職場ではかつて若い頃に一緒に仕事をして、その後しばらく一度も会っていなかった人に出会ったりする。
私は採用後2校目で職業高校に赴任し離任して以来、工業・商業系の職業高校とは関わりが無かった。
だから、今の職場では、20年ぶりほどで再会した人もいた。
還暦同窓会で感じたのと同じような感覚になったが、同じ職業なのでその変容ぶりには感がえさせられるものがある。
気になるのは心臓が悪いと良いながら、タバコを吸い続けている再会した同僚だ。
その一方で、今の職場で初めてお目にかかった臨時講師の方がいる。
私は時々お話をさせてもらっているのだが、てっきり最近退職したばかりと思っていた。
ところが、後期高齢者と聞いて驚いた。
しかも、エイサーを今でも習って、人前で演じ続けているという。
同じ教師でありながら、こうも違うものかと考えさせられた。
果たして私は15年後にも、これほど元気でいられるだろうか?
私はいつも友達の歯科医にかかっている。
彼は開業医なので、定年退職は無い。
生活には将来不安はなさそうなのだが、健康には私以上に不安を抱えている。
私よりも重い糖尿病と、高血圧を患っている。
そして、医者であるにもかかわらずタバコを吸い続けている。
彼には仕事以外にこれといって趣味も無く、楽しみが無いといつもぼやいている。
私は、研究を続けるのが楽しみで、できる限り健康でそれを続けたいと思っている。
それが、彼にはうらやましいという。
考えてみれば、私はプロの研究者では無い。
もし、研究で生活を成り立たせていたら、楽しみどころの話では無かっただろう。
私の理想は、「じゃりン子チエ」の花井先生のように、立派な作品を一作でも良いから完成させることだ。
プロとは違うアマとして、良い作品を仕上げたいと思っている。
プロの作品に遜色のないものができれば、こんな嬉しいことは無い。
これは、健康でエイサーをしている人にも通じることだろう。
プロにはなれなくても、アマとして魅力が発揮できれば良い。
そういう気持ちがあればこそ、何とか健康を保ちたいと思える。
今度、友達の歯医者にもその楽しみを伝授してあげたいと思っているが、果たして話に乗ってくれるだろうか・・・
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2019年2月27日水曜日
2019年2月25日月曜日
羽毛革命
今年の冬は羽毛布団のおかげで、暖かく夜を過ごすことができた。
今まで、電気毛布や湯たんぽなどを使っていた。
電気毛布は確かに暖かいが、暖かさが不自然で、寝心地が悪かった。
湯たんぽは、自然な感じはするけれど、毎晩お湯を入れるのが面倒だし、一度低温やけどをして、長い間痕が残った。
ただ、湯たんぽのお湯は、朝に車のフロントの霜取りにも使えたし、クロの飲む水桶の氷を融かすのにちょうど良かった。
なるだけ、毛布を二枚使って、サンドイッチになり、重い掛け布団を上に重ねていた。
家内は、重い掛け布団が嫌で、私よりも早く羽毛布団に替えていた。
私は高価な羽毛布団より、しっかりと重みのある掛け布団の方が良いと思っていた。
しかし、家内が暖かくて軽いと勧めるので、買うことにした。
中に毛布は入れない方が良いというので、布団に入り始めは寒く感じたが、直ぐに暖かくなり快適だった。
羽毛布団は、電気毛布も湯たんぽもいらない快適な冬の夜を、私に提供してくれた。
また、今の職場は私の席の近くにガスストーブがついている。
このガスストーブは古い物で、温度調節が全くできない。
ストーブから遠い人は寒いというので、滅多に消すわけにはいかない。
仕方ないので、私が服を脱ぐことにした。
しかし、職員室を出て廊下に行くと非常に寒い。
そこで、直ぐに着脱できる物として、ダウンジャケットをセーター代わりに着ることにした。
これはユニクロのウルトラダウンという物で、薄くても暖かい。
着脱が簡単なカーデガンは持っているが、本当に寒い時は胸元が涼しい。
首まで絞めることができるダウンジャケットの方が、温度調節もしやすい。
これは実は隣の席の若い男性教師に習ったものである。
彼はダウンジャケットの上にスーツを着ている。
私は行き帰りはダウンジャケットの上にウールのジャケット、そして、職場では白衣に着替えている。
先日、ルワンダに海外協力隊として生活していた人から、現地では教師は皆、白衣を着ていると聞かされた。
白衣は文明を語る者の象徴として使われているのだろう。
最近の若い教師はスーツにネクタイが多いが、私はチョークで汚れたりするし、ちょっとした作業をするのにスーツは適さないと思っている。
何よりも、膝上まで隠れて、意外に暖かいのである。
だから、白衣の下にダウンジャケットを着ていれば、寒い体育館でも何とかなる。
ただ、一つだけ気になるのは、ユニクロのウルトラダウンジャケットは人気商品で多くの人が着ている。
しかも、私の着ている黒は定番である。
定時制の生徒は私服なので、ずっと定番のジャケットを着続けている生徒もいる。
制服代わりと思えば良いのだが、一番外に着る物としては、普段着感覚だ。
中に着込んだり、ちょっとレジャーで羽織ったりするくらいの物のように思える。
そう言えば家内は家の中では、ダウンのベストをずっと着ている。
お出かけ用のダウンジャケットは、私も家内もそこそこの物を着ている。
そして、近所の農家のご主人も黒のウルトラダウンジャケットを、農作業で使っているので納得した。
要するに、ウルトラダウンジャケットは冬の万能品なのである。
とにかく、普段の生活では寝る時も起きている時も、そしてお出かけの時も冬はダウンにお世話になっている。
ウールと違って、ダウンは鳥の死と引き換えになるのが気にはなるのだが、化学繊維製品よりも自然であることには違いない。
かつてホモサピエンスが毛皮によって革命的に、旧石器維持代の寒冷地適応を果たしたように、現代では羽毛によって革命的に冬を乗り越えられる。
これは何よりも省エネにつながるものなのである。
ただし、羽毛布団を使いながら、電気あんかも使っている家内は省エネでは無いが・・・
今まで、電気毛布や湯たんぽなどを使っていた。
電気毛布は確かに暖かいが、暖かさが不自然で、寝心地が悪かった。
湯たんぽは、自然な感じはするけれど、毎晩お湯を入れるのが面倒だし、一度低温やけどをして、長い間痕が残った。
ただ、湯たんぽのお湯は、朝に車のフロントの霜取りにも使えたし、クロの飲む水桶の氷を融かすのにちょうど良かった。
なるだけ、毛布を二枚使って、サンドイッチになり、重い掛け布団を上に重ねていた。
家内は、重い掛け布団が嫌で、私よりも早く羽毛布団に替えていた。
私は高価な羽毛布団より、しっかりと重みのある掛け布団の方が良いと思っていた。
しかし、家内が暖かくて軽いと勧めるので、買うことにした。
中に毛布は入れない方が良いというので、布団に入り始めは寒く感じたが、直ぐに暖かくなり快適だった。
羽毛布団は、電気毛布も湯たんぽもいらない快適な冬の夜を、私に提供してくれた。
また、今の職場は私の席の近くにガスストーブがついている。
このガスストーブは古い物で、温度調節が全くできない。
ストーブから遠い人は寒いというので、滅多に消すわけにはいかない。
仕方ないので、私が服を脱ぐことにした。
しかし、職員室を出て廊下に行くと非常に寒い。
そこで、直ぐに着脱できる物として、ダウンジャケットをセーター代わりに着ることにした。
これはユニクロのウルトラダウンという物で、薄くても暖かい。
着脱が簡単なカーデガンは持っているが、本当に寒い時は胸元が涼しい。
首まで絞めることができるダウンジャケットの方が、温度調節もしやすい。
これは実は隣の席の若い男性教師に習ったものである。
彼はダウンジャケットの上にスーツを着ている。
私は行き帰りはダウンジャケットの上にウールのジャケット、そして、職場では白衣に着替えている。
先日、ルワンダに海外協力隊として生活していた人から、現地では教師は皆、白衣を着ていると聞かされた。
白衣は文明を語る者の象徴として使われているのだろう。
最近の若い教師はスーツにネクタイが多いが、私はチョークで汚れたりするし、ちょっとした作業をするのにスーツは適さないと思っている。
何よりも、膝上まで隠れて、意外に暖かいのである。
だから、白衣の下にダウンジャケットを着ていれば、寒い体育館でも何とかなる。
ただ、一つだけ気になるのは、ユニクロのウルトラダウンジャケットは人気商品で多くの人が着ている。
しかも、私の着ている黒は定番である。
定時制の生徒は私服なので、ずっと定番のジャケットを着続けている生徒もいる。
制服代わりと思えば良いのだが、一番外に着る物としては、普段着感覚だ。
中に着込んだり、ちょっとレジャーで羽織ったりするくらいの物のように思える。
そう言えば家内は家の中では、ダウンのベストをずっと着ている。
お出かけ用のダウンジャケットは、私も家内もそこそこの物を着ている。
そして、近所の農家のご主人も黒のウルトラダウンジャケットを、農作業で使っているので納得した。
要するに、ウルトラダウンジャケットは冬の万能品なのである。
とにかく、普段の生活では寝る時も起きている時も、そしてお出かけの時も冬はダウンにお世話になっている。
ウールと違って、ダウンは鳥の死と引き換えになるのが気にはなるのだが、化学繊維製品よりも自然であることには違いない。
かつてホモサピエンスが毛皮によって革命的に、旧石器維持代の寒冷地適応を果たしたように、現代では羽毛によって革命的に冬を乗り越えられる。
これは何よりも省エネにつながるものなのである。
ただし、羽毛布団を使いながら、電気あんかも使っている家内は省エネでは無いが・・・
2019年2月23日土曜日
ネット知識のつけ
私は以前散歩の途中で、便意をもよおして何度も苦しんだ経験がある。
その多くは、前日飲み過ぎや食べ過ぎが原因だった。
ところが、この冬はそれほど飲み食いをしていないのにそういう状況に陥ってしまった。
家内などは、普段から胃腸の調子が悪いので、食べたものが悪いかの区別がつかない。
私が下痢で、家内が普段と変わらないと言われると、食事を疑うわけにはいかない。
そこで、服用している糖尿病の薬が原因では無いかとネットで調べた。
