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2013年12月25日水曜日

クリスマスツリー

家の庭にはモミの木とゴールドクレストが一本ずつある。
それぞれ、子供が小さい頃のクリスマスのデコレーション用に買ったものを庭に植え替えたのである。
鉢植えから庭に移したとたんにどんどん大きくなった。
西側に植えたモミの木は二階のテラスを超えて庇より高くなっている。
東側に植えたゴールドクレストは、高くなりすぎたので一度先端を切ったのだが、枝がまた高くなって二階の窓くらいまでになっている。

毎年この季節になると、電飾の話題になる。
幹線道路脇の家にでは毎年きれいに飾っているところもある。
年末になると、このモミの木やゴールドクレストに電飾を施してやるのもいいなと思う。
それを家内と話すたびに、狐や狸のための電飾なんて・・・
という落ちになってしまう。
ほとんど人通りも無く、雨戸を閉めるので家の窓からも見ることは無い。
もし、孫でもできればおそらく気を引くために飾るかもしれないけど。
ただ、この二本の木は家にとって大切な風よけになってくれている。

クリスマスのたびに、子供の年齢と比較する。
上は24歳、下は21歳、それが木の高さに現れているのである。
自分も年がいくと、この木は自分たちが死んだ後も残っていくのかなと思ったりもする。
子供たちには親がどんな思いで、この木を眺めているのか知らないだろうと思うけれど・・・
この二本の木はたぶん私たちのことを憶えてくれていそうな気がする。



2013年12月23日月曜日

さっちゃんは何を運んできたの?

コウノトリのさっちゃんは上郡のあちらこちらに出向いては人気者になっているようだ。
今日は朝のジョギングの途中でグライダーのように滑空する姿を見た。
朝日を浴びて、悠然と舞う姿がうらやましく思った。
かつて加藤登紀子が「人は昔々、鳥だったのかもしれないね こんなにも 空が恋しい」と歌った。
私は高い空を飛びたいという訳ではなく、どちらかというと地べたから解放されたい。

夕方散歩していると、近所の奥さんが孫と一緒に見てきたところ出会った。
「コウノトリが 居ると嬉しいな!」と笑顔で話された。
友達と一緒にさっちゃんはじっと田んぼの中で立っている。
近所の人が見物に来ても飛び立って逃げようともしない。
鷺やカラス並の馴染みようである。

散歩から戻ってきて、家内にそのことを話す。
家内は「コウノトリは上郡には赤ん坊を運んでこないね」と知った人と話題にしたという。
そう言えば、今朝届いた町の広報には先月の誕生者数4人となっていた。
転出や亡くなった人が多くて、人口は減り続けている。
一年間に50人くらいしか子供が生まれないとしたら、小学校や中学校はいずれ、まとめて一クラスになってしまう。
自然豊かでコウノトリがやってくる町は、皮肉にも人口がどんどん減っているのである。
ただ、古老に聞けば、もともと私の住んでいる中野という集落には、家はあまりなかったと言うから、元に戻っているとも言える。
昔は多産多死で子供が多く生まれても、多く亡くなったのだから、村々には子供だけは賑やかに居たことは想像できる。
そしたら、昔ならコウノトリはカラスのように追い回されていたかもしれない。

静かになった田んぼにゆったりと過ごすコウノトリを、歳のいった村の人が見物に行く。
村の人はそれで幸せを感じるから「幸(さっ)ちゃん」と名付けた。
昔は子宝に恵まれることが幸せと感じた。
今は、コウノトリが訪れる自然豊かなところに暮らせることを幸せに思う。
さっちゃんはそのお墨付きをこの村に付けてくれた。
さっちゃんが運んでくれたのは、やはり生き物全体の子宝という幸せだった。


2013年12月21日土曜日

あとひとつ


今年ももう終わろうとしている。
色々のことがあったけれど、一番印象に残っているのはこの曲との出会いだろう。
これは私が担任しているクラスで、全校上げてのクラス別合唱大会に臨んだ時に生徒が撰んだ課題曲だった。
残念ながら決勝には残れずに、悔しさや反省点だけが思いとして残った。。
そして、あれだけ一生懸命練習したのに、その行事が終わり時が過ぎるとすっかり忘れてしまっていた。
ところが、楽天イーグルスが日本リーグで優勝してテレビなどで流されると、また思い出した。
今は毎日のように家でギターの練習をしている。

この曲に出会うまではFunky Monkey Babysの曲を聴くことはなかったし、生徒の前でフルネーム言って笑われた。
自分たちがサザンオールスターズをただのサザンというように、ファンモンとしか言わないということを初めて知った。
練習している時はただ、学年で撰ばれて決勝で赤穂のハーモニーホールで歌ってもらいたいと言うことしか考えていなかった。
ただ、歌詞の内容はなかなか良いことは感じていた。
自分で練習し始めて、この曲は川村結花とファンモンの共同作品であることが分かった。
川村結花は「夜空ノムコウ」で良い詞を書くなと思っていた。
彼女を直接知っているものが身内にいたので、がんばって欲しいと思っていた。
この曲で彼女の実力が本物であるように思えた。

この歌詞の中で一番惹かれたのは

熱くなって無駄なんて言葉 聞きあきたよ
もしもそうだとしても 抑えきれないこの気持ちを 希望とよぶなら
いったい 誰が とめられるというのだろう

青年の微妙な心理描写の中で、格好悪くても前向きに生きていきたいという気持ちが伝わってくる。
私は既に五〇歳代半ばで、生徒とは親子以上の年齢差があり、その距離はなかなか埋められるものではない。
それでも、好きな音楽を通してなら、同じように熱くなれることを感じている。
文化祭では私自身は舞台でDesperadoを歌ったのだが、生徒より我々大人の方がDesperadoであるように思えてならない。
目先の景気に本質を見失っている我々大人の方がDesperadoである。
これからを担う若い人は、「あとひとつぶの涙とひと言の勇気」で願いをかなえようとがんばっている。
そんな若い世代を見て、我々大人にはWhy don't you come to your senses(正気に戻れよ)と言うべきなのかもしれない。
そんな一年でもあった。

2013年12月15日日曜日

史実と物語の狭間の義士祭

今年の義士祭は土曜日であった。
私の勤めている高校では、この義士祭「ささえ隊」として協力をしている。
クラブの方も義士祭に関する催しに積極的に参加している。
学校ではまず、赤穂浪士に関わる歴史的な講義がなされる。
今年は「柳沢吉保と赤穂義士」というタイトルだった。
結論から言うと、忠臣蔵に描かれている柳沢吉保の言動は、史実としては全く確かめられないというものだった。
まさしく、忠臣蔵で世に人気を博した祭りにとっては身も蓋もない話である。
実は一二月一四日そのものも、旧暦であったのだから、季節的に言えば一ヶ月ほどずれる。
昔の行事は季節を合わせるために一月遅れにするのだが、義士祭はそうはいかない。
年を越してしまった義士祭は考えられないからである。
それがいつしか「いまから○○年前のこの日に、赤穂浪士は吉良邸に討ち入った」という史実になってしまった。
日本史の研究に携わっている人は、おそらくこの旧暦と新暦のジレンマに苦笑いをしているのだろうと思う。
しかし、暦などは些細なことで、多くの歴史に関するドラマは史実とは異なるわけであり、それを史実と錯覚しておもしろさも増す。
虚構として割り切って描かれてしまうと、歴史物は全く面白みがなくなってしまうのも事実である。
まさしく義士祭はその史実と虚構の狭間の上に成り立っている祭りなのである。

私にとって義士祭は、蛇娘などの「見世物小屋」、アコーディオンで「戦友」を鳴らしながら物乞いをしている「傷痍軍人」というイメージが強い。
親に連れられて見に行った義士祭は行列そのものよりも、そういうものが強烈に印象に残った。
また、大石神社に参拝はするけれど、花岳寺に参拝したことは殆ど無く、赤穂浪士の追慕といういう意味合いはあまりなかった。
ある意味、討ち入りという戦勝記念パレードであったようにも思う。

今日は生徒の引率で、20年ぶりぐらいに義士祭に参加した。
生徒が義士行列や大名行列に参加したり、赤穂踊りなどで活躍しているのを見ると、これまでとは違った祭りに感じる。
年末の非常に寒い気候も吹っ飛ばす賑わいもこの祭りならではである。
残念ながら仕事できているので、楽しめたわけではないが、生徒の活躍が見られただけでも良かったと思った。
生徒も嫌がらずに参加するのは、祭りそのものが楽しいからなのだろうとも思う。

時代劇がテレビや映画から少なくなってきているので、やがてこの祭りも忘れ去られるかもしれない。
ただ、赤穂浪士の魅力は史実よりも物語として、時代に応じて変容させながら人気を得てきていることも事実である。
身も蓋もない史実そのものを生徒に説くよりも、その時代に応じた忠臣蔵・赤穂浪士の描き方を説いた方が面白いかもしれない。
そして、新しく分かった史実もうまく取り入れて、現代に応じた赤穂浪士の物語を創作すれば、生き残れそうだ。

2013年12月8日日曜日

豊かではないが貧しくはない生活

NHKのBSのアーカイブ特集として、チベットの人の暮らしぶりが深夜に放映されていた。
チベットの人が、凍り付いた湖で村人が協力し合って羊を島に渡していた姿は圧巻だった。
食事や祭りを通して、家族や村の人と親密に交わる姿にも、心が和んだ。 
その中で羊飼いが言った言葉「(自分たちの生活)豊かではないが、貧しくない」が記憶に残った。
当然、物質的に恵まれている、私たちの暮らしからすれば随分、物質的に不自由な暮らしである。
同じ生活をしろと言われても、フィールドワークなら一年は暮らせるかもしれないが、居着くことはできないと思う。
ただ、今の田舎暮らしと比較するなら、ほんの一部だが似たところがあるかもしれない。
農作業や、庭の手入れをして休日を過ごし、夕日に照らされた紅葉の山を見ながら散歩する。
近所の人とは何気ない会話をして、家ではささやかな晩酌を楽しむ。

私が奄美与路島のフィールドワークをしていた頃、夜は家々を訪れて話を聞いていた。
夜に家々を訪れることは、島の人も普通に行っていた。
さすがにここは田舎といえど、夜に他の家を訪ね歩く人はほとんど居ないが、夕方はたき火を囲んで居る人や、散歩を一緒に楽しむ人を見かける。
そう言えば、与路島でも夕方になると、浜辺に人が集まって話をしたりしているお年寄りが多くいた。
最近は何となくここでの生活が与路島と同じような生活に思えてきている。
夜中にフクロウの鳴き声がすると、与路島と一緒だなと思う。
面白いことに、近所の農家が山羊を多く飼いだした。
奄美や沖縄のように食用ではなくて、草刈りの手間を省くためらしい。
農業だけで生活することは決して楽そうではないが、私たちのような雇われ人とは違うたくましさを感じる。
どんどん、新しいことにチャレンジしているからである。

そういう生活こそ、心が「貧しくない生活」なのだろう。



2013年11月30日土曜日

友達を連れてきたコウノトリのさっちゃん

朝天気が良いのだけれど、ジョギングで足を痛めていたので、自転車に乗って紅葉の風景を撮りに行こうと出かけた。
近くの田んぼの中で、近所の人が三人じっと何かを見ている。
ピンときた。さっちゃんだ。
自転車で向かおうとしたら、大きな羽を広げて飛び立った。
なんと、二羽もいる。
私は自転車で追いかけていくが、見失ってしまった。
近所の人がカメラを持って川の方へ行くので、たぶんそちらだと向かったが、また飛び立ってしまった。
きつい坂道を、一心で上って、結局元の場所に行くと、高圧線の別々の鉄塔の上に、二羽が休んでいる。

鉄塔の上の二羽
写真を撮ろうと、近くまで歩いて行くと、近所の写真家Oさんが、車で来ていた。
以前に撮影した引き伸ばし写真を二枚もくれた。
近所の田んぼで餌を食べたり、羽を広げている見事な写真だった。
Oさんによれば、一羽は足輪からさっちゃんとわかり、もう一羽はメスだそうだ。
6年前にやってきたさっちゃんが、友達を連れてきたのである。
しばらくは、眺めていたが、じっとしているばかりなので、家に戻った。
裏の畑で黒大豆を収穫していると、近くの鉄塔に二羽が仲良く留まっている。
カメラを持って、農作業をしながら、飛び立つチャンスを待った。

気がつけば、飛び立ったばかりで、あっという間に山の方へ行ってしまった。
写真は間に合わなかったけれど、悠然と飛ぶ姿を眺めることができた。

以前、豊岡の保護センターで、飛び回る姿も見たことがあるけれど、何となく不自然な感じがしていた。
大きなケージの中や、周りを飛び回って、人の世話に依存しているのが歴然だったからである。
本当に自由に飛び回り、自力で餌を探す姿の方が、自然ですばらしい。
確かに、テレビで放映されている映像や画像は見応えはある。
けれども、自分の家のそばを悠然と飛ぶ姿には敵わない。
”さっちゃんが友達を連れてくるような素晴らしいところなのだよ”と自慢したくなる。
ただ、池や田んぼに餌が十分残っているか心配でもある。
鷺や鳶などは、自然に飛び回っているのだけれど、コウノトリは皆が追っかけるので、餌をゆっくり食べられないかもしれない。
現に、スポーツカーに乗った人が大きなカメラを持ってずっと追い回していた。
いつか、鷺や鳶のように珍しくも何ともない存在になってほしいと願っている。

紅葉した山を背にした一羽

2013年11月29日金曜日

食いちぎられた弁護士手帳

前回、東大出の弁護士の同級生I君のことを書いて思い出したことがある。
私にはバンド仲間の悪友Sがいて、彼の家に泊まりに行ったりして、日頃の鬱憤をお互いに晴らしていた。
Sはいつも学校での成績は最下位で、試験ではいつもいわゆる赤点であった。
しかし、受験に関しては要領が良くて、早稲田大学一本に絞り込んで、なんと現役で法学部に合格した。
おそらく、学年の卒業成績最下位で早稲田の法学部に現役合格したのは彼くらいだろう。
当然、Sは大学では勉学をやるわけもなく、モトクロスバイクにのめり込んでいた。
バイク事故で卒業が一年遅れたSは、地元の企業に就職した。

