私は昨年の今頃は閑谷学校の研修指導員として忙しい日々を過ごしていた。
若い人の中で、同じような仕事をするのは、60を前にした私にはかなり過酷なものだった。
それでも、体は運動や農作業で鍛えてきたので、体重を落としながらも何とか病気にはならずに過ごせた。
その閑谷学校も6月いっぱいで退職して、次のスイミングスクールの指導員に転職した。
それから一度だけ訪ねて行き、偶然駐車場で研修課長さんにお会いできた。
事あるごとに、閑谷学校で働いた時のことを思い出した。
それが縁というのは不思議なもので、今勤めている高校のOBが備前市長をしていて、その講演を聞く機会を得られた。
そういえば、閑谷学校で何度かお目にかかった人だった。
講演の中でも閑谷学校のことを触れておられた。
以前ブログで「越境の学校」という題で、閑谷学校のことに触れた。
今の備前市長さんは岡山県の寒河から、兵庫県の高校に通ってきていたという。
閑谷学校へ播州地域から学びに行ったのとは逆であり、淳心学院と同じである。
近年では備前市では無いけれど、岡山白陵高校には、兵庫県からも多く通学しているようなので、再び西への流れも復活している。
備前市長さんは、赤穂、上郡、備前が地域ポータルサイトで情報を共同で発信していることを言われていた。
閑谷学校に研修しに来る学校の中にも、赤穂市の中学校や、上郡の高校が含まれている。
元々中世では、備前は赤松氏の所領だったこともあるし、歴史的には関わりの多いところであった。
どうしても、播州地域は姫路が中心となるが、それとは色の違う文教地域ができればと思う。
また、備前市には企業もそこそこあって、働く場所としても考えられるだろう。
閑谷学校で研修することがあった生徒には、親しみを感じる場所にもなる。
姫路城に対抗するには、もうすこし大がかりに整備をする必要があると思う。
場合によっては、赤穂、姫路と広域に人を呼び寄せるマップが必要に思える。
その中で、閑谷学校と関わる大鳥圭介のゆかりのある上郡はそう関わっていくべきか
赤松氏ゆかりの落ちない白旗城や、赤松氏の館の復元などを通じてもっとアピールすべきだろう。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2019年4月24日水曜日
2019年4月22日月曜日
60歳からの暮らし
普通は60歳という歳は、大きな区切りの年となる。
私は既に早期退職しているので、一つの区切りは過ぎているが、やはり区切りになることは間違いない。
一般では60歳を過ぎても、再任用、再雇用で働く人も多いようだ。
私も、全く稼ぐことを止めるつもりは無い。
稼ぐ量を減らしたり、やり方を変えようと思っている。
これからは、自分の心身にしっかりと向き合わねばならない。
本当は、年齢に関わらず心身に気を遣い、健康を保つ必要がある。
しかし、殆どの人は仕事優先の生活の中で、何らかの不調を来してきたと思う。
私は既に20代の大学院生時代に、研究と生活の板挟みで十二指腸潰瘍を患っていた。
30代では、仕事についてからは、腰痛が酷くなったり、痔を煩い一ヶ月も入院した。
40代では、自律神経を患ったり、肥満が続いて、後の糖尿病の原因を作っていた。
50代では、糖尿病で教育入院したり、鼠径ヘルニアで入院して手術を受けた。
要するに、病気を患いながらも、若さと家族への思いで、乗り切ってきただけなのである。
しかし、50代頃から、周りで亡くなっていく人が身近に感じるようになった。
自分も死というものを意識しながら、暮らしていかねばならないと感じるようになった。
また、いくら生きていても、認知症を患ってしまったり、一人暮らしの孤独な生活に不安を感じる。
60歳を過ぎても、仕事に邁進できる人は、そういう不安を回避できる立場か、健康管理を日頃維持している人か、無思慮な人であろう。
子育ても終わっている60歳からの暮らしは、自分を上手く老いさせて行くことをまず考えねばならないと思っている。
研究や趣味を続けていったり、農作業に勤しむのもそのためなのである。
そして、必要なお金は無理をしない程度に、稼ぎ続けねばならないと思う。
それは稼ぐための暮らしから、暮らしのための稼ぎへの転換だ。
それは既に早期退職した時から既に始まっている。
早期退職した村の人たちが、その参考になった。
60歳になった今からは、もう少し肩の力を抜いて暮らしていこうと思っている。
私は既に早期退職しているので、一つの区切りは過ぎているが、やはり区切りになることは間違いない。
一般では60歳を過ぎても、再任用、再雇用で働く人も多いようだ。
私も、全く稼ぐことを止めるつもりは無い。
稼ぐ量を減らしたり、やり方を変えようと思っている。
これからは、自分の心身にしっかりと向き合わねばならない。
