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2025年5月30日金曜日

雨ニモマケズ 毎日玄米四合?

 一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ


これは宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の有名な一節で有る。

因みに四合は白米では600gくらいだそうで、玄米もそれくらいだろう。

そうすると1ヶ月30日で白米なら18kg食べることになる。

現在白米1kgを1000円とするなら、18000円の米代ということになる。


丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク


という言葉が空々しく感じてしまう。

因みに私が大学時代の45年ほど前で、親からの仕送りが2万円で奨学金が36000円、そこから家賃1万円を支払い暮らしていた。

玄米食だったら白米よりも栄養価が高いので、他のおかずが少なくても足りていたかもしれないが、当時の私としては欲どおしくおもえる。

これは昭和6年頃に書かれた詩らしいが、当時の欲の無い庶民はそんなにお米を食べていたのだろうか?

江戸時代から戦前にかけて、年間一人1石(150kg)食べるのが普通ということで、月に直すと12.5kgなので、18kgも食べた賢治は玄米の食べ過ぎである。


ただ、この詩は手帳のメモ書きだったそうで、最後に


ソウイウモノニ ワタシハナリタイ


とあるから、実際は毎日玄米四合も食べられていなかったかもしれない。

このように解釈すれば、当時の実際の貧しい生活を詩にしたのでは無く、こんな生活がしてみたいという願望とも受け止められる。

因みに私は一月に食べる玄米は四合であるので、賢治の言う1日分を1ヶ月かかって食べている。

もちろん他の穀物と混ぜた雑穀米として食べている。

我が家は夫婦二人と息子のひとりの3人暮らしで、計算すると年間150kgの玄米(22、500円)を食べている。

といいうことは3人で昔の一人分と言うことだ。


一方で、仮にこの当時の庶民が一日四合も食べるようになっていたとすれば、近代化によって食生活が変化したとも考えられる。

戦後は「貧乏人は 麦を食え」とばかり、麦への食転換が図られて米の消費も抑えられていく。

今の気候変動の激しい中で、食料の国家戦略の見直しが迫られている。

江戸時代の饑饉は気候変動だけで無く、藩の政策も誤っていたし、全国的な支援関係が築かれていなかったことが原因だと言われている。

そもそも、年貢米のために水稲一辺倒の農業を推し進めていった江戸時代の政策にも大きな問題があった。

それでも、山地の焼き畑が残っていて、米に頼らずとも生活できた人は多くいたのだ。

昔の焼き畑に戻れとは言わないが、水稲一辺倒の農業や白米一辺倒の食生活を変えていくべき時代になったということだ。

宮沢賢治の詩は「他山の石」として読み解く必要があると思う。



2025年5月28日水曜日

JAバンクからPayPay銀行へ

 私は年金はJAバンクに入るように手続きしている。

JAバンクの支店は村にもあって、ATMでの引き出しが土日でも手数料なしでできるのが魅力だった。

年金の手続きも無料でしてくれて助かった。

ところが、正式な銀行名が長くて振り込みの手続きが面倒だし、PayPayカードでクレジットカードを作るのも時間がかかる。

そもそも、普通預金は金利が低い。

それに対して、PayPay銀行は近くのコンビニのATMが使えるし、金利が高い上にクレジットカードが簡単に作れた。

JAバンクに貯まったお金をPayPay銀行に移し、これから年金が入ったら随時移していこうと思っている。


最近、店での支払いはPayPayを用いることが殆どだ。

定期的に現金を使うのは、通院している医院の支払いだけで、薬代は薬局でPayPayで支払いポイントもついている。

買い物もamazonやYahooの通販を使うことが多い。

理由は近くに大店舗が無いこともあるが、じっくり選べるし、必要なときに買えるからだ。

物によっては1時間以上かけて比較検討している。

店に行って一つの品物にそんな時間をかけることはできない。

独自のプリペイドカードを出しているイオンなどの支払いは家内に任せている。


実は現金は意外なところでよく使っている。

それはプールのロッカーだ。

週に3回温水プールに行っているが、ロッカーにコインがいる。

上郡のプールは毎回10円必要だし、相生のプールは使うときに100円を入れて終わったら戻ってくる。

それと、たまに行く神社や仏閣でのお賽銭は小銭を使っている。

財布は土日に家内とドライブに出かけるときには持参しているが、普段プールに行くときは小銭入れにコインを入れ、スマホカバーに免許証と入れている。

鉄道を利用するときもICOCAとクレジットカードを使えば現金が必要で無くなった。


実は村のJAバンクにはかつてはスーパーマーケットのAコープが併設されていた。

それは30年ほど前に閉じられ、上郡にあった唯一の大きなAコープも数年前に閉じられた。

ある意味でJAは田舎において、今のコンビニと同じ役割を果たしていたのだった。

今住んでいる近くにはコンビニはあるが、コンビニが近くに無い村は沢山ある。

私が生まれた赤穂の鳥撫がそうだが、叔母さんに聞くと移動スーパーのとくし丸を利用しているという。

かつては叔父と二人で車に乗って買い物に出かけていたのだが、老化が進んで出かけられなくなっている。

上郡近辺はコープ神戸が個配をしてくれたり、移動スーパーがやって来てくれている。

JAの残された役割は郵便局同様に金融のみということになってしまった。

しかし、ネット銀行が普及して若い世代が乗り換えていくのも時間の問題だろう。

年金をPayPay銀行で受け取るようになったら、JAバンクは必要で無くなる。

そしたらJAは農村で何の役割を果たすのだろうか?

かつて農業資材や肥料をJAで買っていたのだが、値段が高いのでホームセンターで今は買っている。

今回の米騒動もJAと農水族の癒着に大きな問題があることが分かった。

戦後の日本の農業を担ってきた農協・JAは米と選挙のためだけに残っていくのだろうか?




