この日曜(5/26)の午前中は、畑仕事を少しやって、10時にビールを飲んで眠ってしまった。
実は、柄にもなく、前日から喉が痛かったり、くしゃみがでるなど風邪の症状が続いている。
家内の先週から症状と一緒なので、どうもうつされたらしい。
このところ、暑い日が続いているが、夜になると涼しくなる。
薄着のまま居間で寝ていたら、どうも風邪をひいたらしい。
少しの風邪の場合は、家に閉じこもる方が気が滅入る。
そこで、午後からは出かけることにしたのだが、前から気になっていた兵庫県立考古博物館の展示に行くことを考えた。
ただ、津山に行って美味しい干し肉を買いたいと思う気持ちもあった。
結局、運転手の家内に決断を迫られて、家を出て50mの地点で、博物館行きが決まった。
姫路バイパスを走っていると、高砂西で事故渋滞の電光掲示板情報が目に入った。
実は、姫路から東はバイパスを使って滅多に行くことは無いので、位置関係がよく分かっていない。
場所は明姫幹線道路沿いにあったと憶えていて、ナビも使っていないので、適当に姫路東から国道2号線に乗り換えた。
そもそも、明姫幹線道路は国道250号線だということも忘れていた。
昔は、友達が高砂にいたので、結構この道は使ったりしたのだが、ここ何年かは一年に一度通れば良いところだった。
この国道2号線はJRに沿った道で、道沿いに駅もあるので、車も結構混んでいた。
播磨町の表示を見て、南に下った時には結構時間が経っていた。
博物館の看板を見ながら、行けなかったので、コンビニでトイレ休憩して、家内がスマホで位置を確かめた。
案内に沿って、駐車場に辿り着いたが満車。
他に、駐車できるところがないか、あたりを車で回った。
ぐるぐる回って、結局戻って駐車場の空きが出来て入ることが出来た。
博物館に多くの人が来ているのかと思ったが、意外と入館者は少なかった。
この博物館の周りには緑が多くて、それを目当てに来る人が多いようだった。
縄文土器を、しっかりと見るのは初めての経験で、意外と大きいのに驚いた。
考古学の文献をそれなりに読んでいるのだが、文献だけでは伝わらない物が多いことが分かる。
写真や図ではなく、実物の持つ情報はやはり桁違いだ。
だからといって、それを分析するだけの力は私には無い。
人と通り見終わって、展望台にエレベーターで上がった。
同じ播磨地域であっても、景色はずいぶんと違う。
近くに山も海も見えず、住宅と工場が見えるだけである。
帰りは明姫幹線道路を使って帰ったが、これほど住宅は多かったのかと改めて知った。
行きは、国道二号線で、地元の人の生活の場を時間をかけて通っていった。
帰りは明姫幹線道路で、郊外のレストランや食堂の林立する所を通り過ぎていった。
津山に比べて、手頃なドライブとはなったが、同じ播磨の別の景色を再確認できた。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2019年5月27日月曜日
2019年5月26日日曜日
セルフカット(自刈り)のエキスパート
以前使っていたヘアーカッターが壊れて以来、何度も電気屋で買おうとしたが、家内の反対にあい買えなかった。
今回も、安い散髪屋へ行こうか、自分でヘアーカッターを買おうか迷った。
60歳になったから、その散髪屋は200円安くしてくれる。
しかし、いくら安くても、これから先に何度も通う時間と金はもったいない。
そこで、意を決して、電気屋に一人で行き、ヘアーカッターを買うことにした。
電気屋では、2000円ほどの物から、1万円を超える物まで、色々あった。
高い物は最初から買う気は無いので、一番安いのにするか、二番目のにするかで迷った。
3000円前後の物は、色々品数があった。
よく知られたメーカーや髭剃り機で有名なブランドものもあった。
結局、知らないメーカーだが、三種類のアタッチメントが付いている、3000円ほどの物を買うことにした。
以前リサイクルショップで買った安物は、長さの調節が上手くいかなくて失敗が多かったからだ。
早速、家に帰って、洗面所の前に立ち、セルフカットを始めた。
今回買ったヘアーカッターは長さの調節がしっかり出来る。
ただ、こしのなくなった私の髪は、アタッチメントに絡みついて美味く刈れない。
水で髪を濡らしたり、アタッチメントをカッターにつけたまま洗ったりした。
そして、何とか思うように仕上げることが出来た。
昔のように、丸刈りに近いスポーツ刈りではなくて、前髪は長めに残した。
要するに、てっぺんが薄いので、頭の横と後ろをてっぺんに合わせただけなのである。
一番、刈りづらかったのは、細い襟毛だった。
髪が伸びて、一番みっともないのは、襟毛だが、これを髭剃りで剃ると、わかめちゃん状態になる。
なんとか、一番短い長さにアタッチメントを調節して、刈ることが出来た。
家内が買い物から戻ってきたので、「散髪したで」と言うと、最初は散髪屋に行ったと勘違いして、「それは良かった」と言ってくれた。
しかし、私がそばに放っておいた、ヘアーカッターの箱を見て、「おかしいと思った」と直ぐ見破られた。
しかし、一見しては分からなかったのだから、箱を隠しておけば、下手な散髪屋でしたと誤魔化せたのかも知れない。
実は、ヘアーカッターを買おうと思ったのも、安い散髪屋では、スポーツ刈りを頼むと、殆どはさみは使わない。
「何枚にしますか」と聞かれて、バリカンで殆ど済ましてしまう。
それなら、自分でやっても良いのでは無いかと思ったのだ。
スポーツ刈りは、髪が伸びてきて、耳にかかるようになると、それが煩わしくなる。
自分で耳の周りをはさみで切るのだが、綺麗にはそろわない。
その点で言えば、ヘアーカッターなら綺麗にそろえることが出来る。
今後は、眉毛の手入れも考えねばならないだろう。
これから腕を磨いて、セルフカッターのエキスパートになろうと思う。
今回も、安い散髪屋へ行こうか、自分でヘアーカッターを買おうか迷った。
60歳になったから、その散髪屋は200円安くしてくれる。
しかし、いくら安くても、これから先に何度も通う時間と金はもったいない。
そこで、意を決して、電気屋に一人で行き、ヘアーカッターを買うことにした。
電気屋では、2000円ほどの物から、1万円を超える物まで、色々あった。
高い物は最初から買う気は無いので、一番安いのにするか、二番目のにするかで迷った。
3000円前後の物は、色々品数があった。
よく知られたメーカーや髭剃り機で有名なブランドものもあった。
結局、知らないメーカーだが、三種類のアタッチメントが付いている、3000円ほどの物を買うことにした。
以前リサイクルショップで買った安物は、長さの調節が上手くいかなくて失敗が多かったからだ。
早速、家に帰って、洗面所の前に立ち、セルフカットを始めた。
今回買ったヘアーカッターは長さの調節がしっかり出来る。
ただ、こしのなくなった私の髪は、アタッチメントに絡みついて美味く刈れない。
水で髪を濡らしたり、アタッチメントをカッターにつけたまま洗ったりした。
そして、何とか思うように仕上げることが出来た。
昔のように、丸刈りに近いスポーツ刈りではなくて、前髪は長めに残した。
要するに、てっぺんが薄いので、頭の横と後ろをてっぺんに合わせただけなのである。
一番、刈りづらかったのは、細い襟毛だった。
髪が伸びて、一番みっともないのは、襟毛だが、これを髭剃りで剃ると、わかめちゃん状態になる。
なんとか、一番短い長さにアタッチメントを調節して、刈ることが出来た。
家内が買い物から戻ってきたので、「散髪したで」と言うと、最初は散髪屋に行ったと勘違いして、「それは良かった」と言ってくれた。
しかし、私がそばに放っておいた、ヘアーカッターの箱を見て、「おかしいと思った」と直ぐ見破られた。
しかし、一見しては分からなかったのだから、箱を隠しておけば、下手な散髪屋でしたと誤魔化せたのかも知れない。
実は、ヘアーカッターを買おうと思ったのも、安い散髪屋では、スポーツ刈りを頼むと、殆どはさみは使わない。
「何枚にしますか」と聞かれて、バリカンで殆ど済ましてしまう。
それなら、自分でやっても良いのでは無いかと思ったのだ。
スポーツ刈りは、髪が伸びてきて、耳にかかるようになると、それが煩わしくなる。
自分で耳の周りをはさみで切るのだが、綺麗にはそろわない。
その点で言えば、ヘアーカッターなら綺麗にそろえることが出来る。
今後は、眉毛の手入れも考えねばならないだろう。
これから腕を磨いて、セルフカッターのエキスパートになろうと思う。
2019年5月24日金曜日
雷を恐れる犬
昨日(5/23)の夕方、私たちの住む地域は、突然の雷に襲われた。
私も職場で激しい雷雨を感じていた。
雷鳴と振動が建物に伝わった。
一瞬だが停電もした。
そのころ、家内はクロの散歩中だったそうで、急いで家に戻ったという。
クロは家に帰るなり、縁台の下に潜り込んで震えていたそうである。
仕方ないので、餌だけそばに置いてやったが、その時は食べなかったという。
本来、猟犬であるクロは、銃の音にも動じてはならない筈だ。
普段でも、大きな音に逃げ出しそうになっていたが、雷鳴に震え上がるとは・・・
家の近くは落雷もあったようで、しばらく停電していたようだ。
そういえば、以前飼っていたモモという、メスのシェルティーも雷を酷く恐れた。
ある時などは、パニックになり、緩かった首輪から抜け出して逃げてしまった。
どこへ行ったのか心配だったが、翌朝には戻ってきていた。
雷が鳴ると、逃げだしたモモのことを、よく家内と話をする。
そういえば、私自身も、幼い頃は平屋に住んでいて、雷が酷く恐かったように思う。
大人になっても、恐い人は恐いようで、昨日も職員の一人は怖がっていた。
今は、安全な建物にいると思っていると思っているから、恐がっていない。
考えてみれば、家の外の庭の小屋にいる犬は、直接稲光と雷鳴にさらされるので恐怖を感じるのだろう。
本当は、雷の時くらいは、玄関の中に入れてやるべきなのかも知れない。
