなくて、そこに停まっているも見かけられている。

要するに、こちらの方が餌を捕るのに便利で、子育てに適していると思ったらしい。


そもそも、電信柱が好まれるのは電線が3本繋がっていて、そこに枝を渡して巣を組みたてやすいからのようだ。

だから、巣作り用の鉄塔には枝を乗せやすい籠がもうけられていたのだが、気に入らなかったらしい。

それは、あたかも自分たちの愛の棲は、人の思うようにはさせないという意思表示にも思えた。

去年から何度も何度も壊されたり、壊れ続けた愛の棲。

その困難を乗り越えて今年も自分たちの愛の棲を作り続けている。

また、電力会社はその巣を取り除いてしまうかもしれない。

このままでは、いつまで経っても雛が誕生できないままだろう。


やがて、巣作り用の鉄塔が一番安全だと気がついてくれるかもしれない。

喙に大きな木の枝を加えて、自分の巣に運んでいるコウノトリをみると、哀れにも思えるが。

単に生きることだけのために、餌を探し回っている姿よりも、よほど美しい姿に思える。

自分たちの愛の証を残すために、けなげに空に舞うコウノトリをじっと見守るほか手立ては無いようだ。

その姿はかつて自分が恋愛に生きた時代を、ほろ苦く思い出させてくれている。