事件は同窓会で起きた。
私はまだ院生だったので、地元の同窓会には顔を出せなかったので、本人から聞いた話である。
東大を出て直ぐに司法試験に受かり、弁護士資格をとったI君は、 同窓会で自慢げにその手帳を披露したそうである。
その場にいた、Sはその手帳をひったくって食いちぎってしまったという。
S本人は「くそ生意気だから、やってやった」と話してくれた。
同じ法学部出のSにとっては、よほど癪に障ったのだろう。
Iはそんな嫌みな男ではなかったのだが、Sの存在への配慮が足りなかったようだ。
Sは同級生でも別格な存在だったので、Iは諦めるしかなく手帳は作り直したという。
その後の同窓会では、ずっとそれが語り草になった。



2013年11月28日木曜日

ロックが救いだった

NHKの「病の起源」第3集は「うつ病」であった
人類は進化の過程で「うつ病」原因を得たのだが、「平等」であることで未然に防いだという。
しかし、文明社会は格差をますます広げている。
学校こそ格差を助長する場所であることは疑いない。
そんな中で、うつ病にならずに済んでいるのは、格差を広げる競争の中にも、平等を作り出す仕組みがあったように思う。
受験勉強と関係のない授業もそうだし、クラブや学校行事がそうだろう。
私は進学結果が絶対の学校に中学・高校にいたので、その悲劇も知っている。
ただ、当時は現役の上級生が自殺する意味が、あまりよく分かってはいなかった。
文学青年よろしく「死への憧れ」と解釈していたようにも思う。

当時の私は、満たされない気持ちで勉強への意欲を失わせていった。
そんな中で夢中になれたのはロックであった。
どんどんと成績が落ち込んでいく中で、唯一の救いがロックであり、バンド仲間だった。
文化祭でのステージは唯一の見せ場でもあった。
同窓会で、東大に行って、弁護士になった同級生がもう一度聞きたいと言ってくれた時は、本当に嬉しかった。

大学受験を失敗したときには、もっと勉強もまじめにやれば良かった後悔した。
しかし、考えてみれば自分の器としては、精神的に何とかロックで持ちこたえていたようにも思える。
大学院に進むときも、ただもっと研究を続けたいという一念であった。
しかし、「生活」のために「良い論文」を書かねばならないという現実の重圧に、自分を見失ってしまったように思う。
その時にはロックに代わるものはなかった。
今は教師として生徒の「現実」の「受験」に立ち会わねばならない。
そんな中でも、時々ロックを口ずさんでいる。
それは、昔のように自分を見失わないためでもある。

2013年11月25日月曜日

秋の一日

小野豆からの霧の海
朝、村は霧の中
 
村は霧の中
散歩は小野豆に決めた、霧の海が見られるから
この季節の風物詩である
村の人はこの霧のおかげで米がおいしいと言うが、既に刈り取られている。





千種のホースでの水くみ
散歩から帰って、千種へ水くみに行った
今回は初めて軽トラで行った
ホースを使ったので楽だった

紅葉とお地蔵さん
お地蔵さんの楓は見事に紅葉していた
こんにゃくも買って帰った
途中で見た白旗城祭りは賑やかだった
ちょうど授業で嘉吉の変を教えていた
この祭りはもちろん、赤松満祐のためではなく円心のためのものだ

    2013年11月22日金曜日

    おさつの効果

    ”英語はね!単語 単語 単語ですよ!”
    これは高校時代に教わった英語の恩師の言葉である。
    英語は大学受験の要として力が入れられ、単語テストを行うのが定番だ。
    私も中学生から単語テストを受けてきたと思うが、低い点でペナルティーはなかったと思う。
    今はペナルティーがないと、投げてしまう生徒がいるので、合格点をとらないと単語筆記のペナルティーがある。
    本来は英語力や受験のための単語テストは、ペナルティーをしなくて済むためにがんばらせるものとなっている。
    それでも残念ながら、生徒によっては投げてしまって、私の担任しているクラスは合格者が一桁だった。
    しかも、学年で合格者の数が最低という事態に、一計を案じた。

    「鼻面のニンジン作戦」ならぬ、サツマイモ作戦である。
    これは以前から「全員合格したら、何か奢ってくれる?」という生徒の要望を汲んだ。
    「全員合格したら、うちで採れたサツマイモ食わしてやる」と宣言した。
    一番喜んだのはもちろん、女子生徒である。
    「私は大学芋が良い!」と、ほとんど不合格だった生徒も叫ぶ。
    当然私は無理だということは分かってはいたが、単語テストに楽しく望めれば良いと思っていた。

    さすがに全員は無理だったが、宣言以降はこれまでと違って、合格者どっと増えた。
    とりあえず学年最低の合格者数は脱することができた。
    全員合格を諦めてしまっては元も子もないので、みんな努力したらそれなりのご褒美はしてあげると伏線もはった。
    そして、家から持ってきた土のついたサツマイモを、黒板の上に掲げて「これを目標にがんばれ!」
    と檄を飛ばし続けている。
    ペナルティーを科すことよりも、目に見えるご褒美の目標の方が効果があったのである。
    もちろん、こんなやり方は邪道だとは分かっているが、何か楽しみがないと勉強もつまらないことも確かである。

    考えてみれば、私が英語を嫌いにならないで済んだのは、当時は英語の歌を歌うのが楽しかったからである。
    ビートルズから始まり、色んなバンドの曲を歌詞カードをを片手に、レコードをかけて歌った。
    生徒にも英語の歌を勧めているのだが、残念ながら今は流行っているのは日本の曲ばかりだ。
    そのかわり日常的に英語があふれているのだが、生徒はカタカナ英語とアルファベット英語が結びつかない。
    日本史の授業で、生糸を答えさせるのに、シルクロードというヒントを与えても答えられないのである。
    当然、コットンとcottonも結びつかない。
    これは漢字言葉を知っていても、中国語が分からないのと変わりがないのかもしれない。
    何年間も英語を習い続けた日本人の多くは、英会話のできないカタカナ英語文化を育んだ。
    それは、先人が中国語のできない漢字言葉文化を育んだのと大差ないのかもしれない。
    違うのは漢字文化は中国人と筆談できるが、スペルが書けないカタカナ英語は意思疎通の道具にさえできないのである。
    せいぜい、歌の歌詞に織り込んだり、商品に利用して親しむしかない。
    一方、英語教師は”単語 単語 単語”と叫んで担任を単語テストに動員できる力が持てる。
    これは英単語の持つ何よりも畏るべき力である。

    2013年11月10日日曜日

    Home Coming Day

    赤穂の実家に立ち寄ると、母校の大学から同窓会通信が来ていた。
    私は未だに学生時代の住所のまま変更届を出していない。
    というより、年会費を払っていないのである。
    それなのに、毎年通信を送ってもらえる。
    毎年11月3日は南山大学は文化祭を行っていて、卒業生が戻ってくるHome Cominng Dayとなっていた。
    学生時代は文人研(文化人類学研究会)に属して、文人研の名物の五平餅を作って売った。
    3年生の時には、私の下宿のアパートが仕込み場所になって、大勢の部員が集まって賑やかにやったのを思い出す。

    実は卒業して以来、二度しか母校を訪れていない。
    一度は、都立大大学院生の時代に民族学会が開かれたので参加した。
    もう一度は、兵庫教育大学の院生時代に、東京へ電車を乗り継いで行くついでに、立ち寄ってみた。
    それは、南山大学時代から始めた奄美与路島の調査研究の著作を届けに行く目的もあった。
    何の前触れもせずに行ったので、知った人には誰にも会えなかった。
    夜行の電車を待つまでの時間つぶしで、地下鉄いりなか駅の近くのプールへ行って泳いだのを覚えている。
    去年は叔父の葬式が近くで行われたので、大学の建物だけは眺めることができた。

    当時は毎日ではないが、日記をたまにつけていたので、それを開いてみるとその当時に自分が何を考えていたかわかる。
    卒業して31年も経つと、当時のことは記憶の底で忘れてしまっていたことが多い。
    そんな中で、はっと思ったのは、大学の文学部人類学科に入学当初の気持ちが綴られていた内容である。
    ガイダンスで先輩から、教職も就職も悪くて、将来性のない学科であると知らされて、当時は気持ちが腐っていたようだ。
    私は、当時いい加減な浪人生で、この大学も学科も何を学ぶかわからないまま、「赤本」も買わずに受けて、唯一合格したところだった。
    受験した理由は、名古屋には叔父が住んでいて下宿させてもらえると言うことだけだった。
    最初は、叔父が物置にしていたアパートに居候したが、数ヶ月で同級生のアパートに転がり込み、そのままそこに卒業するまで居着いてしまった。
    その同級生は他校を受験して出て行く予定だったのが失敗して、結局別のアパートに移ってしまった。
    形としては、転がり込んだ私が同級生を追い出してしまった格好であった。

    そんな、いい加減な学生生活の中で、文人研との出会いは人生を変えた。
    文人研での村落調査にのめり込んでいき、倉田勇先生(故人)にお願いして勉強会を開いたりして、奄美与路島に巡り会った。
    そして、当時は独身の都立大学院卒の若い先生と出会いは、研究への意欲を高めるものとなった。
    他にもM君は、私が軽音部に誘っていながら一緒に辞め、その後一緒に文人研で活動をともにした。
    彼のようなよき親友を含め、多くの仲間に恵まれた。
    また、所属した杉本良夫先生のゼミ仲間とは、いろいろと刺激しあうことができた。
    今から思えば一番充実した生活を送ることができたのが、南山大学だったと思う。

    教師となった今は、生徒に「行こうと思う大学をよく調べて、目的を持って進学しなさい」と言う。
    そういう自分は、何も調べす、目的もなく行き、たまたま肌に合ったというのが正直なところである。
    ただ、ミュージシャンになりたいという甘い夢や、マスコミへの就職という現実的な希望も打ち砕かれた中で、何とかしなくてはいけないと思っていたことも確かであった。
    そういう危機意識と、おもしろいと感じるものには貪欲に打ち込めたのがよかったと思う。
    残念ながら研究職には就けなかったが、大学院へ行ったからこそ今の自分があると思っている。
    大学は入試制度ばかり注目されるが、学生が伸びていける環境こそ重要だと思う。
    そういう意味で、当時の自分には大学や生活環境に恵まれていたことが良かった。
    いい加減な浪人生あがりでも、教職に就ける道筋がつけられたのだから。






    2013年11月8日金曜日

    蘇った唐船

    いつのまにか、唐船は兵庫県で一番低い山で宣伝されるようになっていた。
    確かに山なのだが、私には島が砂に埋もれてしまったというイメージでいたので、ぴんとこない。
    昔は「ドンドン山」と言って、山を歩くと音がした。
    言い伝えで唐の船が沈没して埋まっていると言われてもいた。
    子供の頃からいい遊び場所で、岩の隙間の小さな浜でよく遊んだ。
    ただ、狐が住んでいるとか、小さなほこらが岩場にあったので、ちょっと怖かったので林の中を歩き回ることはなかった。

    唐船の砂浜は有料の潮干狩り場になっていたが、小学生の頃は友達同士で行って、尾崎から来たと言ったら、無料にしてくれた。
    シーズン以外はフリーとなり、浜でバカ貝を捕ったり、釣りをしたりした。
    高校生の頃は冬場でも仲間と夜にたき火をして楽しんだりもした。
    以前、生徒に「彼女とデートは何処でしたの?」と聞かれて、「唐船」と答えると笑われたが、時々、高校生のカップルも見かける。
    夜になると御崎の灯台や家島の町の灯りが見えてロマンチックになるのを、生徒は知らないようだ。
    実は今は私のジョギングコースになっている。
    昔とは違ってずいぶん綺麗になった海岸は絶好のコースである。

    この唐船の砂浜に泥がたまってしまって遊泳禁止になり、それを取り除く工事を最近までしていた。
    大きな重機を海の中に入れて、いっぱい泥を取り除いてきれいな砂浜が蘇った。
    これで来年からは観光客も増えるだろう。
    ただ、潮干狩りのシーズンの休日には渋滞になって、うちの畑に行くのにも大変である。
    海浜公園がそばにあって、家族で楽しめるいい場所なのであるが、自動車でないと便利が悪い。
    来年は臨時の駐車スペースもスポーツ施設になるので、どこに留めてもらうのか気になるところである。

    この週末は赤穂シティーマラソンがあるが、ここはハーフコースにもなっている。
    去年は土砂降りの中、大変なマラソンになったが、今年はどうだろう。
    本当は参加したかったのだが、コースである御崎の海岸の坂道に怖じ気づいてしまった。
    今の走りでは制限時間をクリアーできそうにない。
    来年こそはチャレンジしたいと思っている。

    2013年11月4日月曜日

    町医者

    先週は学校で球技大会があり、生徒が足りなくて代わりに卓球に出る羽目になった。
    数日前から、水泳で痛めていた左肩が痛かったので、代わりを若い人に頼んだが、引き受けてもらえない。
    仕方ないので、負けることを 前提に出ることにした。
    ところが、他のメンバーが強かったので、ベスト4になって準決勝、私の試合で勝敗が決まることになった。
    そうなると簡単に負けるわけにはいかない。つい力が入ってしまった。
    試合は負けたが、3位という賞状をつかんだ。
    クラスも男子がバレーで1位だったので、総合3位になった。
    これまで一度も賞状を獲れないクラスだったので、担任としては嬉しかった。

    しかし、翌日左肩や腕が痛くて動かせない。
    おまけに車はミッション、脂汗をかきながら職場に着いた。
    そして、やむを得ず医院に行くことにした。
    痛み止めの注射と飲み薬で、翌日の夕方にはだいぶ楽になった。

    ところが、模試で出勤した土曜の朝から今度は腹痛で、弁当も食べられない。
    夕方にはいったん収まったが、よく日曜は痛いし下痢はするしで、病院に行くことにした。
    そこで、点滴を受けながら、昔のことを思い出した。

    私は幼い頃は体が弱く、しょっちゅう医者にかかっていた。
    加里屋の池田医院がかかりつけで、母親は正月にも診てもらったと言っていた。
    私も院内の風景や、臭いは今でも覚えていて、それを思い出した。
    コップの水にクチバシをつける振り子鳥人形は、待ち時間の退屈さを紛らせてくれた。
    やはり、下痢の症状がひどいときに診てもらって、血管注射がうまく入らず、やっと5回目に入った時の痛さを覚えている。

