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2024年6月29日土曜日

海人生活の頃

 父は100tほどの木造船で、主に鷆和の御影石などを運んでいた。

私は母親と一緒に船に乗せられていたが、その時の写真を見ると、せいぜい2~3歳である。

ただ、はっきりとした記憶が一つだけあって、操舵室の下の船室で、泣いている時に、雇っていた若い兄さんに操舵室まで連れて上がってもらったことだ。

操舵室には舵の後ろに、子供がいられるくらいのスペースがあった。

一番怖かったのは、「あゆみ」という、船にかけられた幅30㎝ほどの板の橋でと岸壁を移動する時で、揺れると怖いので、たいていは親に助けてもらっていた。

また、便所は海に突き出した箱のようなものに隙間が空いていて、そこに排便するのだが、下の波が怖いのと、雨の日は傘を差してせねばならなかった。


船では自炊していたが缶詰が多くて、母はそれが原因で缶詰をその後滅多に使うことはなかった。

私には記憶が無いのだが、猫もかっていたようで、最近読んだ文献には船に高価な雄の三毛猫を乗せると縁起が良いということで、猫と船とは相性が良いのかもしれない。

船倉の上は板で覆われていて、傾斜はあったが広い遊び場のようになっていた。

私はそこから海に落ちそうになったのだが、干していた洗濯物を自分で踏んづけて壁になって、落ちずにすんだと母から聞かされていた。


父が船生活を辞めるきっかけとなったのは、船が遭難しかかったことだ。

私もかすかに記憶にあるのだが、明石沖の海峡で、時化の中で船のエンジンが止まってしまったそうだ。

波にのまれて転覆しそうな状況で、父は私に「金比羅船船船」を歌えと歌わせた。

「金比羅船 船 おいてに帆かけて しゅらしゅしゅしゅ」

この歌は、訳も分からず教えられていた歌で、同じ歌詞を繰り返し歌っていたと思う。

その甲斐あってか、船は転覆せずにすんだが、一家全員が死ぬ可能性もあった、この事故は廃業を決意させたようだ。


父は造船所の職工になった後でも、伯父の船の手伝いをしたり、伝馬船を改造して漁船にしたりしていた。

船乗りの大切な知識は観天望気で、空の雲の様子を見て、天気を予想していた。

何度も見方を教えてもらったが、結局私には分からなかった。

家にはその頃使っていた道具が残っていて、使える物は使っていたし、納戸にしまい込んでいたのもあった。

双眼鏡は結構長い間使っていた、気圧計は私は今でも時々見ている。

夜間の運航ランプは赤色しかないが、私が庭に飾っている。

第二播磨丸と書かれた浮き輪も庭で雨ざらしにしてしまっている。

上郡の農村地帯には珍しい物なので、海人の子孫を名乗っているような気でいる。


近所の人の中にはプレジャーボートを持っている人もいるが、私は維持費を考えると持てない。

せいぜい、SUPを楽しむ程度なのだが、海は最低月に一度は眺めに行っている。

名古屋に住んでいた時も、東京、横浜に住んでいた時も、むしょうに海が見たくなって見に出かけていた。

そのくせ、川や池、湖は苦手で、泳いだりしたいと思わない。

琵琶湖も淡水の嫌なにおいがあって、好きになれなかった。

逆に山育ちの人は海が苦手なようで、金づちの友人は泳ぎに行っても、海の中にさえ入らなかった。

今の私の夢は、釣りを楽しめるくらいの小さな船かカヌーを持つことだ。

少しでも海人生活に戻りたいと思っている。




2024年6月27日木曜日

多様性の喪失が生んだ観光産業

 六世紀の江南(中国)の文化

「呉人の亡者【もうじや】、建康(今の南京)に住まいし、ちっぽけな冠帽に、ちんちくりんの着物。おのれを阿儂【おいら】と言い、ふたこと目には〈阿〉の連発。菰【まこも】の芽と稗【ひえ】が代用飯【めし】、茶が飲物代わり。じゆんさいの羹【あつもの】をガブガブ、蟹の黄【こ】をクチャクチャ。手には荳蔲【ずく】をつかみ、口には檳榔【びんろう】を嚼【か】む。(中崎)中洲のところで、魚に網うち、すっぽん掬い、菱の実・蓮の根に嚼【かじ】りつき、鶏頭【みずふき】を採り歩いて、蛙や蚌【あさり】の吸物の御馳走。(後略)『洛陽伽藍記』」