2025年5月26日月曜日

歩きや生きがいに役立つフィン(足ひれ)

 当然、足ひれを付けて歩いているわけではない。

以前のブログで書いたように、このところフィン(足ひれ)を付けて水泳の練習をしている。

現役の水泳部顧問の時代は苦も無く付けて生徒と一緒に泳いでいたのに、最初は非常に重くて動かしづらかった。

最近になって、やっとしっかりとフィンを付けてキックが打てるようになってきた。

現役時代は水泳だけで無くランニングもしていたので、足の筋肉もしっかりついていたのだ。

ところが、最近はせいぜい歩く程度で、坂道も大して上っていなかったので、足の筋肉が衰えてしまっていたらしい。


このフィンを用いた水泳練習は思わぬ効果をもたらした。

歩くのが楽になったのである。

ちょっとした坂道でも以前のようなだる重さを感じずに済んでいる。

本当ならジムに通って、筋トレをしておくべきだったのかもしれない。

私の親戚のダイビングが好きな人は、犬の散歩以外にも毎日ジムに通って筋トレをしているという。

これは逆にダイビングに欠かせないフィンをしっかり使うのに必要であることに気がついた。

この人は60歳で完全退職して、国内はもちろん、海外の海に潜って生きがいとして楽しんでいる。

国内のダイビングでは、私たちが値段が高くて口に入れられないような魚介類を捕ってきて食べている。

海外では珊瑚礁の海などに潜って、その自然に触れるのを楽しんでいるようだ。

そういう生きがいにを得るには、普段からの体力作りが欠かせないらしい。


人は海洋適応して発展したと言われている。

船に乗るだけで無く、海で泳いだり潜ったりするのもその一つだ。

以前読んだ民族誌の中で、カナダの狩猟採集先住民はカヌーを使って漁をするのに泳げなかった事が書いてあった。

そのため、冷たい川に投げ出されたら死んでしまうことが多い。

そんな中で、ある日本人が移住していたのだが、転覆の折に多くの人を救った際に、自分は力を使い果たして死んだ事が書いてあった。

泳いだり潜水できる文化を世界中の人々が持っているわけでは無いようだ。

私は幼い頃から船乗りであった父によく海や川に連れられて、泳ぎの手ほどきを受けていた。

父は平泳ぎや立ち泳ぎは非常に堪能だったが、やはり船乗りであった祖父から学んだのだろう。


現代はゴーグルやフィンという海棲動物に近づく道具を持っている。

ゴーグルはどこのプールでも使って良いのだが、フィンは例外的なプールしか使用できない。

先日も、今まで一度も見かけたことの無い人がプールでフィンを付けて泳いでいた。

話を聞いてみると普段通っているプールではフィンは禁止なので、フィンでの練習をするために定期的に来ているという。

私の普段通っている上郡のB&Gプールは利用者が少なくて今後どうなるか分からない。

フィンを使っての練習もできるので、少し遠くからでも来て欲しいと思う。

フィンは泳ぎでは普段出せないスピードを楽しめるし泳力もアップする。

そして、歩くための足の筋肉トレーニングにもなるのでお薦めだ。

何より、イルカのように水面をバタフライで飛び跳ねる快感が得られる。


2025年5月24日土曜日

マダケとハチクの筍

 このところ忙しかったので、散歩の折に放置竹林のマダケやハチクの筍を見ても採らずにいた。

なにせ、採ってきてすぐに茹でねばならないので、面倒だと思い見過ごしていた。

実は、私はマダケとハチクの違いを分かっていなかった。

ネットで調べたら、色や艶の違いが歴然で、マダケは青っぽくて艶があり、ハチクは白っぽくて艶が無い。

どちらも見かけていた竹で、私は日当たりによって違っているように思い込んでいた。

筍も孟宗竹は太さで分かるが、マダケもハチクも同じような太さで、ハチクが若干細いような気がする。

だから、区別無く採ってきて同じように調理していた。



先日、山崎のJA直売所や波賀の道の駅でハチクの筍が売られているので、値段を見ると大きめが3本で600円と思ったよりも高い。

自分が例年採ってきている筍の量を考えると、何千円もの価値があったことに気がついた。

以前、私はナップサックにいっぱい採って帰るのを、毎朝数週間続けていたのだ。

旬の頃は毎日のように筍を食べて、余したら漬物にしたり干したりしていた。

ネットでも栄養価が高いことを書いてあって、健康に良いと思っていた。

なにせパンダは竹だけで生きているのだから、ちゃんと消化できれば栄養がいっぱい摂れるに決まっている。





ところが、近隣では一昨年あたりからマダケを中心に一斉に枯れ始めている。

今年は、竹林の整理事業が散歩道の山でも行われて、竹もずいぶん減らされている。

私は筍の採れる放置された竹林を何カ所も知っていて、生える時期もずれることも分かっている。

もうすでに孟宗竹の季節は終わっているし、日当たりの良いところではマダケもハチクもずいぶん大きくなってしまっている。

そこで、一番日当たりが悪くて生えるのが遅いところに採りに行った。

そこは放置されて密集しているので、筍を見つけてそこにたどり着くのも至難の業だ。

大抵は、足で踏んづけて折ってから拾う。

掘りやすいところではスコップやナイフを用いていたが、しゃがむのも難しいのでそうしたのだ。

また、その翌日には集落の外れでも、持て余している竹林があって、そこの筍は細いのだが、どうせへし折られて捨てられるので採ってきた。