    母親は住んでいる尾崎ではなくて、遠い加里屋の医院まで連れて行ってくれたのは、池田先生を信頼していたからだと思う。
    当時はバスを使ったが、弟も調子が悪いと、母親は乳母車に二人乗せて通った 。
    大きな幼稚園児だから、今から思えば恥ずかしいが、タクシーを使える余裕はなかった。
    車で家内に病院に連れて行ってもらえるので、今は本当に楽である。
    ただ、この一週間で1万円も医療費にかかってしまった。
    当時、物価は違うにしろ、これだけの医療費は大変だったろう。
    便利さはお金と引き替えらしい。


    2013年10月24日木曜日

    コウノトリのさっちゃんとドジョウ

    朝日新聞の西播コーナーにコウノトリのさっちゃんが我が家の近くに再び訪れた記事が載った。
    2008年には長く滞在してくれて、飛んでいる姿や、電信柱に留まっている姿など様々見せてもらった。
    何よりも羽を広げて飛ぶ姿は、こんなに大きな鳥だったのかと感心した。
    その時も、「はたして食べる餌はいっぱいあるのだろうか?」と気になった。
    田んぼに降りているので、田んぼにいる小魚などを食べているのだろうと思ったが、あれだけ大きな体を維持できるほどの量があるのかと心配した。

    実はうちの近所の溝にはドジョウがいっぱいいる。
    田植え前と稲刈り後に溝掃除をするが、泥と一緒にいっぱい上がってくる。
    孫や子供に見せようと持って帰る人も居るが、できるだけ溝に返してやる。
    私は農薬を多く散布していることを知っているので、食べる気にはなれない。
    一度、家の庭の水を入れた桶で飼っていたこともあったが、鳥が来て食べてしまった。
    ウナギ以上に栄養価があるというので、養殖してみたいとは思っている。
    コウノトリの餌にはこのドジョウが一番らしい。

    今勤めている学校の生徒にコウノトリとドジョウの話をした。
    実は私の実家はその赤穂の学校の近くにあって、もともとは田んぼだった。
    その田んぼには井戸あって、幼い頃は私の父親と一緒にドジョウをよく獲った。
    バケツで水をくみ上げて、ザルでこすとうじゃうじゃ獲れた。
    うちに持って帰って、きれいな水でしばらく泳がせて泥を吐かせてから食べた。
    しばらくはドジョウだらけの食事で、味噌汁にも入っていた。

    生徒には「コウノトリは何を食べるのでしょうか?」と聞くと
    ある女生徒は「鮭」と答えた。
    「白頭鷲ならともかく、ドジョウや!」と教えてやったが、ドジョウのイメージがわかないようだった。
    そういえばこの学校の近くは海があって、たまにミサゴも見られるから、そういう猛禽類が大きな魚を捕るイメージと重なったのかもしれない。
    私のように身近に大きな鷺が多く居る暮らしとは大きく違うようだ。
    先日も田んぼの側溝に大きな鷺が餌を食べていて、そこを私がジョギングで通りかかった。
    驚いた鷺は羽ばたいて逃げようとしたが、側溝の壁が邪魔になり飛び立てない。
    結局、私が追いついてしまい、慌てふためいた鷺は飛び立てずに回り右をして、走って逃げた。
    「捕まえる人もないから逃げることはないのに」と思いつつ、笑えてきた。
    こんなのんきな場所だからさっちゃんもやってくるのだろうと思う。




    2013年10月13日日曜日

    秋の収穫と鳥撫の祭

    昨日は自宅近くの畑で、枝豆をとったり、ニンニクを植え付けたりした。
    今朝は、赤穂の唐船の近くの畑にサツマイモを掘りに家内と出かけた。
    蔓を切り、マルチをめくって備中鍬で掘り始めると、ちょうど良いくらいの芋が出てきた。
    日照りが続いたり、高温だったのでちょっと不安だったが、思った以上の収穫だった。
    隣の畑で農作業している小学校の同級生のK君に、サツマイモをの出来を聞くとあまりよくなかったという。
    彼は熱心に畑に通っているが、可愛がりすぎて、蔓ぼけさせてしまうことが多い。

    サツマイモは全部掘ってしまわずに、草を刈ろうかと思い、落花生のそばまで行く。
    なんと!! 落花生の殻が散乱しているではないか!
    すぐに、カラスの仕業であることが分かる。
    例年カラスに落花生はやられるので、ネットを張っていたのだが、今年は忘れていた。
    当初の予定にはなかった落花生堀に作業を変更した。
    表面付近の落花生はほじくり返されて、殆ど食べられていたが、地中深くは大丈夫だった。
    家内と「カラスの食べ残しを頂くのか」とぼやきながら、全部掘り上げた。
    カラスに食料を恵んでやることで恩返しをしてもらえるのだろうか?
    亀なら竜宮城だが、カラスならあの世にお伴してくれるかも・・・
    そういえば八咫烏のように戦いに勝利させてくるかも・・・
    家内と冗談を言いながら作業をした。
    実際、この程度で目くじらを立てていては百姓はやっていけない。
    農作業を終えて近くに住む母に作物をお裾分けし、近くのスーパーに寄った。
    そこで家内は昼飯のおかずとモナカアイスを一つ買った。
    それを車中二人で交互にかじるのだが、普段は食べないアイスがとても美味かった。

    午後からは、職場の人が獅子舞の舞手をするというので、鳥撫の祭りを見に行くことにした。
    その人から前もって宮入の時刻を2時と聞いていたのだが、昼寝をして遅くなり3時近くになってしまった。
    荒神社は少々石段を登らねばならないのだが、懐かしい笛の音が山にこだまして聞こえてくる。
    私は幼稚園に入る前まで、鳥撫で暮らしていたし、尾崎に引っ越ししてからも、本家に呼ばれて祭りを何度も見にきた。
    ここの祭りは結婚する前に職場の人と見に来て以来なので、25年ほど見ていない。

    なんとか、職場の人が獅子頭の人を肩車をしているのを、カメラに納めることができた。
    最後の梯子の上での舞も見ることができてよかった。
    ただ、周りの観客には職場の人以外は殆ど知った人がいない。
    一人だけ、自治会の役員をしていたので見かけたが、親戚は誰一人見に来ていない。
    毎年のことだし、家近くで舞ってくれるので、神社には来ないのだろう。
    帰りは家内に迎えに来てもらうのに、墓参りでいつも訪れる場所を指定してそこまで歩いて行った。
    幼い頃一緒に遊んだ友達の家などは空き家になっているし、親戚の家も崖崩れでとっくに引っ越して畑になっている。
    この50年前の年月は、まさしく私を浦島太郎にしてしまった。
    お墓の近くの防波堤に腰掛けながら家内の来るのを待った。
    祭りを見ることができたのは良かったのだが、浦島太郎の身が寂しかった。
    すると、祭りの笛の音と太鼓が遠くで聞こえだした。
    宮入の後も近所を回っているのである。
    その音はやはり昔のままである。
    鳥撫育ちの私の父はこの音の節をそらんじていた。
    私はこの節は複雑で憶えられない、単純な大津や尾崎の祭り囃子なら憶えている。
    それでも、幼い心に刻まれた囃子の音は、50年前の記憶を蘇らせてくれた。

    その夕べは収穫した枝豆と落花生を圧力鍋で蒸かし、間引きした大根の炊いたのを食べた。
    祭りと言えばツナシ寿司や甘酒を思い出すが、我が家の収穫物と炊き込みご飯で祝うのも良いものである。
    本当なら日本酒と行きたいのだが、糖質が多いので安い第3のビールと赤ワインを飲む。
    どういうわけか家内は携帯で私の酔った顔を写真に撮る。
    見せられてたその顔はまさしく浦島太郎だった・・・

    2013年10月6日日曜日

    真夏のような10月6日

    朝、霧が晴れるとランニングシャツと短パンで散歩する私に日差しが容赦なく照りつけた。
    しっかり歩くつもりだったのだが、30分ほどで家に戻った。
    今日はカヌー型のゴムボートの練習をするにはもってこいだった。
    実は、だいぶ前からカヌーがしたくて、いろいろ調べたのだが、結局安くて手軽な二人乗りのゴムボートを買っていた。
    春先にネットで購入して、いつでも使えるように、空気を入れて庭先の日陰につるしていた。
    結局、夏休みに一度も練習できず今日に至ってしまった。

    近くの千種川の河原まで軽トラで運んで、現地で空気を足した。
    空気が十分でないのか、真ん中に乗り込むと折れ曲がって水が入ってきたので、後ろ側に乗った。
    パドルを使って操船するのだが、思った以上にうまくいかない。
    川の流れはたいしたことはないのだが、上流に向かって漕ぐと殆どまともに進まない。
    どうしても、右手が強くなって回転してしまう。
    水も中に貯まったので、空気を入れ直すことにした。

    空気を足して、乗り込もうとすると、前回は簡単に乗れたのに、二度も転覆して下半身がずぶ濡れになった。
    それでも、何とか乗り込んで下流の方に漕いでいった。
    日差しは夏そのものだが、空は秋の空であった。
    腰が沈んでいるので、仰向けになって漕いでいる状態で、空しか景色が見えない。
    出発地点へ戻ろうとすると、これが思った以上に大変。
    風に流されるし、転覆しそうになるし、やっとの思いで岸に着いた。
    正味一時間ほどの練習だったが、いつもしているジョギングや水泳以上に疲れてしまった。
    海で練習しようかと思ったが、川でよかった。
    海なら戻ってこれなくなっていたかもしれないと思った。
    初心者は池で練習する意味がよくわかった。

    カヌーの練習の後は農作業をした。
    今年は遅く植えたオクラが今でも多くとれてる。
    庭先で乾燥させていた黒胡麻もはじけたのをボールに入れた。
    胡麻は家内が夕ご飯にいろいろと使ってくれた。
    毎日、すり胡麻を納豆と一緒に食べているのだが、まるで味が違う。
    穫り入れから乾燥、脱穀と面倒な胡麻だが、手をかけて作る価値はあると思った。
    家で作る落花生や枝豆も売っている物とはまるで味が違う。
    たぶん有機肥料を使って、無農薬だからだろう。

    今日は気温も三〇度を超して、夏と秋の同居した10月の日曜だった。
    11月初旬に行った奄美大島を思い出した。
    その時も、11月だというのに三〇度近くに気温が上がって暑かった。
    カヌーを上達させて、いつか奄美の海を駆け巡るのが私の夢である。

    2013年9月16日月曜日

    軽トラ通勤2ヶ月

    軽トラに乗って通勤し始めて2ヶ月、ようやく運転にも慣れてきた
    始めの頃はトルクが弱いし、1速目は音が大きいのにスピードは出ないので戸惑った
    小さな馬力で重い荷物を運ぶためにギアをそのようにしているのだと思うが、停止するたびに気を遣っていた
    車高が高いが地面が近くに見えるせいか、スピード感がある
    Stepwgnなどはスピード感を感じずに、結構スピードは出ていた
    そのせいで、あまりスピードは出していなくて、後ろから迫られることが多くなった
    ただ、後ろで煽るでかいワンボックスカーも、私のレイバンのサングラス姿をルームミラーで見かけると、距離を開けてくれる
    一番良いのは窓を開けて、黒くて太い腕を出せば良いのだが、最近それをやるとスピードが落ちることに気がついた
    燃費節減で窓を全開にしていたのだが、かえって燃費を悪くしていたようで、窓を閉めてエアコンをかけている
    思い起こせば、窓を閉めて走り始めてから煽られるようになった

    荷台には緑のシートをかぶせて、水泳道具などの荷物を置いているのだが、雨の日は水がたまってしまう
    安物のシートを買ったせいで、直ぐにたるんでしまうのである
    そこで、水がたまるとゴム紐を外して、水を抜くのだが、これが雨の中では結構手間である
    雨の日はベランダボックスを積む方が良いように思えた
    買い物を夫婦でいくときには、荷物は荷台に置かねばならないので、少々不便でぶっそうである
    大きい荷物以外はFitの方がよほど便利である

    軽トラは私だけなので、学校の駐車場では私の車はよく目立つ
    若い教師の乗る大きいボックスカーに比べてこんなに小さいのかと引け目を感じた
    先日、生徒に新幹線のスピードはどれくらいだと聞いたら、100kmというので
    「100kmなら俺の軽トラでも出るわ」と言ったら受けた
    実際はまだ出したことはなくて、単なる自虐ネタなのだが、実は生徒の多くは軽トラを知らない
    田舎では自転車よりも使われている軽トラなのだが、赤穂ようなへんぴな町でも軽トラはマイナーだ
    先日、家内が買い物で近くのスーパーまで運転していったら、同じ軽トラのお爺さんから怪訝そうに見られたという
    軽トラは田舎でも男が乗るものというイメージがあるようだ
    近所のおばさんは普通に乗っているのに・・・
    ただ、私の知り合いの女性教師で、姫路から淡路島まで軽トラで農作業に行っている人がいる
    さすがに橋の上では風に煽られるという



    プロジェクターを買って一ヶ月

    2学期から自前のプロジェクターを教室で使用している
    BenQのMW820STは超短焦点ワイドでしかも、3000ルーメンという明るさで、教卓の横から映して十分大きいし見やすい
    最初は自立式のスクリーンを用いたが、窓を開けていると風で揺れたり歪む
    また、結局下の方は見づらいし、一番の難点は重くて運びづらく、設置に時間がかかる
    そこで、黒板に張り付くマグネット式のスクリーンに変えた
    自立式より幾分小さくはなったが、風の影響はないし、軽くて設置も便利である
    社会科教室は部屋が大きくて、後ろからは見づらかったのだが、教室は狭いので字の大きさは問題ない。
    問題なのはスクリーンの下の方は教卓やパソコンが邪魔になって見づらいということで、なるべく下に文字は映さないようにした
    一番やかっいなのは、机を据え付けた台車を毎回教室に設置しなければならなくて、廊下いっぱいに移動している生徒とせめぎ合う
    自転車の呼び鈴でも鳴らしながら移動したいくらいである

    今回教室で使い始めて、やっとネットを活用できるようになった
    ネットで助かるのは、その場で調べられることである
    分からない用語や内容を調べらるし、史跡などを直ぐに写真や地図で示すことができる
    口頭で説明するより効率的で、その分、逸話話や質問がしやすくなった
    映像に関しては、午前と午後では見方が全然違う
    面白い内容でも、午後はどうしても眠くなる
    これは夕食後にテレビで面白い番組を見ていても寝てしまうのと一緒である
    だから、昼食後直ぐの授業はなるべく書かせることにした
    そうなると、長い時間映像は見させられないので、映像の編集が必要である