考古学者森浩一は、縄文時代の後期から江南文化の流れをくむ倭人が、西日本を中心に生活していたことを述べている。

現在では弥生時代開始が紀元前10世紀頃と古くなったので、弥生時代と言うべきかもしれない。

ただ、考古学は水稲栽培を目安に弥生時代としているので、上の内容では稲とはあまり関係なさそうだ。

それにしても、1400年前の江南の暮らしが、今でも日本に受け継がれていることに驚かされる。

よく、縄文人と弥生人の混血が日本人となったと言われているが、縄文時代から既に渡来による混血が始まっていることは最近のDNA研究で分かっている。

考古学の石器・土器の成果や、人骨が貝塚でしか見つからないので、縄文人は均質だと思われてきたが、それは誤りだろう。

貝、骨や竹、木材、草縄を用いた生活や、食人、風葬の習慣のある古代人の痕跡は日本では殆ど残らない。

だから、縄文時代の石器は北方系、人骨は南方系で矛盾したことになっている。

それより、現代人のDNAに残された多様性の方が確かなのだ。


近代では血のつながりを頼りに民族を創設してきた。

政治家が日本人の単一民族と口にしてきたのも、愛国心を煽り富国強兵のためだった。

日本人の多くは、先祖を国外に見いだそうとはしないのは、まさしく「作られた伝統」である民族意識からだろう。

その民族創設のために、言葉や暮らしぶりを均質させた近代こそ多様性を失った時代はないだろう。

その一方で、衣食住の全てが産業社会の流行に乗って見かけの変化をしてきた。

皮肉なもので、均質化・流行化された近代都市文化とは違う、古来の文化や自然景観がインバウンドの資源となっている。

しかも、観光産業は自動車産業の次に利益を上げているという。

こういうときこそ、我々の住む農村部は、観光産業に力を入れるべきであろう。

オーバーツーリズムに苦しむ観光地から、自然を楽しむ滞在型の観光地として取り組むべきだと思う。


私の住む上郡は赤穂のように観光資源はないが、コウノトリが飛来するほどの自然豊かなところだ。

平家伝説の残る裏山に登れば、遠く瀬戸内海も見える。

播磨高原の山々もきれいだし、千種川の清流や支流も自然がいっぱい残っている。

空き家が増えてきているのだから、それを活用するのも手だろう。

どうしても昔からの集落は、都市部からの受け入れが難しいので、過疎の進む新興住宅街を使うのも手だろう。

産業廃棄物のゴミ捨て場になるよりも、滞在型観光地として地域振興すべきだろうと思う。

赤穂市も忠臣蔵にあぐらをかいていて良かった時代は終わったのだから、近隣の地域ともっと連携すべきだと思う。


ちなみに子供の頃の私は赤穂の地元でとれる、子(黄)持ちの小さな海カニ大好きで、鍋いっぱいにゆでたカニをほおばっていた。

アサリだけでなくバカ貝(青柳)などは、天然物を採ってきておかずにしていた。

蛙は食べなかったが、田んぼの井戸にいるドジョウは大切な食料だった。

スッポンも多くいるが、料理方法を知っている人があまりいなくて、食べる人は限られている。

上郡ではモクズガニが千種川でよくとれて、知り合いは築地に卸しているという。

近所の高田川にもいるが、農薬の関係もあるので捕ろうとは思わない。

姫路のようにレンコンを栽培していないが、蓮池で地元の人の中にはレンコンを掘って食べている。

蕗も山に自然に生えているのを採って食べている。

このように倭人の生活文化がまだ残る地域での一つの産業として、観光も考えてみる必要があるだろう。

自然に優しい農業や山菜の採集を体験できるプロジェクトを考えても良いと思う。

私は稗ではなく、コウリャンの有機栽培に取り組んでいるが、中国浙江省河姆渡からの遺産である水稲も是非有機栽培をしてコウノトリを増やして欲しい。

そうすれば豊岡のように人も呼べるかもしれない。





2024年6月25日火曜日

そして神戸 そして日本

 内山田洋とクールファイブのヒット曲で、私は奄美の与路でカラオケを歌う時には、自分の地元の歌としてよく歌った。

神戸は奄美や沖縄へのフェリーの乗り場もあり、奄美出身の人も多く住んでいて奄美の人にとってもなじみのある場所だった。

実は、播州の人間にとっては、神戸は地元ではなく、よその街なのだが、私はたまたま予備校が神戸で、神戸にも住んだことがあり、なじみはある。

当初、新聞配達をしていて、この坂の多い街のマンションでの配達は、正直苦痛でいやな街だった。

私は阪急沿線だったが、JR、阪神と住む人の階層が分かれているのがよくわかり、格差社会を実感したし、神戸三宮の騒動も理解できた。

阪神大震災が起こるまでは、格差を秘めたまま神戸は華々しく発展していって、憧れの場所となっていた。

私は水泳部の生徒の引率で、県大会の開催されるポートアイランドに何度も通ったり、宿泊したりした。

しゃれたホテルに泊まり、しゃれた街並みを歩いたりした。

そのポートアイランドも震災をきっかけに衰退していった。


神戸 泣いて どうなるのか

捨てられた我身が みじめになるだけ


復興していってきれいになった神戸が、人口減少に悩んでいるという。

神戸郊外の三田などが元気なことと、比べてもちょっと違和感を感じるが、人を引き寄せる力を失ってしまったようだ。

私は横浜市にも住んだことがあるが、同じような立地で大違いとなっている。

関東大震災で被災した後も、復興を遂げた東京と横浜だが、その後の日本は戦争への道を進んでいった。

今度、関東圏で大震災が起こったら、神戸のように衰退していくのか、それとも戦争への道を歩むのか?


とにかく、昔と違って農村、山村や漁村に人口を増やす余力が残っておらず、都市部に人を送る力は失せてきている。

海外から人を呼び寄せない限り、大震災の復興は不可能だろう。

東京都の都知事選は少子化問題や戦争問題を取り上げているが、大震災への対応は後回しになってる。

コロナのパンデミックがいきなり来て、対応がまともにできなかったように、大震災が起こってまともに対応できないのではないか?

というより、計算上は被害が分かっているが、復興できると踏んでいるのであろうか?

