このところ広島・長崎の原爆に関する平和式典が行われてきた。
広島の平和記念式典で横田美佳知事は核抑止力について次のように述べられた。
核抑止力への依存が、今なお、世界の安全保障政策において大きな位置を占めていることに、悲しみと怒りを感じざるを得ません。核による脅し、先制攻撃も厭わない考え方、それによる核武装の強化が核兵器使用のリスクを高めています。核抑止は核兵器を使用することを前提にしない限り成り立たず、各国の不信や軍拡競争を助長し、世界を不安定化させるという根本的な矛盾をはらんでいます。核抑止力を求めること自体が新たな戦争を引き起こしている現実を直視し、核抑止から脱却すべきです。
既にロシアがウクライナに対して核で脅しながら戦争を仕掛けたのだから、通常の戦争にたいする抑止力など無いことは明白である。
日本がアメリカの核の傘で守られているというのも、裏を返せば核兵器で脅されているのと同じ事である。
一般市民への無差別な殺戮は戦争犯罪とされるべきなのだが、アメリカが広島・長崎の市民に行った行為は戦争犯罪とはなっていない。
それは総力戦というのは戦闘員と非戦闘員の区別が無い近代の戦争である*1。
広島長崎のアジア太平洋戦争で日本軍の総力戦に参戦する戦闘員と同等に見做されていたと解釈すべきなのだろう。
実際に新聞などでは国民に参戦を呼びかけていた。
「聖戦へ 民一億の体当たり 聖戦だ 己殺して国生かせ (以上 昭和14年 読売新聞社)」
現代行われているウクライナやイランでの戦争も総力戦になっているが、核を持っている国の市民を攻撃することは避けられている。
その一方で核を持っていない国の市民はある意味で無差別に攻撃されている。
抑止という言葉を都合よく使うなら、核を持たない国からの攻撃を抑止できると言うことなのだ。
そして、反撃して逆に攻めてこられないように、核で脅威を与えて威嚇している。
北朝鮮やイランが核開発に拘り続けた理由は、核兵器さえ保っていれば攻めてこられないということであり、戦争自体を抑止するためではない。
私はそれを脅嚇力(きょうかくりょく)と呼ぶことにしよう。
日本にはアメリカが核を持ち込んでいると言われているが、日本自体は核を持っていないので核を持っている国からの攻撃は抑止できないと言われている。
今回のイランでの戦争では米軍基地への攻撃はなされているので、米軍基地への攻撃の抑止力にもなってもいない。
ということは米軍基地の核は日本を脅嚇すること以外に役立たないと言うことになる。
だから、日本も核武装すべきだということになるが、アメリカを含む現在の核保有国はその脅嚇力を独占しないと戦争ができなくなってしまうので許すはずがない。
アメリカやロシアは定期的に実戦を行っているが、実戦を行わない核保有国も武器開発をして軍事演習という名の脅嚇を行なう戦争はしている。
核保有国でない日本も軍事演習を行っているので、戦争をしているのとそうかわりは無い。
日本人は実戦を行わないと戦争をしていないと思い込んでいるが、総力戦の本当の意味を理解していないし、自ら欺いている。
現に日本最先端技術は武器製造に役に立っており、ウクライナなどは三菱重工に協力を求めてさえいる。
今後レールガンが完全に実用化されて弾道ミサイルからの攻撃を効率的に防御できるようになれば、核兵器の脅嚇力は無くなっていくだろう。
その一方で通常兵器やドローン、AIロボットを用いた実戦が頻発するようになるかもしれない。
ただ、それはある意味で狩猟採集民や初期農耕民などが行っていた定期的な戦闘と似たようなものになるようにも思える。
人類は戦いから逃れられない生き物のようだから、せめて大量殺戮を行う核兵器の廃絶か無力化を行わねばならないらしい。
被爆国の日本ができるのは核廃絶では無くて無力化しか無いように思える。
*1 É,アリエズ&M,ラッツァラート 杉村昌昭、信友建志訳 2019 「総力戦」 『戦争と資本―統合された世界資本主義とグローバルな内戦』 作品社
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