    実は、以前も一番時間がかかったのは映像の編集だった
    録画していた番組をテーマに沿って編集するのだが、これが結構手間である
    DVDのVOBファイルをMPEGに変換したり、映像の切り抜きに時間がかかった
    しかも、手持ちの編集ソフトはXP用で、Win7には対応していない
    また、最新の編集ソフトを手に入れる必要ができてしまった
    やればやるほど、深みにはまる映像編集ではあるが、いろいろと役に立つことも確かである
    一番大事なのは、授業が面白いと感じてもらうことで、いくら受験に役に立つとか、すばらしい内容でも面白くないと身につかない
    受験に直接関係なくても、歴史の面白さをNHKの歴史教養番組などは教えてくれる(教育テレビは少し退屈)
    受験に関係ない生徒などでもアニメの日本史には興味をしめす
    今後オンデマンドの活用も考えているが、録画できないので編集せずにどう活用するかが課題だ

    新しい取り組みは殆ど自腹で、出費もかさむが、自分自身が授業が楽しくないと、生徒にも楽しい授業ができないと思っている
    これは、自分の研究は書籍にしても、調査費用にしても自腹であったことの延長上にある
    文科省から助成してもらった研究も行ったが、結局は自腹の方が多かった
    その分、職場の飲食の付き合いも悪かったりするが、どこかで我慢しないと家計は持たない
    金をかけるところはかけて、削るところは削る
    周りの人とはちょっとずれているようにも思うけれど・・・




    2013年9月15日日曜日

    判断の難しい警報

    9月4日は朝から警報が出る予測がなされていた
    台風崩れの低気圧が接近していたからだ
    1時間目の授業からだんだんと雨が激しく降り出して、いつ警報が出てもおかしくなかった
    2時間目になって、ますます雨風が激しくなっていた
    私はパソコンを使って授業をしているので、ネットからようやく警報が出ているのをいち早く知った
    まもなく校内放送があり、結局、雷雨の激しい今の段階では、帰宅するのが困難と待機することになった。
    しばらくして、雨が少し小止みになったので、生徒を一斉に帰宅させることになった。
    と言っても、雨風は強く、迎えに来る車などの対応に当たった教師はずぶ濡れになってしまった

    ネットを見ていた教師からの情報で、赤穂駅では電車が動いていないことが分かった
    駅での混雑が予想されたので、教師が何人かその整理に向かった
    11時の電車は運休だが、幸い別の電車が駅に止まっていたので、生徒は電車の中で待機できた
    ところが、電車は増水した千種川を渡れるかどうか、坂越駅で待機するという
    とにかく、相生駅からは動いているということなので、相生駅で降りる生徒の対応に教師が向かった
    電車は相生駅に着くことができ、生徒も無事に帰宅したことを、電話連絡などを通して確認できたのは昼過ぎであった

    私は自宅の上郡が避難勧告が出ていたので、午後二時過ぎに家のことが気になり年休を取って帰宅した。
    通勤経路に当たる千種川は、増水して河原は全て水の底であった
    役場の職員がいたるところで警戒に当たっていた
    自宅に帰る午後3時頃には雨も小康状態になり、近所の高田川の水位も徐々に下がりだしていた

    結果的に今回の警報では、一番雨が激しく危険な時間に生徒を帰したことになる
    職業科の生徒を抱えている高校は、遠くから生徒が来ている関係で、朝から休校にしているか、警報が出る前に帰宅させた。
    校区の狭い普通校の方が警報が出るのを待って帰したので、危険であったことが後になって、他校の人からも聞いた
    これには、以前帰宅が遅れて、学校に宿泊せねばならなかった苦い経験があり、雨が止むまで待機させる選択がとれなかった
    結果としては夕方になれば安全に帰れて、問題なかったのだが、姫路のように警報が出っぱなしのようなケースもあり、待機する判断は難しかった

    この警報というのは本当に曲者で、姫路市のように広い地域では、一部が大雨であれば全体に警報が出て、殆ど関係ないところも休校になる
    方や、すでに岡山県の隣の市町村が警報が出ていて、警報が出るのは時間の問題だと思われるのに対応できない
    行政区に応じた警報の発令の仕方自体に無理があるのである
    かといって小中学校は行政の区分けによっているので、その単位で警報を出してもらう方が対応しやすいだろう
    しかも、最近は局所的な豪雨のために、広い範囲での警報が出しづらくなっている
    今年のような地球温暖化による異常気象は、従来の警報体制では対応できないことを露呈させてしまった
    学校は避難場所にもなるのだから、警報が出ても待機できるような態勢を今後は考えるべきだろう
    宿泊に関しても、食料・水、毛布などの備蓄を義務づけておけば、対応できると思う
    気象庁も、予報が外れて非難されることを恐れずに、早めに警報を出して欲しいと思う
    そして、行政区とは別に、地図上に示されたデーターで判断できるシステムも作って、学校側で判断しやすくした方が良いと思われた






    2013年8月29日木曜日

    ついに買ったプロジェクター

    私は学校の授業ではプロジェクターを10年以上前から使っている。
    教科が地歴公民で図表を使うことや、ネットへの接続が役に立ったからである。
    特別支援学校では実技が多いので、常時使うことは無かったが、普通校では常時用いた。
    今まででは、スクリーンに大写しするには、かなりプロジェクターを遠くに離さなくてはならなかった。
    しかも、部屋を暗くしなくてはよく見えなかった。
    だから、教室で用いることは難しく、特別教室を用いた。
    情報などの特別な授業以外では、私のようにプロジェクターを常時使う教師はいなかったので、特別教室の利用は問題なかった。
    ただ、特別教室は設置環境が悪くて、カーテンを引いて暑いという点で、生徒には不評な面もあった。
    今勤めている学校では、この夏に教室にエアコンが入ったので、この機会に教室でプロジェクターを用いることにした。
    それには、特別教室ではネットが使えないという、信じられない環境も理由としてあった。

    そこで、プロジェクターを探したら、今はビジネスや学校用ので超短焦点ワイドプロジェクターが開発されている。
    しかも、3000ルーメンという明るさで、暗幕を必要としないのである。
    当然学校は、既にある旧式のプロジェクターがあるのに買ってくれる筈もなく、自腹を切ることにした。
    大学などでは、普通に使われていて、教員がそういう物を自己負担することは無いだろうが、高校では自己負担するしか無い。
    (因みに、研究指定を受けて予算をもらうと、その報告に膨大な時間が必要となる)
    意を決して、8万円近くするBenQのMW820STをネット通販で買った。
    これを選んだのは、価格と本体の軽さ、ある程度の信用である。
    価格面でリコーも考えたが、家のパソコンのディスプレーもBenQで馴染みもあるし、ネットでの口コミもそう悪くは無かったので決めた。

    さっそく、今日教室で試してみた。
    特別教室のスクリーンより小さくなるが、教室自体も狭いので何とかなりそうである。
    部屋が暗くなくても、ちゃんと見えることには感心した。
    自前のキャリアーに小さな机を据え付けて、ポータブルのスクリーンを持って、教室に設置する予定である。
    これは、以前勤めていた学校ででも特別教室に常設できなかったので、同じようにしていた。

    なぜ、こんなに自己負担をして、しかも、持ち運びも大変なのにプロジェクターを用いるか?
    1、今の生徒は映像や画像を用いないと興味を示さない。
    2,同じ授業を何回(担当クラスが複数、学年が違って同じ科目担当)も行うので、教材を一回作っておけば手間が省ける。
    3,練習問題や試験の解答では、答えを表示するのが便利。
    4,生徒が手許の図表よりも、顔上げてスクリーンを見るので、反応が分かる。
    5,特に現代社会なのでは、ネットからの情報をリアルタイムで流せる。
    6,特別支援学校では、文字言葉よりも、画像や、映像、音楽が非常に効果的。
    などなどである。
    デメリットは
    生徒の教室移動(これは今回で解消)、文字を書くのが遅い生徒には酷、目の悪い生徒は見づらい、など色々とある。

    もう既に、大学ではプロジェクターで授業をするのが当たり前になっている。
    小中学校、高校でも教科によっては、非常に効果的だろうと思う。
    だいたい、黒板にチョークという前近代的な道具を未だに使っているのは学校ぐらいだろう。
    せめて、ホワイトボードにしておけば、プロジェクターのスクリーンにもなる。
    エアコンをつけて環境を整えるのも良いけれど、学習効率も考えてはどうだろうか?
    学力試験の点数がどうのこうのとマスコミは報じるが、デジタル化、ネット化に対応しようとしているマスコミなら、学校の転換の必要性もわかるだろうに・・・

    ちなみに最近出演した文化祭でのステージ演奏のユニット名は”Chalk Duo”であった。
    今度出るときには、映像付き演奏で”The Projectors X”にしようかな・・・







    2013年8月17日土曜日

    近くなった鳥取・日本海

    去年の夏休みは出雲博を見に行った。
    今年はどこへ行く当てもなく、朝の十時前にドライブに出かけた。
    用事で郵便局に寄った後で、どちらに行くのかと助手席の家内に聞くと、車が「出やすい方」というので、西向かった。
    そこは今朝方(8/16)、自転車のトレーニングで走ったところだった。
    とにかく西に行こうと言うことで、安室ダムの北側の山道を通って、八塔寺の入り口まで行った。
    気がつけば、7月にドライブで通った国道374号線まで出てしまっていた。
    津山はその時に行ったので、とりあえず北に向かって美作を目指した。
    家内が美作国の建国1300年だというのを聞きかじっていたので、何かイベントがあるかとも思った。
    私達は湯郷温泉が美作にあることを意識していなかったのだが、美作を目指したことでやっと結びついた。
    残念ながら、イベントは無かったので、道の駅で昼ご飯の鯖寿司と、巻き寿司を買った。
    どこか涼しいところを見つけて食べるつもりでいた。

    ここまで来たら鳥取に行こうと言うことで、ひたすら北に向かって走った。
    今まで聞いたことの無い「奈義」という町を目指した。
    奈義は高原の盆地のような町だった。
    そこからは上郡町民としては耳慣れた「智頭」を目指して山間の道(因幡街道)を走った。
    途中でループ状の橋があるような急な坂道もあった。
    景色が良いので、日陰でも見つけて食事を取ろうと思ったが、都合の良い場所は見つからなかった。
    因美線の傍を通る道には、家並みも広がっていたが、屋根瓦の色が違うので異文化を感じる。
    自分の住む播磨地方は淡路の瓦が多くて銀色だが、この地域は濃いい焦げ茶色である。
    このあたりは確か、子どもが小さかった20年ほど前に一度来たはずだが、風景は覚えていない。
    鳥取砂丘への案内看板を頼りに行ったのだが、どうも道を間違えて鳥取市街地に入ってしまった。

    昼も一時を過ぎて腹が空いたので、結局車の中で運転しながら、巻き寿司や鯖寿司を食べたのだが、美味しいさを味わう余裕は無かった。
    そのうち国道九号線に出て、砂丘とは反対の白兎海岸を目指した。
    白兎海岸は以前子どもと来た時には立ち寄らなかったからだ。
    一年ぶりの日本海は、少々波があり、水平線はかすんでいた。
    暑い中、白兎海岸の道の駅に立ち寄って、白兎神社に参拝。
    道の駅では高校野球がテレビでかかっていたが、西脇工業が残念ながらちょうど敗れたところだった。

    帰りは運転を家内に代わって貰い、とりあえず駐車場から出やすかったので、西を目指してまずガソリンスタンドに寄った。
    そこから、どうしようかと迷ったが、米子道は有料なので、安上げるために無料の鳥取自動車道で帰ることにしてUターンした。
    来る時には気がつかなかった湖山池の南の道を通った。
    この池は湖のように大きな池だった。

    鳥取自動車道に乗ると、殆どトンネルを通って、景色もさほど見られなかった。
    その代わり、1時間ちょっと佐用に着いてしまった。
    佐用からは一般道なので、同じくらいの時間が上郡までかかったが、夕方の4時前に着いた。
    こうしてみると、鳥取は近い。
    無料道路なので、ガソリン代だけで行けることを考えれば、神戸に行くよりも安上がりである。
    国道373号線は、中世の赤松一族が栄えた千種川沿線の道であるが、日本海と瀬戸内海を結ぶ新たな可能性を感じた。
    確かに智頭急行はその先駆けではあるのだが、手軽に車に乗って日本海に行くには自動車道の方が便利である。
    すごく遠く感じ疎遠だった、因幡国や出雲国が近くなった。
    何より日本海に釣りに出かけたり、冬場の蟹を食べに行くのも便利そうだ。
    渋滞の多い瀬戸内海沿岸よりも魅力を感じる。
    旅情を感じたいなら、山間の一般道を通り、手軽に行きたいなら自動車道が良いだろう。
    課題は鳥取道に結ぶ、播磨道を早急に延長して作ることだろう。
    できれば無料化にして欲しい。




    2013年8月11日日曜日

    フィン(足ひれ)と黒肌の力

    私は水泳部の顧問を長くしているが、生徒と泳ぐ機会が多かった。
    スイミングの経験者ばかりの時はさすがに一緒には無理で、練習後に泳いだ。
    たいていは、初心者や学校クラブだけで泳力がさほどでない生徒がいたので、一緒に泳ぐことが多かった。
    今の学校では私は主顧問ではないので、号令を掛けたり、練習メニューを考える必要が無い。
    ところが、部員は経験者ばかりで、泳力も皆高い。
    そこで練習に少しでも加わる目的で、フィンをつけて泳いでみた。
    すると、全部では無いにしろ、生徒と一緒に泳げる。
    特にサボりがちな生徒との横のコースや、場合によっては同じコースで泳ぐと、生徒は年寄りに負けるものかと、頑張る。
    これが私の狙うところである。

    このフィンは確かにスピードは出るのだが、生徒と一緒に泳ぐにはそこそこ体力も要る。
    例えば、50mをフリーで泳ぐ時、いつもは1分サークルで泳ぐのだが、生徒の練習は遅くても50秒で、普通は45秒以下ということになる。
    これは、フィンをつけていても結構辛い、たまに間を抜いたりする。
    そして、100m以上になると、フィンをつけていてもなかなかついて行けない。
    ましてや、個人メドレーとなると、平泳ぎは殆ど役に立たなくなる。
    しかし、圧巻はキックの練習で、さすがに生徒の先頭と並ぶ。
    54歳が16・17歳の若者と対等に泳げるのは、フィンあればこそである。
    これはさしずめ、自転車に乗って伴走する陸上のトレーニングと一緒かも知れないが、自転車よりは技術と体力が要る。

