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2026年6月30日火曜日

ヨイトマケの経験が田舎暮らしの基本

 「ヨイトマケの唄」を作り歌ってきた美輪明宏さんが亡くなった。

民法では放送禁止にもなったそうだが、理由が歌詞の中の「土方(どかた)」とあって驚いた。

「土方」が差別用語である意識はなかった。

なぜなら、私の大学時代の赤穂でのアルバイトはずっと「土方」と呼ばれる土木作業だったからだ。

また、大学院で博士進学を失敗し夫婦生活が破綻して、ひとり赤穂に戻ってきた時にしていたアルバイトも市の発掘の土方作業だった。

現在の土木作業は機械化されており重労働ではなくなっているが、発掘作業は当時から変わらずけっこう手作業に頼っており、身体に少なからず負担が生じる。


大学時代には村落調査サークルに入っていて、その調査にかかる費用をアルバイトで稼がなくてはいけなかった。

自分たちの調査班は奄美を調査地としたために、交通費や宿泊費が多くかかった。

大学のある名古屋でもアルバイトをしたが、赤穂の家に帰った方が生活費がかからないので、お金が多く貯まる。

しかし、赤穂で短期間でできるアルバイトはあまりなく、弟は国立大学の良いところに入っていたので母のパートで働いている店主の子どもの家庭教師をしていた。

三流の南山大学の私にはそういう話はなくて、当時は土方の仕事しかなかった。

ただし、私の悪友は早稲田大学だったがアルバイト教師をする柄では無かったので、地元に戻って土方していたし、東京でもしていたと言っていた。

特に東京は田舎より日当が高くて魅力的だったが、ちゃんと地下足袋を履かねばならないし、高い現場にも登っていたと言っていた


とにかく、私は夏休みの一ヶ月以上、土方仕事をして過ごした。

小さな個人事業の親方は私の母が知り合いを通して紹介してもらった人だった。

母の知り合いと親方は断酒会の仲間だったのだが、親方は在日の方でお母さんはあまり日本語が得意では無かった。

雨の日などで、仕事の有無を確かめるために自宅に電話した時に、親方のお母さんがでてくれても話がうまく通じなかった。

親戚の叔父さんはそういう人の下で働いていることを小馬鹿にしたが、私はいっこうに気にせず、働いている人たちも少人数で気楽だった。

その作業仲間は定年退職後の年配の人と、40歳を過ぎた位のお母さんと二人暮らしの男性などが常に働いており、時折退職後の臨時のトラック運転手が運搬だけしていた。

親方とその運転手以外には車の運転ができる者はいなかった。

そこに私のような大学生や高校生を夏休みのアルバイトで使ってくれていたが、誰も重機が使えないので、殆ど手仕事で行っていた。

エアハンマーやランマーを使ったことはあるが、ツルハシとスコップ、ジョレンなどが主に使う道具で、コンクリートも手作業でこねていた。

私は長靴を履いて自転車で現場に弁当と水筒を持って通っていたが、昼飯時には汗にまみれているので上半身裸になって乾かして、板の上に横になって昼寝していた。

とにかく夕方になって仕事が終わるまでが長く感じたし、日曜日の休みや雨での休みが有りがたかった。

一緒に働いている二人のおじさんともお好み焼き屋で一度だけ飲んだりしたが、自分らの仕事があるから世の中が成り立っていると言っていた。

親方は強面だったが言葉遣いも丁寧で恐くなかったけれど、一緒に飲食をすることは無かった。


そんな日焼けで真っ黒の顔に汗と泥にまみれた私にも、恋人はちゃんといてくれてこのアルバイトのことをいつも気遣ってくれていた。

時折来る手紙では体に気をつけてといつも書いてくれていて、休日に無理して逢った時にはふたりの肌の色の違いが極端だったのを今でもよく憶えている。

この土方仕事のおかげで、お金も貯まったし、体力も人一倍ついて、長い村落調査を乗り切ることもできた。

そのうち、名古屋暮らしにも慣れてきて、名古屋で鉄工所や餅屋でアルバイトを見つけてするようになった。

大学四年の夏休みは実家に帰っても、9月にある大学院の受験勉強のために費やし土方はできなかった。

大学院に入ってからは東京でははじめに夜警などをした後は、家庭教師をすることができた。

これは、まかりなりにも東京都立大学のネームバリューが役に立ったようだ。


次に土方作業をやり始めたのは、夢破れ暮らしが破綻して、赤穂に戻ってきてからだった。

教員採用試験を受けるために自宅で籠もって受験勉強し、一次試験が終わった後は中学校の臨時講師を勤め始めた。

学期の途中からなので、最初にしたのは姫路の中学校で英語教師が短期留学をしたので、その代用だった。

私は社会科しか免許は無かったが、校長が特別免許出して教壇に立つことができた。

その講師の仕事は一ヶ月しか無くて、次の講師の仕事が見つかるまで、赤穂市の発掘での土方作業をした。

私は大学で考古学の勉強もかじってはいたが発掘経験が無くて、手作業で土を起こしたり、遺物を掘り起こすくらいしかできなかった。

同じ作業仲間も土木作業をやってきた人が多くて、中には指を詰めている人もいた。

その後講師を頼まれた赤穂の中学校では、病欠の数学教師の代用として数学を教えた。

その時に授業で生徒に自己紹介で土方をしていたと言ったら、「ドカチン先生」とからかわれたりもしたが、採用試験も補欠合格していたので私は開き直っていた。

当時、地元では土方のことをドカチンと呼んだりされたが、赤穂の伝統産業の塩業は入浜式の時には土木作業とあまりかわりなく、差別的な意味合いは強くなかった。

この数学講師も一ヶ月程度で終わり、再び次の産休裏の高校講師が始まるまで、発掘の土方作業に戻った。

既に、冬の寒い時期になっていて、凍てついた地面はきつかったし、休憩のテントの中も寒さが身に応えた。


教師になるまでの土方の経験は、私にいろんな事を教えてくれた。

まず、厳しい肉体労働は一日持たせるためのペース配分をやらなければ持たない。

若さに任せて、朝に力を出し尽くすと夕方まで体力が保たないのだ。

そして、スコップなどの道具の使い方が身についた。

力任せにやるのでは無くて、要領よく使わないと身体を痛めることになる。

そして、何か失敗して職を失っても土方ができたのだから何でもできるという妙に開き直った自信。

