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2024年12月30日月曜日

正月の派手な飲食が病気に

私は、大学時代に正月に帰省すると、よく身体を壊していた。

下宿でまともな物を食べていないので、正月に実家に戻るとその分を取り戻すではないが、飲み食い出来る物を貪ったからだ。

たいていは腹を壊して、食事がまともにできなくなったりした。

戦国時代に、兵糧攻めに遭って城に閉じこもっていた民衆が、解放されて食事にありついた時に、いきなり多く食べて死んでいったのにちょっと似ている。

私は兵糧攻めに近い状態にあって、親からの仕送りが月に2万円と特別奨学金の3万6千円で生活しなくてはならなかった。

家賃が1万円と水道や電気代で最低は5千円ほどかかるから、実質4万円での生活だ。

当時の大卒者の初任給が10万円ほどで今の半分ほどだったから、それほど貧しいというわけではないが、奨学金頼みの生活だった。

ただ、それを全部飲食につぎ込めるわけではなくて、春と夏の村落調査の費用も多く置いておく必要があった。

アルバイトもしたけれど、実入りの良い家庭教師や塾の仕事は見つからなかった。


夏休みには赤穂で土方の仕事をしたが、期間の短い春休みや冬休みなどは名古屋でバイトを探した。

春休みに鉄工所で働いたり、正月前は餅屋で働いたりした。

女子学生は喫茶店や飲食店のパートがあったが、男子学生が働けるパートの仕事はあまりなかった。

そもそも、自由に学生生活を謳歌したかったので、毎日バイトに縛られる生活は嫌だった。

また、当時はそういう貧しい学生など周りにいっぱいいたので、苦にならなかったし恋人もちゃんといた。

その彼女はたまに、自分の下宿の賄いの夕食をタッパに詰めて持ってきてくれたし、週末はささやかな料理を作ってくれて一緒に食べるのが楽しかった。


私の父は非常に冷徹に男4人兄弟の子どもにかける金銭を平等にしようとしたが、結果的には我を通す私より素直な弟の方が得な扱いを受けた。

私の遠距離通学浪人の失敗から、弟の浪人はちゃんと賄い付きの下宿がなされた。

うまく国立大学に行った弟は授業料が安いので、賄い付きの下宿の費用を出して貰っていた。

私は私立大学で授業料が高いので、その分仕送りが少なかったのだ。

父の考え方は、私学へ行って金のかかる息子が暮らしで苦労しても仕方ないということだった。

弟はゆとりがあったので、大学時代に運転免許を取り、赤穂に帰っても家庭教師の依頼を受けて裕福だった。

ある特、弟は運転できるので祖父に頼まれて魚屋に注文した品物を取りに行った。

弟は自分にお礼として貰うはずの寿司ではなくて、何も考えず祖父の食べようとしたトロの刺身の方を食べてしまったことがあった。

食べることに苦労していなかった弟の無頓着ぶりを示す出来事だった。


私は運転免許は取る余裕も無く、正月は親がレンタカーを借りて弟一人が運転して遠くにドライブに出かけたり、初日の出を見に行ったりした。

結局、大学院まで進学した私は4人兄弟の中で、一番遅く運転免許を取ることになった。

だから、私は青春18切符や高速バスを使って、学生時代は帰省や旅行することが殆どだった。

大晦日にまで餅屋で働いて、ボーナスだと言って2000円とのし餅だけ余分に貰った時はさすがに新幹線で帰省した。

しかし、帰った後はその疲れも出て、風邪などもひいて体調を壊してしまい、まともに飲食できなくなってしまった。

せっかくバイトでそれなりに稼いだのに、良い正月にはならなかった。


今年は年金暮らしをし始めて、初めての正月だ。

普段節制している分、正月に飲食を派手にやると学生時代の二の舞になる。

今年は物価高で兵糧攻めに遭ったような暮らしになっている。

正月だから、少しは気晴らししたいけど、身体が贅沢に慣れていないので気をつけようと思う。

無いことだが仮にクルーズ船で海外旅行などしようものなら、たぶん即病院行きだろう・・・・

このところ、秋に収穫したサツマイモをストーブの上の土鍋で焼いて食べている私は、正月に食べるご馳走?には、食べ過ぎに気をつけねばならない。









2024年12月28日土曜日

最後の「クリスマスの約束」

小田和正のこの番組は、だいぶまえに家内が楽しそうに見ていたので、自分も見始めた。

だから、最初から見ていたわけではないが、近年は欠かさず見ている。

先日はスキマスイッチの「スキマフェス」の収録番組に登場した姿を見たのだが、ずいぶん歳をとってしまった印象を受けた。

今回もこの最後の「クリスマスの約束」でもそれを強く感じ、この番組を最後にするのが分かる気がしたが、調べたら来年も全国ツアーをするという。

現在77歳の小田和正が全国を駆けめくるというのは驚きだし、テレビの印象からして身体は大丈夫なのか気になった。

小田和正の素晴らしい高音は健在で、プロの力を見せつけてくれている。

私は50歳頃までは歌えていた高音が絡んだ曲など、もう殆ど歌えない。

小田和正の「さよならは 言わない」をカラオケで歌うのに、現在はキーをB♭からFに3音くらい下げないとサビの部分が歌えない。

このごろは高音が出ないので、低音でも気持ちが伝わる歌い方に変えている。


この番組は多くのミュージシャンとコラボして、野外フェスを超えた魅力がある。

ミュージシャン同士だけで無く、観客も映し出されて、みんなで音楽を楽しんでいる雰囲気が良く伝わっている。

しかし、ここまで仕上げるのは並大抵のことではないようで、全国ツアーはできてもこの番組はできないのが納得できる。

小田和正の音楽に対する熱い思いが、20年以上の歴史を刻んできたのだと敬服する。

私はこのところ全く年末のNHKの紅白歌合戦を観なくなってしまった。

あまりにも混在した音楽嗜好が、まるで適当に具材をぶち込まれて不味い鍋のように感じているからだ。

その点でいけば、この番組はミュージシャンの持ち歌をみんなでハーモニーをつけたりして、別の美味しい味に仕上げてくれていた。


小田和正の曲の魅力は、自分の気持ちを投影できる歌詞とメロディーだと思う。

大分昔に、「言葉にできない」をテーマ曲にして、障害を持った子どもを亡くした親のドキュメントが放送された。

私は当時そのドキュメントを録画して、授業やLHRで生徒に見せ続けていた。

この歌は本来、恋愛の歌だったのだが、まだ幼い子どもを亡くした親の切ない気持ちを表現してくれていた。

音楽は映像や記憶と重なり合って、心に伝わってくれる。

私は「緑の街」や「さよならは 言わない」など多くの歌に、自分の過去を重ねてひとり歌ったりする。

小田和正が曲を作った背景とはかけ離れているとは思うが、その曲にはそれだけ心の奥にある情感を引き出せる魅力があるのだ。

私は小田和正の曲は、文化祭や忘年会のステージで歌うことは無かったが、教室で卒業前の最後の授業にギター一本で「言葉にできない」を歌ったことがある。

その生徒たちは、教師生活の中でも忘れられない担任した学年の生徒たちであったが、彼ら彼女らとの別れの切なさを伝えることができた。

小田和正の曲の多くはこれからも、ミュージシャンだけでなく多くの人に歌い継がれていくと思う。







2024年12月27日金曜日

災害から気づく健康寿命

 能登半島の地震災害から1年目となり、その検証がテレビなどで報道されている。

その中で、災害関連死の問題は、日常の生活にも考えさせられるものがある。

高齢者の場合、普段の生活が出来なくなるだけで、簡単に亡くなってしまう場合があったということだ。

直接の地震での死者よりも、その後の関連誌の方が多いという現実を、深刻に受け止めねばならないだろう。

つまり、我々日本人の寿命支えているのは、高度な医療と豊かな文化的な生活なのだが、災害に際して緊急に補う対策を取っていないということだ。

防衛費予算を増額するのは良いが、災害に際して国民の命を守る方が先決だろう。


高度経済成長以降に、衣食住の物質的な生活が豊かになり、機械化によって過重労働が減り、皆保険制度で普通に医療を受けられる環境が整い長寿となった。

その一方で、貧しかった頃は必要だった家族や親戚、知人と支え合う力を徐々に失っていった。

それは自分のことだけで精一杯の場合もあるが、蓄えた金銭や年金を過信して、支え合う心を見失ってしまった場合もある。

身近な人の中に、「老いては子に従え」という言葉を完全に無視をして、精神科病棟に入らざるを得なかった人も知っている。

金銭的にはむしろ恵まれていたのに、コロナのパンデミックに際して人を頼ることを嫌った結果だった。

人の多い街でもこういう災害関連病も増えているのではないかと気にかかる。

一方で、能登の災害避難所で最も確保できなかったのは、助け合える環境だったのだと思う。

過疎地域では、濃密な人間関係が少子高齢化によってどんどん失われて行っている。

今後、能登半島で起こってきたことが、日本中で起こるだろう。


NHKの番組で「あしたが変わるトリセツショー」で奄美徳之島の人の長寿が取り上げられた。

その中で、「ミキ」と言われる米粉と芋を摺り下ろした飲み物が紹介された。

これは昔は行事に用いられていた飲み物で、今のように毎朝でも飲める物ではなかったはずだ。

そもそも、サツマイモが主食だった沖縄・奄美が、米を主食にするようになったのはそう古くはない。

自然の山菜は昔から食べていたようだが、かつてはそんなに豊かな食生活では無かったようだ。

だから、流行病で多くの人が亡くなった言い伝えも残っているし、長寿になったのはそう古くは無かったと思う。

今は本土より長寿なのは、「人との繋がり」だということが、番組では強調されていた。

本土では豊かになって「人の繋がり」を失っていて、自分なりに「生きがい」を見つけている人が長寿なのだと解釈できる。

ネットでは高齢者の年金の問題を取り上げる記事が多いが、農家の多い沖縄や奄美ではそんなに年金を貰っていないと思う。

老後に備えての年金や貯蓄、投資の方が都市生活者には現実的に見えても、「人との繋がり」を失ったら役に立たないことも知っておくべきのように思えた。



2024年12月24日火曜日

若かりし日の想い出を友に

 冬場は日が暮れるのが早くて、農作業など外での作業が夕方は長く出来なくなる。

家内が仕事から帰ってくるまでの時間に、私はほろ酔いカラオケや弾き語りを2階の書斎でしている。

缶ビールを1本で喉を潤わせながら、ヤマハのカラホーダイをPCにスピーカーを繋いでしている。

そのカラオケの背景に使うのは、一番若くて楽しかった大学生の頃の写真だ。

今のように、デジタルで簡単に撮れて保存できる時代と違って、残された数少ないプリント写真をスキャナーで取り込んで使っている。

一枚の写真をアップにしてトリミングしたりして、枚数も増やして飽きない工夫をしている。

また、15年ほど前に名古屋と東京で写真に撮ってきた、大学時代や大学院時代の懐かしい場所の風景も混ぜている。

以前は自分の写真はあまり見たくなかったが、この歳になると今の自分とは全く別人のような感覚で見ることが出来るようになった。

夏場は歌うことは殆どやっていなかったので、声が出なくなっていたが、最近ようやく出るようになった。

そして、以前のように大声を張り上げるような歌い方をせずに、なるべく気持ちが伝わるような歌い方の工夫をして歌っている。


カラホーダイには、自分が歌いたい曲が無い場合もあるので、U-FRETなどで探して画面を切り取りパワーポイントに貼り付けて使っている。

その場合、Youtubeにカラオケがあったり、歌がある場合は一緒に流したりもしている。

そして、ギターの練習も時々それでしているが、なかなか上達しないままだ。

それでも缶ビール二本程度で、気持ちよく歌い続けられるし、写真が当時の記憶を蘇らせて孤独を紛らせてくれている。

スポーツが身体の健康にとって必要なように、音楽も心の健康に欠かせないものだと思う。

急がし時は聴くだけでも良いし、こうやって時間が出来れば自分で歌ったり演奏するのも良いのだろうと思う。

若かりし日の想い出に浸るのは、後ろ向きのように思われるかもしれないが、心を若返らせる力であることも確かだ。

そして、いつまで寄り添ってくれているイメージされた友なのである。


時空を超えて蘇る光景は、いろんなことで自由を失った心に「力」を与えてくれる。

以前なら盆や正月に親戚や家族、友達が集まって普通に出来たことだが、それが難しくなった今はその代わりにもなるだろう。

こういう輪がもっとネットをつなげて行うことが出来たら楽しいだろうと思う。




2024年12月21日土曜日

年金暮らしには水泳

 私は上郡町の温水プール(6コース)で、今は週に2回ほど水泳をしている。

年券を25000円ほどで購入しているが、月に直すと2000円ほどになる。

週一回泳ぐと元が取れるので、十分得をしている計算だ。

水泳仲間には毎日来ている人もいる。

午前中は老人を中心に水泳教室があって混雑するので、午後の12時から16時までの時間帯を利用している。

午後からの水泳教室では15時からは1コースだけだが、16時から4コースがふさがり、1コースが泳ぎでもう1コースが歩行用になる。

泳ぐ人が多くなると、1コースだけなので泳力が違う場合はかなり難しい泳ぎ方になる。

だから、その混雑を避けているのだが、それが出来るのは年金暮らしだからだ。


この時間帯はやはり年配の人が中心で、ちゃんとスクールで基本を身につけた人は少数である。

たいていの人は我流で、自分のペースで泳いだり歩いたりしている。

時々困るのは、25m以上泳ぐ人のコースで、泳いでいるそばで歩かれることだ。

ご本人は歩いたり泳いだりと、自分の都合でコースを使っている。

そういう時は仕方ないので、迂回したり、途中でターンをしたりして回避する。

中には、ずっと自己流のクロールで泳ぎ続ける元気な方もいて、励みになる。

私は自分のメニューで泳いでいるが、一緒に競うように泳ぎたがる仲間もいて、70歳を超えているのに息を切らしながら泳いでいる。

以前のようにマスターズに出ようと誘われるが、以前にマスターズで頑張った人がプールで亡くなったことを引き合いに断っている。


スポーツは観光と並んで近代において創出されたものだ。

昔は祭りや行事の中に、娯楽や運動が組み込まれていて、けっこう体力もいった。

そもそも普段の仕事が農作業なので身体をよく動かしていた。

奄美の与路島では舟漕ぎ競争や相撲をするのに、男性は普段から体力作りが欠かせなかった。

男性に限らず、八月踊りを踊り通すには、体力が必要だったことも確かだ。

本土でも一晩中踊り続ける夏の踊りや、秋のだんじりや神輿を担ぐのに普段から鍛える必要があるだろう。

そういう機会を失った多くの日本人で、デスクワークの人や年金暮らしの人は、健康スポーツが必要だと思う。

特に年金暮らしの男性はやることがなくて、ギャンブル、投資、酒で生活を破綻させてしまう人もいるという。

毎日歩くことも大切だが、雨の日や暑さ寒さに関係なくできるのが温水プールでの水泳だ。

水泳は、同じ所を行ったり来たりして単調になってしまうので、練習メニュー自分なりの目標を持てば、レースに出なくても楽しめる。

何より体型が露出するので、体重管理もしっかりしようというモチベーションも上がる。


田舎では水泳をする人が少なくて、プールの維持管理費用が負担になっているので、是非、町民の方や周辺の人に活用して頂きたい。

中には、隣の岡山県から通っている人もいるが、肝心の町民はまだまだ少人数だと思う。

そして、子どもが少ないので幼児コースの人数の少なさは将来のプール維持に不安を感じる。

水泳は年会費と安い水着で費用においては、ゴルフなんかよりもよっぽど安く済む。

こういう田舎では、年金暮らしでお金に余裕の無い人にもお勧めのスポーツでもある。

また、お金の余裕がある人は、やはり水泳教室をお勧めする。

私はコーチの経験があるが、色々と種目が泳げるようになって熱心に取り組んで楽しそうであった。

残念ながら、中心は年配の女性だったが、男性も加わって欲しいと思う。

2024年12月18日水曜日

健康指向から生活防衛へ

私が有機農業や自然農法に拘っていたのは、家族の健康を考えてのことだった。

農作業に掛ける時間と労力、経費を考えると、これまではスーパーで買った方が安く付いていたと思う。

でも、その殆どが化学肥料と農薬、機械に頼っていることに抵抗を感じていたのだ。

それが、このところの気象破綻の影響で、そういう農業がダメージを受けて農産物が高騰してしまった。

特に野菜の値上がりは食生活に直結してしまった。

家内には3年連続で大根を失敗したことを指摘されたので、「農薬を使って良いか」と聞くと「仕方ないんじゃない」という返事だった。

30年以上も無農薬の原則を放棄せざるを得ない状況になってきた。

まわりが農薬を使うので、いくらネットで覆っていても、集中的にやられてしまう。

以前は、馬酔木やタバコの吸い殻を用いた自然農薬も試したが、それらは簡単に手に入らなくなっている。

これからは市販の安全性の高い農薬を使わざるを得ないと腹をくくった。


一方肥料に関しては、有機肥料が販売されているので間に合わせられるが、不耕起を主体として草マルチの自然農法は頑張ってみたいと思っている。

こちらは、機械や石油製品になるべく頼らないモットーを維持したいと思っている。

また、モチ麦や高黍の栽培は機械なしでは、かなり困難であることが身にしみた。

脱穀と籾すりの手間が非常にかかってしまうからだ。

水田稲作がこういう破綻気象でも耐え得られていることを考えると、稲作農家に米を頼るしかないと思った。

その代わりに、大豆と小豆、落花生に力を入れることにした。

また、夏場は里芋よりもサツマイモ、冬場はジャガイモの根菜類に力を入れようと思っている。

これらの夏場はエンジンポンプに頼らざるを得ないが、水さえ有れば何とか持ちこたえられていた。

肝心の野菜だが、夏場の水対策だけでなく日除けを中心とした温度管理をするつもりだ。

また、春先の空豆、エンドウや葉野菜にも力を入れようと思っている。


これからの家庭菜園は健康指向という生やさしいものではなくなった。

高騰する農産物への生活防衛としての重要性が増してきた。

かつて人類学者のピエール・クラストルは「国家に抗する社会」の中で次のように述べている。


西欧文明は確かに、その黎明の時代から二つの公理によって導かれてきたと思われる。すなわち、第一の公理は、其の社会は、国家という庇護者の影の下でこそ自己を展開するとする。そして第二の公理は、次の定言命令を与える。すなわち、労働せねばならない、と