やはり、今飲んでいる薬には下痢の副作用があるとネットにも書いてある。
念のためにもらった薬の説明書にもちゃんと書いてあった。
そこで、私は勝手に薬の量を減らすことにした。
私は常日頃から、精神的に落ち込むのは血糖値が高くなるからだと思い込んでいた。
だから、薬を減らして、精神的にも落ち込まない状況で、きっと薬の量が多くて、下痢をしていたと決めつけた。
ところが、それが大きな間違いだった。
定期検査では、教育入院から退院後最悪の検査結果になってしまった。
主治医の先生によれば、副作用は薬の飲み始めに出るものであり、下痢の原因は菌感染による可能性があるということであった。
ただでさえ正月を挟むこの季節は血糖値が上がりやすいのに、自己判断で薬を減らした結果であった。
そのおかげで、薬は減るどころか、新たなる薬も増えて、出費も増えた。
要するに素人がネットで調べて、勝手な解釈をすることは、過ちをもたらす可能性が大きいと言うことだ。
ネットは確かにいろんな知識を提供してくれるが、人の生活や行動に応じた知識は提供してくれない。
それは経験豊富な医者に頼る方が賢明なのである。
糖尿病はいろんな健康上のリスクを伴う。
特に心配なのは膵臓癌である。
これを機会に我が家の食事が変わった。
ご飯にマンナン米、十穀米、もち麦、蕎麦粒が混ぜられるようになった。
そして、腹もたせに蒟蒻ゼリーを私は食べている。
怪我の功名という所だろうか・・・
その多くは、前日飲み過ぎや食べ過ぎが原因だった。
ところが、この冬はそれほど飲み食いをしていないのにそういう状況に陥ってしまった。
家内などは、普段から胃腸の調子が悪いので、食べたものが悪いかの区別がつかない。
私が下痢で、家内が普段と変わらないと言われると、食事を疑うわけにはいかない。
そこで、服用している糖尿病の薬が原因では無いかとネットで調べた。
やはり、今飲んでいる薬には下痢の副作用があるとネットにも書いてある。
念のためにもらった薬の説明書にもちゃんと書いてあった。
そこで、私は勝手に薬の量を減らすことにした。
私は常日頃から、精神的に落ち込むのは血糖値が高くなるからだと思い込んでいた。
だから、薬を減らして、精神的にも落ち込まない状況で、きっと薬の量が多くて、下痢をしていたと決めつけた。
ところが、それが大きな間違いだった。
定期検査では、教育入院から退院後最悪の検査結果になってしまった。
主治医の先生によれば、副作用は薬の飲み始めに出るものであり、下痢の原因は菌感染による可能性があるということであった。
ただでさえ正月を挟むこの季節は血糖値が上がりやすいのに、自己判断で薬を減らした結果であった。
そのおかげで、薬は減るどころか、新たなる薬も増えて、出費も増えた。
要するに素人がネットで調べて、勝手な解釈をすることは、過ちをもたらす可能性が大きいと言うことだ。
ネットは確かにいろんな知識を提供してくれるが、人の生活や行動に応じた知識は提供してくれない。
それは経験豊富な医者に頼る方が賢明なのである。
糖尿病はいろんな健康上のリスクを伴う。
特に心配なのは膵臓癌である。
これを機会に我が家の食事が変わった。
ご飯にマンナン米、十穀米、もち麦、蕎麦粒が混ぜられるようになった。
そして、腹もたせに蒟蒻ゼリーを私は食べている。
怪我の功名という所だろうか・・・
2019年2月21日木曜日
千種水汲み2019冬と津山干し肉買い出し
この週末の土曜(2/16)の午後は、千種に水汲みに行った。
このところの寒波で、日にちを延ばしていた。
雪の心配をしていたが、この季節なら道ばたにある雪も殆どなかった。
遠くの山にはしっかりと雪は積もっていたが、給水所には積もってはいなかった。
ただ、気温はやはり低く、手袋もせず給水したので、手が途中でかじかんできた。
他のお客さんも途中から来たが、奥さんは車から出てこなかった。
一人黙々と給水する旦那さんが気の毒に思えた。
いつものように、大日大菩薩さんにお参りして帰った。
途中千種の道の駅に寄ったが、買いたい物は殆どなく、家内は蒟蒻だけ買った。
「つちのこ復活」のポスターが妙に目を引いた。
翌日の午後、思い立って津山に干し肉を買いに行った。
糖質が制限されているので、糖質以外の手軽でおいしい物が欲しかった。
ビーフジャーキは、100gで1000円ほどする。
津山の干し肉をネットで調べたら、100g500円くらいだと分かった。
そこで午後から津山に行くことにしたのである。
ルートもネットで検索して、ナビも使わずに出かけた。
上郡の安室ダム付近から県道90号線を使い、とんでもない山道を抜けることになった。
美作方面の道か、作用方面の道かを選ぶ時に、美作を選んだのが間違いだった。
脱輪すれば谷底に落ちそうな道、対向車が来ればどうしようも無い道が延々と続いた。
今回は行きの運転は家内で、助手席でヒヤヒヤしながら任せるしか無かった。
まさしく、肝を冷やすとはこのことである。
途中で、軽トラに乗ってきた猟師さんに幾度となく出会い、この道は山仕事か猟に使う道だと分かった。
しかし、所々に集落もあり、人が住んでいる気配も感じた。
町に出た時は、ほっと胸をなで下ろした。
結局、干し肉を買う肉屋さんの津山では見当がつかないので、以前久米の里の道の駅で干し肉を売ったので行くことにした。
店では干し肉類は、人気があるのかあまり残っておらず、残った干し肉を400gほど買った。
猪肉も売っていたので、買おうとしたが家内が食べないというので止めた。
こちらも100g500円だが、売っている量が多く、一パック3000円ほどした。
また、前に来た時も蕎麦の実を売っていたのだが買えなかった。
今回は、血糖値対策に買うことにした。
店での食べ方の案内には、ご飯に混ぜるだけで良いとあった。
結局、干し肉と蕎麦の実だけを買って帰ることになった。
帰りは私の運転で、以前来た平坦な道を通ることにした。
それは、吉井川沿いの道を途中まで下って、赤穂へ行く県道90号を上手く使うルートだ。
途中に、英田サーキットもあって、道は広く整備されている。
行きもこの道を通れば問題なかった。
ネットで調べた行きのルートは、距離は短かったが、山越えで却って時間がかかる道だった。
帰りは、難なく平穏に帰ることができた。
家内と岡山にドライブする時は、いつもスリリングなドライブになる。
因みに、上郡から津山に行くのも岡山市中心に行くのも、時間はさほど変わらない。
また、千種に行くのも変わらないのに、津山に行くと遠く別世界に行った気分になる。
たぶん、とんでもない山越えがそういう気分にさせてくれたのだろう。
このところの寒波で、日にちを延ばしていた。
雪の心配をしていたが、この季節なら道ばたにある雪も殆どなかった。
遠くの山にはしっかりと雪は積もっていたが、給水所には積もってはいなかった。
ただ、気温はやはり低く、手袋もせず給水したので、手が途中でかじかんできた。
他のお客さんも途中から来たが、奥さんは車から出てこなかった。
一人黙々と給水する旦那さんが気の毒に思えた。
いつものように、大日大菩薩さんにお参りして帰った。
途中千種の道の駅に寄ったが、買いたい物は殆どなく、家内は蒟蒻だけ買った。
「つちのこ復活」のポスターが妙に目を引いた。
翌日の午後、思い立って津山に干し肉を買いに行った。
糖質が制限されているので、糖質以外の手軽でおいしい物が欲しかった。
ビーフジャーキは、100gで1000円ほどする。
津山の干し肉をネットで調べたら、100g500円くらいだと分かった。
そこで午後から津山に行くことにしたのである。
ルートもネットで検索して、ナビも使わずに出かけた。
上郡の安室ダム付近から県道90号線を使い、とんでもない山道を抜けることになった。
美作方面の道か、作用方面の道かを選ぶ時に、美作を選んだのが間違いだった。
脱輪すれば谷底に落ちそうな道、対向車が来ればどうしようも無い道が延々と続いた。
今回は行きの運転は家内で、助手席でヒヤヒヤしながら任せるしか無かった。
まさしく、肝を冷やすとはこのことである。
途中で、軽トラに乗ってきた猟師さんに幾度となく出会い、この道は山仕事か猟に使う道だと分かった。
しかし、所々に集落もあり、人が住んでいる気配も感じた。
町に出た時は、ほっと胸をなで下ろした。
結局、干し肉を買う肉屋さんの津山では見当がつかないので、以前久米の里の道の駅で干し肉を売ったので行くことにした。
店では干し肉類は、人気があるのかあまり残っておらず、残った干し肉を400gほど買った。
猪肉も売っていたので、買おうとしたが家内が食べないというので止めた。
こちらも100g500円だが、売っている量が多く、一パック3000円ほどした。
また、前に来た時も蕎麦の実を売っていたのだが買えなかった。
今回は、血糖値対策に買うことにした。
店での食べ方の案内には、ご飯に混ぜるだけで良いとあった。
結局、干し肉と蕎麦の実だけを買って帰ることになった。
帰りは私の運転で、以前来た平坦な道を通ることにした。
それは、吉井川沿いの道を途中まで下って、赤穂へ行く県道90号を上手く使うルートだ。
途中に、英田サーキットもあって、道は広く整備されている。
行きもこの道を通れば問題なかった。
ネットで調べた行きのルートは、距離は短かったが、山越えで却って時間がかかる道だった。
帰りは、難なく平穏に帰ることができた。
家内と岡山にドライブする時は、いつもスリリングなドライブになる。
因みに、上郡から津山に行くのも岡山市中心に行くのも、時間はさほど変わらない。
また、千種に行くのも変わらないのに、津山に行くと遠く別世界に行った気分になる。
たぶん、とんでもない山越えがそういう気分にさせてくれたのだろう。
2019年2月19日火曜日
Hold The Line
このところラジオからTOTOの曲が流れてくる。
来日公演の宣伝のCMや、それに関連して曲を流しているからだ。
私は、大学に入ったら軽音楽部に入ることは、高校時代から考えていた。
南山大学でも、新入生の勧誘では色々誘われた。
体が大きいので、アメフト、柔道、少林寺拳法などが特に熱心に勧誘してくれた。
しかし、私はためらわず、軽音楽部に入った。
しかし、根本的に考え違いをしていた。
自分は高校時代から、趣向の合う仲の良いメンバーとバンドを組んで活動した。
