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2025年7月31日木曜日

苦慮する我が家の宅配ボックス

 家内とドライブしているときに携帯電話が車のハンドフリーが鳴った。

宅配業者が宅配ボックスに入れた品物が傷むのを気遣って連絡してきたのだ。

実は、常温で保存できる牛乳を一箱24本注文していた。

注文するときに時間指定していなかったので、日曜の一番真昼の暑い時間帯に配達されてしまった。

それを聞いた以上は、どこにも寄らずにまっすぐ帰らなくてはならなくなった。


本来、宅配ボックスは庇のある玄関に設置するべきだろう。

ところが、郵便や新聞の受け箱を兼ねているので、玄関から少し出た駐車場の近くに設置している。

玄関に移動させても良いのだが、その近くには番犬のクロがいて人が来ると吠えるのである。

日中は問題ないのだが、新聞の配達される早朝に吠えられると、我が家も困るが近所迷惑にもなる。

そこで今までの郵便受けと同じ位置に宅配ボックスを設置した。


そうすると、雨ざらし、陽ざらしになってしまう。

去年は大きなパラソルを差し掛けたり、ベランダボックスの蓋を上にのせたりしていた。

今年もベランダボックスの蓋を置いて何とかなると思っていたのだ。

先日から電気製品などでは気になっていたのだが、傷みやすい食料品のことで対処を余儀なくさせられた。

とりあえず、長いすだれを二枚使って宅配ボックスを覆ってみた。

これから、真剣に考えて宅配ボックスのためのボックスを作らねばならないだろう。

近頃は犬を庭で飼っている人がいないので、それに応じたグッズは見当たらない。

通販で買い物をするのが当たり前になった現在、宅配ボックスを設置するのも当たり前になりつつある。

我が家のケースのように野外に設置して、風雨に耐え断熱効果のある安価な宅配ボックスやそのカバーを考案して欲しいと思う。

一方で、外出の多い休日に配達されるときは、きちっと時間指定しなければと思った。




2025年7月30日水曜日

プールに見る老女パワー

 児童生徒が夏休みになると午後からは、プールでまともに泳げなくなる。

午前は夏休みの宿題などで、自宅や塾にいるのだが、午後になると友達とプールに遊びにやってくる。

最近は学校の地区水泳も無いのが当たり前で、プールの授業自体を温水プールで行って、学校では水さえ入れていないところもある。

去年は何も考えずに、午後に泳ぎに行くと6コースの半分を遊泳に使っているので、残りのコースで泳力が違う者が同じコースで練習しづらい。

また、泳ぐコースを普段やっていたのと同じように歩行する人もいる。

それで、泳ぐ人の少ない昼休み前後に変えた。

上郡のプールでは午前のスクールが終わる11時半から13時頃までを練習時間にして、昼食は練習後の2時過ぎてからとっている。


月曜は相生のプールに行く日で、午後からは生徒児童で混雑するのが予想されたので、午前の11時から泳ぐことにした。

ちょうど、アクアビクスのレッスンが始まる時間で、3コースほどに多くのご老人が集まっている。

大半は女性だが、男性も隅っこの方で固まってそこそこいる。

プールサイドで踊るコーチの動作通りに水中でいっせいに踊り始めた。

かける音楽のリズムも速く大きく、コーチのかけ声も大きくプール全体に響き渡った。

こちらは練習に集中はしていたのだが、時折その圧巻の踊りを見て刺激を受けた。

そして、泳ぎ専用の1コースは他に泳ぐ人がいなかったので、ひとり独占して泳ぐことができた。

ところが、他のコースはやはりご老人の女性を中心に人数は多く、児童もお婆さんと一緒に楽しんでいる。

ふだん、静かな上郡のプールに親しんでいる者としては、まるでレジャーランドのプールのように思えた。


アクアビクスは1時間で終わり、私はその後30分以上泳ぎ続けていた。

そして、この圧巻の集団を指導していたコーチがどういう人か気になって、その後の様子を見てみた。

なんと、知り合いの女性だった。

彼女は全国大会にも出場した元水泳選手で、一時、上郡でコーチをしていたので私と同じマスターズチームにいた。

当時は温和しく無口で可愛くて優しい感じの人だった。

その変貌ぶりに驚いた。

これだけの老女パワーを引き出し、圧巻の踊りを繰り広げさせる技術は水泳の泳力と変わりが無いのかもしれない。

ここでは老女パワー溢れる午後の水泳レッスンの隣で練習するのを避けてきたのだが、夏休みはこの時間帯以外では混雑するので避けられない。

たぶん、毎週この老女パワーに打ちのめされないように、頑張って泳がねばならないだろう。

かく言う私も老人の一人なので、そのうちに仲間に入ってあのコーチに従って踊る方が楽しそうだけれど・・・・




2025年7月28日月曜日

夏ごもり

 以前のブログで「今はもう夏、誰もいない田畑」を書いたのは、6月のことだった。

あれからますます暑さと日照りの猛威は収まらない。

真冬の寒いときには農作業もすることがなく、いわゆる「冬ごもり」状態が普通だが、今では夏もあまりに暑くて農作業ができずに「夏ごもり」になったいる。

このごろは朝の涼しいときにさえ、畑に出てこない近隣の家が増えた。

私は空調服でちゃんと暑さ対策をして、朝の5時前から裏の畑で農作業をする。

水やりをしながら、キュウリ、トマト、ズッキーニ、オクラの収穫をしているのだが、出会うは新聞配達の車だけである。

朝食は6時半頃から始めて、7時半頃には犬の散歩に出かける。

そこでは誰に出会うことも無く、遠くでコウノトリの親が子が餌を探している姿を見ることだけが慰めとなる。

たまには、その写真を撮りに車で来た人を見かけることもある。


昨日(7/27)は日曜だったので、いつものように家内とドライブがてら昼食を食べに出かけた。

家内は寿司が好きなので、月に数度は回転寿司を食べに行くのだが、渋滞する東岡山の店を避けて、津山まで出かけた。

まだ11時過ぎでちょっと早いかなと思ったが、店の駐車場はほぼ満車状態で、店内も殆どの席が埋まっていた。

ひょっとして朝食と昼食を兼ねているのかなと思うくらいだ。

とにかく、若い子連れの人や、中学生くらいの女子が友達と一緒に来ていたりする。

年老いた母親と来ている息子さんらしい人などは、話をしながらゆっくりと食事をしている。

私ら夫婦は回転寿司に来ると矢継ぎ早に注文して、一皿2貫の寿司を分け合って食べている。

小食の家内が多くの種類を食べたい方なので、このやり方をずっと続けている。

この方法は安上がりで良いのだが、互いに気遣って、食べるのが速くなってしまうのが欠点だ。

本当はビールでも飲みながらゆっくりと食事を楽しみたいところだ。

暑い日はこういう店でゆっくり過ごすのが安上がりで、満足いくことができる筈だが、店内の順番待ちのお客さんを呼び出す声がそうさせない。

これも、回転寿司店が客自体の回転を上げる方法なのだろうとは思う。


今の時代の我が家の夏の休日の過ごし方は、ドライブで車の中、モールでのショッピング、安上がりの外食チェーン、道の駅が多いように思う。

家の中でエアコンをかけて、テレビを見ながら冷えたビールを飲むのも悪くは無いが、休みの日は家に籠もりたくない。

家内は家に籠もる方が好きなようだが、東京の狭いアパートから休日に脱出していた私の習慣が続いているのに付き合ってもらっている。

都会の人は、住宅事情などから公共交通機関を使って外出して、どんなに暑くても街から人通りが途絶えることはあまりないだろう。

しかし、田舎では家に籠もるのが一般的で、我が家のようにドライブに出かけるのは若い子連れ夫婦だけだ。

それで家の周りには人がいなくなり、蝉の鳴き声だけが空しく村中に響き渡っている。

いずれ、夏の酷暑が当たり前になって、冬ごもり同様に夏ごもりも当たり前となるのだろうと思う。

2025年7月26日土曜日

一人籠もり暮らしの落とし穴

 私は朝五時に起きて農作業をしているが、その時に時計代わりにHNKラジオの「マイあさ」を聴いている。

ラジオの良いところは聴いている人がいろいろと投書して、意見や気持ちを公開して意見交換できることだ。

そんな中で、「高齢者は健康のために外出して人と関わった方が良いと言うが、自分にとってそれは却って苦痛だ」という投書に反響があった。