本当は、年齢に関わらず心身に気を遣い、健康を保つ必要がある。
しかし、殆どの人は仕事優先の生活の中で、何らかの不調を来してきたと思う。
私は既に20代の大学院生時代に、研究と生活の板挟みで十二指腸潰瘍を患っていた。
30代では、仕事についてからは、腰痛が酷くなったり、痔を煩い一ヶ月も入院した。
40代では、自律神経を患ったり、肥満が続いて、後の糖尿病の原因を作っていた。
50代では、糖尿病で教育入院したり、鼠径ヘルニアで入院して手術を受けた。
要するに、病気を患いながらも、若さと家族への思いで、乗り切ってきただけなのである。
しかし、50代頃から、周りで亡くなっていく人が身近に感じるようになった。
自分も死というものを意識しながら、暮らしていかねばならないと感じるようになった。
また、いくら生きていても、認知症を患ってしまったり、一人暮らしの孤独な生活に不安を感じる。
60歳を過ぎても、仕事に邁進できる人は、そういう不安を回避できる立場か、健康管理を日頃維持している人か、無思慮な人であろう。
子育ても終わっている60歳からの暮らしは、自分を上手く老いさせて行くことをまず考えねばならないと思っている。
研究や趣味を続けていったり、農作業に勤しむのもそのためなのである。
そして、必要なお金は無理をしない程度に、稼ぎ続けねばならないと思う。
それは稼ぐための暮らしから、暮らしのための稼ぎへの転換だ。
それは既に早期退職した時から既に始まっている。
早期退職した村の人たちが、その参考になった。
60歳になった今からは、もう少し肩の力を抜いて暮らしていこうと思っている。
2019年4月19日金曜日
研究と生活
今日(4/18)の朝日新聞に、優秀な研究者が安定した職をえらずに、結婚生活にも躓き自死した話が掲載されていた。
以前から、博士課程の定員を増やしたのに、研究職が得られないという話は良く聞いていた。
私は、研究職に応募しながら、いつも書類選考で落ちていたが、高校教師としての収入は確保できていた。
生活のために必死で研究している人の業績に勝てるはずも無かった。
しかし、いくら業績を積んでも職に就けないとなると、研究というのを根本的に考え直さねばならないだろう。
私はそもそも研究至上主義では無かった。
大学院に進んだ時も、研究者になれる可能性のある大学だから選んだ。
そうでない大学院には行くつもりも無く、博士課程から別の大学院に行くつもりは無かった。
研究職志望は、大学4年からのことで、それまでには教職に就けるように教員免許取得は怠らなかった。
因みに私が進学した大学院の研究室では、殆どの人が教員免許は持っていなかった。
それでも修士課程の3年間は、博士に進学し研究を続けたいために、必死になった。
また、自分を支えてくれる人もいた。
多くを犠牲にして自分なりに努力したが、結局良い論文を書くことが出来なかった。
そして、その支えてくれた人まで失ってしまった。
その時に、踏ん張って研究を続けることを選ぶか、生活を立て直すことを選ぶか、ずいぶん迷い苦しんだ。
何とか研究を続けたいと思い、アルバイトをした。
アルバイト先で目にしたのは、夢の実現のためにアルバイトをしている若者。
塾の講師をした時も、東大を出ながら塾講師をしている30代半ばの人の不安定な生活にショックを受けた。
安定した家庭生活を得るためには、自分には教員になる道しか残されていないと思った。
そして、未練を多く残したまま、東京を後にした。
その時の思いは、その後教師になってもひきづり続けていた。
教員生活を続けながら、良い論文や作品を書いて、研究職に就きたいと思った。
一方で、教師の仕事は多忙だったが、夢中にさせる魅力もあった。
そして、趣味で色々なことができ、仲間とも楽しく過ごせた。
何よりも、結婚し、子供ができて、普通の家庭が築けたことが一番の幸せになった。
実はつい最近まで、東京で生活が破綻した時代に戻った夢を見ていた。
「どうしよう、このままは結婚もできない」と思いながら目を覚ます。
横では家内がすやすやと眠っているのを見て我に返って安心する。
こんな悪夢を何度も繰り返し視て目が覚めた。
私は今も研究は続けている。
研究のために早期退職したと表向きは言っているが、それが全てでは無い。
研究はあくまで、自分が生きた時代はどんな時代だったのかを知る手がかりだ。
何も分からず、流されて死んでいったというのでは、面白くない。
地位も名誉も金銭もそれほど得られたわけでは無いが、幾分か自分の生きている世界と時代が分かってきた。
それでも、一番大事なのは家族や仲間と一緒に過ごす日々の暮らしだと思っている。
そして、その日々の暮らしを、大きく支えてくれているのが、研究であることも事実である。
また、その研究を続けるには、自分には多くの趣味が必要であるとも思っている。