以前は、持って帰った筍を半分に切ってから、皮をむいてシャトルシェフで何も入れずに茹でていた。

今回から、ちょっと皮をむいてから、シャトルシェフの鍋に入る大きさに切って皮のまま茹でた。

その方がむきやすいし、食べられる部分も多くなった。

ただ、かさ張るので鍋は二つ使った。

私が下ゆでまでして、後は家内が味付けをおこなって美味しく食べたが、しばらくは筍の煮物が続きそうである。

そして、採ってきたのだが食べ切れそうに無いので、茹でた後でナイロン袋で塩もみして、大きめの瓶容器にいれて、冷暗所に保存した。


本来竹は色んな道具や、田畑の杭や支え、家に関しては垣根だけで無く、以前は土壁の骨組みにも使われていた。

実は我が家は直接地元の大工さんに頼んで建ててもらったのだが、その人は自分で竹を採ってきてわら縄で壁の骨組みを編んでいた。

竹材は足場になったり、籠だけでなく筏や縄・箍になったり、竹炭になったりした。

また、竹は杉や檜の材木と違って、筍は食料にもなる。

スーパーなどの店では孟宗竹の筍しか出回らないが、農産物の直売所や道の駅ではハチクの筍もちゃんと売っている。

ハチクはえぐみがあまりないので、糠を入れて茹でなくても美味しく食べられる。

今はどんどん利用されなくなって、竹林は放置されて荒れたり、伐採されてしまったりしている。

竹と寄り添って生活してきた民俗文化を再評価するべきのように思っている。





2025年5月21日水曜日

食われるヘビ

 先日、犬との散歩の途中の小川沿いの道でコウノトリがヘビをくわえているのに遭遇した。

我々に気づいたコウノトリは、少し飛んで田んぼの中で一生懸命飲み込んでいた。

長いクチバシで長いヘビを飲み込むのも大変そうで、何度も下から跳ね上げてやっと上を向いて飲み込んだ。

コウノトリにとってヘビは大切な食料である。

ちょうど、ヒナも誕生しているので吐き戻して与えねばならないのだが、このヘビは相当消化されていないとヒナの餌には無理だと思った。

ヘビはコウノトリだけで無く、トンビやカラスやイノシシなどの雑食系野生動物にとっても大事な食料となっているようだ。


ヘビのそういう弱い面はあまり語られることは無い。

「ヘビににらまれたカエル」のように強い方が強調される。

動物番組でもネズミや小鳥などの小動物や卵を襲う場面がよく出てくるが、ヘビ自体が食べられている場面はたまにしか出てこない。

アナコンダのような大蛇になれば、イノシシや人でさえも飲み込まれてしまうし、毒蛇は咬まれただけで死んでしまうこともある。

私は奄美に村落調査によく行っていた関係で、ハブに一番警戒して必ず調査には長い皮ブーツを履いていった。

当時でも、ハブに噛まれた人がいたが、ある人は咬まれた膝から下を切り落としていた。

その人を見ることだけで、ハブの恐怖を感じざるを得なかった。

ところが、そのハブも捕獲すると買い取ってくれるようになって、良い収入源になるので多く捕られていったようだ。

恐ろしい反面、実はサトウキビや農作物に被害を与えるネズミを捕ってくれて役に立つこともシマの人は語っていた。


ハブは本土から来た画学生が、シマの人に殺されて捨ててある大きなハブを皮をむいて焼いていたので、一度だけ食べさせてもらったことがある。

シマの人は食べたり焼酎漬けにする人は殆どいなかったようだ。

ハブは見つけたら殺すのが原則だったが、神の遣いとしての信仰の対象にもなっていた。

安全のためにやむなく殺すけれど、あえて食料にはしなかったのだと思う。

本土ではマムシが焼酎に漬けられて薬用酒になった。

祖父が捕まえてきて生きたままのマムシを、焼酎の入った一升瓶に入れていたのを見たことがある。

山間部の人は皮をむいて干して食料にもしたと聞いたこともある。


ところが、私が今住んでいる村の人は、嫌がったり恐がったりする人が多い。

山から大雨になるとマムシが流れてきて、道路でひかれていると近く棲んでいることを非常に恐がる。

また、村の草刈り作業で遭遇したら、すぐに草刈り機で退治される。

確かにマムシに噛まれて入院した人もいて危険ではあるが、ネズミやモグラを捕ってくれたりして役にも立っている。

何よりも、ヘビ自体は村にいるコウノトリの大切な食料となっているのだ。

昔はしょっちゅう見かけたヘビもあまり見かけなくなった。

以前は、庭はもちろんのこと、二階のベランダにもいたことがある。

隣の竹藪が無くなった影響が大きいが、家の周りの田畑で餌となる小動物や蛙などが減ってしまったからだろう。

ヘビになじみが無くなったこともあって、近所の小学生が毒を持つヤマカガシをペットにしているのを知って驚いた。

ヘビはむやみに恐がる必要は無いが、用心するに越したことは無い。

ヘビは食う立場でもあり、食われる立場でもあるという大切な食物連鎖の真ん中にある。

そして、あらゆる所に現れ生命力が強いから、昔からヘビを信仰の対象としてきたように思う。

ヘビを毛嫌いする人が最近は多いが、共存すべき大切な生き物であることも確かだと思う。



2025年5月19日月曜日

カルト、新宗教、学校教育

 昼のテレビ番組でオウム真理教の被害者家族のことを特集していた。

その中で、親子関係を断絶させることが、カルト集団にとってもっとも重要なこととされていたと聞いて、はっと思った。

学校教育と大差ないじゃ無いのか?