東京は破壊と再建で江戸時代から再生してきたが、果たしてこれからの時代にそのセオリーが通用するのか知りたい。

結局世界の潮流からすれば、日本が「そして神戸」になってしまう懸念もある。

だけど、世界に取り残されていた江戸時代には、平和な時代が貧しいながらも続いたことも確かだ。

神戸も人口減を嘆くより、落ち着いた雰囲気のある街を守り続けるのも一つの手だとも思う。

私は新聞を配った後の夜明けの港が好きだったし、六甲山系を縦走した時の海や街もきれいで好きだった。


2024年6月18日火曜日

海人の現代

 以前、「となぜのじいちゃん」で紹介したが、父方の祖父は江戸時代の百姓の生き残りのような人だった。

本家の家長として、特別な存在で、船乗りをやめてからも庭師として、働き続けていた。

家は息子に譲っていたが、隠居部屋のような別室で、一人気ままに過ごしていた。

私の父は、その祖父をどちらかというと、恨んでいた。

それは家業の船での運搬業を仕込む親方の立場で厳しくされたからだが、それよりも高校資格が取れる1年前に中等学校を退学させてしまったからだった。

父は市役所などの公務員になりたかったようだが、祖父は家業を継がせることを第一とした。

その点で言えば、父の同級生で隣村の折方に住んでいた北爪さんは、大学を出て県庁勤めをした後で、赤穂市長になったことと大違いだった。


しかし、父は家業の海運業を辞めて、造船所の職工になった。

そして、教育パパになって、4人の子供たちを大学に入れた。

その子供の4人のうち、3人は企業に勤め、私だけ一人公務員になった。

誰一人親と一緒に住んで家屋敷を継ぐことはなかったが、弟のうち一人は造船部門ではなかったが父と同じ企業に勤めた。

一方の本家は祖父の息子が家業を継いだが、孫の代では家業は継がれず、今は家屋敷には孫の婿が一人で住んでいる。

結局、船運搬の家業は祖父の父から4代続いて終わったことになる。

現在、祖父の孫やひ孫で船に関わっているのは、私の娘が造船所で働いているのみである。


実は、私の母方の祖父の父は船大工であり、祖父自身は海軍の職業軍人で航空母艦の機関兵でもあった。

また、私の家内の父、すなわち娘の祖父は造船所に勤めていた。

私の娘が船に関わる仕事に就いているのも、そういう縁を感じてしまう。

船とは全く関係ないが、私の甥の一人(娘にとってはいとこ)は現在パイロットをしている。

私の父が船乗りの端くれだったが、その孫は船乗りではなくて実入りの良いパイロットになったわけだ。

私自身は幼い頃は父親に船乗りになると言っていたらしいが、母親から船乗りだけはなるなとずっと言われ続けていた。

また、父方の祖母は農家の出だったし、祖父の家でも稲も以前は作っていた。

船乗りだけで生活していたわけではなく、塩田に勤めに行ったりもしていたようだ。

だから、船だけに関わっていたわけではなかった。


私は自分の先祖にあまり関心が無かったので、親に聞いたりしなかったのだが、海人のことを調べていると、先祖はまさしくそれだったように思えてきた。

本家は代々、鷆和の御影石の運搬に携わりながら、農業や塩田勤めなどをして暮らしていたのだと思う。

現代においては、どの仕事も成り立たなくなっている。