「ヨイトマケの唄」の主人公はお母さんの苦労の甲斐があって、エンジニアになる設定だ。

歌詞からして本人が立つ工事現場も機械化されていて、土方の経験する必要も無くなっている。

結局、母親の土方仕事は過去の貧しさと汚さを乗り越えた賛美に留まっている。


私の貴重な土方の経験は、今はその経験を教師をしていた時も、退職した後も行っている自然農法的な農作業に活かしている。

私が多くの人が嫌がる農作業の仕事もやり続け得られているのは、土方経験のお陰だ。

因みに勤務した特別支援学校での作業学習では、女性教師には最も嫌われる農作業グループを担当することが多かった。

また、土方経験の乏しい弟たちは農作業をしようともしないし、知り合いに勧めても嫌がられるのが殆どだ。

私は今でも家族の健康を思っての自然農法を基本にしているのでスコップを使って畝を盛り上げたり、芋を掘り上げることが多い。

また、村作業では用水路に多く貯まった溝の泥を鋤簾などでかきあげている。

機械を使うのは草刈りと散水だけだ。

エンヤコラと 今でも土や泥にまみれていて、顔は真っ黒だが両手は白い。

ただ、気になるのは家内と一緒にモールで歩いていると、すれ違う男性がいつも肩をかわしているような気がする。

気のせいだろうか・・・・・






2026年6月29日月曜日

お婆ちゃんとお姉ちゃんの子育て支援

 私の子どもの頃は父親に育休など無く、子どもが生まれる時には母方の祖母が泊まりがけで家にきて手伝ってくれていた。

弟は3人いるが次男は年子だからよく分からないが、3番目の時は私は幼稚園児で4番目の時は小学生だったのでよく憶えている。

3番目は自宅で生まれ、4番目は病院で生まれたが、特に4番目の時は上に子どもが3人もいたので、その世話をする祖母がいなければ出産は不可能だった。

私も祖母の手伝いをして、洗濯物を入れたりしたのを憶えている。

父は仕事へ行って帰ってくるだけで、一緒に家事をした覚えはなく、気にいらないと祖母の手前いつもよりきつく叱ったように思う。

母方の祖母は夫は戦死しており娘家族と隣の相生市に住んでいたのだが、ことあるごとに泊まりがけで来てくれて、小学生のいとこも連れてくることもあった。

私が赤穂の鳥撫で暮らしていた時の幼い写真にもその祖母は多く写っていて、そのころから母の子育てを手伝っていたことが分かる。

その祖母の家族は赤穂で隣同士に家を建てたので、大きな家族のような関係になった。

祖母は毎日こちらの家に来たし、私もしょっちゅう隣に行った。


一方、年子で手のかかる私は、父方の鳥撫の本家にいる人の世話になっていたが、尾崎に移り住んだ後では本家に預けられることが多かった。

父方には祖父と祖母、伯父夫婦と娘、そしてまだ学生の叔母がいた。

伯父夫婦は木造船での運搬の仕事をしていたので、家に居ることは少なくて、祖父母と叔母、従姉がいて、私はそこで家族同然に過ごしていた。

祖母とよく買い物にバスに乗って加里屋まで出かけて、欲しいものを買ってもらったりしていた。

従姉とは歳は6歳離れていたのだが、一緒に遊んでもらったり、風呂も一緒に入ってくれた。

地域の子供会のバス旅行にも叔母と従姉と一緒に宝塚まで連れて行ってもらったことも憶えている。

元々、私は幼稚園に行くまで鳥撫に住んでいたので、周りの人もよく分かってくれていた。

私は優しくされる本家の方が居心地が良くて、尾崎の家に帰るのを嫌がるほどだった。

私の母としても手のかかる私が本家に行っていた方が助かるのだが、父がそれをあまり気に入らなかったようで、父から母を通して呼び返されていた。


本家が私をしっかり面倒見てくれたのは、息子家族の子育てを手伝うこと以外にも、場合によって私が家業の船の運送業を継ぐこともありうることもあった。

また、一人娘の従姉の兄弟のようにしておきたいという意味も有ったと思う。

だから私には叔母と従姉のふたりお姉ちゃんがいたのと同じだったが、大きく生長していくにしたがって疎遠になっていった。

それでも歳がいっても、ふたりのお姉ちゃんとは、その頃のままの感じで接することが多かった。

実の兄弟では一番上として兄貴面していたが、ふたりのお姉ちゃんの前では可愛い弟のような立場でいられた。

そのふたりのお姉ちゃんも近年若くして亡くなってしまい、敬称なしで名前を呼んでくれる人はいなくなってしまって寂しくなってしまった。


最近は親元や親戚から離れたところで就職して、そこで結婚して家族を持つことが多い。

この時に大きな負担となるのは子育てであろう。

いくら父親に育休が認められたり、ベビーシッターを雇うことができたとしても、私が子どもの頃のような手厚い協力は得られない。

初めての子どもの時は、娘は実家に戻って出産することもできるだろうが、2番目3番目となるとそう簡単では無い。

そういう子育て支援がなければ二人三人と子どもを産むことは躊躇うのが当たり前だと思う。

父親も育児に携わらなくてはいけない時代と思わなければならないと思うが、やはり昔のお婆ちゃんやお姉ちゃんの代わりにはならないだろう。

政府が少子化を問題にするなら、そういう肉親の子育て援助が簡単にできる政策も望まれると思う。

2026年6月24日水曜日

身体のリスクに無関心な座り仕事

 私は長年教師を勤めてきたが、管理職や特別支援学校での専任教師などは別として、デスクワークでの時間はそう長くない。

普通校では一日2~4時間は教壇に立っているだろうし、特別支援学校では普通校以上にデスクワークは少ない。

因みに特別支援学校では生徒と一緒に走ったり、歩いたりすることが時間割として組み込まれたりしている。

普通校でも運動系のクラブ指導を行ったり、実習を伴う指導をすれば、デスクワークの仕事はもっと少なくなる。

それでも私は普通校の時には、運動量が少なくて私は肥満気味となり、糖尿病を発症させる原因を作ってしまった。

私は貯まったストレスを飲食で解消していたのだ。


完全退職してそういうストレスからも解放され、健康に留意できる生活となったが、退職してから打ち込もうとしていた研究というデスクワークに没頭してしまった。

それが原因となり、前立腺炎の発症、十二指腸潰瘍の再発を招いてしまった。