欧米に追随した日本人も、同じような文明を築いてきた。

その結果が破綻気象であり、人間性を失った賃金労働だった。

これから我々は国家の庇護とは距離を置いて、自然と共存できる生活を営み、そこからの恵みを頂きながら生きていく必要があると思う。

ささやかな「生活防衛」こそ、未来に向けての「闘い」なのだ。







2024年12月15日日曜日

捨てちまった哀しみに

私は家内から古くなった服や物を捨てるように促されると、中原中也の詩「汚れちまった悲しみに」をもじって抵抗してきた。

私が「捨てちまった哀しみに」と言うと、家内は必ず「そんなに哀しいのなら捨てなくて良い」と言って突き放される。

それで、うやむやになってそのまま捨てずに残されてきた。

私は物に対して過去の想い出と重ねて、汚れたり、少し破れたりしただけではなかなか捨てられないでいる。

その中で、今でも着続けているのは登山用のヤッケである。

45年ほど前に買った青色のヤッケは当時で1万円も出して手に入れた物で、学生時代はバックパッキングや村落調査などでずっと使っていた。

その後は思い出したように使ったが、汚れも破れもないので、このところ冬場の散歩には毎日それを着ている。



そんな私が涙を流しながら以前に処分したのは、40年ほど前に長津田のアパートを引き払う時の家具類である。

伴侶に去られた後に行き詰まってしまい赤穂に戻る時、大家さんが置いておいてといった物以外の物はゴミ廃棄場に捨てに行った。

トラックをレンタルして弟が運転してくれたのだが、カラスが群がるゴミ捨て場に捨てて帰る車の中で、号泣してしまった。

想い出のある家具類を捨てる哀しさを我慢していたのに、カーステレオでかけていたジョージ・ウィンストンのカノンで感情が溢れだしてしまった。

隣で運転していた弟に慰めの言葉をかけられる始末だった。

私の「捨てちまった哀しみ」の原点はこの想い出にある。


その後、愛車を買い換える時も、幾分寂しさを感じたりしたが、涙を流しながら処分したものは無かった。

ところが、今回の実家の片付けはその時と似たような状況になってしまった。

自分ですることにしてから、今は母の遺品を中心に処分すべくナイロン袋などに詰め込んでいるところだ。

する前は簡単に思っていたのだが、自分のアパートの時とは違い、父母が結婚して以来ため込んだ品々はとてつもなく多い。

それに庭の剪定も行っておかねばならない。

やってもやっても終わりが見えなくて、気が滅入るばかりだ。

そして、何よりも母に対する思いや、過去の出来事が蘇ってきてしまう。

「捨てちまう哀しみ」も込み上げてきてしまう。

家内も自分の母親の家の整理を考えていると言っているが、私はお金に余裕があるなら業者に任せる方が良いと言っている。

業者は単に物として簡単に片付けられるが、そこにかつて住んだことのある者にとっては、単なる物ではない。

遠い先祖の遺物ならともかく、肉親が身につけたりした物を、何の感情もわかずに処分できるはずがない。


まだ、処分場に持っていたり、ゴミに出したりはしていないが、それを行った後には「捨てちまった哀しみ」が込み上げてくるだろうと思う。

若い頃のように号泣することは無いと思うが、人生の儚さに心が疼くことになるだろう。

かつては出直しのための処分だったが、今回は手放すための処分となることになると思う。

特に、祖父を手伝って築いた庭を手入れし直すと、今眺めても素晴らしいと感じる。

できれば移して自分のそばに置いておきたい。

しかし、その思いは自分の家内や子どもには理解できないだろうとも思う。

この立派な庭を維持できるだけの「家」を築かなかった自分を自覚するしかない。

実家は庭が立派なのに駐車場が狭くて、敷地だけ広い農村の我が家のように、3台も4台も停めるスペースなど無い。

かつて庭に価値があったのは自家用車を持つことが無かったからで、今は駐車場と庭園を持てる人は限られている。

時代に取り残されちまった哀しい家であることも確かである。







2024年12月12日木曜日

豆乳への転換

今、酪農家が餌代などの高騰で採算が合わず廃業が急増しているという。

餌代の影響は近辺の水田地帯にも影響しているようで、牛の餌用の稲が多く作られている。

牛乳は学校給食では欠かせないので、酪農家が無くなってしまうことはないことは確かだろう。

小学生の頃からなじんできた牛乳や乳製品は生活に欠かせなくなっている。

それに対して、豆乳は私の子どもの頃には、豆腐屋で販売されていたが、匂いが強くて私は苦手で飲めなかった。

大学生の頃には、紙パック入りの豆乳があったので、たまに買って飲む程度だった。

自分で大豆を作るようになって、その活用方法として豆乳を自分で作るようになった。

リサイクルショップで豆乳製造機を買って作ったのだが、いい加減な分量で作っていたせいもあって味が薄く家族には不評だった。

残りかすのおからは食べづらく、機械の後片付けも大変なので結局使わなくなった。


一方、ヨーグルトは簡単に牛乳パックでつくれる電気製品を買って、家内はだいぶ前から作って毎朝食べていた。

ヨーグルトにはブルーベリーの実やジャム、酢をいれたり、粉末の青汁やシナモンを加えている。

豆乳で作られたヨーグルトが発売された時に、家内は牛乳と同じ方法で試しに作ってみたのだがうまくいかなかった。

このところ、豆乳ヨーグルトがよく出回ってきたので、家内は再チャレンジした。

最初うまく効かなかったが、発酵時間を長くすることによってうまく作れるようになった。

それを一番喜んだのは家内自身だった。

家内は牛乳ヨーグルトを昼食後に食べて仕事に出かけていたが、おなかがぐるぐると鳴って困っていたそうだ。

それが豆乳ヨーグルトに変えてから、鳴らなくなったという。

味は牛乳の方がおいしいのだが、健康面からすると豆乳の方が良いし、家内のおなかにはもってこいである。


豆乳に関してホームページの「世界を旅する豆乳」に歴史や、中国での事情が載っているが、中国では牛乳より歴史が古いそうだ。

現在でも中国では朝食に欠かせない飲み物になっているそうで、日本と大きく違っている。

豆乳は機械さえあれば大豆を買って自分でも作れるし、私のように畑で作った大豆も利用できる。

今年は黒大豆がそこそこできたので、黒大豆の豆乳を作ろうと思っている。

味は牛乳製品にはかなわないが、日本人の食生活には豆腐の方がなじんでいるし、これからは豆乳ももっと活用するべきだと思う。

何より牛を育てるより、大豆を栽培する方が簡単で、枝豆でも食べられるし、昔は葉っぱは飼料や肥料にも使っていたという。

刈り取った後の枝葉は、こういう田舎では焚きつけに用いたり、焚き火として火にあたったりしている。


これまでは安い穀物飼料を輸入して牛を育てたり、大豆そのものも飼料として使われることが多かったが、円安を機会に見直すべきだろう。

豆乳が世界的に普及すれば、世界の食糧事情も良くなるはずだ。

飲みやすい調整豆乳もあるので、学校給食も牛乳から豆乳に換えても良いのではないかと思う。

アマゾンが飼料用の大豆畑になって自然破壊がなされているのだから、日本は本気で大豆生産を推進すべきだと思う。

これからの食糧危機では地産地消が重要となってくる。

そのことからも、牛乳から豆乳への転換は大切なことだと思う。

そもそも、遊牧民は別として東アジア人の身体に合っていない牛乳を普及させようとしたこと自体が間違いなのだ。

因みに調べてみたらカルピスも豆乳で作ったのがあったそうだが、どうも販売を中止しているようだ。

ぜひ改良を加えて、牛乳製よりも安価で効能が高い物を開発して欲しい。

とにかく、我が家の豆乳ヨーグルトへの転換は新しい時代への一歩だと思う。






2024年12月9日月曜日

あの世は生きてる人のため

母が死んでから1年半を過ぎようとしている。

家の処分について以前から相談していた不動産屋から連絡がいきなりあった。

担当者が代わって、もう一度検討したいという。

見て貰った結果、家屋敷を綺麗に片付けてから、中古で売り出してはどうかと言うことになった。

ずっと、更地にしなければ売れないと思っていたのだが、自分たちの育った家屋敷が残る方が嬉しい。

更地で売却しても採算面でかなり厳しいことと、人口減で売却の可能性も低いと思っていたので、赤字さえならなかったら良いと思って、中古で売ることにした。


そこからが大変で、放っていた片付けをしなくてはならない。

母の生活感が残っている居間は、今までどうしても手がつけられなかった。

生きていた頃の記憶が蘇って、抱き続けていた母への申し訳なさの気持ちが込み上がってきたからだ。

ただ、1年半も過ぎるとその生々しい記憶も薄らいで、ようやく片付けをすることが、それほど苦痛では無くなっていた。

古物商にも来て貰って食器類を処分したが、まだ多くの遺品が残されている。

不動産屋は処理業者を紹介すると言ってくれたが、概算費用を聞くと50万円ほどかかりそうなので、できる限り自分ですることにした。

私は軽トラでずっと生活しているので、それを活用すれば問題ないのだが、大きな荷物運びには二人は最低必要だ。

今後は息子の手も借りねばならなくなった。


家の処分のことで思い当たるのは、アイヌの人のことだ。

アイヌの人は大人が亡くなると、その人が住んでいた家を焼く習慣が古くはあった。

理由はその人があの世で住む場所として必要だからということだった。

さすがにかつてのアイヌのような茅葺きとは違う現代の家は焼くことができないが、衣服や布団類を焼く理由に使えると思った。

本当は死の穢れ意識とか、想い出を消し去るためとしても、あの世で使ってくれると思った方が気が楽になる。

極楽浄土とかあの世は、死んだ人のためにあると考えがちだが、本当は残された家族やこれから死に向かう人にとってありがたい信仰で有ると思う。

信仰を失っているとしても他界をイメージする方が、現代人としても心の救いになるだろう。


かつて、家を代々継いでいける時代は、あの世の先祖と会うためのお墓や、祀るための仏壇などがあった。

年中行事にはあの世から戻ってくる、ご先祖様をお迎えする意識があった。

現代は子どもに継がせるる仕事も、子どもと一緒に住める家もなくて、かつての遺産を残せない未開人と変わらない状態になってきている人が多い。

未開人の多くは家は殆ど仲間と協力し合って建てていて、壊したり建て替えるのも簡単だった。

そして、亡くなった人は葬られた後、顧みられることは殆ど無い。

現代では家屋においては子育てには向かないだろうから、子育て期間中だけの家と独身時代や老後の家とを分けて考える方が良いだろう。

子育てのための家は、借家か売ることを前提に建てておいて、子育てが済んだら子どもに負担とならない簡単に処分できる家屋敷を探せばいい。

墓や仏壇も作ってもらわずに自然葬にしてもらい、自然に戻るという他界観を持っていれば良いと思う。

今の私にとってのあの世は、かつて未開人がイメージしていた、この世の鏡としてのあの世であるから、かつての死後の扱われ方になんら拘りは無い。

ただ、父母は昔ながらの扱われ方を持ち続けていただろうから、仏壇で供養を続けている。

父母は時代の変化を分からないまま逝くことができた最後の世代だろう。

私は墓や仏壇で供養して貰わなくても良いし、年忌供養もして貰わなくて良いと思っている。








2024年12月6日金曜日

大きなのっぽの古スピーカー

私の机の上の棚に、大きなのっぽの古スピーカー(H:48cm W:26cm D:20cm)を置いてある。

農閑期の冬場は暮れるのが早いので、PCで一人カラオケを夕方にするのを楽しみにしている。

その時に、このスピーカーを通して重低音の心地よい音楽が流れてきていた。

当然アンプが必要なのだが、もともと大きなステレオコンポ用だったが、コンポが壊れてスピーカーだけ使っていた。

コンポに代わるものは、ミニコンポが余っていたので、それを代用にしていた。

そして、ついにその代用のミニコンポも壊れてしまった。


そもそも大きなステレオコンポは、買って持て余した弟に頼まれて40年程前に買ってやったものだった。

ソニー製でCDは無く、レコード盤とカセットのプレーヤーがついていた。

時代遅れとなり、無用の長物化してレコードプレーヤーとスピーカー以外は廃棄した。

ミニコンポの方は、30年ほど前のもので、CDとMDのプレーヤーが付いていたが、音が出なくなって、主に家内がラジオを聴くのに使っていた。

ラジオを聴くのもアンテナが必要で、結局携帯ラジオに取って代わられて使わなくなっていたので私がアンプ代わりに使っていたのだ。


PC用の小型スピーカーもあって使ってみたが、やはり大型スピーカーとは雲泥の差で、なんとか使えないか考えた。

新しいコンポを買おうと思ったが、外部スピーカが接続できるのは最低4万円ほどする。

ネットで色々調べたら、PCにラインでもBluetoothでも接続できるパワーアンプがあることを知った。

5000円近くするが、コンポなどを買うよりもよほど安い。

早速ネットで購入して接続するのだが、一番手こずったのは、スピーカーの線をバナナプラグに繋ぐことだった。

以前は線の先を穴に差し込むだけで良かったのだが、今はバナナプラグが一般的なようだ。

これもハンダ付けとネジ式があって、最初一緒に購入したのがハンダ付式でハンダを使わず接続するのに苦労した。

その後、小さなコンポの置いてあったスピーカーにはネジ式のバナナプラグを接続して、時々パワーアンプを活用している。


本当のオーディオマニアなら、お金にいとめをつけないで、良い製品を買うのだろう。

私は音そのものよりも、伴奏として音楽を楽しんでいるのだから、そこまで音質に拘る必要は無い。

そもそもカラオケ音源がMIDIなので音質にも限界があるのだ。

こうして、40年前の古スピーカーを使い続けることができるようになった。

防音装置の無い部屋で、いい音を楽しめるのは田舎暮らしの特権だ。

そして、カラオケもその音に負けないような大きな声で楽しんでいる。


考えてみれば、こんなに40年以上も続けて使っている電気製品は無い。

実は、使っていないけれど残してある大切な電気製品がもう一つある。

それは高校一年生に買ったGrecoのレスポールコピーのエレキギターだ。

大学時代には軽音部で仲間のギタリストから、音がカスで安物のエレキと馬鹿にされたが、貯金をつぎ込んでやっと買えた思い入れがある。