ということで、海人の子孫たちは新しい仕事を探して赤穂を離れるしかなかった。

その子孫の一人が造船に携わり、また一人は飛行機に携わり、海人の流れは生き続けているようにも思える。

私はどちらかというと、農家に理想を見いだそうとしていたのだが、一所にじっと我慢することはやはり苦手で、農家には向いていないことはよくわかっている。

現代の日本人は田んぼや家屋敷、墓にこだわらない方が生きやすくなっているのだから、元の海人の生き方に戻ったようにも思える。

江戸時代に村百姓から、中世の海人に戻ったようなものだろうか。







2024年6月13日木曜日

森林の整備より食料・エネルギー利用

 森林環境税が森林整備の目的で住民税に一律1000円課せられる。

今のように山が針葉樹で埋め尽くされるようになったのは、戦後の自給的焼畑を止め造林されてからである。

その造林された森林が放置されたりして、環境悪化となっていることへの対処というのもわかる。

しかし、これから先に人口も減って住宅建築が増えるように思えない。

近代建築のビルなどの内装に用いても、需要の限界はあるだろう。

スギ花粉で国民の多くを花粉症で悩ましてきた杉林を、花粉対策のできた杉に植え替えるのも理解はできる。

しかし、これから先に食糧危機がやってくることがわかっているのだから、それに備えた対策が必要だろう。


水田とても、江戸時代は森林や草原を利用しないと維持できなかった。

肥料や運搬・農耕用家畜の餌を草木に頼っていたからだ。

もう肥料にするほどの大量の鰯もいなくなって、海に肥料を頼るわけにもいかない。

ウクライナ戦争が始まってから、小麦だけでなく肥料の原料も値上がっている。

アメリカの収奪農業での食料生産も将来危ういし、世界人口の増加に食料生産は追いつかない。

日本人が江戸時代に食料を完全自給して養えた人口は3000万人ほどだと言われている。

それは、米だけでなく、焼畑の作物に依存してきてそれくらいしか養えない。

焼畑をしなかったら、3000万人も養えなかっただろう。


今は戦前のように手作業だけで、農作業をしなくていい。

家畜肉やジビエ肉も食生活が変わってよく食べられているので十分活用できる。

自然への影響の少ない不耕起農法も研究されて実践されてきている。

自給用など、小規模なら自然農法のやり方もある。

ちゃんと場所を選べば山崩れの心配も無い。

むしろ、間伐材を放置した山の方が危険だったのだ。


熱帯雨林の企業型焼畑から環境破壊を訴え続けられた焼畑だが、古来の焼畑は環境に則したものだった。

そもそも、石油燃料の機械や化学肥料、農薬に頼る農業こそ環境破壊なのだ。

同じ森林環境税をとるなら、森林整備ではなく、森林や原野の環境に配慮した農業活用を行うべきだと思う。

また、森林破壊をして太陽光発電をするよりも、草木を利用したバイオマス発電を進めるべきだと思う。

同じ植林をするなら、食料となる堅果類などを植えた方がいいと思う。

また、害獣や雑草として処分や放置されている野生の動植物も、食料や肥料として活用することもできるだろう。

何よりも、「ぽつんと一軒家」になった村を再生できるのではないだろうか?