今度、雷の時には入れてやりたいが、クロは非常に臭い。
というのも、体を洗われるのを極端に嫌がり、拒否をするからだ。
自分では池や溝に飛び込むくせに、ホースの水は極端に怖がる。
だから、逆に吠えてうるさい時には、水をかけて黙らせる。
私の雷も怖れている。
私も職場で激しい雷雨を感じていた。
雷鳴と振動が建物に伝わった。
一瞬だが停電もした。
そのころ、家内はクロの散歩中だったそうで、急いで家に戻ったという。
クロは家に帰るなり、縁台の下に潜り込んで震えていたそうである。
仕方ないので、餌だけそばに置いてやったが、その時は食べなかったという。
本来、猟犬であるクロは、銃の音にも動じてはならない筈だ。
普段でも、大きな音に逃げ出しそうになっていたが、雷鳴に震え上がるとは・・・
家の近くは落雷もあったようで、しばらく停電していたようだ。
そういえば、以前飼っていたモモという、メスのシェルティーも雷を酷く恐れた。
ある時などは、パニックになり、緩かった首輪から抜け出して逃げてしまった。
どこへ行ったのか心配だったが、翌朝には戻ってきていた。
雷が鳴ると、逃げだしたモモのことを、よく家内と話をする。
そういえば、私自身も、幼い頃は平屋に住んでいて、雷が酷く恐かったように思う。
大人になっても、恐い人は恐いようで、昨日も職員の一人は怖がっていた。
今は、安全な建物にいると思っていると思っているから、恐がっていない。
考えてみれば、家の外の庭の小屋にいる犬は、直接稲光と雷鳴にさらされるので恐怖を感じるのだろう。
本当は、雷の時くらいは、玄関の中に入れてやるべきなのかも知れない。
今度、雷の時には入れてやりたいが、クロは非常に臭い。
というのも、体を洗われるのを極端に嫌がり、拒否をするからだ。
自分では池や溝に飛び込むくせに、ホースの水は極端に怖がる。
だから、逆に吠えてうるさい時には、水をかけて黙らせる。
私の雷も怖れている。
2019年5月22日水曜日
庭の金柑
家の庭には金柑が一本植えてある。
何も世話もしないでも、毎年実をつけてくれている。
ただ、以前は食べてみると、水気が少なく美味しくない。
同じように放っている、赤穂の畑の金柑の方が小さくても美味しい。
だから、赤穂の畑の金柑は採ってきて、焼酎に毎年漬けている。
ところが、今年の庭の金柑は大きくて、しかもジューシーで甘い。
だから、このところ毎朝二粒ずつ食べている。
というのも、テレビ番組で毎日2粒食べて健康を保っているというのを見たからだ。
その人は、冷蔵庫に買ってきた金柑を保存していた。
売っている金柑は、高いが大きい。
きっと、ちゃんと摘果して大きくしているのだろう。
金柑に関しては、摘果してまで採ろうとは思えない。
ただ、庭の金柑は摘果しなくても、実の数は多くない。
品種のせいか、単に他の果実同様に鳥が蕾や花を食べているのか分からない。
鳥が金柑の木にも寄ってきていることは確かである。
ただ、実が熟しても鳥はあまりついばまない。
もうひとつ、金柑が美味しくなった理由として考えられるのは、愚犬クロの糞である。
庭にしたクロの糞を、以前は金柑の根元に捨てていた。
それが良い肥料になって、美味しくなったのかも知れない。
あまりそれを思うと、美味しさも半減するが、これも自然の摂理と思えば良い。
金柑は結構長持ちするので、しばらくは私のビタミン補充のサプリ代わりになるだろう。
焼酎漬けした金柑酒も美味く出来ている。
こちらは、砂糖を入れなくても十分に甘い。
さっぱりとした味わいでおすすめである。
何も世話もしないでも、毎年実をつけてくれている。
ただ、以前は食べてみると、水気が少なく美味しくない。
同じように放っている、赤穂の畑の金柑の方が小さくても美味しい。
だから、赤穂の畑の金柑は採ってきて、焼酎に毎年漬けている。
ところが、今年の庭の金柑は大きくて、しかもジューシーで甘い。
だから、このところ毎朝二粒ずつ食べている。
というのも、テレビ番組で毎日2粒食べて健康を保っているというのを見たからだ。
その人は、冷蔵庫に買ってきた金柑を保存していた。
売っている金柑は、高いが大きい。
きっと、ちゃんと摘果して大きくしているのだろう。
金柑に関しては、摘果してまで採ろうとは思えない。
ただ、庭の金柑は摘果しなくても、実の数は多くない。
品種のせいか、単に他の果実同様に鳥が蕾や花を食べているのか分からない。
鳥が金柑の木にも寄ってきていることは確かである。
ただ、実が熟しても鳥はあまりついばまない。
もうひとつ、金柑が美味しくなった理由として考えられるのは、愚犬クロの糞である。
庭にしたクロの糞を、以前は金柑の根元に捨てていた。
それが良い肥料になって、美味しくなったのかも知れない。
あまりそれを思うと、美味しさも半減するが、これも自然の摂理と思えば良い。
金柑は結構長持ちするので、しばらくは私のビタミン補充のサプリ代わりになるだろう。
焼酎漬けした金柑酒も美味く出来ている。
こちらは、砂糖を入れなくても十分に甘い。
さっぱりとした味わいでおすすめである。
2019年5月19日日曜日
強力エンジンポンプ
私は去年までは、小型のエンジンポンプを使っていた。
いい加減な管理をしていたためか、とうとう故障してしまった。
修理しようと思ったが、修理代が新品の半分ほどしたので諦めた。
結局、新品を買うこともできなくて、畑に水もやれず、ナスビの栽培は失敗した。
今年は何としてもエンジンポンプを買おうと思っていた。
そこで、ネットで調べて、ホンダのエンジンポンプをあまり考えずに買った。
前回のポンプは小さくて故障しやすいと思ったので、少し高かったが大きい物にした。
製品が届いて、梱包を解いて驚いた。
吸入口、吐出口の口径が50㎜で、今まで使っていたホースが全く使えない。
結局、吸入用と放水用と、ホースを1万円もかけて買わなくてはならなくなった。
ポンプを買う時には、口径をよく考えねばならないことを知らなかったのである。
どれも、同じだと思っていたのだが、思い起こしてみれば、田んぼに使っているのと、畑に使っているのは違っていた。
近所の人が畑で使っているポンプは、口径は25㎜である。
購入したポンプは、普通は田んぼに水をはる時などに使うポンプだった。
このところ雨が降らなかったので、ポンプを使うことにした。
以前と違うのは、燃料は混合ガソリンではない。
付いていたオイルを入れ、タンク買いをしているガソリンも入れた。
そして、エンジンをかけると、音は小さいのにすごい出力である。
以前持っていたポンプとは比べものにならない。
放水するホースも圧力が強く、水を出したままでは動かせない。
あっという間に、畑の畝は水浸しになってしまった。
一回目の体験で、今回のポンプ選びは失敗したかなと思った。
日を改めて、二回目の灌水をしたが、隣の畑の人が見物に来た。
そして、その様子を見て、「これくらい無いと駄目やな」と言われた。
その人は退職していて、私のする畑の半分くらいを、じょうろや柄杓でせっせと毎日水やりをしていた。
私のように勤めながら畑をしている者にとっては、短時間で灌水できなければならない。
しかも、元々田んぼを畑にしていて、広さもそれなりにある。
乾燥が続いた時には、畑ごと水浸しにした方が、手っ取り早いことに気がついた。
問題は、放水用のホースが20mしかないので、畦の区切りで届かない所の灌水をどうするかである。
すごい吸入力なので、細い水路の水は直ぐに干上がってしまうので、水が貯められている所から給水せねばならない。
そして、以前のように持ち運びは簡単でなく、一輪車ではホースをつけたまま持ち運べない。
そういう課題を克服せねばならないが、このポンプの購入は失敗ではなかったことが分かった。
天気の長期予想では、この夏は雨が少ないという。
このポンプで何とか乗り切りたいと思う。
いい加減な管理をしていたためか、とうとう故障してしまった。
修理しようと思ったが、修理代が新品の半分ほどしたので諦めた。
結局、新品を買うこともできなくて、畑に水もやれず、ナスビの栽培は失敗した。
今年は何としてもエンジンポンプを買おうと思っていた。
そこで、ネットで調べて、ホンダのエンジンポンプをあまり考えずに買った。
前回のポンプは小さくて故障しやすいと思ったので、少し高かったが大きい物にした。
製品が届いて、梱包を解いて驚いた。
吸入口、吐出口の口径が50㎜で、今まで使っていたホースが全く使えない。
結局、吸入用と放水用と、ホースを1万円もかけて買わなくてはならなくなった。
ポンプを買う時には、口径をよく考えねばならないことを知らなかったのである。
どれも、同じだと思っていたのだが、思い起こしてみれば、田んぼに使っているのと、畑に使っているのは違っていた。
近所の人が畑で使っているポンプは、口径は25㎜である。
購入したポンプは、普通は田んぼに水をはる時などに使うポンプだった。
このところ雨が降らなかったので、ポンプを使うことにした。
以前と違うのは、燃料は混合ガソリンではない。
付いていたオイルを入れ、タンク買いをしているガソリンも入れた。
そして、エンジンをかけると、音は小さいのにすごい出力である。
以前持っていたポンプとは比べものにならない。
放水するホースも圧力が強く、水を出したままでは動かせない。
あっという間に、畑の畝は水浸しになってしまった。
一回目の体験で、今回のポンプ選びは失敗したかなと思った。
日を改めて、二回目の灌水をしたが、隣の畑の人が見物に来た。
そして、その様子を見て、「これくらい無いと駄目やな」と言われた。
その人は退職していて、私のする畑の半分くらいを、じょうろや柄杓でせっせと毎日水やりをしていた。
私のように勤めながら畑をしている者にとっては、短時間で灌水できなければならない。
しかも、元々田んぼを畑にしていて、広さもそれなりにある。
乾燥が続いた時には、畑ごと水浸しにした方が、手っ取り早いことに気がついた。
問題は、放水用のホースが20mしかないので、畦の区切りで届かない所の灌水をどうするかである。