ステージでは殆ど活躍することができなかったが、キダタローのラジオ番組に出た時には使った。

今はマイクが故障していて音がまともに出ないので、机の横に置きっぱなしだ。

こちらは、50年ほどの付き合いのある電気製品なので、何とか修理して使ってみたいと思っている。

デジタルの家電や楽器ができて便利になっているのだが、こういうアナログの電気製品は愛着があって死ぬまで捨てられないと思う。

アコーシック製品同様に電気製品にも「魂」を感じているからだと思う。




2024年12月3日火曜日

カルピス回帰

 私はドライブに際して、箱買いにしていたペットボトルのお茶を持参することが多い。

それは夏場は水分不足で便通が悪くなっていたことへの対策で、今は十二指腸潰瘍の痛みの軽減だ。

ところがこの日曜日に持って出るのを忘れて、途中で買う必要に迫られた。

できるだけ痛みを軽減するためと思って、ミルクティーを買おうとしたが売り切れてしまっていた。

ふと隣を見るとカルピスウォーターがある、これだと思って早速買った。

そして、車の中で冷たいのを口に含んで暖めながら、少しずつ飲んでいった。

しばらくすると、それまでシクシクと痛かったのが無くなってきた。

新しい発見だと思い、帰りにスーパーによって、今はペットボトルで売っている原液のカルピスを買った。


カルピスのことをWikipediaで調べた。

なんと歴史は1908年(明治41)に溯り、30歳の三島海雲は内モンゴル(現在の中華人民共和国内モンゴル自治区)を訪れ、そこで口にした酸乳を参考にしたそうだ

製造販売は1919年(大正8)からだそうだが、自分ちの父母が生まれる前から有ったのだ。

私の子どもの頃は高価な飲み物で、家ではたまにしか飲めなかった。

家内はお中元などで貰うのを楽しみにしていたそうだが、うちにはそういうものは一切無かった。

青いアワ玉のついた瓶に入った原液のカルピスは、贈答品になるほどの高級品だったのだ。

ただ、幼稚園では夏場のプール遊びの後で、やかん一杯に作ったカルピスをみんなに飲ませてくれた。

家では滅多に飲めなかったので、いまだにその時の情景とおいしさを憶えている。

また、近くの絵の指導をしている先生のところに、入会をお願いするのに母はカルピスを買って持って行ったのを憶えている。

頼み事をする時にも役に立ったものだったようだ。

思春期では男子校だったので、カルピスが精液の隠語となってイメージを損なってしまったので、その後ほとんど飲まなくなってしまったいた。


今は十二指腸潰瘍の痛み対策としてかなり薄めて使っているが、それでも甘く感じてしまう。

既に糖質60%オフの原液も売っているようだが、糖尿病の身としてはできるだけゼロに近づけたい。

そこで考えたのは、今食べている豆乳ヨーグルトを水に溶かすことだ。

我が家は以前からヨーグルトを家で作っていたが、牛乳から豆乳に変えることに家内は成功した。

種菌は売っている豆乳ヨーグルトで、無調整の豆乳も売っているところは限られていて手間ではあるようだ。

家内は特に牛乳をちゃんと消化できないようなので、豆乳の方が栄養価でも優れていると思った。

ただ、薄めると飲みづらくなったので、原液のカルピスを少し足して飲むとおいしかった。


100年以上の歴史があり、健康食品として旧日本軍でも使われたという優れものである。

年月に耐えているということは、それなりの効能があるということだろう。

栄養面だけでなく胃壁などを保護するために、色んな飲み方ができるかもしれない。

十二指腸潰瘍を再発した私には、救世主になって欲しいと思う。

モンゴルの知恵が、こうして現代に活かされていることが何よりも愉快だ。



2024年11月29日金曜日

安上がり長時間デスクワーク対策

 私は完全退職以来、読書をしたりものを書いたりということで、特に農閑期ではデスクワークの時間が増えてしまった。

現在は十二指腸潰瘍で苦しんでいるのだが、以前の農繁期では腰痛で苦しんでいた。

その時に買ったのが、立ったまま操作するのに使うノートパソコンスタンド パソコン台だった。

ノートPCはディスプレイを大型に拡張して使っているので、外付けのキーボードとマウスを乗せて使っていた。

慣れるのに時間がかかったうえ、やはり夜などは疲れているので、立ってしようとは思わなかった。

それで、椅子に座る時間が増えてしまって、とうとう十二指腸潰瘍を再発させてしまった。


十二指腸潰瘍は腹が空くと痛くなるのだが、食事をした後も座った姿勢でいると痛くなった。

ただ、車ではリクライニングができるので、身体を楽にさせると痛みは治まった。

また、散歩したり泳いだりすると、痛みも軽減されたり忘れることができた。

ところが、今回は用事があって、図書館で時間を潰さなくてはいけなくなった。

図書館は立ち読みする場所などないので、窓際の机が高くて椅子も使えるし、立ってでも読める場所を見つけてそこで雑誌を読んでいた。

やはり、立って読み続けると、疲れてきたので、座面の高い椅子に座ってみると、意外にも痛みが来ない。

つまり、座面の低い位置の姿勢が長く続くことで、痛みが来ていたということだった。


そこで、さっそく戻ってから、立って座れる椅子を探すと、可動式の机用の可動式椅子というのが見つかった。

要するに、座ったり立ったりしてデスクワークをする可動式デスクには可動式の椅子が必要だったのだ。

そこでそれを注文しようかと考えたが、ふと以前買ったアウトドアチェア 伸縮式 キャンプ椅子のことを思い出した。

これは農作業用に買って使っているのだが、これを椅子の上に置いて使ってみると、座り心地はすこぶる悪いが何とか使える。

また、以前にニトリで丸形の分厚いクッションを買っていて、使わずにいたのを思い出して上にのせると、座り心地も良くなった。

ずっと立ってPCを使うことを考えれば、ちょっとした休憩として使えば問題ない。


考えてみれば、動物は同じ姿勢でいられるのは横たわっている時だけだろう。

これも床ずれなどを起こして問題となるが、立ったままとか座ったままよりはましであるが仕事にはならない。

座ったままの場合、楽そうに見えるが、意外と腰やお尻、胃腸に悪い。

長時間自転車に乗る人や、車を運転する人などは、腰痛持ちが多いことはよく知られている。

机にかじりついている研究者も、痔とか腰痛、胃腸の潰瘍に苦しんでいる人もよく知られている。

また、腰をかがめてする仕事の多い農家の人も、腰や背中が曲がってしまって、その痛みに苦しんでいる人を知っている。

その点で言えば教師は立ったり座ったり、スポーツをしたりして健康面では悪くなかったはずだ。

しかし、それを打ち消すだけのストレスを受けるブラックな仕事になってしまったということだ。


一方家内のリューマチは、同じ姿勢が悪いだけで無く、動かさなければ痛みが増してくる。

だから、ドライブに行く時は、助手席にいるより運転をしたがっている。

最初は、私が違反して減点され運転免許証の停止が間近なのが理由だったが、その心配がなくなっても運転をしたがった。

私の運転が不安だというのでは無くて、どうもリューマチの痛み対策であることを、私が同じ姿勢で痛むことを言うと話してくれた。

人にはなかなか理解されない痛みがそれぞれあって、家内には十二指腸潰瘍の痛みがあまり理解できないようだ。

とにかく、人は同じ姿勢を長時間できるような身体の仕組みになっていないということは確かであり、それを意識しないと身体を壊すことになる。

ところが、小学生の頃からじっと机の前で座っていることが習慣づけられて、身体を動かすことの大切さをだんだん忘れさせられてきてしまった。

特に受験勉強などはその極めつけだろう、また大学生の論文作成などもそうだと思う。

同じ姿勢を続けることが、身体に悪いことを強く意識せねばならないと思った。





2024年11月26日火曜日

酒と病

毎晩ビールを楽しみにしていた家内はリューマチを患って以来、医者から飲酒を止められてしまった。

今でも関節の痛みが続いているせいもあって、酒類は一滴も飲まない。

その代わりに、コーヒーや緑茶を何杯も飲むので、私はカフェイン中毒だと言っている。

私は逆に、コーヒーやお茶は何杯も飲もうとは思わない。

その代わり、ビール、ワイン、日本酒、焼酎と毎日欠かさず少しずつ飲んでしまっていた。

ところが、十二指腸潰瘍を再発して以来、一滴も飲む気がしなくなった。

飲むと痛むのが分かっているからで、結局家内のリューマチと同じになってしまった。

不思議なもので、入院時は別として体調が悪くても飲んでいた酒類が欲しくないのである。

これは以前に痔を患って漢方を飲んだ際に、酒を飲むと気分が悪くなったので、漢方を飲んでる間飲めなかった時以来である。

断酒するにはこの方法があると思ったが、そこまでして断酒する必要が無かった。


考えてみれば、大学や大学院時代には普段はそう酒は飲んでいなかった。

たまに飲むとかなり飲んだが、毎日飲む金も無かったし、飲まないと済まないわけではなかった。

飲酒以外に楽しいことがいっぱい有ったからだと思う。

ただ、修士論文作成時は、酒が必要となり、タバコとトウガラシとの相乗効果で体調を崩していった。

毎日晩酌をし始めたのは、教職について結婚してからだと思う。

酒の量が増えたのは、二校目の困難校に赴任してからで、肝臓数値が悪くて病院にかかった。

そして、痔も患ったために、一時は酒も飲めないような常態になっていった。

転勤して痔を手術して、酒も普通に飲めるようになった。


その後転勤を繰り返したが、病と回復の繰り返しになった。

痔の次になったのは痛風であったが、この時もしばらくは飲めなかった。

次の糖尿病は教育入院中だけで無く。退院後もしばらくは飲まなかった。

次に入院したのは脱腸だったが、入院中だけ飲まなかった。

一方、タバコは大学院時代はチェーンスモーカーで缶ピースが好きだったが、金が無いので普段は新生(SHINNSEI)を吸っていた。

それが子どもの誕生を機会に、何とか時間を掛けて辞めて、今では吸おうとは思わない。

私の場合は酒も持病の糖尿病に良くないし、酒を飲むとどうしても食事量が多くなって肥満になって健康を害している。

ただ、大きく違うのは、タバコと違って家族には直接迷惑をかけることはないのである。

また、一度友人の医者に勧められて禁酒をしたが、逆に自律神経失調症を患ってしまった経緯もあった。

だから、酒は私の精神状態を保つための薬とも言える。


私の父は完全にアルコール依存症であった。

休みの日は朝、昼、晩と安い焼酎を飲んで、3日で一升ほど飲んでしまっていた。

休みに子どもとドライブなどに行く時は、カップ酒などを持ち込んで後部座席で飲んでいた。

実は祖父も酒好きで、朝から酒を飲んでいたが、コップ一杯に留めていた。

祖父は結局脳梗塞で亡くなったが、83歳まで生きて当時としては長生きだった。

父は、脳梗塞を患ってから、さすがに酒を止めたが77歳で亡くなった。

亡くなるまで、子供らが集まって飲むたびに、「飲むな 飲むな」と言い続けていた。

その私の兄弟でも難病の持病を抱えている次男は殆ど飲めないし、痛風の四男はビールが禁じられている。

長男の私と三男が相変わらず、何でも多く飲んでいるのである。


今後、我々兄弟がどれだけ長生きできるかで、酒の評価も分かるだろう。

父の兄弟は父以外は普通に酒を嗜んでおり、酒での差は分からなくて、大企業の勤め人だった三男の父と五男が早く死に、自営業だった次男や雇われ店長だった四男は長命だ。

私の解釈では、大きい組織の方がストレスが多くて、自分の健康管理を優先できないのだろうと思う。

私も、県立学校の教職員として同じような立場にあった。

一番健康を害した次男の弟は、初任は一流企業の丸の内本社勤めだった。

ストレスから逃れるために早期退職した自分が、酒と関連のある十二指腸潰瘍を再発させるのも皮肉だ。

もう酒に頼らなくてもストレスはさほど無いはずなのに、以前からの飲み方が止められていない。

学生時代のように、飲酒以外の楽しみをもう一度見つけて、酒との関わりを変えていこうと思う。

実は昨日からギターの弾き語りの練習をしているが、もっとギターの腕を上げて再び舞台に立ったりYoutubeにアップしたいと思っている。







2024年11月23日土曜日

忘れじの渚の想い出

私が中学生の時に初めてシングルレコードを買ったのは、ミッシェル・ポルナレフの忘れじのグローリア」だった。

英語もままならないのに、フランス語など分かりもしないどころが、文字をたどって発音することもできなかった。

それでも音を耳コピーして、たどたどしくまねて歌っていた。

彼の曲は日本では「愛の休日」が一番有名だと思うが、どの曲も日本人の情感に合って惹きつけられたように思う。

私はその後、ポルナレフの日本公演のライブ盤などを買って何度も何度も聴き続けていた。

そして「愛の願い(Love Me Please Love Me)」などを、一部だけよく口ずさむことが多かった。


赤穂には大好きな海岸が何カ所か有るが、やはり一番好きなのは唐船ビーチだ。

いまでこそ、ビーチと言われているが、子どもの頃は塩田の先にある堤防の向こうの砂浜でしかなかった。

小学生の頃から潮干狩りや魚釣り、海水浴によく友達と一緒に行った。

年頃になってからは、友人と夜にたき火をして騒いだり、彼女とデートするのにも使った。

この唐船の海岸だけでなく、千種川の河口から続く東側の河原の方が、私には青春を刻んだ場所であった。

この近くの高校に勤めるようになって、ここに来る機会も多くなった。

校内マラソン大会には、唐船山のすぐそばで立ち番もしたりした。


毎日のようにこの砂浜に通ったのは、近くの高校の定時制に勤め始めた時だった。

定時制の勤務時間は昼過ぎからなので、家で昼食をした後で運動がてらで唐船に来て歩いてから職場に行った。

たった1年定時制の勤務をして早期退職した数年後に、同級生の校長に頼まれて、再び定時制の非常勤講師をすることになった。

そのときは、授業前の夕方にまず唐船を散歩した。

必ずその時にスマホで聴いたのは、ミッシェル・ポルナレフの渚の想い出(Tous les bateaux, tous les oiseaux)」である。


きみにあげよう

海とカモメを
そして金の果実
宝の島
星のうえの
大きな舞踏会を
泣かないで、僕の恋人(一部ネットから引用)