学校教育は自己実現の下に、自分の意思によって家業から離れたり、親の意向とは違っても希望する進学を行い、希望する職業に進むことを暗に奨励した。

確かに、それによって多くの生徒が職を得て豊かな暮らしを甘受できた。

しかし、一方で学歴社会に適応できない多くの引きこもりを生じさせもした。

そして、先日の東大生を刺傷させたように、過度な進学教育を理由にして犯罪を犯したり、もっと以前には大学受験失敗者の殺人鬼も生んでしまった。

カルト集団と違うのは、親自身も学校教育の信者であり、その支援者であったり熱狂的に学校教育の学習させる実践家でもあったことだ。

そして、学校教育は会社等にリクルートさせれば、後は学校そのものとは無関係になる。

ただ、教育社会学者が言っているように、社会が学校化しているのでその延長上に生きていることと同じだろう。

カルトは学校教育と一線を画してはいるが、教団とは場合によって一生涯関係は続くのとある意味では一緒かもしれない。

日本ではカルトは反社会的な宗教集団と見なされているのが普通だろう。

つまり、学校教育は近代化の中で社会の根幹を担い、カルトは近代化で生じた歪みを受け入れる反社会的な部分を担っている。


反社会的で無くて、伝統的な仏教やキリスト教徒とは異なる新宗教団体も多く、近代化に伴って生じた宗教と考えて良いようだ。

実は熱心な「生長の家」の信者が身近にいた。

夫が戦死して女手ひとりで娘二人を苦労して育ててきたが、同居していた娘の夫が初婚、再婚とも亡くなってしまうという経験の持ち主である。

父親を亡くした孫にもその信仰を奨めて一時活動にも参加させたが、信者とはならなかった。

この孫は、学校教育での大学受験に失敗した後、半世紀も引きこもって72歳で亡くなってしまった。

彼は学校教育でも新宗教でも、そして医療にも救いを得られなかった。

現在多くの人が引き籠もっているというが、学校教育、新宗教、医療でもない救いが必要な気がする。


また、子どもに障害を抱えた母親や孫に障害を抱えた祖母(母親の叔母)が熱心に「真光」の信者になったのも身近で見ていた。

その母親はその信仰活動の最中に突然心臓発作で70歳の若さで亡くなり、一緒に活動していたその叔母も3年後に膵臓癌で亡くなってしまった。

その障害を持った母親の娘も祖母の孫も学校教育では普通校に通うことは無かった。

特に、母親の方は子どもが小さい頃から遠くの特別支援学校に通わせるのに付き添って苦労を重ねていた。

だから、私は彼女が信仰することによって支えられていたとは思っている。

ただ、子や孫のことを人一倍心配するのに、自分の心身を案ずることができなかったと思っている。

学校教育でも現代の医学でも克服できない障害で悩む人の受け皿に新宗教がなっていることも確かだろう。

二人とも短命に終わってしまったことから、新宗教で必ずしも救われたとは言えないと思える。


学校教育の無自覚な信者として、大学受験でも就職でも成功してきた人たちが退職後に行き詰まっているの最近マスコミやネットで話題になっている。

退職して家や地域で暮らすのに、卒業した学校の肩書きはなんの役にも立たないし、却って邪魔になったりする。

地域では人によって受けた学校教育内容も違うし、就職も様々だからだ。

官庁や企業のように学校教育のシステムの延長上では無く、学校教育とは異なったシステムを地域社会では維持せざるをえない。

だから、学校教育信者として生き続けるには、仕事を続けていくのが一番良いのだ。

そういう私も学校教育で学んだ学問やスポーツ、音楽をいまだに続けている。

ただ、研究では学会とは殆どかかわりをもっていなくて、本当の趣味になっている。

また、スポーツや音楽は学生時代に部活で指導を受けたものではなくて、社会教育を通して自分が主体的に取り組んできたものである。

実は父方の祖父は家業優先で、学校教育に対する信仰をあまり持っていなかったので、その影響も受けている。

完全退職した今は、学校教育で得た修士の肩書きも全く無縁だし、資格や免許も全く利用していないか、そもそもなかったものもある。

ある意味で、学校教育の信仰から、やっと距離をとって自由になれているとも言える。

それは学校教育の信仰に支えられている政府からも、ある程度は自由でいられるということかもしれない。

退職後に行き場を失って引き籠もってしまった方は、その学校教育信仰の呪縛から解き離れることも一つの解決になるような気がする。










2025年5月17日土曜日

日本国宝展大阪へ行って

先日(5/15)大阪市立美術館に行ってきた。

家内は前売り券を買っていて、いつ行くかは平日に休みが取れる日となっていた。

それが先日で、私は通院の日になっていたが、前日の午前中に受診を済ませておいた。

実は前日に伯母の葬式があったのだが、家族葬であったこともあって会食は断ってプールに行って体調を整えていた。

私たち夫婦はここ1年間鉄道を利用したことが無く、しかも大都会に行くのも1年ぶりだった。


上郡駅までは自家用車で行くのだが、駅前では少し離れたところに一日100円で置くことができる所もあるが、遠いし草だらけである。

駅に近い400円の白線の消えてしまって、スペースの番号も分からない無人駐車場で駐車票とお金をボックスに投入して駅に向かった。

私は午前中は特に頻尿で、以前大阪に新快速で行ってトイレを我慢して辛い思いをしたので、トイレの利用がしやすいスーパーはくとを往きだけ利用している。

前回乗ったときには全席指定席では無かったのだが、今回はそうなので早速上郡駅の自動券売機で指定席を購入した。

改札口でさっそく失敗をやらかしてしまった。

指定席特急券を改札機に投入してしまったのだ。

私は乗車料金はICOCAを使うので、乗車券を買っていなかったのでそれを求められたのだ。

要するに特急券を通す必要が無く、スマホのICOCAだけ使って入れば良かったのだ。

たまたま駅員さんが通りかかっていたので助けられたが、殆ど乗る人がいなかったので他に迷惑はかけずに済んだ。





席はトイレのある1号車近くに並んで座る席が2号車にしか無かった。