大学の部では、趣向は大体合うが、仲の良い仲間とは行かない。
しかも、先輩との上下関係で成り立っている。
新入生のボーカルである私に与えられた最初の曲が、TOTOのHold The Lineだった。
決して悪い曲では無くて、気に入った曲ではあったが、ボーカルを聴かせるという曲では無かった。
いつものように歌詞がなかなか憶えられずに、校内の演奏会の時は、歌詞を書いた紙をステージ下の観客席で持ってもらわねばならなかった。
歌う時も、ギターを持たず、ポケットに手を突っ込んだまま歌ったので、後で先輩に注意された。
結局、それが学生として最後のステージになってしまった。
軽音楽部を止める時に、ドラムの先輩から別の機会で出会うだろうと言われた。
しかし、縁もゆかりも無く、知り合いもいない名古屋では、バンドを組むことは無理であった。
せめて、東京の大学に行っていれば、Hiro君やSukeちゃんがいたし、大阪にも知り合いはいた。
大学の軽音楽部を止めた時点で、自分のミュージシャンへの道は終わったのだった。
プロを目指した音楽活動の一線は守れなかった。
何としても、Hold The Lineすべきだったのかも知れない。
(なお、TOTOの歌詞の意味は、電話を繋いだままにすることだ。
以前見た戦争映画『シン・レッド・ライン』(The Thin Red Line)では、戦線確保の意味で叫んでいたシーンを思い出す。)
しかし、先輩先生に言われた、「教師になって良かったやん」
確かに、食いっぱくれることはなかった。
そして、細い線とはなったが、音楽との関係はつながった。
職場での職員バンドに加わり、忘年会で活躍した(一部の人に不評だったこともあったが・・・)。
地域や学校のいろいろなイベントで、事あるごとに出演させてもらった。
そう考えれば、Hold The Lineしていたのかもしれない。
プロにならなくても、それはそれで、良かったと思っている。
音楽は暮らしの一部であり続けるが、自分の理想なのだから。
来日公演の宣伝のCMや、それに関連して曲を流しているからだ。
私は、大学に入ったら軽音楽部に入ることは、高校時代から考えていた。
南山大学でも、新入生の勧誘では色々誘われた。
体が大きいので、アメフト、柔道、少林寺拳法などが特に熱心に勧誘してくれた。
しかし、私はためらわず、軽音楽部に入った。
しかし、根本的に考え違いをしていた。
自分は高校時代から、趣向の合う仲の良いメンバーとバンドを組んで活動した。
大学の部では、趣向は大体合うが、仲の良い仲間とは行かない。
しかも、先輩との上下関係で成り立っている。
新入生のボーカルである私に与えられた最初の曲が、TOTOのHold The Lineだった。
決して悪い曲では無くて、気に入った曲ではあったが、ボーカルを聴かせるという曲では無かった。
いつものように歌詞がなかなか憶えられずに、校内の演奏会の時は、歌詞を書いた紙をステージ下の観客席で持ってもらわねばならなかった。
歌う時も、ギターを持たず、ポケットに手を突っ込んだまま歌ったので、後で先輩に注意された。
結局、それが学生として最後のステージになってしまった。
軽音楽部を止める時に、ドラムの先輩から別の機会で出会うだろうと言われた。
しかし、縁もゆかりも無く、知り合いもいない名古屋では、バンドを組むことは無理であった。
せめて、東京の大学に行っていれば、Hiro君やSukeちゃんがいたし、大阪にも知り合いはいた。
大学の軽音楽部を止めた時点で、自分のミュージシャンへの道は終わったのだった。
プロを目指した音楽活動の一線は守れなかった。
何としても、Hold The Lineすべきだったのかも知れない。
(なお、TOTOの歌詞の意味は、電話を繋いだままにすることだ。
以前見た戦争映画『シン・レッド・ライン』(The Thin Red Line)では、戦線確保の意味で叫んでいたシーンを思い出す。)
しかし、先輩先生に言われた、「教師になって良かったやん」
確かに、食いっぱくれることはなかった。
そして、細い線とはなったが、音楽との関係はつながった。
職場での職員バンドに加わり、忘年会で活躍した(一部の人に不評だったこともあったが・・・)。
地域や学校のいろいろなイベントで、事あるごとに出演させてもらった。
そう考えれば、Hold The Lineしていたのかもしれない。
プロにならなくても、それはそれで、良かったと思っている。
音楽は暮らしの一部であり続けるが、自分の理想なのだから。
2019年2月18日月曜日
お墓の意味
家内は、毎月義母と一緒に墓参りのために朝出かける。
今朝も、「早う 行かんと お父さんが待ってるで」というと
”私の お墓の前で 泣かないでください そこには私はいません”
と「千の風になって」を歌い出す。
「ほんなら なんで 行くんや?」と、私は返すと
「さあ~?」と答えるだけ。
家内の実家には仏壇はあり、お骨はお墓に納めている。
私の実家はお墓が無いので、仏壇にまだ父のお骨を納めたままにしている。
私の家にはお坊さんが毎月来て、仏壇で拝んでくれている。
なるべく早くお骨はお墓に納める方が良いというが、骨壺に入り立派なお石墓に納められたお骨が自然に帰るとは思えない。
そもそも、火葬した段階で、殆どの骨は自然に帰されているのである。
そうすると、お墓はわざわざお骨を家の外に出して、お参りするだけのものなのである。
先祖代々から受け継いだお墓なら、ご先祖様と一緒にということだろう。
しかし、うちのような新家(分家)は、そういう墓は無い。
お墓は、仏壇と違って、誰でもいつでもお参りすることができる。
先日、赤穂のとある場所で、○○先生と書かれたお墓があった。
個人を偲んで建てられたお墓であろう。
当然、戦没者のお墓は、個人として立派なのが建てられている。
これは、家族、親族を越えて、個人を祀るものである。
だから、自分の苦労した親や伴侶をお祀りたいという気持ちも、それと通じるのである。
しかし、それは家族や親族の中での話になってしまう。
そうなると、それを祀るための家族親族が、その地で永く暮らし続けていかなければ維持は無理なのである。
叔父の中には、子供のいる神奈川県に墓を建てる予定をしている人もいる。
「人間到る処青山あり」と、多くが都会に出て行った。
確かに孤独死であっても、葬ってはくれるだろう。
しかし、「顧みはせじ」とされる身でもあることも確かだ。
最近は葬式も殆どせず、火葬するだけで終わることも都会では増えているそうだ。
「水浮く屍、草生す屍」ではなく、「焼却される屍」として顧みられないようだ。
そういう意味では、無理して墓が造れるのは幸せなことかも知れない。
今朝も、「早う 行かんと お父さんが待ってるで」というと
”私の お墓の前で 泣かないでください そこには私はいません”
と「千の風になって」を歌い出す。
「ほんなら なんで 行くんや?」と、私は返すと
「さあ~?」と答えるだけ。
家内の実家には仏壇はあり、お骨はお墓に納めている。
私の実家はお墓が無いので、仏壇にまだ父のお骨を納めたままにしている。
私の家にはお坊さんが毎月来て、仏壇で拝んでくれている。
なるべく早くお骨はお墓に納める方が良いというが、骨壺に入り立派なお石墓に納められたお骨が自然に帰るとは思えない。
そもそも、火葬した段階で、殆どの骨は自然に帰されているのである。
そうすると、お墓はわざわざお骨を家の外に出して、お参りするだけのものなのである。
先祖代々から受け継いだお墓なら、ご先祖様と一緒にということだろう。
しかし、うちのような新家(分家)は、そういう墓は無い。
お墓は、仏壇と違って、誰でもいつでもお参りすることができる。
先日、赤穂のとある場所で、○○先生と書かれたお墓があった。
個人を偲んで建てられたお墓であろう。
当然、戦没者のお墓は、個人として立派なのが建てられている。
これは、家族、親族を越えて、個人を祀るものである。
だから、自分の苦労した親や伴侶をお祀りたいという気持ちも、それと通じるのである。
しかし、それは家族や親族の中での話になってしまう。
そうなると、それを祀るための家族親族が、その地で永く暮らし続けていかなければ維持は無理なのである。
叔父の中には、子供のいる神奈川県に墓を建てる予定をしている人もいる。
「人間到る処青山あり」と、多くが都会に出て行った。
確かに孤独死であっても、葬ってはくれるだろう。
しかし、「顧みはせじ」とされる身でもあることも確かだ。
最近は葬式も殆どせず、火葬するだけで終わることも都会では増えているそうだ。
「水浮く屍、草生す屍」ではなく、「焼却される屍」として顧みられないようだ。
そういう意味では、無理して墓が造れるのは幸せなことかも知れない。
2019年2月16日土曜日
Here Comes the Sun
Beatlesのこの曲は、高校二年生の時に体育館ステージで演奏した曲である。
ベースのHiro君が、アコーシックギターでマスターして伴奏してくれた。
この間、散歩している時に、春めいた日差しの中で不意に出てきたのは、この曲だった。
私はジョージ・ハリソンの曲が好きで、Beatlesで初めて歌ったのはSomethingだった。
Somethingは、淳心祭(文化祭)体育館ステージのオーディションに落ちた曲である。
また、体育館ステージ落選バンドの野外ステージでも、殆ど聴いてもらえなかった苦い思い出の曲である。
一番好きなのはWhile My Guitar Gently Weepsだが、実際に人前でまともに聴いてもらえたのはHere Comes the Sunだけだった。
春の訪れの喜びを表したこの曲は、今の季節と私の心境にぴったりときた。
この頃、健康番組でよくビタミンD不足の話題が取り上げられる。
美白流行で女性が極端に日光を避ける。
特に女性では、骨粗鬆症との関連が知られている。
男性も仕事は室内での事務仕事が多いし、トレーニングジムは室内が殆どだ。
そして、何より若者や子供たちもゲームばかりして、外で遊ばなくなっている。
日光浴の効果をネットで調べたら(https://www.life-rhythm.net/why-tanning/)