これは海にちなんだ曲だが、ラース家の舞踏会(Le Bal des Laze)」や哀しみの終わる時(Ça n'arrive qu'aux autres)」などをYouTubeで聴きながら歩いた。

そして、海浜公園に入って中に小高い芝山があって、そこから海と島を眺めながら、時に仰向けになったりして聴いていた。

ポルナレフの甘くて切ない曲が、目の前の景色とすごく合っていた。


先日は久しぶりに通院するのに時間ができたので、寄ってみた。

夕日に染まった海岸を昔のようにポルナレフを聴きながら歩いた。

しかし、かつての姿を失っていた。

温暖化の影響か、昔海に出ていたコンクリートの波消しは波を被り、昔はたくさんいたカモメも見当たらない。

そして、何よりも千種川の河口の河原が浸水している。

唐船から伸びる1km程の防波堤は、江戸時代に造られ300年以上の歴史をもつ。

塩田のために築かれた防波堤は海面上昇のために役立つことになっている。

私にとっては忘れじの渚である。

家内にはできればここに散骨して欲しいと言っている。

5年程前の風景、向こうの大きな島は小豆島、小さいのは取揚島





2024年11月21日木曜日

残った傷にも 血が滲む

 「また君に恋してる」は、私にとって身につまされる、思い入れの強い曲である。

作詞は松井五郎氏だが、私はどちらかというと安全地帯の名曲との関連で名前をおぼえていた。

この曲の次の歌詞


  若かっただけで 許された罪

  残った傷にも 陽が滲む


この「罪」に聴く方は、いろいろの自分の過ちや後悔を重ねるだろう。

私は大学院時代に自分の小ささから招いた生活の破綻を重ねる。

当然、心の傷は残ったままだが、本当に痛みを伴う「傷」も残っている。

それは、十二指腸潰瘍である。

(この病気が発症した経緯やその後については以前の「十二指腸潰瘍」に詳しく書いた)

今回は、その殆ど忘れかけていたし、もう無縁だと思っていたこの病気が再発してしまった。

完全退職で仕事からのストレスも解放されたはずだし、いまは農繁期も過ぎて比較的ゆっくりと過ごしている。


実はそのゆっくりしすぎた暮らしが原因だったようだ。

つまり、去年までは週に4日は非常勤講師をして、教壇に立つ仕事があった。

だから、季節に関係なく立ち仕事があったのだ。

ところが、それをやっていない今の季節は、立ち仕事が殆ど無くなってしまったのだ。

毎日の犬との1時間余りの散歩は当然続けているのだが、あとは殆ど読書や書き物をしている。

要するに、机に座っている時間が非常に増えてしまった。

立ってPCが使える器具も購入したのだが、あまり使っていなかった。

週に2回程度の水泳も欠かさずしたが、それでは足りなかったようだ。


ついに医者に診て貰うことにして、近くの内科を受診した。

その時に聞かれたのは、便の色だった。

私は黒っぽい便が出ていることを告げると、出血の可能性があることを言われた、。

空腹時に痛くなることから、十二指腸潰瘍だろうと言うとその通りだと言われた。

本来なら大きい病院で胃カメラを飲むところだが、貧血と炎症の血液検査をして悪く無かったので、当面は薬を飲んで様子見となった。

私の残った傷に、胃酸などによって血が滲んでいたようだ。

だから、粘膜を守る薬と胃酸を抑える薬を出して貰った。

来週はピロリ菌の検査も行うことになった。

帰宅してネットで調べるとピロリ菌が原因となることも書いてあった。


大学院時代は、修論の提出もあったし、お金が無かったので、医者に言われたように入院はせずに、修論提出後は自力で治した。

それはジョギングだった。

近くの恩田川の堤防道路を無我夢中で走った。

最初は、すぐに息の切れる状態だったのだが、長津田のアパートから横浜線の十日市場駅まで行って帰るくらいになった。

体力がつくと共に、病気も回復していった。

今回もその経験を活かして、運動で回復させることに決めた。

ジョギングはもう無理なので、水泳の練習メニューの内容を軽くして回数を増やすことにして実行している。


それにしても、松井五郎氏は「また君に恋してる」で、「残った傷にも が滲む」と「陽」を用いたのだろう。

普通は「陽」を長い年月と考えて、長年寄り添った夫婦と考えるべきなのだろう。

そうすると、この曲を夫婦とした場合に、夫婦の背負った罪と傷というなら駆け落ち夫婦や不倫に絡んだ結婚、略奪婚のように考えられる。

松井五郎氏はそういう辛い思いをしても、ずっと愛を育んでいる夫婦を描きたかったのだろうとは思う。

そうなるとずっと夫婦のままでいられなかった自分には酷な歌になってしまう。

私はどうしても自分に都合良く解釈したいので、別れた妻や恋人を思い出して「また恋してる」と無理矢理に解釈した方が自分でも歌いやすい。

だから、本当は癒やされることのない「残った傷に血が滲む」としたいのだが、そうすると別れた人への思いが当てつけがましくなってしまう。

激しく愛し合ったが故に背負った傷を、年月がいやしてくれていると言った方が気持ちを軽くしてくれるだろう。

現実は、私のように昔背負った傷から血が滲んでしまうこともある。

若かった頃は心の傷も身体の傷も忘れてしまいたいものだったのに、年月が懐かしさに換えて架空の蘇った恋愛を夢見る。

まだその時の「残った傷にも が滲む」けれど「まだ 君に恋してる」という自虐的な替え歌にして歌って良いかもしれない。








2024年11月18日月曜日

クイーン(地獄に道づれ)からブルーハーツ(Train-Train)へ

 クイーンの「地獄に道づれ」(Another One Bites the Dust)は、よくラジオなんかで流れているが、英語だから平気で聴いていられる。

銃を乱射して殺し合う世界が歌われていて、日本語に直して歌うにはかなり抵抗があるだろう。

そういえば、ポールマッカートニーの「死ぬのは奴らだ」(Live and let die)も、直訳すれば「くたばらして生きろ」ということだろう。

これも日本語で直して歌うには抵抗があるが、クイーンのように生々しさはない。

日本のロックで銃を撃ちまくると歌ったのは、The Blue Hearts がTRAIN-TRAINでだが、ここではあくまで「見えない銃」なのである。

クイーンのように生々しい銃は出てこない。

1980年にリリースされたシングル「地獄へ道づれ」は、全世界で700万枚以上売り上げ、アメリカの『キャッシュボックス』誌の年間チャートでは1位に輝いたそうだ


アメリカ人の心をしっかりつかんだというわけだが、日本ではタイトルのきわどい響きと曲のリズムが、若者を中心に惹きつけたのだと思う。

歌詞の内容は、ライフル銃を使った西部劇のような世界ではなくて、マシンガンを使った乱射事件の世界だ。

アメリカの銃乱射事件を引き起こした殺人鬼の頭の中で、この曲が流れていたようなイメージでさえある。

私は歌詞そのものよりも日本語タイトルの「地獄へ道づれ」が、これからのトランプが率いるアメリカを表現しているように思える。

今読みかけの本の『「人新世」時代の文化人類学の挑戦―よみがえる対話の力』*1の中で、森田敦郎氏は次のように語っている。


 地球システムの今の状態は、一九五〇年からの急激な経済成長、いわゆる「グレート・アクセラレーション」つまり「大加速」によって形作られました。その結果、大気中の二酸化炭素濃度は、産業革命前の二五〇ppmから急上昇し、現在では四〇〇ppmを超えています。この水準を超えるのは二〇〇万年ぶりとされており、かつてこの水準だった時代は鮮新世の中期以前と言われています。


ということは、たった70年ほどで、200万年の環境変化に地球上の全生物は適応せねばならなくなったということである。

この恐ろしい現実の中で、トランプはかつて大統領の時にパリ協定を離脱し、今回も離脱することが予想されている・

石油を「掘って 掘って 掘りまくれ」とまくし立てるトランプは、人類だけでなく多くの生き物を地獄に道連れしているかのようだ。

かつて、日本も戦国時代は動物よりも人を簡単に殺してしまい、自然破壊も進んでいたという。

その日本が狩猟用以外の銃を封印して自然も回復させていったいっぽうで、欧米は市民革命と世界侵略でグローバル・ネットワークの近代を築いていった。

それは、地獄に道づれの始まりだったのだろう。

日本も関ヶ原以来の体制を維持した薩長を中心に「銃を撃ちまくって」日本を地獄への道づれにしていった。

そして、為政者のみならず学者や文学・芸術家もこの甘美で魅力ある近代の「地獄への道づれ」の先頭に立って、教師も追随していった。


今の時代は、マシンガンも核兵器も地獄行きには必要ない。

今の生活を続けていくだけで良い。

むしろ、The Blue Hearts がTRAIN-TRAINで歌っているように

「見えない自由がほしくて(=限りない欲望) 見えない銃(=CO2)を打ちまくっている」のが我々なのだろう。

栄光に向かって走っているはずの列車は、地獄への道づれ列車だったというわけかな?