自分もそうだという意見が多かったことが今の時代を反映していると思った。

この話題では心当たりがあるので考えさせられた。

私のよく知っている知り合いのMさんから、引き籠もってしまった一人暮らしの母親に苦労した話を聞いていたからだ。

かつてそのMさんの母親はコロナの影響で外に出られなくなった。

それまでは非常に外に出て人と関わりを持つのが好きな人だった。

ところがコロナが収束しても家に閉じこもるようになってしまった。

娘であるMさんと週に一度買い物する以外はほとんど家を出ることもなく、髪も伸び放題になって浮浪者のようになってしまった。

いくらMさんが美容院に行くように話しても言うことを聞かない、理由は美容院であれこれ聞かれて話をするのが嫌だと言うことだった。

認知症の症状も出て自分の身の回りのこともできなくなったきたので、Mさんは介護認定を受けさせようとしたが、自分は大丈夫だと頑として受け付けなかった。

その一方で、食欲も落ちて体重も減ってしまったのだが、意外と病気にはならなかった。

Mさんはこうなったら、病気で入院しないと改められないと腹を括ったそうだ。


その日はまもなくやって来た、昨年の夏に風邪をこじらせて肺炎になってしまった。

暑いのに自分は暑くないからとエアコンもつけずに暮らすことが多かったので、体力が落ちてしまっていたのだろうという。

Mさんは救急車を呼んで病院に連れて行こうとしたときにも、病院に行くことに抵抗して救急隊員を手こずらせたそうだ。

入院したお陰で、介護認定もできて2級と判定されたし髪も短く切ることができて、家にいるよりずいぶん安心できたという。

病気の方もは回復していったが、認知症の方がますます進んでいってしまった。

一人暮らしができる状態ではなかったのだが、退院して家に帰りたいとずっと言っていたそうだ。


肺炎の方は回復したので、認知症に関わる専門の病院に転院するときにには大変なことだったという。

入院先の病院の受付で大騒ぎになって、数人かかって看護師さんが何とか本人を入院させてくれた。

それからはMさんは病院に支払い等の用事で行っても、本人と面会がしづらくなってしまった。

面会すると騒動を起こす可能性があったからだ。

ただ、亡くなる一週間前に本人の妹とMさんは面会に行くことができた。

その時は元気そうだったし、妹さんは看護師でありその見立てもしばらくは大丈夫と言うことだった。

ところが一週間後の朝に突然危篤の電話があって、Mさん夫婦は駆けつけたが間に合わなかった。

昨年の八月に入院して亡くなったのは今年の七月で一年も持たなかった。

歳は90歳ほどなので決して若かったわけではないが、コロナ以来の周りとの関わり方に悔いが残った。

本人の息子夫婦とも一度会っただけだし、孫とも一度も会っていなかった。


もし、コロナで家に引き籠もらなかったこんなことにはなっていなかっただろうが、問題はMさんの母親が娘の言うことを全く聞かなかったことにある。

確かに家に一人でいて気楽に暮らすことの方が健康な人もいるだろう。

そういう人を無理に連れ出す必要はないと思うが、はたして本当に大丈夫なのだろうか。

私の近親者はずっと引き籠もって最近は一人暮らしだったのだが、この五月に70歳の若さでなくなってしまった。

急なことで亡くなっているのが発見されたのは二日後だった。

まだ発見が早かったのは弁当を毎日業者に届けてもらっていたからだ。

一度、入院したことがあったが、その時の病院暮らしに懲りて、足の具合などが悪くても入院治療を行おうとはしなかった。

連絡を受けて対応したのはその人の弟だったが、救急車や警察が駆けつけて大変な騒動になってしまったようだ。


一人籠もり暮らしは確かに誰にも迷惑をかけなければ問題ないとは思うが、自分がもし亡くなったときのことを考えているかと言うことだ。

Mさんの母は娘さんが定期的に訪ねていることで孤独死は真逃れた。

しかし、終活を行っていなかったので、残された親族で家を片付けるのは大変で、結局は業者に高額な費用を払って大半をやってもらわねばならなかった。

そして、年金などをしっかり貯金していたので、親族への金銭的な負担も無く、遠くに住む跡取りの息子夫婦に多くの金銭を残すことができた。

一人籠もり暮らしを自ら望んでする人は、万一に備えて終活を行っておく必要があるだろう。

高齢者が新たにアパートなどを借りることができないのがこういう孤独死との関連だという。

もし、貯金が無い場合は周りに大変な迷惑と負担を強いることになる。

お一人様で気楽に暮らす人は自分の死に対する覚悟と周りへの配慮は欠かせないと思う。


かつて奄美の与路島では、感染症の病気になって覚悟を決めたときには、自ら海岸のアダンの林の中で死を迎えたという。

京都でも古くは亡くなる前に墓場に持って行かれていたことは有名である。

姥捨て山の伝説は至る所にあるが、実際は覚悟を決めて出小屋などでひっそり暮らして死を迎えるのが多かったようだ。

「死」や「老い」は周りに迷惑をかけるものだから、覚悟せねばならない貧しい時代もあった。

近代以前は亡くなった人の遺物は川に流してそれを拾って活用する人もいたほど貧しい地域もあった。

だから、与路島では死に行く人に家を貸しても、産婦には家を貸すなと言われた。

今の時代は死者の持ち物を当てにする人などいない、遺物の片付けに労力と金銭がかなり必要となる。

周りのアドバイスや子どもの言うことを聞かないのであれば、それなりの覚悟と準備が必要だということだ。

おそらく、ラジオに投書した人は覚悟と準備ができているとは思う。

しかし、現実にはそういう覚悟と準備ができていないまま一人籠もり暮らしをする人が多くいることも事実だと思う。

近年は若い人でも孤独死を考えて、ネットなどで業者に依頼して対策を行っている人もいるという。

一人籠もり暮らしを正当化することができるのは覚悟と準備ができている人で、お一人様と気楽に言えるのは資産を多く持っている人だけだろう。

また、そのお一人様は決して家に籠もるような危険を冒してはいないように思える。




2025年7月24日木曜日

トヨッさんとコウノトリ

 近所で仲良くしてもらった人がいた。

私より一回り上の人で、他の村から婿入りしてきた人である。

私は家族と村に転入してきたので、男性では婿入りした人の方が気安かった。

どうしても村育ちの人は、昔話をよくするのでそこで育っていない者はついて行けない同じ立場だからだ。

トヨッさんとは趣味が重なるところも多くて、一緒に海に行って魚介類を潜ってとったり、たまに誘われて家に行ったりしていた。

彼は必ず家でなる柿をいっぱいくれたので、お返しに私の作ったサツマイモなどの作物をあげたりした。

村作業や村行事では話す機会も多く、彼のセミプロの腕前の写真のことが多かったが、写真を通してよく勉強していて、教えられることが多かった。


例えばジャコウアゲハが近くで見られることも教えてもらったし、珍しい昆虫の写真から鳥の写真まで色々と見せてもらった。

ただ、私は自分の研究で手一杯だったので、深い関心を抱くことは無かった。

鉄道に関しては、彼は撮り鉄で私は乗り鉄という大きな違いがあった。

彼は運行される車両や走行時の背景が重要だったが、鈍行や夜行に乗って過ごすことが好きだった私は関心はわかなかった。

関心も持ち方は違うことが多かったが話題に事欠かなかった。

そんな中で一番の話題はコウノトリのことだった。


トヨッさんは初めて上郡の高田地区にコウノトリが来てからずっと写真を撮り続けていた。

初めて見つかったのが2012年頃だったからかれこれ13年も続いていた。

ただ、最初1羽しか来なくて、年によっては2羽になったり、ちょっと立ち寄ったりするだけの年もあった。

コウノトリを見かけると必ず望遠カメラを片手に愛車に乗って出かけていた。

彼は10年ほど前から癌を患い、それを私が本人から聞いた時にはステージ4の段階で、薬事治療を続けていた。

村作業も調子の良いときには出てきていたが、悪いときには奥さんが出てきていた。

それでも、コウノトリがやってくると元気になって、いつものように愛車で出かけるので、私はコウノトリがトヨッさんの命を支えていると思っていた。