ホームで2号車出入り口と書かれた位置に待っていたら、はくとが停まるとそこにはドアが無く3号車のドアに行かねばならなかった。

そもそも、若い番号の号車は後尾であって先頭ではなく、窓側方向の感覚もずれていた。

私たちの席は山側の席で、明石から須磨までいつも楽しみにしている海が見えづらい席だった。

ただ、家内は列車の中では殆ど眠っているので気にしていない。

私は音楽を聴きながら車窓を眺めるのが好きで、はくとの無料Wi-Fiを使おうとしたがうまく繋がらず、auのインターネットを使った。

以前は車掌さんが切符の検札に来たのだが、今回はそれもなかった。

走り出してしばらくして、竜野駅の手前で緊急停止した。

踏切で緊急ボタンが押されていたということで、5分後に何もなかったということで運転を再開した。

どうも、いたずらがなされたらしい。


大阪駅で乗り換えて大和路快速で天王寺駅に向かった。

私は学生時代に名古屋と東京近辺の大都会生活を経験しているのだが、もうこういう都会の雰囲気には違和感しか感じない。

大阪は住んだことがないし、運河のある景色は独特で何度来ても懐かしさを感じない。

天王寺駅を降りるのは初めてで、公園口から市立美術館までは「てんしば」という芝生の公園が続いていた。

平日にも関わらず大勢の人がレストランや芝生の上で食事を楽しんでいた。

市立美術館では当日入場券を求めている人の長い列に驚かされた。

家内が前売り券を買っておいてくれたお陰で、すこし安くついたし並ばなくても済んだ。


美術館の中は人でごった返しており、時計の反対回りで見るように案内されるが、展示品にしがみついた人並みはなかなか動いてくれなかった。

私は展示品をじっくり見る気も無かったし、見てもその価値がよく分からなかったので、人垣の後ろからその隙間に見える作品を眺めた。

展示室ごとに一回りして見るべきことが分かっていなかったので、肝心の若冲の作品を見落としていたのだが、追いついてきた家内に言われて戻ってしっかりと眺めた。

若冲の『秋塘群雀図』は粟の穂に群がる雀を描いていたのだが、もち麦の穂に群がる雀に手を焼いていた自分には、作者は農民のいらだちを知らないと思った。

さすがに「群鶏図 」は見事に思ったが、雄鳥がこんなに群れをなしているなんてあり得ないと思ってしまった。

私は日本の芸術を理解する素養を持っていないように自覚した。

ちょっと前に岡山でデジタル再現した「洛中洛外図」も見てゆっくりと鮮明な絵を見ていたので、本物の絵には魅力を感じなかった。

とにかく、どの作品に対しても高い入場料を払っているのだから、じっくり見なくては損だとばかりにへばりついているので、あえて近づいて見るのを躊躇われた。

教科書の写真で見ている作品が直に見られる感動はそれほどでも無く、火焔式縄文土器を立体的に見られたことの方が興味がわいた。

また、薬師寺東塔の水煙は写真撮影もできて撮っておいた。

鑑真和上の像も親しみを感じられて良かった。


もう最期の展示室を見終わって出口の方に行こうとしていたときに、ドスンという音が館内に響いた。

それは予想通り、人が倒れた音だった。

土産物売り場のレジの側で、若い女性らしき人が倒れていた。

これだけに人混みで、待たされる時間も長く、倒れても不思議が無いように思えた。

コロナの時のように入場人数の制限をしていたときの方が、ゆっくりと見られたように思う。

美術館や博物館を巡り歩くのは、巡礼のように心得て普段から体力を維持しておく必要があるようだ。


博物館を出てからいつもの遺影を撮ると称した記念写真を家内にとってもらった。

遠くでなじみの通天閣もバックにして、大阪にもこんな良い風景があるのだと見直した。

昼食は天王寺駅近くの居酒屋風の店にはいって海鮮丼を食べた。

安くて美味しかったのだが、さっきの芸術的な雰囲気とは相容れぬものだった。

本当は、どこかのしゃれた店で、日本酒を飲みながら懐石料理を食べられたら良かったのだろう。


帰りは新快速で姫路まで戻って、各駅停車で相生駅までいって乗り換えて上郡に戻った。

普段自家用車では家内は隣に座っているし、家のコタツでも隣に座っている。

電車で向かい合って座っていると、家内が老けてしまったことを感じざるを得ない。

たぶん、自分もそうなのだろうと思いつつ、こうやっていつまで出かけられるのだろうかと不安に思う。

でも、無理してでも出かけていくことが大切なことだとも思っている。







2025年5月15日木曜日

心を治癒する農作業

このところ近しい人の葬儀が重なってしまった。

おまけに、その葬儀の対応を巡って、もっと近しい人から「ボケ」と罵倒された。

関西人はアホという言葉は日常的によく使うが、「ボケ」という言葉はかなり特別なときしか用いない。

私は「ボケ」と言われた経験の記憶がこれまでに残っていない。

その言葉に対して怒りを通り越して、絶望を感じてしまった。

「ああ この人間とはもうお終いなのだ」と思わせる言葉に思えた。

言った本人はすぐに謝りの電話をしてきたが、許すことはできなかった。

それ以降「ボケ」という言葉がずっと頭の中を駆けずり回っていた。

ヤクザやチンピラから町でボケと言われても気にすることは無いだろう。

しかし、もっとも信頼していた人間から言われると、かなりのダメージとなる。


こんな時は家の中に閉じこもっていては駄目だと、翌日は一日農作業をすることにした。

午前中はまず、雀に多く食べられてしまったもち麦のしっかりとした囲いをこさえた。

そして、先日植えたサツマイモの苗に水を用水路からリアカーに大きなタライに汲んで与えた。

ポリマルチをしていないので、刈って枯れた草を苗に敷いてやったりした。

午後からはしばらく休んだ後で、午前の作業の続きをした後は、刈草を集めたり、また伸びてきた草を刈ったりもした。

そのほか、タマネギの取り入れや、もう一度サツマイモの水やりをしていた。


近所の畑では多くの時間を畑で過ごすご婦人がいて、そこに友達もやってきて話し込んだりしている。

退職した年配の男性も午前中や夕方には畑仕事に精を出している。

私は一日中農作業することは滅多に無かった。