下の表は*1の別の章からの抜萃ですが、これが現実です。




2024年11月15日金曜日

三鷹といえば

再放送の「孤独のグルメ」を家内はビデオに撮っておいてよく見ている。

家内は自分ではあまりあれこれ食べないのに、こういう食に関する番組をよく見るが、自分では食べられないけど、食べた気持ちなれるので良いそうだ。

私は見ていると腹が空いてくるので、夜中にはなるべく見ないようにしている。

この番組は主人公の五郎が出張で地方や海外にも行くけれど、中心は都内やその近郊だ。

私は学生時代のバイトの警備員や家庭教師、塾講師の関係などで東京の色んな所を経験している。

当然住んでいたJR中野駅界隈や、西武新宿線の新井薬師駅近辺、大学のある東急東横線の都立大学駅付近などはなじみの場所だった。

もう40年も経つのだから、ずいぶん街の様子も変わっているが、雰囲気が残っているところも結構あって懐かしく思う。

そういえば中野の象徴的なビルの、中野サンプラザが壊されてしまったというが、私はずっと駅を利用する時に見ただけで、入ったことは無かった。

あれが無くなると、私の知っている中野ではなくなるなと感慨ひとしおである。


先日、ふと家内が見ていた「孤独のグルメ」の画面の電信柱に「上連雀」という地名が出てきた。

上連雀と言えば三鷹であるが、私は三鷹で3ヶ月ほどとある高校の宿直のバイトをしていた。

大学院に入学して、東京の中野の安アパートに下宿していた当時に、すぐに必要だったのがアルバイトだった。

短期間の中野郵便局のバイトは終わってしまい、次に応募したのは警備員のバイトだった。

夜警の宿直は勉強しながらできると思ったからである。

中野から三鷹まで中央線で通ったが、夕方に行って朝戻ってくるのを週に3回ほどしていた。


最初、先輩の警備員にやり方を教わるのだが、その年配の警備員の方は広島出身の人で、土木工事の飯場も経験した人だった。

その飯場でのスコップを用いた生々しい暴力事件を聞かされて、法律や警察とは無縁の世界があることを知って驚かされた。

社員としての警備員とは別に私たちのようなアルバイトが仲間にけっこういて、司法試験にチャレンジしている人や、極真空手の格闘家などもいた。

格闘家は芸能人のボディーガードもたまにやっているようだった。

宿直以外にたまに交通整理の応援を頼まれて、そういう人と話す機会もあった。

新宿のデパートの駐車場誘導係の仕事では、こちらの指示を無視する高級車に乗った奥様の存在に驚いたりもした。


高校の宿直の仕事では、生徒とは殆ど関わることが無くて、たまに教員と関わることがあった。

そんな中で、私はまのがれたのだが、酔って迫ってきた教員に髪をひっぱらた社員の警備員もいて、気をつけるように言われた。

その教員は、東大出で奥様が大学教師と言うことで、コンプレックスのはけ口が、酔った時の乱暴だったり、性癖に問題をもっているようだった。

当時は学校でも飲む機会があったようで、一度だけその人が酔って絡んできたが、他の年配の先生になだめて連れて行って貰った。

社員の警備員は反撃しなかったらしいが、私なら反撃しかねなかったので助かった。


宿直の仕事では、夜中の見回りが気持ち良いものではなかった。

チェックする場所があって、そこで携帯型のタイムカードのような円形の紙に、そこに置いてあるキーで打刻する。

骸骨の模型の置いてある薬品の匂い漂う理科準備室や、道路の向こうにある体育館の教官室に行くのも気持ち悪かった。

私は剣道の経験があったので、万一に備えて警棒は携帯していたが、私は人よりも霊的なものを恐れていた。

祖母がそういう話を良くしていたし、文化人類学はそれを否定する学問ではなかったからだ。

この宿直の経験は後に寮を備えた兵庫県立大付属高校の宿直では役に立たなかった。

どちらかというと、回数こそ少ないが翌日にも勤務のある付属高校の寮の宿直の方がきつかった。


こういうこういう警備システムは1970年の大阪万博を機会にできあがったという。

それから50年以上経って、はたして今度はどんな新しい仕事が誕生するだろうか。

警備は無人の機械警備になっていったが、どんどん無人化していく方向が示されるのかもしれない。

無人化は人手不足の省力化で良いのかもしれないが、どんどん無機質な世界が広がっていくのだろうと思える。

とっくに妖怪は漫画の世界になったが、アニメやSFの世界では霊的な世界が生き生きと描かれ続けている。

人類のもつ自然界との繋がりが形を変えて、まだ残っているのだろうと思う。

むしろ、180度転換して人間世界を超えたマルチピーシーズの世界を広める仕事が誕生すればと思う。


奇しくも三鷹は三鷹事件で有名で、当時、三鷹でバイトしていると言ったら、物騒な街と思っていた母親は心配していた。

家内も三鷹のことは、三鷹事件でしか知らなかった。

私はその後、三鷹には大学院の研究室での調べ物があって国際基督教大学に行くことが何度かあった。

その大学の敷地は世界に誇った中島飛行機の研究所があったところで、そこにアメリカ型の大学ができあがった。

三鷹事件といい、大学といい、アメリカ支配の最先端の場所だったと気づかされる。

中島飛行機もその後復活してSUBARUと日産で生き残ったが、日産の方は大変な状況になっているようだ。

アメリカ大統領がトランプに代わって、依然とその従属下にある日本も変わらざるをえないよるだろう。

Expo70の時の警備会社創設のように、朝鮮半島や台湾で戦争が起こって民間軍事会社の創設にならねば良いが・・・・





2024年11月12日火曜日

犬との生成コミュニケーション

 我が家の飼い犬のクロは、元来猟犬なので庭で飼っているが、吠えると近所迷惑になるから、無駄吠えをさせないように厳しくしつけていた。

本来猟犬は主人に獲物の居場所を告げるために、よく通る吠え方が求められているのだから、クロには酷なことだ。

一番効果があったのは「水」で、夜中でも無駄吠えをしている時には上のベランダから、掛けることもしばしばあった。

また、水鉄砲を用意していて、無駄吠えをすると掛けることも効果があった。

そうする内に、無駄吠えをすると怒られるので、来客の時以外はほとんど吠えなくなった。

だから、吠えると来客だと思って、玄関に見に行くことが夫婦とも習慣になった。

しかし、今回はそれを逆手に取られて、来客でも無いのに吠えて、二階にいる私を呼び寄せた。

要するに来客があるふりして、私を呼び寄せて散歩や餌をねだろうとしたのだ。

うちのクロはこういう嘘もつくことがあって、餌をもらって食べているのに、帰宅した家内に餌を貰っていないような鳴き声をしてもらったりした。

だから、嘘をつく犬として、鳴き声には疑ってかかってもいる。


私は、元猟犬に「お手 おかわり」をさせるのもおかしいと思って、そういう類いのしつけはしていない。

むしろ、捨て犬から野良犬になったので、普通の飼い犬に戻すのが大変だった。

猟犬を散歩している人を見ると、猟犬は匂いを嗅ぎ回ってまともには歩いていない。

そのような犬を私の横について歩けるまでに、何年もかかってしつけたが、それでも匂いを嗅ぐ癖は残っているし、突発的にネコなどの獲物に飛びかかろうとする。

そんな、野性に近い犬だが、何を求めているかは仕草や、目で分かる。

家内は一方的にクロに話しかけているが、私は自分の意思は目で伝える。

怒っている時は、じっと黙って怒った表情で目でにらむ。

クロも都合の悪い時には目をそらすが、一番目をそらすのは糞をしていて恥ずかしい時だ。

散歩に行きたい時は、吠えると叱られるので、出かける方向をむいて行こうと誘う。

そういうようなボディーランゲージも身につけてるのである。


その肝心の目なのだが、虹彩の色が薄いので瞳の黒が強調されて、鋭い目つきに見える。

愛玩犬などは虹彩の色が濃くて、愛くるしい目に見えるのだが、ハスキー犬ほどではないにしろ、くっきりと鋭い瞳が強調される。

これは狼などと同じようにアイコンタクトの名残でもあるようで、人間の場合は白眼もしっかり分かって狼や犬と共通するコミュニケーションがなされている。

これは本来集団で狩猟をすることの共通性によるものだという。

犬も鳴き声である程度の意思を伝えていることは分かるが、何よりも目が雄弁に語っており、目を見ればだいたいの気持ちが分かる。

それに加えて、尻尾がうれしさや興味を持っていることの表現として分かるし、犬の方も人の発する言葉もある程度は理解できているようだ。

ただ、時々散歩している途中で、私が不意に歌い出すと怪訝そうな目つきで振り向いたりするが、さすがに歌の意味は分かるはずは無い。

そして、クロも夕方にサイレンが鳴ったり、救急車の音がすると調子外れの音程で遠吠えによる合唱が始まるが、これも私の歌と同じだろう。

これらは文化人類学者久保明教氏の言葉を借りれば、「結びつくことで以前とは異なる存在へと変化」としての「生成」と言うべきかもしれない。

私とクロとの間のコミュニケーションは、音声だけに頼らない、種を超えたれっきとした生成コミュニケーションなのである。





2024年11月9日土曜日

山すそのたまにカニ食う現代人

『南の島のよくカニ食う旧石器人』 藤田祐樹 2019 岩波書店には沖縄のサキタリ洞で旧石器人が食べたと思われるカニが多く見つかったことが面白く書いてある。

時々、カニの産卵でうじゃうじゃカニが道路を歩いている映像がテレビで放映されたりするが、その頃の沖縄でもそんな状況だったのかと思ったりする。

日本古来や奄美などでは、カニを使った幼児の発育祈願があって、子どもの健やかな生長をカニにあやかることがなされてきた。

奄美の与路ではカニを神様の使いという信仰があることも古老から聞かれた。

古来から人の生活や信仰と密接に関わっていたのがカニだった。


私の子どもの頃は、カニを捕るのが楽しみで、バケツと火ばさみをもって、近所の溝でカニ捕りをした。

小さなカニから大きなカニまで、捕ることだけが楽しみで、夕方には母親に溝に返させられた。

そのころも、一番捕って自慢できていたのが、千種川の川辺でとれる自分たちは「ムラサキガニ」と呼んでいた爪が紫色をした大きなカニだった。

川辺に行くのは小さな頃は親から止められていたので、夏休みなどは暑い中をひとり近所を歩き回ったのを思い出す。

食べるのは以前紹介したイシガニで、鍋いっぱいに湯がかれたのをよく食べたが、ズワイガニなどの大きなカニを食べ出したのは社会人になってからであった。

今でも、私は小さなイシガニの方が味が濃くておいしいと思っている。


赤穂に住んでいた時は、身近にカニがいて当たり前と思っていたのだが、上郡に住み始めて滅多に見ることがなくなった。

たまに、川辺で沢ガニを見かけたが、近所の溝には全くカニは見かけなかった。

ところが、実はモクズガニがいたはずなのだが、このカニは普段は穴に棲息するし、関心が無かったので、気がつかなかっただけだったようだ。

何年か前に息子が知り合いから、いっぱいモクズガニを貰ってきたのをおいしく頂いたことはあったが、買ったり捕ったりしようとは思わなかった。

私は海近くの育ちなので、淡水の魚はドジョウ以外は滅多に食べたこともは無かったし、家内が鮎を含む淡水の魚が嫌いなので、食卓には上らなかった。

だから、淡水のモクズガニにも関心が無かったのだが、自分の家の前の用水路にかなり大きなモクズガニを見つけたので、衝動に駆られてそれを捕まえた。


ネットで食べ方が載っており、大きな桶にいれて1週間ほど泥抜きをした。

そして、今日(11/9)はいよいよいただくことにして、まず竹串で絞めたのだが、動かなくなるまでけっこう時間がかかった。

その後の毛の生えている爪を綺麗にするのが大変で、包丁で削いだりしたが少し残ったりした。

蒸すのが一番おいしいと書いてあったが、胃腸も弱っているので茹でることにした。

そして、夕方にはありがたく頂いて、久しぶりにおいしいカニを味わった。

淡水なので生臭くないかと心配したが、海のカニと同じ香りと味で、ズワイガニなどより濃厚だった。

イシガニは足は細いので身が入っていないが、今回のモクズガニはかなり大きかったのでハサミだけでなく、足にも身が入っていた。

雄だったので、卵はなかったが、みそは格別おいしかった。


ずっと、1週間ほど泥抜きのために、水を替えたりたまに餌を与えてきたので、情も移っていたのだが、自然の恵みに感謝して頂いた。

モクズガニを食べると身体が温まるということも聞いたが、生きているところを知っているので、その命をささえた力を貰った気持ちになった。

釣った魚は水が切れると直ぐに死んでしまうが、カニは少しの水でしっかり生き続けるので、新鮮さを味わうことができるのだと思う。

その生命力に古来からカニを大切な食料と同時に、縁起の良い物として発育祈願に使ったのだろう。

そもそも、カニはサワガニ以外は海との関わりを必ず持っているということで、このモクズガニも海からの来訪者なのである。

今朝も、散歩していたらモクズガニの甲羅だけが川のそばの道に落ちており、おそらく野生の動物に食べられたのだと思う。

人間だけで無く、野生の動物の大切な食料ともなっていることが分かる。

旧石器の時代から日本列島、琉球列島ではこういうカニの恩恵を受け続けてきたのだろう。

この地域に住んでいたであろう古代人との繋がりをもモクズガニは感じさせてくれた。








2024年11月6日水曜日

子連れより犬連れ

 11月3日に加西にあるフラワーセンターに家内と行ってきた。

この晴れの特異日の日には、この施設や、丹波篠山に出かけることが多い。

昨日までの台風崩れの大雨に打って変わって、非常に良い天気で、各地でイベントが開かれて賑やかそうである。

まずは腹ごしらえと、加西の大きなモールに入ったのだが、そのキッチンコーナーで以前利用したこともある店が閉店している。

あれだけ流行っていたのにと思いながら、真向かいの店に入って今年初めての牡蠣フライの入ったセットを食べた。

早めに来たので、すぐに席に着けたが、店を出る頃には順番待ちの人でいっぱいだった。

食べられる店舗が減ったので、待つ人も増えたようだ。

モールも人が多かったので、フラワーセンターも多いだろうと、覚悟して駐車場に入ったが非常にすいている。

その理由は、入ってしばらくして分かった。


いつものようい、温室を見て回ってから、池のそばの遊歩道を歩いて、バラ園の方に向かった。

バラが殆ど咲いていない、それどころか貧相な枝振りなのだ。

これでは見に来る人はいないなと納得した。

いつもの年ならバラが無くても、紅葉の季節でそれを楽しめるが、それもまだ早い。

唯一綺麗に咲いているのは、ダリアであった。

噴水の周りの庭園にダリアが見事に咲いている。

この噴水の周りはよく子どもたちが楽しそうに遊んでいる風景が見られていた。

ところが、こどもがあまりいない。

私たちも子どもが小さい頃に連れてきていたのだが、子連れが少ないのだ。

それに代わって多いのは、ペットの犬を連れた夫婦や女性である。

バギーを押している人を見かけるが、そのバギーは犬用であったりする。


当然、犬の殆どが室内犬で、洋犬が多くて柴犬は少なくて、大型犬は殆ど見られなかった。

家内と我が家のクロを連れてきたらという話をしたが、そもそも身体を洗うことができないので、軽トラ以外では連れてこれない。

そしてたとえ軽トラで連れてきたとしても、他の犬を見たら興奮状態になって、抑えるのが大変なのだ。

クロはれっきとしたハウンド(猟犬)だから、こういう所に来ること自体が場違いなのだ。

この歳になると、車に一緒に連れて行けるような犬が欲しいと思う。

本来なら孫を連れて楽しませてあげるべき歳なのだが、孫がいないので愛犬と一緒に楽しみたい。


考えてみれば、私たち夫婦は子どもが直ぐにできなかったので、犬を飼うことから始まった。

当時は犬の価格も安かったので購入して、シェルティーのメスのモモを庭で飼っていた。

そのモモが12歳で死んだ後は、近所の紀州犬がかかった雑種を子どもが貰ってきた。

娘がトラと名付けたその雄犬は非常に娘になついていたが、10歳の頃に突然死んでしまった。

その後はしばらくいなかったのは、近所にはもう雑種の雌犬を飼っていてくれる人がいなくて高い犬を購入しなくてはならなくなったからだ。

今でもそうだが、高い費用を犬に掛ける余裕は無い。

そこで、ネットで調べて保護犬を譲り受けたのである。

今までで一番手のかかった犬となったが、孫のいない夫婦にとっては欠かせない存在となっている。

たぶん、これからも私たちのような夫婦には犬などのペットが必要に思えている。

子はかすがいと言うが、ペットも大切なかすがいとなっていると思う。


私の父母は室内犬を飼っていて、非常に可愛がっていたが亡くなってしまった。

その後、父も亡くなり、一人暮らしになった母は猫を可愛がるようになった。

実は室内犬も猫も弟に押しつけられたものだったが、親にとってはありがたい贈り物になった。

その猫も死んでしまった後で、猫を欲しがったが、世話ができるような状態では無かった。

きちんと、掃除や糞の始末をこまめにしていなかったので、ノミをわかせてしまい、来客者に迷惑を掛けていた。

それで、声の出るぬいぐるみの犬を自分で購入して、話しかけていた。

ペットより早く飼い主が死んでしまうと、残された人がペット好きではないと大変なようだ。

これだけ、人の生活に密着してかけがえのない存在になっているのだから、行き場を失っているペットの対策も重要に思う。






2024年11月3日日曜日

借地百姓の躍如

 我が家の近隣の家は農業調整池なので原則は農家で、普通は農地を所有しているが全く作物を作っていない家が増えている。

しかし、うちのように非農家が何軒か紛れ込んでいるのだが、我が家はちゃんと農業もしている。

農地は水田に関しては小作料もはいるので売る必要が無く地価も高くて簡単に手に入らないので、近所の農家から借りている。

その家は、跡継ぎが家を離れているので、私が管理することで無料で借りているのである。

いわば昔で言うところの水呑百姓であるが、小作料も税金も払っていない。

ただ、農地だけではなく、周りの道の雑草も刈り取らねばならなくて、手間と言えばそこそこ手間でもある。