また、集落や街から遠く離れた奥山だけでなく、里山も大切だ。

私は赤穂の海辺に育ったが、海だけでなく、近くの里山が遊び場であり、おやつになるイタドリや山桃、あけび等を採る大切な場所だった。

また、椿林では友達と「すみか」と言って、枝の上に枝葉を敷いて遊んだりした。

もちろん、カブトムシなどの昆虫を採ったりした。

里山は食料や燃料としての活用だけでなく、大切な子供にとっての遊びと学びの場である。

以前勤めていた姫路特別支援学校では、学校近くの山登りが授業の一環としてあった。

心と体を育む里山の整備活用も大切だろう。

2024年6月10日月曜日

学校用のバスの必要性

 実は私の子供は小学校の時に、集団登校をしていて交通事故に遭った。

その時は全国ニュースになったが、死者は出なかった。

出勤前の私は連絡を受けて家の近くの現場に駆けつけた。

一緒にいたはずの息子の同級生の女子児童が見つからない。

まさかと思って、そばの田んぼの用水路を探すと、跳ね飛ばされて仰向けに倒れている児童を見つけた。

たまたま顔が上向きで、背負っていたランドセルが高さを確保したために、九死に一生を得た女子を現場の大人と一緒に助け上げた。

また、ある1年生の女子などは、足を切断するかどうかのけがを負い、長期入院した。

比較的軽症だった私の二人の子供も、後に永久歯の治療を余儀なくされ、何よりも長い間そのトラウマに苦しんだ。

通学路での事故は今も後を絶たないし、今回の高齢者の大きく事故が問題になっているのは、通学時の児童を信号無視ではねたからだ。

車社会にいち早くなった、アメリカではスクールバスが普及している。

高校生にもなると、車での通学も許可されている。

日本でも特別支援学校は、スクールバスが普及していて、以前私が勤めていた姫路特別支援学校では多い時で12台以上のバスを神姫バスへの委託を含めて運行させていた。

それは通学生が広域に広がっているからのなのだが、普通の小・中学校でも地方では広域に広がってきているところは路線バスや電車を用いてきた。

ところが、私の場合は高校だったが、普段の授業はともかく、クラブ活動や土日での行事、模擬試験等の時には対応が難しかった。

自由に運行できるバスの経費への支援が欲しいと思っていた。


そもそも、近くの小中学校に行く時に、危険な道を通らなければならないというのが間違いだ。

まずは安全な通学路の整備を行うべきであって、危険な道を大人が付き添っても暴走した車にはねられてしまう。

交通戦争中の私の小学生の頃は通学路に歩道橋を作って、児童生徒に負担を強いた。

児童生徒に負担を強いるのではなくて、車の方に負担を強いるべきなのだ。

私は運動にもなる歩いてでの安全な通学が理想だと思っている。

でも、それができないのならスクールバスを運行させるべきなのだ。

上郡町では、小学校の統廃合が進んで、神姫バスに委託したスクールバスが一校だけ運行されている。

そのお陰で、温水プールでの水泳授業も行われるようになっている。

神姫バスの社長は中学高校の同級生で、苦しい経営で多角化を余儀なくされているようだが、小中学校のスクールバスが普及すれば、地方での経営も安定するだろう。

そして、義務教育を課している国が、その安全のための費用を負担すべきなのだ。

票に結びつかない子供たちの安全への政策を怠ってきた政府の責任は重大だ。