しかし、気が滅入るときはこうして農作業する方が気が楽になる。

そして、身体も疲れるので夜はぐっすりと眠れるのだ。

朝起きて食べた味噌汁は苦く感じたが、昼食は美味しく、夕食の第3のビールはたまらなくうまかった。

前日に受けたダメージは夕方には回復していた。

「ボケ」と言った相手を許すことはできないが、もうどうでも良くなった。

翌日、ラインを通して再び謝罪の言葉を受けた。

自分の感情を抑えきれなかったことが書いてあった。

私よりも歳が若いのに、年齢のせいにはできないだろう。

むしろ仕事だけに生きる暮らしの中で、心が疲弊しているように思えた。


私は特別支援学校の勤務が10年以上と長いが、作業学習では農業を担当することが多かった。

生徒達と農作業を通して、ふれあうことも楽しみの一つになっていた。

普通校との交流授業でも作った落花生を一緒に収穫したりした。

農作業が心を癒やし、人との関わりを楽しくさせてくれる。

それは作物の命と生長を身近に感じられているからだと思う。

にっくき、鳥や虫もいるのだが、それはそれで闘う相手に不足は無い。

天候や生活の事情からマニュアル通りには行かないのも、また次への意欲にも繋がる。

好きな水泳や歌の弾き語りは一日中することはできないし、歌は滅入っているときには歌えない。

こういう滅入っているときには一日中農作業をするに限るのだ。

ただし、真冬や真夏は健康を害するので注意が必要だ。

そういう時は時間を限って、他の楽しみと組み合わせれば良い。

都会の人が、高いお金を出しても市民農園で農作業をするのも理解できる。

薬やサプリに頼るよりも、農作業の方が心の治癒には役立つように思う。





2025年5月13日火曜日

背負い草刈り機の威力

 エンジン草刈り機は30年くらい前に、中古で購入して以来ずっと使い続けている。

農作業や村作業、庭の草刈りには欠かせない。

自然農法を指向する者としては心苦しいのだが、大鎌やノコギリ鎌、曲がり鎌なのを駆使しても、最期に頼るのは草刈り機だ。

それでも、少しでもエコに徹しようと、値が張るマキタの充電式草刈り機を購入して畑仕事やちょっとした村作業には用いている。

充電式草刈り機は音が小さいので、音楽を聞きながらの作業もできる。

ただ、一回の充電で30分持てば良いところで、バッテリーは二つあるのでせいぜい1時間が限界なのだ。

そうすると、大がかりな村の道作りなどの作業には使えない。

何よりも、赤穂の実家の畑は荒れ放題で、とても充電草刈り機では全部刈ることができない。


それらに対処するために自走式草刈り機も考えたが、性能の良いのは高額であるし、背の高い雑草を刈るのは困難である。

やはり、大規模農家も採用している背負い式のエンジン草刈り機の購入を決めた。

4サイクルなので今までの混合油とは違いガソリンのみが燃料となる。

小型耕運機も燃料はガソリンなので、混合油は使う必要がなくなった。

これで、混合油を自分で調合する手間は無くなったのだが、村作業で補給されるのは混合油なので、補給できなくなった。

まあ、村作業で使われるガソリンはせいぜい1リットルほどなので、200円ほどの自腹というわけだ。

それより何よりも、作業が楽なのだ。


実家の荒れた畑では大量の草を刈り倒すのにこつがいった。

今までの草刈り機は両手で刈れたのだが、背負い式は右手はスロットルを持っているので左手しか使えない。

ある程度草刈りのポールを腰に密着させて身体全体で動かし、左手の負担を軽くする必要があった。

それでも今までの草刈り機よりも、疲れはずいぶん減った。

そして、一番威力を発揮できたのは村作業で傾斜のついた道路の斜面の草刈りだ。

従来の肩下げや手持ちの草刈り機に比べて斜面での作業が効率的で楽なのだ。

また、背負の草刈り機を持っている人がもうひとりいたが、2サイクルなので馬力が弱い。

若い人よりも速く、稲作農家の人よりも多く作業することができた。

私のように休耕田を借りて畑をしている者の方が、大型トラクターを所有して農業倉庫まで持っている人よりも仕事ができるのは愉快だ。

作業に出てきているのは、私のようによそから転入してきた者は稀で、殆どが地主の跡取りである。

背負い式草刈り機は現代版の水呑百姓の意地を示すことができる優れものだと思った。

2025年5月10日土曜日

人の米泥棒、雀の麦泥棒

世間では、米が高騰の折、米泥棒が頻出している。

赤穂でも買って保管しておいた玄米が盗まれたことも聞いた。

幸い、近隣で米泥棒の話は無い。 

ところが、このところ家の裏にある畑には雀が多くやってくる。

撒いている米糠を目当てにしているのかと思っていたが、そうではないらしい。

ちょうど今、去年の秋に撒いたもち麦の穂が出ているのだ。

まだ、熟していないのだがついばんでいる。

去年も同じように植えたのに被害は無かった。

今年は小麦の栽培を近くでやっていないので、うちに麦泥棒が集中しているようだ。


去年は高黍(コーリャン)を植えて穂が出たときに、野鳥がやって来てついばまれたので、防鳥の黒いテグスを畑じゅうに張り巡らした。

そのお陰で野鳥や烏の被害が少なくはなっていた。

そのかわり、切れやすいテグスは垂れ下がって作物に紛れてしまい、今度草刈り機で高黍やもち麦の茎や草を刈ったときに絡まってしまった。

充電草刈り機を使っているので、黒テグスが巻き付くと、トルクも弱くてすぐに回らなくなってしまった。

一度刃の部分を分解して、絡まった黒テグスを外して直していたのだが、今度また同じように絡まってしまった。

分解するとかなり摩擦で溶けて、回転軸のパーツにこびり付いてしまっていた。

それをそぎ落とすのは大変な作業となった。

鳥に食べられるのは癪なのだが、特に雀などはずいぶん減ってきているので、収穫量が減っても今年は我慢しようかと一時は思った。


雀による被害


ところが、ふともち麦の穂を見てみると、殆ど食べられてしまっている穂がいっぱい有る。

これではせっかく作った意味が無くなってしまう。

雀は農家に遠慮などしない。

少しはあげても良いという気持ちなど、知ったこと無く全部かっさらおうとする。

私はとりあえず目の粗いネットをもち麦の穂のうえにかけて覆った。