すごい吸入力なので、細い水路の水は直ぐに干上がってしまうので、水が貯められている所から給水せねばならない。
そして、以前のように持ち運びは簡単でなく、一輪車ではホースをつけたまま持ち運べない。
そういう課題を克服せねばならないが、このポンプの購入は失敗ではなかったことが分かった。
天気の長期予想では、この夏は雨が少ないという。
このポンプで何とか乗り切りたいと思う。
2019年5月18日土曜日
ハチク刈り2019
今年も、ハチクの季節がやってきた。
すでに、孟宗竹の筍は、道ばたの邪魔になる物などを、採ってきて食べた。
こちらは家内にアク取りからしてもらわないと、食べられない。
破竹の方は、私がシャトルシェフを使って茹でるところまでする。
アク取りをしなくて済むので、シャトルシェフで保温して一日放置すれば十分である。
そして、その茹で上がったハチクを、家内が出汁で味付けすれば済むことである。
シャトルシェフがなくても、茹でた後一日水にさらせば問題ないようだ。
竹林によって、ハチクの出る時期がずれるので、結構長期間とれる。
家内にとっても、野菜の一品として、ハチクを色々と使っている。
先日も、母親に手土産として、茹でたハチクを持って行ったら喜んでくれた。
これほど簡単なものなのに、近所の人は見向きもしない。
同じ上郡でも、山野里の方では、しっかりと食べていると聞いた。
こちらは、孟宗竹が結構多いので、その筍が人気あるからなのかも知れない。
因みに本場鹿児島では、孟宗竹の筍が一番人気が無いそうだ。
そして、イノシシはハチクの美味しさと栄養が分かっており、山際ではよく食べ散らかしている。
ただ、孟宗竹と違って集落の外れに植えてあるので、イノシシの害はあまりない。
以前、ハチクがたくさんとれた時は、色々と保存方法を考えた。
まず一つは、キムチの素に浸けて冷蔵庫に保存した。
これは、長期保存には耐えられないが、そこそこ長持ちして美味しかった。
そのほかに、酒粕付けなども試したが、あまりできは良くなかった。
そして、意外に美味かったのは、乾燥させてスルメのようにした物だ。
家には食物乾燥機があるので、それを使った低温で長時間乾燥させた。
乾燥させると味も濃くなり、ちょうどつまみに良かった。
このところ、採ってきたハチクを毎日食べて持て余しているので、今日は乾燥に回した。
たぶん、こういう食べ方は縄文時代から続いてきたのだろうと思う。
以前見た、山で暮らしている人の特集では、茹でた筍を細く切って吊して、天日干しをしていた。
乾燥させた筍は大切な保存食として、昔から利用されていたのだと思う。
竹は、以前書いたように筏のような乗り物にもなるし、食料にもなる。
そして、室井 綽氏の『ものと人間の文化史10・竹』法政大学出版局(1979)には、家や色んな道具に使われているのが分かる。
中でも、あるサンカの人々にとって、無くてはならないものだったようだ。
建材や道具の材料としては、利用されなくなっている。
考えてみれば、剣道の竹刀や茶筅等は例外的に残っている。
道具としては一部の人しか親しみが無くなってしまったのが竹である。
せめて、食料としてなら、多くの人に親しめるのが筍だと思う。
そういえば、放置竹林対策に国産メンマ作りの取り組みを始めたと聞いた。
私も、乾燥させたハチクで試してみようと思っている。
すでに、孟宗竹の筍は、道ばたの邪魔になる物などを、採ってきて食べた。
こちらは家内にアク取りからしてもらわないと、食べられない。
破竹の方は、私がシャトルシェフを使って茹でるところまでする。
アク取りをしなくて済むので、シャトルシェフで保温して一日放置すれば十分である。
そして、その茹で上がったハチクを、家内が出汁で味付けすれば済むことである。
シャトルシェフがなくても、茹でた後一日水にさらせば問題ないようだ。
竹林によって、ハチクの出る時期がずれるので、結構長期間とれる。
家内にとっても、野菜の一品として、ハチクを色々と使っている。
先日も、母親に手土産として、茹でたハチクを持って行ったら喜んでくれた。
これほど簡単なものなのに、近所の人は見向きもしない。
同じ上郡でも、山野里の方では、しっかりと食べていると聞いた。
こちらは、孟宗竹が結構多いので、その筍が人気あるからなのかも知れない。
因みに本場鹿児島では、孟宗竹の筍が一番人気が無いそうだ。
そして、イノシシはハチクの美味しさと栄養が分かっており、山際ではよく食べ散らかしている。
ただ、孟宗竹と違って集落の外れに植えてあるので、イノシシの害はあまりない。
以前、ハチクがたくさんとれた時は、色々と保存方法を考えた。
まず一つは、キムチの素に浸けて冷蔵庫に保存した。
これは、長期保存には耐えられないが、そこそこ長持ちして美味しかった。
そのほかに、酒粕付けなども試したが、あまりできは良くなかった。
そして、意外に美味かったのは、乾燥させてスルメのようにした物だ。
家には食物乾燥機があるので、それを使った低温で長時間乾燥させた。
乾燥させると味も濃くなり、ちょうどつまみに良かった。
このところ、採ってきたハチクを毎日食べて持て余しているので、今日は乾燥に回した。
たぶん、こういう食べ方は縄文時代から続いてきたのだろうと思う。
以前見た、山で暮らしている人の特集では、茹でた筍を細く切って吊して、天日干しをしていた。
乾燥させた筍は大切な保存食として、昔から利用されていたのだと思う。
竹は、以前書いたように筏のような乗り物にもなるし、食料にもなる。
そして、室井 綽氏の『ものと人間の文化史10・竹』法政大学出版局(1979)には、家や色んな道具に使われているのが分かる。
中でも、あるサンカの人々にとって、無くてはならないものだったようだ。
建材や道具の材料としては、利用されなくなっている。
考えてみれば、剣道の竹刀や茶筅等は例外的に残っている。
道具としては一部の人しか親しみが無くなってしまったのが竹である。
せめて、食料としてなら、多くの人に親しめるのが筍だと思う。
そういえば、放置竹林対策に国産メンマ作りの取り組みを始めたと聞いた。
私も、乾燥させたハチクで試してみようと思っている。
2019年5月14日火曜日
青葉の因幡路2019・青谷上寺地遺跡と「きなんせ岩美」
昼食をとった後、国道9号線を海岸に沿って、西に向かった。
その時、家内がスマホで調べて、鳥取の花が「らっきょうの花」だという話題になった。
確かに、野菜にはオクラのように綺麗な花を咲かせる物もある。
しかし、「らっきょうの花」は「ねぎぼうす」と変わらないのじゃないかと私は言った。
農家に気を遣ってこの花を指定したのかどうかは分からないが、観光に役立つとは思えなかった。
青谷上寺地遺跡に行くのに道を間違えて、青谷羽合道路に入ってしまった。
泊東郷ICで下りて、国道9号線を戻ることにした。
そして何とかたどり着いた青谷上寺地遺跡の展示館は、小さなショッピングモールの一角にあった。
中の展示はなかなか興味深い物だった。
100体もの弥生時代の遺骨と、その中の殺傷のあるもの多数。
保存状態の良い脳などが興味を引いた。
多くの遺物が当時の暮らしぶりを、表してくれていた。
ただ、これらは道路建設の際にたまたま出土したらしく、これからもっと他の地域でも丁寧に調べればもっとすごいものが出るような気がした。
こんど県立博物館で6/16~6/30まえで「おひろめ展」があるというので、また来ようと思う。
報告書はたくさん出ているが、簡単に手が出る値段ではなかった。
展示室を出て、海沿いに国道を戻っていくと、展望台に着いた。
そこで、車を停めて景色を眺めることにした。
この温泉浜村は、貝殻節の発祥の地だということで、展望台には句碑もあった。
貝殻節で思い出すのは、私が都立大学の大学院に在籍中にいた1年後輩で、鳥取出身の女子学生のことだ。
彼女は飲み会のたびに、貝殻節をリクエストされるので、唄と踊りをマスターしてきて披露してくれた。
貝殻節は、NHKの「夢千代日記」で登場して以来、全国的に有名になってしまった。
そして、どうしても鳥取日本海は、あのドラマのイメージが被さることになった。
今も人口が一番少ない県として、印象は明るくないが、道路が整備されて活気を取り戻せると思う。
帰りに海産物を買う場所として、海鮮市場の賀露にするか、道の駅「きなんせ岩美」にするか迷ったが、「きなんせ岩美」に行くことになった。
どちらも一度は行ったことがあるところだが、「きなんせ岩美」の方があまり観光化されてなくて良いと思った。
そこで鳥取市街地を通り過ぎて、岩美まで行った。
道の駅は多くの人で賑わっていた。
そこで干したカレイやエビを買った。
家内は隣のローソンでモナカアイスとお茶を買ってきて、出発前に食べた。
こういう物を食べるのは、ドライブに出たときぐらいである。
かつて、鳥取まで行くと言うことは、大旅行に思えた。
しかし、今では鳥取道を使えば片道一時間半で行くことが出来る。
これは猪名川町に蕎麦を食べに行くことより手軽なのである。
子供と一緒に鳥取砂丘に行った当時は、川沿いの長い道のりと山越えの道を長時間かけて往復した。
しかし、それはそれで記憶にしっかり残る楽しい思い出ともなっている。
子供との楽しい思い出を思い起こしながら、そして家内との新しい思い出を作りながらドライブをしている。
因みに、先日来ドライブレコーダーを利用することになった。
今回のように遠出した時は、その映像を移し替えて保存している。
ドライブが自分達では出来なくなった時に、ドライブの気分で見られればと思う。
とにかく、これから因幡路をもっと活用し、鳥取のために少しでも役に立てたらと思う。
その時、家内がスマホで調べて、鳥取の花が「らっきょうの花」だという話題になった。
確かに、野菜にはオクラのように綺麗な花を咲かせる物もある。
しかし、「らっきょうの花」は「ねぎぼうす」と変わらないのじゃないかと私は言った。
農家に気を遣ってこの花を指定したのかどうかは分からないが、観光に役立つとは思えなかった。
