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2018年8月27日月曜日

実家の片付け

私の母はが入院している間に、一人暮らしをしていた実家を、遠方から来てくれた兄弟家族が片付けてくれていた。
膝を悪くして以来、動くにも不自由だった母の過ごしていた居間はかなり乱雑な状況だった。
私も気にはなっていたが、庭の手入れなどで結構手間がかかっており、そこまで手が回らなかった。
母が入院したことで、周りの者が本気になって、環境を整えるきっかけとなった。
私も休日を利用して、片付け切れていたないものを整理したり、ゴミを持って帰ったりした。

赤穂の実家は私が中学生以来の住居で、大学で下宿するまでと、大学院を出て教師になるまで暮らした家である。
私にとっては通算すれば10年も住んでいないので、それほど長く住んだというわけではない。
ただ、思春期から今まで色々な出来事の基点となったところで、非常に思い出深い場所であることにはかわりない。
そもそも、この家を建てるときからの様子を今でもつぶさに憶えている。

家はもともと田んぼだった所を、埋め立てたものである。
埋め立てる際には、周りが田んぼだったので、父が手作業で石垣を組んでいった。
今まで住んでいた尾崎の小さな平屋から、二階建ての家を建てることになって、父はすごく張り切っていた。
ある日などは、建築中の家を見に行って、夕方なかなか帰ってこないので呼びに行かされたが、建てかけの家の中で横になって眠っていた。
家が完成するのを、そこで夢見ていたらしい。
それだけ父の思いのこもった家なのだが、最近はどこやここやいたみが酷くなってきていた。
今回も、母が戻ってきて介護ベッドを入れるのも、それなりに手を加えねばならないと思った。

母の寝具をとりあえず二階に置いておこうと、二階の南部屋に久しぶりに上がった。
私が中学高校と一つ下の弟と二段ベッドを置いて二人で使った部屋である。
そのころは、南の窓から小豆島が遠くに美しく見えていた。
今は、隣の家が建っていて、窓を開けるのも気が引ける状態である。
それでも、布団を干しながら、昔、自分の布団を干していた頃を思い出した。
誰も使わなくなった部屋は、昔の面影をかすかに残す程度である。
気がつけば書棚には、私が残していった本がそのまま残っている。
私のこのブログのタイトルに参考にした藤井令一氏の「ヤポネシアのしっぽ」もあった。
6畳ほどの小さな部屋には、若かりし日の数々の思い出がいっぱい詰まっている。
母の退院後は、母の生活を支援するために、ここに訪れることも多くなると思う。
自分の原点、生活の原点を見つめ直すきっかけにもなるのではないかと思っている。

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