私は、朝の散歩では日光をふんだんに浴びているが、午後からは仕事で殆ど日光を浴びることが無い。
それでも、日焼けしていて、職場では一番色が黒いのでは無いかと思う。
やはり冬場は畑仕事が減って、週末にしっかりと日光を浴びる機会が減った。
最近まで気分が鬱々としていたのも、そのせいなのかも知れない。
それが春が近づいて、Here Comes the Sunの歌を口ずさめるのも、日光のおかげである。
適度な日光浴は、精神安定剤以上の効果を持つようにも思える。
私はスマホやゲーム機を置いて、日差しを浴びようと生徒に廊下のホワイトボードにメッセージを書いた。
しかし、Here Comes the Sunと書いても、職員さえ知っておらず、ボードの前で一人で口ずさんでいた。
定時制の生徒は室内のアルバイトが多く、しかも、運動は夜に行っている。
休み時間でも、殆どゲームをしている。
家でも、時間があるとゲームをしていることが多いと言っていた。
健康を害する前に、「もっと 光を」である。
ベースのHiro君が、アコーシックギターでマスターして伴奏してくれた。
この間、散歩している時に、春めいた日差しの中で不意に出てきたのは、この曲だった。
私はジョージ・ハリソンの曲が好きで、Beatlesで初めて歌ったのはSomethingだった。
Somethingは、淳心祭(文化祭)体育館ステージのオーディションに落ちた曲である。
また、体育館ステージ落選バンドの野外ステージでも、殆ど聴いてもらえなかった苦い思い出の曲である。
一番好きなのはWhile My Guitar Gently Weepsだが、実際に人前でまともに聴いてもらえたのはHere Comes the Sunだけだった。
春の訪れの喜びを表したこの曲は、今の季節と私の心境にぴったりときた。
この頃、健康番組でよくビタミンD不足の話題が取り上げられる。
美白流行で女性が極端に日光を避ける。
特に女性では、骨粗鬆症との関連が知られている。
男性も仕事は室内での事務仕事が多いし、トレーニングジムは室内が殆どだ。
そして、何より若者や子供たちもゲームばかりして、外で遊ばなくなっている。
日光浴の効果をネットで調べたら(https://www.life-rhythm.net/why-tanning/)
1.ビタミンDが増えることで免疫力がアップ 2.気分を安定させるセロトニンが生成される 3.体内時計を整える 4.美しい肌づくりをサポートする 5.血圧を下げる
とあった。私は、朝の散歩では日光をふんだんに浴びているが、午後からは仕事で殆ど日光を浴びることが無い。
それでも、日焼けしていて、職場では一番色が黒いのでは無いかと思う。
やはり冬場は畑仕事が減って、週末にしっかりと日光を浴びる機会が減った。
最近まで気分が鬱々としていたのも、そのせいなのかも知れない。
それが春が近づいて、Here Comes the Sunの歌を口ずさめるのも、日光のおかげである。
適度な日光浴は、精神安定剤以上の効果を持つようにも思える。
私はスマホやゲーム機を置いて、日差しを浴びようと生徒に廊下のホワイトボードにメッセージを書いた。
しかし、Here Comes the Sunと書いても、職員さえ知っておらず、ボードの前で一人で口ずさんでいた。
定時制の生徒は室内のアルバイトが多く、しかも、運動は夜に行っている。
休み時間でも、殆どゲームをしている。
家でも、時間があるとゲームをしていることが多いと言っていた。
健康を害する前に、「もっと 光を」である。
2019年2月15日金曜日
庭仕事に粉砕機
思い切って粉砕機を買った。
年末に庭木の伐採をしてすぐに試してみたが、生木だとやはり裁断するギアの刃に絡まるため、乾かしてから粉砕することにした。
犬小屋の前の庭に粉砕機を置いてやり始めたのだが、その音の大きさにクロは恐れて立ち尽くしている。
確かに、枝木を砕く音は、大きくて不安を与えても仕方が無い。
特に、太めの枝を入れると、機会そのものの音と、枝の砕かれる音が大きくなる。
前回のように、ギアの刃に絡まること無く、裁断してくれた。
また、前回に懲りて、枝はなるべく切り落として、投入口に入りやすくした。
そのために、厚鎌と鉈を使った手仕事も必要だった。
一番肝心のゆずの棘付きの枝は、やはり一番苦戦した。
投入する時に、どうしても手に刺さってしまう。
あらかじめ革の手袋を用意しておけば良かったと後で後悔した。
今回は、廃品の竹刀の竹を持って帰って利用していたのも、古くなったので同じように裁断した。
竹であっても、問題なく粉砕できた。
他の細い竹の枝や、バラの蔓などは、投入するのが手間であった。
それでも、庭の伐採した枝木を大方片付いた。
高い値段の粉砕機を買ったのは、以前のように燃やすと、どうしてもその煙が、近所迷惑になると思ったからだ。
近くに家屋が無いところなら良いのだが、上郡ではそういう田畑を借りていない。
知り合いの人は、伐採した木を燃やして罰金を取られたと言っていた。
15万円の罰金だったそうで、それを考えると少々の負担は我慢せねばならない。
また、粉砕した枝葉を庭木の根元に敷いて、草抑えと肥料に用いようと思った。
今回も3箱くらいの量が出たが、全て庭の隅に撒いた。
さらに言えば、草木灰も必要となるので、今後は粉砕した枝葉の上手な焼却も考えようと思っている。
年末に庭木の伐採をしてすぐに試してみたが、生木だとやはり裁断するギアの刃に絡まるため、乾かしてから粉砕することにした。
犬小屋の前の庭に粉砕機を置いてやり始めたのだが、その音の大きさにクロは恐れて立ち尽くしている。
確かに、枝木を砕く音は、大きくて不安を与えても仕方が無い。
特に、太めの枝を入れると、機会そのものの音と、枝の砕かれる音が大きくなる。
前回のように、ギアの刃に絡まること無く、裁断してくれた。
また、前回に懲りて、枝はなるべく切り落として、投入口に入りやすくした。
そのために、厚鎌と鉈を使った手仕事も必要だった。
一番肝心のゆずの棘付きの枝は、やはり一番苦戦した。
投入する時に、どうしても手に刺さってしまう。
あらかじめ革の手袋を用意しておけば良かったと後で後悔した。
今回は、廃品の竹刀の竹を持って帰って利用していたのも、古くなったので同じように裁断した。
竹であっても、問題なく粉砕できた。
他の細い竹の枝や、バラの蔓などは、投入するのが手間であった。
それでも、庭の伐採した枝木を大方片付いた。
高い値段の粉砕機を買ったのは、以前のように燃やすと、どうしてもその煙が、近所迷惑になると思ったからだ。
近くに家屋が無いところなら良いのだが、上郡ではそういう田畑を借りていない。
知り合いの人は、伐採した木を燃やして罰金を取られたと言っていた。
15万円の罰金だったそうで、それを考えると少々の負担は我慢せねばならない。
また、粉砕した枝葉を庭木の根元に敷いて、草抑えと肥料に用いようと思った。
今回も3箱くらいの量が出たが、全て庭の隅に撒いた。
さらに言えば、草木灰も必要となるので、今後は粉砕した枝葉の上手な焼却も考えようと思っている。
2019年2月13日水曜日
雪が降ろうと
今朝(2/11)、起きて窓の外を見ると、真っ白い景色の中で雪が降り続いている。
雪のことを全く気にかけていなかった。
昨日は、そろそろ汲んできた千種の水が無くなりそうなので、汲みに行くことも考えていた。
結局、気温も低そうなので、無理して出かけるのは止めて、来週に行こうと家内と話していた。
いつものように「まんぷく」さんを見た。
やっとラーメンの試作が成功してこれからというところで、こちらにも勇気が伝わってくる。
今日はその後NHKも特別番組で、それが健康に関することなので、ついしばらく見入っていた。
そして、意を決して、雪降る中をクロと散歩に出かけることにした。
実は、この土曜日には糖尿病の定期検診で悪い結果が出て、薬が増えてしまった。
それ以来、どう炭水化物を減らしていこうかと考え続けていた。
とにかく、食後はなるべく動かねばいけない。
以前なら、雪が降り止んでから出かけていたのだが、今回は血糖値を早く下げるために出かけた。
それまで、小屋の中に敷物を引き込んでこもっていたクロは、出かけるなりはしゃぎ始めた。
こちらは、長靴なので素早くは歩けない。
雪はアスファルトの上では溶けているので、わざと道路脇の草の生えた所を歩く。
長靴は、底が薄いので、長く歩くと足の裏を痛めるからである。
今回は雪が降り続いているので、さすがに外に出て遊んでいる人はいない。
ご自分の家の近くで、愛玩犬を放して糞をさせているお年寄りに会っただけである。
黙々と歩いて、そのうち暖まってきて、曇ったサングラスやニット帽をポケットに入れ、ベンチコートのフードだけ被った。
昨日は近くの小学校で、小学生の駅伝大会があったのだが、一日違っていたら中止になっていただろう。
いつもは、空を見上げて飛行機を追ったり、雲を眺めたりしている。
今日はひたすら下を向いて、転ばないように注意しながら歩いた。
ところが、ポケットに入れていたサングラスを途中で落としたので、もう一度思い当たるところまで戻って探さねばならなかった。
雪の上に落としたので、落ちた時に音がしなくて気がつかなかった。
普段は黙々と一緒に歩くクロは、今日は相変わらずはしゃいでいる。
それに振り回されながら戻ったが、家に入って着替えてからこたつに入ったが、しばらくは立ち上がれなかった。
クロも餌を食べた後は、小屋の中に引きこもってしまった。
これからは、雪が降ろうと、雨が降ろうと、血糖値を下げるために歩く決意をしている。
それは自分のためであり、クロのため?でもある。
雪のことを全く気にかけていなかった。
昨日は、そろそろ汲んできた千種の水が無くなりそうなので、汲みに行くことも考えていた。
結局、気温も低そうなので、無理して出かけるのは止めて、来週に行こうと家内と話していた。
いつものように「まんぷく」さんを見た。
やっとラーメンの試作が成功してこれからというところで、こちらにも勇気が伝わってくる。
今日はその後NHKも特別番組で、それが健康に関することなので、ついしばらく見入っていた。
そして、意を決して、雪降る中をクロと散歩に出かけることにした。
実は、この土曜日には糖尿病の定期検診で悪い結果が出て、薬が増えてしまった。
