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2024年10月31日木曜日

自慢する空き缶

 今日(10/29)は空き缶の回収日だった。

我が家の近辺では、分別回収で定期的に空き缶も回収されている。

我が家から出る空き缶は、私と息子の飲む第三のビールが殆どだ。

先日も家内は第三のビール2ケース買ってきた。

2ケースいっぺんに買うと、ティッシュペーパー5箱がおまけでついてくるからだ。

我が家のティッシュは定期的なその店のおまけセールで殆どまかなわれている。

第三のビールは、季節限定品が結構あって、色んな味わいが楽しめる。

もともと家内も好きな方だったが、コロナワクチンの後遺症でリューマチになってから、お酒は飲むことができなくなった。

それでも私と息子とティッシュペーパーのために、季節遅れのセール商品を重いのに買ってきてくれるのだ。


今日もいつものように、愚犬クロと一緒に朝の散歩をしていた。

たまに通る地区の集会所に併設された公園の入り口に、回収してもらうための空き缶が置いてあった。

「ああ ここも今日は同じ空き缶回収の日なのだ」と思って何気なく見てみた。

なんと、ヱビスビールやビールドライなど、本物のビール缶ばかりが置いてある。

この地区の人の多くが、普段飲んでいる我が家の第三のビールの倍ほどの価格のビールを毎日飲んでいることにショックを受けた。

回収場所に置かれたビールの空き缶が、「すごいだろー 俺たちは」と自慢しているようだった。


さっそく、家に戻ってから、家内にそのことを言うと。

家内「さっき 持って行ったら、缶チューハイばかりやったで」

私「それやったら、うちの第三のビールより安いやつか」

家内「そう 100円そこそこのやつやった」

私「ふん それやったら 恥ずかしないな この地区で良かったな」


私は結婚して以来しばらくは、大瓶の本ビールを飲んでいた。

ビールの値段が上がったことなどで、缶ビールとなり、発泡酒となり、第三のビールとなった。

当初は雑味があって不味いと感じていたが、味も改良されて、最近ではそれほど抵抗はない。

それは第三のビールしか飲んでないので、本物のビールの味を忘れてしまったことにも関係がある。

現役で働いていた頃は、当然しょっちゅうあった飲み会で本物の瓶ビールが普通に飲めた。

退職してからは本物は缶ビールで一年に数えるほどの特別な日にしか飲めない。

村の特別な行事などで本物の缶ビールが出されると、喜んで飲ませてもらう。


今でも本物のビールを飲めない理由は、他にワインや焼酎、最近は日本酒も飲んでいるからだ。

これだけの種類を飲んでいて、本物ビールを飲むのは憚られた。

当然、ワインも安い箱ワインだし、日本酒も焼酎も安い箱入りである。

ワインや焼酎は炭酸で割って薄くしたり、日本酒も少しだけ味わうのが楽しみになっている。

たまに、近所のスーパーで普通のお年寄りが本物のビールを買うのを見かけるが、おそらく晩酌はそのおいしいビールだけなのだろうと思う。

一人暮らしらしい人は、1合瓶の酒とちょっとしたつまみを買うのを見かける。

たぶん、飲み過ぎないように一升瓶で買うのは避けているのだと思う。


人それぞれで飲み方が違うし、単に本物のビールを飲んでいるから裕福であるとも限らない。

健康上の理由からビール類は避けて、缶チューハイにしているかもしれない。

だけど、空き缶の回収ではその隠れた理由が分からないまま、値段の格差だけが強調されてしまう。

かつては誰もが瓶ビールや瓶の酒・焼酎を普通に飲んで、瓶は店に戻していた頃はこういうことは考えられないことだった。

その頃の家庭の経済格差はどの格付けの日本酒やウィスキーを普段飲んでいるかで示されていた。

これも今のビールに通じるのだが、税率の違いが等級に反映されており、貧しい人の飲む等級の税率を下げていた。

就職するまでは2級の日本酒に安いサントリーのホワイトやニッカのブラックだったように思う。

ビールは好みの銘柄だけの違いで、特別に大缶入りの生があっただけだった。

酒や焼酎が等級より銘柄で選ぶようになって、格付けをあまり気にしなくなったように、ビールも普段飲めるような低価格の地ビールなどが増えたら良いと思う。

税率をビール類を全部一緒にすることで、地域に根付いていた日本酒のようになるのか疑問は残る。

日本にも地ビール文化は根付いたら、空き缶に自慢されることはないだろう・・・・








2024年10月29日火曜日

心通ったぬくもりに支えられて

 私の貧しい大学生活のことはもう既に詳しくブログに書いてある。

あんなに貧しい生活をしていて、それが苦にならずむしろ楽しく暮らしていたのは、友達や仲間との愉快な関わりがあったことをその時に書いた。

しかし、この歳になったからこそ、昔のこととして書けるのだが、恋人がちゃんといてくれたからだと思う。

このごろは家内にも「貧乏学生だったけどもちゃんと彼女がいたんだぞ」と話せるようになった。

実はその恋人も下宿生であり、賄い付きの下宿で食事には不自由していなかったが、親から離れて淋しく暮らしていた。

私は通学生の女友達も多くできたが、本当に深く関わることができたのは下宿生の彼女だけだった。

互いの孤独は恋愛によって乗り越えられたし、私は彼女がいたからこそ貧しさが苦にならなかった。


それは大学生だったからできたのは確かだ。

仕事について、家庭を築き、子どもを育てるのに、今の日本では気楽な貧しい生活ではいられない。

ところが、以前紹介した田中二郎氏によると、狩猟採集民のブッシュマンの夫婦は気楽に結婚と離婚を繰り返して暮らして恋人関係とさほどかわりがない。

それは夫婦と子どもが基本の家族であるが、血縁関係や姻戚関係などを通して助け合いながら暮らしており、子育ては実母だけの責任ではなかったからだ。

そして、年老いた老婆以外は必ず結婚して暮らしている。

男性が早く死ぬ場合が多いので、一夫多妻制によって後家さんをなくしている。

食生活に関しては妻の働きの方が重要で、夫を通じてはたまに大切な肉が得られる程度だ。

食生活のために夫を必要としているわけではないのである。

因みに、移動生活なので住まいは木の枝で簡単なものを女性が中心に作り、家財道具も大したものはない。

ただ、男性には、狩りがうまかったり、リーダー的素養、女性の家事を手伝うなどの優しさが求められたようだ。

若い時なら性生活が大きな意味合いを持つだろうが、老いてきた男女にはそれほど重大ではないように思える。

こういうかつてのブッシュマンを考えると、人にとって生きる支えとなるのは何かということが見えてくる。


中村雅俊が歌ってヒットした曲に「ふれあい」(作詞山川啓介)があるが、その中に

なぐさめも 涙もいらないさ
ぬくもりが ほしいだけ
ひとはみな 一人では
生きてゆけない ものだから

このぬくもりは肌を寄せ合うだけではなくて、心が通じあうぬくもりだと思う。
どんなに貧しくても、どんなに老いていても、身体を寄せ合って温め合えて、かつ心の通じる人がいれば生きようと思える。
逆に、いくら金持ちであったり、好き勝手できても、心の通じない温もりだけでは孤独をいやしてはくれないということだと思う。