青谷上寺地遺跡に行くのに道を間違えて、青谷羽合道路に入ってしまった。
泊東郷ICで下りて、国道9号線を戻ることにした。
そして何とかたどり着いた青谷上寺地遺跡の展示館は、小さなショッピングモールの一角にあった。
中の展示はなかなか興味深い物だった。
100体もの弥生時代の遺骨と、その中の殺傷のあるもの多数。
保存状態の良い脳などが興味を引いた。
多くの遺物が当時の暮らしぶりを、表してくれていた。
ただ、これらは道路建設の際にたまたま出土したらしく、これからもっと他の地域でも丁寧に調べればもっとすごいものが出るような気がした。
こんど県立博物館で6/16~6/30まえで「おひろめ展」があるというので、また来ようと思う。
報告書はたくさん出ているが、簡単に手が出る値段ではなかった。
展示室を出て、海沿いに国道を戻っていくと、展望台に着いた。
そこで、車を停めて景色を眺めることにした。
この温泉浜村は、貝殻節の発祥の地だということで、展望台には句碑もあった。
貝殻節で思い出すのは、私が都立大学の大学院に在籍中にいた1年後輩で、鳥取出身の女子学生のことだ。
彼女は飲み会のたびに、貝殻節をリクエストされるので、唄と踊りをマスターしてきて披露してくれた。
貝殻節は、NHKの「夢千代日記」で登場して以来、全国的に有名になってしまった。
そして、どうしても鳥取日本海は、あのドラマのイメージが被さることになった。
今も人口が一番少ない県として、印象は明るくないが、道路が整備されて活気を取り戻せると思う。
帰りに海産物を買う場所として、海鮮市場の賀露にするか、道の駅「きなんせ岩美」にするか迷ったが、「きなんせ岩美」に行くことになった。
どちらも一度は行ったことがあるところだが、「きなんせ岩美」の方があまり観光化されてなくて良いと思った。
そこで鳥取市街地を通り過ぎて、岩美まで行った。
道の駅は多くの人で賑わっていた。
そこで干したカレイやエビを買った。
家内は隣のローソンでモナカアイスとお茶を買ってきて、出発前に食べた。
こういう物を食べるのは、ドライブに出たときぐらいである。
かつて、鳥取まで行くと言うことは、大旅行に思えた。
しかし、今では鳥取道を使えば片道一時間半で行くことが出来る。
これは猪名川町に蕎麦を食べに行くことより手軽なのである。
子供と一緒に鳥取砂丘に行った当時は、川沿いの長い道のりと山越えの道を長時間かけて往復した。
しかし、それはそれで記憶にしっかり残る楽しい思い出ともなっている。
子供との楽しい思い出を思い起こしながら、そして家内との新しい思い出を作りながらドライブをしている。
因みに、先日来ドライブレコーダーを利用することになった。
今回のように遠出した時は、その映像を移し替えて保存している。
ドライブが自分達では出来なくなった時に、ドライブの気分で見られればと思う。
とにかく、これから因幡路をもっと活用し、鳥取のために少しでも役に立てたらと思う。
2019年5月12日日曜日
青葉の因幡路2019・歴史博物館と白兎海岸
以前から鳥取に行きたかった。
それは青谷上寺地遺跡のことを、NHKのサイエンスゼロを見て、是非行ってみたいと思っていたからである。
冬場は雪が積もるので敬遠し、連休中も渋滞が予測されるので避けていた。
そこで連休の終わった後の日曜(5/12)に行くことを不意に思い立った。
家内とドライブするきっかけとして、見に行こうと思っただけなので、前もって調べることはなかった。
適当に歴史博物館でも行けば分かるだろうと思っていた。
佐用平福ICから乗った鳥取道は案の定、空いていた。
最初の目的地の鳥取市歴史博物館「やまびこ館」に行った。
青谷上寺地遺跡に関わる展示は残念ながらなかった。ただ、展示館の存在と行くルートが分かった。
奇しくも、今日の17時に鳥取西道が開通する。
朝の内に開通していてくれれば、簡単に行ける場所だった。
歴史博物館では、岡山池田家の分家筋の鳥取池田家のことが興味を引いた。
池田家は赤穂とも縁があり、姫路藩主池田輝政の子供の輝興が赤穂藩主になっている。
また閑谷学校を創始した池田輝政の孫の光政は、岡山藩主の前は鳥取藩主だった。
姫路、赤穂、岡山、鳥取や、今日通ってきた平福も池田家と関係があるところである。
国道29号線や鳥取道はある意味では、池田家の歴史をたどる道(因幡街道)とも言えることが分かった。
歴史博物館から青谷上寺地遺跡の展示館に向かった。
海岸線の国道9号を通って、道の駅「神話の里 白うさぎ」に立ち寄り、昼食にした。
二階の海に面したテーブルで、海を見ながらの贅沢な昼食になった。
おそらく、連休後の日曜だから空いていたので、普段の休日なら席の確保もままならなかっただろう。
日本海はいつ来ても、波が高い。
そして、何よりも島や対岸が見えない。
これは、瀬戸内海に育った自分には別世界に感じる。
しかし、朝鮮半島や大陸に通じる海なのである。
家内は、食事の支払いの時に、カーネーションを一輪もらって喜んでいた。
そういえば、今日は母の日であった。
私は、昨日母親に小松菜をいっぱい持って行った。
毎週土曜日に世話しに行くので、毎週(土曜が)母の日だと言い訳をしている。
しかし、心遣いという意味では、一輪の花の方が上だったのかも知れない。
それは青谷上寺地遺跡のことを、NHKのサイエンスゼロを見て、是非行ってみたいと思っていたからである。
冬場は雪が積もるので敬遠し、連休中も渋滞が予測されるので避けていた。
そこで連休の終わった後の日曜(5/12)に行くことを不意に思い立った。
家内とドライブするきっかけとして、見に行こうと思っただけなので、前もって調べることはなかった。
適当に歴史博物館でも行けば分かるだろうと思っていた。
佐用平福ICから乗った鳥取道は案の定、空いていた。
最初の目的地の鳥取市歴史博物館「やまびこ館」に行った。
青谷上寺地遺跡に関わる展示は残念ながらなかった。ただ、展示館の存在と行くルートが分かった。
奇しくも、今日の17時に鳥取西道が開通する。
朝の内に開通していてくれれば、簡単に行ける場所だった。
歴史博物館では、岡山池田家の分家筋の鳥取池田家のことが興味を引いた。
池田家は赤穂とも縁があり、姫路藩主池田輝政の子供の輝興が赤穂藩主になっている。
また閑谷学校を創始した池田輝政の孫の光政は、岡山藩主の前は鳥取藩主だった。
姫路、赤穂、岡山、鳥取や、今日通ってきた平福も池田家と関係があるところである。
国道29号線や鳥取道はある意味では、池田家の歴史をたどる道(因幡街道)とも言えることが分かった。
歴史博物館から青谷上寺地遺跡の展示館に向かった。
海岸線の国道9号を通って、道の駅「神話の里 白うさぎ」に立ち寄り、昼食にした。
二階の海に面したテーブルで、海を見ながらの贅沢な昼食になった。
おそらく、連休後の日曜だから空いていたので、普段の休日なら席の確保もままならなかっただろう。
日本海はいつ来ても、波が高い。
そして、何よりも島や対岸が見えない。
これは、瀬戸内海に育った自分には別世界に感じる。
しかし、朝鮮半島や大陸に通じる海なのである。
家内は、食事の支払いの時に、カーネーションを一輪もらって喜んでいた。
そういえば、今日は母の日であった。
私は、昨日母親に小松菜をいっぱい持って行った。
毎週土曜日に世話しに行くので、毎週(土曜が)母の日だと言い訳をしている。
しかし、心遣いという意味では、一輪の花の方が上だったのかも知れない。
2019年5月11日土曜日
竹筏SUP計画
室井 綽氏の『ものと人間の文化史10・竹』法政大学出版局(1979)を読んで、色々と竹に関して新しい発見をした。
そもそも、室井 綽氏は赤穂市出身で、上郡農学校出身である。
兵庫県の高校で教鞭を執られたし、姫路学院女子短大教授もなされたので兵庫県とは縁のある方だ。
そういう方を、この本を手にするまでは全く知らなかった。
小さい頃から竹とは関わりが多かったが、竹がいったいどんなものか考えてもみなかった。
そもそも、イネ科ということだが、草なのか木なのかという定義さえ決着していないそうだ。
実は、私がよく調査の関係で通った鹿児島県は、竹との関わりが深い地方である。
そういう縁もありながら、今まで調べてみようとも思っていなかった。
竹を調べてみようと思ったのは、竹の由来や利用法が、考古学の研究に役に立つのでは無いかと思ったからだ。
実は、私は小学生の時に、夏休みの工作として、竹を用いた筏と紙粘土の人形を組み合わせた作品を友達と作った。
竹を用いたのは、千種川の河原に生えていた真竹を自由にとれたからだ。
私の父親にも手伝ってもらって、長さ1m、幅50cm程の大作になった。
この夏休みの作品は、赤穂市の市民文化祭にも出展してもらい、教育委員会賞を頂いた。
最近、考古学の文献を読んでいて、人類が海を渡る道具として、竹の筏を用いたのではないかと考えられていることを知った。
縄文時代からの竹の利用は知られているが、旧石器時代はどうだったのか知りたいと思った。
今でも、竹の筏は牡蠣の養殖に使われたりする。
海水にも強いし、竹で作った綱もあることを、室井氏の本からも知った。
海部陽介氏も「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」で、竹も昨年台湾で試している。
ネットで調べてみれば、竹筏は日本に限らず海外でも、実用的にも娯楽的にも現代でも用いられている。
竹林が放置されて問題になっているので、その活用方法の一つとして竹筏が良いかもしれない。
SUPも竹筏を使えばもっと簡単になるだろうと思う。
竹筏SUPで「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」に対抗してみよう・・・
そもそも、室井 綽氏は赤穂市出身で、上郡農学校出身である。
兵庫県の高校で教鞭を執られたし、姫路学院女子短大教授もなされたので兵庫県とは縁のある方だ。