それ以来、どう炭水化物を減らしていこうかと考え続けていた。
とにかく、食後はなるべく動かねばいけない。
以前なら、雪が降り止んでから出かけていたのだが、今回は血糖値を早く下げるために出かけた。
それまで、小屋の中に敷物を引き込んでこもっていたクロは、出かけるなりはしゃぎ始めた。
こちらは、長靴なので素早くは歩けない。
雪はアスファルトの上では溶けているので、わざと道路脇の草の生えた所を歩く。
長靴は、底が薄いので、長く歩くと足の裏を痛めるからである。
今回は雪が降り続いているので、さすがに外に出て遊んでいる人はいない。
ご自分の家の近くで、愛玩犬を放して糞をさせているお年寄りに会っただけである。
黙々と歩いて、そのうち暖まってきて、曇ったサングラスやニット帽をポケットに入れ、ベンチコートのフードだけ被った。
昨日は近くの小学校で、小学生の駅伝大会があったのだが、一日違っていたら中止になっていただろう。
いつもは、空を見上げて飛行機を追ったり、雲を眺めたりしている。
今日はひたすら下を向いて、転ばないように注意しながら歩いた。
ところが、ポケットに入れていたサングラスを途中で落としたので、もう一度思い当たるところまで戻って探さねばならなかった。
雪の上に落としたので、落ちた時に音がしなくて気がつかなかった。
普段は黙々と一緒に歩くクロは、今日は相変わらずはしゃいでいる。
それに振り回されながら戻ったが、家に入って着替えてからこたつに入ったが、しばらくは立ち上がれなかった。
クロも餌を食べた後は、小屋の中に引きこもってしまった。
これからは、雪が降ろうと、雨が降ろうと、血糖値を下げるために歩く決意をしている。
それは自分のためであり、クロのため?でもある。
2019年2月11日月曜日
夫婦生活31年
1988年(昭和63)の2月11日に私は家内と結婚した。
だから今年で31年目の夫婦生活となる。
去年は30年目の節目の年だったが、早期退職後新しい仕事に慣れるのに必死で、結婚記念日どころの話では無かった。
今年は、また教壇に戻って、仕事も慣れてきたので、結婚生活を振り返る余裕も出てきた。
結婚してからの年数は、子供の年齢とも関わり、息子は今年で30歳になる。
自分は30歳に子供を授かったのだが、息子は結婚さえしていない。
2歳年下の娘も結婚する気配も無い。
今の職場では若い人が多く、独身の人や、結婚していても単身赴任の人がいる。
子持ちの若い人には、家庭を大事にして欲しいことはいつも伝えている。
定時制高校の仕事は、土日のクラブ指導が無いので、休日を子供と一緒に過ごせる。
全日制の高校では、クラブ指導や模擬試験などで、休日は家にいることが少なくなるからだ。
子育て中心の夫婦生活は20年ほどで終わり、夫婦だけで過ごす時間が多くなった。
自分の親との関わりは60年になるが、一緒に生活していたのは高々19年間である。
もうとっくに親子関係より長い付き合いを夫婦として続けている。
同じ夫婦でも、最近は単身赴任などで一緒に暮らしていない場合もあって、3番目の弟は8年も単身赴任をしている。
京都に自宅があって、名古屋だったり、東京だったりしたが、東京の場合は月に何度も帰って来られなかったようだ。
また、末の弟は、地元で暮らしているが、夫婦で仕事していて必ずしも休日が合わないので、夫婦一緒で出かけたりする機会も少ないという。
すぐ下の弟は、子供が無いので、恋人同士をずっと続けている感じで、休日も二人で買い物に出かけるのが楽しみだという。
同じ兄弟でも夫婦の様子は様々である。
そういう夫婦も退職を機会に一緒に過ごす時間が増えていくと思う。
近所でも、毎朝夫婦で散歩をしている高齢の夫婦がいて、仲睦まじく感じる。
高齢者の多いこの田舎では、買い物や通院で高齢夫婦の姿をよく見かける。
それが相方を亡くして、一人で散歩したり、買い物をしているのを見かけると寂しく思えたりする。
私は、自分の方が先に逝くと思っているのだが、必ずしもそうはいかないかも知れない。
妻に先立たれて、直ぐに亡くなってしまう夫の話は良く聞く。
夫婦それぞれ、相手に先立たれる覚悟はしておかねばいけないと思いつつ、そうできる自信があるわけではない。
ただ、互いに元気なうちに、旅行などの楽しみをして、思い出作りをしておきたいと思っている。
それができない状態になって、後悔だけはしたくないと思うからである。
だから今年で31年目の夫婦生活となる。
去年は30年目の節目の年だったが、早期退職後新しい仕事に慣れるのに必死で、結婚記念日どころの話では無かった。
今年は、また教壇に戻って、仕事も慣れてきたので、結婚生活を振り返る余裕も出てきた。
結婚してからの年数は、子供の年齢とも関わり、息子は今年で30歳になる。
自分は30歳に子供を授かったのだが、息子は結婚さえしていない。
2歳年下の娘も結婚する気配も無い。
今の職場では若い人が多く、独身の人や、結婚していても単身赴任の人がいる。
子持ちの若い人には、家庭を大事にして欲しいことはいつも伝えている。
定時制高校の仕事は、土日のクラブ指導が無いので、休日を子供と一緒に過ごせる。
全日制の高校では、クラブ指導や模擬試験などで、休日は家にいることが少なくなるからだ。
子育て中心の夫婦生活は20年ほどで終わり、夫婦だけで過ごす時間が多くなった。
自分の親との関わりは60年になるが、一緒に生活していたのは高々19年間である。
もうとっくに親子関係より長い付き合いを夫婦として続けている。
同じ夫婦でも、最近は単身赴任などで一緒に暮らしていない場合もあって、3番目の弟は8年も単身赴任をしている。
京都に自宅があって、名古屋だったり、東京だったりしたが、東京の場合は月に何度も帰って来られなかったようだ。
また、末の弟は、地元で暮らしているが、夫婦で仕事していて必ずしも休日が合わないので、夫婦一緒で出かけたりする機会も少ないという。
すぐ下の弟は、子供が無いので、恋人同士をずっと続けている感じで、休日も二人で買い物に出かけるのが楽しみだという。
同じ兄弟でも夫婦の様子は様々である。
そういう夫婦も退職を機会に一緒に過ごす時間が増えていくと思う。
近所でも、毎朝夫婦で散歩をしている高齢の夫婦がいて、仲睦まじく感じる。
高齢者の多いこの田舎では、買い物や通院で高齢夫婦の姿をよく見かける。
それが相方を亡くして、一人で散歩したり、買い物をしているのを見かけると寂しく思えたりする。
私は、自分の方が先に逝くと思っているのだが、必ずしもそうはいかないかも知れない。
妻に先立たれて、直ぐに亡くなってしまう夫の話は良く聞く。
夫婦それぞれ、相手に先立たれる覚悟はしておかねばいけないと思いつつ、そうできる自信があるわけではない。
ただ、互いに元気なうちに、旅行などの楽しみをして、思い出作りをしておきたいと思っている。
それができない状態になって、後悔だけはしたくないと思うからである。
2019年2月9日土曜日
還暦同窓会・古希同窓会に向けて
同窓会では、どうしても亡くなった同級生のことが話される。
今回も、医者として同級生を見送った話がなされた。
卒業生144名中で、還暦までに亡くなったのは5名である。
事故もあるが、最近は多くが癌のようだ。
その中には、医者も数名含まれている。
この話題を職場の一つ上の人と話をしたら、その人の同級生は自殺が多いという。
それは、公立高校の話なのだが、私の同級生でそういう話は聞いていないのは幸いである。
今回集まった同級生には、見た目からして不健康そうな者も何人かいた。
実際聞いてみると、持病を抱えている。
また、健康そうに見えても、ヘビースモーカーでしょっちゅう退席している者もいた。
二次会のスナックでも、電子タバコが手放せないでいる者も少なからずいた。
いつも歯の治療をしてもらっている同級生も、タバコがやめられず、いつも不健康そうに見える。
医者の不養生とはよく言ったものである。
そういう自分も糖尿病で数値も良くなく、薬は欠かさず飲んではいるが、膵臓癌への不安がいつも付きまとう。
果たして、今度何年後に同窓会が開かれるか分からないが、その時まで元気でいられる者がどれくらい、いるのだろうか?
先日、小田和正の特集番組を視ていたら、古希のお祝いを仲間としていた。
小田和正のように、古希まで現役で続けられればそんなに幸せなことはない。
逆に本を読んでいて、奄美の考古学や歴史の研究に貢献されていた方が、60歳代で亡くなったのを知り、非常に残念に思った。
都立大学で指導教官をしていただいた故村武精一先生は、長生きするのが研究者にとって重要なことだと言っておられたのを思い出す。
沖縄の言葉の「命ドゥ宝」ではなく、「仕事ドゥ宝」の人が、なんと多いことか。
チコちゃんに叱られようが、マイペースで仕事をし、健康を考えながらボーと生きることも大切に思った。
ただ、食事や運動に関してはボーとしていてはいけないとは思う。
今度会う時は、殆どの人が退職しいるのかもしれない、その時に学生時代のように、若々しく愉快に語り合えたらと思っている。
その時は、卒業大学や肩書きも気にしない、ただの二度童ならぬ、二度青年として・・・
今回も、医者として同級生を見送った話がなされた。
卒業生144名中で、還暦までに亡くなったのは5名である。
事故もあるが、最近は多くが癌のようだ。
その中には、医者も数名含まれている。
この話題を職場の一つ上の人と話をしたら、その人の同級生は自殺が多いという。
それは、公立高校の話なのだが、私の同級生でそういう話は聞いていないのは幸いである。
今回集まった同級生には、見た目からして不健康そうな者も何人かいた。
実際聞いてみると、持病を抱えている。
また、健康そうに見えても、ヘビースモーカーでしょっちゅう退席している者もいた。
二次会のスナックでも、電子タバコが手放せないでいる者も少なからずいた。
いつも歯の治療をしてもらっている同級生も、タバコがやめられず、いつも不健康そうに見える。
医者の不養生とはよく言ったものである。
そういう自分も糖尿病で数値も良くなく、薬は欠かさず飲んではいるが、膵臓癌への不安がいつも付きまとう。
果たして、今度何年後に同窓会が開かれるか分からないが、その時まで元気でいられる者がどれくらい、いるのだろうか?