そんな彼も癌には勝てずに、この5月に亡くなってしまった。

やっとコウノトリが設置された鉄塔に営巣して、抱卵している頃だった。

彼は旅立ってしまったが、コウノトリのヒナはちゃんとかえって、今も3羽とも元気で田んぼの中で餌を探している。

田んぼの中を犬と散歩をしていると、たまに白い車に出会うことがあるのだが、いつものようにトヨッさんと思ってしまう。

散歩の時に撮影する彼に出会っては、挨拶したり話をすることが多かったからだ。

散歩の途中でトヨッさんを見かけて元気であることを確認してもいた。

今はコウノトリの姿を見ると彼のことを思い出す。


トヨッさんが亡くなったすぐ後で、こうして新しいコウノトリの命が誕生したことになにか因縁めいたことを感じる。

人の命は子や孫に普通は繋がっていくのであり、彼にも孫は確かにいる。

しかし、遠く離れて滅多に会うことのできない孫よりも、毎年やって来たコウノトリをずっと気にかけていた。

人の命を単にDNAだけで繋がりを表すのは心貧しく感じる。

人はタマシイという言葉で、人以外の生き物やあらゆる物に対してもその繋がりを感じたり表現してきた。

そのタマシイの繋がりを感じられるのは、その人と関わりを持ってその人の心を汲むことができた場合だと思う。

その点で言えば、彼がコウノトリを思い続けていたのは、村の多くの人が知っている。

村だけでは無くて、上郡町でも上郡民報に掲載されたコウノトリの写真でも知られていた。

実は私のブログでも彼の写真を使わせてもらっていた。(鳥の楽園と愚犬騒動


彼は、時間を厭わずコウノトリの羽ばたいている姿など、素晴らしい一瞬を捉えていた。


私は村落調査では記録のために写真を撮り続けていたが、彼のような芸術作品とはかけ離れていて写真そのものにのめり込むことは無かった。

彼と違って、私は犬と散歩していてもコウノトリが気にせずに餌を探していること自体が嬉しく思い滅多に写真は撮らない。

それは彼が自分の命が限りあるものと常に思いながら、シャッターを切り続けていたのとはまるで違うのだろう。

私は今のところは、消えゆく自分の命を感じなくて済んでいる。

その分、命が消えた後に残されたタマシイをコウノトリの姿で感じ続けていたいと思っている。







2025年7月22日火曜日

心身を癒やしてくれる花や作物

 人が一番植物と話をしたがるのは花が咲いたときだと思う。

私は先日、やっとハイビスカスの花が咲いて「ありがとう」と小声で語りかけた。

ハイビスカスは学生時代の特別な思い出がこもった花で、買ってきてから5年間も咲き続けている。

去年の冬には思い切って刈り込んだ。

枝葉が茂りすぎて、部屋の中で冬を越させるのに邪魔になってきたからだ。

ネットで調べると越冬させるのに半分ほどにした方が良いとあったので試してみた。

貧弱になった上に、葉が全部落ちてしまったので、今年は咲くか不安だった。

ようやく葉も多く茂りだして、やっと一輪咲いたのだった。

私は多くの鉢物を育てているが、このハイビスカスとガジュマル、ソテツはかつて村落調査で通い続けた奄美を家で再現して懐かしんで癒やされている。


残念ながら今年は畑が忙しかったので、ひまわりなどの夏の花を植えていない。

そのかわり、畑ではいろんな花が咲いて関わりが多くなる。

一番気がかりなのはズッキーニの黄色い花だが、雌花が咲くと必ず受粉させてやらねばならない。

ところが今年は雄花ばかりが咲いて、雌花は咲かずに腐ってしまう。

たぶん、雨が少ないので水不足だからだと思う。

近所の知り合いはキュウリがそんなふうになってとれないという。

私はキュウリにはしっかり水をあげていたので、たくさんなっているがズッキーニへの水やりはいい加減だったのが悪かったらしい。

その後、水やりをしっかりしても改善しなかったが、寒冷紗をかけてやると改善してきた。

どうも、高温が応えていたらしい。


トマトの花はみすぼらしいのだが、オクラの花は飾りたいくらい美しい。

オクラも水不足で生長が悪いのだが、30cmほどの丈でも花を咲かせて実をつけてくれた。

オクラは毎朝納豆に生で刻んで入れるので、我が家には欠かせない野菜だ。

ほかに咲いているのはカボチャなのだが、こちらも雄花ばかり咲いているように思う。

カボチャは受粉しなくても良いので、花に気をとられることはない。

もう時期は過ぎたが、かわいそうな花はジャガイモやニンニクで、実をつけたりすると栄養をとられるので取ってしまう。

ジャガイモはかわいらしくて、色も紫と黄色できれいなのだが、見つけると取るしかないのだ。


花以外にも水をあげたりして、関わりが多いのはサツマイモや高黍だ。

サツマイモも水が少ない上に、雑草が茂ってしまったので、少々貧相なのでせっせと水をあげた。

水や液肥をあげることも、作物とのコミュニケーションになる。

ポリマルチをすれば楽なのだが、酷暑では使わない方が良いと思って使っていない。

ポリマルチを使って作っている近所の人はサツマイモでさえ失敗している。

黒色のポリマルチは草押さえになって便利なのだが、後始末が面倒だし、このところの酷暑には作物には悪いように思える。

私は草マルチを基本に、作物に影響が少なそうなところの雑草は抜かずに、大きくなりすぎたら刈るだけにしている。

雑草を極端に嫌って根絶やしにしてしまう人も近隣では多いが、温暖化の時代は雑草を利用する方が良いように思う。

酷暑で地面の温度が上がりすぎるので、むき出しの土にしない方が良いように思うからだ。

またこのところ、作物を害虫から守ってくれていたカエルやカマキリ、クモが減ってしまって、ネットで防除するしか無くなっている。

適度な雑草はそういう生き物にとっても大切な住処にもなるようだ。


先日も都会育ちの娘の婿が、細やかな家庭菜園をしているというので、話題にして話をすることができた。

私は「野菜作りは癒やされるやろ?」と聞くと頷いていた。

娘夫婦は共稼ぎで二人ともデスクワークである。

心身の健康のためにはちょっとした菜園も役に立つ。

そういえば亡くなった森永卓郎さんもずっと続けていた。

ペットが飼えない人も、家庭菜園なら作物と触れ合って癒やされると思う。

庭が無ければプランターで室内でも栽培できる。

できれば、上郡のような過疎地には週末休日に楽しめる市民農園がもっと増えれば良いと思う。





2025年7月19日土曜日

ブランドとしての学校と学歴

 堀江貴文が東洋大学をFランクの大学とネットで言ったのが物議を醸している。

確か、彼は東大の文化人類学の船曳さんのゼミ生だったように記憶している。

結局、東大は中退したのだから学歴は高卒なのだが、在学中に起業して東大合格ブランドで十分で学歴を必要としなかったのだろう。

私の同級生は多く東大に行ったがみんな卒業しているのは、卒業して学歴を活かす必要があったからだろう。


一方で、早稲田大学に行った同級生や近縁者、知人にはどういうわけか中退が多い。

同級生などは指定校を利用して入学したのに中退したものだから、指定校を取り消されてしまった。

彼は入学した学科と全く関係の無い家業を継いで立派に社長を務めて、商工会の会長になったりもした。

近縁者などは九州大学を合格したのに「都落ちだと」すぐ辞めて、早稲田大学に入り直したが、結局中退して専攻学科と無関係の会社勤務をしている。

二人とも、中退なので高卒なのだが、仕事に学歴は必要なく早大入学ブランドで十分だったのだ。


そもそも、私たちの同世代の女子大生は、結婚すると退職してしまうことが多かったので、教師になった人以外はあまり学歴を活かしていない。

当時女性は就職よりも結婚やそれに伴う子どもの教育に大学ブランドや経験を使っていたようにも思える。

家内は結婚のことは考えず、女性でも一生働ける教師を志して大学に入り、教育学部で小学校や障害児教育の免許を取得した。

しかし、採用試験で不合格になって、結婚するまで臨時の市の事務職員を務めた後は結婚後にしばらくして専業主婦となった。

子どもが高校を卒業してから臨時職員として学童の仕事に就いたが、当時は教員免許も必要でやっと大学の資格を活かせた。

ただし、現在は学童の指導員は教員免許も大卒資格を必ずしも必要としていない。


私自身も学歴よりも大学のブランドが欲しかった。