しかし、その網の目もかいくぐって食べている。

完全にネットで覆うことができていないからだ。

そこでやむなく去年用いた黒テグスを張り巡らした。

ところがこの黒テグスも役に立たない。

雀は地面にも降りるし、黒テグスやネットの間から入り込んだり、弛んでるネットの上から実をついばんでしまう。

最後に残ったのは、寒冷紗であり、それを穂の上に覆うようにかけるしか無かった。

これも気休めに過ぎず、雀はいたる所からの隙間から入り込んで、食い尽くしつつある。


これから、鳥の好きなコウリャンや落花生も畑で育っていく。

トマトなどもカラスや亀などが好んで食べに来る。

幸い、イノシシやアナグマはやってこないのだが、それなりの対策が必要だ。

私の子どもの頃だったら、イノシシや鹿だけでなく、キジや山鳩も捕って食べていたし、

雀さえも食料にしていた。

実は祖父が猟をしていたので、たまにお裾分けを頂いていた。

今は野鳥の狩猟は禁止されているので、防御策を考えるしか無い。

大規模農家は別として、家庭菜園的にやっている人は、鉄パイプで枠を作ってネットで覆ってしまっている。

イノシシや鹿はジビエとして駆除した獲物が食べられているのだから、害をなして食用になる野鳥は絶滅のおそれが無い限り食用としても良いように思う。

人の米泥棒は警察が捕まえて賠償させられるのに、ひたすら守りで対策せねばならないのが雀の麦泥棒でたちが悪い。

昔は畑の側に小屋を建てて捕まえたり、追っ払ったりしていたのだが、これからはネットやテグス寒冷紗で防御するのも仕方ないと諦めるしか無いのが悔しい・・・・・










2025年5月8日木曜日

想い出と気質を分かち合う絆

 急に数えの80歳で亡くなってしまった父方の叔母の葬儀に参列した。

叔母は息子夫婦と孫5人と一緒に暮らしていた。

本人自身も5人兄妹の中で育ち、結婚するまでは「オモヤ」と言っていた本家を離れることは無かった。

そういう賑やかな環境にいた叔母にとって、入院は辛いものだったらしく、携帯電話で家族や親戚に電話をかけ続けていた。

だいぶ前から癌を患っていたのだが、認知症が進行して記憶も不確かなものとなってしまっていた。

私にも電話があって、お見舞いに行ったことがあったが、その時はまだ大丈夫に見えていた。

しかし、その癌は5年生存率も低く、突然に死をもたらしてしまい、叔母に会うのはそれが最期となってしまった。


私はその叔母には幼い頃に世話になっており、歳も13歳ほどしか離れていないので、ねーちゃんと呼んでいた。

一番鮮明に残っている幼い頃の想い出は、その叔母が独身の頃に住んでいた本家にしばらく預けられていた頃のことだ。

その本家は叔母の父母と兄夫婦とその娘の5人暮らしだったが、兄夫婦は家業である船の運搬業を営んでいて留守が多かった。

私はやんちゃで年子の弟に焼き餅を焼くこともあって、その本家に長く預けられることが多かった。

私は大好きなイトコの姉や祖母やその叔母が可愛がってくれたので、その家にいることが楽しかった。

だから、母親から帰ってくるように電話で言われたときに「帰らない」と言ってしまった。

すると、母は怒って「帰らなくて良い」と突き放したので、帰らないつもりになっていた。

それを叔母は案じて私を説得して、家まで汽車とバスを乗り継いで送り届けてくれた。

そのことを叔母も憶えていて、以前にそのイトコの葬式の時に話して懐かしんだ。


無事葬儀が済んで、出棺し火葬場でお別れしてから、集まってきたイトコやその親と食事をしながら話をする機会が生まれた。

私の父方のイトコは私を入れて11人いたが、一人は4年ほど前に亡くなった

今回参列できたのは喪主を入れて7人だった。

因みに私の父の葬式の時には、10人集まることができたので、それ以来の人数だった。

今回は亡くなったイトコの夫、息子夫婦、娘と子どもも来てくれた。

殆どのイトコやその子どもも叔母に可愛がって貰っていたので、無理しても参列してくれた。

一番遠くは小田原あたりからで、名古屋からもイトコが母親も伴って来てくれた。

亡くなった叔母との思い出だけでは無く、祖父母との思い出や多くのオジ・オバの話もすることができた。


その会話の中で初めて知ったのだが、名古屋のイトコ兄妹は今回一緒に来ている母親の仕事が忙しくて、私と同じように本家に預けられていたのだった。

本家の近くに住んでいたイトコ兄妹も、親が忙しい牛乳配達の仕事をしていたりしたので、同じように預けられていた。

つまり、祖父母と小姑であった叔母、そして本家の娘に多くのイトコが世話になっていたのだった。

私とそのイトコには本家で過ごした想い出を語り合う仲間でもあって、まるで半世紀前に溯ったようだった。

そして、亡くなったイトコの息子とも初めてゆっくりと話をしたが、やはり似たような経験をしていた。

今回参列したけど食事せず帰った弟や、参列しなかった2人の弟には本家に預けられた経験が殆どなかったことも確かだった。


もう一つの共通性は非常に頑固な気質を持っていた祖父と、子や孫に対する深い愛情を持っていた祖母の気質を受け継いでいたことだ。

それは本家に滞在していたときに経験しているが、自分の父親にも受け継がれていた。

今回の喪主だけが親が祖父母の娘だったが、他のイトコの親は全て祖父母の息子だった。

だから、喪主以外は自分の父親から厳しい躾と家族愛の大切さを叩き込まれていた。

だから、喪主姉弟には強い家族愛は見られたが、自分に対する厳しさはあまり見られなかった。

同じ父方のイトコでも、そういう気質の共通性と違いも生まれていた。


おそらく、こういう機会は今後二度と無いだろうと思う。

今後、ただひとり残った叔父やオジに先立たれた連れ合いの葬式では、これだけの親戚は集まらないだろうと思う。

だけど、それぞれの場所で、自分の幼い想い出と気質を同じくする仲間として生き続けていることを、今回叔母の葬式をもって知ることができた。

叔母は死をもって私たちに、普段会うことが無いけれど、こういう深い絆で結ばれていることを教えてくれた。


2025年5月5日月曜日

ローテクのリアカー再活用


 