以前から、博士課程の定員を増やしたのに、研究職が得られないという話は良く聞いていた。
私は、研究職に応募しながら、いつも書類選考で落ちていたが、高校教師としての収入は確保できていた。
生活のために必死で研究している人の業績に勝てるはずも無かった。
しかし、いくら業績を積んでも職に就けないとなると、研究というのを根本的に考え直さねばならないだろう。
私はそもそも研究至上主義では無かった。
大学院に進んだ時も、研究者になれる可能性のある大学だから選んだ。
そうでない大学院には行くつもりも無く、博士課程から別の大学院に行くつもりは無かった。
研究職志望は、大学4年からのことで、それまでには教職に就けるように教員免許取得は怠らなかった。
因みに私が進学した大学院の研究室では、殆どの人が教員免許は持っていなかった。
それでも修士課程の3年間は、博士に進学し研究を続けたいために、必死になった。
また、自分を支えてくれる人もいた。
多くを犠牲にして自分なりに努力したが、結局良い論文を書くことが出来なかった。
そして、その支えてくれた人まで失ってしまった。
その時に、踏ん張って研究を続けることを選ぶか、生活を立て直すことを選ぶか、ずいぶん迷い苦しんだ。
何とか研究を続けたいと思い、アルバイトをした。
アルバイト先で目にしたのは、夢の実現のためにアルバイトをしている若者。
塾の講師をした時も、東大を出ながら塾講師をしている30代半ばの人の不安定な生活にショックを受けた。
安定した家庭生活を得るためには、自分には教員になる道しか残されていないと思った。
そして、未練を多く残したまま、東京を後にした。
その時の思いは、その後教師になってもひきづり続けていた。
教員生活を続けながら、良い論文や作品を書いて、研究職に就きたいと思った。
一方で、教師の仕事は多忙だったが、夢中にさせる魅力もあった。
そして、趣味で色々なことができ、仲間とも楽しく過ごせた。
何よりも、結婚し、子供ができて、普通の家庭が築けたことが一番の幸せになった。
実はつい最近まで、東京で生活が破綻した時代に戻った夢を見ていた。
「どうしよう、このままは結婚もできない」と思いながら目を覚ます。
横では家内がすやすやと眠っているのを見て我に返って安心する。
こんな悪夢を何度も繰り返し視て目が覚めた。
私は今も研究は続けている。
研究のために早期退職したと表向きは言っているが、それが全てでは無い。
研究はあくまで、自分が生きた時代はどんな時代だったのかを知る手がかりだ。
何も分からず、流されて死んでいったというのでは、面白くない。
地位も名誉も金銭もそれほど得られたわけでは無いが、幾分か自分の生きている世界と時代が分かってきた。
それでも、一番大事なのは家族や仲間と一緒に過ごす日々の暮らしだと思っている。
そして、その日々の暮らしを、大きく支えてくれているのが、研究であることも事実である。
また、その研究を続けるには、自分には多くの趣味が必要であるとも思っている。
2019年4月16日火曜日
あと数日の50代
私はまもなく60になる。
60歳というのは、還暦というより、退職を迎える歳だった。
近年では、年金支給開始が60歳でなくなったので、再雇用で働く人が殆どだ。
しかし、私は教員を早期退職して、今、臨時で再雇用されている。
この臨時雇用も、60歳で節目を迎えねばならない。
60歳未満の人と扱いが変わってくるのである。
60歳になって、急に心身が衰えるわけではないが、それまで衰えてきた心身を認めざるを得ない歳に思える。
50歳代後半になって、衰えてきた心身に叱咤激励を自ら課してきたのだが、もうしなくて良いのではないかと思えてくる。
子供がまだ独り立ちしていない親にとっては、60歳を越えても奮闘し続ける必要があるとは思う。
そういう意味では、無理を強いなくても良い立場でありがたいとは思っている。
以前のブログ「膵臓がんで逝った知人」で書いたように、定年前後に亡くなった人を多く知っている。
それだけに、この60歳は感慨深い歳なのである。
ニュースでは中高年のひきこもりが問題になっている。
退職をきっかけとして、家庭に引きこもってしまう中高年があまりにも多いようだ。
まさに今、現代での生き方そのものが問われていると思う。
過剰に仕事に適応して、過労や癌で亡くなる人。
仕事に適応できずに、引き籠もってしまう人。
ほどよく、仕事と付き合って、ほどよく暮らしが出来る方法を探さねばならない。
それが、ブラックと言われるようになった教員も難しくなった。
今は悩むことは若者だけのものではなくなった。
中高年も、高齢者も悩まねばならなくなった。
60歳を前にして、悩みは尽きない。
60歳というのは、還暦というより、退職を迎える歳だった。