夢はミュージシャンだったので、早大のブランドでプロになったら中退しても良いと思ったが合格さえできなかった。

南山大学は中部圏ではそこそこのブランドだが、全国的にはほとんど無名だったし、名古屋ではバンド仲間も作れなかったのでプロは諦めた。

たまたま、専攻した人類学科と関連する村落調査サークルの活動にのめり込んで、大学院を志した。

ただし、研究者になれる自信も無かったので、教員免許だけはとっておいた。

その当時は、研究者になるブランドとして東京都立大学大学院の入学を果たしたのだが、実力が伴わず博士課程には進学できなかったので研究者のブランドにならなかった。

ありがたいことに、この大学院修士修了のブランドと教員の1級免許は教員採用に少しは役に立ったように思える。

当時は公立の高校教員も人気があって、特に社会科は多くの大学生が免許を持っていたのでなりづらかった。

高校時代の同級生の中には京大や九大を出たのに兵庫県で高校社会科教員になった者もいた。

だから、私は学歴ロンダリングで教師になれたと言っても良いだろうと思う。

ただし、地方では大卒は身近に働いている者が少ないので、大学ブランドは公務員は別として、評価の対象になりづらい。

むしろ、卒業した高校のブランドが活かされるので、当時は西播では有名な私学を卒業したブランドを、私は私的に活かすこともできたことも確かだ。

大学にしろ高校にしろ、そこに入るのに学力やスポーツの特別な能力があったと保障されれば良いブランドとして活きる。


しかし、教師を続けながらも、大学院時代に抱いた研究者になる夢は諦めきれなかった。

夢を果たすという意味では、結局は学校ブランドも学歴も活かせてはいない。

それでも退職して年金暮らしの今は、学歴を基に働いた教員時代の給料は活かされてはいる。

政治家は昔は田中角栄のように小学校しか出ていない総理大臣もいたのだが、学校や学歴は立派なブランドとして使われている。

最近は芸能界でも大学のブランドを売り物にしているのだから、大きい意味を持つのだろう。

その場合の多くは、大学での専門が活かされていないので、大学を卒業した学歴より、入学したことのブランドが活かされている。

ただし、政治家は卒業による学歴も重要な能力保障になっている。

だから、今の東京都知事は関西学院入学ブランドは中退したので使えず、それを表にあまり出さないのだろう。


反面、学歴は必ずしもプラスにならないこともある。

公務員採用には高卒資格の枠があって、大卒なのに高卒と偽って採用されて辞めさせられてしまった例もあった。

一流企業なども、大卒で入れるのは東大・京大レベルでも、高卒なら現場の労働者として採用されたりする。

介護施設でも大卒で採用されると給料は高いが、ケアマネージャーなどの役割を果たすことを求められるので、高卒の方が気が楽なところがある。

また、日本では修士や博士の学位は研究職にならねば、役に立たないどころか邪魔になることもある。

ある国立大学の博士学位を取ったばかりに、専門性が限られて採用が少なく、コンビニの店長をしなければならなくなった話も聞いた。


今回の静岡県伊東市の市長の学歴詐称問題は、東洋大学ブランドの問題だったのだろう。

上郡町長選挙では落選はしたが、早大中退とはっきり名乗って選挙戦を戦った候補(高校の先輩)もいたし、今回の参議院選挙にも早大中退で立候補した人もいる。

伊東市市長選では東洋大学中退ではブランド力が弱かったのだろう。

その点では、東京都知事も関学中退ではブランドが弱いので、海外大学のブランド利用を上手く使ったのだと思う。

政治家の実力は分かりづらいし、大学などを通した人脈とも関連するので、ブランドや学歴が重要とされるのだろうと思う。

ただ、そのブランドを使ったことで却って大学のブランドを下げてしまった総理大臣もいたのも皮肉なことだ。











2025年7月16日水曜日

温暖化時代の水活用

35年前に上郡に引っ越した当初は、これほど暑さに苦しむことは無く、夜などは涼しくてエアコンなどかけることは無かった。 

近年では暑さが厳しくなって、去年まで水道水を使ったミストで二階のベランダや庭の植木を暑さから守っていた。

一日中ミストはかけっぱなしにしておいたので、しっかりと朝にはベランダや庭は濡れていた。

そのかわり、水道代が二ケ月で1万五千円を超えてしまったが、もし、下水も設置したいたらこんな額では済まなかった。

我が家は建築当時の合併浄化槽のままであるので、それだけの費用で済んでいたのだ。

東京ならいざ知らず、こんな田舎でこんな水道代は高すぎるし、普段よりもあまり多いので検査員に漏水を疑われた。

これからも暑い夏は続くと思われるし、いずれ下水施設に繋がなければならないので、安上がりになる暑さ対策を考えた。


まず、水道水から屋根の樋からの雨水を利用しようと思って、300リットルの貯水タンクを買った。

これは家にある軽トラの最大積載重量が350kgなので、それを基準にしたのだが、専業農家の人は500リットルタンクで水を運ぶのが普通だと後で聞いた。

一度、雨がしっかり降ってタンクは一杯になったが、ミストは一日しか持たなかった。

その予想はついていたので、家の近くを流れる水田への用水路を使うことにしていた。

いったん貯めたタンクからのミストは電気ポンプを使い、用水路からタンクへの水の注入はエンジンポンプを使っている。

毎日ミストを使うには最低二日に一回はエンジンポンプでタンクを満たさねばならなくなった。

そして、やはり心配していたことが起こった。

水道水や雨水と違って用水路の水はゴミが多いので、ミストが目詰まりを起こしてしまった。

何が良いか考えているときに、ホームセンターでタカギの散水チューブを見つけた。

さっそく、庭で電気ポンプを使って試したが、ミストと違って数時間もすればタンクは空になってしまった。

毎日エンジンポンプで貯水タンクを満たすのは手間なことになる。


一方、用水路からの畑の水やりにも当初はエンジンポンプを使っていた。

しかし、涼しい早朝にエンジン音を響かせると近所迷惑になる。

そこで、長い電気リールコードを使って、電動ポンプを使って散水することにした。

実は家の前にも用水路はあるが、道路をまたがずに電気コードやホースをひくには40mほど離れた場所の用水路を利用せねばならない。

散水チューブでは時間がかかりすぎるので、スプリンクラーを使って水を撒くことにした。

そして、貯水タンクに水を貯めるのにも、電動ポンプを使い始めた。

その散水チューブは庭の植木や鉢物の水やりに使っていたが、二階に持ってあげてベランダでもミスト代わりに使い始めた。

というのも、二階のベランダには鉢植えした枇杷やガジュマルもあるし、暑さ対策にもなる。

これで、ミストの代用とすることができた。


初期投資としては、去年の夏場の水道代ほどにはなったが、水道代をそれほど気にしなくて済む。

また、電動ポンプを多く使うことで、ガソリン代も節約することができる。

電気代は少し高くなるだろうが、水道代よりは安いと思う。

こういう農業用水での暑さ対策ができるのは、水田地帯に住んでいるからだろう。

ただ、街でも綺麗な水が溝に流れていたり、井戸のある家では同じことができると思う。

また、知り合いの農家では風呂の水を利用している人もいるので、雨水と風呂の水の両方を利用すれば良いかもしれない。


この散水のお陰で家の周りの植物や畑の作物もなんとか元気である。

ただ、雑草も同じく元気なので、その対策もしなくてはならない。

雑草が元気なせいか、キリギリスが元気に鳴いているし、コウノトリも餌取りに来てくれる。

今後は動力源となる電気も太陽光を用いて発電できたらとも思っているが、現段階ではコスト面で厳しい。


かつて、江戸も大阪も運河の水が張り巡らされていたようだ。

それを埋め立ててしまったことも、都市部の温暖化の原因だろう。

人間が汗で身体を冷やすように、街も運河や水路で冷やすことを考える必要があるように思う。

雪国では雪を溶かす水を道路に撒いているのだから、夏に街でも打ち水代わりの水をもっと流しても良さそうだ。

エアコンの電力使用量を減らせば、原子力に頼る電気からの脱皮を図るための対策の一つとなるようにも思える。

また、最近は駐車場に芝生とコンクリートを組み合わせて、アスファルトより涼しくしているところもある。