年老いても妻がいない男性の多くが短命だという。
単なる肌の温もりだけだったら、金を支払えばそれなりに解消できるだろう。
自分の暮らしの中にあってこそ、心通う肌の温もりが生きる力となる。
大学時代に貧しいのが苦にならなかったのは、そのぬくもりに支えられていたというのに、私はそれを自覚できずにいた。
だから、伴侶となった彼女に去られた後に、ふたりを知る親友から映画「道」の主人公のザンパノと同じだと言われたのだった。
大学院に入って欲や意地が出て、研究成果を示すために、心通ったぬくもりを大切にできなかったのが本当の別れた理由だったように思う。
大学時代の方が大きな夢やお金もなくても、心通ったぬくもりがあったからこそ幸せに暮らせたことを、この歳になって改めて気づいている。
今、年老いたればこそ、大きな夢や大した収入はなくても、家内とは心通ったぬくもりが大切だと、学生時代からの経験から身にしみてわかる。



2024年10月27日日曜日

ほんとの「豊かさは何か」

朝日新聞の「語る 人生の贈り物」の「暉峻淑子:14 誰もが諦めない、豊かな社会へ」につぎのような記事が載っていた

 

対話的研究会に参加している男性から先日、「『豊かさとは何か』は多くの人に読まれたはずなのに、30年後の今、状況はほとんど変わっていないのでは」と指摘されました。そのとおりです。社会保障は削減され、地球環境の破壊は進み、偏差値教育も変わりません。社会の格差が広がり、人々の分断と個人化が深刻化しています。