かつて、大学院での修士論文を書いている時に十二指腸潰瘍を患って入院を勧められたけど、何とかジョギングをして回復させたのだった。

今回は水泳練習を復活させて、何とか今は回復している。

先日何気なくネットを見ていて、大腸癌の原因として酒・煙草以外にデスクワークがあげられていた。

特に直腸癌のリスクが高いそうだが、知った人の中で直腸癌で人工肛門をつけていたが74歳で亡くなった人がいる。

その人は元教師だったが寺の住職も務めていたし、中学校の管理職を務めていた人だった。

たぶんデスクワークや座っての仕事が多かったのだと思う。


デスクワークは他にも痔や腰痛の原因ともなることが知られている。

また、運動量が乏しいと糖尿病のリスクも高くなる。

糖尿病は自動車の普及で歩かなくなったことが大きな原因だとも言われている。

立ち仕事の多い教師の仕事でも私のように糖尿病になってしまうのだから、普段、歩くことが少ない人はもっと気をつけないといけないと思う。

現代は辛い肉体労働から解放された時代となっているが、その一方でデスクワークや運転、機械操作などあまり運動を伴わない仕事は大きなリスクを抱えていることの自覚がない。

医者や研究者が走ったり泳いだりしているのは、単に趣味だけでは無く健康管理の一貫だと思う。

私もそれを自覚したので、長時間のデスクワークを避けてなるべく運動をするように心がけている。

運動ができない時は、横になってお尻や腰への負担を軽減すると同時に、居眠りをして頭を休めたりしている。


そう考えれば、あれだけ夢見てきた研究職だが、実は身体にはリスクを伴う職業で、山中教授のようにマラソンなどを趣味にするなら問題ないように思う。

私が定期的に通院している糖尿病専門の医師もマラソンを趣味にしている。

手術を伴わない医師の仕事も殆どデスクワークでリスクを伴っているからだろう。

教師の中でも糖尿病の人が多いのは、意外と体育の教師である。

現役の頃に身についていた食事内容が、運動量が落ちても続けているからかもしれない。

体育教師は他の教科よりもデスクワークは少ないとは思うが、食事に似合うだけの運動ができていないように思う。

因みに私の父の男兄弟には糖尿病患者が四人中ふたりいるのだが、全て学生時代はスポーツを頑張った人であり、その後の仕事はデスクワーク中心であった。

父は学生時代にスポーツはしていたが、力仕事が多い職業につき、休日も農作業などをよくしていたので糖尿病にはなっていなかった。

とにかく、現代人は座り仕事が糖尿病や大腸癌などの病気のリスクを伴う仕事で有ることの自覚が足りないように思う。

デスクワーク中心の人は、趣味としてよりも、健康管理として運動をすべきなんだろう。






2026年6月22日月曜日

コウノトリの子育て夫婦に学ぶ

 ちょうど今、村(上郡町中野)近くに居着いているコウノトリの子どもが巣立ちを前にして、親鳥と一緒に餌を獲っている。

それまで、親鳥はトラクターの後や傍に近寄りながら、せっせせっせと餌を獲っては雛の元に行って吐き戻してやっていた。

子どももやっと親の餌を獲るのを見ながら、自分で獲る練習をしているようだ。

まだ、完全に巣から離れたわけでなく、巣に戻っているのを見かけることが多い。

去年も雛の3羽がこうしてしばらく親と一緒に餌を獲る練習をした後、巣立ってどこかに行ってしまった。

ただ、その後で一度だけ3羽が戻ってきたのを見かけたことがあるが、居続けることは無かった。]


コウノトリの親は子育てした我が子と協力してこれから生きていくわけでも無いし、群れることはない。

ヨーロッパではコウノトリが赤ん坊を連れてくると言われているのは、シュバシコウと言われる渡り鳥で日本のように居続けているのとは違うようだ。

ただ同じように、一生懸命子育てをしている様子は、しっかりと目撃できるだろう。

ツバメなども身近に目撃できるが、コウノトリの場合は餌を獲ることを教えたりしているのも目撃できる。

日本なら子どもが居残って一緒に暮らしている姿を期待したいところだが、飛び立っていった子どもは親とは暮らさない。

私は以前同じ職場にいたアメリカからの英語のALT(外国語指導助手)から、自分の親との関係が非常に希薄なのを聞いて奇異に思っていた。

アメリカの場合は離婚が多くて、ALTで実の両親が夫婦でいる人は殆ど無く、実の母親とその再婚相手との関わりがある人もいた。

どうも、子どもは自立した親を頼らないし、親も子どもを頼らないというのが普通のようだった。


ある意味で、コウノトリの子育てはアメリカ人など欧米の家族の姿と似ているのかもしれない。

同じヨーロッパでもドイツの場合は違うようだが、核家族を中心としての子育て家族と言うべきなのだろう。

日本の場合は子育てと、老人介護も含んだ家族を理想としていたが、家業を失って家が存続できずに欧米の核家族的になったのが実情だと思う。

ただ、欧米のように子どもが親と一緒に住むことを恥ずかしくは思わないので、独身の子どもなどは親と一緒に暮らし続けるようだ。

親の方も独身の子どもと一緒に暮らすことは、世間体が悪いとはあまり思わないで済んでいる。

しかし、これからの時代は、欧米流に独立心の強い子どもで無いと強く生きていけなくなっている。

親の方もコウノトリのように子どもは自立して自分たちとは別に暮らしていくべきものだと思って子育てをするべきなのだろう。

子どもに自分たちの老後に不安を与えるような教育費の投資はする時代では無くなっている。

コウノトリは餌場を確保するための自立であろうし、現代人は職を確保するための自立となるのだろう。

もう、子どもに老後の世話をしてもらう時代は終わったと、コウノトリに学びながら肝に銘じている。

そして、コウノトリのように夫婦が生涯一緒に生きていくのも理想としたい。

コウノトリが交尾前に互いにクラッタリング(嘴音)することは、慣れ親しんだ夫婦でもしっかりと愛を表現していくのが大切なことを教えてくれている。




2026年6月19日金曜日

現代社会の残虐なダークサイドミステリー

 先日NHKのダークサイドミステリーの再放送「古代メキシコ「いけにえ」3000年の謎 〜死と生のふしぎな世界〜」(初回2024年8月20日()午後9:00)を見た。

