ページ

2012年11月26日月曜日

金比羅詣り

小学生低学年の頃だから、もう45年以上の昔である。
親戚揃って 伯父の100t程の石材を積む木造船で夏に金比羅さんにお参りに行った。
金比羅さんは船乗りにとって守り神なので、昔から定期的にお参りに行っていたようだ。
当然違法なので、保安船が来たら隠れるように言われていた。
出港の際は、船長気分で舳先に立って敬礼したのを覚えている。
伯父に舵を握らせて貰ったが、広い海でぶつかる物もないのに妙に緊張した。
坂出港に停泊して、そこから路線バスに乗って金比羅さんに行った。
金比羅さんの石段は1000段あると言われたが(実際は1368段)、当時の自分にはとても多く感じられた。
その夜は、停泊した船の貨物室に蚊帳を張って寝たが、蚊に刺されてかゆくて眠れなかったのを覚えている。

今日、新しく買ったFitで家内と息子の三人で遠出することにした。行き先は四国とだけ決めておいた。
天気も昨日と打って変わって、快晴で朝の気温は低かったが、うちの近辺は霧でそう寒くはなかった。
四国は青春18切符を使って一周したり、職場の関係で松山周辺に出かけたり、最近では子供と高知にドライブに行ったことはある。
以前から金比羅さんに行ってみたいと思っていたので、高松自動車道を走っていて、看板を見るなり行くことに決めた。
歴史ある観光地なので、行楽シーズンとして渋滞も覚悟したが、渋滞もなく駅近くの駐車場に留めることができた。
そこからしばらく歩くと、商店街に出たのだが、まさしくシャッター街である。
ただ、金物雑貨屋には自分が以前から欲しかった職人籠が飾ってあったので、帰りには寄ることに決めた。
下駄屋もあって下駄も欲しかったが、冬場は使えないので買うのは止めた。

神社の参道には多くの土産物屋や飲食店が立ち並んでいた。
さっきまでのシャッター街とは違い、大勢の観光客がいたが、家族連れやお年寄りがやはり多かった。
幼い頃に来た記憶が甦ってくる。ただ、昔のように強引な客引きはされていない。
昔ながらの店毎に色テープで色づけされた竹杖が貸し出されている。
籠かきも昔ながらにいたが、往復6800円という値段には驚いた。
家内と私の母親を連れてきたら、足が悪いので籠に頼るしかないが、体重が重くて嫌がられるだろうと笑った。
当然、私などはもっと嫌がられるだろう。

浅草で売っている以上に、昔ながらの笠や模造刀、木彫りの置物などが多いのには感心した。
「五人百姓」のいる「大門」の前で、家内はギブアップ、腰が痛いから残るというので、息子と二人で上ることにした。
秋の風情が豊かな石段には、神社や仏閣に多い銀杏の木が色づいている。
山から見下ろす景色もすばらしかった。
本殿でお参りをした後、お守りを買って戻る。
こういう階段は上りより下りの方が膝に来るので用心した。
家内は「大門」から下に降りていた。土産物をゆっくり見る間もなく、先程の商店街に戻った。

職人籠を売っていた金物屋には、かなり高齢の身なりの良いご老人が店番をしていた。
中にある籠には柿渋を塗った物もあり、2380円と400円程高かったが、買うことにした。
袋は要らないと言うと、80円まけてくれたが、こういう店は本来値切って買うところだったのかも知れない。
因みに、私は今でも10年程前に姫路で買った職人籠を修理しながら使っている。
同僚からは、色々からかわれたが、夏場の荷物が多い時を除いてずっと使っている。
これは東京にいる時に板前さんが買い出しに使っているのを見て、欲しかったからである。
少々場所を取り邪魔になるが、意外と便利で重宝している。
これで、新しい籠で堂々と通える。
家内とも帰りながら10年後に来たらこの商店街も無くなっていると話しあった。

遅くなった昼食はやはり讃岐うどんということにした。
国道沿いの駐車場のある店に入った。
水車で粉をひいているのが売りだったが、全く愛想のない主人が普段着で一人やっていた。
私と家内は肉うどん、息子は天ぷらうどんを注文した。
注文してだいぶ経って肉うどんは出てきたが、天ぷらうどんは一度床に落としてやり直していた。
「お待たせしてすみません」とも言わなかったし、出る時に「ありがとう」の一言もなかった。
味は悪くはなかったが、値段も高く愛想が悪い。素人のような主人がやる店には二度と来るまいと思った。
映画にもなった讃岐うどん人気で、鼻持ちならない店がまだ健在なのかも知れない。
客も私達の後からどんどん入ってきた。

渋滞を心配したが帰りもすいていた。
往復250kmの旅は、うどん屋を除いて良い想い出になった。
幼い頃船での一泊二日の旅は遠く感じられたが、日帰りで気楽に行ける場所になった。
曾祖父から四国は縁があり、金比羅さんはもっと縁が深い。
幼稚園に上がる前に、両親が船で石荷を積む仕事をしていた時、私も船に乗せられていた。
明石沖で嵐にあって、難破しかけた。
親父は私に「金比羅 船船を歌え」と言ったという。
私は言われるまま「金比羅 船船 追手に 帆かけて しゅらしゅしゅしゅー」
意味の分からないまま憶えていた歌を歌うと 波がおさまったという。
私が生きているのも金比羅さんのお陰なのかも知れない。
これからも度々お参りに伺いたい。







0 件のコメント:

コメントを投稿