親戚の葬式に今年は早くも4回参列した。
いとこ、二人のオバ、義母である。
その中で、葬式の場に未成年の子どもがいたのは、一人の父方の叔母だけだった。
これまでは自分の両親や親戚の葬式には必ず子どもがいたのだが、このところ子どものいない葬式が続いている。
これも少子高齢化の影響だと言えばそれまでなのだが、これでは典礼会館CMのコピーである「生きる、お葬式」にはならない。
お葬式の対象となる死者同様に、参列者に死に行く未来の不安を吹き飛ばす子どもがいないからである。
形式だけが先行している今の葬式は、呪文のような読経を長時間我慢して聞くこと、そうして焼香して挨拶する儀式となっている。
そして何万円もした供花を一緒に灰になってもらうために、惜しげも無くお棺に入れてあげるのが唯一心を込める手段となっている。
家で葬式を行っていた頃は、通夜の段階で近所の人が手伝いに来てくれて、すべてまかないをやってくれていた。
それが仕出し弁当に変わり、そして葬儀場ですべてまかなわれることになった。
それによって、確かに近所の人も家族や親戚の負担も軽減されるが、人の死そのものが軽んじられるようになったようにも思う。
かつての葬式は、亡くなった人に対してだけでなく、残された遺族に対しての思いやりの場で有った。
長生きは良いことなのだが、喪主や子どもは現役でなくなったり、再雇用の身分であったりしている。
この場合は職場に対して遠慮が生まれて、現役の遺族は家族葬でするのが当たり前になる。
亡くなった人が高齢で一人暮らしだった場合も、近隣の関係が薄れてやはり家族葬となる。
職場や近隣と切り離されて、ごく親しい関係の人だけの寂しい葬式になることが多くなった。
家族の方も、故人が長生きして周りの家族に負担をかけ続けていた場合は、正直なところ肩の荷が下りてホットすることもある。
親の介護に関われなかった喪主は、その負担をかけた身内に葬式で詫びねばならないこともある。
以前なら長寿を全うして、紅白饅頭を配るところさえあった。
90歳くらい以上の長寿で亡くなった人に対しての敬意さえ薄れてしまった。
かつて元気だった頃の故人の記憶が薄れてしまい、亡くなる前の介護が困難だった頃の記憶だけが強調されてしまう。
長生きして手厚い介護を受けることは、かつて元気で近親者に尽くしていたことに対する感謝の気持ちさえ奪われてしまうことにもなっている。
ただ、葬式や法事に幼い子どもや孫が参列していると、葬式は別の意味を持ってくる。
命が受け継がれたことが実感でき、泣いたり騒いだりしている声の方が、読経の声よりもありがたく感じるのだ。
私の父母の葬式や法事にはいつも幼い子どもが加わっていたので、命が繋がった確認ができ、まさしく「生きる、お葬式」が実感できた。
ところが、そういう幼い子どもがいない場合は、いくら若い青年がいてもそれがあまり実感できるものではない。
私だけかもしれないが、亡くなった故人の魂がこういう幼い子どもなかで息づいていくように感じるからかもしれない。
本当に哀しい葬式とは幼い子どもの参列者がいない「生きられない、お葬式」であるように思える。