近年では、年金支給開始が60歳でなくなったので、再雇用で働く人が殆どだ。
しかし、私は教員を早期退職して、今、臨時で再雇用されている。
この臨時雇用も、60歳で節目を迎えねばならない。
60歳未満の人と扱いが変わってくるのである。
60歳になって、急に心身が衰えるわけではないが、それまで衰えてきた心身を認めざるを得ない歳に思える。
50歳代後半になって、衰えてきた心身に叱咤激励を自ら課してきたのだが、もうしなくて良いのではないかと思えてくる。
子供がまだ独り立ちしていない親にとっては、60歳を越えても奮闘し続ける必要があるとは思う。
そういう意味では、無理を強いなくても良い立場でありがたいとは思っている。
以前のブログ「膵臓がんで逝った知人」で書いたように、定年前後に亡くなった人を多く知っている。
それだけに、この60歳は感慨深い歳なのである。
ニュースでは中高年のひきこもりが問題になっている。
退職をきっかけとして、家庭に引きこもってしまう中高年があまりにも多いようだ。
まさに今、現代での生き方そのものが問われていると思う。
過剰に仕事に適応して、過労や癌で亡くなる人。
仕事に適応できずに、引き籠もってしまう人。
ほどよく、仕事と付き合って、ほどよく暮らしが出来る方法を探さねばならない。
それが、ブラックと言われるようになった教員も難しくなった。
今は悩むことは若者だけのものではなくなった。
中高年も、高齢者も悩まねばならなくなった。
60歳を前にして、悩みは尽きない。
2019年4月14日日曜日
小野豆の桜2019
小野豆までに登ろうと思いつつ、冬の寒い時期、日陰になった谷を見ると諦めていた。
今日(4/13)は、土曜日でクロの散歩に出かけるのも、急がなくて良かった。
先日から、小野豆への山道に桜が咲いているのを、見ていたので登ることにした。
クロは、小野図に登る坂道は、いつもの散歩とは意気込みが違う。
ぐいぐい坂道を引っ張ってくれるのだが、それほど楽にしてくれているわけでは無い。
引っ張る分、腕で制御せねばならないからだ。
今まで履いていた型崩れした靴ではなくて、モンベルの新しい靴は快適に坂道を歩ませてくれた。
道沿いの桜はちょうど散り盛りで、花びらの舞う中を歩いて行く。
木々の新芽の淡い緑や、紅い芽の彩りにの世界に入り込む。
昨日まで、仕事に鬱々として、人生そのものを悲観していた心地とはまるで違う。
今日の目的は、小野豆の枝垂れ桜だったが、残念ながら花の盛りはとっくに過ぎていた。
それでも、小野豆集落の入り口の桜は見事であった。
帰りは楽なので、坂道からゆったりと、私が住んでいる高田地区や、遠くの山々が見渡した。
小野豆の道で残念なのは、結構車が通るので、それを警戒していなければならない。
ただ、坂道なので車の音は近寄ってくる大分前から分かる。
ワラビもそこそこ生えてきて、今度からはワラビを摘むことが目的になりそうだ。
毎日山に登る余裕は無い。
けれど、山に登ることは、心身のためには大切なことだと再認識した。
確かにいつもの散歩道でも、運動になるし、気分転換にもなる。
山は、それ以上の運動と、木々や動物の力を見せつけられて、自分のもつ自然を呼び覚ませてくれる。
今日(4/13)は、土曜日でクロの散歩に出かけるのも、急がなくて良かった。
先日から、小野豆への山道に桜が咲いているのを、見ていたので登ることにした。
クロは、小野図に登る坂道は、いつもの散歩とは意気込みが違う。
ぐいぐい坂道を引っ張ってくれるのだが、それほど楽にしてくれているわけでは無い。
引っ張る分、腕で制御せねばならないからだ。
今まで履いていた型崩れした靴ではなくて、モンベルの新しい靴は快適に坂道を歩ませてくれた。
道沿いの桜はちょうど散り盛りで、花びらの舞う中を歩いて行く。
木々の新芽の淡い緑や、紅い芽の彩りにの世界に入り込む。
昨日まで、仕事に鬱々として、人生そのものを悲観していた心地とはまるで違う。
今日の目的は、小野豆の枝垂れ桜だったが、残念ながら花の盛りはとっくに過ぎていた。
それでも、小野豆集落の入り口の桜は見事であった。
帰りは楽なので、坂道からゆったりと、私が住んでいる高田地区や、遠くの山々が見渡した。
小野豆の道で残念なのは、結構車が通るので、それを警戒していなければならない。
ただ、坂道なので車の音は近寄ってくる大分前から分かる。
ワラビもそこそこ生えてきて、今度からはワラビを摘むことが目的になりそうだ。
毎日山に登る余裕は無い。
けれど、山に登ることは、心身のためには大切なことだと再認識した。
確かにいつもの散歩道でも、運動になるし、気分転換にもなる。
山は、それ以上の運動と、木々や動物の力を見せつけられて、自分のもつ自然を呼び覚ませてくれる。
2019年4月12日金曜日
身近な糖質中毒