私も以前に氏の本を読んで感銘を受けたので、今回はこの特集記事を1回目からずっと読み続けていた。

氏が高齢にもかかわらず、ずっと活動を続けてきたことに尊敬の念を抱く反面、学者ができることには限界を感じた。

中島みゆきの「世情」の中にある、「学者は世間を見たような気きになる」という歌詞を思い出した。

読者は学者の鋭く見た世間に問題意識を持ちながら、結局は生き方を変える術を知らない。

学者になって成功した人の意見は確かに素晴らしいが、偏差値教育の勝者としての生活をしている人の方が多いと思う。

偏差値教育の勝者になれなかった者は、学者のくらしそのものは手本とならない。


私はむしろ、村の中で、高校しか出ていないけれど、子や孫と仲良く暮らしてる人が豊かさの手本を示してくれていると思う。

昔なら普通に思えた暮らしが、今住んでいる村では多くの人が手に入れることができなくなっている。

大学を出てしまったら、私のように公務員になる以外に、安定した企業への就職は余り望めないので都会に行く。

たとえ地元で大企業に入れても、全国展開の場合は単身赴任で家族と別れて暮らすことが多い。

貧しかったり、社会保障や医療が進んでなかったけれど、親戚や地域の人と助け合って暮らしていけた時代の方が、心豊かな時代だったと思えてきた。


ちょっと前のことだが、近所に親戚も多く、大きな家に暮らしていたお婆さんが亡くなった。

その際に、葬式は入所していた県外の施設の人がしてくれたという。

二人いた息子は既に他界してしまいその配偶者もいなくて、孫はとっくに家を出てしまっているので、まともに連絡がとれていなかった。

この家は隣の村の寺の檀家であり、密に関わっていたであろう住職に知らされることもなく、同じ村の人も亡くなったことをしばらくして知らされた。

たとえ社会保障のおかげで施設に入所できていても、こういう淋しい最後になってしまうケースが増えるだろうと思う。


そして思い出すのは、東京の大学院時代に名古屋の大学で教わっていた先生のお母さんがやっているアパートに住んでいた時のことだ。

同じアパートに大家さんとしてひとりで住んでいて、たまに一人息子の大学の先生も戻ってきていた。

その大家のお婆さんには電話を取り次いでもらったりしていたので、親しく関わっており頼まれごともしていた。

ある時などは、お婆さんは持病を患っていた関係で、強い薬に変わったので「もしもおかしくなった時は頼みます」とお願いされたこともあった。

私は事情があって、一年だけで別のアパートに引っ越しすることになったのだが、引っ越し当日のあいさつに際してはそのお婆さんの流した涙が忘れられない。

立派な大学の先生のお母さんでありながら、淋しく暮らす現実を既に40年以上前に東京で身近に知っていた。

それはその後の私の母親とても大なり小なり同じだった。

父が死んで一人暮らしになった時に、少し離れたところ住んでいたが、一緒に暮らすことができなかった。

それなりに経済力があっても、夫婦共に働いている状態では、家に受け入れることは難しく、母を友達のいる所から引き離すことも躊躇った。

それは母の近くに住んでいた弟家族も同じだった。


近所の3世代家族は、広い敷地を利用して別棟で住んでいる。

私も結婚に際してはそれも考えたのだが、複雑な事情もあってできなかった。

経済的な事情で同じ棟で同居する家族が今でもいることは確かだが、可能なら別棟や生活空間を分けて暮らすのがベストだろう。

私の両親は共に跡取りではなく、母の親と姉の母子家庭家族と隣接して協力し合いながら暮らしていた。

当時の両家族はそうしなければ、普通に家を建てて暮らせないので、相談し合って計画的に家を建てたのだった。

その姉妹を中心とした両家族も子どもが自立して生活が楽になった一方で、隣にありながら疎遠な関係になってしまった。


「ほんとの豊かさとはに何か」とずっと自問し続けてきた。

今の私には確かに年金があって子どもや親戚などに頼らなくても暮らしていける。

でも、私の両親がしていたように、子や孫と一緒に旅行に行ったり、楽しい盆正月を迎えることができない。

人は子育てで協力し合うことによって、生きがいを感じてきた。

狼が犬として人と一緒に暮らすようになったのは、子育てを協力し合う家族の共通性があったからだと思う。

人に老後があるのも、子育てを手伝うのを求められたからだとも言われている。

それができない私たちのような老夫婦は、孫の代わりにペットの犬に暮らしの潤いを求めるしかない。


また、結婚は私が若い頃は「一人で暮らしていけなくても二人ならば暮らしていける」と言われていた。

しかし、女性が社会進出できて男女平等になってきたので、男性に頼って結婚する必要がなくなった。

子育てを中心とした夫婦の意味が失われていき、「おひとりさま」であることや同性婚が社会的に認められるようになった。

また、性的欲求は商品となった性や自由恋愛にによって解消できるようになった。

社会保障や医療が充実してきたので子どもに頼らなくても良いし、親の面倒を見なくても良くなった。

出生数が減少するのは、子どもや伴侶に頼らなくても生活できる経済的豊かさも大きく原因しているように思える。

だから、子育てのために経済的に支援しても、子どもの出生数はそれほど増えないと思う。

一方で、経済格差が広がってしまい、国家としては経済的に豊かなのに、母子家庭を中心とした貧困や親の年金に頼る単身者が問題となっている。

経済的な豊かさが得られた人でも、夫婦愛や家族愛の心の豊かさを必ずしも得られない。

経済的な豊かさを得られなかった人は、親戚縁者などと助け合える関係が必ずしも築けない。

それが環境破壊や戦争の危機におびえながら、孤独に生きていかねばならない産業化された社会の宿命だと諦めるしかないのかもしれない。

ならば、産業化社会とは距離をとった方が、ほんとの豊かさを得ることができるように思えてならない。





2024年10月24日木曜日

闇バイト犯罪対策の番犬?