先日、小田和正の特集番組を視ていたら、古希のお祝いを仲間としていた。
小田和正のように、古希まで現役で続けられればそんなに幸せなことはない。
逆に本を読んでいて、奄美の考古学や歴史の研究に貢献されていた方が、60歳代で亡くなったのを知り、非常に残念に思った。
都立大学で指導教官をしていただいた故村武精一先生は、長生きするのが研究者にとって重要なことだと言っておられたのを思い出す。
沖縄の言葉の「命ドゥ宝」ではなく、「仕事ドゥ宝」の人が、なんと多いことか。
チコちゃんに叱られようが、マイペースで仕事をし、健康を考えながらボーと生きることも大切に思った。
ただ、食事や運動に関してはボーとしていてはいけないとは思う。
今度会う時は、殆どの人が退職しいるのかもしれない、その時に学生時代のように、若々しく愉快に語り合えたらと思っている。
その時は、卒業大学や肩書きも気にしない、ただの二度童ならぬ、二度青年として・・・
2019年2月8日金曜日
還暦同窓会・地元仲間
淳心を卒業して、地元で暮らしている人の中には、教師になった者も少なからずいる。
以前、校長をしていた先輩を中心に教師会が作られたが、その人が淳心とは別の私学校長になって、絶ち切れになった。
同級生で教育学部へ行って、教師になった者の方が少ない。
研究をしようと思ったが、教師になった私のようなケース。
民間企業にいたが、転職したケース等である。
だから小学校、中学校の教師は少ない。
このうち同級生で高校の校長をしているのは、二人である。
二人とも立派な大学を出たエリートである。
校長にならずとも、頑張っている教師もいて、Mn君は公立で地域トップの進学校の地歴・公民の教師をしている。
前任校は、進学校では無かったので、大学受験指導の経験はあまり無いはずだが、世界史も、日本史も指導していると聞いて驚いた。
私は受験指導に関しては、日本史が精一杯で、世界史までは自信が無い。
彼の奥さんとは、職場が一緒だったこともあり、共通の話題も多かった。
旧帝大を卒業しながら、平教師として一般の学校で地道に指導して、最後は進学校で優秀な人材育成を行っている。
今回、気の毒に思えた教師は、学校付近で交通事故に遭い、生死をさ迷いながら今は何とか回復してリハビリ中の教師だ。
今も休職中だが、一部記憶も失われていると聞いた。
命が救われただけでも、幸運だと思える事故だったらしいが、これから復帰するのも大変だと思った。
他にも、いつも母校の教師をしながら、同窓会の中心的な幹事をしてくれているMt君は、メタボ体型で気になった。
二次会で隣にいたので、おなかを突きながら「健康は大丈夫」と聞くと「悪い」と答えていた。
彼には元気で長生きをしてもらって、幹事をいつまでも続けてもらいたい。
また、高校教師をしていたが、大学に転職したS君とも久しぶりに会った。
彼は、高校教師をしながら、大学院に通い研究を重ねた。
そして、家庭の都合で定時制の教師も務めていた。
彼とは研究分野がかなり違うが、彼はひとつの目標でもある。
大学の教員も大変だと言うことだったが、充実した生活を送っているように見受けられた。
同窓会には出てこないが、近くの小学校で元気に指導している同級生もたまに見かける。
忙しそうなので、声をかけるのはためらっているのだが、私の息子には良く声をかけてくれている。
地元で教師をする以外にも、市町村の役場や企業などで地域のために働いている仲間も多くいる。
二次会で隣になったのもその一人で、自治会のためにもかなり活躍しているそうだ。
どちらかというと、同窓会では華やかな職業で活躍している同級生が目につく。
それでも、地味ながら頑張っている仲間を見ると、共感できる。
同級生以外にも、地元で頑張っている卒業生は多い、それが励みともなっている。
以前、校長をしていた先輩を中心に教師会が作られたが、その人が淳心とは別の私学校長になって、絶ち切れになった。
同級生で教育学部へ行って、教師になった者の方が少ない。
研究をしようと思ったが、教師になった私のようなケース。
民間企業にいたが、転職したケース等である。
だから小学校、中学校の教師は少ない。
このうち同級生で高校の校長をしているのは、二人である。
二人とも立派な大学を出たエリートである。
校長にならずとも、頑張っている教師もいて、Mn君は公立で地域トップの進学校の地歴・公民の教師をしている。
前任校は、進学校では無かったので、大学受験指導の経験はあまり無いはずだが、世界史も、日本史も指導していると聞いて驚いた。
私は受験指導に関しては、日本史が精一杯で、世界史までは自信が無い。
彼の奥さんとは、職場が一緒だったこともあり、共通の話題も多かった。
旧帝大を卒業しながら、平教師として一般の学校で地道に指導して、最後は進学校で優秀な人材育成を行っている。
今回、気の毒に思えた教師は、学校付近で交通事故に遭い、生死をさ迷いながら今は何とか回復してリハビリ中の教師だ。
今も休職中だが、一部記憶も失われていると聞いた。
命が救われただけでも、幸運だと思える事故だったらしいが、これから復帰するのも大変だと思った。
他にも、いつも母校の教師をしながら、同窓会の中心的な幹事をしてくれているMt君は、メタボ体型で気になった。
二次会で隣にいたので、おなかを突きながら「健康は大丈夫」と聞くと「悪い」と答えていた。
彼には元気で長生きをしてもらって、幹事をいつまでも続けてもらいたい。
また、高校教師をしていたが、大学に転職したS君とも久しぶりに会った。
彼は、高校教師をしながら、大学院に通い研究を重ねた。
そして、家庭の都合で定時制の教師も務めていた。
彼とは研究分野がかなり違うが、彼はひとつの目標でもある。
大学の教員も大変だと言うことだったが、充実した生活を送っているように見受けられた。
同窓会には出てこないが、近くの小学校で元気に指導している同級生もたまに見かける。
忙しそうなので、声をかけるのはためらっているのだが、私の息子には良く声をかけてくれている。
地元で教師をする以外にも、市町村の役場や企業などで地域のために働いている仲間も多くいる。
二次会で隣になったのもその一人で、自治会のためにもかなり活躍しているそうだ。
どちらかというと、同窓会では華やかな職業で活躍している同級生が目につく。
それでも、地味ながら頑張っている仲間を見ると、共感できる。
同級生以外にも、地元で頑張っている卒業生は多い、それが励みともなっている。
2019年2月7日木曜日
還暦同窓会・別人物
還暦同窓会・医療関係と法曹関係のテーブルで紹介したK君は、最も別人物に思えた一人だが、他にも何人かいた。
Mi君は、中学高校とどちらかというと、肥満型の体型で、頬もふくらみ目も細かった。
それが痩せると、体型どころか、人相も変わってしまう。
当然気がつかなかった、彼とは東大のコンピュータ室で、大学院の頃会って以来だ。
その時は、以前の彼だったから、東大の大学院を卒業後に変わったことになる、
そして、何より驚いたのは、二次会で佐野元春のアンジェリーナを踊りながら歌ったことだ。
彼の家は確か植木屋さんだったように思うが、自慢の盆栽作品を披露してくれたことがあった。
どちらかというと、地味な性格だった。
その彼は、今は会社の社長さんで、最も若々しかった。
逆に最も、老けて見えたのはMy君で、彼は女の子のような可愛いタイプで、男子校では可愛がられていた。
それが、身なりも風貌もすっかりお爺さんになってしまっていた。
どうも、病気が原因らしいのだが、昔の彼を知っているだけに、寂しく思えた。
ただ、風貌は変わっても、元のままだという仲間も多かった。
白髪でありながら、ノリは昔のままという者を多かった。
自分のことは自分では分からないが、おそらく昔とは変わっているのだと思う。
どちらかというと不良で、まさか教師になるとは思われていなかった思う。
教師になった同級生は少なからずいるが、一番私の品行が悪かったように思う。
ただ、品行が一番悪くて、今は立派な医者として活躍しているCh君に叶わない。
彼は淳心の前に立っている国立病院に勤めたときには、母校の生徒のために尽くした。
憶えているのは、みんなで作ったレコード台詞である。
「京大の ○○(本人の苗字)や、それだけや」
と吹き込み、一浪して公言通り、京大の医学部に入った。
そして、今回の同窓会の締めの挨拶をしたのが彼だった。
とにかく、人はそれぞれだと思う。
今回出席しているのは、3分の1ほどの人数だ。
母校のことや、その仲間とは無縁でいたいと思う人もいて当然だ。
私の弟なども、一度も同窓会に出たこともなく、名簿にも名前を載せていなかった。
弟は淳心在籍時代には、何度も辞めたいと言って親を困らせていた。
母校や母校の仲間は遠きにありて思うものと、思う仲間がいて当然だ。
そういう人が一番別人になっているのかも知れない。
Mi君は、中学高校とどちらかというと、肥満型の体型で、頬もふくらみ目も細かった。
それが痩せると、体型どころか、人相も変わってしまう。
当然気がつかなかった、彼とは東大のコンピュータ室で、大学院の頃会って以来だ。
その時は、以前の彼だったから、東大の大学院を卒業後に変わったことになる、
そして、何より驚いたのは、二次会で佐野元春のアンジェリーナを踊りながら歌ったことだ。
彼の家は確か植木屋さんだったように思うが、自慢の盆栽作品を披露してくれたことがあった。
どちらかというと、地味な性格だった。
その彼は、今は会社の社長さんで、最も若々しかった。
逆に最も、老けて見えたのはMy君で、彼は女の子のような可愛いタイプで、男子校では可愛がられていた。
それが、身なりも風貌もすっかりお爺さんになってしまっていた。
どうも、病気が原因らしいのだが、昔の彼を知っているだけに、寂しく思えた。
ただ、風貌は変わっても、元のままだという仲間も多かった。
白髪でありながら、ノリは昔のままという者を多かった。
自分のことは自分では分からないが、おそらく昔とは変わっているのだと思う。
どちらかというと不良で、まさか教師になるとは思われていなかった思う。
教師になった同級生は少なからずいるが、一番私の品行が悪かったように思う。
ただ、品行が一番悪くて、今は立派な医者として活躍しているCh君に叶わない。
彼は淳心の前に立っている国立病院に勤めたときには、母校の生徒のために尽くした。
憶えているのは、みんなで作ったレコード台詞である。
「京大の ○○(本人の苗字)や、それだけや」
と吹き込み、一浪して公言通り、京大の医学部に入った。
そして、今回の同窓会の締めの挨拶をしたのが彼だった。
とにかく、人はそれぞれだと思う。
今回出席しているのは、3分の1ほどの人数だ。
母校のことや、その仲間とは無縁でいたいと思う人もいて当然だ。
私の弟なども、一度も同窓会に出たこともなく、名簿にも名前を載せていなかった。
弟は淳心在籍時代には、何度も辞めたいと言って親を困らせていた。
母校や母校の仲間は遠きにありて思うものと、思う仲間がいて当然だ。
そういう人が一番別人になっているのかも知れない。
2019年2月6日水曜日
還暦同窓会・バンド仲間
私が一番親しくしたのは、やはり一緒にロックバンドを組んで活動した仲間である。
バンドは同じ学年だけでなく、一年上の上級生や一年下の下級生とも組んだ。
完全に固定していたわけで無く、いつも一緒に活動したのはベースのHiro君だった。
Hiro君とは中学校3年生の時から、一緒に練習をしていて、予備校まで一緒だったが、彼は早稲田大学に入ってから活動は別になった。
結局二人とも、音楽の道には進まず、文系の研究分野へ方向転換した。
彼はおとなしいタイプで、こういう同窓会には殆ど顔を出してくれないし、名簿にも名前を載せなかった。
