急に数えの80歳で亡くなってしまった父方の叔母の葬儀に参列した。
叔母は息子夫婦と孫5人と一緒に暮らしていた。
本人自身も5人兄妹の中で育ち、結婚するまでは「オモヤ」と言っていた本家を離れることは無かった。
そういう賑やかな環境にいた叔母にとって、入院は辛いものだったらしく、携帯電話で家族や親戚に電話をかけ続けていた。
だいぶ前から癌を患っていたのだが、認知症が進行して記憶も不確かなものとなってしまっていた。
私にも電話があって、お見舞いに行ったことがあったが、その時はまだ大丈夫に見えていた。
しかし、その癌は5年生存率も低く、突然に死をもたらしてしまい、叔母に会うのはそれが最期となってしまった。
私はその叔母には幼い頃に世話になっており、歳も13歳ほどしか離れていないので、ねーちゃんと呼んでいた。
一番鮮明に残っている幼い頃の想い出は、その叔母が独身の頃に住んでいた本家にしばらく預けられていた頃のことだ。
その本家は叔母の父母と兄夫婦とその娘の5人暮らしだったが、兄夫婦は家業である船の運搬業を営んでいて留守が多かった。
私はやんちゃで年子の弟に焼き餅を焼くこともあって、その本家に長く預けられることが多かった。
私は大好きなイトコの姉や祖母やその叔母が可愛がってくれたので、その家にいることが楽しかった。
だから、母親から帰ってくるように電話で言われたときに「帰らない」と言ってしまった。
すると、母は怒って「帰らなくて良い」と突き放したので、帰らないつもりになっていた。
それを叔母は案じて私を説得して、家まで汽車とバスを乗り継いで送り届けてくれた。
そのことを叔母も憶えていて、以前にそのイトコの葬式の時に話して懐かしんだ。
無事葬儀が済んで、出棺し火葬場でお別れしてから、集まってきたイトコやその親と食事をしながら話をする機会が生まれた。
私の父方のイトコは私を入れて11人いたが、一人は4年ほど前に亡くなった。
今回参列できたのは喪主を入れて7人だった。
因みに私の父の葬式の時には、10人集まることができたので、それ以来の人数だった。
今回は亡くなったイトコの夫、息子夫婦、娘と子どもも来てくれた。
殆どのイトコやその子どもも叔母に可愛がって貰っていたので、無理しても参列してくれた。
一番遠くは小田原あたりからで、名古屋からもイトコが母親も伴って来てくれた。
亡くなった叔母との思い出だけでは無く、祖父母との思い出や多くのオジ・オバの話もすることができた。
その会話の中で初めて知ったのだが、名古屋のイトコ兄妹は今回一緒に来ている母親の仕事が忙しくて、私と同じように本家に預けられていたのだった。
本家の近くに住んでいたイトコ兄妹も、親が忙しい牛乳配達の仕事をしていたりしたので、同じように預けられていた。
つまり、祖父母と小姑であった叔母、そして本家の娘に多くのイトコが世話になっていたのだった。
私とそのイトコには本家で過ごした想い出を語り合う仲間でもあって、まるで半世紀前に溯ったようだった。
そして、亡くなったイトコの息子とも初めてゆっくりと話をしたが、やはり似たような経験をしていた。
今回参列したけど食事せず帰った弟や、参列しなかった2人の弟には本家に預けられた経験が殆どなかったことも確かだった。
もう一つの共通性は非常に頑固な気質を持っていた祖父と、子や孫に対する深い愛情を持っていた祖母の気質を受け継いでいたことだ。
それは本家に滞在していたときに経験しているが、自分の父親にも受け継がれていた。
今回の喪主だけが親が祖父母の娘だったが、他のイトコの親は全て祖父母の息子だった。
だから、喪主以外は自分の父親から厳しい躾と家族愛の大切さを叩き込まれていた。
だから、喪主姉弟には強い家族愛は見られたが、自分に対する厳しさはあまり見られなかった。
同じ父方のイトコでも、そういう気質の共通性と違いも生まれていた。
おそらく、こういう機会は今後二度と無いだろうと思う。
今後、ただひとり残った叔父やオジに先立たれた連れ合いの葬式では、これだけの親戚は集まらないだろうと思う。
だけど、それぞれの場所で、自分の幼い想い出と気質を同じくする仲間として生き続けていることを、今回叔母の葬式をもって知ることができた。
叔母は死をもって私たちに、普段会うことが無いけれど、こういう深い絆で結ばれていることを教えてくれた。
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