 少し前「うちのクロは立派な猟犬?」で、狩猟に用いる犬のことを書いた。

狩猟採集民はアンダマン人のように犬がいなかったところもあるし、アボリジニ人のように犬はいても狩猟に使っていなかったところもある。

犬を狩猟に用いるのは技術を要るし、野犬になったディンゴなどは仕込めなかったようだ。

どうも犬が一番活用されたのは、番犬としてと食用としてらしい。

狩猟においても、獲物を捕るためだけでなく、しとめた獲物の番をさせるのも重要な意味を持った。

薩摩隼人が都での警護で「犬吠」をさせられたことは有名だが、大和朝廷で犬養部等と呼ばれる人は、犬を使って屯倉等の警護を担ったという。


ずっと書いているようにうちの愚犬クロは、全く猟犬としても愛玩犬としても役に立っていない。

唯一役に立っているのは、番犬としての役割なのだ。

以前に、クロが失踪してしばらくいなくなった時に、一番に考えねばならなかったのは玄関の鍵である。

今までは少しの間出かける程度なら、厳重に鍵を掛けていなかった。

また、呼び鈴も壊れているので、直そうと思った。

それまでは、クロが吠えてくれるので、お客さんが来たら直ぐに分かった。

クロはその後保護されて戻って来たので、結局、鍵も呼び鈴も厳重にしていない。

ただ、これだけ闇バイトが横行して、地方にも拡大する情勢なので、近々直そうと思っている。


犬を世話をするのは確かに大変であると思う。

猫と違って毎日の散歩をしないと、やたら吠える犬になってしまい、近所に迷惑を掛ける。

うちの近所にも犬をたくさん飼っている家があるが、散歩が足りなくて無駄吠えが多い。

また、本当に犬が怖い人が近所にいて、その人はうちに回覧板を持ってこれない。

この男性のご老人は、幼い頃に犬に噛まれた経験があって、それ以来犬には近づくことさえ全く駄目だという。

クロは鎖でつないでいるし、人を噛む犬ではない、むしろ野良犬時代に人に危害を加えられたらしくて、石でも投げられたのか特に子どもを恐れる。

そういうことで、安全なのだが、その人は次の順番となっている我が家を飛ばして別の家に回覧板を持って行ってしまう。

犬にもそういう欠点はあるものの、室内犬にしろ庭で飼っている犬にしろ、番犬としての役割を見直すべきだろと思う。

私はそれに加えて散歩のお伴をしてくれるので健康面でのメリットもある。

一日一回は無理してでも散歩して、血糖値を下げられているからだ。

また、家内はクロと一方的におしゃべりして楽しんでいるが、老夫婦にとって良い話のネタになっている。

ただ、クロの最大の欠点は、家では強気のくせに散歩の途中で子どもがいたり、大きなトラックが来た時は主人を放って勝手に逃げようとすることだ。

飼い犬としては許し難い行為だが、捨て犬だった過去から勘弁してやるしかない。


今の時代はセキュリティーの弱かったり、老人や女性が闇バイトで強盗される時代だ。

色々面倒があったり、それなりの費用がかかるが、闇バイトの犯罪対策に番犬が役に立つように思う。

闇バイトだけでなく、訪問販売などへの対策にもなると思う。

犬が苦手な人や世話が無理な人用に、ドロ-ン型番犬ロボットが家を警護してくれる時代になるかもしれないが、一般への普及はまだ先のことだろう。

私の子どもの頃は貧しい人が多かったので、こそ泥やかっぱらいが多かったが、今はゲームや賭け事などで借金を抱えて闇バイトで盗みや強盗が増えているという。

狩猟採集の時代から始まって、このネット社会の時代まで、人間は犬の警護に頼らざるを得ないようだ。

だからこそ、その人間の代理として生活を支えてくれた犬とは、これからも持ちつ持たれるで互いに共存すべきだと思う。


追記

 この記事を書いた後で、『闇バイト強盗が"狙う家"と"避ける家"の違いは…キーワードは「犬」と「ダミーカメラ」』というネット情報が流れていた






2024年10月22日火曜日

未来はもう死んでいる

 先日、ネットのニュースでコウモリが感染症で激減して、害虫が増えてしまい農薬を多用することになった。

そして、その農薬多用の影響が新生児の死亡率を高めることになったという記事が載っていた。

新型コロナインフルエンザはコウモリからの感染を原因とされたが、逆にコウモリを激減させている「白鼻症候群」は人間が持ち込んだという。

私が、今の村に引っ越してきてしばらくはコウモリが多くいて、時々家の中に入ったり、庭の物陰に居着いたりしていた。

いつのまにか、そういうコウモリが殆ど見かけなくなってしまった。

これは、以前書いた雀やツバメが非常に減ったことと関連しているように思う。

何度も繰り返し言っているように、高濃度の農薬をドローンなどで空中散布しているのが大きな原因だと思う。

害虫と共に、害虫を食用としていた動物が激減していったと思われる。


近年、大根や蕪がうまく栽培できない。

大根ハムシが大量発生して、いくら不織布などで覆っても食い尽くされてしまう。

以前は、大根・蕪は放って置いても簡単にできたし、たまに青虫がつく程度で虫の被害はあまりなかった。

近所の人も無農薬で栽培している人は、同じことを言っている。

すくすくと立派に育てている人は、農薬をちゃんと使っている人だけだ。

ただ、山の中腹や田んぼのそばの畑で作っている人は、農薬を使わなくても害虫にあまりやられていないようだ。

つまり、山の中は害虫の天敵が健在であり、田んぼのそばは空中散布などの農薬が有効に効いていると言うことだ。

私は最近特に、アマガエルが減ってしまっていることが気になっている。

おそらく、今まではアマガエルが大根ハムシをかなり食べてくれたのかもしれない。

これを実証するのは難しいが、Youtubeで自然農法を配信している離島の農家がこの害虫に困ってないと言うから、天敵が健在なところでは大丈夫なのだろう。


おそらく、普通に店で売られている大根や蕪はしっかりと農薬がかかっていると思う。

アメリカでは新生児の影響を統計的に出しているが、健康被害全体に農薬の影響を調べるのは難しいだろう。

シーア・コルボーンの『奪われし未来』では、「内分泌系の攪乱のメカニズム」が述べられて井口泰泉氏が名付けた「環境ホルモン」として有名になった。

農薬の人への影響は分かりづらくなっているが、動植物への影響は既に顕著に表れている。

物価高の時代に値段の高い無農薬・無化学肥料の農作物を手に入れることは困難なことは事実だ。

私は自分で作って節約している代わりに、ネットでそういう高い農産物を購入している。

先日買った小豆はスーパーの3倍の値段がついていた。

しかし、そういう農家を応援するつもりで買っている。

JAの直売所も低農薬の作物を積極的に販売しているようだが、根本的に農薬の空中散布を請け負わないで欲しい。

一方で、離島や山奥の小規模農家が自然農法や有機農法に活路を見いだしていけるような支援を政府が行って欲しい。

これは農家だけの問題ではなくて、生活者全員の問題だと思う。

安い農産物しか売れない時代に、農家は農薬にたよらずを得ない。

その農薬が動物を殺し、消費者の命をも脅かしている。

昔の人は米などの作物に神が宿っていると考えていたから、単に価格だけのやりとりではなかった。

現代人は家畜・栽培化(domestication)は、動植物との共進化だということを肝に銘じて安く買いたたくのはやめよう。

自然界の動植物と共に生きる思想を失ったとしたら人間の未来はもう死んでいる。





2024年10月18日金曜日

もしも ピアノが弾けてたら

 俳優西田敏行が亡くなった。

私は、高校生くらいから西田敏行に似ていると言われ続けていた。
当時の若い世代では、三枚目俳優の西田敏行に似ていると言われるのは、容貌をからかわれているに等しく、そう言われた私は苛ついた。