    それにしても、お陰で私の顔はゴーグルの影響で、逆パンダ状態・・・
    パンツの部分以外は全身真っ黒である。
    先日も屋内プールに行った時には、周りの人は白いので違和感を感じた。
    奇しくも、新人(現世人類)はアフリカから誕生したという説を研究していうるのだが、先祖返り状態である。
    家では肌を露出する機会も多くて、皮膚の温度が体温調節で低くなっているせいか、家内に熱い手で触られる。
    この悪ふざけは、折角体温を下げている身には、気に障るのである。
    何せお嬢様育ちの、家内は汗をあまりかかなくて、体温が籠もって手も熱い。
    その手で下げた温度を上げられたら、たまったものではない。
    今日も農作業で、虫対策で最初は長袖を着ていたが、汗でびっしょりになり、通気性も悪くて気分が悪くなった。
    そこで、長袖を脱いで、薄い半袖シャツになり、虫除けを塗って仕事したが、ずいぶん楽になった。

    我々祖先のアフリカのサバンナで身につけた暑さ対策と、海岸生活で身につけた泳ぐ術を今こそ甦らせよう。
    おそらく、サバンナは日中は40℃を超えるだろう。
    日本はまさしくサバンナだ、というより湿気が多いので熱帯雨林に近いのだろうが・・・
    とにかく、冷房だけに頼らずに、地球温暖化の新たな文明に適応しよう。


    2013年8月2日金曜日

    歩き、走り、転がし

    私は持病の糖尿病の治療のために、運動を行っている。
    以前は犬の散歩などで歩くことが多かったが、犬が死んだことと血糖値が高くなったのでジョギングに変えた。
    ジョギングは平坦な田圃の中の道を、朝5時に起きて涼しい時間帯にゆっくりと走る。
    額に日本手ぬぐいを巻いて、30分以上走ると汗が絞れるほどになる。
    大量に午前中に汗をかくので、仕事に出てからは、そう汗は出ない。
    何よりも、歩く人が多い中で、走ることは、まだ私は若いと自己満足にひたることができる。
    ところが、私には左足のアキレスに古傷があって、走りすぎると痛んでくる。
    そこで、自転車を時には用いる。

    朝の自転車も爽快で、車も少なくて走りやすいし、涼しいので汗も乾くのか、苦にならない。
    ジョギングに比べて楽なので、1時間近く掛けて田圃の道や千種川の土手道を転がした。
    山沿いの道では朝早くから、ひぐらしが鳴いて心を癒す。
    久しぶりにみんみん蝉の声を聞くことができた。

    今日は午前中にクラブで生徒と泳ぐつもりだったので、運動は抑えて歩くことにした。
    近くのため池には蓮の花がちょうど満開である。
    蓮の花がこの時期に咲くことは知っていたし、出勤時に車に乗って遠くから眺めたことはあった。
    歩いて傍で間近にじっくり見るのは初めてのような気がする。
    何せ、歩く時は犬と一緒だったので、そちらの方に気を取られることが多かったからだ。
    朝日の中を、淡い桃色の蓮の花は、まさしく極楽を再現しているように思える。
    みんなに見て貰いたいが、陽が高くなる頃には花を閉じてしまう。
    蓮根も採れる蓮なのだが、ひまわりや梅のように、花で観光客を呼べないのが残念だ。
    ただ、これも規模を大きくすれば、朝早くからでも来てくれるかも知れない。

    走れば運動の充実観が得られる。
    自転車を転がせば、風を切る爽快感が得られる。
    歩けば花を愛でることができる。
    朝の運動は三文の得と言うよりも、生活そのものの糧である。
    お金をつぎ込まなくても、得られる楽しみでもある。
    そして、私には治療でもある。

    2013年7月27日土曜日

    千種への水汲み2013年夏

    先週の日曜日の午後から千種へ水汲みに出かけた。
    このところ、土日しか出かける機会が無かったが、汲むのに順番待ちは無かったので、不安無く出かけた。
    午後二時過ぎに掛けたので、午後5時頃には戻ってこられると思っていた。
    ところが、徳久駅の前の姫新線の高架を過ぎた頃から、道路が渋滞して全く動かない。
    徳久駅前の三叉路だけでは無く、どうやらその先まで続いている。
    来るまでは全く気にしていなかったのだが、南光町のひまわり園へ行く車で渋滞しているようだ。
    徳久駅から歩いて会場に向かう若いアベックや、子連れが車より先に行く始末。
    あまりにも時間がかかるので、場合によっては汲みに行くのを改めようかと思った。
    ただ、町中の渋滞と違って、山や川、田園を眺めながらの渋滞なので、そう苦痛は無い。
    会場から帰ってくる人は、小さなひまわりを持って楽しげである。
    近隣の人は家から出かけるのも大変だねと家内は気の毒がっていたが、普段人通りの少ないこの地域では、大勢の人がやって来てむしろ嬉しいのではないかと思えた。

    南光町のひまわり栽培と観光の取り組みは、我が家の子供が小さい頃に始まっていた。
    だんだんと規模が大きくなったし、場所もあちらこちらと拡大したように思う。
    一度子供が小さい時にひまわり園に連れて行ったが、幼い娘はひまわりが同じ方向に向かって咲いている光景を怖がった。
    チューリップは上を向いているし、桜などの小さな花はその集まり全体で風景になる。
    ひまわりは多くの人が同じ方向に向かって直立しているような印象であって、娘としてはひまわりに見られているというように思えたらしい。
    私達の年齢はソフィアローレンとマストロヤーニの「ひまわり」の映画とそのテーマ音楽を思い出す。
    必ずひまわりが咲いている頃に水を汲みに来るので、車の中で口ずさむ。
    ただ、今までは私が休みが取れる平日に行っていたが、家内の方がむしろ休みが取れなくなった。
    そこで、初めてひまわりシーズンの休日に水汲みに来たのが大きな間違いで、会場への入り口を過ぎるのに1時間ちかくかかった。
    会場を過ぎてからは普段通りに走れたが、千種スキー場でもユリ園を開催しているせいか、対向車は多かった。

    川沿いにあるキャンプ場はどこも子供連れの客が多く、川に浮き輪を浮かべて遊んだり、バーベキューをしている。
    子供が小さい時には、盆に甥や姪が集まってきて、南光町のキャンプ場で水遊びをさせた。
    少し離れた粟倉のキャンプ場で宿泊したし、千種高原でもキャンプした。
    子供が成長した今では、夫婦で通りかかって、懐かしく眺めるだけである。
    孫と来ることができれば、楽しいかなと思いつつ、それも期待できないようにも思う・・・。

    水汲み場は誰一人いなく、通りがかりの車が物珍しげに、車を止めて眺めていくだけであった。
    機械を二つとも使えたので、汲む時間は短かった。
    帰りの渋滞に巻き込まれないかと不安であったが、時間も5時近くなっていたのでさすがに台数は減っていて、殆ど渋滞は無かった。

    今回目にしたナンバープレートは京都、大阪、岡山はもちろん、名古屋や九州など遠くから来たものもあった。
    雑誌やネットで紹介されているのだろうが、地元の人間は毎年恒例なので、関心はそう高くない。
    それにしても、息の長い取り組みで、これだけの観光客を呼び込むことのできた企画には感心させられる。
    交通が不便で大渋滞を引き起こしてしまうのを、きちっと解決できれば申し分ないだろう。
    都会の人はこういう自然に対しても、魅力を感じてくれているのだから、これからの観光は自然を活かした上で、車で手軽に行けることが必要条件だろう。
    上郡町もモロヘイヤや葡萄だけでなく、桃やアーモンドのように花も実も魅力のあるものを栽培したらどうだろうか?
    赤穂も本当なら、梅を栽培して、塩と絡めて梅干し特産にすれば良いようにも思う。


    2013年7月6日土曜日

    見直したヤモリ

    今年もヤモリのやっちゃんの季節が来た。
    毎晩、風呂の窓ガラスで小さな蛾をハンティングする様子を見るのが楽しみである。
    風呂の窓には3匹のヤモリが鎬を削っている。
    強いのや弱いの、尻尾を取られているのがいる。
    面白いのは強いのが横取りしたりするが、ひらひら舞う蛾が、偶然に弱いヤモリの傍の口元に追い込まれたりして、却って得をしたりする。
    ケンカする時は尻尾を激しく振って威嚇して、噛みついたりする。
    それを見ていると飽きないので入浴が楽しくなる。

    先日クローズアップ現代で、生物模倣技術(Biomimetics)の特集があり、ヤモリテープなるものの紹介があった。
    私はヤモリがガラスでも自由に歩き回れるのは吸盤が付いているからだと思っていた。
    ところが、ヤモリの指にはナノレベルのマジックテープが付いているらしい。
    以前勤めた高校の特別学習で、カーボンナノチューブの講義を生徒といっしょに受けたが、その技術がこれに活かされるらしい。
    カーボンナノチューブでマジックテープを作ると何でもひっつけられて離せるらしい。

    このことを今勤めている生物の先生に話すと、解説をしてくれた。
    要するに、本来物質はプラスマイナスでくっつき合うので、くっついてしまわないようにナノ単位で隙間を掛けるのが肝要らしい。
    私はひっつくようにする技術だと思っていたが、ひっついてしまわないようにする技術であることが分かった。
    カーボンナノチューブなど何の役に立つのだろうと思っていたが、こういうことに大きな力を発揮することが分かり、基礎研究の重要性を思い知った。

    クローズアップ現代では、蜘蛛の巣、鰒の貝殻、蝶のストロー、ハチドリの羽ばたきなど、色々な例を挙げてくれていた。
    実は私は高校生の時に一番好きだったのは生物だった。
    大学は農学部に行きたかったのだが、父親の反対が強く学費を出して貰えそうに無かったので、物理化学に選択にしたが、興味が持てずに結局高3で文系に変わった。
    最近でこそ農学部は人気が高くなったし、生物学も生物模倣技術によって脚光を浴びる様になった。
    おそらく、逆境にもめげずに弛まない研究を続けてきた人達の成果だと思う。
    先見の明の無かった我々の世代の一員としては、せめてその努力を賞賛したいと思う。

    そう考えるとヤモリのやっちゃんを見る目も変わってきた。
    人間なら高価なカーボンナノチューブが必要なのに、生まれながらにして身につけている。
    おそらく人間が誕生する前から備わっていた物なのだろう。
    調べてみると、原生林には存在せず平安時代にやって来た外来種だという。
    しかも、県によっては絶滅危惧種にもなっているという。
    幼い頃は外風呂や便所の壁にいて気持ち悪い存在だったが、夏場可愛い居候として今は大歓迎である。
    ヤモリテープの開発を機会に日本中で大切にしてあげて欲しいと思う。





    合唱

    私は学生時代にロックバンドのボーカルをやっていたので、歌うのは得意ではあったが、楽譜で正確に音がとれないのでコーラスは苦手であった。
    また、地声を基本とするロックに対して、声を作るコーラスは不自然な感じで好みでは無かった。
    ところが、今年から赴任した高校では合唱コンテストが文化祭で行われる。
    学年予選で通ればハーモニーホールで歌えるという。
    担任としては、是非あの音響効果抜群の舞台で歌ってもらいたいと思った。
    この頃は合唱の楽譜やCDもあって、正確に楽譜が読めなくても、音を頼りに真似ができる。
    担任としては男性のベースパートくらいは歌えなくではと思って、練習してみると結構面白い。
    そこでやっと気づいたのは、地声で歌うと音色が揃わないので、舌を丸めたりして音色を揃えた方がきれいに響くと言うことである。
    バンドでは裏声で音色を揃えるが、コーラスは舌を丸めたりして音色を揃える必要があったのだとこの歳になって初めて納得した。

    自分は面白くて何度も練習してだいぶ譜面通りに歌えるようになった。
    始めの頃は伴奏をする女子生徒から音が外れていることを指摘さえていたが、それもなくなった。
    ただ、男性生徒が声を出さないので、女性生徒に対抗するために声を大きく出すと、伴奏者から顰蹙を買ってしまった。
    そこで、男性生徒のリーダーに託して、潔く身をひくことにした。
    そうすると、結構男性生徒も声が出るようになった。
    どうも、私がしゃしゃり出るのが悪かったようだ。
    ただ、まだ歌いこなしているという段階で、気持を込めて、他のパートや、個人の声を尊重しながら歌う段階には至っていない。
    たぶん、これから磨きを掛けるのが一番難しいのだろう。

    私自身、以前は自慢の声量に物を言わせて、シャウトする歌をよく歌った。
    Led Zeppelinの「移民の歌」やDeep PurpleのHighway Starなどがそうである。
    しかし、相手の心に響く歌唱力という意味では、自分でも乏しいということは分かっていた。
    最近になって、一人カラオケや、一人ギターを楽しんでいるが、その時に一番気にしているのは、やはり説得力のある歌い方である。
    歌は人柄や人生経験を表現できるし、歌を通じて気持も通じ合うことができる。
    今回も同じ職場の職員と急遽ユニットを作って、文化祭で有志で参加することにして練習している。
    以前は歌唱力を評価して欲しいという気持で歌うことが殆どだったが、今は歌を通じて身近に感じて欲しいという気持ちが強い。
    普段教壇に立って難しいことばかり話している教師だが、歌を通じて世代を超えた共感が得られたらと思っている。

    私は正直なところ、歌のコンテストなど、優劣をつけるものは好きでは無い。
    クラスの生徒が気持を一つに合わせることができれば、予選を勝ち抜かなくても良いと思っている。
    生徒には君たちの歌を是非ハーモニーホールで聴きたいとは言ってはいるけれど、もし叶わなくても、私自身がコーラスの勉強をさせてもらう良い機会になると思っている。
    実際、歌を歌うのが大嫌いな生徒もいるわけで、その生徒には苦痛そのものであろう。
    そんな歌の苦手な生徒も含めて、どれだけ気持を一つにできるかが大切だとと思う。
    好きな者だけが集まるクラブや有志と違い、クラスで行う合唱は、結果よりも過程が大切であることを生徒には分かってもらいたいと思っている。