そして、だいぶ前から全く音信不通になってしまった。
高校一年生の時は、私らコンビと、もう二人の同級生が野外ステージに立ったが、まったくだめで、聴いてくれた人も殆どなかった。
高校2年生の時は、一年上の上級生4人に私らコンビが加わり、体育館ステージに出て、この時は非常に盛り上がった。
因みに私は同じ赤穂の1年上の上級生のSukeちゃんと仲が良かった。
彼はエレキギターが非常に優れていたし、音楽性も高かったが、悪いことも良く教えてくれた。
この時に一番力を入れたのは、バンド名にもしたBeatlesの”Helter Skelter”で、吹奏楽部に属する先輩Tさんがサックスをアレンジして迫力を出した。
そして、Hiro君(Ba)、Sukeちゃん(Eg)、Y君(Dr)と私が組んで、朝日放送ラジオのヤンリク「キダタロー、ミキサー完備、スタジオ貸します」に出演した。
今回の同窓会ではそのY君に久しぶりに会った。
彼は元々どちらかというと、サッカーが専門で、医者になってからは日本サッカーチームのドクターにもなっていた。
今回受付で、いきなり声をかけられた。
彼はサッカーをしていて故障して、手足が麻痺したので、リハビリもかねてドラム練習をしているという。
新築した家には、その練習部屋もちゃんと作っているという。
残念ながらその自宅は神戸なので、一緒に活動するには遠すぎるが、私も負けていられないと刺激になった。
そして、こちらも声をかけられて気づいたのが、同じ赤穂出身で別のバンドで活動していたS君である。
彼は今は山口県で医者をしているが、しっかり音楽も楽しんでいる。
彼とは音楽の趣味や、友達関係が違っていたので一度も一緒に演奏はしていない。
ところが、今回意外なことを聞かされた。
彼が今はまっている音楽は、 CSN&Y(クロスビー、スチル、ナッシュ、ヤング)だという。
そのきっかけを作ったのが、レコードを聴かせてあげた私だというのである。
CSN&Yは高2の時の体育館ステージで、"Teach your children"をSukeちゃんとハモりながら歌った。
彼は高校の頃はQueenのフレディー マーキュリーに似ていて、曲も好きだったから、ずっとQueenのファンだと思い込んでいた。
彼から見せられたのは、スマホに写されたグレコのレスポールを持った孫の姿だった。
彼も医者を続けながら、音楽を愛し続けていることがよく分かった。
もともと、彼は勉強一筋だったのだが、一度病気をして入院してから変わったと思う。
同級生の多くの仲間は、勉強だけでなく、スポーツや音楽を友にしていた。
それが過ぎて、大学受験に失敗した者がここにいるけれど・・・・
バンドは同じ学年だけでなく、一年上の上級生や一年下の下級生とも組んだ。
完全に固定していたわけで無く、いつも一緒に活動したのはベースのHiro君だった。
Hiro君とは中学校3年生の時から、一緒に練習をしていて、予備校まで一緒だったが、彼は早稲田大学に入ってから活動は別になった。
結局二人とも、音楽の道には進まず、文系の研究分野へ方向転換した。
彼はおとなしいタイプで、こういう同窓会には殆ど顔を出してくれないし、名簿にも名前を載せなかった。
そして、だいぶ前から全く音信不通になってしまった。
高校一年生の時は、私らコンビと、もう二人の同級生が野外ステージに立ったが、まったくだめで、聴いてくれた人も殆どなかった。
高校2年生の時は、一年上の上級生4人に私らコンビが加わり、体育館ステージに出て、この時は非常に盛り上がった。
因みに私は同じ赤穂の1年上の上級生のSukeちゃんと仲が良かった。
彼はエレキギターが非常に優れていたし、音楽性も高かったが、悪いことも良く教えてくれた。
この時に一番力を入れたのは、バンド名にもしたBeatlesの”Helter Skelter”で、吹奏楽部に属する先輩Tさんがサックスをアレンジして迫力を出した。
そして、Hiro君(Ba)、Sukeちゃん(Eg)、Y君(Dr)と私が組んで、朝日放送ラジオのヤンリク「キダタロー、ミキサー完備、スタジオ貸します」に出演した。
今回の同窓会ではそのY君に久しぶりに会った。
彼は元々どちらかというと、サッカーが専門で、医者になってからは日本サッカーチームのドクターにもなっていた。
今回受付で、いきなり声をかけられた。
彼はサッカーをしていて故障して、手足が麻痺したので、リハビリもかねてドラム練習をしているという。
新築した家には、その練習部屋もちゃんと作っているという。
残念ながらその自宅は神戸なので、一緒に活動するには遠すぎるが、私も負けていられないと刺激になった。
そして、こちらも声をかけられて気づいたのが、同じ赤穂出身で別のバンドで活動していたS君である。
彼は今は山口県で医者をしているが、しっかり音楽も楽しんでいる。
彼とは音楽の趣味や、友達関係が違っていたので一度も一緒に演奏はしていない。
ところが、今回意外なことを聞かされた。
彼が今はまっている音楽は、 CSN&Y(クロスビー、スチル、ナッシュ、ヤング)だという。
そのきっかけを作ったのが、レコードを聴かせてあげた私だというのである。
CSN&Yは高2の時の体育館ステージで、"Teach your children"をSukeちゃんとハモりながら歌った。
彼は高校の頃はQueenのフレディー マーキュリーに似ていて、曲も好きだったから、ずっとQueenのファンだと思い込んでいた。
彼から見せられたのは、スマホに写されたグレコのレスポールを持った孫の姿だった。
彼も医者を続けながら、音楽を愛し続けていることがよく分かった。
もともと、彼は勉強一筋だったのだが、一度病気をして入院してから変わったと思う。
同級生の多くの仲間は、勉強だけでなく、スポーツや音楽を友にしていた。
それが過ぎて、大学受験に失敗した者がここにいるけれど・・・・
2019年2月4日月曜日
還暦同窓会・医療関係と法曹関係のテーブル
母校淳心19回生の還暦同窓会が2月2日に行われた。
この同窓会は、今までに無いインパクトと混乱を私の精神にもたらした。
浦島太郎伝説で、竜宮でもらった玉手箱を開けると、白髪の老人になった話がある。
私たちは、高校卒業してからこの還暦まで、楽園では無いが竜宮にいる時のように時を忘れていたようだ。
まさに、この還暦同窓会では、玉手箱を開けた状態になってしまった。
わずか、4時間ほどの体験だったが、卒業後48年間のエッセンスがそこに詰まっていたので、何回かに分けてそれを振り返りたいと思う。
私は、今回の同窓会出席の大きな目的は、同じ兵庫県の教育に携わる仲間に会いに行くことだった。
しかし、受付ではそんな思惑とは、関係なく高校時代の雰囲気とはかなり違うが、明らかに過去に引き戻された状態。
私は怖じ気づいて、思わず逃げ出したい気分になった。
集まってきた仲間は、やはり元気者揃いであった。
ただ、さすがに還暦と言うことだけあって、私もそうだがかなり老けた者もいる。
また、その一方で昔とあまり変わらない者もいた。
そして、何よりも分からなかったのがH先生だ。
あの同級生は誰だと話し合っていたのだが、先生と紹介されて驚いた。
後期高齢者の先生と、一部の卒業生の風貌がそれほど変わらないのである。
先生もスピーチでそのことを指摘された。
今回の座る席は自由と言うことで、どこに座るかまず迷った。
というのも、元ロックバンド仲間の悪友はまだ来ていなかったからだ。
そこで、手近な席に座ることにした。
ところがその手近な席は、医療関係と法曹界の人間が多く占めていることに後で気がついた。
私の右隣には東大を出て、紆余曲折の人生を歩んで、今は弁護士をしているK君
そして、その右隣も東大を出て弁護士をしているI君
左隣は医者のN君だが、そのまた左は東大を出て裁判官をしているO君だった。
またその左隣が、東大を出て薬メーカーに勤めているT君。
そして、真正面はやはり元バレーボール部の医者のM君だった。
要するに私は東大出や医学部出の席に、迷い込んでしまったようだった。
まず、K君だが、彼とは結構高校時代は、文学に関して関わりを持っていて、自分たちで手書きの文学冊子を作ったこともある。
彼は大学に入ってから、学生運動などにも参加したらしく、長いこと連絡がとれていなかった。
今回は、その頃のことは触れたがらなかったので、聞かなかった。
とにかく、弁護士になったのは最近と言うことで、その書類作りに日々追われているとのことだった。
私は高校当時の彼の印象と、今の風貌がどうしても重ねることができなくて、最後まで同一人物として納得できなかった。
彼は、今回の同窓会で一番みんなに衝撃を与えた人物となった。
弁護士のI君とは今でも年賀状をやりとりする仲で、高校時代に同じクラスになって、赤穂に来てもらって遊んだこともある。
彼は、私の歌う歌を気に入ってくれいて、”Come together”が、また聴きたいと言ってくれた。
ただ、今回は二次会のスナックで歌ったのは、彼のリクエストには応えず、You raise me upにした。
因みに、医者のM君は、私たちが高校3年の時に、野外ステージに出演した時に、聴きに来てくれた一人だ。
ただ、彼が「勉強せいよ」と大きなヤジも飛ばして、みんなに爆笑されたのを、今でも憶えている。
今回はその話もしたが、浪人覚悟で「Ichiro(一浪)」というバンド名で出演したことを、I君は知らなかった。
左の写真の左側が、Eaglesの”Hotel California”を歌う当時の私である。
そして、裁判官のO君は、卒業以来の再開であった。
最初、見覚えがあるが思い出せない。
思い切ってたずねてみると、なんと同じ電車で通っていた通学仲間の一人のO君だ。
私は思わず「チュウチョウ!?」と、当時みんなが使っていた彼の音読みの名前叫んでしまった。
毎日のように6年間顔を合わせていたのに、思い出せなかったのだ。
彼は非常に真面目な性格だったが、中学1年のキャンプファイヤーで、グループの中心になって冗談を言って、盛り上げていたことを話した。
もう40年以上経つのに、けっこう昔のことをみんな憶えているのだが、一番良く憶えているのはやはり弁護士のI君だった。
彼は、高1の時に学年で行った信州旅行のことを鮮明に覚えていた。
それは普段殆ど喋らなかった部屋の仲間が、「裸の島」は映画じゃ無いと言った話だった。
その夜は明け方まで、部屋の仲間と話をしていたのを憶えているが、中身までは憶えていなかった。
因みに、映画は神父さんが宗教の授業などを利用して、よく見せてくれていた。
その一つが「裸の島」だが、私にはこの映画はしっかりと脳裏に焼き付いている。
他にも、「旅の重さ」や「椿三十郎」を見せてもらったが、どれもしっかりと憶えている名作だった。
授業で学んだことはあまり憶えていないのに、行事や映画だけはしっかり憶えている。
たとえ授業のことを憶えていても、話題にしてもつまらないことである。
学校とはそんなところかも知れない。
この同窓会は、今までに無いインパクトと混乱を私の精神にもたらした。
浦島太郎伝説で、竜宮でもらった玉手箱を開けると、白髪の老人になった話がある。
私たちは、高校卒業してからこの還暦まで、楽園では無いが竜宮にいる時のように時を忘れていたようだ。
まさに、この還暦同窓会では、玉手箱を開けた状態になってしまった。
わずか、4時間ほどの体験だったが、卒業後48年間のエッセンスがそこに詰まっていたので、何回かに分けてそれを振り返りたいと思う。
私は、今回の同窓会出席の大きな目的は、同じ兵庫県の教育に携わる仲間に会いに行くことだった。
しかし、受付ではそんな思惑とは、関係なく高校時代の雰囲気とはかなり違うが、明らかに過去に引き戻された状態。