知り合いから「西田トシちゃーん」とからかわれるのが嫌だった。

でも、西田敏行本人は好きな俳優だった。

私が西田俊行が演じた役で一番好きまなのは「池中玄大80キロ」だ。

今の私は87キロあるが、身長が174cmあるので、80キロ超で166cmの西田俊行とは同じような体型なのかもしれない。

ただ、私は彼のような俳優になりたいとは一度も思ったことはなかった。

でも西田敏行や六角精児を見ていると、自分にはできそうにないけど役者の魅力が分かる。

単に役を演じさせられているのではなく、人間の色んな面を自分の個性として表現できる面白さがあると気がついた。

今では西田敏行に似ているといわれるのは褒め言葉のように思えるようになった。

でも最近は大物俳優になりすぎていたので、言われることはなくなっていた。


今回の訃報の報道で、色々と知ったけれど、中でも売れるまでの苦労話は身につまされた。

彼をあれだけの俳優に育てたのは、養父母であり妻だったのだ。

彼はそれにしっかりと応えて、感謝を忘れていなかったようだ。

自分も研究者を志した時に、支えてくれる人がいながら、それに応えられるような謙虚さが貫けなかった。

彼は大物俳優や仲間とうまく関わって愛される存在になることができていた。

私も大学時代には森繁久弥のようにうなぎを食べさせてくれる先生がそばにいてくれた。

大学院でも、伴侶以外にも多くの先生や先輩が手を差し伸べてくれていた。

その支えにちゃんと感謝して応えようとする気持ちがあったら、研究生活は破綻することはなかったと思う。

その破綻のことは「されど1年」で詳しく書いている。


役者も研究者も似たところがあるが、研究者は定職に就くこともできるし、教師などのつぶしがきく。

役者は仕事が無くなってしまえば終わりだし、つぶしもあまりきかないという厳しい環境だ。

いっぽう、役者は経済的に大きな富を得たりや多くの人に愛される存在になれる。

そんな中で自分の容貌や性格をうまく活かして、大成していった西田敏行は尊敬すべき人だと思う。

しかし、その努力や苦労のはけ口としてのたばこや酒が、身体をむしばんでいたことも確かなようだ。

私も酒・たばこが原因で、既に大学時代に十二指腸潰瘍を患い、大学院では修論執筆中に医者から入院を指示されるほど悪化させていた。

その時は入院せずに薬と運動・節制で回復させたが、その後もたびたび再発していた。

もし、研究者になっていたら、彼よりも短命だったかもしれない。

役者も研究者も身体を犠牲にしてしまうところの共通点はあるようだ。


作詞阿久悠の「もしも、ピアノが弾けたなら」は、不器用な人間の気持ちを歌ったものだが、西田敏行自身は大変器用な人間だったと思う。

何でも器用にこなせる人こそ、不器用さをまとって歌い多くの人を魅了した。

単に器用だけではなくて、山田洋次監督に楯突くなど反権威主義の精神と実力をも持っていたようだ。

私自身は本当に不器用なので、気持ちを伝えることができるピアノが実際に弾けてたら良かったと思う。

バンド活動でも、ピアノが弾けてたら道が開けていたかもしれない。

私を支えてくれている伴侶や先生に、感謝の言葉を伝えられるすべを持ち合わせていない不器用者だった。

そして、何より実力もないのに権威に楯突いて潰れていった。


だけど ぼくにはピアノがない きみと夢みることもない

心は いつでも空まわり 聴かせる夢さえ遠ざかる


実際に私の夢は若き日に糟糠の伴侶と共に遠ざかってしまった。

彼は私のように不器用な者の気持ちを歌やドラマ・映画でうまく表現してくれていた。

不器用な人間をあえて演じることで、彼は役者として励ましてくれていたのだと思う。

彼のように深いところまで気持ちが伝わってくる俳優は、これからもそう生まれないように思える。

私はかつて西田敏行に容貌だけでも似ていると言われたのだから、もう少しは彼に近づきたいと思う。









2024年10月16日水曜日

中学受験の動機と成り行き

 私は中学受験をして私学に中学高校と通った。

以前は、「おぼっちゃま だったのね」と、同僚の女性から嫌みを言われたりしていた。

私は開き直って、「そうやで おぼっちゃん やったんやで」と嘯いていた。

しかし、現実は赤穂市から特別に奨学金を借りて通っていた。

この奨学金は貧しくても勉強を頑張る生徒のためのもので、母親から民生委員の人が口添えしてくれたと聞いていた。

奨学金の返済は親がその後に払ってくれたが、詳しくは聞いてなかった。

自分自身は、大学、大学院と奨学金をもらっていたが、教員になって免除されていたので、親の苦労には無頓着だった。


なぜ、そこまでして授業料の高い私学へ行ったかというと、自分自身は良い大学へ行くためという意識はあまりなかった。

自身の子どもを私学に行かせていた担任の先生の強い勧めで、特に母親がその気になったのだが、私は最初はあまり乗る気でなかった。

ただ、一匹狼的なゴンタクレ(ガキ大将)であった当時の私は、となりの町の番長グループに絡まれて、同じ歳のガキ大将とタイマン張って殴っていた。

私は殴り合いの喧嘩は殆どしなかったが、剣道を習っていたので打ち込む術に長けていた。

そのガキ大将とは中学校から同じ校区で一緒になるので、面倒なことになることで気が重かった。

後に小学校の同級生(剣道少年団でのライバルのガキ大将)にそのガキ大将のことを聞いたら、彼はその男と中学校では喧嘩を続けていたという。

当時はほんとの「おぼっちゃま」を除いて、そういう喧嘩による番長支配が公立中学や一部の高校では当たり前の時代が続いていた。

私の父親からも、自分の喧嘩の話は聞かされており、「負けて泣いて帰ってくるな」とよく言われていた。

そういう、番長支配の世界を脱出できるのが私立中学だったので、担任の先生は勉強はできたがゴンタクレである私の将来を考えて強く勧めてくれたように思う。

家内は私とは違って、女子校の私立中学に行っても大した大学に行けそうになかったので、受験しなかったと言っている。

普通の女子は番長支配の関係はなくて、むしろいかに勉強で男子よりも有利に立つかを考えていたようで、公立の中学高校では勉強に励んで良い成績だった。

そういう家内も一流大学を目指しながら、3流大学に甘んじたので私と結果は同じだった。


当然ながら、私立中学へ入ってからは、良い大学に入らねば恥ずかしいとは思っていた。

ただ、大学がどういうところで、大学を出てどういう職業に就くかを漠然としか考えていなかった。

とにかく、私は入って恥ずかしくない大学を目指す程度で、ちゃんと将来を考えて医学部や東大京大を目指した同級生とは大違いだった。

中学受験では、同じように受験した同級生への対抗心や落ちたら格好悪いと必死に勉強し、合格できたこと自体は嬉しかった。

何せ、当時の公立中学校は丸刈り強制であったのがしなくて良いし、制服もネクタイに背広で格好良かった。

赤穂にあっては、私が育った柄の悪いと言われた町とは、距離を置けることで卑屈にならずに済んだ。

受験勉強の延長で中学校2年生くらいまでは何とか上位の成績でいられた。

しかし、当然ながらちゃんとした大学進学の目的のない状態では勉強に熱が入らなくなっていった。

結果としては、ロックバンド活動や男女関係にのめり込んで勉強が手につかず、教師からは不良グループとして嫌われる仲間の一員になった。

さすがに体裁悪くて直前には焦って大学受験をがんばったが、一浪しても3流大学しか入れなかった。


その程度の大学なら、何も高い授業料を払ってまで、私学に行かせる必要がなかったというようなことを父親には言われた。

母親は歌手になりたかった方なので、私のバンド活動を容認していたのだが、それが悪いと父親からずっと責められていた。

確かに結果からすればそうなのだが、今となれば私学に行って良かったと思っている。

何せ番長支配の世界から抜け出せたことは助かった。

実は、小学校の頃は女子からさえ恐れられるほどの悪ガキだったが、軟派な不良程度に修まることができた。

そのおかげで、公立中学校・高校出身の生徒よりも歌に恋愛に自由を謳歌できた。

そこらへんが、中学高校と勉強での競争にさらされて、恋愛に無縁だった家内とは大きく違っていた。

こんな二人が結婚したのも、見合いという仕組みがまだしっかりと残っていたからで、常日頃、「普通ならふたりは恋愛結婚はありえなかったね」と私は言っている。

ただ、3流大学まではその延長上で何とかなったが、権威による試練にさらされた公立の大学院でしくじった原因はこの自由気ままな姿勢からだったのだろう。

一方、教師になってからは役人型教員と肌が合わず苦労もしたが、番長支配が残っていた学校以外では生徒とはうまくやれたと思う。

現在は東大京大の合格者ランキングでは低迷している母校だが、自分にとってはありがたい学校だった。










2024年10月14日月曜日

狩猟採集民はなぜスリムか?