    2013年7月1日月曜日

    ジャガイモと枇杷の収穫

    6月29日の土曜日は赤穂の畑のジャガイモと枇杷の収穫を行った。
    しばらく来ていなかった畑は、ジャガイモの姿など枯れてなく草だらけ、まずは草刈り機で草を刈らねばならなかった。
    本来はマルチをして、掘り起こすのを楽にするはずだったのだが、それができてなかった。
    雨上がりの土は重く、備中鍬に絡みつく。
    それでも、畦の幅を広く空けて、高くしていたので幾分掘り起こしやすかった。
    できはまずまずで、マルチが無くてもそれ程腐ったりはしていなかったが、蟻にはそこそこやられていた。

    家内は掘り起こした芋を拾い上げて、コンテナに入れた。
    また、家内は私が掘り起こす合間に、落花生や薩摩芋の苗の周りの草取りをした。
    先日、急いで蔓を刈って植えた苗はちゃんと付いていた。
    今年は薩摩芋よりも大豆を多く植えるつもりである。
    隣の畑のお婆さんがジャガイモが全部あおくなってしまった嘆いた。
    お爺さんが調子が悪くなって、私の同級生の息子と畑をしてるのだが、まだ経験が乏しい。
    どうも、種芋を浅く植えてしまったのが原因らしい。
    私も今回は、メークインとキタアカリの種芋を混ぜて植えてしまい、芋が混じってしまっている。
    それでも、コンテナに3杯ほど採れた。
    後で聞いたのだが、上郡町中野の近所の家では雨不足でさっぱり採れなかったという。

    実は朝の9時前に畑に到着して、一畦を残して昼になってしまった。
    一畦掘りきるのは諦めて、帰ることにした。
    この3時間ほどの間ずっと芋を掘っていたのでは無くて、合間合間に草を刈ったり、枇杷の収穫をした。
    枇杷は目の細かいネットを掛けていたお陰で、鳥にはやられていなかったが、照りが悪かったせいか甘みが少なくて水っぽかった。
    粒はピンポン球ほどにはなっていたのだが、職場の人に配るには憚られた。

    かつてジャガイモを掘っていて、熱中症になってしまった経験から水分補給はまめに行った。
    腹が空いたら枇杷を囓った。
    それでも、帰る頃には二人ともへとへとになって、足許がよろついてしまった。
    近くのスーパーマーケットによって昼の弁当を買った。
    家内が小豆キャンデーを買って二人で車中で食べたが、帰ってからのビールが不味くなるので少しだけにした。

    この梅雨の合間のジャガイモと枇杷の収穫が一番過酷な作業である。
    家内の実家は高齢で、ジャガイモを植えるのは数年前に止めている。
    私も来年からは、家の近くの畑に植えて少しずつ掘ろうと思っている。
    マルチをすれば、掘らずに置いておいても良さそうなので、来年はしっかりマルチもしよう。
    美味しいビールを二人で飲みながら来年のことを話した。


    2013年6月21日金曜日

    待望の雨でありながら

    梅雨だというのに雨は長らく降らなかった。
    台風と前線のおかげで、やっと地面の奥までしみる雨となった。
    一昨日の朝は上郡で雨が降っていたので、職場の近くの畑に行って薩摩芋の蔓を切って植えた。
    赤穂は暖かいので薩摩芋の生育が早く、蔓を伸ばしてそれを切って増やせる。
    姫路では浴衣祭りまでに蔓を植えることができると言われているそうだが、赤穂ではもう少し先までいけそうな気がする。
    奄美では収穫しながら苗も同時に植え付けても良い。
    そこまでできなくても、温暖化が進めばこちらでも、もっと苗を増やして植え付けられそうだ。

    ところが、苗を植えたものの、赤穂ではなかなか雨が降ってくれず、萎れてしまうのではないかと心配した。
    やっと昼頃に本格的に降り出して一安心である。
    そもそも赤穂は雨が少ないので塩田が発達したのだから、当たり前のこととといえばそれまでなのだ。
    三方を山に囲まれて、南の沖には小豆島がある。
    千種川も大きく坂越や高雄で蛇行しているので、海からも山からも風の通りは悪い。
    冬場は雪で歴然だが、夏場での雨の違いを今回は実感した。

    ただ、この赤穂は私が高校生の頃に水害に見舞われた。
    高取峠が崩れ、国鉄の坂越の鉄橋が不通になった。
    ちょうどこの季節、姫路から帰る途中で網干駅で足止めになった。
    その前の電車に乗っていた生徒は電車が途中で止まり、坂越の鉄橋を歩いて帰ったと聞いた。
    電車は下りには行けず、姫路駅に引き返し新幹線で相生駅まで行き、そこから後輩の親の車で有年から高雄回りで帰った。
    しかし、しばらくしてその高雄もトンネル付近が崩れて通行止めになった。
    まさしく、陸の孤島になった。
    その水害で鳥撫のうちの本家は土砂崩れで潰れてしまった。

    千種川も佐用町の水害以来、貯まった土砂を取り除く工事が行われてきた。
    大きく蛇行した有年あたりの土砂は取り除かれて、その場所がこの雨で浸水している。
    上郡も300年はもつと言われる河川工事も進んだ。
    ただ、1000年に一度の地震が起きるくらいだから、それに匹敵する雨が降っても不思議ではない。
    この40年ほどの間に赤穂、上郡、佐用とすべて大きな水害に見舞われた。
    下流から上流へと水害が移行したことになる。
    都市化と河川管理との問題がそこにあるように思う。
    おそらく完全に安全となる日は来ないように思えてならない。

    2013年6月16日日曜日

    扇風機 2013/06/16

    今日は今年の梅雨はもう明けたのかと思える入道雲がわき上がる空が広がった。
    その暑いさなかを鉄道マニアが線路上に何時間もカメラを構えていた。
    昨日の雨で田圃や畑は一段落付いたが、また晴れが続くと水不足が心配だ。
    近くの川に蛍の様子を見に行ったが、やはり非常に少ない。
    今住んでいる上郡の中野では、真夏の昼間は1階でも冷房が必要だ。
    2階は特に西側では夕方から寝る前迄も必要な時がある。
    ただ、一晩中冷房をつけて寝ることはないし、1階では夜につけることは無い。
    そのかわり、居間では2台の扇風機が必要である。
    息子は2階でも扇風機だけで過ごしていて、使用可能な扇風機は合計4台である。

    今回、どうしても特別教室に扇風機が必要となった。
    管理職に購入を頼んだが良い返事は貰えなかった。
    仕方ないので、自腹を切ろうと思って調べたら、特価で1000円とある。
    しかし、これは数量限定でおそらく電気屋へ行くだけ無駄だと思ったので、リサイクルショップへ行った。
    案の定、リサイクルショップでは去年売れ残っただろうと思える扇風機が山積みに置かれていた。
    まだ使っていないので1980円は本来は安い。
    しかし、電気屋で1000円で売り出しているのを見ると買う気にはなれない。
    中古の扇風機が1580円なのでそれを買った。
    すると、家内はこれは2階で使っている息子の扇風機と交換だと言いだした。
    息子の扇風機は古くて火を噴くことが心配だという。
    確かに、火を噴く前に羽が飛んでしまいそうな扇風機だった。
    おまけに外のガードは留め金が壊れて結束バンドで留めていた。
    生徒に笑われそうだが、自腹を切る以上仕方ない。

    政府は教育再生と声高に言うのであるが、現場では扇風機一つ買ってもらえない。
    考えようによっては、これからアジアやアフリカの厳しい生活環境でも仕事のできる人材が必要だ。
    先日、大学などの入学案内が本校で行われて、看護学校の先生の案内役を仰せつかった。
    その時に、その先生から学生が看護師に夜勤の仕事があることを知って、看護学校への入学を諦めた者もいたことを聞いた。
    私は因みにかつて寮で宿直のある学校に勤めていた。
    夜勤や宿直は身体に負担の多い仕事だが、誰かがやらねば現場は回らない。
    快適な教育環境で甘やかせるより、過酷な環境でも頑張れる人材を育てる必要があるのかも知れない。
    私は日頃から畑仕事や水泳指導で暑さに慣れている。
    何よりも耐乏生活に慣れているので、適材と言うべきか・・・トホホ

    2013年6月14日金曜日

    残酷なコの字型建築

    今勤めている赤穂の学校は4階建ての立派な近代的建築物である。
    耐震工事も済んで美しい白い景観を誇っている。
    ところが、この季節外れの猛暑の中で授業している私も、その授業を受ける生徒もその暑さに苦しんでいる。
    普通教室や東側の特別教室は風通しが良くて、他の学校に比べても快適である。
    海からやってくる風が、特に3階や4階では吹き抜けて心地よい、1階の職員室でも机上の書類が飛ぶほどの風が普段入る。
    ところが、西側の3階にある地歴公民の特別教室は殆ど風が入らない。
    南北に建っているので、風は廊下を吹き抜けるが教室には入らない。
    私はプロジェクターを使って授業をしているので、部屋を幾分暗くせねばならない。
    そこで、自前の遮光カーテンを使って風を通そうとしたが、効き目は薄い。
    しかも、この特別教室にはエアコンどころか扇風機さえも無い。
    昨日の5時間目の授業などは、生徒は「暑い、(普通)教室に帰りたい」と訴えるし、私は汗みどろになりながら何とか授業をやり遂げて疲れ果てた。
    今日も午前中に汗を多量にかいたために、授業中軽い熱中症になり頭痛がしだしたので、その授業が終わると急いで水分補給を行った。

    なぜ、こんな立派な近代建築物でそういうことが起こるのか。
    コの字型で、しかも西側の北隅にあるからである。
    東から来る風は、東側の校舎にブロックされるし、南からの風は窓からは入らない。
    しかも、朝と夕方には日光が差し込む。
    もし、幾分西側に校舎を振っておけば風も通ったであろう。
    気温が30℃そこそこのころは、これでも問題は無かったのかも知れない。
    しかし、近年は簡単に35℃を超えてしまう。
    エアコンもなく、扇風機さえない教室でこの夏を乗り切れるのか不安である。

    それじゃ、プロジェクターを使う授業を断念して、普通教室でチョークを使って授業をすれば良いのか?
    それは長年積み重ねてきた私の経験を捨て去ってしまうことである。
    画像や映像を用いての授業が私の真骨頂だと信じているからである。
    しかも、小テストや演習では解答や解説が容易にできて便利である。
    赴任して3ヶ月にして早くも大きな壁にぶち当たってしまった。
    以前いた学校では遮光カーテンとパソコン用冷風扇を自前で用意して乗り切った。
    この学校ではそれだけでは済まないような気がする。
    いよいよ年貢の納め時なのかもしれない・・・

    2013年6月11日火曜日

    50年の時

    私は19歳まで赤穂に住み、27歳でUターンして、35歳で上郡に引っ越した。
    上郡に引っ越してからは、赤穂は里帰りの場所になった。
    ただ、父親が5年前に亡くなってからは、畑仕事をする場所になった。
    今年から赤穂に勤めが変わったので、活動時間的には赤穂で過ごす方が長くなった。
    この赤穂の尾崎御崎地区では活動時間という意味ではUターンした独身時代以来の多さということになる。
    結婚して赤穂でも大津という所に住み、職場も近くにあったので同じ赤穂でも全く違った。
    その独身時代もこの地区で勤めていたのは、ほんの半年ほどだから、中学高校は姫路に通学したので小学校以来と言っても過言ではない。
    小学校の時に新しく建った尾崎小学校の校舎から眺めた風景が時に甦る。
    今の職場から眺める風景とは位置が違うにしても、山の形は昔のままである。
    ただ、町の風景があまりにも変わってしまっているので、もう自分の故郷という実感は無い。

    そんな中で、ふと記憶を目覚めさせるのは、断片的に残る路地や建物である。
    お客さん的な目で見るそういう風景と、生活者の目で見る風景とは違う。
    勤めることによって生活者の目になってきているのである。
    実は、上郡は引っ越して20年近くなるのに、まだ風景が疎遠な感じがする。
    その理由は山や川、路地の隅々まで歩いた赤穂のこの地区との差にある。
    友達が住んでいた場所や、いっしょに遊んだ場所は、大人になって用事で行く場所とは全く違う。
    おそらく今の勤め先で仕事をしている職員の多くは、この地区以外の住民なので、見ている景色に対しての気持も違うのだろうと思う。

    今の職場では伝統という言葉がよく出てくる。
    ところが、校舎はお城の中にあったのが、現在の海辺に変わった。
    私と同世代のこの学校の卒業生は、旧校舎である。
    私の中学高校の母校は同じ場所に建て替えたので、むしろ建物が変わっても学んだ頃の懐かしさは残っている。
    おそらく、この校舎を卒業していない卒業生には母校という感覚は校舎に感じないだろう。
    私も八王子に移転した母校の都立大学(首都大学)を一度も行ったことは無いし、行きたいと思わない。
    同じ場所にあって伝統も重みを出すように思う。

    きっと生徒は変な元赤穂人が舞い戻ってきたと思っていると思う。
    時々話す赤穂の話題や赤穂(尾崎)弁、
    「じいちゃん元気か?」と生徒に言っても、そのじいちゃんは私の子供の頃しか知らない。
    新しい記憶の方が多くなるまで、私は過去の記憶に捕らわれたままかも知れない。
    その内、昔を忘れさせられるほどの出来事が積み重ねられるかも知れないが・・・


    2013年5月30日木曜日

    愚犬トラの死

    休日の日は、トラが死んだのが実感として胸に迫る。
    畑に出かける時には小屋の前を通るたびに絡んできて、煩わしいと思ったのに、昨日はそれが無くて寂しいと思った。
    昼間、柿の種を食べながらビールを飲んでいる時には、縁台に頤を乗せて物欲しげにしているトラを思い出した。
    柿の種をやると必死で探して食べた。
    考えてみれば餌を与える時に吠えること以外には、かわいいところが多かった。
    ただ、散歩に行って引き綱を引きすぎるのも煩わしかった。
    そういう多くの欠点を抱えてはいたが、家族であることには間違いがなかった。
    鎖に繋がれて自由がないのだが、鎖を離れて逃げだそうとはしなかった。
    考えてみれば程度の差はあれ、人と人も嫌な思いをしながらも、傍に居続けているのは、一緒に居ることが生きることそのものだからだろう。
    ただ、命あるものは必ず死が訪れる。死でなくても別れは必ず来る。
    父親が死んだり、祖母が死んだり、姪が死んだ時には、葬式という儀式の中で、人間関係だけが浮き彫りにされたが、トラはその誰よりも一番傍にいた存在なので、自分の心の有り様を考えさせられた。