私は引っ越してくる前の赤穂にいる時から、有機農業をしていて、草も生い茂ることが多かった。

だから、こちらで同じことをしていたら、完全に素人と見なされていた。

私自身も経験が乏しく、引っ越してきた当初はタマネギでさえまともに作れていなかった。


今年も、トマトもナスビも失敗し、キュウリも余りとれなかった。

近隣では畑は主に女の仕事で、男は手伝う程度なのだが、専業農家の畑は奥さんが立派に作物を作っておられる。

草が多くて、作物も実っていない私が作っている畑は、青々とした大豆や落花生、サツマイモ、オクラ、高黍などしか見る物がない。

落花生を知らない村の人からは「草だらけやん」と嫌みを言われる始末だった。

ところが、隣の家のNさんでは、我が家以上に不作で、大豆もサツマイモもできていないという。

旦那さんが調子が悪くて、奥さんに任せっぱなしだったせいもあるが、見た目には草もなく綺麗に育っている畑に見えていた。


この家からは、毎年のようにトマトの苗などを頂いていた。

ところが、何でも自分で作っておられるので、返す物がない。

田舎はもらったら必ず返すのが常識である。

農家には返す作物が難しいので、サツマイモと落花生を返礼用に作っている。

柿を植えてないので、近所のOさんから柿をバケツいっぱいもらうので、それに対するお礼はサツマイモでした。

隣のNさんは普段はサツマイモもしっかり作っているので、去年は落花生も不作で返礼できる物がなくて返せなかった。

それで、Nさんも今年はトマトの苗をくれることはなかった。

Nさんから不作を聞いて1年越しにやっとトマトの苗のお返しが、枝豆によってすることができた。

農家に作物をあげるだけに上達したことが嬉しかった。


他にも、近所の非農家の奥さんから、帰郷したお土産だと長野のお焼きを頂いた。

こういう場合はこちらも旅行した時の土産を返すのが普通だが、我が家は遠くに旅行などすることがない。

そこで、その奥さんにもサツマイモをあげたらたいそう喜んでくれた。

うちのサツマイモはシルクスイートなので、甘くておいしいはずだ。

普通のスーパーではあまり売っていないので、違いが分かってくれたと思う。

作物を返礼に使う時には、もらった物の価格が気になるが、そこは適当にするしかない。

家の木になっている柿と、店で売っている柿は品種も違うし、価格は分からない。

野菜の苗なども、品種もいい加減なのだ。

要は、とにかく気持ちを込めて返すのが大切で、貰いぱなしにはできないので、もしそういうやりとりをしたくない人であれば、もらうのを丁重に断る。

特に専業農家には返す物がないので、丁重に断ってきた。


田舎ではお金がなくても、こういう物々交換があるので、色んな物がかつてはやりとりされていた。

以前は、釣り好きの人がいたので、魚を貰ったりしていた。

トンドなどの折に、アワビや鹿肉、牡蠣などを振る舞う人もいて、酒を酌み交わしながらトンドの火で焼いておいしく頂いたりした。

そもそも、自宅で葬式をする人は、手伝いに来てくれた近所の人に飲食を振る舞うのが返礼のようなものだった。

最近はトンドも簡略化していき、葬式も家族葬で近所の人を頼まなくなったので、こういうやりとりはめっきり減った。

そんな中でも、自分が作った物を交換するというのが、田舎に住むことの意味だと思っている。

人によってはJAの直売所に出荷することを楽しみにしているが、出荷の手間やもしものクレームに対応できそうにないので考えていない。

もっと、作るのが上手になれば、余った物をどんどん贈与・交換できるのだが、まだまだそこまでは至ってはいない。

農家にも作物をあげられるようになっただけ、一歩前進はできた気がするが・・・・










2024年10月31日木曜日

自慢する空き缶

 今日(10/29)は空き缶の回収日だった。

我が家の近辺では、分別回収で定期的に空き缶も回収されている。

我が家から出る空き缶は、私と息子の飲む第三のビールが殆どだ。

先日も家内は第三のビール2ケース買ってきた。

2ケースいっぺんに買うと、ティッシュペーパー5箱がおまけでついてくるからだ。

我が家のティッシュは定期的なその店のおまけセールで殆どまかなわれている。

第三のビールは、季節限定品が結構あって、色んな味わいが楽しめる。

もともと家内も好きな方だったが、コロナワクチンの後遺症でリューマチになってから、お酒は飲むことができなくなった。

それでも私と息子とティッシュペーパーのために、季節遅れのセール商品を重いのに買ってきてくれるのだ。


今日もいつものように、愚犬クロと一緒に朝の散歩をしていた。

たまに通る地区の集会所に併設された公園の入り口に、回収してもらうための空き缶が置いてあった。

「ああ ここも今日は同じ空き缶回収の日なのだ」と思って何気なく見てみた。

なんと、ヱビスビールやビールドライなど、本物のビール缶ばかりが置いてある。

この地区の人の多くが、普段飲んでいる我が家の第三のビールの倍ほどの価格のビールを毎日飲んでいることにショックを受けた。

回収場所に置かれたビールの空き缶が、「すごいだろー 俺たちは」と自慢しているようだった。


さっそく、家に戻ってから、家内にそのことを言うと。

家内「さっき 持って行ったら、缶チューハイばかりやったで」

私「それやったら、うちの第三のビールより安いやつか」

家内「そう 100円そこそこのやつやった」

私「ふん それやったら 恥ずかしないな この地区で良かったな」


私は結婚して以来しばらくは、大瓶の本ビールを飲んでいた。

ビールの値段が上がったことなどで、缶ビールとなり、発泡酒となり、第三のビールとなった。

当初は雑味があって不味いと感じていたが、味も改良されて、最近ではそれほど抵抗はない。

それは第三のビールしか飲んでないので、本物のビールの味を忘れてしまったことにも関係がある。

現役で働いていた頃は、当然しょっちゅうあった飲み会で本物の瓶ビールが普通に飲めた。

退職してからは本物は缶ビールで一年に数えるほどの特別な日にしか飲めない。

村の特別な行事などで本物の缶ビールが出されると、喜んで飲ませてもらう。


今でも本物のビールを飲めない理由は、他にワインや焼酎、最近は日本酒も飲んでいるからだ。

これだけの種類を飲んでいて、本物ビールを飲むのは憚られた。

当然、ワインも安い箱ワインだし、日本酒も焼酎も安い箱入りである。

ワインや焼酎は炭酸で割って薄くしたり、日本酒も少しだけ味わうのが楽しみになっている。

たまに、近所のスーパーで普通のお年寄りが本物のビールを買うのを見かけるが、おそらく晩酌はそのおいしいビールだけなのだろうと思う。

一人暮らしらしい人は、1合瓶の酒とちょっとしたつまみを買うのを見かける。

たぶん、飲み過ぎないように一升瓶で買うのは避けているのだと思う。


人それぞれで飲み方が違うし、単に本物のビールを飲んでいるから裕福であるとも限らない。

健康上の理由からビール類は避けて、缶チューハイにしているかもしれない。

だけど、空き缶の回収ではその隠れた理由が分からないまま、値段の格差だけが強調されてしまう。

かつては誰もが瓶ビールや瓶の酒・焼酎を普通に飲んで、瓶は店に戻していた頃はこういうことは考えられないことだった。

その頃の家庭の経済格差はどの格付けの日本酒やウィスキーを普段飲んでいるかで示されていた。

これも今のビールに通じるのだが、税率の違いが等級に反映されており、貧しい人の飲む等級の税率を下げていた。

就職するまでは2級の日本酒に安いサントリーのホワイトやニッカのブラックだったように思う。

ビールは好みの銘柄だけの違いで、特別に大缶入りの生があっただけだった。

酒や焼酎が等級より銘柄で選ぶようになって、格付けをあまり気にしなくなったように、ビールも普段飲めるような低価格の地ビールなどが増えたら良いと思う。

税率をビール類を全部一緒にすることで、地域に根付いていた日本酒のようになるのか疑問は残る。

日本にも地ビール文化は根付いたら、空き缶に自慢されることはないだろう・・・・








2024年10月29日火曜日

心通ったぬくもりに支えられて

 私の貧しい大学生活のことはもう既に詳しくブログに書いてある。

あんなに貧しい生活をしていて、それが苦にならずむしろ楽しく暮らしていたのは、友達や仲間との愉快な関わりがあったことをその時に書いた。

しかし、この歳になったからこそ、昔のこととして書けるのだが、恋人がちゃんといてくれたからだと思う。

このごろは家内にも「貧乏学生だったけどもちゃんと彼女がいたんだぞ」と話せるようになった。

実はその恋人も下宿生であり、賄い付きの下宿で食事には不自由していなかったが、親から離れて淋しく暮らしていた。

私は通学生の女友達も多くできたが、本当に深く関わることができたのは下宿生の彼女だけだった。

互いの孤独は恋愛によって乗り越えられたし、私は彼女がいたからこそ貧しさが苦にならなかった。


それは大学生だったからできたのは確かだ。

仕事について、家庭を築き、子どもを育てるのに、今の日本では気楽な貧しい生活ではいられない。

ところが、以前紹介した田中二郎氏によると、狩猟採集民のブッシュマンの夫婦は気楽に結婚と離婚を繰り返して暮らして恋人関係とさほどかわりがない。

それは夫婦と子どもが基本の家族であるが、血縁関係や姻戚関係などを通して助け合いながら暮らしており、子育ては実母だけの責任ではなかったからだ。

そして、年老いた老婆以外は必ず結婚して暮らしている。

男性が早く死ぬ場合が多いので、一夫多妻制によって後家さんをなくしている。

食生活に関しては妻の働きの方が重要で、夫を通じてはたまに大切な肉が得られる程度だ。

食生活のために夫を必要としているわけではないのである。

因みに、移動生活なので住まいは木の枝で簡単なものを女性が中心に作り、家財道具も大したものはない。

ただ、男性には、狩りがうまかったり、リーダー的素養、女性の家事を手伝うなどの優しさが求められたようだ。

若い時なら性生活が大きな意味合いを持つだろうが、老いてきた男女にはそれほど重大ではないように思える。

こういうかつてのブッシュマンを考えると、人にとって生きる支えとなるのは何かということが見えてくる。


中村雅俊が歌ってヒットした曲に「ふれあい」(作詞山川啓介)があるが、その中に

なぐさめも 涙もいらないさ
ぬくもりが ほしいだけ
ひとはみな 一人では
生きてゆけない ものだから

このぬくもりは肌を寄せ合うだけではなくて、心が通じあうぬくもりだと思う。
どんなに貧しくても、どんなに老いていても、身体を寄せ合って温め合えて、かつ心の通じる人がいれば生きようと思える。
逆に、いくら金持ちであったり、好き勝手できても、心の通じない温もりだけでは孤独をいやしてはくれないということだと思う。

年老いても妻がいない男性の多くが短命だという。
単なる肌の温もりだけだったら、金を支払えばそれなりに解消できるだろう。
自分の暮らしの中にあってこそ、心通う肌の温もりが生きる力となる。
大学時代に貧しいのが苦にならなかったのは、そのぬくもりに支えられていたというのに、私はそれを自覚できずにいた。
だから、伴侶となった彼女に去られた後に、ふたりを知る親友から映画「道」の主人公のザンパノと同じだと言われたのだった。
大学院に入って欲や意地が出て、研究成果を示すために、心通ったぬくもりを大切にできなかったのが本当の別れた理由だったように思う。
大学時代の方が大きな夢やお金もなくても、心通ったぬくもりがあったからこそ幸せに暮らせたことを、この歳になって改めて気づいている。
今、年老いたればこそ、大きな夢や大した収入はなくても、家内とは心通ったぬくもりが大切だと、学生時代からの経験から身にしみてわかる。



2024年10月27日日曜日

ほんとの「豊かさは何か」

朝日新聞の「語る 人生の贈り物」の「暉峻淑子:14 誰もが諦めない、豊かな社会へ」につぎのような記事が載っていた

 

対話的研究会に参加している男性から先日、「『豊かさとは何か』は多くの人に読まれたはずなのに、30年後の今、状況はほとんど変わっていないのでは」と指摘されました。そのとおりです。社会保障は削減され、地球環境の破壊は進み、偏差値教育も変わりません。社会の格差が広がり、人々の分断と個人化が深刻化しています。


私も以前に氏の本を読んで感銘を受けたので、今回はこの特集記事を1回目からずっと読み続けていた。

氏が高齢にもかかわらず、ずっと活動を続けてきたことに尊敬の念を抱く反面、学者ができることには限界を感じた。

中島みゆきの「世情」の中にある、「学者は世間を見たような気きになる」という歌詞を思い出した。

読者は学者の鋭く見た世間に問題意識を持ちながら、結局は生き方を変える術を知らない。

学者になって成功した人の意見は確かに素晴らしいが、偏差値教育の勝者としての生活をしている人の方が多いと思う。

偏差値教育の勝者になれなかった者は、学者のくらしそのものは手本とならない。


私はむしろ、村の中で、高校しか出ていないけれど、子や孫と仲良く暮らしてる人が豊かさの手本を示してくれていると思う。

昔なら普通に思えた暮らしが、今住んでいる村では多くの人が手に入れることができなくなっている。

大学を出てしまったら、私のように公務員になる以外に、安定した企業への就職は余り望めないので都会に行く。

たとえ地元で大企業に入れても、全国展開の場合は単身赴任で家族と別れて暮らすことが多い。

貧しかったり、社会保障や医療が進んでなかったけれど、親戚や地域の人と助け合って暮らしていけた時代の方が、心豊かな時代だったと思えてきた。


ちょっと前のことだが、近所に親戚も多く、大きな家に暮らしていたお婆さんが亡くなった。

その際に、葬式は入所していた県外の施設の人がしてくれたという。

二人いた息子は既に他界してしまいその配偶者もいなくて、孫はとっくに家を出てしまっているので、まともに連絡がとれていなかった。

この家は隣の村の寺の檀家であり、密に関わっていたであろう住職に知らされることもなく、同じ村の人も亡くなったことをしばらくして知らされた。

たとえ社会保障のおかげで施設に入所できていても、こういう淋しい最後になってしまうケースが増えるだろうと思う。


そして思い出すのは、東京の大学院時代に名古屋の大学で教わっていた先生のお母さんがやっているアパートに住んでいた時のことだ。

同じアパートに大家さんとしてひとりで住んでいて、たまに一人息子の大学の先生も戻ってきていた。

その大家のお婆さんには電話を取り次いでもらったりしていたので、親しく関わっており頼まれごともしていた。

ある時などは、お婆さんは持病を患っていた関係で、強い薬に変わったので「もしもおかしくなった時は頼みます」とお願いされたこともあった。

私は事情があって、一年だけで別のアパートに引っ越しすることになったのだが、引っ越し当日のあいさつに際してはそのお婆さんの流した涙が忘れられない。

立派な大学の先生のお母さんでありながら、淋しく暮らす現実を既に40年以上前に東京で身近に知っていた。

それはその後の私の母親とても大なり小なり同じだった。

父が死んで一人暮らしになった時に、少し離れたところ住んでいたが、一緒に暮らすことができなかった。

それなりに経済力があっても、夫婦共に働いている状態では、家に受け入れることは難しく、母を友達のいる所から引き離すことも躊躇った。

それは母の近くに住んでいた弟家族も同じだった。


近所の3世代家族は、広い敷地を利用して別棟で住んでいる。

私も結婚に際してはそれも考えたのだが、複雑な事情もあってできなかった。

経済的な事情で同じ棟で同居する家族が今でもいることは確かだが、可能なら別棟や生活空間を分けて暮らすのがベストだろう。

私の両親は共に跡取りではなく、母の親と姉の母子家庭家族と隣接して協力し合いながら暮らしていた。

当時の両家族はそうしなければ、普通に家を建てて暮らせないので、相談し合って計画的に家を建てたのだった。

その姉妹を中心とした両家族も子どもが自立して生活が楽になった一方で、隣にありながら疎遠な関係になってしまった。


「ほんとの豊かさとはに何か」とずっと自問し続けてきた。

今の私には確かに年金があって子どもや親戚などに頼らなくても暮らしていける。

でも、私の両親がしていたように、子や孫と一緒に旅行に行ったり、楽しい盆正月を迎えることができない。

人は子育てで協力し合うことによって、生きがいを感じてきた。

狼が犬として人と一緒に暮らすようになったのは、子育てを協力し合う家族の共通性があったからだと思う。

人に老後があるのも、子育てを手伝うのを求められたからだとも言われている。

それができない私たちのような老夫婦は、孫の代わりにペットの犬に暮らしの潤いを求めるしかない。


また、結婚は私が若い頃は「一人で暮らしていけなくても二人ならば暮らしていける」と言われていた。

しかし、女性が社会進出できて男女平等になってきたので、男性に頼って結婚する必要がなくなった。

子育てを中心とした夫婦の意味が失われていき、「おひとりさま」であることや同性婚が社会的に認められるようになった。

また、性的欲求は商品となった性や自由恋愛にによって解消できるようになった。

社会保障や医療が充実してきたので子どもに頼らなくても良いし、親の面倒を見なくても良くなった。

出生数が減少するのは、子どもや伴侶に頼らなくても生活できる経済的豊かさも大きく原因しているように思える。

だから、子育てのために経済的に支援しても、子どもの出生数はそれほど増えないと思う。

一方で、経済格差が広がってしまい、国家としては経済的に豊かなのに、母子家庭を中心とした貧困や親の年金に頼る単身者が問題となっている。

経済的な豊かさが得られた人でも、夫婦愛や家族愛の心の豊かさを必ずしも得られない。

経済的な豊かさを得られなかった人は、親戚縁者などと助け合える関係が必ずしも築けない。

それが環境破壊や戦争の危機におびえながら、孤独に生きていかねばならない産業化された社会の宿命だと諦めるしかないのかもしれない。

ならば、産業化社会とは距離をとった方が、ほんとの豊かさを得ることができるように思えてならない。





2024年10月24日木曜日

闇バイト犯罪対策の番犬?