 このところ狩猟採集民の民族誌を読んでいるのだが、考えさせられた。

狩猟採集民は確かに運動量も多いが、仕事時間は産業社会の勤労者より少ない。

食べるものも比較的豊富だが、保存方法が限られているので、みんな分配し合って食べてしまう。

余った時間はゆっくりくつろいで、眠ったりおしゃべりしている。

食料は狩猟による肉よりも採集された植物系のものが主体だ(冬場の高緯度地帯は例外)。

ところが、狩猟で大量の肉が手に入ると、一部は干し肉等にするようだが、殆どは食べてしまう。

そして、何よりも思い切り食べた後で、歌ったり踊ったりして楽しみ、おなかがすくとまた肉を食べるという。

場合によっては、翌日の朝が過ぎても踊っていることもあるという。

あまり儀式や祭りらしいものがなくて、大きな獲物が手に入った時が祭りのようだ。

そして、食料の少ない季節には、歌や踊りは殆どないようだ。


そこで思い出したのは、奄美の人が八月(旧暦)には、毎晩踊り明かしていたということだ。

この季節は季候も良く、食料にも恵まれている時期である。

本土では盆踊りとして、月遅れの新暦8月に踊ることが多くて、新暦10月頃には秋祭りで神輿やだんじりで身体を動かす。

本土の踊りは食料とは関係ないようで、有名な青森のねぶた祭は七夕との関係があるそうだ。

本土ではどうも踊りは食料とは切り離されているようにも思える。

その点で言えば、奄美や沖縄の方が食料や飲食と密接で自然に思えてくる。

祝い事の宴会の最後では六調などの踊りで締められるのが普通で、特に沖縄の結婚披露宴の締めでの全員参加のカチャーシーは圧巻だ。

飲食でいっぱい身体に栄養を入れた時は、歌ったり踊ったりする方が肥満にならなくて健康的と言える。

最後に踊ることを考えたら、泥酔することもできないだろう。


そういうことでは、私の父母が生きていた頃は、両親と兄弟家族が集まって飲むと必ずカラオケに行って、歌うことはもちろん、場合によっては踊ったりしていた。

この家風は家内には全く合わなくて、カラオケボックスから帰ってしまうことの方が多かった。

家内の方は親戚が集まってもカラオケをすることはなくて、ひたすら飲んで食べておしゃべりをしていた。

だから、夫婦でカラオケに行くことは全くない。

職場での忘年会ではカラオケが定番だったが、私は職員バンドを組んで演奏するのが楽しみだった。

機材を持って帰らねばならないので、飲めないケースもあったが、翌日持って帰ることにして宴会を楽しんだりした。

現役の教員をやめて一番淋しく思うのは、仲間と飲む機会がなくなったことだ。

職員全体の宴会だけではなくて、気のあったもの同士が飲食した後で、よくカラオケに行って楽しんだ。


このところ、肥満を解消するために、酷暑の中で無理な散歩や水泳をして、かえって身体を壊してしまった。

これからは、狩猟採集民を見習って、歌や踊りをもっと取り入れて、楽しみながら肥満解消をしたいと思う。

ご婦人方はカーブスなんかでの運動が人気だそうで、それはおしゃべりしながら運動できるからだそうだ。

競技スポーツと違って健康スポーツは楽しくないと長続きしないと思う。

今まで、競技スポーツ型の水泳練習をしていたが、仲間とおしゃべりしたり、楽しい泳ぎを工夫した方が良いと思うようになった。

また、パソコンを使っての一人カラオケやギターの弾き語りも大切だと思う。

そういえば狩猟採集民も、狩りの仕草を踊りに取り入れていたが、日本では安木節が似たようなものだろう。

男にはフラダンスなどの踊りがないので、ああいう座敷芸などを練習するのも楽しいかもしれない。

歌と踊りは人類にとって、健康と喜びに欠かせないようことを、狩猟採集民から改めて教えられた。





2024年10月12日土曜日

不都合な核兵器の真実

 被団協のノーベル平和賞が決まった。

日本は、核兵器禁止条約に加盟しないままである。

理由は、同盟国のアメリカの核の傘に守られているからである。

そもそも、そういうことは核兵器の存在自体を容認していることになる。

核の傘の本質は、守ってもらっているだけでなく、脅されているのだということもちゃんと報道しなければならないと思う。

唯一の被爆国日本が核武装をすることに一番反対するのはアメリカだろう。

アメリカは核の使用を正当化しているのだから、日本が広島・長崎の報復として核攻撃をしても文句は言えないからだ。


アメリカに守られているし、脅されているから核兵器禁止条約には賛成できないと、政府も正直に言えば良い。

核兵器を禁止するには、アメリカが原爆投下の過ちを認める以外に、道は開けないことくらい分かっている。

被団協がノーベル平和賞をもらっていなかった理由に、アメリカの存在が大きかったと言われている。

被団協がアメリカへの賠償を求めているように受け止められていたともいう。

核使用の現実が迫って、さすがのノーベル賞も被団協を前面に出さざるを得なかったのが現実だろう。

そもそも、プーチン自体がアメリカが原爆投下してうまく日本を支配しているのに、なぜ使って悪いのだと思っているようだ。

今使わないのは、まだ勝つ見込みが立っていないからだ。

アメリカが原爆を投下できたのは、勝てる確証があってとどめを刺したのと、次の対ソ連戦略からだというのは分かるはずだ。

万一負けていたら、ドイツのホロコースト同様に大量虐殺として断罪されていただろう。

朝ドラの「虎に翼」のおかげでモデルである三淵嘉子氏の「原爆裁判」がやっと注目され始めたが、戦争犯罪であることを訴え続けるべきだ。


日本政府は世界の核兵器の現実から逃れられないことは確かだろう。

核兵器さえ持っていれば、脅しにも使えるし、攻め込まれて征服されることはないからだろう。

しかし、そういうの国家の戦略と対抗して世界中の人々は連帯し、核兵器廃絶の運動を繰り広げられるはずだ。

その一歩は、アメリカの原爆使用の誤りの共通理解から始めるべきだろう。

被団協などの活動が、核兵器使用をタブー化していったとも言われているが、核兵器所有もタブー化していくべきだろう。

地球環境問題への世界的な市民運動と同様に、核兵器廃絶の市民運動を繰り広げるべき時が来ていると思う。

核抑止力が核脅し力になったウクライナ戦争や、イスラエルの核施設攻撃の可能性がある今だからこそ、ノーベル賞が与えられた。