そういう方を、この本を手にするまでは全く知らなかった。
小さい頃から竹とは関わりが多かったが、竹がいったいどんなものか考えてもみなかった。
そもそも、イネ科ということだが、草なのか木なのかという定義さえ決着していないそうだ。
実は、私がよく調査の関係で通った鹿児島県は、竹との関わりが深い地方である。
そういう縁もありながら、今まで調べてみようとも思っていなかった。
竹を調べてみようと思ったのは、竹の由来や利用法が、考古学の研究に役に立つのでは無いかと思ったからだ。
実は、私は小学生の時に、夏休みの工作として、竹を用いた筏と紙粘土の人形を組み合わせた作品を友達と作った。
竹を用いたのは、千種川の河原に生えていた真竹を自由にとれたからだ。
私の父親にも手伝ってもらって、長さ1m、幅50cm程の大作になった。
この夏休みの作品は、赤穂市の市民文化祭にも出展してもらい、教育委員会賞を頂いた。
最近、考古学の文献を読んでいて、人類が海を渡る道具として、竹の筏を用いたのではないかと考えられていることを知った。
縄文時代からの竹の利用は知られているが、旧石器時代はどうだったのか知りたいと思った。
今でも、竹の筏は牡蠣の養殖に使われたりする。
海水にも強いし、竹で作った綱もあることを、室井氏の本からも知った。
海部陽介氏も「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」で、竹も昨年台湾で試している。
ネットで調べてみれば、竹筏は日本に限らず海外でも、実用的にも娯楽的にも現代でも用いられている。
竹林が放置されて問題になっているので、その活用方法の一つとして竹筏が良いかもしれない。
SUPも竹筏を使えばもっと簡単になるだろうと思う。
竹筏SUPで「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」に対抗してみよう・・・
2019年5月6日月曜日
去り逝くプール仲間
半年ぶりにプールに泳ぎに行った。
去年の9月までスイミングスクールの指導員をしていて、嫌という程水に入っていた。
辞める前には体調を崩していたこともあって、しばらくはプールに行く気がしなかった。
しかし、一緒にマスターズで練習したり、大会に行ったNさんの死を町の広報で知って、プールに行きたいとずっと思っていた。
Nさんは最近までマスターズ大会で大活躍していたので、地元のプールに行けばそのことを知っている人に会えると思ったからだ。
プールに行くとちょうど、Nさんをよく知っている職員に会えた。
そして、Nさんが練習中に、クモ膜下出血でプールで亡くなったことを知った。
Nさんは元々上郡のマスターズチームのメンバーだったが、上郡のチームが無くなったので、近隣のプールのチームに変わっていた。
Nさんは高校生までは、陸上選手で水泳はできなかった。
60歳くらいで水泳を習い始めて、熱心に練習して、特に背泳が得意であった。
上郡のチームで一緒に練習していた頃は、若い人に混じって練習するのは大変そうだったが、休まず練習に来ていた。
娘さんが若くして突然亡くなった時、しばらくプールには顔を見せなかった。
そして、プールに戻ってきて、それまで以上に練習するようになった。
その時、Nさんは「辛い気持ちも、水泳で救われた」と言っていた。
去年も上郡のプールでも練習しに来ていたので話をしたが、色んな大会に出て充実した水泳人生を送っていると思っていた。
それが、77歳という、女性としてはまだ若い年齢で亡くなったのを知り、私は非常に困惑した。
健康のために泳いでいるはずの人が、ひょっとして水泳以外の事故で亡くなったのでは無いかと思った。
しかし、今回、水泳が関係していることを知って、大会での活躍が負担になってしまったのではないかと思った。
他にも、Nさんよりも10歳ほど若い仲間の死も知った。
一人は、学生時代全国大会にも出場していたスイマーで、上郡のスイミングの所長をしていたIさん。
彼のおかげで、マスターズチームが活動できた。
以前から糖尿病を患っていることは知っていた。
もう一人も60歳半ばの男性で、オープンウォーターの大会に出ていたFさん。
大会に一緒に出たことは無かったが、プールで一緒に練習したり、話をよくした人だった。
Fさんから膵臓癌のことは聞いていたが、なんとか手術で助かって欲しいと思っていた。
Fさんは、地元の自治会などで忙しく活動しておられた。
練習も誰よりも熱心だった。
私にとってプール仲間は、仕事と関係なく、気楽に関われる人だった。
会員になる資格はプールの年間会員であることくらいで、特別な指導料は無かった。
正式な練習は、土曜日の6時からだったが、仲間はそれ以外にも一緒に練習した。
地元の上郡だけでなく、近隣に働いている人や住んでいる人、コーチの指導を受けたくて姫路から来ている人もいた。
練習の折りにも、プールサイドで休憩中に水泳に関係ない話もよくした。
また、大会に一緒に行って、その帰りには祝勝会で楽しんだ。
また、仲間の別荘にみんなで寄り合って、一晩過ごしたこともある。
忘年会や、コーチの送別会などが開かれたりして、関係が深かった。
私にとっては水泳部顧問とは全く違う、まさしく心を救ってくれる場であった。
今日も泳いだ後の帰りがけに、いつものプール仲間に久しぶりに会った。
元スキーの国体選手であり画家のTさんは、いつもがむしゃらな練習をする人だ。
Tさんは、今回の仲間の死に関して、プールで死ねたら本望だと言う。
そばにいる人にとっては、確かに迷惑なことかも知れない。
ただ、彼がそういう理由もよく分かっている。
年老いた母と二人暮らしの今のTさんにとって、水泳練習が心を支えてくれている。
私も、いつも水泳は”swim to remember,swim to forget"なのである。
泳いでいない時というのは、たいてい自分を失っている時だと気づいている。
亡くなった仲間をたまには思い出しながら、これからも泳ぎ続けようと思う。
去年の9月までスイミングスクールの指導員をしていて、嫌という程水に入っていた。
辞める前には体調を崩していたこともあって、しばらくはプールに行く気がしなかった。
しかし、一緒にマスターズで練習したり、大会に行ったNさんの死を町の広報で知って、プールに行きたいとずっと思っていた。
Nさんは最近までマスターズ大会で大活躍していたので、地元のプールに行けばそのことを知っている人に会えると思ったからだ。
プールに行くとちょうど、Nさんをよく知っている職員に会えた。
そして、Nさんが練習中に、クモ膜下出血でプールで亡くなったことを知った。
Nさんは元々上郡のマスターズチームのメンバーだったが、上郡のチームが無くなったので、近隣のプールのチームに変わっていた。
Nさんは高校生までは、陸上選手で水泳はできなかった。
60歳くらいで水泳を習い始めて、熱心に練習して、特に背泳が得意であった。
上郡のチームで一緒に練習していた頃は、若い人に混じって練習するのは大変そうだったが、休まず練習に来ていた。
娘さんが若くして突然亡くなった時、しばらくプールには顔を見せなかった。
そして、プールに戻ってきて、それまで以上に練習するようになった。
その時、Nさんは「辛い気持ちも、水泳で救われた」と言っていた。
去年も上郡のプールでも練習しに来ていたので話をしたが、色んな大会に出て充実した水泳人生を送っていると思っていた。
それが、77歳という、女性としてはまだ若い年齢で亡くなったのを知り、私は非常に困惑した。
健康のために泳いでいるはずの人が、ひょっとして水泳以外の事故で亡くなったのでは無いかと思った。
しかし、今回、水泳が関係していることを知って、大会での活躍が負担になってしまったのではないかと思った。
他にも、Nさんよりも10歳ほど若い仲間の死も知った。
一人は、学生時代全国大会にも出場していたスイマーで、上郡のスイミングの所長をしていたIさん。
彼のおかげで、マスターズチームが活動できた。
以前から糖尿病を患っていることは知っていた。
もう一人も60歳半ばの男性で、オープンウォーターの大会に出ていたFさん。
大会に一緒に出たことは無かったが、プールで一緒に練習したり、話をよくした人だった。
Fさんから膵臓癌のことは聞いていたが、なんとか手術で助かって欲しいと思っていた。
Fさんは、地元の自治会などで忙しく活動しておられた。
練習も誰よりも熱心だった。
私にとってプール仲間は、仕事と関係なく、気楽に関われる人だった。
会員になる資格はプールの年間会員であることくらいで、特別な指導料は無かった。
正式な練習は、土曜日の6時からだったが、仲間はそれ以外にも一緒に練習した。
地元の上郡だけでなく、近隣に働いている人や住んでいる人、コーチの指導を受けたくて姫路から来ている人もいた。
練習の折りにも、プールサイドで休憩中に水泳に関係ない話もよくした。
また、大会に一緒に行って、その帰りには祝勝会で楽しんだ。
また、仲間の別荘にみんなで寄り合って、一晩過ごしたこともある。
忘年会や、コーチの送別会などが開かれたりして、関係が深かった。
私にとっては水泳部顧問とは全く違う、まさしく心を救ってくれる場であった。
今日も泳いだ後の帰りがけに、いつものプール仲間に久しぶりに会った。
元スキーの国体選手であり画家のTさんは、いつもがむしゃらな練習をする人だ。
Tさんは、今回の仲間の死に関して、プールで死ねたら本望だと言う。
そばにいる人にとっては、確かに迷惑なことかも知れない。
ただ、彼がそういう理由もよく分かっている。
年老いた母と二人暮らしの今のTさんにとって、水泳練習が心を支えてくれている。
私も、いつも水泳は”swim to remember,swim to forget"なのである。
泳いでいない時というのは、たいてい自分を失っている時だと気づいている。
亡くなった仲間をたまには思い出しながら、これからも泳ぎ続けようと思う。
2019年5月5日日曜日
久しぶりのSUP