絵ではあるが、血の流れる身体から心臓取り出すところや、神殿から血が流れ落ちる様子が描写されていた。

古代文明の残虐さを表現するには充分だったと思う。

番組の中でも専門家が現代の交通事故の犠牲者と比較していたが、現代においても交通事故や戦争はある意味で文明の「いけにえ」と呼べるように思える。

ただ、古代メキシコでは再生を願う思考に裏付けられているというのがもう一方の専門家の意見だ。

以前見た番組で太平洋戦争の兵士の遺書に、これからの日本の再生のために犠牲になるという趣旨が書いてあったのを観たように思う。

交通事故に遭った人がそういう気持ちで死に臨んでいるとは思えないが、遺族としてはせめてこんな悲劇が起こらないための犠牲と受け止める人もいるかもしれない。

こんな「いけにえ」が行われている文明社会でも、血塗られた場面が多くあるはずなのに、そういう場面は映像、写真、絵での表現は避けている。

以前見た映画「黒い雨」は原爆の悲惨さを表現していたが、わざと白黒としたのは観る人の想像を引き出すためと解説されるが、私はあまりにも悲惨だからだと思う。

アメリカ映画の「プライベートブライアン」ではカラーで戦争の悲惨さを表現し、特にノルマンジー上陸作戦の海岸場面は、その残虐性が伝わってくる。

これは戦闘員として覚悟の死だから受け入れられるが、無抵抗な一般市民に対する残虐シーンは受け入れることが困難だ。


古代文明の残虐性を描くならば、現代社会の残虐性もしっかりと描くべきだと思う。

それが、日常生活の交通事故だったり、非日常の戦争であっても、我々の社会には残虐性が古代文明よりも残酷に繰り広げられていることを放送すべきだろう。

NHKは大河ドラマにおいての戦闘シーンでも、血の流れる場面などはあまり描かない。

それは戦闘シーンを娯楽番組として楽しませるためだと思う。

戦闘や戦争を娯楽として楽しませるNHKが、一方で平和を訴えているというのも矛盾を感じるが、それが現代人へのサービスとなっているのだから仕方ないかもしれない。

古代文明や歴史上の物語の残虐性は娯楽として放映し、現代の残虐性は隠蔽してしまう。

交通事故に関しては被害者以外は恩恵を受け、製造関連企業や販売では利益を得ているのだから、目をつぶろうというのかもしれない。

そういう意味では、古代文明と同じ再生のための「いけにえ」と言うべきなのかもしれないが・・・・・




2026年6月17日水曜日

深刻な協力し合える機会の喪失

 赤穂の実家には父が買った田んぼが2枚、畑が1枚かつては有った。

60年近く前ではまだ田植えは手で植えていて、父は本家の田植えの手伝いに行ったし、うちの田植えにも父の親兄弟などが手伝いに来てくれた。

はじめは稲刈りも手刈りをしていたが、バインダーが登場した後でも、脱穀作業には親戚が来て手伝ってくれていた。

それは田んぼでよく見られた風景で、田植えや稲刈りは賑やかなものだった。

今は機械が殆どやってくれるので、ひとりかふたりでやっているのが普通だ。

田んぼが賑やかになる風景はほとんど見られなくなった。

もう、親戚や労働仲間と協力し合って農作業をする機会が無くなってしまった。

ただ、上郡の村では草刈りや溝掃除を協力し合って頻繁に行っている。

草刈りに関しては便利な機械ができたので、いずれそちらにかわるように思われるし、用水路も配管施設に変わるだろう。


農作業以外でも、私の父は元船乗りで自分の100tほどの木造船を持っていて、その兄夫婦も同じような船を所有していた。

それで船の積み荷の上げ下ろしや船体の管理作業には兄弟同士で協力していたようだ。

その関係は父が船を辞めても続き、私は幼い頃にはその作業に連れられていっていた。

憶えているのは伝馬船に乗せられて、父が伯父の船体のペンキ塗りをするのをながめていたことだ。

また、父の弟が内職の仕事をし始めたので、私の母はそのその内職の仕事のとりまとめ役などをうちで行ったりしていた。

最近はそういう内職の仕事も機械化されて、家で内職をしている人はあまり見かけない。

とにかく便利な機械が無かった頃は、親戚や仲間で協力し合って手伝うのが当たり前で、仲良くするために盆正月や祭りは一緒に祝うことが当たり前だった。


それに対して家内の実家は街にあって、農作業をすることも無かった。

もともと、義母の家はミカン農家であったのだが、一時趣味で家庭菜園を夫婦で行ってはいたがあまり長く続かなかった。

それでも、義父は会社を早期退職後に、その義母の実家のミカンの収穫を手伝いに泊まりがけで行ったりもしていた。

農家ではなかった家内の義父の兄弟姉妹関係は希薄であったが、義母の方の兄弟姉妹関係は親しいものであったが、皆遠方に住んでいたので助け合うことは少なかったようだ。

みかんは稲作のように機械化は進まなかったようだが、稲作ほど協力し合って一度に済ませてしまう必要がなかった違いもあったようだ。


確かにまだ職場などでは協力してやらないといけないことが多く残ってはいる。

しかし、家族や親戚、近隣や友達と協力しあう関係が乏しくなってきたと感じる。

そのことで、その関係は希薄となり、それが結局職場の関係にも影響を及ぼしてきているようにも思える。

人間関係の希薄さを補うために、会社で運動会での催しを復活させる動きもあるようだ。

ただ、子育てや介護などの協力関係の基盤は家族・親戚や地域にある。

特に子育ては夫婦にとっても親戚においても協力し合える良い機会になる。

以前のように夫は子どものことを妻に任せきりも問題があったのに、今では学童保育に任せきる夫婦もいる時代になっている。

そして、子どもがいない夫婦が増えて、子育てを通しての協力関係が築けない場合も多い。

かつては、生業や子育て、介護と人間関係は一体化されていたのに、現代は分離されてしまったのだ。

これからは肉体労働だけで無く知的な作業もAIにとって換わられてしまうので、職場の協力関係ももっと希薄になってくるだろう。

人類は協力する力で進化してきたと言われている。

協力し合えなくなった現代日本人が人口を減らしているのは当然の結果と言えるのかもしれない。

沖縄の人口が増えているのはそういう協力し合える社会を維持しているからだと思っている。