私は怖じ気づいて、思わず逃げ出したい気分になった。
集まってきた仲間は、やはり元気者揃いであった。
ただ、さすがに還暦と言うことだけあって、私もそうだがかなり老けた者もいる。
また、その一方で昔とあまり変わらない者もいた。
そして、何よりも分からなかったのがH先生だ。
あの同級生は誰だと話し合っていたのだが、先生と紹介されて驚いた。
後期高齢者の先生と、一部の卒業生の風貌がそれほど変わらないのである。
先生もスピーチでそのことを指摘された。
今回の座る席は自由と言うことで、どこに座るかまず迷った。
というのも、元ロックバンド仲間の悪友はまだ来ていなかったからだ。
そこで、手近な席に座ることにした。
ところがその手近な席は、医療関係と法曹界の人間が多く占めていることに後で気がついた。
私の右隣には東大を出て、紆余曲折の人生を歩んで、今は弁護士をしているK君
そして、その右隣も東大を出て弁護士をしているI君
左隣は医者のN君だが、そのまた左は東大を出て裁判官をしているO君だった。
またその左隣が、東大を出て薬メーカーに勤めているT君。
そして、真正面はやはり元バレーボール部の医者のM君だった。
要するに私は東大出や医学部出の席に、迷い込んでしまったようだった。
まず、K君だが、彼とは結構高校時代は、文学に関して関わりを持っていて、自分たちで手書きの文学冊子を作ったこともある。
彼は大学に入ってから、学生運動などにも参加したらしく、長いこと連絡がとれていなかった。
今回は、その頃のことは触れたがらなかったので、聞かなかった。
とにかく、弁護士になったのは最近と言うことで、その書類作りに日々追われているとのことだった。
私は高校当時の彼の印象と、今の風貌がどうしても重ねることができなくて、最後まで同一人物として納得できなかった。
彼は、今回の同窓会で一番みんなに衝撃を与えた人物となった。
弁護士のI君とは今でも年賀状をやりとりする仲で、高校時代に同じクラスになって、赤穂に来てもらって遊んだこともある。
彼は、私の歌う歌を気に入ってくれいて、”Come together”が、また聴きたいと言ってくれた。

因みに、医者のM君は、私たちが高校3年の時に、野外ステージに出演した時に、聴きに来てくれた一人だ。
ただ、彼が「勉強せいよ」と大きなヤジも飛ばして、みんなに爆笑されたのを、今でも憶えている。
今回はその話もしたが、浪人覚悟で「Ichiro(一浪)」というバンド名で出演したことを、I君は知らなかった。
左の写真の左側が、Eaglesの”Hotel California”を歌う当時の私である。
そして、裁判官のO君は、卒業以来の再開であった。
最初、見覚えがあるが思い出せない。
思い切ってたずねてみると、なんと同じ電車で通っていた通学仲間の一人のO君だ。
私は思わず「チュウチョウ!?」と、当時みんなが使っていた彼の音読みの名前叫んでしまった。
毎日のように6年間顔を合わせていたのに、思い出せなかったのだ。
彼は非常に真面目な性格だったが、中学1年のキャンプファイヤーで、グループの中心になって冗談を言って、盛り上げていたことを話した。
もう40年以上経つのに、けっこう昔のことをみんな憶えているのだが、一番良く憶えているのはやはり弁護士のI君だった。
彼は、高1の時に学年で行った信州旅行のことを鮮明に覚えていた。
それは普段殆ど喋らなかった部屋の仲間が、「裸の島」は映画じゃ無いと言った話だった。
その夜は明け方まで、部屋の仲間と話をしていたのを憶えているが、中身までは憶えていなかった。
因みに、映画は神父さんが宗教の授業などを利用して、よく見せてくれていた。
その一つが「裸の島」だが、私にはこの映画はしっかりと脳裏に焼き付いている。
他にも、「旅の重さ」や「椿三十郎」を見せてもらったが、どれもしっかりと憶えている名作だった。
授業で学んだことはあまり憶えていないのに、行事や映画だけはしっかり憶えている。
たとえ授業のことを憶えていても、話題にしてもつまらないことである。
学校とはそんなところかも知れない。
2019年2月3日日曜日
飲みテラス
今日(2/2)の朝の散歩で、揚げヒバリが鳴くのを聞いた。
体感的には、まだ寒い冬なのだが、ヒバリは春の訪れを感じているらしい。
私も、今日は散髪に行くつもりだった。
家内から、散髪するように言われていたのだが、寒いし面倒なので、耳の所の気になる髪だけ切って放っておいた。
しかし、この頃、口の悪い生徒がやたら頭の禿具合を、あげつらうので、髪が伸びたから薄いのが目立つのだとは思っていた。
生徒には私のように、白髪で毛が薄いと実年齢よりも老けて見えるようだ。
若く見られたいというわけでは無いのだが、老けてみられるのも癪だから髪を切ることにした。
やはり、今日は土曜と言うことと、暖かくなったと言うことで、いつも行く安い散髪屋さんは満員だった。
待たされるのも、そう苛立たず、倒された椅子でまどろんでいられた。
支払いの時に、店員は最初シルバー割引を適応しようとしたが、確認されて違うと答えた。
見た目では、完全に60歳以上に見えているということである。
昼になり、暖かい日差しの中、休日の一つの楽しみとしての「昼ビール」をテラスでおこなった。
二階のテラスには、椅子が置いてあって、そこで外の風景を楽しみながら、第三のビールを味わった。
春と秋の掛け替えのない飲みテラスの至福の時間。
そこには、美味しいつまみも何もいらない。
飲み鉄をしなくても、風景はすばらしい。
そして飲みテラスは、思い出の旅へと誘ってくれる・・・
体感的には、まだ寒い冬なのだが、ヒバリは春の訪れを感じているらしい。
私も、今日は散髪に行くつもりだった。
家内から、散髪するように言われていたのだが、寒いし面倒なので、耳の所の気になる髪だけ切って放っておいた。
しかし、この頃、口の悪い生徒がやたら頭の禿具合を、あげつらうので、髪が伸びたから薄いのが目立つのだとは思っていた。
生徒には私のように、白髪で毛が薄いと実年齢よりも老けて見えるようだ。
若く見られたいというわけでは無いのだが、老けてみられるのも癪だから髪を切ることにした。
やはり、今日は土曜と言うことと、暖かくなったと言うことで、いつも行く安い散髪屋さんは満員だった。
待たされるのも、そう苛立たず、倒された椅子でまどろんでいられた。
支払いの時に、店員は最初シルバー割引を適応しようとしたが、確認されて違うと答えた。
見た目では、完全に60歳以上に見えているということである。
昼になり、暖かい日差しの中、休日の一つの楽しみとしての「昼ビール」をテラスでおこなった。
二階のテラスには、椅子が置いてあって、そこで外の風景を楽しみながら、第三のビールを味わった。
春と秋の掛け替えのない飲みテラスの至福の時間。
そこには、美味しいつまみも何もいらない。
飲み鉄をしなくても、風景はすばらしい。
そして飲みテラスは、思い出の旅へと誘ってくれる・・・
2019年2月2日土曜日
子供とのマラソン練習
買い物をしていて、その近所の小学校のマラソン大会のポスターを目にした。
子供が小学生の頃、朝早く起きて、一緒に走る練習をしたのを思い出した。
うちの娘も息子も体が小さく、運動もそれほど得意な方では無かった。
水泳の練習は二人ともスイミングクラブで練習していて、そこそこ泳げていた。
しかし、走る方はだめだった。
そこで、小学校のマラソン大会のために、朝早く起きて練習することにしたのである。
まだ、薄暗い中を、1kmほどある小学校までアップをしながら行き、運動場で練習した。
当時は、トラという白色の雑種の犬も飼っていて、一緒に駆けた。
娘は練習の甲斐あって、学年で6位になった。
息子は半分くらいの成績だったが、運動の苦手なことを考えれば上出来だった。
娘は朝の練習ことを日記に書いて、それが学級通信にも取り上げてもらっていた。
娘はこのことと関係するかどうか分からないが、中学校に入ると陸上部に入った。
本当は、水泳は選手コースで練習していたので、水泳部があれば良かったのだが、なかったので陸上部を選んだようだ。
そして、たまたま速い選手が調子が悪くて、一度だけ兵庫県の郡市区駅伝の上郡のメンバーにも選んでもらった。
その頃は、加西で駅伝が行われていたので、夫婦で車に乗って応援に行った。
雪のちらつく中で、娘を待ったのだが、年頃の娘は私の構えたカメラに横を向いてしまった。
それで、手ぶれも加わって、良い写真は撮れなかった。
その後、娘は足の調子も悪くなったこともあって、高校ではテニス部に入った。
考えてみれば、私も父と朝に小学校の運動場で走る練習をしたことがある。
それは運動会前で、徒競走で一等賞になるためであった。
小学校の頃は、身長が高くて、一緒に走る組順の同級生も結構速かった。
クラスや地域のリレーの代表選手にはなっていたが、徒競走で一番になったことは一度も無い。
父に関しては、走る練習よりも、ソフトボールの練習をよくしたことを思いだす。
当時は、それほど子供の駅伝大会など無くて、長距離はあまり体育でも練習させられなかった。
近所では、時々親子でジョギングをする風景を見かける。
小学校くらいまでだったら、子供と一緒の速さで走れるのが良いのだと思う。
私は、愚犬クロとジョギングしたこともあるが、今はしっかり歩くことに努めている。
本当は孫も一緒にというところだが・・・
子供が小学生の頃、朝早く起きて、一緒に走る練習をしたのを思い出した。
うちの娘も息子も体が小さく、運動もそれほど得意な方では無かった。
水泳の練習は二人ともスイミングクラブで練習していて、そこそこ泳げていた。
しかし、走る方はだめだった。
そこで、小学校のマラソン大会のために、朝早く起きて練習することにしたのである。
まだ、薄暗い中を、1kmほどある小学校までアップをしながら行き、運動場で練習した。
当時は、トラという白色の雑種の犬も飼っていて、一緒に駆けた。
娘は練習の甲斐あって、学年で6位になった。
息子は半分くらいの成績だったが、運動の苦手なことを考えれば上出来だった。
娘は朝の練習ことを日記に書いて、それが学級通信にも取り上げてもらっていた。
娘はこのことと関係するかどうか分からないが、中学校に入ると陸上部に入った。
本当は、水泳は選手コースで練習していたので、水泳部があれば良かったのだが、なかったので陸上部を選んだようだ。
そして、たまたま速い選手が調子が悪くて、一度だけ兵庫県の郡市区駅伝の上郡のメンバーにも選んでもらった。
その頃は、加西で駅伝が行われていたので、夫婦で車に乗って応援に行った。
雪のちらつく中で、娘を待ったのだが、年頃の娘は私の構えたカメラに横を向いてしまった。
それで、手ぶれも加わって、良い写真は撮れなかった。
その後、娘は足の調子も悪くなったこともあって、高校ではテニス部に入った。
考えてみれば、私も父と朝に小学校の運動場で走る練習をしたことがある。
それは運動会前で、徒競走で一等賞になるためであった。
小学校の頃は、身長が高くて、一緒に走る組順の同級生も結構速かった。
クラスや地域のリレーの代表選手にはなっていたが、徒競走で一番になったことは一度も無い。
父に関しては、走る練習よりも、ソフトボールの練習をよくしたことを思いだす。
当時は、それほど子供の駅伝大会など無くて、長距離はあまり体育でも練習させられなかった。
近所では、時々親子でジョギングをする風景を見かける。
小学校くらいまでだったら、子供と一緒の速さで走れるのが良いのだと思う。
私は、愚犬クロとジョギングしたこともあるが、今はしっかり歩くことに努めている。
本当は孫も一緒にというところだが・・・
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