父は100tほどの木造船で、主に鷆和の御影石などを運んでいた。
私は母親と一緒に船に乗せられていたが、その時の写真を見ると、せいぜい2~3歳である。
ただ、はっきりとした記憶が一つだけあって、操舵室の下の船室で、泣いている時に、雇っていた若い兄さんに操舵室まで連れて上がってもらったことだ。
操舵室には舵の後ろに、子供がいられるくらいのスペースがあった。
一番怖かったのは、「あゆみ」という、船にかけられた幅30㎝ほどの板の橋でと岸壁を移動する時で、揺れると怖いので、たいていは親に助けてもらっていた。
また、便所は海に突き出した箱のようなものに隙間が空いていて、そこに排便するのだが、下の波が怖いのと、雨の日は傘を差してせねばならなかった。
船では自炊していたが缶詰が多くて、母はそれが原因で缶詰をその後滅多に使うことはなかった。
私には記憶が無いのだが、猫もかっていたようで、最近読んだ文献には船に高価な雄の三毛猫を乗せると縁起が良いということで、猫と船とは相性が良いのかもしれない。
船倉の上は板で覆われていて、傾斜はあったが広い遊び場のようになっていた。
私はそこから海に落ちそうになったのだが、干していた洗濯物を自分で踏んづけて壁になって、落ちずにすんだと母から聞かされていた。
父が船生活を辞めるきっかけとなったのは、船が遭難しかかったことだ。
私もかすかに記憶にあるのだが、明石沖の海峡で、時化の中で船のエンジンが止まってしまったそうだ。
波にのまれて転覆しそうな状況で、父は私に「金比羅船船船」を歌えと歌わせた。
「金比羅船 船 おいてに帆かけて しゅらしゅしゅしゅ」
この歌は、訳も分からず教えられていた歌で、同じ歌詞を繰り返し歌っていたと思う。
その甲斐あってか、船は転覆せずにすんだが、一家全員が死ぬ可能性もあった、この事故は廃業を決意させたようだ。
父は造船所の職工になった後でも、伯父の船の手伝いをしたり、伝馬船を改造して漁船にしたりしていた。
船乗りの大切な知識は観天望気で、空の雲の様子を見て、天気を予想していた。
何度も見方を教えてもらったが、結局私には分からなかった。
家にはその頃使っていた道具が残っていて、使える物は使っていたし、納戸にしまい込んでいたのもあった。
双眼鏡は結構長い間使っていた、気圧計は私は今でも時々見ている。
夜間の運航ランプは赤色しかないが、私が庭に飾っている。
第二播磨丸と書かれた浮き輪も庭で雨ざらしにしてしまっている。
上郡の農村地帯には珍しい物なので、海人の子孫を名乗っているような気でいる。
近所の人の中にはプレジャーボートを持っている人もいるが、私は維持費を考えると持てない。
せいぜい、SUPを楽しむ程度なのだが、海は最低月に一度は眺めに行っている。
名古屋に住んでいた時も、東京、横浜に住んでいた時も、むしょうに海が見たくなって見に出かけていた。
そのくせ、川や池、湖は苦手で、泳いだりしたいと思わない。
琵琶湖も淡水の嫌なにおいがあって、好きになれなかった。
逆に山育ちの人は海が苦手なようで、金づちの友人は泳ぎに行っても、海の中にさえ入らなかった。
今の私の夢は、釣りを楽しめるくらいの小さな船かカヌーを持つことだ。
少しでも海人生活に戻りたいと思っている。