2024年6月7日金曜日

交通戦争の生き残りが加害者に

 私たちが子供の頃「交通戦争」というい言葉があり、一時は少し減ったが1995年頃まで年間の交通事故死者数が1万人を超えていた。

日清戦争の年間の戦死者数より多いから名付けられたと言うが、戦後の累計からすると日露戦争を超えているのではないだろうか?

しかも、太平洋戦争の空襲ように戦闘員に限らず、運転者以外でも年齢性別を問わない無差別の死者である。

欧米と違って馬車文化が歴史的になかった日本では、従来まともに自動車に対応できる街路がなかったし、それを作る政策がなされなかった。

国会議員は鉄道建設で票集めをして、車と人や自転車とを分離した道路を建設しなかった。

一方で自動車産業だけ伸びていったが、事故防止装置の対策は遅れたまま、業績を伸ばして大もうけをした。

いわば日本の自動車産業は交通戦争の戦死者の犠牲の上に発展したのだ。


そして、その自動車を中心とした街作りが進んでいって、大型店舗が自由化されて、身近な商店が潰れていき、郊外に大型店舗ができあがった。

特に田舎では車がないとまともに買い物さえできなくなった。

私は車の免許は赤穂に戻ってから取得した。

なぜなら東京の近辺では必要なかったし、むしろ維持するのにかなりの出費となったからだ。

赤穂に戻ると車なしには、買い物どころか仕事もできなかった。

都会の勤め人は電車やバスで通勤しているだろうが、地方では姫路のような都市部でも車がないとまともに通勤できない。

そういう車社会を築き上げてきたのは、自動車産業と結託した政府ではなかったのか?


そして、車社会に適応して生き残った高齢者が、重大交通事故の加害者になっている。

交通戦争を生き延びた世代が、高齢ゆえに適応性を失って事故を起こしてしまっている。

これは人ごとでなくて自分もあと何年、車の運転がまともにできるか心配である。

高齢者の事故を問題視して、免許返納を勧めるのは良いのだが、車社会の街を作り直すか、自家用車がなくてもその街で不便なく暮らせるようにすべきだ。

今、地元の上郡では、人も乗っていないコミュニティーバスがむなしく巡回している。

自家用車の便利さを知っている者が、不便な交通手段を使うはずはないではないか。

やっと近年乗り合いタクシーやライドシェアーが公認され始めた。

私が調査で通っていた、奄美大島では40年以上前から、見て見ぬふりで活躍していた。

軽貨物自動車で荷物を運ぶついでに、諸鈍からの他のお客と一緒に古仁屋から名瀬の旅館まで低料金で乗せてもらったりした。

要するに荷物の運搬と人の運搬を兼ねた下請け運送屋さんが、庶民の足を確保してくれていた。

今はやってないかもしれないけど、古仁屋から名瀬に客を乗せてきたタクシーが、バス乗り場付近で待っていて、古仁屋行きの客を集めて低料金で乗せていってくれた。

タクシーも島の生活に合わせて、柔軟に対応していたのだ。


マスコミは自動車産業の広告やCMからの収入が大切なのか、高齢者の責任ばかり話題にして、免許返納を迫る。

確かに危険な行為や悲惨な事故は、注意喚起して対策をとらねばならない。

しかし、重要なのは、高齢者が自家用車に頼らなくても、普通に生活できることなのだ。

車を維持するくらいの費用で、不便のない暮らしを確保すべきなのだ。

企業の政治献金の弊害は、まさしくこの問題にも行き着くのではないのか?