今日(5/4)は、一人赤穂に行って、実家の母の様子を見た後で、SUPに行く予定にしていた。
軽トラにはSUPの道具、パラソル、水タンクと草刈り機、収穫用のコンテナを積んで出かけた。
まず畑へ行きタマネギを少し採って、その幾つかを実家への手土産にする。
実家の庭が草だらけになっていたので、刈るだけの予定で行ったのだが、結局庭木の手入れもせねばならなくなった。
母としばらく話してから、いつもSUPの練習をしている鷏和の恋ヶ浜(綱崎)に向かった。
海岸ではいつものように、若い人たちがジェットスキーをして楽しんでいる。
実は去年はSUPを一度もすることが無かった。
新しい仕事に慣れるのに必死で、SUPをする余裕などなかった。
しまい込んでいた道具を出すと、2年前に片付け忘れていた物が色々と出てきた。
ただ、ウェットスーツだけは、去年は仕事でカヌーをするのに使っていて、ちゃんとしまってあった。
海に入ると思った以上に海水は冷たい。
波や風も少々あり、正座と膝立ちでこぎ始めた。
私はまだ、立って漕ぐことはまともに出来ない。
久しぶりにも関わらず、体がバランスを覚えてくれていて、座った状態なら上手く漕ぎ出すことが出来た。
沖の方を眺めると、ゴムボートらしき物に乗った人たちが見えた。
まだ、SUPには自信が無いので、遠くまでは行けないのだが、ボートが沖にいるのを見ると安心して漕ぎ出せた。
ジェットスキーは、自分には別世界の人たちというイメージがあるが、ゴムボートなどには親しみを感じる。
ただ、岸に戻ってきたのを見ると、船外機がつけてあったので、仲間という意識は失せてしまった。
相変わらず、ジェットスキーは爆音を響かせて、沖合を駆け抜けている。
一人寂しくSUPというのも心細いし、少々うるさいが見るのはそれなりに面白い。
彼らの目には自分はどう映るんだろうかといつも思う。
そもそも座ったままでしか漕げないので、様にはなっていないのが悔しい。
ただ、波に揺られながら、のんびりボードの上で横になったりして楽しんでもいる。
ジェットスキーヤーには子連れの人もいて、前に乗せて楽しませてあげている。
私は子供はのんびりしたSUPも喜ぶと思ったりもする。
今回は、膝立ちをして漕ぐ練習を多くした。
あぐらをかいて漕ぐのは楽なのであるが、お尻が水をかぶって冷えるので、今日は長くは出来ない。
こういう季節で長い時間漕ぐには、膝立ちや立つ方が良い。
その立つことにつなげるためには、膝立ちでバランスを取る練習なのだ。
少し波があるので、膝立ちでもそこそこ難しい。
海に出ては浜に戻って休憩の繰り返しだが、今回は弁当持参である。
途中のコンビニでノンアルコールビールと弁当、唐揚げを買ってきていた。
海を眺めながらの食事は最高である。
以前ALTのメグさんと、ここにSUPをしに来たときには、おにぎりとバナナだけだったが、それでも美味かった。
午後からは、サーフィンと同じように、パドリングの練習もしたりした。
私は水泳の経験があるので、下手をするとパドルを使うより速いときもある。
ただ、ローリングが出来ないので、肩に負担がかかって少々痛い。
休憩で浜に戻ると、ボードがベッド代わりになる。
持ってきたパラソルを立てて、顔は陰にして、体は陽で温める。
ゆっくりとした時間が流れていった。
若い時なら、ひとりぼっちで海辺で寝そべっていたら孤独を感じただろう。
そばに彼女でもいて欲しいと切に思っただろう。
60を過ぎた爺さんは、そういうロマンに焦がれる力も削がれている。
その代わり、子供の頃のように、海の魚が泳いだり跳ねるのや、白鷺が餌を採っているのを見ていても楽しい。
確かに気の合った仲間と楽しめたらと思うが、一人気ままに過ごすのも悪くない。
この3月まで職場で一緒だった一つ歳上の方は、シーカヤック好きで一人で色々と出かけると言っていた。
「一人で海に漕ぎ出すのは不安では無いのですか」と尋ねたら、「一人の方が気楽で良い」と言われた。
今年から完全退職なので、きっとカヤックを思い切り楽しんでいるだろう。
私もそろそろ、恋ヶ浜以外でもやろうとは思っている。
ただ、この生まれ故郷にある恋ヶ浜は母港であり、一番落ち着ける場所である。
軽トラにはSUPの道具、パラソル、水タンクと草刈り機、収穫用のコンテナを積んで出かけた。
まず畑へ行きタマネギを少し採って、その幾つかを実家への手土産にする。
実家の庭が草だらけになっていたので、刈るだけの予定で行ったのだが、結局庭木の手入れもせねばならなくなった。
母としばらく話してから、いつもSUPの練習をしている鷏和の恋ヶ浜(綱崎)に向かった。
海岸ではいつものように、若い人たちがジェットスキーをして楽しんでいる。
実は去年はSUPを一度もすることが無かった。
新しい仕事に慣れるのに必死で、SUPをする余裕などなかった。
しまい込んでいた道具を出すと、2年前に片付け忘れていた物が色々と出てきた。
ただ、ウェットスーツだけは、去年は仕事でカヌーをするのに使っていて、ちゃんとしまってあった。
海に入ると思った以上に海水は冷たい。
波や風も少々あり、正座と膝立ちでこぎ始めた。
私はまだ、立って漕ぐことはまともに出来ない。
久しぶりにも関わらず、体がバランスを覚えてくれていて、座った状態なら上手く漕ぎ出すことが出来た。
沖の方を眺めると、ゴムボートらしき物に乗った人たちが見えた。
まだ、SUPには自信が無いので、遠くまでは行けないのだが、ボートが沖にいるのを見ると安心して漕ぎ出せた。
ジェットスキーは、自分には別世界の人たちというイメージがあるが、ゴムボートなどには親しみを感じる。
ただ、岸に戻ってきたのを見ると、船外機がつけてあったので、仲間という意識は失せてしまった。
相変わらず、ジェットスキーは爆音を響かせて、沖合を駆け抜けている。
一人寂しくSUPというのも心細いし、少々うるさいが見るのはそれなりに面白い。
彼らの目には自分はどう映るんだろうかといつも思う。
そもそも座ったままでしか漕げないので、様にはなっていないのが悔しい。
ただ、波に揺られながら、のんびりボードの上で横になったりして楽しんでもいる。
ジェットスキーヤーには子連れの人もいて、前に乗せて楽しませてあげている。
私は子供はのんびりしたSUPも喜ぶと思ったりもする。
今回は、膝立ちをして漕ぐ練習を多くした。
あぐらをかいて漕ぐのは楽なのであるが、お尻が水をかぶって冷えるので、今日は長くは出来ない。
こういう季節で長い時間漕ぐには、膝立ちや立つ方が良い。
その立つことにつなげるためには、膝立ちでバランスを取る練習なのだ。
少し波があるので、膝立ちでもそこそこ難しい。
海に出ては浜に戻って休憩の繰り返しだが、今回は弁当持参である。
途中のコンビニでノンアルコールビールと弁当、唐揚げを買ってきていた。
海を眺めながらの食事は最高である。
以前ALTのメグさんと、ここにSUPをしに来たときには、おにぎりとバナナだけだったが、それでも美味かった。
午後からは、サーフィンと同じように、パドリングの練習もしたりした。
私は水泳の経験があるので、下手をするとパドルを使うより速いときもある。
ただ、ローリングが出来ないので、肩に負担がかかって少々痛い。
休憩で浜に戻ると、ボードがベッド代わりになる。
持ってきたパラソルを立てて、顔は陰にして、体は陽で温める。
ゆっくりとした時間が流れていった。
若い時なら、ひとりぼっちで海辺で寝そべっていたら孤独を感じただろう。
そばに彼女でもいて欲しいと切に思っただろう。
60を過ぎた爺さんは、そういうロマンに焦がれる力も削がれている。
その代わり、子供の頃のように、海の魚が泳いだり跳ねるのや、白鷺が餌を採っているのを見ていても楽しい。
確かに気の合った仲間と楽しめたらと思うが、一人気ままに過ごすのも悪くない。
この3月まで職場で一緒だった一つ歳上の方は、シーカヤック好きで一人で色々と出かけると言っていた。
「一人で海に漕ぎ出すのは不安では無いのですか」と尋ねたら、「一人の方が気楽で良い」と言われた。
今年から完全退職なので、きっとカヤックを思い切り楽しんでいるだろう。
私もそろそろ、恋ヶ浜以外でもやろうとは思っている。
ただ、この生まれ故郷にある恋ヶ浜は母港であり、一番落ち着ける場所である。
2019年5月4日土曜日
平成の後片付け
平成が終わった。
私が赤穂から上郡の今の新居に移ったのは平成5年であった。
新しく令和が始まるからというのでは無いが、この10連休を利用して家の周りを片付けた。
そしたら、外に置いていたキッチンワゴンテーブルの引き出しから、ディズニーランドの一日パスポート券が出てきた。
’97.8.22(平成9年)の子供用二枚で、おそらく子供のために記念にとっておいたんだと思う。
このディズニーランドで家族で過ごしたのは、家内の弟の結婚式に行くついであった。
家族4人で色々出かけたが、4人だけでホテルに泊まった旅行は、今のところこれっきりである。
懐かしいと思いつつ、今回は思い出に浸っている場合でも無い。
何せ、片付けせねばならないものが山積みなのである。
家内に言わせればゴミを拾ってくるという。
たぶん、実家から持って帰ってきた、父が使っていた自転車や、大工道具のことを言っているだろう。
私は使うつもりで持って帰ったのだが、結果的にはあまり使っていない。
しかし、捨てるには忍びないので、家の周りの片隅に置いてある。
とにかく私はなかなか捨てることが出来ない性格で、家の周りが酷い状態になっていた。
それも、ここ数日の片付けによって幾分は見られるようになった。
家の周りは少しは片付いたが、家の中には平成の時代物がいっぱいある。
私はほぼ平成が、教員生活に匹敵する。
昭和の終わりに教師になり、平成の終わりに早期退職をした。
因みに今度の天皇陛下は、学年としては私と同じである。
60間近になって、本来の役目に就かれるというのも、考えさせられる。
私は、60前に退職をして、第二の人生を考えている。
第二の人生を、本来の役目にすることが出来るのか?