しかし、このところの暑さと水不足で枯れてしまっているのも見かける。

猛烈に暑いアスファルトの駐車場を芝生や土を使ったものに変えるのに水対策も必要だろう。

我が家の暑さ対策も家の周りの生け垣や土に覆われた庭が重要なところだ。

アスファルトやコンクリートのジャングルからの転換にも水が重要なポイントだろう。


2025年7月14日月曜日

屋内プールでの避暑運動

 かつて、私は高校で水泳部の顧問をしていたが、夏場の練習は暑さとの戦いだった。

近隣の全国大会に出場するような中学校では、夏休みなどは早朝の6時から練習をしていた。

高校では生徒が遠くから通ってきたり、県大付属のように寮生もいたので、そういう練習は不可能だった。

だから、練習後に大きなブルーシートで水面を覆って水温上昇を防いではいたが、昼近くなると水温がどんどん上がって泳ぐのが辛くなる。

そこで、冷たい水道水を足しながら泳がせたりしていた。


水泳部の練習はまだ水の中が殆どだから良いのだが、校内水泳大会などはプールサイドで観戦しなくてはならない。

私が勤めていた肢体不自由の特別支援学校では、屋外プールで校内水泳大会が毎年行われていた。

先日も、プールサイドでお尻をやけどしたニュースがあったが、校内水泳大会では常にプールの水をくみ上げたりして濡らしておくのも大変な労力だった。

また、今は屋外プールでのレースは殆ど無くなったが、当時は西播大会や滋賀県で行われた近畿大会では屋外プールで行われていた。

こちらは審判や招集といった競技役員が大変な苦労があった。

私は西播大会ではスターターも勤めたことがあったが、暑さと緊張でヘロヘロになった。


退職してからはこういう水泳部の顧問としての仕事が無くなって、もっぱら自分の健康と趣味を兼ねて週に3回ほど泳いでいる。

上郡と相生の市民プールで泳いでいるのだが、もっぱら泳いでいる人が少ない都合の良い時間で泳いでいた。

上郡では小学生が午後1時から2時半まで授業で利用していたので、午後からはそれが終わった時間で泳いだ。

7月に入って、小学生の利用も無くなったので、その一番暑くて利用する人の少ないその時間帯で泳ぐことにした。

この時間帯は、家で仕事をするときにはエアコンを付けねばならないので、プールに行くことによって電気代の節約にもなる。

屋内プールの水は屋外プールのような高い温度にはならないので、快適に泳げるのが良い。


この時間帯で快適に運動ができるのは屋内プールだけだと思う。

ところが、この時間帯に外でランニングをしている人がいる。

おそらく、消防署の職員だったり、自衛隊員が自主訓練をしているのだろうと思っていたが、身近な人にもいた。

毎月通っている医院の先生だ。

私はそれを聞いて思わず「自殺行為やで!」と言ってしまった。

この先生はフルマラソンどころか、100kmマラソンにも出る強者だ。

とても、ついて行けないと思ったし、自分は水泳の趣味があって良かったと思った。

ただ、かつて人類が乾燥したアフリカで狩猟採集をしていた頃は、そういうことができて当たり前だったのかもしれない。

ただ、私は海洋適応した人類の末裔として、涼しい屋内プールでいにしえの追い込み漁の疑似体験をする方が良い。






2025年7月12日土曜日

今もまだ動いてる、ゼンマイ式の柱時計

近くに住んでいた家内の母が亡くなり、遺品を整理した。

跡取りの家内の弟は遠くの関東圏で暮らしているし、子どももいなくて盆正月以外の関わりが殆ど無かったので、家への愛着が乏しい。

むしろ、家内や私は子どもを通して家内の両親とは深い関わりがあった。

その一方で、私自身が跡取りの長男で、近くに住む自分自身の両親との関わりがそれ以上にあって、両親の介護、そして葬式から遺品の整理に追われ続けていた。

両親の実家との関わりも強かった私たちに対して、それほどでもなかった家内の跡取りの弟夫婦は遺品に対してもクールなものだった。

何でも簡単に処分しようとしていた。

私は家内の実家には想い出の品はあまりないが、今後使えそうな物は持って帰ることにした。

特に、納屋に放置されていた農業資材や自転車、そして吉岡鍋は欲しいと思って持って帰った。

家内はさすがに緊密に関わっていたので、高価な敷物や食器など価値を知っていたので、捨てられようとするところを持って帰ってきた。

そんな中で、意外なことだったのだが大切に使い続けていたゼンマイ式柱時計を持って帰ってきた。

家内は昔のことに拘りをあまり持たない性格で、せっかく父親が撮ってくれていた幼い頃の写真さえ持って帰ろうともしなかった。


この柱時計は一度壊れたときに、家内の母親は広島県の大崎下島が故郷だったので、同じ島の御手洗で有名な時計屋「新光時計店」さんに直してもらった物である。

見栄えは大したことが無いのだが、わざわざ時間と労力、費用をつぎ込んで、ちゃんと動かし続けてきた価値ある時計だ。

ただ、ちょっとした難点は一時間毎だけでなく30分にボーンと鐘をならすことである。

家内は自分が寝ている部屋のピアノの上に置いたが眠られなくなって、持って帰った夜のうちに居間に持ち込んできた。


私自身はあまり昔のボーンボーン時計には愛着が無い。

私は中学受験したときに不眠症になり、寝間にあった柱時計の音が気になって余計に眠られなくなった。

明け方3時の鐘が鳴っても眠られなくて、情けなかったことを憶えている。

家内が言うにはその柱時計は、家内に時計の見方を教えるために親が買った物だというので、60年以上前の物である。

私の家にあったのは電池式でとっくに処分していたのだが、ゼンマイ式柱時計は月に一度ゼンマイの巻かねばならない年代物だ。

家内は父が亡くなった後は、老いた母に代わって高い位置に設置した柱時計のゼンマイを、実家に戻った際に忘れずに巻いていた。

このところは、その母は入院して家にいなかったので、ゼンマイも巻かずに止まっていた。

それをわざわざ持って帰って復活させたのだった。


我が家の居間にはすでに立派な電波時計があって、自動で時刻を合わせてくれるし、温度や湿度も知らせてくれている。

その時計から少し離れた壁に私はネジ釘を使って設置した。

思ったよりも正確に時間を刻み、時刻をボーボーンとその時刻の回数で知らせてくれるし、30分になっても分かる。

家内は子どもの頃にテレビやラジオからの音楽を直接録音していたときに、この音に邪魔された話をしていた。

母親が時計の見方を教えるために「今何時?」とわざと聞いてきたのは共通していて、腕を時計の針の形に上げて知らせたことも共通していた。


まるで人の心臓の鼓動のように、「チクタク」と音が鳴り続けていて、始めは耳障りにもなったが聞こえて当たり前になった。

時間を知らせる鐘のおかげで時刻を以前よりもしっかり意識するようにもなったと思う。

何でも新しくて便利な物に買い換えてしまう時代に、あえて古くて手がかかる物を使い続けることも愉快だとも思った。

骨董品のように飾っておくのではなく、生活の中で一緒に生き続けていくものだ。

日本人はまだアニミズムの信仰が残っているともいわれているが、道具や機械に愛着を持ってまるで魂があるかのように扱う。

AIの時代になっても、道具や機械と会話をし出したので、ネオアニミズムの世界に生きていくかもしれない。

そして、何よりも大切にしてきたものには、過去の想い出も一緒に生き続けている。

私の両親は墓をもうけずお寺で永代供養して貰い、仏壇と遺影を実家から移してきて、座敷で供養し続けている。

そういう供養としての墓や仏壇の位牌、遺影などとは関わり方がまるで違う。

家内の両親や私たち家族の古い記憶が、さりげなく日常生活の中にまぎれこんで、一緒に生き続けるのがボーンボーン時計である。

「大きなのっぽの古時計」に近づくためには、原曲では100年ではなくて90年なので、その歳まで家内はがんばって生きねばならない。

家内が自分自身の誕生と結婚を語る孫がまだいないのが残念だが、息子と娘に語ることはできる。

原曲では柱時計を買ってきた人は登場しないが、小さな柱時計にはちゃんと買ってきた両親も語っていける。

自慢できるほど立派では無いのだが、これだけの年数を動き続けた道具は他に無くてかけがえのないものだ。

  




