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2020年1月12日日曜日

新たなる「いでたち」

先日、二通目の年賀状が、沖縄(琉球)や中国を研究されている大先輩から届いた。
おそらく、私の年賀状が遅く届いたので、勘違いされたのだと思う。
その賀状には、都立大学の名前が復活することが書かれてあった。
大先輩御自身、大学院時代の母校でもあり、勤務校ともなった都立大学には、強い思い入れがあることを改めて知った。
東急の駅名にも残っている都立大学は、2011年に首都大学東京なり、名前を失ってしまっていた。
私は1985年に修士を修了して以来、一度も母校に足を踏み入れたことはなかった。
ましてや、名前の変わってしまった大学には、なんら親近感などは持てずにいた。
先日、Googleのストリートビューで眺めたら、大学の跡地は公園になっていて、まったく懐かしさはなかった。
この大学前の「柿の木坂」は、ちょうど今頃、修士論文を出す時に、ふらふらになりながら上っていったことを思い出す。
当時、大先輩は都立大の赴任が決まっており、私は博士に進学したら、大先輩のお手伝いをする予定でもあった。
結局、志半ばでそこを去らなくてはならなかった今となっては、辛い思いの風景でもある。

年末から学生時代のものを整理していたが、その中で、学生から社会人になる時の日記を繙いた。
その表紙には「いでたち」と書かれてあった。
夢と希望を失いながらも、高校教師になろうと赤穂に戻り、中学校、高校の臨時講師や発掘作業の臨時雇いをしながら生活した頃である。
教員採用試験に臨みながら、何とか這い上がろうとしていた頃の気持ちが甦ってきた。
私はつい最近まで、「就職できない。このままでは結婚もできない」と悩んでいる夢をよく見ていた。
この頃の辛い経験が夢の中で何度も再現されたわけだ。
そして、何とか採用試験に補欠合格して、4月から地元の養護学校(特別支援学校)に赴任が決まった。
その時に、もう一度過去の絆を取り戻そうともしたが、一度切れた糸はもう繋がらなかった。
そんな折りに家内と出会い、自分は立ち直っていったので、家内には今更ながら感謝せねばならない。

このところ、せっかく教員の採用試験に合格して、学校に勤めながら途中で退職している新任が多いと新聞記事で知った。
確かに、私の新任時代も、けっこう先輩から注意を受けたりして、辛い思いも多くした。
しかし、大学院時代の論文作成の苦しさや、採用されるまでの苦労に比べれば、とるに足らないものだった。
何よりも、普通の家庭を築くことが出来る希望が持てていた。
あのまま大学院に残っていたら、不安定な生活がその後も何年も続いていたはずだった。
その代わり、研究半ばの後悔を引きずって生きねばならなくなってしまった。
ようやく、本が出版できたのは2006年で、20年の年月が過ぎてしまっていた。
それから14年も経ったのだが、その後悔は挑戦する気持ちに変わってきている。
自分にとって新たなる「いでたち」なのである。
都立大学の名前が復活するように、私の研究も復活させたいと思う。









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