私が糖尿病になった最大の原因はスポーツ飲料の飲み過ぎ。
そして、スイカやメロンなどの甘い果物を多量に食べたことである。
当時は水泳を生徒と一緒にガンガン練習していたので、これだけ運動していれば大丈夫だろうと過信していた。
また、VAAMという、脂肪を燃やしてくれて、持続力も維持できるアミノ酸入りの飲料に対する信仰もあった。
いくら糖質を抑えていても、多量に飲めば摂取量はかなり多くなる。
いつの間にか、出かける時には水を持ち歩かなくてはならなくなり、気がつけば糖尿病になっていた。
その後の生活で、食生活は改善できたと思うが、やはり根本的に糖質中毒から抜け出せない。
タバコは吸わなくても、生活に支障は無いが、糖質を取らないと健康にも問題が出てくる。
要するに適度な糖質なら良いのだが、摂り過ぎると問題が起こる。
この適度というのがかなり難しい。
ご飯の量を減らしても、ビールやワインは飲む。
つい、スナックやパンがお膳の上にあると、口にしてしまう。
家内にはそういう物は、自分が食べたらしまうように言っているのだが・・・
そして、どうしても飲むとラーメンへの誘惑が出てくるので、頼んでも出さないようにとも言っている。
これは身勝手な要求とは分かっているが、糖質中毒者として扱ってもらわねばならない。
以前は日本人が塩分を取りすぎと言うことで、それが高血圧につながるので、塩分控えめが浸透してきた。
しかし、糖質に関しては、個人によって影響の差があり、糖質制限は一般化されづらい。
しかも、テレビの番組やコマーシャルでは、甘くておいしそうな料理やお菓子を見せつけてくれている。
体に良いというチョコレートも、私はカカオ85%のものを食べているが、以前の職場では女性からそれはチョコレートでは無いと一蹴された。
糖質中毒とは行かないまでも、あきらかに糖質依存症が一般的な状態だ。
今の生活と切っても切れない糖質との関係を、真剣に考える時が来ているように思える。
そして、スイカやメロンなどの甘い果物を多量に食べたことである。
当時は水泳を生徒と一緒にガンガン練習していたので、これだけ運動していれば大丈夫だろうと過信していた。
また、VAAMという、脂肪を燃やしてくれて、持続力も維持できるアミノ酸入りの飲料に対する信仰もあった。
いくら糖質を抑えていても、多量に飲めば摂取量はかなり多くなる。
いつの間にか、出かける時には水を持ち歩かなくてはならなくなり、気がつけば糖尿病になっていた。
その後の生活で、食生活は改善できたと思うが、やはり根本的に糖質中毒から抜け出せない。
タバコは吸わなくても、生活に支障は無いが、糖質を取らないと健康にも問題が出てくる。
要するに適度な糖質なら良いのだが、摂り過ぎると問題が起こる。
この適度というのがかなり難しい。
ご飯の量を減らしても、ビールやワインは飲む。
つい、スナックやパンがお膳の上にあると、口にしてしまう。
家内にはそういう物は、自分が食べたらしまうように言っているのだが・・・
そして、どうしても飲むとラーメンへの誘惑が出てくるので、頼んでも出さないようにとも言っている。
これは身勝手な要求とは分かっているが、糖質中毒者として扱ってもらわねばならない。
以前は日本人が塩分を取りすぎと言うことで、それが高血圧につながるので、塩分控えめが浸透してきた。
しかし、糖質に関しては、個人によって影響の差があり、糖質制限は一般化されづらい。
しかも、テレビの番組やコマーシャルでは、甘くておいしそうな料理やお菓子を見せつけてくれている。
体に良いというチョコレートも、私はカカオ85%のものを食べているが、以前の職場では女性からそれはチョコレートでは無いと一蹴された。
糖質中毒とは行かないまでも、あきらかに糖質依存症が一般的な状態だ。
今の生活と切っても切れない糖質との関係を、真剣に考える時が来ているように思える。
2019年4月11日木曜日
父の通院と大津川
もうかれこれ10年以上前になる。
私の父は脳梗塞の後遺症で、体の至る所で変調を来していた。
そこで、良いという噂から、私にとっても、父にとっても生まれ故郷の鳥撫の医院に通院することになった。
私は、2週間に一回くらいの割合で、土曜日に父や付き添いの母を連れて、その医院に運転手として付き添った。
私にとっても生まれ故郷といいながら、あたりの景色は様変わりしている。
もともと本家のあったところも、崖崩れの址は家が建てられず、別の場所に家を建て替えている。
一度だけ、父親を誘って、元の本家の場所に行ったが、もう認知症の進んできている父には、懐かしい風景ではないようだった。
私は父と母が治療を受けている間は、暇なので鳥撫での村や、海岸近くを散歩していた。
海岸と言っても、大津川河口の入り江と言った方が良い。
そこは、幼い頃にカブトガニを捕ったりして遊んだところである。