2025年7月10日木曜日

汗は冷たいから濡れていたい

 私は森高千里の「雨」が好きで、時々一人カラオケで雨の日なんかに歌っている。

だけどこのところ梅雨が早々と明けてしまい、雨がほとんど降らなくて歌う気になれない。


 雨は冷たいけど 濡れていたいの

 あなたのぬくもりを 流すから


実はこのところ早朝から畑仕事をしているが、ずっと空調服を着ている。

空調服は自分の汗で体を冷やす仕組みになっているので、汗をかくまではむしろ暑い。

だから、早朝に着た空調服用のアンダーシャツは汗で濡れているが、朝食前に脱いだのを朝食後にもう一度着て犬の散歩に出かける。

せっかく暑いおもいをしてかいた汗を再利用するためだ。

このところは、雨が降らないので犬の散歩後も水やりを中心とした農作業をしている。


 汗は冷たいけど 濡れていたいの

 からだのぬくもりを 冷やすから


近所の人の中には蚊に刺されなくて、半袖Tシャツで農作業をしている人もいる。

私は空調服が半袖の時は、防虫ネットを着るし。頭も防虫ネットで覆っている。

今日はさすがに空調服を着ていても、熱く苦しくなったので防虫ネットは脱いでしまった。

実は蚊も陽が照って暑くなるといなくなるが、念のために着ていただけだった。

涼しい早朝や夕方が一番蚊に刺されやすい。

近所の人が涼しいのにそういう時間帯に農作業をしていないのは、蚊の対策が面倒であることも理由である。


空調服は今では夏の必需品になっている。

しかし、近所の人で農作業や村作業で使っている人はあまりいない。

空調服は高価であって、金ににもならない畑作業や村作業にはもったいないからだろう。

しかし、熱中症になったり、脳梗塞や心臓発作を起こして死んだら、元も子もない。

私の父は夏の暑い中で畑仕事を続けて脳梗塞になったことが原因となり亡くなった。

私たちも子供の頃は、ソフトボールや剣道の練習中に水を飲むのが禁じられていたが、父は畑仕事でも水を飲んでいなかった。

昔は、今ほど熱くなくて、水分補給をしなくてもなんとかなった。

しかし、温暖化が進んで簡単に35℃を超えてしまう現代では命取りになってしまう。


雨が降らないので畑の土はからからに乾いている。

それなのに雑草だけは繁茂しているので、水をやりながら草を刈ったり抜いたりしなければならない。

そして、草マルチにするための枯れ草を集めねばならない。

午前10時くらいになると、足がふらつくほど体力を消耗しているので、作業を打ち切っている。

本当はこまめに水分補給をしなければならないことはわかっている。

水を持ち歩くのが面倒なのだ。


家に戻ってずぶ濡れに濡れたアンダーシャツを脱いで、ほとんど水のシャワーを浴びる。

そして、水分補給をしっかりとするのだ。

昼食時までにおなかの中は水分で満たされて、食欲はあまりなくなっている。

そういうときに効果があるのはお手製の野菜シチューで、冷蔵後に冷やしたのを飲んでいる。

自家製のタマネギ、空豆を中心に、にんじんやニンニクを入れてソイリッチで作り置きしたものだ。

これを飲むと元気が出る。

夜に寝る前も、水分補給と言い訳しながら、焼酎のサワーを飲んでいる。


今朝(7/8)、雨はもう上がってしまっていたけど、待ちどうしかった雨が降ってかなり涼しい。

今日は水やりをしなくて済む。

昔の人が真剣に雨乞いをしたことがよくわかる。

作物だけでなく、雑草も元気づけてしまったけど、待ちに待った雨だ。

東京都心のように蚊がいなかったら、雨の中で空調服も脱いで濡れるに任せて濡れたいと思っただろう。

雨の歌は別れや悲しみを歌うことが多いが、雨上がりの夜明けは充電式草刈り機の音も軽快だ。

まさしく

 