そして、日本人はこの「不都合な核兵器の真実」から目を背けずに、核兵器廃絶に取り組む歴史的責任を背負っていると思う。



2024年10月8日火曜日

酷暑に耐えた作物たち

 今年は、酷暑に雨不足で、夏物野菜は早々と駄目になった。

そんな中で、元気なのはオクラだけと以前書いたが、実は落花生、黒大豆、サツマイモなども何とか枯れずに残っていた。

落花生をまず最初に少し掘ってみたが、まだ大きく育っていなかった。

おそらく。水が不足して実が大きくならなかったのだろうが、小さいのがいっぱいついていたので、他のはしばらく置いておくことにした。

次に、サツマイモ(シルクスイート)を掘ったが、元気が無いので最近水をやってきた甲斐もあったのか、芋はそこそこできていた。

黒大豆も枝豆として食べようと一株刈り取ってみたが、やはり水不足なのか実は太っていなかった。


私は、黒マルチ(地面の覆い)を使わず、草マルチでやったが、しっかりとマルチングができていなかったので、草がかなり生えてきて、それを刈ったり抜いたりが大変だった。

草マルチを用いる自然農法というのは、そんなに容易いものではないことを思い知らされた。

ただ、苦労の甲斐あって、草と一緒ではあるが、元気に育ってくれて一安心した。

このところ、気温も下がって、雨も降り出したので、これからもっと太ってくれると思う。

一方、期待を込めて育てた高黍(コーリャン)は実が殆ど入っていない。

干魃に強いとされるのだが、枯れない代わりに実が殆ど太らなかったので実験的に秋植えの高黍を育てている

周りの稲は元気に育って、今収穫を迎えている。

やはり、水田はこういう日照りや高温に耐えられる優れものだと思い知った。

ちゃんと、川からの水を絶やさず、万一のための貯水池も作ってある。

こんな、破綻気象でも水稲だけは問題なく育っていたのだ。

日照りに不作なしというのは、こういうことであり、むしろ冷害の方が稲には悪いことが実感して分かった。


以前には、温暖化の時代は、稲よりも芋の方が適していると言われていたように思うが、里芋などは暑さで葉が枯れてしまった。

いくら、水があっても暑さにあの広い葉っぱは持たないようだ。

そういえば、池の蓮もずいぶん枯れていたのが、このところ涼しくなって復活してきた。

広い葉を持つ植物はどうも高温に弱いようで、考えてみれば熱い乾燥地帯で育つのは葉のないサボテンだった。

一番早くに駄目になったのはキュウリだったことを考えても、大きな葉を持つ作物は日照りと高温に気をつけねばならない。

これからは暑さ対策の寒冷紗が必需品となるだろう。


私は酷暑の時代で稲に代わる作物を考えたが、今年に関しては稲が一番耐えられる作物であることが分かった。

メタンガスを多く出す水田から乾田で栽培することも考えているようだが、水田だからこそ高温に耐えられたように思う。

ただ、西日本は台風による風水害をあまり受けなかったことも今年は幸いしている。

台風の常襲地帯の琉球諸島や南九州では、稲よりもサツマイモなどの方が適していることも事実である。

私自身は、現代の機械化された稲作に取り組むの二の足を踏んでいるのだが、資金面もさることながら安全面でも不安を抱えている。

今朝の朝日新聞の記事に、農家の事故の多さは、他の産業の10倍だと書いてあった。

一番の原因は高齢化とされるが、機械化されてなければ、起きない事故ばかりだ。

土木建築現場で、機械化されてそれを担うのは決して高齢者だけではないことを考えれば、いかに今の機械化農業が問題を抱えているか分かる。

現在は稲ばかりでなく、商品作物の殆どが機械化されてきているのだから、高齢者ばかりに頼らない人材確保が急がれる。


政府は時給を上げて臨時職員の生活を安定させようとしているが、時給が上がったらますます、農業は機械に追いまくられるだろう。

大型野菜農家で働いた年配の人から聞いたのだが、機械に併せて作業するのはかなり厳しいものだそうで、二度と働きたくないと言っていた。

テレビのニュースや特集では子どもたちののんびりした農業体験が流されているが、収益を上げるための機械化農業のことも知っておく必要があるだろう。

今回の米騒動から対策すべきことは多くあるのに、政治家は政策よりも選挙対策でまともに機能していない。

都市に住む人はせめて関心を持って、農家を支援する世論を作り上げて欲しいと思う。





2024年10月4日金曜日

私を導いてくれた光バイト

 今は闇バイトが世間を騒がしている。

ネットで集められた若者が中心に、高齢者や女性の単身者を狙って強盗に入ったりしている。

捕まれば一生台無しになってしまいかねないリスクを冒すほどのうまみがあるように思えない。

目先の高額なバイト料にだまされて、その世界から抜け出せない若者も多いという。

それよりも、汗水を流して働いた方が良いと思うのだが、小さい頃からTV・PCゲームばかりしていたとか身体を動かす経験の少ない人にとっては、どだい無理な話なのかもしれない。

また、そういうバイトをする若者は相談する相手がいないというので、気軽に相談できる窓口も必要なのだろう。


私は中学受験や大学受験で机に縛られていた時期を除いて、身体を動かす方が多かった。

バンド活動でもボーカルやギターでも結構体力が必要だった。

そして、大学時代にサークル活動としての村落調査に必要な金に困ってやったのは、土方(土木作業)のバイトだった。

弟は旧帝大に入っていたので、地元の赤穂に夏休みに戻ったら家庭教師の声がかかった。

私は三流大学の私学であって、短期間でも頼まれるほどの価値がなかった。

ただ、理科系の色白スリムな弟には彼女はなくて、文系で色黒マッチョな私にはちゃんと恋人がいたので、釣り合いはとれていた。

私学であっても家内のように自宅通学していた大学生は家庭教師や塾などのバイトも相生にはあった。

地元赤穂では国公立に通学している学生が殆どいなかったので、夏休みや春休みだけでも頼まれることがあって、医学部に行った多くの同級生も同じようにしていた。


私のバンド仲間だった同級生は、早大法学部の学生だったが、家庭教師や塾は不向きだったので、あえて地元でも東京でも建築現場でバイトしていた。

私より高額の日給をもらい、地下足袋をちゃんと履いて、ビルの上にも上っていると自慢していたが、1980年頃私は日給5,000円で彼は7,000円くらいもらっていた。