その土手道路を散歩しながら、時には折方から、グリーンベルトまで歩いて行ったりしていた。
我が子がまだ小さい頃は、赤穂の大津に住んでいて、ジョギングでこのあたりまで、走ってきたりしていた。
大津川の土手道は子供を自転車に乗せて、ぶらぶら楽しむ場所でもあった。
自分の幼い頃の思い出と、我が子を連れて遊んだ思い出の場所を、父の通院でしばらく訪れることになったのも何かの縁のように感じた。
散歩していると、親戚の人に会って話をすることもあった。
そして、何よりも目に焼き付いているのは、当時咲いていた対岸に見える桜の花だ。
父は、その通院から一年後の桜の咲く頃に逝ってしまった。
桜を見るたびに、その時の景色を思い出す。
私の父は脳梗塞の後遺症で、体の至る所で変調を来していた。
そこで、良いという噂から、私にとっても、父にとっても生まれ故郷の鳥撫の医院に通院することになった。
私は、2週間に一回くらいの割合で、土曜日に父や付き添いの母を連れて、その医院に運転手として付き添った。
私にとっても生まれ故郷といいながら、あたりの景色は様変わりしている。
もともと本家のあったところも、崖崩れの址は家が建てられず、別の場所に家を建て替えている。
一度だけ、父親を誘って、元の本家の場所に行ったが、もう認知症の進んできている父には、懐かしい風景ではないようだった。
私は父と母が治療を受けている間は、暇なので鳥撫での村や、海岸近くを散歩していた。
海岸と言っても、大津川河口の入り江と言った方が良い。
そこは、幼い頃にカブトガニを捕ったりして遊んだところである。
その土手道路を散歩しながら、時には折方から、グリーンベルトまで歩いて行ったりしていた。
我が子がまだ小さい頃は、赤穂の大津に住んでいて、ジョギングでこのあたりまで、走ってきたりしていた。
大津川の土手道は子供を自転車に乗せて、ぶらぶら楽しむ場所でもあった。
自分の幼い頃の思い出と、我が子を連れて遊んだ思い出の場所を、父の通院でしばらく訪れることになったのも何かの縁のように感じた。
散歩していると、親戚の人に会って話をすることもあった。
そして、何よりも目に焼き付いているのは、当時咲いていた対岸に見える桜の花だ。
父は、その通院から一年後の桜の咲く頃に逝ってしまった。
桜を見るたびに、その時の景色を思い出す。
2019年4月10日水曜日
イタチの遠流
先日近所の家で、イタチが罠にかかった。
その家では以前から、庭にイタチが住みついて、糞をしたりして困っていたという。
自慢げに見せてもらったイタチは、捕獲器の中できょとんとしていた。
捕まえた主人は、水に浸けて殺して、埋めるのだと言って、溝のそばに穴まで掘ってあった。
家内にそのことを話したら、「放してやらないの」と言う。
確かに、家から離れて放す手があると思った。
これは以前、近所の家で悪さをする狐を、その主人が捕らえて、遠くの山に放したやり方だ。
私はその時に手伝いを頼まれたが、大きな袋に詰めて軽トラで遠くの山に連れて行き、そこで放した。
狐はすさまじい臭いがしていて、袋はもう使えなかった。
日本史を教えてきた私としては、昔の遠流、島流しを連想した。
要するに町や村で悪さをした者は、遠くの地に連れて行って、戻ってこられなくするのだ。
里で悪さをするイタチや狐は、遠くの山に捨ててきて、戻ってこられなくする。
人も動物もやり方は同じだ。
出来ることなら、殺生は避けたいというのが根底にある。
その後、イタチは捕獲器の中にいなくなっており、新たに餌がつけられていた。
気になったので、その主人にたずねると、峠を越えた先の山で放したという。
あそこまで遠ければ戻っててこないだろうという。
私が「仏心がわいたね」と言うと、苦笑していた。
やはりいざ処分することになると、いくら悪さをする動物でも嫌なものである。
イタチが新しい環境で生き延びられるかどうか分からないが、生きるチャンスだけは与えられた。
昔の罪人に課せられた遠流も、そういう意味があったのだろうと思う。
その家では以前から、庭にイタチが住みついて、糞をしたりして困っていたという。
自慢げに見せてもらったイタチは、捕獲器の中できょとんとしていた。
捕まえた主人は、水に浸けて殺して、埋めるのだと言って、溝のそばに穴まで掘ってあった。
家内にそのことを話したら、「放してやらないの」と言う。
確かに、家から離れて放す手があると思った。
これは以前、近所の家で悪さをする狐を、その主人が捕らえて、遠くの山に放したやり方だ。
私はその時に手伝いを頼まれたが、大きな袋に詰めて軽トラで遠くの山に連れて行き、そこで放した。
狐はすさまじい臭いがしていて、袋はもう使えなかった。
日本史を教えてきた私としては、昔の遠流、島流しを連想した。
要するに町や村で悪さをした者は、遠くの地に連れて行って、戻ってこられなくするのだ。