 少し前「うちのクロは立派な猟犬?」で、狩猟に用いる犬のことを書いた。

狩猟採集民はアンダマン人のように犬がいなかったところもあるし、アボリジニ人のように犬はいても狩猟に使っていなかったところもある。

犬を狩猟に用いるのは技術を要るし、野犬になったディンゴなどは仕込めなかったようだ。

どうも犬が一番活用されたのは、番犬としてと食用としてらしい。

狩猟においても、獲物を捕るためだけでなく、しとめた獲物の番をさせるのも重要な意味を持った。

薩摩隼人が都での警護で「犬吠」をさせられたことは有名だが、大和朝廷で犬養部等と呼ばれる人は、犬を使って屯倉等の警護を担ったという。


ずっと書いているようにうちの愚犬クロは、全く猟犬としても愛玩犬としても役に立っていない。

唯一役に立っているのは、番犬としての役割なのだ。

以前に、クロが失踪してしばらくいなくなった時に、一番に考えねばならなかったのは玄関の鍵である。

今までは少しの間出かける程度なら、厳重に鍵を掛けていなかった。

また、呼び鈴も壊れているので、直そうと思った。

それまでは、クロが吠えてくれるので、お客さんが来たら直ぐに分かった。

クロはその後保護されて戻って来たので、結局、鍵も呼び鈴も厳重にしていない。

ただ、これだけ闇バイトが横行して、地方にも拡大する情勢なので、近々直そうと思っている。


犬を世話をするのは確かに大変であると思う。

猫と違って毎日の散歩をしないと、やたら吠える犬になってしまい、近所に迷惑を掛ける。

うちの近所にも犬をたくさん飼っている家があるが、散歩が足りなくて無駄吠えが多い。

また、本当に犬が怖い人が近所にいて、その人はうちに回覧板を持ってこれない。

この男性のご老人は、幼い頃に犬に噛まれた経験があって、それ以来犬には近づくことさえ全く駄目だという。

クロは鎖でつないでいるし、人を噛む犬ではない、むしろ野良犬時代に人に危害を加えられたらしくて、石でも投げられたのか特に子どもを恐れる。

そういうことで、安全なのだが、その人は次の順番となっている我が家を飛ばして別の家に回覧板を持って行ってしまう。

犬にもそういう欠点はあるものの、室内犬にしろ庭で飼っている犬にしろ、番犬としての役割を見直すべきだろと思う。

私はそれに加えて散歩のお伴をしてくれるので健康面でのメリットもある。

一日一回は無理してでも散歩して、血糖値を下げられているからだ。

また、家内はクロと一方的におしゃべりして楽しんでいるが、老夫婦にとって良い話のネタになっている。

ただ、クロの最大の欠点は、家では強気のくせに散歩の途中で子どもがいたり、大きなトラックが来た時は主人を放って勝手に逃げようとすることだ。

飼い犬としては許し難い行為だが、捨て犬だった過去から勘弁してやるしかない。


今の時代はセキュリティーの弱かったり、老人や女性が闇バイトで強盗される時代だ。

色々面倒があったり、それなりの費用がかかるが、闇バイトの犯罪対策に番犬が役に立つように思う。

闇バイトだけでなく、訪問販売などへの対策にもなると思う。

犬が苦手な人や世話が無理な人用に、ドロ-ン型番犬ロボットが家を警護してくれる時代になるかもしれないが、一般への普及はまだ先のことだろう。

私の子どもの頃は貧しい人が多かったので、こそ泥やかっぱらいが多かったが、今はゲームや賭け事などで借金を抱えて闇バイトで盗みや強盗が増えているという。

狩猟採集の時代から始まって、このネット社会の時代まで、人間は犬の警護に頼らざるを得ないようだ。

だからこそ、その人間の代理として生活を支えてくれた犬とは、これからも持ちつ持たれるで互いに共存すべきだと思う。


追記

 この記事を書いた後で、『闇バイト強盗が"狙う家"と"避ける家"の違いは…キーワードは「犬」と「ダミーカメラ」』というネット情報が流れていた






2024年10月22日火曜日

未来はもう死んでいる

 先日、ネットのニュースでコウモリが感染症で激減して、害虫が増えてしまい農薬を多用することになった。

そして、その農薬多用の影響が新生児の死亡率を高めることになったという記事が載っていた。

新型コロナインフルエンザはコウモリからの感染を原因とされたが、逆にコウモリを激減させている「白鼻症候群」は人間が持ち込んだという。

私が、今の村に引っ越してきてしばらくはコウモリが多くいて、時々家の中に入ったり、庭の物陰に居着いたりしていた。

いつのまにか、そういうコウモリが殆ど見かけなくなってしまった。

これは、以前書いた雀やツバメが非常に減ったことと関連しているように思う。

何度も繰り返し言っているように、高濃度の農薬をドローンなどで空中散布しているのが大きな原因だと思う。

害虫と共に、害虫を食用としていた動物が激減していったと思われる。


近年、大根や蕪がうまく栽培できない。

大根ハムシが大量発生して、いくら不織布などで覆っても食い尽くされてしまう。

以前は、大根・蕪は放って置いても簡単にできたし、たまに青虫がつく程度で虫の被害はあまりなかった。

近所の人も無農薬で栽培している人は、同じことを言っている。

すくすくと立派に育てている人は、農薬をちゃんと使っている人だけだ。

ただ、山の中腹や田んぼのそばの畑で作っている人は、農薬を使わなくても害虫にあまりやられていないようだ。

つまり、山の中は害虫の天敵が健在であり、田んぼのそばは空中散布などの農薬が有効に効いていると言うことだ。

私は最近特に、アマガエルが減ってしまっていることが気になっている。

おそらく、今まではアマガエルが大根ハムシをかなり食べてくれたのかもしれない。

これを実証するのは難しいが、Youtubeで自然農法を配信している離島の農家がこの害虫に困ってないと言うから、天敵が健在なところでは大丈夫なのだろう。


おそらく、普通に店で売られている大根や蕪はしっかりと農薬がかかっていると思う。

アメリカでは新生児の影響を統計的に出しているが、健康被害全体に農薬の影響を調べるのは難しいだろう。

シーア・コルボーンの『奪われし未来』では、「内分泌系の攪乱のメカニズム」が述べられて井口泰泉氏が名付けた「環境ホルモン」として有名になった。

農薬の人への影響は分かりづらくなっているが、動植物への影響は既に顕著に表れている。

物価高の時代に値段の高い無農薬・無化学肥料の農作物を手に入れることは困難なことは事実だ。

私は自分で作って節約している代わりに、ネットでそういう高い農産物を購入している。

先日買った小豆はスーパーの3倍の値段がついていた。

しかし、そういう農家を応援するつもりで買っている。

JAの直売所も低農薬の作物を積極的に販売しているようだが、根本的に農薬の空中散布を請け負わないで欲しい。

一方で、離島や山奥の小規模農家が自然農法や有機農法に活路を見いだしていけるような支援を政府が行って欲しい。

これは農家だけの問題ではなくて、生活者全員の問題だと思う。

安い農産物しか売れない時代に、農家は農薬にたよらずを得ない。

その農薬が動物を殺し、消費者の命をも脅かしている。

昔の人は米などの作物に神が宿っていると考えていたから、単に価格だけのやりとりではなかった。

現代人は家畜・栽培化(domestication)は、動植物との共進化だということを肝に銘じて安く買いたたくのはやめよう。

自然界の動植物と共に生きる思想を失ったとしたら人間の未来はもう死んでいる。





2024年10月18日金曜日

もしも ピアノが弾けてたら

 俳優西田敏行が亡くなった。

私は、高校生くらいから西田敏行に似ていると言われ続けていた。
当時の若い世代では、三枚目俳優の西田敏行に似ていると言われるのは、容貌をからかわれているに等しく、そう言われた私は苛ついた。

知り合いから「西田トシちゃーん」とからかわれるのが嫌だった。

でも、西田敏行本人は好きな俳優だった。

私が西田俊行が演じた役で一番好きまなのは「池中玄大80キロ」だ。

今の私は87キロあるが、身長が174cmあるので、80キロ超で166cmの西田俊行とは同じような体型なのかもしれない。

ただ、私は彼のような俳優になりたいとは一度も思ったことはなかった。

でも西田敏行や六角精児を見ていると、自分にはできそうにないけど役者の魅力が分かる。

単に役を演じさせられているのではなく、人間の色んな面を自分の個性として表現できる面白さがあると気がついた。

今では西田敏行に似ているといわれるのは褒め言葉のように思えるようになった。

でも最近は大物俳優になりすぎていたので、言われることはなくなっていた。


今回の訃報の報道で、色々と知ったけれど、中でも売れるまでの苦労話は身につまされた。

彼をあれだけの俳優に育てたのは、養父母であり妻だったのだ。

彼はそれにしっかりと応えて、感謝を忘れていなかったようだ。

自分も研究者を志した時に、支えてくれる人がいながら、それに応えられるような謙虚さが貫けなかった。

彼は大物俳優や仲間とうまく関わって愛される存在になることができていた。

私も大学時代には森繁久弥のようにうなぎを食べさせてくれる先生がそばにいてくれた。

大学院でも、伴侶以外にも多くの先生や先輩が手を差し伸べてくれていた。

その支えにちゃんと感謝して応えようとする気持ちがあったら、研究生活は破綻することはなかったと思う。

その破綻のことは「されど1年」で詳しく書いている。


役者も研究者も似たところがあるが、研究者は定職に就くこともできるし、教師などのつぶしがきく。

役者は仕事が無くなってしまえば終わりだし、つぶしもあまりきかないという厳しい環境だ。

いっぽう、役者は経済的に大きな富を得たりや多くの人に愛される存在になれる。

そんな中で自分の容貌や性格をうまく活かして、大成していった西田敏行は尊敬すべき人だと思う。

しかし、その努力や苦労のはけ口としてのたばこや酒が、身体をむしばんでいたことも確かなようだ。

私も酒・たばこが原因で、既に大学時代に十二指腸潰瘍を患い、大学院では修論執筆中に医者から入院を指示されるほど悪化させていた。

その時は入院せずに薬と運動・節制で回復させたが、その後もたびたび再発していた。

もし、研究者になっていたら、彼よりも短命だったかもしれない。

役者も研究者も身体を犠牲にしてしまうところの共通点はあるようだ。


作詞阿久悠の「もしも、ピアノが弾けたなら」は、不器用な人間の気持ちを歌ったものだが、西田敏行自身は大変器用な人間だったと思う。

何でも器用にこなせる人こそ、不器用さをまとって歌い多くの人を魅了した。

単に器用だけではなくて、山田洋次監督に楯突くなど反権威主義の精神と実力をも持っていたようだ。

私自身は本当に不器用なので、気持ちを伝えることができるピアノが実際に弾けてたら良かったと思う。

バンド活動でも、ピアノが弾けてたら道が開けていたかもしれない。

私を支えてくれている伴侶や先生に、感謝の言葉を伝えられるすべを持ち合わせていない不器用者だった。

そして、何より実力もないのに権威に楯突いて潰れていった。


だけど ぼくにはピアノがない きみと夢みることもない

心は いつでも空まわり 聴かせる夢さえ遠ざかる


実際に私の夢は若き日に糟糠の伴侶と共に遠ざかってしまった。

彼は私のように不器用な者の気持ちを歌やドラマ・映画でうまく表現してくれていた。

不器用な人間をあえて演じることで、彼は役者として励ましてくれていたのだと思う。

彼のように深いところまで気持ちが伝わってくる俳優は、これからもそう生まれないように思える。

私はかつて西田敏行に容貌だけでも似ていると言われたのだから、もう少しは彼に近づきたいと思う。









2024年10月16日水曜日

中学受験の動機と成り行き

 私は中学受験をして私学に中学高校と通った。

以前は、「おぼっちゃま だったのね」と、同僚の女性から嫌みを言われたりしていた。

私は開き直って、「そうやで おぼっちゃん やったんやで」と嘯いていた。

しかし、現実は赤穂市から特別に奨学金を借りて通っていた。

この奨学金は貧しくても勉強を頑張る生徒のためのもので、母親から民生委員の人が口添えしてくれたと聞いていた。

奨学金の返済は親がその後に払ってくれたが、詳しくは聞いてなかった。

自分自身は、大学、大学院と奨学金をもらっていたが、教員になって免除されていたので、親の苦労には無頓着だった。


なぜ、そこまでして授業料の高い私学へ行ったかというと、自分自身は良い大学へ行くためという意識はあまりなかった。

自身の子どもを私学に行かせていた担任の先生の強い勧めで、特に母親がその気になったのだが、私は最初はあまり乗る気でなかった。

ただ、一匹狼的なゴンタクレ(ガキ大将)であった当時の私は、となりの町の番長グループに絡まれて、同じ歳のガキ大将とタイマン張って殴っていた。

私は殴り合いの喧嘩は殆どしなかったが、剣道を習っていたので打ち込む術に長けていた。

そのガキ大将とは中学校から同じ校区で一緒になるので、面倒なことになることで気が重かった。

後に小学校の同級生(剣道少年団でのライバルのガキ大将)にそのガキ大将のことを聞いたら、彼はその男と中学校では喧嘩を続けていたという。

当時はほんとの「おぼっちゃま」を除いて、そういう喧嘩による番長支配が公立中学や一部の高校では当たり前の時代が続いていた。

私の父親からも、自分の喧嘩の話は聞かされており、「負けて泣いて帰ってくるな」とよく言われていた。

そういう、番長支配の世界を脱出できるのが私立中学だったので、担任の先生は勉強はできたがゴンタクレである私の将来を考えて強く勧めてくれたように思う。

家内は私とは違って、女子校の私立中学に行っても大した大学に行けそうになかったので、受験しなかったと言っている。

普通の女子は番長支配の関係はなくて、むしろいかに勉強で男子よりも有利に立つかを考えていたようで、公立の中学高校では勉強に励んで良い成績だった。

そういう家内も一流大学を目指しながら、3流大学に甘んじたので私と結果は同じだった。


当然ながら、私立中学へ入ってからは、良い大学に入らねば恥ずかしいとは思っていた。

ただ、大学がどういうところで、大学を出てどういう職業に就くかを漠然としか考えていなかった。

とにかく、私は入って恥ずかしくない大学を目指す程度で、ちゃんと将来を考えて医学部や東大京大を目指した同級生とは大違いだった。

中学受験では、同じように受験した同級生への対抗心や落ちたら格好悪いと必死に勉強し、合格できたこと自体は嬉しかった。

何せ、当時の公立中学校は丸刈り強制であったのがしなくて良いし、制服もネクタイに背広で格好良かった。

赤穂にあっては、私が育った柄の悪いと言われた町とは、距離を置けることで卑屈にならずに済んだ。

受験勉強の延長で中学校2年生くらいまでは何とか上位の成績でいられた。

しかし、当然ながらちゃんとした大学進学の目的のない状態では勉強に熱が入らなくなっていった。

結果としては、ロックバンド活動や男女関係にのめり込んで勉強が手につかず、教師からは不良グループとして嫌われる仲間の一員になった。

さすがに体裁悪くて直前には焦って大学受験をがんばったが、一浪しても3流大学しか入れなかった。


その程度の大学なら、何も高い授業料を払ってまで、私学に行かせる必要がなかったというようなことを父親には言われた。

母親は歌手になりたかった方なので、私のバンド活動を容認していたのだが、それが悪いと父親からずっと責められていた。

確かに結果からすればそうなのだが、今となれば私学に行って良かったと思っている。

何せ番長支配の世界から抜け出せたことは助かった。

実は、小学校の頃は女子からさえ恐れられるほどの悪ガキだったが、軟派な不良程度に修まることができた。

そのおかげで、公立中学校・高校出身の生徒よりも歌に恋愛に自由を謳歌できた。

そこらへんが、中学高校と勉強での競争にさらされて、恋愛に無縁だった家内とは大きく違っていた。

こんな二人が結婚したのも、見合いという仕組みがまだしっかりと残っていたからで、常日頃、「普通ならふたりは恋愛結婚はありえなかったね」と私は言っている。

ただ、3流大学まではその延長上で何とかなったが、権威による試練にさらされた公立の大学院でしくじった原因はこの自由気ままな姿勢からだったのだろう。

一方、教師になってからは役人型教員と肌が合わず苦労もしたが、番長支配が残っていた学校以外では生徒とはうまくやれたと思う。

現在は東大京大の合格者ランキングでは低迷している母校だが、自分にとってはありがたい学校だった。










2024年10月14日月曜日

狩猟採集民はなぜスリムか?