その代わり、協力関係を大切にしている移民の人が新たなる日本人を形成してくれるだろう。








2026年6月15日月曜日

ふるさとは近くにあっても忘れ去るもの

 私の父親の兄弟は8人生まれて5人生き残って家族をもった。

亡くなった1人は戦死だったが、後のふたりは子どもの頃に病死、事故死だった。

生き残った5人はひとりを除いて全て赤穂市内に暮らし続けた。

ひとりだけ就職のために遠く名古屋に暮らすことになったが、死ぬまで赤穂に帰りたいと言い続けていた。

母親はふたり姉妹で、その父母はもともと市内の福浦だったが、神戸を経て相生に移り住んでそこで育った。

母は結婚して親戚の多い赤穂に戻り、祖母のいる伯母家族も、その後隣同士で家を建てて赤穂に暮らすようになった。

一方、私の兄弟で赤穂に居を構えたのはひとりだけで、私は隣の上郡に居を構えた。


それに対して、家内の父母は広島県の島に生まれ育ったが、義父の兄弟姉妹は誰ひとり島に残らなかった。

義母の兄弟姉妹も跡取りの長男を除いて島を離れてしまい、娘のひとりだけが隣の島に嫁いで近くに住んでいた。

そういうことで、家内は幼い頃には母親の実家のある島で過ごした経験はあったが、そのうち盆正月にも行かなくなったという。

つまり、私の兄弟の地元を離れる状態が、既に親の世代に起こっていたのがそういう島の現実だったようだ。

逆に言えば私たち兄弟にとっては赤穂のような街も、広島の離島と変わりなくなってしまったということだ。

ただし、義母の生まれ育った島は今は橋で本土と繋がっているので、もう離島とは言えなくなっている。


親の世代では赤穂に暮らしていた父母の兄弟姉妹もその子どもの世代、つまり私のいとこで赤穂に暮らしているのは実質今はひとりだけだ。

というのも、亡くなってしまったり、家は赤穂にあっても、夫の仕事関係で赤穂を離れていたり、単身赴任をしているからだ。

私を含めて赤穂に住み続けていたいという執着心は無くなってしまっていると言って良いかもしれない。

私自身は結婚して子どもが幼稚園に入るまでは、赤穂で親戚の家を借りて住んでいた。

しかし、こどもが喘息とアトピーで健康に良い環境を求めて上郡に家を建てた。

本当は、赤穂に拘りがあって、坂越や有年、福浦あたりの環境に良さそうな場所で探したが、良い土地が見つからなかった。

上郡は赤穂市ではないが、赤穂郡なので赤穂という所に住み続けていることは形として同じである。

そして、その上郡の村も地元に居続けていく跡継ぎがいる家は、半分以下だと思う。


赤穂では大学を出て就職できる企業も少なく、上郡は高卒でも少ない上に、兼業農家をしながら仕事勤めをする人自体いなくなっている。

そして、地元で暮らす魅力が失われてしまっていることが原因だと思う。

私が子どもの頃の赤穂はまだ塩田が残り、繊維産業などの企業の元気だった。

ただ、赤穂の西地区のようにセメント会社などの煤塵などで、うちの子どものように喘息を発症する子どもも増えてきたようだ。

赤穂の中心街でさえ、近年でも工場から出される排煙の臭いをすることもあった。

綺麗な川や海がありながらも、環境は確実に悪化していた。

その点で言うとコウノトリの居続ける私が今住んでいる村の方が、かつて私が生まれ育った鳥撫や尾崎のような魅力が残っている。


一番赤穂の現実を感じたのは、母の葬式だった。

父方の近隣に住む叔父叔母などは少しは来てくれたが、本人の母方親族はひとりもいなかった。

また、近所からの参列者もいなく、ひとりだけ友達が来てくれた。

母が自分の親の方の親戚関係を大切にしていなかったせいでもあるが、コロナの影響とは言え血縁・地縁関係が薄れてしまったことを実感した。

その点で言えば、上郡の方がまだ葬式では以前ほどでは無いにしろ残っていると感じている。

私自身は赤穂は便利で暮らしやすいと思うけど、上郡の村で親しくなった人も多くて、いまさら関わりの疎遠な赤穂に戻りたいとは思わない。

ふるさとはたとえ近くにあっても忘れ去るものとなってしまっている。


2026年6月12日金曜日

祖母の信心と教え

 私の祖母は父方も母方も信心深かった。

母方の祖母は特に神霊的な予兆を信じる人で、その体験をよく話してくれた。

因みにその祖母は私が中学に入るまでは相生にある家からよく母の手伝いに泊まりがけで来てくれていたが、中学に入ってから隣同士で赤穂の新築の家に住んでいた。

一番憶えているのは、祖母の家族は神戸で米屋をやっていたのだが、その倉庫で猫が亡くなっていた。

それを見た祖母は不吉な知らせとしてどうしても店を辞めると言って、その店を番頭さんに譲り渡して相生に引っ越してしまった

ところが、昭和13年(1938年)の集中豪雨で、死者616名、被災家屋は約9万戸にも達する大水害が起き、店も潰れ番頭さんも亡くなったという。

当時私の母は5歳ほどだったので、祖母から聞いて私に話してくれたことである。

猫の死骸を予兆として捉えられたのは、日頃から環境に不安を感じていたかもしれないし、慣れない商売が上手くいってなかったのかもしれない。

ただ、猫の死骸を理由で思い切った実行をしたことが祖母たるゆえんだ。

気の毒なのは番頭さんで祖母の予見を信じていれば、亡くならずに済んでいたわけである。


また、母が私の出産に際しては祖母は仏壇でお祈りをしていたのだが、光が差してきたので「照」のつく名前をつけてほしいと言ったという。

ところが、父方の祖母の方が私に名前をつけるのが優先され、それでも清光として「光」を入れることになった。

因みにその名前の字は弟に継がれた。

父方の祖母も信心深かったので、それなりの人に相談して名前をつけたのだったが、大石内蔵助の愛刀の名前である清光は赤穂では名乗っている人が多い。

結果的に弟の方が良い大学に入り良い会社に勤めたことに関しては、母方祖母の縁起を担いだことは活きたことになる。

それだけ予知能力があるのなら夫の戦死も予知できただろうと思うが、応召された時点で覚悟は決めていたのかもしれない。

戦争は死の予感があろうがなかろうが、国家によって無理強いされる死の宣告に等しいものだったように思える。