  バッテリーはびんびんだぜ

  いつものようにキメて (草を)ブッ飛ばそうぜ


と草を刈りながら歌いたくなった。

2025年7月7日月曜日

神たる子ども

 私は日本本土や琉球でよく7歳までの子どもはカミという古来の信仰は、医療が発達して無くて死んでしまうことが多いからという理由で捉えていた。

確かにそう思っていないと、子どもの死を受け入れられないし、死んでもすぐに生まれ変わるということで気持ちが安らぐ。

死産児や生まれてまもなく死んだ子どもは、普通は葬式をしたり墓に入れたりしなかった。

奄美などは古くは家の軒下に埋めることによって、母胎にまた生まれ変わるとされた。


一方、貧しい親にとっては望まぬ子どもを間引くのに気休めとなっていたようだ。

自分たちと同じ人として殺してしまうことは、罪の意識を背負うことになる。

カミとしてあの世に帰ってもらうと思った方が気が楽になるだろう。

現代でも流産したりや堕胎が行われた時にも、水子の霊として別格に扱うのもそれに近いのだろうと思う。

ともかく、近代化される前は子どもは死と隣り合わせであったが故に、神霊的な存在と思われていたと解釈していた。


しかし、このごろ私はこの解釈で見過ごされていた意味を見いだしている。

子どもは親にとってもその祖父母や親族にとっても、生きがいとなる大切な存在である。

子どもを育てるために必死に働き、その成長で癒やされていく。

場合によって子どものためなら死んでも良いとさえ思う。

これはヒトだけでなく、多くの動物に共通する気持ちだろう。

育児は母親を中心に行われるが、ヒトは特に父親や祖父母、親戚だけでなく、地域の住民も関わっていく。

江戸時代では捨て子も必ず地域の住民が育てるものだった。

御利益を得るカミ様や崇拝する宗教の信仰心とは違って、自然に生まれてくる心情である。

それこそ、子どもは神様となぞられる理由でもあろう。


子どもがどうしてもできない夫婦でも、養子縁組をして子育てはできる。

子どもは老後の面倒を見てくれることを期待するよりも、子育てを通しての生きがいを目的としてできるものだ。

職場で知り合った人の中には、乳児院から引き取った子どもを養子として二人も育てている人がいる。

その人は夫婦に子どもができなかったことから、夫婦の共通の生きがいとして育てていると聞いた。

私の身内には子どもができなかったり、つくらない夫婦もいるが、子育てそのものに関心が薄くて仕事を生きがいにしてしまっている。

現代では金銭を得る仕事が子どもに代わる神様になっているのかもしれない。

なぜなら、金銭こそ欲望を満たしてくれるし、一番将来を保障してくれていると信じているからだ。

私は老いた世代で高級車に乗って羽振りのいい人を見ても羨ましいとは思わない。

本当に羨ましいと思うのは、軽自動車の助手席に可愛い孫を乗せて走っているおじいさんを見かけたときだ。

金銭を誇る人に魅力は感じないし、却って不安を感じる。

それは自然災害や戦争だけで無く、健康を害したり老いてしまったときに、金銭が単なる幻想だった気がつくことが分かっているからだ。

私の近しい人に、病気で入院したら個室に入るので倹約してお金を多く貯めた人がいるが、結局入院しても個室に入らず多額の貯金を残して亡くなった人がいる。

その多額の貯金はその人の面倒をほとんど見ず、自分は子育てもしなかった息子に渡ることとなってている。


少子化の問題は、子育ての親の負担の問題として解決しようとしている。

しかし、金銭を得る仕事を絶対的な神様のように信仰している人にとって、子どもはたいした価値も無いだろう。

国家は学校教育や政策によってそういう人材をも多く育成してきた。

そして、現代の文明や文化が讃えてきたのは偉業をなした英雄であり、貧しくても子育てを懸命に行ってきた人ではない。

人類の幸福を生むとした開発や発展が却って環境を破壊し、子どもの未来を奪ってきている。

今の時代こそ子どもは我々に必要な神様として、その存在に関わる環境問題にも取り組まねばならないと思う。

狂った政治屋が世界を軍事力や経済力で支配しようとする今こそ、子どもの未来を中心に据えねばならないと思う。

宗教やイデオロギーを超えて、必要とされる生きとし生けるものの姿勢だと思う。




2025年7月4日金曜日

母に捧げるレクリエム

 早いもので母が亡くなってから2年が経とうとしている。

昨年の一周忌は午後から赤穂のお寺での法要の後で、海岸近くの赤穂ハイツで会食を行った。

集まったのは子ども家族と一人の母の甥だけだった。

孫のお嫁さんが出産間近だったのでひ孫はひとりだけ来られなかったが、子ども夫婦や孫、ひ孫まで賑やかな会食となった。

今年の三回忌は午前中に同じ寺で法要をして、午後から去年と同じところで会食をすることになっていた。

本当は、会食しているときにカラオケがしたかった。

三回忌の法事にカラオケとは不謹慎に思うかもしれないが、母は歌が大好きで子どもの頃は歌手になるのを夢見ていた。

盆や正月になって子どもの家族が集まってくると、カラオケに行ってみんなで楽しむのが恒例だった。

今回の三回忌が終わると、次の七回忌まで今回のメンバーで集まることは無いだろう、そして次に集まるときには全員そろうことはまず無いと思った。

今回も大阪万博があったから、その観覧をかねて遠く東京から孫家族が来てくれた。

母の子ども夫婦と孫、ひ孫が全員集まることができる最後のチャンスと思ったので、母が好きだった歌をみんなで歌って偲ぼうと思った。

ただ、幼いひ孫の一人が大きな音が苦手だという理由で当初は無理だと言われたのだが、次男が母に対する思いを汲んでくれて賛成してくれた。

次男は遠く神奈川県の葉山から自家用車でドライブ旅行をかねて2泊3日でいつもやって来る。

当日は、早く帰らねばならないので会食後すぐに別の部屋を設定してもらうことに決めていた。


どこか部屋の一室を貸してもらえるのかと思ったら、海が一望できる展望ラウンジを使うことになった。

非常に眺めが良いのだが、他のお客さんは自由に入ることができるので、関係者以外に聴かせることにもなった。

私の家族は仕事があったり、カラオケが苦手だったりしたので、私以外は会食後には帰ってしまった。