2024年6月5日水曜日

上を向いて歩けないのは涙を忘れたから

 NHKの映像の世紀バタフライエフェクトの「安保闘争 燃え盛った政治の季節」で、永六輔作詞の「上を向いて歩こう」が、安保闘争の敗北感から生まれたことを知った。

その安保条約の相手国であるアメリカのビルボードで1位をとり、大ヒットするとは皮肉なことだと思った。

安保で流した涙はヒットで大もうけして、笑顔になった訳なのだろうか?

安保で敗れヒットで勝利した永六輔はたぶん複雑な気持ちだったのだろうと思う。

危機を感じていた学生も市民も、日本人の体制勢力ではなかったことは自民党政権が続いたことでもわかる。

その後、沖縄が要塞化されて、日本が兵站を担い、アメリカは世界中で戦争を続けてきた。

日本は平和主義を掲げながら基地を提供して、かわりに高度経済成長をさせてもらい完全にアメリカの奴隷に成り下がってしまった。

かつて、白洲次郎が「戦争に負けたけど奴隷になったのではない」と言ったそうだが、結果的には安保条約で奴隷になってしまったようだ。


ただ、日本は意図してかどうか知らないのだが、中国は円借款も手伝って経済成長して、

アメリカに対抗できるだけの力をもつ国となった。

中国は天安門事件で学生を弾圧したが、日本の安保騒動どころではなかった。

そして、香港の自由を奪い、台湾の自由をも奪おうとしている。

この中国の台頭で、日本は兵站の役割から、岸首相の孫のおかげで一緒に戦う戦闘部隊に格上げとなった。

学生運動に参加した大学生たちは、日本の高度経済成長の企業戦士に変身して、政治家を企業献金で雇い国民ではなく、企業のために尽くした。

その企業本位のの政策によって、今の日本が作りげられた。

そして、市民は平和ではあるが、生活よりも仕事を優先して、地域や家を解体させ所得格差を高めていった。

地球環境を犠牲にした経済発展という巧妙なアヘンに侵されて、本当の危機を感じる力も失っている。


アメリカの意向に沿った憲法が作られ、安保条約が憲法を超える力になっていることを、日本人は理解してきたのだろうか。

今、アメリカ従属のままで、憲法を改正しても、おそらくこれまでと大して変わらないだろう。

核兵器で多くの日本人を虐殺したアメリカが核の力を誇示している状態で、逆らえないのは常識的にわかることだ。

憲法を超える安保条約を背景に強かで巧妙に傀儡政党が政権を金の力で担い続けた。

経済発展がいかにもろいものか、目先の豊かさのバブルに踊らされた後で、基軸通貨ドルで振り回されることで思い知っているはずだ。

一度支配された国は支配した国が崩壊しないと真の独立はあり得ないだろう。

朝鮮しかり、東ドイツしかりである。

一方、琉球王国は沖縄県として日本化が進み、アメリカと日本の二重支配体制にされてしまった。


そして、再び戦争の時代を迎えている。

プーチンが堂々と核を脅しに戦争ができるのも、日本を従属させているアメリカが手本だろう。

北朝鮮が核兵器にこだわるのも、イラクやリビアだけでなく日本をもみているからだろう。

そのアメリカもトランプが大統領になったら、どうなるかわからない。

どうも、今は他国の戦争で潤っているアメリカ自体が、崩壊の可能性を持っているように思えてくる。

ソ連が崩壊して、カラシニコフが世界に拡散して紛争を多発させたように。

アメリカが崩壊したら、核兵器が拡散して現実に使われるかもしれない。

イエオロギーや哲学、宗教に関係なく、核兵器の力の前では言葉を失う。

狂った核兵器の前に学者も政治家は、これまでは核抑止力を唱えてきたが、その嘘が明らかになった今は疚しき沈黙を続けるしかないようだ。

涙も忘れたこんな時代に、誰が上を向いて歩けるのだろう?