いや、天皇陛下を見習うなら、自分も本来の役目に就くべきなのだろう!
このところ、若かりし頃の暮らしを懐かしみ、この先の老後を憂うことが多かった。
令和になったことで、その平成の暮らしに区切りをつけ、新しい暮らしを築く必要があると思うことにした。
私が赤穂から上郡の今の新居に移ったのは平成5年であった。
新しく令和が始まるからというのでは無いが、この10連休を利用して家の周りを片付けた。
そしたら、外に置いていたキッチンワゴンテーブルの引き出しから、ディズニーランドの一日パスポート券が出てきた。
’97.8.22(平成9年)の子供用二枚で、おそらく子供のために記念にとっておいたんだと思う。
このディズニーランドで家族で過ごしたのは、家内の弟の結婚式に行くついであった。
家族4人で色々出かけたが、4人だけでホテルに泊まった旅行は、今のところこれっきりである。
懐かしいと思いつつ、今回は思い出に浸っている場合でも無い。
何せ、片付けせねばならないものが山積みなのである。
家内に言わせればゴミを拾ってくるという。
たぶん、実家から持って帰ってきた、父が使っていた自転車や、大工道具のことを言っているだろう。
私は使うつもりで持って帰ったのだが、結果的にはあまり使っていない。
しかし、捨てるには忍びないので、家の周りの片隅に置いてある。
とにかく私はなかなか捨てることが出来ない性格で、家の周りが酷い状態になっていた。
それも、ここ数日の片付けによって幾分は見られるようになった。
家の周りは少しは片付いたが、家の中には平成の時代物がいっぱいある。
私はほぼ平成が、教員生活に匹敵する。
昭和の終わりに教師になり、平成の終わりに早期退職をした。
因みに今度の天皇陛下は、学年としては私と同じである。
60間近になって、本来の役目に就かれるというのも、考えさせられる。
私は、60前に退職をして、第二の人生を考えている。
第二の人生を、本来の役目にすることが出来るのか?
いや、天皇陛下を見習うなら、自分も本来の役目に就くべきなのだろう!
このところ、若かりし頃の暮らしを懐かしみ、この先の老後を憂うことが多かった。
令和になったことで、その平成の暮らしに区切りをつけ、新しい暮らしを築く必要があると思うことにした。
2019年5月3日金曜日
グリーンエリア
私が学んだ南山大学にはグリーンエリアという、広い芝生の広場が正門から入って少し歩いたところにあった。
大学は丘陵を利用して建築されたもので、校舎もその起伏が利用されていた。
グリーンエリアはなだらかな谷間という感じで、噴水も備えられていた。
芝生はよく手入れがされていて、昼休みなどの休み時間には学生が、芝生の上で自由に過ごした。
そして、学校の行事にも利用され、大学祭以外でも受難劇もここで行われた。
そこで一緒に時間を過ごしたのは、同じクラブや学科の仲間であったが、季節の良い時にはゼミもそこで行うこともあった。
特に今のような若葉の季節には、芝生に寝転んで、私はそのまま寝てしまうこともあった。
私は、他に20代半ばでは東京都立大学(首都大学東京)、40代後半では兵庫教育大学の院生として過ごしたが、こんな学生が憩える芝生は無かった。
兵庫教育大学も丘陵に建てられたものであったので、似たような環境だったが、こんなに広い芝生は無かった。
その代わり、広大な駐車場があって、車で通学していたので、車の中で昼寝したりした。
ただ、周りは森林であったので、一人で弁当を持ち込んでそこで食べたりもした。
さながら森に引き籠もった、世捨て人の感じだった。
南山大学は、決して本意の大学ではなかったが、一番自分の肌に合った大学で、ここで学べて良かったと今は思っている。
この初夏の良い季節になると、グリーエリアで過ごした時間や仲間のことを思い出す。
それを思い出させてくれるのは、我が家の庭の小さなグリーンエリア擬きである。
芝生は無く雑草に覆われているけれど、遠くの若葉の山々が見える場所で、ビールを飲んで昼寝ができる。
ただ、ご近所さんに生け垣越しに「タケノコいらんか?」と不意に声かけられて、現実に引き戻されもするけれど・・・
大学は丘陵を利用して建築されたもので、校舎もその起伏が利用されていた。
グリーンエリアはなだらかな谷間という感じで、噴水も備えられていた。
芝生はよく手入れがされていて、昼休みなどの休み時間には学生が、芝生の上で自由に過ごした。
そして、学校の行事にも利用され、大学祭以外でも受難劇もここで行われた。
そこで一緒に時間を過ごしたのは、同じクラブや学科の仲間であったが、季節の良い時にはゼミもそこで行うこともあった。
特に今のような若葉の季節には、芝生に寝転んで、私はそのまま寝てしまうこともあった。
私は、他に20代半ばでは東京都立大学(首都大学東京)、40代後半では兵庫教育大学の院生として過ごしたが、こんな学生が憩える芝生は無かった。
兵庫教育大学も丘陵に建てられたものであったので、似たような環境だったが、こんなに広い芝生は無かった。
その代わり、広大な駐車場があって、車で通学していたので、車の中で昼寝したりした。
ただ、周りは森林であったので、一人で弁当を持ち込んでそこで食べたりもした。
さながら森に引き籠もった、世捨て人の感じだった。
南山大学は、決して本意の大学ではなかったが、一番自分の肌に合った大学で、ここで学べて良かったと今は思っている。
この初夏の良い季節になると、グリーエリアで過ごした時間や仲間のことを思い出す。
それを思い出させてくれるのは、我が家の庭の小さなグリーンエリア擬きである。
芝生は無く雑草に覆われているけれど、遠くの若葉の山々が見える場所で、ビールを飲んで昼寝ができる。
ただ、ご近所さんに生け垣越しに「タケノコいらんか?」と不意に声かけられて、現実に引き戻されもするけれど・・・
2019年5月1日水曜日
千種水汲み2019春
4月28日の日曜日の午後から、千種に水を汲みに出かけた。
10連休の二日目で、交通情報では渋滞の様子が流されていた。
千種に行く時に渋滞に遭うのは、南光町のひまわり祭の時くらいである。
いつものように、車の量は多くは無かった。
ただ、南光町のキャンプ場では家族連れの立派なテントがいっぱい張ってあった。
ホテルで高いお金を使うより、安くてゆっくりできるキャンプが人気あるのが分かる。
我が家でも、夏場は子供の小さい頃は千種高原でキャンプしたりした。
この南光町のキャンプ場には、弟の家族と一緒に、水遊びをしに来たこともある。
今は、まだ肌寒いこの季節から、多くの家族がキャンプを楽しんでいる。
普段都会の中で暮らしている人にとって、新緑の中で過ごすだけでも、楽しいことなのだろうと思う。
千種の町についた頃から、山の景色は変わってしまった。
上郡の数週間前の風景に逆戻りなのである。
まだ緑は薄く、山桜が咲いていた。
ただ、八重桜も咲いていて、桜を楽しむことが出来た。
ところが、いざ水をくみ始めると思わぬ寒さにびっくり。
家内は日頃から寒さに弱いので、寒い寒いと言い続けていた。
陽が照っていれば、これほど寒くは無かったのだろう。
やはり千種は千種なのである・・・
10連休の二日目で、交通情報では渋滞の様子が流されていた。
千種に行く時に渋滞に遭うのは、南光町のひまわり祭の時くらいである。
いつものように、車の量は多くは無かった。
ただ、南光町のキャンプ場では家族連れの立派なテントがいっぱい張ってあった。
ホテルで高いお金を使うより、安くてゆっくりできるキャンプが人気あるのが分かる。
我が家でも、夏場は子供の小さい頃は千種高原でキャンプしたりした。
この南光町のキャンプ場には、弟の家族と一緒に、水遊びをしに来たこともある。
今は、まだ肌寒いこの季節から、多くの家族がキャンプを楽しんでいる。
普段都会の中で暮らしている人にとって、新緑の中で過ごすだけでも、楽しいことなのだろうと思う。
千種の町についた頃から、山の景色は変わってしまった。
上郡の数週間前の風景に逆戻りなのである。
まだ緑は薄く、山桜が咲いていた。
ただ、八重桜も咲いていて、桜を楽しむことが出来た。
ところが、いざ水をくみ始めると思わぬ寒さにびっくり。
家内は日頃から寒さに弱いので、寒い寒いと言い続けていた。
陽が照っていれば、これほど寒くは無かったのだろう。
やはり千種は千種なのである・・・
曜変天目茶碗と鳥獣戯画
平成最後の日、家内と電車に乗って出かけた。
当初の目的は、大阪の香雪美術館で「鳥獣戯画」と「明恵」の特別展を観る予定だった。
家内はこのために「朝日友の会」に入会して、招待券を一枚手に入れていたからである。
そして前もって日にちを決めて、家内は「春の関西1デイパス」を買ってくれていた。
これがあると、つい欲が出て遠くへ足を伸ばしてしまう。
今回も、早く家を出ることが出来たので、奈良まで行くことにした。
奈良では国立博物館で「藤田美術館展」が開かれ、特に「曜変天目茶碗」を家内は観たがっていた。
私は、学芸員の資格を持っていながら、あまり博物館や美術館には足を運ばなかった。
最近は家内と出かける目的が、美術館や博物館に行くということが多くなった。
夫婦によっては、一緒に宝塚歌劇やコンサートを観に行く人もいる。
残念ながら、私と家内とは演劇や音楽では趣向がかなり違う。
趣向を何とか合わせられるのが、美術品や歴史的展示物ということなのである。
大阪から大和路快速に乗ると、車内は国際色豊かになった。
前の席には白人の女性と男性が座ることになった。