 このところ狩猟採集民の民族誌を読んでいるのだが、考えさせられた。

狩猟採集民は確かに運動量も多いが、仕事時間は産業社会の勤労者より少ない。

食べるものも比較的豊富だが、保存方法が限られているので、みんな分配し合って食べてしまう。

余った時間はゆっくりくつろいで、眠ったりおしゃべりしている。

食料は狩猟による肉よりも採集された植物系のものが主体だ(冬場の高緯度地帯は例外)。

ところが、狩猟で大量の肉が手に入ると、一部は干し肉等にするようだが、殆どは食べてしまう。

そして、何よりも思い切り食べた後で、歌ったり踊ったりして楽しみ、おなかがすくとまた肉を食べるという。

場合によっては、翌日の朝が過ぎても踊っていることもあるという。

あまり儀式や祭りらしいものがなくて、大きな獲物が手に入った時が祭りのようだ。

そして、食料の少ない季節には、歌や踊りは殆どないようだ。


そこで思い出したのは、奄美の人が八月(旧暦)には、毎晩踊り明かしていたということだ。

この季節は季候も良く、食料にも恵まれている時期である。

本土では盆踊りとして、月遅れの新暦8月に踊ることが多くて、新暦10月頃には秋祭りで神輿やだんじりで身体を動かす。

本土の踊りは食料とは関係ないようで、有名な青森のねぶた祭は七夕との関係があるそうだ。

本土ではどうも踊りは食料とは切り離されているようにも思える。

その点で言えば、奄美や沖縄の方が食料や飲食と密接で自然に思えてくる。

祝い事の宴会の最後では六調などの踊りで締められるのが普通で、特に沖縄の結婚披露宴の締めでの全員参加のカチャーシーは圧巻だ。

飲食でいっぱい身体に栄養を入れた時は、歌ったり踊ったりする方が肥満にならなくて健康的と言える。

最後に踊ることを考えたら、泥酔することもできないだろう。


そういうことでは、私の父母が生きていた頃は、両親と兄弟家族が集まって飲むと必ずカラオケに行って、歌うことはもちろん、場合によっては踊ったりしていた。

この家風は家内には全く合わなくて、カラオケボックスから帰ってしまうことの方が多かった。

家内の方は親戚が集まってもカラオケをすることはなくて、ひたすら飲んで食べておしゃべりをしていた。

だから、夫婦でカラオケに行くことは全くない。

職場での忘年会ではカラオケが定番だったが、私は職員バンドを組んで演奏するのが楽しみだった。

機材を持って帰らねばならないので、飲めないケースもあったが、翌日持って帰ることにして宴会を楽しんだりした。

現役の教員をやめて一番淋しく思うのは、仲間と飲む機会がなくなったことだ。

職員全体の宴会だけではなくて、気のあったもの同士が飲食した後で、よくカラオケに行って楽しんだ。


このところ、肥満を解消するために、酷暑の中で無理な散歩や水泳をして、かえって身体を壊してしまった。

これからは、狩猟採集民を見習って、歌や踊りをもっと取り入れて、楽しみながら肥満解消をしたいと思う。

ご婦人方はカーブスなんかでの運動が人気だそうで、それはおしゃべりしながら運動できるからだそうだ。

競技スポーツと違って健康スポーツは楽しくないと長続きしないと思う。

今まで、競技スポーツ型の水泳練習をしていたが、仲間とおしゃべりしたり、楽しい泳ぎを工夫した方が良いと思うようになった。

また、パソコンを使っての一人カラオケやギターの弾き語りも大切だと思う。

そういえば狩猟採集民も、狩りの仕草を踊りに取り入れていたが、日本では安木節が似たようなものだろう。

男にはフラダンスなどの踊りがないので、ああいう座敷芸などを練習するのも楽しいかもしれない。

歌と踊りは人類にとって、健康と喜びに欠かせないようことを、狩猟採集民から改めて教えられた。





2024年10月12日土曜日

不都合な核兵器の真実

 被団協のノーベル平和賞が決まった。

日本は、核兵器禁止条約に加盟しないままである。

理由は、同盟国のアメリカの核の傘に守られているからである。

そもそも、そういうことは核兵器の存在自体を容認していることになる。

核の傘の本質は、守ってもらっているだけでなく、脅されているのだということもちゃんと報道しなければならないと思う。

唯一の被爆国日本が核武装をすることに一番反対するのはアメリカだろう。

アメリカは核の使用を正当化しているのだから、日本が広島・長崎の報復として核攻撃をしても文句は言えないからだ。


アメリカに守られているし、脅されているから核兵器禁止条約には賛成できないと、政府も正直に言えば良い。

核兵器を禁止するには、アメリカが原爆投下の過ちを認める以外に、道は開けないことくらい分かっている。

被団協がノーベル平和賞をもらっていなかった理由に、アメリカの存在が大きかったと言われている。

被団協がアメリカへの賠償を求めているように受け止められていたともいう。

核使用の現実が迫って、さすがのノーベル賞も被団協を前面に出さざるを得なかったのが現実だろう。

そもそも、プーチン自体がアメリカが原爆投下してうまく日本を支配しているのに、なぜ使って悪いのだと思っているようだ。

今使わないのは、まだ勝つ見込みが立っていないからだ。

アメリカが原爆を投下できたのは、勝てる確証があってとどめを刺したのと、次の対ソ連戦略からだというのは分かるはずだ。

万一負けていたら、ドイツのホロコースト同様に大量虐殺として断罪されていただろう。

朝ドラの「虎に翼」のおかげでモデルである三淵嘉子氏の「原爆裁判」がやっと注目され始めたが、戦争犯罪であることを訴え続けるべきだ。


日本政府は世界の核兵器の現実から逃れられないことは確かだろう。

核兵器さえ持っていれば、脅しにも使えるし、攻め込まれて征服されることはないからだろう。

しかし、そういうの国家の戦略と対抗して世界中の人々は連帯し、核兵器廃絶の運動を繰り広げられるはずだ。

その一歩は、アメリカの原爆使用の誤りの共通理解から始めるべきだろう。

被団協などの活動が、核兵器使用をタブー化していったとも言われているが、核兵器所有もタブー化していくべきだろう。

地球環境問題への世界的な市民運動と同様に、核兵器廃絶の市民運動を繰り広げるべき時が来ていると思う。

核抑止力が核脅し力になったウクライナ戦争や、イスラエルの核施設攻撃の可能性がある今だからこそ、ノーベル賞が与えられた。

そして、日本人はこの「不都合な核兵器の真実」から目を背けずに、核兵器廃絶に取り組む歴史的責任を背負っていると思う。



2024年10月8日火曜日

酷暑に耐えた作物たち

 今年は、酷暑に雨不足で、夏物野菜は早々と駄目になった。

そんな中で、元気なのはオクラだけと以前書いたが、実は落花生、黒大豆、サツマイモなども何とか枯れずに残っていた。

落花生をまず最初に少し掘ってみたが、まだ大きく育っていなかった。

おそらく。水が不足して実が大きくならなかったのだろうが、小さいのがいっぱいついていたので、他のはしばらく置いておくことにした。

次に、サツマイモ(シルクスイート)を掘ったが、元気が無いので最近水をやってきた甲斐もあったのか、芋はそこそこできていた。

黒大豆も枝豆として食べようと一株刈り取ってみたが、やはり水不足なのか実は太っていなかった。


私は、黒マルチ(地面の覆い)を使わず、草マルチでやったが、しっかりとマルチングができていなかったので、草がかなり生えてきて、それを刈ったり抜いたりが大変だった。

草マルチを用いる自然農法というのは、そんなに容易いものではないことを思い知らされた。

ただ、苦労の甲斐あって、草と一緒ではあるが、元気に育ってくれて一安心した。

このところ、気温も下がって、雨も降り出したので、これからもっと太ってくれると思う。

一方、期待を込めて育てた高黍(コーリャン)は実が殆ど入っていない。

干魃に強いとされるのだが、枯れない代わりに実が殆ど太らなかったので実験的に秋植えの高黍を育てている

周りの稲は元気に育って、今収穫を迎えている。

やはり、水田はこういう日照りや高温に耐えられる優れものだと思い知った。

ちゃんと、川からの水を絶やさず、万一のための貯水池も作ってある。

こんな、破綻気象でも水稲だけは問題なく育っていたのだ。

日照りに不作なしというのは、こういうことであり、むしろ冷害の方が稲には悪いことが実感して分かった。


以前には、温暖化の時代は、稲よりも芋の方が適していると言われていたように思うが、里芋などは暑さで葉が枯れてしまった。

いくら、水があっても暑さにあの広い葉っぱは持たないようだ。

そういえば、池の蓮もずいぶん枯れていたのが、このところ涼しくなって復活してきた。

広い葉を持つ植物はどうも高温に弱いようで、考えてみれば熱い乾燥地帯で育つのは葉のないサボテンだった。

一番早くに駄目になったのはキュウリだったことを考えても、大きな葉を持つ作物は日照りと高温に気をつけねばならない。

これからは暑さ対策の寒冷紗が必需品となるだろう。


私は酷暑の時代で稲に代わる作物を考えたが、今年に関しては稲が一番耐えられる作物であることが分かった。

メタンガスを多く出す水田から乾田で栽培することも考えているようだが、水田だからこそ高温に耐えられたように思う。

ただ、西日本は台風による風水害をあまり受けなかったことも今年は幸いしている。

台風の常襲地帯の琉球諸島や南九州では、稲よりもサツマイモなどの方が適していることも事実である。

私自身は、現代の機械化された稲作に取り組むの二の足を踏んでいるのだが、資金面もさることながら安全面でも不安を抱えている。

今朝の朝日新聞の記事に、農家の事故の多さは、他の産業の10倍だと書いてあった。

一番の原因は高齢化とされるが、機械化されてなければ、起きない事故ばかりだ。

土木建築現場で、機械化されてそれを担うのは決して高齢者だけではないことを考えれば、いかに今の機械化農業が問題を抱えているか分かる。

現在は稲ばかりでなく、商品作物の殆どが機械化されてきているのだから、高齢者ばかりに頼らない人材確保が急がれる。


政府は時給を上げて臨時職員の生活を安定させようとしているが、時給が上がったらますます、農業は機械に追いまくられるだろう。

大型野菜農家で働いた年配の人から聞いたのだが、機械に併せて作業するのはかなり厳しいものだそうで、二度と働きたくないと言っていた。

テレビのニュースや特集では子どもたちののんびりした農業体験が流されているが、収益を上げるための機械化農業のことも知っておく必要があるだろう。

今回の米騒動から対策すべきことは多くあるのに、政治家は政策よりも選挙対策でまともに機能していない。

都市に住む人はせめて関心を持って、農家を支援する世論を作り上げて欲しいと思う。





2024年10月4日金曜日

私を導いてくれた光バイト

 今は闇バイトが世間を騒がしている。

ネットで集められた若者が中心に、高齢者や女性の単身者を狙って強盗に入ったりしている。

捕まれば一生台無しになってしまいかねないリスクを冒すほどのうまみがあるように思えない。

目先の高額なバイト料にだまされて、その世界から抜け出せない若者も多いという。

それよりも、汗水を流して働いた方が良いと思うのだが、小さい頃からTV・PCゲームばかりしていたとか身体を動かす経験の少ない人にとっては、どだい無理な話なのかもしれない。

また、そういうバイトをする若者は相談する相手がいないというので、気軽に相談できる窓口も必要なのだろう。


私は中学受験や大学受験で机に縛られていた時期を除いて、身体を動かす方が多かった。

バンド活動でもボーカルやギターでも結構体力が必要だった。

そして、大学時代にサークル活動としての村落調査に必要な金に困ってやったのは、土方(土木作業)のバイトだった。

弟は旧帝大に入っていたので、地元の赤穂に夏休みに戻ったら家庭教師の声がかかった。

私は三流大学の私学であって、短期間でも頼まれるほどの価値がなかった。

ただ、理科系の色白スリムな弟には彼女はなくて、文系で色黒マッチョな私にはちゃんと恋人がいたので、釣り合いはとれていた。

私学であっても家内のように自宅通学していた大学生は家庭教師や塾などのバイトも相生にはあった。

地元赤穂では国公立に通学している学生が殆どいなかったので、夏休みや春休みだけでも頼まれることがあって、医学部に行った多くの同級生も同じようにしていた。


私のバンド仲間だった同級生は、早大法学部の学生だったが、家庭教師や塾は不向きだったので、あえて地元でも東京でも建築現場でバイトしていた。

私より高額の日給をもらい、地下足袋をちゃんと履いて、ビルの上にも上っていると自慢していたが、1980年頃私は日給5,000円で彼は7,000円くらいもらっていた。

以前、受験ドラマ「ドラゴン桜」で、夜の土木作業のバイトが実入りが良いと奨められていたが、大学生ならともかく受験生に向いているバイトとは思わない。

何せ夏の昼間の土方(田舎では夜間の道路工事等は殆ど無い)は、どうやって夕方まで体力を維持するかである。

元気の良い朝に体力を使ってしまったら夕方まで持たなくて、ペースをつかみ身体が慣れるまでに、最低一週間はかかる。

そして、昼休みはどんな場所でも眠る必要があり、汗に濡れた長袖シャツを干しながら、ランニングシャツ一枚で板の上で横になって日陰で眠った。

やっと夕方に仕事が終わり、家に帰って夕食を済ますと泥のように眠りこけた。

問題は仕事が無くなる雨で、身体安めには良いのだが収入面では都合が悪い。

「土方を殺すに刃物はいらぬ 三日雨が降れば良い」とか

「雨が続くと仕事もせずに キャベツばかりかじってた(赤ちょうちん)」の世界である。

まさしく闇バイトならず、晴れ頼みの光バイトなのである。

親方は母親の知人の断酒会を通じての知り合いで、親方のお母さんは日本語が得意ではなくて、電話で連絡を取るのに不自由があった。

親方は強面だが口数も少なく、無理なことを押しつけるようなことは無かった。

そんなきついバイトをしている私に恋人はよく気遣ってくれて、たまの休みに二人で旅行することもできた。


こういう土方をせずに済んだのは大学院時代で、東京の公立大学院生だったので、家庭教師や塾の仕事にありつくことができた。

しかし、博士課程の進学に失敗して地元に戻ると、教諭の病欠や短期留学での短期間の中学での数学や英語の臨時講師(校長特別免許)しかなかった。

これは1~2ヶ月ほどしかなくて、その間を埋める軽いバイトが赤穂には無かった。

そこで、役に立ったのが土方の経験だった。

要するに職安(ハローワーク)から赤穂市の発掘の人夫(作業員)の仕事を紹介されたのだった。

発掘現場は、重機も使うが、丁寧に掘ったり、削ったりする仕事があった。

一緒に働いている仲間は退職したり失業した年配者が多かったが、小指を詰めた中年も混じったりしていた。

また、ご主人が借金の保証人になったために家をとられてしまったご婦人もいたり、脳梗塞で軽い障害を持った人もいた。

暑い夏の作業も辛かったが、凍てつく冬の作業も同じくらい辛いものだった。

しかも、大学院の修士をいちおう修了していたが、考古学はかじった程度で何の役にも立たず我ながら情けなかった。

それでも、そのことがきっかけとなって、市の教育委員会の人が懇意にしてくれて、教員になる道も開けていった。

要するに、土方の経験があったればこそ、発掘に携わり教員になれたとも言える。


今は、ブラックな仕事として、教員の仕事は人気が無いので、私の経験が若い人の役に立たないかもしれない。

言えるのはどんな惨めな時であっても、それなりの下積みのバイトをすれば、何かのチャンスに結びつくということだ。

大学院の修士の時に生活が破綻して、当時は医者から出されたトランキナイザーを飲みながら死ぬことしか考えなかった者でも、土方を通して道が開けた。

そして、どんな不遇な身の上ででも懸命に生きていこうとしている人から人生を学んだことも大きな経験だった。

今でも村で暮らしながら村作業や農作業ができるのも、その土方の経験があるからだ。

今は土木作業の仕事は機械化されて、素人は簡単にできないかもしれない。

それでも、今は人手不足で探せば将来の光となるバイトは見つかると思う。

ゲームばかりしていて不健康だった身体を鍛え直すチャンスかもしれない。

下積みの仕事をしている人から、勇気づけられることもあると思う。