信仰深い祖母でお祈りや参拝は欠かさなかったが、それだけで終始していたわけでは無かった。

祖母は以前は煙草を吸っていて、よく「わかば」を店に買いに行かされていた。

後から祖母と一緒に暮らしていた伯母から聞いた話によると、それは結核患者(伯母の夫)の看病をしていて、その感染予防で吸い始めたという。

自分への感染も顧みず献身的に看病をしていたと伯母は言っていた。

煙草か結核感染予防になるというのは当時の迷信で、今は逆効果になることは知られている。

祖母にとってはそういう呪(まじな)いで、結核感染の不安を克服しながら尽くしていたのだと思う。

呪いの効果があってかなかってか、結果的に祖母は結核にも癌にもならずに99歳になって老衰で亡くなったが、伯母は献身的な世話を最後まで尽くしていた。


祖母の忘れられない言葉として憶えているのは、口癖のように言った「偉く ならんで ええ(良い)」である。

自分が高校時代の受験勉強にそれなりに打ち込んでいる時だった。

当時は何を馬鹿なことを言っているのだと思っていた。

普通は大学に入って偉い人になりなさいと言うのが、親や祖父母の言う言葉なのにその逆をずっと言い続けていたからだ。

受験勉強を失敗した者が身近にいたのでその反動かとも思ったし、孫が遠くに離れていって寂しくなるからかとも思っていた。

しかし、自分が親になってその言葉は子どもには言わないけれど、そう思うようになっている。


私は大学教員などの研究職を目指して無理をしてまで大学院に進学した。

しかし、無理な生活は結果的に破綻してしまい、それまで私を支えてくれていた大切な人まで失ってしまった。

その後、あまり無理をせずに教師の道に進んだが、教師になってからはけっこう無理もしてきた。

医者から「あんた 死ぬで」と言われたりもしたが、仕事だけでなく研究職への未練も絶ちきれずにいた。

そのうち、周りの管理職や上を目指した教師などが心臓疾患や膵臓癌などで早死にしていくのを目の当たりにして、無理をしてはいけないことに気がついた。

研究職へつくことも自分には無理を強いることでしか無いと思いほぼ諦めている。

「偉くなる」ことより、自分なりに価値あると思うことを努力していくことが、幸せに繋がると今は思える。

辛い経験の多い波乱に満ちた人生だった祖母は、決してそれを孫には語らなかった。

その代わりに、人の幸せは「偉い人になることでは無い」という言葉を孫に残してくれたのだと思う








2026年6月9日火曜日

自分は生き残っても絶える子孫

 私たち夫婦には子どもはいるが孫がいない。

子どもにはそれなりの事情があるので、孫が欲しいとは言えるものではない。

先日も弟に今度4人目の孫が誕生するとライン連絡があったが、それは幸せなことだと返事した。

羨ましいというよりも、自分の生き方そのものが問われるような気がした。

考えてみれば母方の祖父は、まだ小学生だった娘ふたりを残して戦死した。

しかし、孫が6人もその後生まれて、ひ孫も9人、玄孫はこんど4人目となる。

祖父はその子孫とは一度も会えなかったわけだが、しっかりと自分の遺伝子を残すこととなった。

私は、このままでは自分の遺伝子を絶えさせてしまうことになるが、それと同じくらい哀しいのは祖父として記憶してくれる者が誰もいないということだ。

子どものできなかった人もいっぱいいるわけだし、戦争や事故、災害で子孫を失ってしまった人がいるので、そんなに悲観するべきでは無いのだが。

学歴を積んだり、経済的に不安なく暮らせても、子孫を残すという生物学的な競争では敗者というべきなのかもしれない。


ただ、日本では今の時代は子どもの数がどんどん減っているのだから、そういう人は珍しくも無いだろう。

逆に言えば自分が生き残るだけで精一杯で、子孫を残す余力が無いと言うことかもしれない。

かつては家業を守るために子どもを産むことや、養子をもらってまで子育てを行った。

逆に家業の無かたったり、子どもを養いきれない貧しい人は、子どもをお金に換えることも行ってきた。

現代の日本人の多くは残せる家業を持っていないだろうし、子どもにかかる教育費の見返りなどは期待することはできない。

戦死した祖父は家業が継ぐほどでも無かったので、職業軍人となった。

いったん退役後は祖母と米屋を開いたりしたが辞めて、賃金労働者になったが応召されてしまった。

戦死した後は、祖母は遺族年金と会社勤めで貧しい生活ながらも娘ふたりを育てあげることができた。

現代では離婚しても親が単身で子どもを育て上げることは珍しくなくなっているが、Youtubeなどでは食事もまともにできないと訴えられてもいる。

亡くなった母も子どもの頃の貧しかった生活のことをよく話していたが、姉妹だけでパンを焼いて売った経験も話していた。

貧しい者でもたくましく生きていける場そのものが、現代日本社会には無いのかもしれない。

ただ、皇族を筆頭として、後継者の問題は単に貧富の差の問題では無い。


以前読んだ狩猟採集民の生活に関する本の中で、自分の妻が不貞で産んだ子どもを怒りながらもしっかりと育て上げる話が載っていた。

その子どもは同じバンドの仲間となって、これから自分や仲間を助けてくれることにもなるからだ。

今の日本では血が繋がっている子どもでも、親の助けになることは期待できない。

ましてや親戚や地域の人の助けになることなど求められてもいず、学校では自己実現をしなさいと教えられてきた。

血が繋がって無くても子どもを育てることに価値がある社会と、血が繋がっていても自分や子育てに関わる人にとっては価値を失う社会の違いだろう。

血縁や地縁で助け合えない社会は自分が生き残るのが精一杯で、子孫を残していくことなど考えられなくなった社会なのかもしれない。

孫の顔を見られなかったが祖父の戦死はこれからも命をつないでいくが、私は長寿を全うしたとしても生命はつなげそうにないというのが皮肉な現実である。







2026年6月7日日曜日

高市人気のTRICK

 以前に私は「親米日王・高市総理」で「卑弥呼は鬼道をもって衆を惑わしたというが、かつての占いや呪術は現代のマスメディア映像やSNSというべきかもしれない。」と書いた。