以前、受験ドラマ「ドラゴン桜」で、夜の土木作業のバイトが実入りが良いと奨められていたが、大学生ならともかく受験生に向いているバイトとは思わない。

何せ夏の昼間の土方(田舎では夜間の道路工事等は殆ど無い)は、どうやって夕方まで体力を維持するかである。

元気の良い朝に体力を使ってしまったら夕方まで持たなくて、ペースをつかみ身体が慣れるまでに、最低一週間はかかる。

そして、昼休みはどんな場所でも眠る必要があり、汗に濡れた長袖シャツを干しながら、ランニングシャツ一枚で板の上で横になって日陰で眠った。

やっと夕方に仕事が終わり、家に帰って夕食を済ますと泥のように眠りこけた。

問題は仕事が無くなる雨で、身体安めには良いのだが収入面では都合が悪い。

「土方を殺すに刃物はいらぬ 三日雨が降れば良い」とか

「雨が続くと仕事もせずに キャベツばかりかじってた(赤ちょうちん)」の世界である。

まさしく闇バイトならず、晴れ頼みの光バイトなのである。

親方は母親の知人の断酒会を通じての知り合いで、親方のお母さんは日本語が得意ではなくて、電話で連絡を取るのに不自由があった。

親方は強面だが口数も少なく、無理なことを押しつけるようなことは無かった。

そんなきついバイトをしている私に恋人はよく気遣ってくれて、たまの休みに二人で旅行することもできた。


こういう土方をせずに済んだのは大学院時代で、東京の公立大学院生だったので、家庭教師や塾の仕事にありつくことができた。

しかし、博士課程の進学に失敗して地元に戻ると、教諭の病欠や短期留学での短期間の中学での数学や英語の臨時講師(校長特別免許)しかなかった。

これは1~2ヶ月ほどしかなくて、その間を埋める軽いバイトが赤穂には無かった。

そこで、役に立ったのが土方の経験だった。

要するに職安(ハローワーク)から赤穂市の発掘の人夫(作業員)の仕事を紹介されたのだった。

発掘現場は、重機も使うが、丁寧に掘ったり、削ったりする仕事があった。

一緒に働いている仲間は退職したり失業した年配者が多かったが、小指を詰めた中年も混じったりしていた。

また、ご主人が借金の保証人になったために家をとられてしまったご婦人もいたり、脳梗塞で軽い障害を持った人もいた。

暑い夏の作業も辛かったが、凍てつく冬の作業も同じくらい辛いものだった。

しかも、大学院の修士をいちおう修了していたが、考古学はかじった程度で何の役にも立たず我ながら情けなかった。

それでも、そのことがきっかけとなって、市の教育委員会の人が懇意にしてくれて、教員になる道も開けていった。

要するに、土方の経験があったればこそ、発掘に携わり教員になれたとも言える。


今は、ブラックな仕事として、教員の仕事は人気が無いので、私の経験が若い人の役に立たないかもしれない。

言えるのはどんな惨めな時であっても、それなりの下積みのバイトをすれば、何かのチャンスに結びつくということだ。

大学院の修士の時に生活が破綻して、当時は医者から出されたトランキナイザーを飲みながら死ぬことしか考えなかった者でも、土方を通して道が開けた。

そして、どんな不遇な身の上ででも懸命に生きていこうとしている人から人生を学んだことも大きな経験だった。

今でも村で暮らしながら村作業や農作業ができるのも、その土方の経験があるからだ。

今は土木作業の仕事は機械化されて、素人は簡単にできないかもしれない。

それでも、今は人手不足で探せば将来の光となるバイトは見つかると思う。

ゲームばかりしていて不健康だった身体を鍛え直すチャンスかもしれない。

下積みの仕事をしている人から、勇気づけられることもあると思う。








2024年10月2日水曜日

なじみの鳥取

 全国的には鳥取県は余り知られていない。

今回、石破茂が総理大臣になったことで、鳥取も全国ニュースで知れ渡ることになった。

鳥取は私の住む兵庫県の隣の県だが、山陰で中国山地を越えねばならないので、あまりなじみは無かった。

それが、無料で通行できる鳥取道や、智頭線で繋がったことで、兵庫県の南西部とも関わりが多くなっている。

鳥取では安くておいしい海産物が手に入るので、岩見の道の駅には月に一度くらいは車で出かけている。

そこに隣接する食堂で、毎回海鮮丼を家内と一緒に食べている。

値段は少々高くて、回転寿司なら食べきれないくらい注文できるのだが、味は比べものにならない。

冬場に行けばカニなども安く食べられそうだが、雪道に慣れていないので一度も行ったことがない。

この日曜にも岩見に出かけたのだが、いつもは席に着くのも待たされるのに、全く待たされなかった。

おそらく、祭りのシーズンで、そちらに人が動いたのだろうと思う。


私自身は、鳥取出身の人と関わりが大学時代からある。

私が班長をつとめた村落調査サークルに名古屋大学の医学部生が参加してくれたが、彼女は鳥取西高校出身だった。

医学部にかかわらず、民族学に非常に興味を持ってくれて、奄美の調査では普通の民家にも宿泊して頑張ってくれた。

また、大学院でも1年下に鳥取出身の後輩がいて、彼女は飲み会で必ず貝殻節の話題になるので、地元で歌と踊りをおぼえてきて披露してくれた。

自分の研究とはあまり関係なさそうだったので興味が無かったのだが、青谷神寺地遺跡で弥生人の多量の人骨が発掘されて以来興味を持った。

そして、大林太良氏や森浩一氏の倭人研究と非常に関係があり、それは海人として奄美とも通じるものがあると思った。

要するに鳥取など山陰の古代遺跡には、潟湖で暮らしていた海人の生活ぶりが残されているというのだ。

青谷神寺地遺跡は大乱の殺戮の証拠として、イメージとしてはあまり良くないのだが、かつては栄えていた山陰を示す一つの証となっている。


鳥取は寂れたイメージしか無い。

大したレジャー施設も産業もなく、かつては「スタバは無いけど、砂場はある」と揶揄されたほどだった。

石破茂の地元の八頭などはかつては国道29号線で姫路への重要な幹線道路沿いだったようだが、鳥取道にその座を奪われて、山道の好きなドライバーでしか通らない。

八頭は、柿の産地で道沿いに柿畑が広がっている。

私は熟し柿以外は食べないし、家族は柿は好きではないので、道の駅にも寄ることは無い。

それよりも、その奥にある若桜の道の駅には必ず寄って、おいしいアイスもなかを買って車中で家内と半分ずつ食べている。

ガソリンが高くなったので、最近は通らなくなったが、鳥取の浦安海岸から浜坂や香住を抜けて豊岡にいく海岸道路の絶景をかつては楽しんだ。


今は、オーバーツーリズムと縁が無いところだが、山陰自動車道が全船繋がったら混雑してくると思う。

今の鳥取道も連休などでは交通量も多くなって渋滞もするし、トンネルや単車線の影響で重大事故も多発している。

そうなると、旧来の国道をゆっくり走るのも良いのかもしれないが、通行料金がいらないなら山口まで遠出したいと思っている。

今でも、鳥取道は片道だけ使っているのは、下道だけの日帰りには限界があるからだ。

石破さんに頑張ってもらって、山陰自動車道で西日本の山陰地方をほどほどに賑やかにして欲しいとも思う。

かつては倭人や北前船などが活躍して賑わった西日本の山陰の復活を願うばかりだ。

しかし、人望のない石破さん、割り箸政権とも言われているそうで、山陰自動車道が全通するまで持ちそうもないような気もするが、君子は豹変してくれるはずだ・・・・・