文化人類学では性の問題は重要とされながら、そんなに研究は多くない。
私が大学院で学んだことで、一番記憶に残っているのは「近親相姦」に関しての松園万亀雄先生のゼミだった。
松園万亀雄先生は後に、『性の民族誌』*1でも執筆されているが、当時はエロティシズムを含めてこの分野の研究が必要なことは述べておられた。
この時に論文として読んだのは古代エジプトにおける兄妹婚の問題だった。
人類普遍に禁じられていると考えられている近親相姦が、古代エジプトでは王家を中心に一般にも広まっていた。
人類に普遍的な文化など無いように思えたのもその時だった。
性の問題は、サルとヒトを比較するとよく分かる*2。
私が大学生の頃は、デズモンド・モリスの『裸のサル-動物学的人間像』を読んで、その考え方に染まっていた。
霊長類の研究が進んで、ヒトとサルの類似性と違いがよく分かるようになっている。
特に高畑由起夫氏の研究*2には、目を覚まされる思いだった。
動物とヒトの「性」をわかつものの一つに「時間」がある。哺乳類の雌の多くは排卵前後のわずかな時間だけ、ふだんと異なる形質的な特徴や行動を示して、雄と交尾する。発情とよばれるこの状態は排卵を知らせる信号にほかならず、「性」は繁殖に直結するものと見なされる。無駄を厭い、効率を追い求めれば、すばやく排卵を示して妊娠することこそ重要なのだ。かたやヒトの女性は発情を失い、途切れることなく「性」を受け容れ、いつ排卵するのかさえもわからないとされている。われわれの「性」は時間の制約から解き放されて、いつのまにか過剰になり、無駄に満ちているというわけだ。*3
ヒトが発情期を失ったが故に、自由な性を日常化することができた。
そして、それが家族形成に利用されたり、商売になったり、権力を誇示するのに利用されたりした。
このところ、芸能人や政治家のセクハラ問題が大きく報道されている。
ヒトは自由に性を用いながらも色々なタブーを課してきた。
その根底にあるのは、本人の同意なしでの性交を強いることの禁止だろう。
たとえその場で同意があっても、同意せざるを得ない状況に追い込むことも罪となる。
本来は恋愛と結びついて、子育てに必要な安定した家族を築くための文化が狂ってしまった。
これは、近親相姦が原因で滅んだとは思えないが、高度な文明によって古代エジプトも狂って行ったことに通じるかもしれない。
現代においては、自らの権力によって狂った性欲を弄んだ者は、それなりに報いを受けさせねば文明の崩壊を招くということだ。
それは戦争や戦闘によって、性の秩序が踏みにじられる状態と同じことを意味するからだ。
ただ、ヒトは自由な恋愛と性欲を結びつけて、経済格差や生まれ育ちのちがいを超えた絆を築くことができていることも忘れてはいけないと思う。
*1 須藤健一杉島敬志編 1993 『性の民族誌』 人文書院
*2 高畑由起夫編 1994 『性の人類学―サルとヒトの頂点を求めて―』 世界思想社
*3 高畑由起夫「「性」と時間―交尾季、月経、発情をめぐるいくつかの話題」*2:68p
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