大きな音が苦手なひ孫と両親は参加するのを危ぶまれていたが、ラウンジが広かったので距離が保たれて参加できた。

葉山まで帰る次男の弟が先鞭をつけた。

曲は西城秀樹の「ブルースカイブルー」だった。


  青空よ 心を伝えてよ
  悲しみは余りにも大きい
  青空よ 遠い人に伝えて
  さよならと

三回忌に相応しい歌を歌ってくれた。
おそらく、弟がこの曲を歌うのを初めて聴いたので、母の法事のために選んで練習していたのだろうと思う。
次に私はYou Raise me upの歌を母への感謝の意味を込めて歌った。

 I am strong   When I am on your shoulders You raise me up to more than I can be
  貴方の肩に身を預け 私は強くなれる   今以上の私に貴方が私を高めてくれる

あの世にいる母がこれからもきっと私に力を貸してくれると信じて歌った。


幼いひ孫たちが歌える歌をその母親(私の姪)が、エントリーしてくれた。
なつかしい「かもめの水兵さん」だった。
海が見えるラウンジなのでぴったりの歌で、幼くておしゃめなひ孫のかわいい声を聴くことができた。
大人の懐かしい歌と、子どもの童謡をまじえながらのカラオケは楽しいものとなった。
何よりも感動したのは、一番末の弟の若い娘のすばらしい声を聴くことができたことだ。

私にとって姪になるそのKちゃんは、どちらかというとおとなしくて、人とうまく関わることが苦手な子だった。
今は、神戸の方で一人暮らしをしながら、障害を持った児童の施設に勤務している。
その弟家族は両親の近くに住んでいたので、私の父母との関わりも深かった。
特に父はKちゃんをかわいがり、畑からの帰りに作物を届けることを理由にしてよく立ち寄っていたという。
彼女は最初、歌うのを嫌がって冗談半分で「なんぼくれる」と言って断ろうとしたので、「千円やるから、歌って」と私が追い込んだ。
そこで、彼女は一番得意なSuperflyの「愛をこめて花束」を熱唱してくれた。
私は感激のあまり、彼女に握手を求めた。
そして、本人は断りはしたが約束通り千円手渡した。
1万円あげても良いような歌だった。
今回の法事で私にとって一番の収穫は、彼女の歌を初めて聴くことができたことだと思った。

もう二度と、こんな風にみんなと一緒に歌う機会はないかもしれない。
亡き母が法事として与えてくれた素晴らしい時間を過ごすことができた。
できたら、Kちゃんの結婚に際してこういう機会ができたらとも思う。
本当は、私の娘の時もこういう場を設けたかったのだが、コロナの余波でできなかった。
母はひ孫の誕生を心待ちにしていたが、やはりコロナの影響で実際に会うことはできなかった。
私ら夫婦や末の弟夫婦以外は、認知症を患って尊厳を失ってしまった母を知らないから、元気で歌っていた頃を思い出してくれただろう。
私は幼い子どもが帰って行っていなくなってから、残った兄弟らと母を偲んで「愛燦々」を歌ったのだが、なぜか涙が止まらなかった。
きっと、私を通して母が喜びの涙を流していたのだろうと思う。





 









2025年7月2日水曜日

生きられない、お葬式

親戚の葬式に今年は早くも4回参列した。

いとこ、二人のオバ、義母である。

その中で、葬式の場に未成年の子どもがいたのは、一人の父方の叔母だけだった。

これまでは自分の両親や親戚の葬式には必ず子どもがいたのだが、このところ子どものいない葬式が続いている。

これも少子高齢化の影響だと言えばそれまでなのだが、これでは典礼会館CMのコピーである「生きる、お葬式」にはならない。

お葬式の対象となる死者同様に、参列者に死に行く未来の不安を吹き飛ばす子どもがいないからである。

形式だけが先行している今の葬式は、呪文のような読経を長時間我慢して聞くこと、そうして焼香して挨拶する儀式となっている。

そして何万円もした供花を一緒に灰になってもらうために、惜しげも無くお棺に入れてあげるのが唯一心を込める手段となっている。


家で葬式を行っていた頃は、通夜の段階で近所の人が手伝いに来てくれて、すべてまかないをやってくれていた。

それが仕出し弁当に変わり、そして葬儀場ですべてまかなわれることになった。

それによって、確かに近所の人も家族や親戚の負担も軽減されるが、人の死そのものが軽んじられるようになったようにも思う。

かつての葬式は、亡くなった人に対してだけでなく、残された遺族に対しての思いやりの場で有った。

長生きは良いことなのだが、喪主や子どもは現役でなくなったり、再雇用の身分であったりしている。

この場合は職場に対して遠慮が生まれて、現役の遺族は家族葬でするのが当たり前になる。

亡くなった人が高齢で一人暮らしだった場合も、近隣の関係が薄れてやはり家族葬となる。

職場や近隣と切り離されて、ごく親しい関係の人だけの寂しい葬式になることが多くなった。


家族の方も、故人が長生きして周りの家族に負担をかけ続けていた場合は、正直なところ肩の荷が下りてホットすることもある。

親の介護に関われなかった喪主は、その負担をかけた身内に葬式で詫びねばならないこともある。

以前なら長寿を全うして、紅白饅頭を配るところさえあった。

90歳くらい以上の長寿で亡くなった人に対しての敬意さえ薄れてしまった。

かつて元気だった頃の故人の記憶が薄れてしまい、亡くなる前の介護が困難だった頃の記憶だけが強調されてしまう。

長生きして手厚い介護を受けることは、かつて元気で近親者に尽くしていたことに対する感謝の気持ちさえ奪われてしまうことにもなっている。


ただ、葬式や法事に幼い子どもや孫が参列していると、葬式は別の意味を持ってくる。

命が受け継がれたことが実感でき、泣いたり騒いだりしている声の方が、読経の声よりもありがたく感じるのだ。

私の父母の葬式や法事にはいつも幼い子どもが加わっていたので、命が繋がった確認ができ、まさしく「生きる、お葬式」が実感できた。

ところが、そういう幼い子どもがいない場合は、いくら若い青年がいてもそれがあまり実感できるものではない。

私だけかもしれないが、亡くなった故人の魂がこういう幼い子どもなかで息づいていくように感じるからかもしれない。

本当に哀しい葬式とは幼い子どもの参列者がいない「生きられない、お葬式」であるように思える。