    その前に飼っていた愛犬モモの時には心の準備がある程度できていたし、子供が小さかったので子供への愛情が優先されていた。
    トラに対して愛情を持っていたとは言えないのだが、鬱陶しさを含んでその存在が生活の一部であった。
    極端な譬えかも知れないが、介護して苦労した人が、その介護していた人が亡くなると生きがいをなくすのに少し似ているのかも知れない。

    奴隷と主人の関係も、奴隷の立場でしか語られないが、主人からすれば奴隷の存在は心の支えの部分もあったのかも知れない。
    それは奴隷が主人に愛情を感じるのも同じだろう。
    たまたま境遇が違って生まれた。違いの中で関わるのはそういう主従関係しか無かったのだが、今の価値観からそれを全面的に否定するのは間違っているだろう。
    むしろ、必要な時にしか関わらない今の方が冷めた関係と言える。
    自分も歳を取って自分の弱さを認められるようになって、愛情というものが少し分かったような気もする。

    2013年5月6日月曜日

    上郡高田の春(2013年)

    鷺が舞う田圃はまだ田植えの準備もできてません。
     最近は小麦を植える人が多くなりました。

    大根を作りすぎて、食べきれず花が咲いてしまいました。

    千種水汲み:2013年5月

     新しく買ったFitで初めて千種に水を汲みに行った。
     千種はまだ八重桜が咲いていた。
     でも、田植えが始まっていた。

     駐車場には山に登った人の車が4台ほどあった。

    地元のおじさんが軽トラでやってきて、どこから来たのか訊ねた。
    上郡だと答えると、下流だねと親しげに言う。
    いつも、水汲む人と話をするそうだ。
    この水を使うと水道水は使えないというと、そうだろうと自慢げに頷いた。












    お地蔵さんの笠となる楓の木は若葉であった。
    その緑の影に涼しげだった。

    雪解け水は冷たそうだったけど、澄んでいた。
    水音が谷に心地よく響いていた。


    2013年3月29日金曜日

    赤穂の恩師

    私は小学校を卒業してから、姫路の中学校高校と進んだので、恩師は小学校までの先生に限られる。
    ただ、教師になることを志してからの恩師というべき人がいる。
    それは故広山堯道先生である。
    先日、ふと同じ職場の人と会話をしていて、先生の名前をその人が知っていて驚いた。
    塩の研究家として、近隣ではちゃんと一般の地歴公民科の教師も知っているのだと改めて知った。
    そして、私は弟子とは言えないまでも、その教えを少しでもうけた一人であることに誇りが持てた。
    広山先生は2006年の3月5日に他界され、その葬儀で私は撮影役を頼まれた。
    住職でもあった先生の広度寺での葬儀は一般の葬儀とは全く違うもので、上人となる儀式でもあった。
    ただ、浄土宗の信者さんが近隣に少ないので、我々のような先生に世話になった者が、受付やらの下働きをさせてもらった。
    最後は狭い路地を、担ぎ台に乗せた棺を我々が広い通り迄、担わせてもらった。
    その後の6月18日の先生を偲ぶ会には、市長さんも来られて、偉大な功績を偲んだ。

    広山先生は赤穂高校の教師として、ずっと塩の研究をしながら教鞭を執られた。
    退職されてからは、赤穂歴史博物館の館長さんやら、仏教大学で研究者の育成を行われた。
    赤穂高校での教師時代のことを何度か聞かしてもらったが、わざと勉強の苦手なクラスの担任になって、よく魚釣りに一緒にいったことなどを聞かせてもらった。
    しかし、市長さん等の話からは、すばらしい授業をなされていたことがよく分かった。
    広山先生の著作の多さには驚いたが、社会的な貢献の大きさにも感銘した。
    私は未だに本一冊書いただけだし、社会的な貢献など殆どできていない。
    広山先生について、赤穂民俗の編纂などを少しだけお手伝いをした程度である。

    一番の想い出は、広山先生の身近にいる弟子のN氏とM氏2人と私が一緒に東京へ、資料収集や塩の博物館などに挨拶回りに行ったことである。
    ちょうど赤穂藩士のことを調べていたことや、赤穂民俗のことで行く必要ができたのである。
    私はたまたま国立歴史民俗博物館に、大学院時代にお世話になった上野和男先生がおられたので、紹介できた。
    このN氏とM氏は助さん角さんで、私はさしずめ風車の弥七のような、お上り旅だった。

    奇しくも、この春から私は広山先生と同じ職場に勤めることになった。
    先生ほどの仕事はできそうにはないけれど、少しでも先生に近づこうと思っている。

    2013年3月20日水曜日

    春の日の自転車


    昨日は天気が良かったので昼から年休を取って帰った。
    馬鈴薯を切って、できれば畑仕事をしようと思ったが、馬鈴薯を切った後で畑仕事も何もする気が起こらなくなった。
    5月初旬頃の暖かさで、気もゆるみ、しばらくはうたた寝をした。
    折角天気が良いのだからと自転車に乗って、赤穂まで出かけた。
    前回赤穂へ自転車で出かけたのは、消防出初め式の日だったので、2ヶ月近く経ている。
    あの時はあまりの冷たい風に打ちのめされて、最後はまともにペダルもこげなくなった。
    今回は比較的楽ではあったが、行きは南風の向かい風で、いくら暖かいとはいえ、少々辛かった。

    前日の雨で千種川の水は濁って水量も多かった。
    方々で梅の花が咲いて、春を彩っている。
    楢原から有年にかけての河原はきれいに焼かれて、堆積した砂が見事だった。
    今度はマウンテンバイクでその河原を走りたくなった。
    中山からは田圃の中の道を通ったが、何も植えていない田圃は退屈であった。
    周世からは川の東側の土手道を走った。木漏れ陽が冬とは違ってサングラスからも明るく感じさせた。
    坂越からは川岸の道を通って、尾崎トンネルの手前まで行き、そこからまた土手沿いの道で唐船までいった。
    途中、赤穂大橋から新赤穂大橋までの土手の下に水仙が植えられていて、香りが漂ってきた。
    土手に長く植えられている水仙は、手作りの感じがして親しみを感じた。
    唐船の海でミサゴが飛んでいた。他にも多くの鳥が舞っており、賑やかな感じがした。
    以前、網干の港でミサゴを巨大なレンズをつけたカメラで撮影しているマニアがいたが、赤穂ではいつでも間近で見られる。
    そう言えば昨日、出勤する時に家の近くで白い鷹か隼を見かけて感動した。
    うちの近所で見かける猛禽類はミサゴと違って、小型でスピード感もある。
    このところ運動のために、勤務先の市川の土手を自転車で走って姫路港に出かけることが多い。
    姫路の港にしては比較的自然が残っているのだが、それに比べても自然豊で風景も良いと改めて思った。
    散歩している人や、運動している高校生ものんびりしている。
    ただ、遠くのナンバープレートをつけた怪しげな車の青年には、ちょっと構えた。

    高校前のうちの畑によるとやはり草がおおく生えていて、玉葱の生育が悪かった。
    草が生えながらもニンニクは順調に生育していた。
    植えてある金柑の実を採って食べて、途中で食べるためにポケット一杯詰め込んだ。
    帰りは西側の河原の道を坂越まで走り、坂越からは川岸を走って木津の取水口までいった。
    ご老人が歩いているのに何人も出会った。自転車の人も一人いた。
    周世からは今度は東側の土手道を走った。相変わらず見事な孟宗竹が立ち並んでいる。
    そして、ここは風の心配の要らない走りやすいところではあるが、石ころが多いのが玉に瑕である。
    途中で何度も金柑をほおばったが、それで幾分元気も出た。結局全部食べてしまった。
    家に着く頃はへとへとになったが、よたよたと愚犬の散歩にでかけなくてはならなかった。

    2013年2月23日土曜日

    千種への水汲み2013年冬

    冬場の千種への水汲みはどうしても躊躇する。
    雪が多いところなので、水汲み場の駐車場が雪に埋まってないかとか、給水管が凍結していないかとか心配するからである。
    以前に冬場に行って雪が多く積もっており、自分の車のタイアはスタッドレスなので問題なかったが、他の車が困っているのを見ていた。
    今回どうしても行く気になったのは、水道水で炊いた玄米があまりにも不味かったからである。
    家内は残り少なくなった水を節約して、お茶やコーヒーは別にして、調理にくみ置きした水道水を使い始めた。
    私は少々高くても良いから、ペットボトルの水を買うように言うのだが、換算して12リットルが約400円と、30リットルが100円では比較にならない。
    ガソリン代や人件費を考えれば同じようなると言うのだが、やはり少しでも安くしたいというのが家内のスタンスである。

    家内も言っていたが、水を汲みに来る人は私達より年配の夫婦である。
    私達は子どもが産まれてからかれこれ24年ほど汲みに来ているのだが、若い夫婦に出会ったことは殆ど無い。
    忙しい共稼ぎ夫婦には水を汲みに来る余裕など無いのかも知れない。
    家内は2年ほど前からパートに出るようになったので、どうしても土日に水汲みをする必要になった。
    私は教師なので、長期休暇や試験中などで休みを取ることができるのだが、家内にはできないからである。
    家内がパートに出ても水汲みは続けてきたが、食生活は違ってきてその影響は少なからず出ていると私は感じている。
    忙しい夫婦は食事や飲み物に時間と労力を掛ける余裕がないのだと思う。
    そのしわ寄せが健康に出てきてしまうのだと常々思っている。

    今回久しぶりに水汲みをする他の夫婦に出会った。
    雪が少し残る水汲み場に行くと、給水器の前に堂々と車を横付けして水を汲んでいる。
    普通は、他の車も留められるように縦に置くのが普通で、車止めもそのように設置してある。
    この夫婦は4リットル入る焼酎用のペットボトルを沢山持ってきて水を入れていた。
    こちらは10リットルや20リットル容器を離れたところから運んでいかねばならなかった。
    その夫婦が車を出したので、こちらの車を近くに寄せようとしたら、いきなりボルボが割り込んできた。
    そちらを睨むと気がついたのか、入れ直してくれた。
    その夫婦は、普通の2リットルのペットボトルで、水を入れる前にかなり丁寧にゆすいでいる。
    もともと、ジュースではなくて水の入っていたペットボトルだからそれ程きれいに洗わなくて良いのと思った。
    因みに我が家は3ヶ月以上保存するが、ゆすがなくても問題はなかった。

    今回、久しぶりに冬場の土曜日に水を汲みに来たのだが、以前のようにスキー板を積んだ車にあまり出くわさなかった。
    スノーボードが解禁になったので、車の外に積む必要がなくなったから、分からないのかも知れない。
    子供の小さい頃はスキー場まで登って、雪滑りをして楽しんだりしたが、家内が全く寒さに弱いし、私自身費用の嵩むスキーは敬遠してきた。
    冬場は娯楽があまりないので、スキーくらいはできた方が楽しいと思うのだが・・・

    道の駅で買い物したが、めぼしいものはあまりなくて、特産の蒟蒻を買った。
    この蒟蒻はうちで採れた里芋と大根と一緒にたいてい田楽にした。
    里芋は籾殻で保存したのにも関わらず、腐ったのが多かった。
    今年は寒さが厳しかったので、家の中で保存すべきであった。
    悪玉コレストロール値が高いのでこれからはもっと蒟蒻を食べようと思っている。
    味も歯ごたえもよくて、腹も張った。
    これから、雪が溶けた後はステップワゴンではなくて、フィットで行こうと思っている。
    そうすれば燃費が半分で済むからである。
    後部が広く採れるフィットは、これまでのビッツとは違い水汲みにも使えそうである。
    ただ、スタッドレスタイアは今年は残念ながら買えなかった。

    2013年2月18日月曜日

    雀のお宿

    以前に雀などの鳥が少なくなったと書いたと思う。夏の初めだったと思う。
    ところが、このところ雀や鵯などが庭によくやってきて賑やかである。
    お目当ては犬のえさの食べ残しである。
    私は給食では玄米を持って行って、出された白米は持って帰って犬の餌にしている。
    たまに生徒が余らせたご飯も持って帰って犬に与えている。
    因みにうちの犬は米ぬかも食べるので、たまにまぶしてやる。
    私も息子も玄米食だが、家内は玄米を食べるとお腹を壊すので白米である。
    最近はうちの犬も白米を食べ飽きて残すことが多いので、それを雀たちが狙ってやってくる。
    家内はわざと雀のために持って帰ったご飯の固まりを庭に置いたりするが、私はあまり賛成していない。
    何故なら、庭の梅のつぼみが食前(または食後)のサラダとして食べられている可能性があるからだ。

    梅のつぼみは初春の恰好のえさで、へたをすると殆ど食べられてしまう。
    以前はネットを張ったり、テグスを枝に巻き付けたりして予防した。
    昨年は鳥は防いだが、毛虫にやられたので、今年はどうしようか迷っている。
    ご飯と毛虫を食べてくれれば一番良いのだが、ご飯と蕾では元も子もない。
    梅干しにするほど良い梅ではないが、梅酒くらいにはなるので何とか実になって欲しい。

    この頃は雀たちは、洗濯を干すロープを揺らして遊んだり、寝ている犬の鼻先で平気でえさの食べ残しをついばんでいる。
    一輪車に溜まった雨水も鵯には良い水飲み場になったようだ。
    たまに四十雀も沢山やってきて、可愛らしい。
    庭にはさすがに来ないが、このところ近くでは鷹が舞っている姿をよく見かける。
    春になれば鶯などがまたやってくるのではないかと期待している。
    去年は梅やゆずは毛虫にやられて駄目だったので、いっそ駄目なら鳥に食べてもらった方がましかとも思うが。
    やはり、梅もゆずもちゃんとなって欲しい・・・・


    2013年2月12日火曜日

    越境のAKB

    AKBと書くと、AKB48を期待して検索した人が、これを読んで怒るかも知れない。
    そして、A=赤穂市 K=上郡町 B=備前市が協力し合って、町を活性化しようというのに、AKBを用いていると知ったら、「ふざけるな」と言われるかもしなれない。
    シャレというには、ちょっとおじさんが若者にこびた感じがするが・・・
    以前から何故、県を越えて提携いるのか不思議に思っていた。
    あまり、古代の赤穂のことに関心がなかったのだが、もともとは吉備国だったという。
    ウィキペディアによれば、吉備国の勢力を大和朝廷が分割して播磨国に移したという。
    まさしく、このブログのタイトルのしっぽは、偶然にも根拠があったと言うことになる。