隣の席でも、ラテン系の男女が4~5人、賑やかに話している。
欧米の人たちの独特の香水の匂いが、車内いっぱいに充満していた。
奈良駅に11時半に着いて、少し早いが、まずは昼ご飯を食べることにした。
この選択は正解であったことを、後に分かった。
せっかく奈良まで来て、奈良の名物を食べれば良いのだが、前回同様の駅にある和食チェーン店で定食を食べた。
バスに乗って博物館まで向かったのだが、途中で道が渋滞して動かなくなった。
会場までは遠くないので、一つ前の停留所で降りて歩いた。
時間からすれば、もう一つ前の停留所で降りた方が良かったように思う。
博物館の二階の展示場に入ってまず驚いた。
すごい列が出来ている。
曜変天目茶碗を最前列で観るための列なのである。
最前列で観るためには一時間ほどかかるという。
大阪に戻って、香雪美術館に行こうと思っていたので、最初は諦めた。
しかし、展示物をざっと見終えると、やはりせっかくここまで来たのだからと思い、並ぶことにした。
最前列でないなら人越しに観ることも出来るが、背の低い家内には見えそうにないと思ったののも大きな理由である。
家内は済まなそうに言ったが、自分としてもこの機会にしっかりと観ておきたかった。
一時間も並んで観た茶碗は、期待が大きかっただけに少しがっかりした。
思った程の輝きや色を見せてくれるものでは無かったからである。
ただ、画像や映像ではなく、実物を間近に見ることそのものに価値があるのだろう。
そもそも、この茶碗は家康が水戸徳川家に授けて、それを後に藤田平太郎が手に入れたものだという。
藤田平太郎の父親伝三郎は、元長州の商人で児島湾干拓でも有名である。
閑谷学校に勤めていた頃、藤田中学校が宿泊研修に来たが、その藤田は彼に因んだものであるという。
親子とも実業家で、美術収集家であった。
茶碗が時の権力者や富豪の手に移り、その展示を庶民が高い拝観料で一時間も並んで観る。
そういえば、去年行われた村のご開帳でも、村人は高い寄付金を要求され、たまたま隣保長にあたった我が家は奉仕を求められた。
ご開帳される仏像が、寄付による寺の修理を可能にした。
それと同じように、この茶碗は藤田美術館の改築にどれだけ役に立つのだろう。
庶民にとって、仏像も茶碗もありがたいものを、身銭を切って拝むということで同じだと思うと滑稽で愉快に思えた。
ただ違うのは、その価値を与えるのは、一方では権力と富と結びついた美意識、一方では土地のしがらみに結びついた信仰心である。
思わぬ時間がかかったので、拝観はそこそこにして、バスに乗り込み駅に向かった。
帰りはさすがに渋滞は無かった。
電車もうまく快速に乗り込めて、大阪に向かった。
途中乗り込んできた若い女性二人が韓国語を話していたので、まだ観光地にいる気分だった。
香雪美術館は駅から歩いて12分というので、時間は問題ないと思っていた。
ところが、家内のスマホに頼った道順がよく分からなくなってしまった。
前もって地図であたりの様子を調べておくべきだった。
色々人から教わって、結局たどり着いた時は、4時半で閉館30分前になってしまっていた。
急いでざっと観た後、もう一度じっくりと鳥獣戯画を眺めた。
テレビの特集で観てはいたのだが、実物を観ると生き生きと感じて面白い。
映像では感じられない、描いた人の筆遣いが伝わってくるからだろう。
明恵の絵にしろ、書にしろ、実物にはその人の息づかいが、時間を越えて伝わってくる。
自分はデジタル画像やパソコンなどで表現しているが、もう一度アナログでの表現の価値を見直した。
帰りの新快速はドアの前の補助席に姫路まで座ることになった。
座れるだけましなのだが、もう少しゆったりと旅を楽しめないものかと思った。
せっかく心を豊かにしてくれる工芸品や美術品を鑑賞しながら、旅そのものは通勤とかわりがない。
旅そのものが楽しめるようにするためには、上郡は「特急はくと」も使える。
それには午前中、特に車中で催す尿意対策に一番有効な決め手なのである。
次回から大阪より遠くに旅する時には、特急を使うことを家内に切に訴えた。
特急料金は心を豊かにする必要経費なのであると私は思う・・・
当初の目的は、大阪の香雪美術館で「鳥獣戯画」と「明恵」の特別展を観る予定だった。
家内はこのために「朝日友の会」に入会して、招待券を一枚手に入れていたからである。
そして前もって日にちを決めて、家内は「春の関西1デイパス」を買ってくれていた。
これがあると、つい欲が出て遠くへ足を伸ばしてしまう。
今回も、早く家を出ることが出来たので、奈良まで行くことにした。
奈良では国立博物館で「藤田美術館展」が開かれ、特に「曜変天目茶碗」を家内は観たがっていた。
私は、学芸員の資格を持っていながら、あまり博物館や美術館には足を運ばなかった。
最近は家内と出かける目的が、美術館や博物館に行くということが多くなった。
夫婦によっては、一緒に宝塚歌劇やコンサートを観に行く人もいる。
残念ながら、私と家内とは演劇や音楽では趣向がかなり違う。
趣向を何とか合わせられるのが、美術品や歴史的展示物ということなのである。
大阪から大和路快速に乗ると、車内は国際色豊かになった。
前の席には白人の女性と男性が座ることになった。
隣の席でも、ラテン系の男女が4~5人、賑やかに話している。
欧米の人たちの独特の香水の匂いが、車内いっぱいに充満していた。
奈良駅に11時半に着いて、少し早いが、まずは昼ご飯を食べることにした。
この選択は正解であったことを、後に分かった。
せっかく奈良まで来て、奈良の名物を食べれば良いのだが、前回同様の駅にある和食チェーン店で定食を食べた。
バスに乗って博物館まで向かったのだが、途中で道が渋滞して動かなくなった。
会場までは遠くないので、一つ前の停留所で降りて歩いた。
時間からすれば、もう一つ前の停留所で降りた方が良かったように思う。
博物館の二階の展示場に入ってまず驚いた。
すごい列が出来ている。
曜変天目茶碗を最前列で観るための列なのである。
最前列で観るためには一時間ほどかかるという。
大阪に戻って、香雪美術館に行こうと思っていたので、最初は諦めた。
しかし、展示物をざっと見終えると、やはりせっかくここまで来たのだからと思い、並ぶことにした。
最前列でないなら人越しに観ることも出来るが、背の低い家内には見えそうにないと思ったののも大きな理由である。
家内は済まなそうに言ったが、自分としてもこの機会にしっかりと観ておきたかった。
一時間も並んで観た茶碗は、期待が大きかっただけに少しがっかりした。
思った程の輝きや色を見せてくれるものでは無かったからである。
ただ、画像や映像ではなく、実物を間近に見ることそのものに価値があるのだろう。
そもそも、この茶碗は家康が水戸徳川家に授けて、それを後に藤田平太郎が手に入れたものだという。
藤田平太郎の父親伝三郎は、元長州の商人で児島湾干拓でも有名である。
閑谷学校に勤めていた頃、藤田中学校が宿泊研修に来たが、その藤田は彼に因んだものであるという。
親子とも実業家で、美術収集家であった。
茶碗が時の権力者や富豪の手に移り、その展示を庶民が高い拝観料で一時間も並んで観る。
そういえば、去年行われた村のご開帳でも、村人は高い寄付金を要求され、たまたま隣保長にあたった我が家は奉仕を求められた。
ご開帳される仏像が、寄付による寺の修理を可能にした。
それと同じように、この茶碗は藤田美術館の改築にどれだけ役に立つのだろう。
庶民にとって、仏像も茶碗もありがたいものを、身銭を切って拝むということで同じだと思うと滑稽で愉快に思えた。
ただ違うのは、その価値を与えるのは、一方では権力と富と結びついた美意識、一方では土地のしがらみに結びついた信仰心である。
思わぬ時間がかかったので、拝観はそこそこにして、バスに乗り込み駅に向かった。
帰りはさすがに渋滞は無かった。
電車もうまく快速に乗り込めて、大阪に向かった。
途中乗り込んできた若い女性二人が韓国語を話していたので、まだ観光地にいる気分だった。
香雪美術館は駅から歩いて12分というので、時間は問題ないと思っていた。
ところが、家内のスマホに頼った道順がよく分からなくなってしまった。
前もって地図であたりの様子を調べておくべきだった。
色々人から教わって、結局たどり着いた時は、4時半で閉館30分前になってしまっていた。
急いでざっと観た後、もう一度じっくりと鳥獣戯画を眺めた。
テレビの特集で観てはいたのだが、実物を観ると生き生きと感じて面白い。
映像では感じられない、描いた人の筆遣いが伝わってくるからだろう。
明恵の絵にしろ、書にしろ、実物にはその人の息づかいが、時間を越えて伝わってくる。
自分はデジタル画像やパソコンなどで表現しているが、もう一度アナログでの表現の価値を見直した。
帰りの新快速はドアの前の補助席に姫路まで座ることになった。
座れるだけましなのだが、もう少しゆったりと旅を楽しめないものかと思った。
せっかく心を豊かにしてくれる工芸品や美術品を鑑賞しながら、旅そのものは通勤とかわりがない。
旅そのものが楽しめるようにするためには、上郡は「特急はくと」も使える。
それには午前中、特に車中で催す尿意対策に一番有効な決め手なのである。
次回から大阪より遠くに旅する時には、特急を使うことを家内に切に訴えた。
特急料金は心を豊かにする必要経費なのであると私は思う・・・
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