私は、大学時代に正月に帰省すると、よく身体を壊していた。
下宿でまともな物を食べていないので、正月に実家に戻るとその分を取り戻すではないが、飲み食い出来る物を貪ったからだ。
たいていは腹を壊して、食事がまともにできなくなったりした。
戦国時代に、兵糧攻めに遭って城に閉じこもっていた民衆が、解放されて食事にありついた時に、いきなり多く食べて死んでいったのにちょっと似ている。
私は兵糧攻めに近い状態にあって、親からの仕送りが月に2万円と特別奨学金の3万6千円で生活しなくてはならなかった。
家賃が1万円と水道や電気代で最低は5千円ほどかかるから、実質4万円での生活だ。
当時の大卒者の初任給が10万円ほどで今の半分ほどだったから、それほど貧しいというわけではないが、奨学金頼みの生活だった。
ただ、それを全部飲食につぎ込めるわけではなくて、春と夏の村落調査の費用も多く置いておく必要があった。
アルバイトもしたけれど、実入りの良い家庭教師や塾の仕事は見つからなかった。
夏休みには赤穂で土方の仕事をしたが、期間の短い春休みや冬休みなどは名古屋でバイトを探した。
春休みに鉄工所で働いたり、正月前は餅屋で働いたりした。
女子学生は喫茶店や飲食店のパートがあったが、男子学生が働けるパートの仕事はあまりなかった。
そもそも、自由に学生生活を謳歌したかったので、毎日バイトに縛られる生活は嫌だった。
また、当時はそういう貧しい学生など周りにいっぱいいたので、苦にならなかったし恋人もちゃんといた。
その彼女はたまに、自分の下宿の賄いの夕食をタッパに詰めて持ってきてくれたし、週末はささやかな料理を作ってくれて一緒に食べるのが楽しかった。
私の父は非常に冷徹に男4人兄弟の子どもにかける金銭を平等にしようとしたが、結果的には我を通す私より素直な弟の方が得な扱いを受けた。
私の遠距離通学浪人の失敗から、弟の浪人はちゃんと賄い付きの下宿がなされた。
うまく国立大学に行った弟は授業料が安いので、賄い付きの下宿の費用を出して貰っていた。
私は私立大学で授業料が高いので、その分仕送りが少なかったのだ。
父の考え方は、私学へ行って金のかかる息子が暮らしで苦労しても仕方ないということだった。
弟はゆとりがあったので、大学時代に運転免許を取り、赤穂に帰っても家庭教師の依頼を受けて裕福だった。
ある特、弟は運転できるので祖父に頼まれて魚屋に注文した品物を取りに行った。
弟は自分にお礼として貰うはずの寿司ではなくて、何も考えず祖父の食べようとしたトロの刺身の方を食べてしまったことがあった。
食べることに苦労していなかった弟の無頓着ぶりを示す出来事だった。
私は運転免許は取る余裕も無く、正月は親がレンタカーを借りて弟一人が運転して遠くにドライブに出かけたり、初日の出を見に行ったりした。
結局、大学院まで進学した私は4人兄弟の中で、一番遅く運転免許を取ることになった。
だから、私は青春18切符や高速バスを使って、学生時代は帰省や旅行することが殆どだった。
大晦日にまで餅屋で働いて、ボーナスだと言って2000円とのし餅だけ余分に貰った時はさすがに新幹線で帰省した。
しかし、帰った後はその疲れも出て、風邪などもひいて体調を壊してしまい、まともに飲食できなくなってしまった。
せっかくバイトでそれなりに稼いだのに、良い正月にはならなかった。
今年は年金暮らしをし始めて、初めての正月だ。
普段節制している分、正月に飲食を派手にやると学生時代の二の舞になる。
今年は物価高で兵糧攻めに遭ったような暮らしになっている。
正月だから、少しは気晴らししたいけど、身体が贅沢に慣れていないので気をつけようと思う。
無いことだが仮にクルーズ船で海外旅行などしようものなら、たぶん即病院行きだろう・・・・
このところ、秋に収穫したサツマイモをストーブの上の土鍋で焼いて食べている私は、正月に食べるご馳走?には、食べ過ぎに気をつけねばならない。