里で悪さをするイタチや狐は、遠くの山に捨ててきて、戻ってこられなくする。
人も動物もやり方は同じだ。
出来ることなら、殺生は避けたいというのが根底にある。
その後、イタチは捕獲器の中にいなくなっており、新たに餌がつけられていた。
気になったので、その主人にたずねると、峠を越えた先の山で放したという。
あそこまで遠ければ戻っててこないだろうという。
私が「仏心がわいたね」と言うと、苦笑していた。
やはりいざ処分することになると、いくら悪さをする動物でも嫌なものである。
イタチが新しい環境で生き延びられるかどうか分からないが、生きるチャンスだけは与えられた。
昔の罪人に課せられた遠流も、そういう意味があったのだろうと思う。
2019年4月4日木曜日
菜の花とヨモギ
今、裏の畑では菜の花が咲き乱れている。
実は、菜の花は種をまいたのでは無くて、勝手に生えてきた。
ニンニクを植えるのに、肥料を撒いて耕して、マルチをしていた。
そのマルチの横で芽を出し始めて、放っておいたら、大きくなった。
去年の種が落ちていたのだが、耕さなかった区画では殆ど芽が出なかった。
要するに、同じように種が落ちていても、根を出す環境が無かったら出なかったのだ。
食用の菜の花は、早くから蕾をつけてくれて、緑物の少ない時期の大切な野菜となる。
手かごいっぱいに摘んだのだが、食べるのに時間がかかったりして、花を咲かせてしまった。
菜の花は少し苦みがあり、人によって好き好きがあるので、誰にでも上げられない。
出荷しているのは、茎が太くてサイズもそろっている。
我が家の菜の花は茎も細くて、サイズもバラバラで商品にはならない。
それでも、柔らかくておいしいし、安全である。
ネットで調べると、栄養価も非常に高いという。
ブロッコリーは今回植えていなかったが、その代用になってくれたようだ。
一方、道ばたにはヨモギがやっと芽を出してくれている。
土筆も大分前から生えているのだが、はかまを取るのが面倒なので、摘まなかった。
ヨモギは大雑把に処理できるので、芽を摘んできた。
私はこれを乾燥させて、焼酎に漬けたり、お茶で飲んだりする。
ヨモギも非常に栄養価が高い植物だ。
こちらは、全く自然に頼っての食料なのである。
自然と言っても、生える条件がちゃんとあって、どこでも良いわけでは無い。
きちっと里の環境が、維持されているところに生えている。
菜の花にしても、ヨモギにしても、多くの手をかけなくても、役立つ植物は結構ある。
そういう植物と上手く付き合っていけば、環境に優しく経済的な生活が送れると思う。
実は、菜の花は種をまいたのでは無くて、勝手に生えてきた。
ニンニクを植えるのに、肥料を撒いて耕して、マルチをしていた。
そのマルチの横で芽を出し始めて、放っておいたら、大きくなった。
去年の種が落ちていたのだが、耕さなかった区画では殆ど芽が出なかった。
要するに、同じように種が落ちていても、根を出す環境が無かったら出なかったのだ。
食用の菜の花は、早くから蕾をつけてくれて、緑物の少ない時期の大切な野菜となる。
手かごいっぱいに摘んだのだが、食べるのに時間がかかったりして、花を咲かせてしまった。
菜の花は少し苦みがあり、人によって好き好きがあるので、誰にでも上げられない。
出荷しているのは、茎が太くてサイズもそろっている。
我が家の菜の花は茎も細くて、サイズもバラバラで商品にはならない。
それでも、柔らかくておいしいし、安全である。
ネットで調べると、栄養価も非常に高いという。
ブロッコリーは今回植えていなかったが、その代用になってくれたようだ。
一方、道ばたにはヨモギがやっと芽を出してくれている。
土筆も大分前から生えているのだが、はかまを取るのが面倒なので、摘まなかった。
ヨモギは大雑把に処理できるので、芽を摘んできた。
私はこれを乾燥させて、焼酎に漬けたり、お茶で飲んだりする。
ヨモギも非常に栄養価が高い植物だ。
こちらは、全く自然に頼っての食料なのである。
自然と言っても、生える条件がちゃんとあって、どこでも良いわけでは無い。
きちっと里の環境が、維持されているところに生えている。
菜の花にしても、ヨモギにしても、多くの手をかけなくても、役立つ植物は結構ある。
そういう植物と上手く付き合っていけば、環境に優しく経済的な生活が送れると思う。
2019年4月2日火曜日
倉敷のアウトレットモール
昨日(3/31)、倉敷のアウトレットに家内と買い物に出かけた。
目当ては、トレッキングシューズで、以前勤めていた岡山の研修所で、市内在住の職員から安いと聞いていた。
前もって調べてみると、三田のアウトレットには無かったmont-bellも出店していた。
mont-bellはあまり安売りをしないので、少しでも安ければと思ったからである。