今その呪術の正体が明らかにされようとしている。

他候補を中傷する動画の作成に関わったとする週刊文春の報道が参院予算委員会で大きく取り上げられて、高市総理は秘書の関与を否定し続けている。

動画作成者と秘書のやりとりのzoomの証拠で秘書本人とは違うというのなら、ちゃんと声紋鑑定をしたら良いし、秘書の証人喚問にも応じれば良い。

もし、秘書を通じて他候補への中傷がなされて、それによって自民党で総裁になり、衆議院選挙で大勝したのなら、その力となった中傷動画の持つ意味は大きい。


かつてテレビ朝日系列放送でTRICKというテレビドラマがあった。

この番組は劇場映画も作られて、2000年~2014年まで人気を博した。

この番組は「人間が引き起こす"超常現象"の種を暴く」というのがコンセプトだが、私のような民俗学や文化人類学を研究した者にとっては、ネタがばれている感じもした。

主演の仲間由紀恵が沖縄出身と言うこともあって、琉球諸島のノロやユタがモデルになっている作品もあったが、地元でどう受け止められているか気にはなった。

とにかく、魔術や呪術として怖れられているものも、種を明かせばトリックに過ぎないといいながら、完全には否定しきっていないのが面白い。

最近は心理学や宗教学、文化人類学では認知宗教学や宗教認知科学として、なぜ人はそういう超常現象を体験するかを分析している。

私は高市総理をシャーマン的要素のある卑弥呼に譬えたが、それはSNSマジックの誇張に過ぎなかった。

(日本の)教祖のシャーマン性ゆえに多くの信奉者を集めたという理解は、宗教社会学的観点からも妥当ではないし、認知宗教学の立場からしても同様であるという。*1

高市総理本人はシャーマン性が無くても、周りがその要素を駆使すれば教祖的存在やカリスマになれる。

その高市氏のカリスマ性を支えたのは秘書が中傷SNSを依頼したマジックであったし、トリックでもあったと言えるかもしれない。


何よりも高市氏が頼りにしているトランプ本人がSNSで、中傷発言を繰り返していることにも通じるが一線を画している。

日本では上に立つ者はそういう中傷誹謗行為を行うことを嫌うので、代わりに周りが忖度してやってくれたとも言える。

それが秘書となれば、共謀とまで言わなくても連帯責任はま逃れないだろう。

昨日は前首相の石破氏まで事実究明を訴えたことが報道されたが、今の高市一強支配の自民党にとっては重大な問題だ。

ただ、今の時点で言えるのは、高市人気の裏には関与したかしないかに関係なく、他候補への中傷動画があったということであり、それがTRICKであったということだ。


*1  井上順孝『認知宗教学から見る現代宗教』  2025 法蔵館


2026年6月3日水曜日

哀愁のラブソング(恋歌)とララバイ(子守唄)

