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2026年5月8日金曜日

「遊びの中の真面目」に生きる悦び

 佐伯啓思は『近代の虚妄―現代文明論序説』(2020年 東洋経済新報社)の中で次のように述べている。


現代社会では、あらゆる領域で、特に文化の領域で、遊びの持つあのゆとり、共有された秩序、そして何よりも祭祀的な要素が失われてしまった。代わりに出現したものは、偽の遊びであり、いわば小児病化した遊びである。競技は、現代風のスポーツとなって、記録を競う闘争本能むき出しのものとなり、組織されたクラブや商業化された大会運営になってしまった。それはやがて記録追求という何とも味気ない生真面目に堕することとなる。現代社会の高度な交通機関の発展、商業的宣伝、そして統計学の出現が、遊びを窒息させてゆくのである。人間の活動は、すべて真剣であり真面目であるともいえるのだが、その背後に遊びの要素があるかどうかはきわめて大事なのだ。「遊びの中の真面目」と「遊びを失った真面目」ではまったく違うのである。[前掲書:177] 。


私はかつて中学部から大学進学を念頭に置いた進学教育を行う私立学校で学んでいた。

当然、中学受験を取り組んだ頃には、大学進学のことなど頭になくて、地元の公立中学よりも格好良く見える学校に入りたかっただけだ。

入学後は受験勉強からの流れで「遊びを失った真面目」で、試験での点数や学年順位ばかり気にしていた。

しかし、中学受験に小学校6年生の春から取り組むまでは、「殆ど全てが遊び」の暮らしをしていて、学校での勉強も遊びのような感覚だった。

当然、大学進学の目標を持ち得なかったし、それが何を意味するかも分からなかった。

そして、その私学は自由放任主義だったので、ためらいなく異性や流行のロックに強い関心と楽しみを見いだそうとし始めた。

そうすると、「遊びの中の真面目」であるべき勉強がおろそかになり、大学受験に際しては希望する大学には入れなかった。

その一方で同じバンド仲間だったSは、「遊びの中の真面目」を突き詰めて、学年で最下位の成績ながら、早稲田大学の法学部を現役で合格した。

同じように、高3の文化祭まで同じバンドでステージに立ったのに大きな違いがあった。


ただ、私も大学に入ってからは、「遊びの中の真面目」な研究を見いだして、志望する大学院に現役で合格できた。

しかし、研究者になるための姿勢が「遊びを失った真面目」であったため、自分を支えてくれた伴侶も研究者への道も失ってしまった。

そこまで自分を追い詰めたのは「遊びを失った真面目」なM教官への反発心だったのだが、自分がそうなってしまったのは皮肉なことだった。

教師を選んだのは、研究を続けることのできる職業だと思ったからで、臨時講師をしながら何とか採用された。

それ以降は、金儲けのために真面目に仕事をしながら、金にならない研究という遊びをしていたように思う。


ところが、学校はけっこう仕事の中に遊びが取り入れられている。

最初の赴任は今で言う知的障害の特別支援学校で、学習の中にずいぶんと「遊び」があった。

教師の方は、生徒と一緒に遊ぶことも重要だったが、真面目に進路に向けてての取り組みが必要で、これはかなり困難な仕事でもあった。

特に体育教師が中心になっていたので、体力と根気をつけさせる職業教育がなされて、「遊びを失った真面目」な進路指導が行われた。

ただ、障害を持った生徒が就職した後で失敗するのは仕事そのものができないことよりも、対人関係であった。

職場の人や自分の周りの人と仲良く過ごすことが難しいのであり、それはむしろ「遊び」に関わるもので、それが生徒に身についていないことが多かった。

普通校は体育祭や文化祭で遊びの部分が多く取り入れられていたが、だんだんと予備校のような受験指導中心の授業が増えてしまった。

教師も時間外勤務が増えたり、免許更新制などの政策によって追い詰められていった。


今の時代は何でも貨幣価値で計ってしまい、その数字で表れないものの価値を認めないことが多い。

人と楽しく過ごすことは数字で表せないいわゆる「遊び」である。

私の研究していたかつて奄美では「ミニアスビ」は、干支で巳のつく日にはハブがで農作業をすると咬まれると言って仕事が禁止される日だった。

つまり、「あそび」とは「悪(あ)し日」から仕事の忌避から来た言葉だった。

かつて日本人はワーカーホリック(仕事中毒)といわれて、どちらかというと欧米人から呆れられていた。

しかし、日本人がそこまで仕事中心の生活をし始めたのは、バッブル崩壊後だと思う。

学校もそれ以前は教師の給料が低い代わりに、自宅研修で自由に長期休暇を楽しめた。

バブル期に給料が安いので人気を失って人材不足になり、給料を高くして管理を強くされて追い詰められていった。

企業もアメリカの政策に対策するために資金の内部留保に血道を上げ、社員は単身赴任などが多くなり家庭を犠牲にするようになった。


現在日本で、少子化が進んでいるのは、子育てという「遊びの中の真面目」さが求められる生活が「遊びを失った真面目」に追い詰められているからだと思う。

多くの残業を強いられたり、単身赴任を10年以上にしたり、土日休日返上のクラブ指導を行ったり。

金銭の引き換えに「遊びを失った真面目」に仕事を強いられる世代には子育てなど不可能だ。

そもそも、「遊びを失った真面目」な受験勉強しか知らない世代は「遊び」そのものを理解できないのかもしれない。

以前、東京育ちの後輩に幼い頃は何をして遊んだかと聞いたら、スイミング教室へ通ったと言ったので、それは「遊び」でなく「レッスン」だろうと言ったことがある。

今の子どもは「レッスン」しか遊びを見いだせないのかもしれない。

私の幼い頃の遊びは、子ども同士で野山を駆け巡ったり、広場で男はコマ回し女はゴム跳び、そしてボールゲームなど大人は介在しなかった。

そして、祭りなどの年中行事には世代を超えて一緒に食事をしたり、歌ったり踊ったりして楽しんだ。

残念ながら現在の私たち年金暮らし夫婦にはそれが無い。

ただ、金にもならない「遊びの中の真面目」な農作業や研究、趣味が私の生きがいになっている。








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