実は、倉敷のアウトレットの前身である、倉敷チボリ公園には子供と一緒に一度だけ遊びに来たことがある。
1999年のことで、今から20年近くも前のことである。
子供とは電車に乗る機会が殆どなくて、子供が電車に乗りたいという要望に応えたのである。
倉敷チボリ公園は駅の直ぐ近くにあったので、電車で行きやすい場所だった。
上郡駅から倉敷駅までは、殆ど山間部を通るので、珍しい景色は無かったけれど、電車に乗る機会の無い子供たちは大喜びだった。
せっかく素敵なテーマパークがあったのに、結局一度だけしか行かなかった。
それは、当時は子供と行ける場所が多くあって、気軽に車で行けたからだと思う。
また、子供会からもバス旅行で、色々な所に家族一緒になって出かけていった。
倉敷までの道のりは何ら問題は無かった、問題は倉敷駅付近に着いてからであった。
スマホはいつも通り、分かりづらい抜け道を指示する。
ナビ役の私は、案内板を探しながら、ルートを探すが、結局大回りでゲートに入った。
もう、すでにチボリの面影は無く、記憶を甦らせるものは無かった。
どうしても、三田のアウトレットと比較するが、規模は三田に比べればかなり小さく感じた。
ただ、ありがたかったのは、目当てのトレッキングシューズを選ぶのに、mont-bellとColumbiaがそばにあって、比較しやすかった。
結局、両方を見て、mont-bellの型落ちを買うことにした。
実際、新型よりどれだけお手頃なのか分からないが、靴のタイプとしては気に入った。
アウトレットをぶらぶら見て歩いて、帰路についた。
駐車場から出るのにも一苦労したが、結構狭い路地が多くて、渋滞していた。
今回は、行きの運転は家内が行い、帰りの運転は私が行ったのだが、同じ道を戻っても風景を憶えていなかった。
スマホの案内に気を取られていたからだ、それでも当てずっぽうで、2号線に出ることが出来た。
ドライブとしては、三田に行く方が面白いのだが、三田は遠いし、休日では渋滞が激しい。
それに比べて、倉敷はドライブの楽しみには欠けるが、比較的近くで渋滞も少ない。
休日に行くのなら、倉敷の方が良いかもしれないと思った。
目当ては、トレッキングシューズで、以前勤めていた岡山の研修所で、市内在住の職員から安いと聞いていた。
前もって調べてみると、三田のアウトレットには無かったmont-bellも出店していた。
mont-bellはあまり安売りをしないので、少しでも安ければと思ったからである。
実は、倉敷のアウトレットの前身である、倉敷チボリ公園には子供と一緒に一度だけ遊びに来たことがある。
1999年のことで、今から20年近くも前のことである。
子供とは電車に乗る機会が殆どなくて、子供が電車に乗りたいという要望に応えたのである。
倉敷チボリ公園は駅の直ぐ近くにあったので、電車で行きやすい場所だった。
上郡駅から倉敷駅までは、殆ど山間部を通るので、珍しい景色は無かったけれど、電車に乗る機会の無い子供たちは大喜びだった。
せっかく素敵なテーマパークがあったのに、結局一度だけしか行かなかった。
それは、当時は子供と行ける場所が多くあって、気軽に車で行けたからだと思う。
また、子供会からもバス旅行で、色々な所に家族一緒になって出かけていった。
倉敷までの道のりは何ら問題は無かった、問題は倉敷駅付近に着いてからであった。
スマホはいつも通り、分かりづらい抜け道を指示する。
ナビ役の私は、案内板を探しながら、ルートを探すが、結局大回りでゲートに入った。
もう、すでにチボリの面影は無く、記憶を甦らせるものは無かった。
どうしても、三田のアウトレットと比較するが、規模は三田に比べればかなり小さく感じた。
ただ、ありがたかったのは、目当てのトレッキングシューズを選ぶのに、mont-bellとColumbiaがそばにあって、比較しやすかった。
結局、両方を見て、mont-bellの型落ちを買うことにした。
実際、新型よりどれだけお手頃なのか分からないが、靴のタイプとしては気に入った。
アウトレットをぶらぶら見て歩いて、帰路についた。
駐車場から出るのにも一苦労したが、結構狭い路地が多くて、渋滞していた。
今回は、行きの運転は家内が行い、帰りの運転は私が行ったのだが、同じ道を戻っても風景を憶えていなかった。
スマホの案内に気を取られていたからだ、それでも当てずっぽうで、2号線に出ることが出来た。
ドライブとしては、三田に行く方が面白いのだが、三田は遠いし、休日では渋滞が激しい。
それに比べて、倉敷はドライブの楽しみには欠けるが、比較的近くで渋滞も少ない。
休日に行くのなら、倉敷の方が良いかもしれないと思った。
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