私の父は結局車の運転免許を取らずに亡くなった。

仕事には路線バスや電車以外に、自転車やバイクを使ったりしていた。

田畑が家からかなり離れたところにあったので、自転車に鍬や鋤を乗せて通っていた。

さすがに稲を作るにはリアカーが必要で、がっしりした鉄製のリアカーを使っていた。

そのリアカーを自転車やバイクで引っ張っていたのだが、今から思うと当時は車も少なかったからできたのだと思う。

そのリアカーは私が貰って一時は同じようにバイクの後ろに付けたりしていたが、主に人力で引っ張って農作業に用いていた。

タイヤがパンクして以来使うこと無く、そのパーツは立てかけて棚にしたりしている。


まさしく半世紀以上前のリヤカーの残骸が現在の家にも残っている。

これには、父と一緒に籾の入ったドングロスの袋を運んだり、米作りの想い出がある。

それと、赤穂の古くて狭い家から新しい家に移るときに、父と一緒に引っ越し作業をしたのもそのリアカーだった。

今は、軽トラックを持っているので必ずしも必要では無い。

ちょっとした物を運ぶには一輪車で十分である。

ところが、重かったり、嵩張ったりする物を運ぶのに、軽トラでは行けない畑の中とか、浜辺などでは以前からリアカーが欲しいと思っていた。

学校でも校務員さんは植木の作業や草刈り作業にはリアカーを用いている。

軽トラは学校周辺の歩道や学校内の植え込み、運動場で使うには適していないからだ。

最近はアウトドア用のキャリーワゴンもあるが、起伏の大きい地形や重い物を運ぶには適していない。

やはり、農作業などに使うにはリアカーが最適だと思った。


そして、もう一つの目的は、SUPの色んな道具を運ぶことだ。

以前は、浜辺まで軽トラで行けたのだが、そこが進入禁止になってしまった。

駐車場から離れた浜辺まで色んな道具を運ぶにはリアカーが最適だと思った。

今のリアカーはアルミ製で軽いし折りたたむことができるので、軽トラや大きめの自家用車に積み込める。

砂地や石ころの多い浜辺でも、タイヤが大きいのでスムーズに移動できるのだ。

そして、最大積載重量が150kgというのが最大の魅力なのだ。

場合によって人を乗せてあげることもできる。


注文して配達してきたリアカーを最初に使ったのは、大量の水で薄めたハイポネックスだった。

リアカーに大きなタライを乗せて、用水路の水を柄杓でくみ上げハイポネックスを混ぜて、畑の側のあぜ道を押していって、作物にかけていった。

夏場になって大量に水が必要になったら、リアカーでエンジンポンプやホースを乗せて用水路からの水を利用するつもりだ。

去年までは軽トラで行っていたのだが、機材の上げ下ろしが面倒だし軽トラの置いておく場所にも困った。

リアカーは確かに力がいるが、手軽で便利な上、経済的なのである。

近所の人は大きめのジョーロを抱えて用水路から何度も往復している。

リアカーで水を運べば何回も往復する必要が無い。


自治体によっては非常時のためにリアカーを置いてあるところもあるようだ。

燃料や電気が無くても動くし、ノーパンクタイヤであるのでどこでも行ける。

近所の農家はどこに行くにも軽トラを使っているのだが、近いところにちょっとした道具を持っていく程度ならリアカーで十分だ。

細い路地の生け垣の枝打ち作業にも使えるし、大量のゴミ出しなどにも使える。

この頃はエンジンや充電式の小型運搬車も売り出されているが、それに比べるとずいぶん安いし折りたためば保管場所もいらない。

どんどんハイテクの機器がもてはやされている中で、ローテクながら改良を加えたアルミ製折りたたみ式リアカーとして生き残っている。

そういえば、ドローンを打ち落とすのに第一次世界大戦で使用した飛行機が有効だと聞いた。

ハイテクに対抗できるローテクも時代を超えて生き残っていけるのだ。

だから、ローテク扱いにされる我々世代も、それなりに変身して生き残っていかねばならない。




2025年5月2日金曜日

人はカネ(賃金)のみに生きるにあらず

私は去年65歳になって、年金を満額貰えるようになったので、賃金を得るための仕事からは遠ざかっている。

仕事が生きがいで続けている人がたくさんいて、生き生きとしているのも知っている。

だけど、自分にはやりたいことや、やり残したことがあり余るほど有る。

教師をやっていた頃にやりたくても我慢していたことや、本来人が暮らしていく上で大切だと思うことを死ぬまでやり続けたいと思っている。

そもそも、そういう暮らしがおかしくないと思うのは、奄美の与路島に学生時代に研究で通っていたからだと思う。


与路島では正規雇用で働いていたのは、学校職員、郵便局員、発電所職員(後に廃止)くらいで、現金収入は畜産業や店舗で得る人が多かった。

学校の職員は外部の人が殆どであり、郵便局員も以前は与路の人が主力だったが後には外部の人が主力になったりした。

臨時に土木作業や建築作業の仕事があったり、非正規の常勤仕事も少ないがあった。

また、生活保護家庭が多かったのも確かである。

店舗が多かったのは、荒天で船が何週間も来ない時があるので、備蓄の意味もあった。

どんなに品が不足しても値段を上げることはないし、目が不自由な人が店主を務められるくらい思いやりがあった。

確かに家の作りは簡素ではあったし、風呂の無い家もあった。

しかし、食生活は決して貧しくは無かった。

なぜなら、海や山へ行けば美味しいものは簡単に手に入ったからだ。


食料も自給自足をしようと思えば可能で、何せサツマイモが寒い時期を除いて植えて収穫の繰り返しができたし、以前はソテツの実や幹が普通に食べられていた。

海へ行けば、女性でもサザエやアワビが簡単に拾えたし、タコやカニなども磯辺で捕れ、季節によってはノリも採れた。

男は漁はお手の物で、釣りをするのが普通だが、潜って捕ったり、岸辺から銛で突いたりしていた。

また、放し飼いにしている山羊を特別な日に潰して食べたり、正月には飼っている豚がご馳走となった

有る商店では豚を農家から買い入れて、自分で屠殺して処理して販売していた。

また、特別な例だが、出産で死にかけていた飼育牛を仲間を組んで屠殺して、分け合って食べたりもしていた。


古くは焼酎も造っていたが、今は店で買っており、必ず家に置いておくべきもので、夜に訪問すると必ず出されるものだった。

夜に訪れてお茶を出したら帰れという意味にとられてしまうし、私は滞在場所で切らしていて青年団に叱られこともある。

年配の人は三線を弾けたし、若い人はカラオケの機械を担いで家々を巡り歩いたりしていた。

夜は焼酎を美味しい海産物などをアテに飲んで歌うのが楽しみになっていた。

昼間でも神人やユタを中心とした神事で、太鼓を鳴らして遊ぶことがなされていた。


そんな暮らしを何ヶ月も経験していたので、貧しくても楽しく暮らしていけることを知っている。

与路島で一番学んだことは、それほど金が無くても楽しく暮らせていけることだった。

実際に、よそのシマの出身の独身連絡船乗務員は、大卒初任給が14万円だった頃に1ヶ月4万円で暮らせると言っていた。

その人は与路泊まりと古仁屋泊まりがあって、毎晩のように懇意にしている人の家へ飲みにいったり、古仁屋のスナックに行っていた。

地元の人もスナックを開いたこともあったが、店主が酔い潰れてしまうので商売にならず潰れてしまった。

民宿は奥さんがしっかりしている人がやっていた。


そんな心地良い生活はここ上郡では無理なので、せめて好きなことをしながら生活したいと思っている。

日課としては、朝から夕方にかけて、犬と散歩したり、本を読んだり文章を書いたり、農作業、水泳、そして飲みながらの歌の練習だ。

季節によって、山菜を採ったり、海に貝を拾いに行ったりするが、一番の仕事は気候に応じた農作業だ。

夜は大好きな酒を飲んでしばらくして眠った後に、また起きて本を読んだりテレビを見たりしている。

これこそ、30年間我慢して働いて手に入れた自由な生活なのである。

確かに貯蓄と年金という金があっての生活だが、賃金を得るための仕事に縛られずに済んでいる。

ただし、村作業が年間では最低7回ほど有って、それには必ず参加している。

おそらく、資産家は気ままな生活が若い頃から可能なのだろうが、働いて賃金を得る喜びも知っているので資産家をうらやむことは無い。

もう、そんなに長くは生きられない老齢者にとってのせめてもの心豊かな暮らしは絶対必要だと思う。

そして何より、自給自足的な農業や山野河海の恵みを得ることによって、本来の人間らしい生活に近づけるのが私の理想であり取り組みなのである。