    というのも、実のところ私は母方の祖父母が備前福浦であり、父方の祖母は現在の上月町(佐用町)であって、血縁的なAKBである(Kは上郡でなく、久崎村)。
    父親は赤穂だが、鳥撫はまさしく国境で言葉も、混じっていた。
    相生市と赤穂は合併を試みたが実現せず、上郡町とも合併はできなかった。
    室町時代では赤松氏が播磨と備前の一部を支配したのだから、その再現もありとは思うが、むしろ、吉備国再建の方がおもしろかも知れない。
    赤松にしても、嘉吉の乱で幕府に対峙し、赤穂も討ち入りで幕府にたてついたところからも、体制よりではない。
    ただし、大和朝廷に対峙した吉備国を表に出すと、播州赤穂のブランドが消えるので、やはり損かも知れない・・・

    実は、母方の福浦は備前市の日生と仲違いして、赤穂に編入したと聞かされていた。
    上郡と赤穂も明治時代に騒動があり、あまり仲の良い関係ではなかった。
    それでも、私の家系をみたら分かるように、婚姻などを通じた人の交流も盛んで、上郡の近所の人もそういう人が多い。
    なんとなく、自分にとって相生や龍野よりも親近感を感じるのは、そういう親戚関係を通してであろう。

    昨日の建国記念日に、瀬戸内市の黒井山グリーンパークに出かけた。
    そこは以前ほどの賑わいはなかった、むしろ、備前IC近くのショッピングモールが賑やかだった。
    また、風評被害で一時は低調だった日生の牡蠣も、かきおこの店には人だかりで驚いた。
    五味の市方面からから沢山の車が出てくるのを見ると、大したことが無くて良かったと思う。
    このところ牡蠣祭りがあちこちで行われているが、牡蠣を通しての連携も面白そうである。
    赤穂も塩だけにこだわらず、かきおこに便乗する手もあると思った。
    赤穂は播磨にだけ拘らず、備前にも手を広げることに存在価値があるようにも思う。
    文化人類学では両義性とか、境界というものの意義を大きく扱ったが、まさしく赤穂や上郡、日生がそれである。
    県境AKBはトリックスターとしてデビューしよう・・・



    2013年2月9日土曜日

    姫路城修復

    姫路城には数えるほどしか登ったことがない。
    高校時代友達と暇つぶしに行った以外は、生徒引率が殆どで、ゆっくり景色を見ることはなかった。
    今回も生徒引率ではあったのだが、修復中で城そのものに入ることができず、城よりも景色を見る機会が多くなった。

    姫路は毎日仕事で通っていながら、駅周りの中心付近には滅多に行かず、買い物も郊外が多かった。
    駅付近は自分が子供の頃に親に連れて行ってもらった頃から始まり、中学校、高校と毎日通った場所である。
    駅ビルの屋上は小さな遊園地で夢溢れる場所だったし、何より動物園といえば、姫路城の動物園しか、大学に入るまでは経験なかった。
    その駅に大変化が起こっている。
    2008年に高架ホームになって以来、どんどん駅周辺の様子が違ってしまった。
    駅周辺だけでなく、通学路であった御幸通りや御溝筋などの商店の様子も変わり、特に毎日のように立ち読みで通った本屋の誠心堂が無くなって久しい。
    私は赤穂生まれではあるが、中学校高校と通った姫路の方が思い出深いのである。

    今回、姫路城の修復工事を見る特設ビルに登って、ゆっくりと景色を見た。
    クラブの練習で登らされた男山の階段が思ったより多いのでいまさら驚いた。
    逆に一日楽しめた動物園がこんなに狭いのかと思った。
    私は通学するときもわざと遠回りして、動物園の傍を通っていったりしたが、クジャクが飛び出てきたり、吠えザルの鳴き声を聞いたり楽しんだ。
    因みに、この吠えザルの鳴き声は、同級生のふざけた奇声に使われて、休み時間に廊下に響き渡っていた。
    聞くところによると、私の母校にはプールがないが、動物園の動物用のプールを使わせてもらったこともあったという。

    姫山公園はよく行く気楽な場所だったが、男山はクラブでしごかれる場所であった。
    しかし、私はバンド友達とギターを抱えてここで演奏しながら歌った。
    人が滅多に来ないので、下手な歌を聴かれなくて済むからであるし、景色がすばらしかった。
    姫路は開発が遅れた町といわれたが、雑然と昔ながらのたたずまいが残っていたのも情緒があった。
    今はどんどん観光地としても整備されてきれいになっている。
    黒田勘兵衛が大河ドラマに決定されて、もっと観光に力が入るだろう。
    ところが、土産物屋を覗いても、あまりこれぞ姫路というのは無い。
    確かに姫皮細工のような、姫路独自のものがあるが、もっと工夫して欲しい。
    私の一級下に明珍君という後輩がいたが、彼の家は明珍火箸の系統らしい。
    あの火箸の風鈴はいい音がするが、値段が庶民には高すぎる。
    播磨地方の中心として、播磨地方全体から知恵を絞って特産物を集結させれば魅力が増すだろう。
    東京のスカイツリー周辺では江戸の伝統的な特産物を売っている。
    この姫路城修復と黒田勘兵衛は播磨地方の起爆剤にもできるのではないかと思う。
    そして、赤穂の忠臣蔵も便乗しよう・・・


    2013年2月5日火曜日

    赤穂における一人称と二人称

    先日叔父の葬儀に親戚が集まった。
    そこで、伯父の「オンシー」という二人称を久しぶりに聞いた。
    <オンシー>は<オンシャー>とも同じように、「おまえ」という意味である。
    今ではこの言葉を使うのは、鳥撫の伯父しか身近にはいない。

    <オンシー>という言葉は、「おぬし」から来た言葉だと父親から教えられたが、父親自身は使ってはいなかった。
    私達の子供の頃は<オマハン>という言葉を普通に使い、今でも普通に使っている人も多いと思う。

    この<オマハン>は上郡の人でも普通に使う。
    私の育った尾崎では他に<ワレ->ということばをよく使った。これは赤穂の西側の地区ではあまり使われていなかったと思う。
    他に<ジブン>という言葉は男女とも使ったと思う。

    一人称は男性は<ワイ>という言葉を使う人が多かったが、私自身は使えない。
    学校などで<ボク>と言うように指導されたせいもあるかも知れないが、たまに<ワシ>という言葉を使う。
    <ワイ>は東側が多く、西側は<ワシ>が多かったように思う。
    女性は<ウチ>が普通だろうが、<ワシ>という老人もいたように思う。
    学校での指導やテレビなどの影響で、これらの言葉を使う人は若い世代には少なくなったと思う。
    私自身も<ワイ>という言葉を使うのには抵抗があって、地元の教師でも日常的に使っているのにも違和感を感じた。
    この方言の一人称と二人称だけで、会話の雰囲気が全然違ってくる。
    教師という立場が長いせいか、私的にも使えなくなったしまった。

    私は奄美に調査へ行った時、飲んで酔うとへたくそな奄美語を使った。
    私というのは<ワン>といい、君というのは<オラ>とか<カナ>を用いるが、<ワン>はわざと使った。
    おそらく小学校の同級生と飲む機会があって、仲良くしようと思ったら<ワイ>や<オマハン>をわざと使うかも知れないが、そういう機会が全くない。
    一人称と二人称は仲間意識を会話の中で、確かめる言葉である。
    しかし、<オンシー>を共有できる人はそのうちいなくなってしまうだろう。



    2013年1月20日日曜日

    赤穂への思い

    長い闘病生活の後に、名古屋に住む叔父が亡くなった。74歳だった。
    叔父は赤穂高校を卒業して、愛知県で会社勤めをして、名古屋に家を構えた。
    叔父は生前から赤穂へ戻りたいとずっと言い続けていた。
    離れて50年以上も経つのにそこまで赤穂に思いがあったのは、自分の身内や幼友達が居たからだろう。
    叔父の葬式には、自宅の近所の人や知り合いらしき人は殆どいなかった。
    叔父が近所付き合いや友達付き合いが苦手であったことがよく分かった。
    その分、私らのような甥が名古屋の大学に進学することを喜んだ。
    私も学生時代に名古屋に4年住んだが、住み続けたいとは思わなかった。

    通夜で驚いたのは、僧侶が読経の後で長々と焼香のマナーを説教した。
    故人のことは何一つ言わなかった。そもそも、叔父は浄土真宗の門徒なのだが、妻の叔母の方の曹洞宗の寺で葬式を行ったことにもよる。
    つまり、真宗の僧侶が違う宗派のお寺に出張してくれたのであった。
    もっと、驚いたのは八事霊園での火葬場の風景である。
    友引明けで葬式が多いとは事前に知らされていたが、30基以上ある炉がフル稼働している。
    不謹慎な言い方だが、どこかの観光地に来ているようで、マイクロバスや黒い行列が所狭しと並んでいる。
    炉はあたかも工場のようである。そこには別れを惜しむ感傷など生じるはずもなかった。
    赤穂の火葬場で弔った私の父親とは全く違う光景であった。

    そんな一連の葬儀の中で心に残ったのは、喪主である従兄弟のお礼の挨拶だった。
    叔父の大好きだった長男の兄に因んだ名前を息子につけ、その戦死した兄と同じ日が命日となった。
    そして、何よりも叔父がずっと赤穂に帰りたいとその息子に言い続けていたという。
    おそらく、一緒に家族で戻ってきたかったのであろう。
    都会育ちの叔母や子供は、盆正月で帰省したときでさえ、赤穂の鳥撫の村には馴染まなかった。
    叔父の兄弟姉妹は全て赤穂市内にいて、叔父一人が赤穂から離れていた。
    私の弟も二人赤穂を離れているし、私自身隣の上郡に移り住んでいる。
    弟は帰りたいとは言わないし、私も叔父が思うほど赤穂に戻りたいという気持にはなれない。
    何故なら、もう赤穂は自分たちが育った赤穂とはまるで違うからである。
    むしろ、上郡の方が昔の鳥撫の風景を彷彿とさせてくれる。
    叔父にとっては、それでも大変身を遂げた名古屋よりはましだったのだろう。

    私は「ふるさとは遠きにありて思うもの」と室生犀星が歌ったのとは違い、「みやこ」ではなく「いなか」に戻る。
    しかし、昔の赤穂への思いは親や親戚とのふれあいと共に忘れてはいない。
    葬式に集まった久しぶりのイトコらと話しをすると、盆正月に集まった頃の気持に戻ってしまう。
    仕事や生活環境は違ってしまったが、幼い頃の想い出をいつまでも覚えていた。
    叔父の赤穂への思いは、名古屋のお寺で少しの間だけ、みんなの手で叶えられたのかも知れない。
    命の繋がりは、記憶の繋がりでもあり、心の繋がりでもあると教えられた。


    2013年1月13日日曜日

    色あせた正月

    子供の頃正月は一番楽しい行事で、歌ではないが指折り数えて待っていた。
    大晦日から本家に集まって、従姉妹達と家の中を走り回ったり、トランプなどをして楽しんだ。
    本家は元々船での運輸業が家業だったので、花札を普通に父やおじさん達がしていた。
    子供らもそれを真似て楽しんだ。
    年を経るに従い、本家での正月には行かなくなった。
    その頃は、大人と子供が完全に食事を別にされて、中学生くらいになると、小さな従姉妹並みの扱いが嫌になっていた。

    自宅で正月を過ごすようになると、近くの尾崎の八幡神社に夜中の12時に詣りに行った。
    因みこの八幡さんの15日朝のトンドは子供の頃の大きな楽しみで暗い内から出かけた。
    初日の出を拝むことが流行りだして、大学生の頃には兄弟や友達と御崎や室津の海岸に車で出かけた。
    その初日の出を拝む習慣は結婚してからも暫く続き、赤穂の大津に住んでいた時には高山に登って拝み、上郡に来てからは小野豆の上から拝んだ。
    正月は新たな年を迎える新鮮な儀式としての気持は最近まで持っていた。

    いつしか正月に集まるのも本家ではなくて、自分の親元に換わった。
    兄弟が結婚して子供ができるに従い、尾崎の親元に正月は必ず集まるようになった。
    そこでは飲み食いの他に、カラオケに行ったり、ドライブで初詣に行くことが多かった。
    今年は弟夫婦が正月から仕事をしたり、別の弟の娘の大学受験と言うことで、集まった人数は少なかった。
    カラオケも好きな者が通信ネットで楽しむ程度で、てんでにテレビを見たりして過ごした。
    下宿している娘は、課題が残っているというので、2日に帰ると言うことで、東広島の西条までドライブがてら送ってやった。
    そこで正月ながら開いているお好み焼き店で、広島焼きなるものを久しぶりに食べた。
    渋滞に巻き込まれながら戻ってきて、普段と変わらない食事を2日の夜にはした。

    このところ元旦は犬の散歩がてら、近くの荒神さんに初詣に行くことが日課になっている。
    そこには御神酒として一升瓶とするめが置いてあり、参拝した人は勝手に頂いて良い。
    例年は長く散歩した後、最後によって参拝して頂くのだが、今年はあまり歩かないうちに頂いた。
    当然空きっ腹なので、いくらコップに一杯とはいえ、ほろ酔いになりあまり歩く気がしなくなってしまった。
    神聖な気分になるどころか、ほろ酔い気分になってしまった。
    初日の出は2階の寝室の窓から拝み、初詣でほろ酔い気分では、締まりがない。
    というのも、やはりこのところ年末は家の片付けで疲れてしまって、楽しく祝う気持ちが湧いてこない。
    年賀状を書くのさえ億劫で、結局三日に書いて出した。
    年賀状がなかりせば・・・と思いつつ、久しぶりに届いた知人の年賀状は嬉しいものである。
    ネットでのメールが主流になりつつあると言いながら、年賀状には暖かみがある。
    今年こそはちゃんと年末に書こうと、今は思っている。

    旧暦なら今日(2013/01/13)はまだ、十二月の二日である。
    今年の旧暦の正月は2月10日となっている。
    私が今住んでいる地区では、自分たちでとんどを作るのだが、今年は今日作って燃やすという。
    成人の日が1月15日ではなくなっても、14日の夕方と決めていて守られていた。
    今年は天候を考えて、13日にするそうである。
    以前は翌日が休みなので、トンドの火を囲んで地区の人と牡蠣を焼いたりして明け方まで飲んだ。
    トンドでよく世話をしてくれた隣人も去年亡くなってしまった。
    寂しさを感じさせる正月が終わる・・・