2024年6月2日日曜日

誰が「ヒゲじい」やねん!?

 先日、プールで泳いでいたら、スイミングスクールの園児くらいの女の子に「おじいさん」と言われた。

確かに老齢なのだが、黒いキャップをして赤いゴーグルをしているのに、なぜばれたのかと思ったが、白い髭でわかったとすぐに気がついた。

NHKの「ダーウィンが来た」のヒゲじいは長くて白い髭がある。

私の髭はそんなに長くないのだが、白いことには違いない。

去年の夏から、髭はちゃんと一定の長さで手入れして、自分のスタイルで定着している。

一度だけ、安い散髪屋に行く前に、剃ってしまったことがあるが、剃った方が若く見えることは確かだと思った。

でも、自分としてはたとえ老けて見えても、髭がある方が好きなのだ。


以前、「チコちゃんに叱られる」で、男性だけ髭が生える理由を、殴られた時の衝撃を和らげるためだという説明があった。

それなら、ボクサーや空手の選手は髭を生やしていた方が、有利なのにほとんど伸ばしていない。

私は、ライオンのたてがみのような役割で、成人した男性らしさを強調させるものだと思う。

アラブ人は髭のない男性を一人前と見なさないから、アラブ研究の学者は髭を生やす人もいた。

ただ、日本では一般人は髭を生やさないので、文化人類学の学会でも髭を蓄えている人はあまりいなかった


先日見たNHK「歴史探偵」の琉球特集で、江戸時代の琉球からの使者の行列図では、中国風の服装で髭を生やしていて、日本人と違うことがすぐに分かると解説があった。

ただ、わたしがずっと調査をしていた40年前の頃は、奄美の人は殆ど髭を生やす人はなく、与路で無精髭を生やしていると注意されたこともある。

たぶん、江戸時代の南島雑話で描かれている成人男性に殆ど髭はないので、琉球の使者は役人で特別に髭を生やしていたのだろう。

南島雑話でも島役人や老いた家人など、特別な人には髭が描かれている。

それだから、学生時代に与路で注意を受けたのだと思う。

日本でも江戸時代の殿様や明治以降の政治家、軍人や文豪は髭を生やしている。

髭は日本人や東アジア人には特別な威厳を見せるためのものだったのように思える。

ただ、老人の長くて白い髭は、長寿を誇示するためのものだったのかもしれない。

私は残念ながら威厳を伴っていないし、長寿とも言えず、ただ、実用を兼ねたおしゃれなのだ。


今は水泳をするために髪をスポーツ刈りにしている。

髪が長いと泳いだ後が、すこぶるみっともなくなってしまうからだ。

それで、少し耳の生え際の毛が伸びたので、髭の手入れ機で、髭の手入れの延長で短くしている。

今ツーブロックがはやっているので、それほど極端ではないが、あまり違和感がない。

これで、しばらくは散髪屋に行かなくていいし、耳の生え際もさっぱりしていい。

そもそも、その髭の手入れも、一週間に一度程度で、毎日剃っていた頃に比べればずいぶんと楽である。

そして、以前にも書いたが、蚊に刺される心配も少ない。

ただ、今日は夕方に農作業をしていて目元を刺されてしまった。

ここは、虫除けもつけずらくて、まさしく盲点であった。


今、髭を生やしている知り合いは、いつもプールで出会う画家の人だけだ。

彼は画家でもあり、以前はスキーの国体選手でもあった。

冬場はスキー場の山小屋に行ってしまうので、夏場だけしか会えない。

彼の髭は殆ど手入れせずに伸ばしっぱなしだが、頭はこぎれいに短くしている。

彼は芸術家とスポーツマンとしての自分のスタイルを確立させている。

私はおこがましいが、家内には宮崎駿を引き合いに、髭のスタイルを正当化している。

園児にとっては、宮崎駿よりもヒゲじいに似ているのかもしれないが・・・・・・