 日頃耳にする歌はラブソングが多い。

自然の中で鳴く鳥や動物、昆虫の殆どが求愛と結びついている。

近所で見かけるコウノトリは鳴かないが、クラッタリングといって頭を上下に振りながらクチバシをカタカタ鳴らしているのを見かける。

コウノトリは声帯が退化して鳴けないそうだ。

ただ、ちょうど今巣にいる雛は餌をねだるのにかすれた声で鳴くのだそうだが、鉄塔の上にいてよく聞こえない。

猫は「ニャー」と言う鳴き声は子猫の時のままの声だそうで、求愛の時の声は絞り出すような妙な声である。

犬に関しては遠吠えと威嚇の鳴き声はまるで違うし、餌をねだる時などの甘えた声も違う。

猫の求愛の鳴き声や犬の遠吠えが求愛の歌に近いのかもしれない。

そういえば、猫の求愛の鳴き声は悲哀を、犬の遠吠えは哀愁を帯びている。

鳥などの鳴き声はどちらかというと、求愛と縄張りの主張があるので、明るいのかもしれない。


人もラブソングは多いのだが、明るく愛を求めるというより、失恋や未練の気持ちを歌った歌が多い。

確かに、美しい声を出したり、迫力のある声で異性にアピールできる歌もあるが、実際に目の前にいるひとりの異性に対して歌うのは哀愁を帯びた歌だろう。

異性を口説くのに歌う歌が、失恋ソングだというのもおかしな話だが、「失恋して淋しい気持ちだから、愛が欲しい」という下心のラブソングと言えるのかもしれない。

実は昔の恋人も私の歌ってあげたオフコースの「さよなら」をよく憶えていた。

これはある意味で、「互いに強がっていたら、本当に別れてしまうことになるのだよ」という脅しのラブソングでもある。

こういう別れのラブソングで一番好きなのは奄美の「行いきゅんにゃ加那」だが、この歌はなかなか練習してもうまく歌えないので女性には歌えない。

対面で歌うのはとにかく明るく求愛する歌よりも、切ない気持ちを表現したラブソングの方が多いようだ。

これは多くのファンを惹きつけようとする明るい歌と違うところでもある。


それに対して子守唄はゆったりとした曲調が世界共通だという。

人は赤ん坊を舐めたりはしないが、キスや頬ずりをしたり、手でやさしく撫でてあげたりして、何よりも子守唄を歌ってあげるのが、人類共通の特徴だそうだ。

普段マスメディアやネットでかかっている歌に子守唄は殆ど無いが、私はYoutubeで「竹田の子守唄」を聴いたりギター片手に歌ったりする。

実際に自分の親や自分が歌ってきたのは「江戸子守唄」という「ねんねんころりよ」の歌い出しの歌である。

ネットで子守唄を調べてみると「五木の子守歌」が放送禁止ないし、自主規制と言うことだという。

普通の人は歌詞に出てくる「勧進(かんじん)」が乞食だと分からないのだが、自分を卑下していることは伝わってくる。

どうしても、子守をするのは貧しい家の娘というイメージがついて回るが、私が村落調査していた奄美ではかつては違っていた。

無理矢理させられるのでは無くて、少し大きくなった娘は自分から頼んで子守をさせてもらっていたようだ。

それは自分が子どもを産んだ時の練習であり、子どもをあやすのが上手いと評判が良くなるからだと思う。


どうしても、子守唄は本土では恨み節的になっているが、沖縄の「童神」のように子どもを大切に思う気持ちの歌もある。

琉球時代で遊郭の女性は生まれた子どもは、本土とは違い仲間で育てていたということからも、子どもを大切にしていたことが分かる。

ただ、人頭税が厳しかった先島や黒糖支配の厳しかった奄美では様相はかなり違っていたようだ。

子守唄は本来は親が子どもを寝かしつけたりする時に歌ってきたもので直接聴かされるべきもので、スピーカーから流れるものでは無かったということだ。

恨み節の子守唄は子守をする人の心情が歌われていて、赤ん坊のための意味が伝わってこないが、歌としては心を動かされる。

それに対してビートルズは明るい子守唄を作っており、私が大好きな曲は「Good Night」だ。

私の親も私も子どもに聴かせる「ねんねんころりよ」は明るく歌っていた。

親が子どもを寝かしつける時の子守歌は哀愁は帯びていないと思う。

ただ、少子化の現代日本では子守唄を対面で歌わずに一生を終える人が多くなってしまったことも現実だろう。




2026年6月1日月曜日

空調服と帽子は破綻気候のマストアイテム

 今の時代、若い人は帽子を被りたがらない。

特に、髪を長くしている人は嫌がる。

農作業していてたまに帽子を被っていないのを見かけるのは、そういう若手の男性だ。

しかし、それ以外の人で帽子を被らない人はまずいない。

女性は帽子に加えて、日よけの布を顔に巻いたりしている。

帽子は日よけであると同時に汗止めであり、額から流れる汗は放っておくと目に入って痛い。

どうしてもヘルメットを被る必要がある人も、ヘルメットにつばをつけたりしている。

私は暑くなってきたので犬との散歩にはアルミで編んだ帽子を被り、農作業では麦わら帽子か竹笠を被っている。

そして、サングラスは村の人は人相が悪くなるので嫌がるのだが、晴れている日は白内障予防のため必ずかけている。

寒い季節や涼しくなるとキャップになるが、夏場でもどうしても風の強い日は被るがやはり帽子に比べて暑い。

そして、私は帽子の下には必ずフェイスカバーをしていて鼻と口は出している。

フェイスカバーの目的は音楽を聴くためのネックフォンが直に首筋につかないためだが、不必要な日焼けを防ぐのにも役に立っている。

以前は暑さ対策として薄手の作業服と帽子ぐらいで済んでいた。

ところが、これだけ酷暑が続くと、散歩や農作業にはそれだけでは身体が持たない。

どちらにも空調服が必要となる。


空調服は非常に高価で、良いものはセットで全部そろえると1万円から2万円する。

そういう出費を避けたいのなら、早朝と夕方に外での散歩や作業を済ませば良い。

以前は暑さを避けてそういう時間帯に散歩と農作業をしていたのだが、最大の問題は虫刺されである。

涼しい時間帯は虫も元気で油断するとすぐに刺されるので、防虫ネットや防虫スプレーが欠かせない。

帽子などに鬼ヤンマのイミテーションをつけると少しは効果はあるが、それほど安心できるものでもない。

顔に防虫ネットをして作業するのはけっこう息苦しくて暑い。

そして何よりも、私は糖尿病の関係で食後の運動をしっかりとする必要がある。

早朝も夕方も食事前となるので、食後の運動にならないのだ。

それで、空調服は必需品となっているが、村の人も早朝や夕方遅く農作業をしている人はほとんどいない。

農業経営をしている大規模農家はそういう時間帯に作業をしているが、普通の農家は身についた勤めの時間帯で作業をする。


最近は道路関連や建築関連の現場での作業で空調服を着けていない人を見つける方が難しくなっている。

なのに村で空調服を常備使用している人は私以外にほとんどいない。

子どもに買ってもらって持っているという年配の人も使っていない。

空調服はちゃんと下に着るアンダーウェアーが重要で、そういう人の普段着ている木綿の下着では効果があまりない。

そして、作業服へのファンの着脱がけっこう面倒だし、こまめに充電をしておかねばならない。

また、高価なのだけれど、何年も使い続けると風力が落ちてしまって、それほど涼しくなくなるので買い換える必要もある。

何よりも昼間の炎天下では熱風が入ってくるので自分の汗だけでは対処できない。

そんな時は前もって保冷剤を凍らせておいて、それをつけるベストを中に着込まねばならない。

保冷剤を使わなくて済むようにペルチェベストも買ったが、炎天下での使用には耐えられなかった。

他にも水に浸したりしたベストを中に着込んだり、冷感スプレーをアンダーウェアーにかけたりもしたが、結局は凍結した保冷剤が一番効果があった。

水冷服に関しては、装備が重いので私のように力仕事をよくする者には適さないと思い買わなかったが、主に機械で作業していいる人には良いと思う。

レビューなどを見ると、背中に水滴がついたりして、長時間つけるとかゆみが出るというので、まだまだ農作業には向かないと思った。

ペルチェベストは、空調服との併用は無理で外での仕事には限界があり、エアコンが効いていない屋内で使うのが良いと思う。



近所の人には空調服も着ずに炎天下で農作業をしていて身体を壊してしまって、今は夏場は日中は殆ど農作業をせず家に籠もっている人もいる。

私の父は炎天下での畑仕事で脳梗塞を悪化させてそれが原因で亡くなった。

だから、夏場での散歩や作業は命に関わる危険な行動という意識を持っている。

自分の命や健康を守るためであれば少々の出費は苦にはならない。

普通の人ならそこまでして散歩や農作業をする必要があるのかと思うかもしれない。

それだけの金を余分に使うなら農作物もいっぱい買えると思うだろう。

だけど、私の作る農作物は有機農法でつくった安全で栄養の高いものである。

そして食糧危機に備えた農業への取り組みでもある。

いわばそういう危機に備えた防御服だと空調服を考えれば良いと思う。

家の中では積極的にエアコンを使うように呼びかけられている。

それと同じように、外での仕事や移動ではできるだけ帽子を被り、積極的に空調服や水冷服、ペルチェベストを使うべきだろう。

それだけ現代の暑さは危機的な状況なのだという意識を持つべき時代になったのだと思う。