私の父親の兄弟は8人生まれて5人生き残って家族をもった。
亡くなった1人は戦死だったが、後のふたりは子どもの頃に病死、事故死だった。
生き残った5人はひとりを除いて全て赤穂市内に暮らし続けた。
ひとりだけ就職のために遠く名古屋に暮らすことになったが、死ぬまで赤穂に帰りたいと言い続けていた。
母親はふたり姉妹で、その父母はもともと市内の福浦だったが、神戸を経て相生に移り住んでそこで育った。
母は結婚して親戚の多い赤穂に戻り、祖母のいる伯母家族も、その後隣同士で家を建てて赤穂に暮らすようになった。
一方、私の兄弟で赤穂に居を構えたのはひとりだけで、私は隣の上郡に居を構えた。
それに対して、家内の父母は広島県の島に生まれ育ったが、義父の兄弟姉妹は誰ひとり島に残らなかった。
義母の兄弟姉妹も跡取りの長男を除いて島を離れてしまい、娘のひとりだけが隣の島に嫁いで近くに住んでいた。
そういうことで、家内は幼い頃には母親の実家のある島で過ごした経験はあったが、そのうち盆正月にも行かなくなったという。
つまり、私の兄弟の地元を離れる状態が、既に親の世代に起こっていたのがそういう島の現実だったようだ。
逆に言えば私たち兄弟にとっては赤穂のような街も、広島の離島と変わりなくなってしまったということだ。
ただし、義母の生まれ育った島は今は橋で本土と繋がっているので、もう離島とは言えなくなっている。
親の世代では赤穂に暮らしていた父母の兄弟姉妹もその子どもの世代、つまり私のいとこで赤穂に暮らしているのは実質今はひとりだけだ。
というのも、亡くなってしまったり、家は赤穂にあっても、夫の仕事関係で赤穂を離れていたり、単身赴任をしているからだ。
私を含めて赤穂に住み続けていたいという執着心は無くなってしまっていると言って良いかもしれない。
私自身は結婚して子どもが幼稚園に入るまでは、赤穂で親戚の家を借りて住んでいた。
しかし、こどもが喘息とアトピーで健康に良い環境を求めて上郡に家を建てた。
本当は、赤穂に拘りがあって、坂越や有年、福浦あたりの環境に良さそうな場所で探したが、良い土地が見つからなかった。
上郡は赤穂市ではないが、赤穂郡なので赤穂という所に住み続けていることは形として同じである。
そして、その上郡の村も地元に居続けていく跡継ぎがいる家は、半分以下だと思う。
赤穂では大学を出て就職できる企業も少なく、上郡は高卒でも少ない上に、兼業農家をしながら仕事勤めをする人自体いなくなっている。
そして、地元で暮らす魅力が失われてしまっていることが原因だと思う。
私が子どもの頃の赤穂はまだ塩田が残り、繊維産業などの企業の元気だった。
ただ、赤穂の西地区のようにセメント会社などの煤塵などで、うちの子どものように喘息を発症する子どもも増えてきたようだ。
赤穂の中心街でさえ、近年でも工場から出される排煙の臭いをすることもあった。
綺麗な川や海がありながらも、環境は確実に悪化していた。
その点で言うとコウノトリの居続ける私が今住んでいる村の方が、かつて私が生まれ育った鳥撫や尾崎のような魅力が残っている。
一番赤穂の現実を感じたのは、母の葬式だった。
父方の近隣に住む叔父叔母などは少しは来てくれたが、本人の母方親族はひとりもいなかった。
また、近所からの参列者もいなく、ひとりだけ友達が来てくれた。
母が自分の親の方の親戚関係を大切にしていなかったせいでもあるが、コロナの影響とは言え血縁・地縁関係が薄れてしまったことを実感した。
その点で言えば、上郡の方がまだ葬式では以前ほどでは無いにしろ残っていると感じている。
私自身は赤穂は便利で暮らしやすいと思うけど、上郡の村で親しくなった人も多くて、いまさら関わりの疎遠な赤穂に戻りたいとは思わない。
ふるさとはたとえ近くにあっても忘れ去るものとなってしまっている。
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