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2026年7月30日木曜日

プロレタリアートの消滅とアウトローの大量発生

 プロレタリアートという言葉は子どもを生むことでしかローマ帝国に貢献できないという意味を起源とする言葉だという。

つまり、兵士となる子どもを産んでこその無産階級なのであった。

ということは現在の子どもを作らない労働者は、プロレタリアートではないということである。

一時DINKs(Dual Income No Kids)という言葉がはやったが、現在でも全体の25%の夫婦が夫婦のみと言われているが、意識して子どもを作らない比率は分からないそうだ。

これに加えて、2020年で男性の未婚率31.9%、女性の未婚率23.3%ということになると、プロレタリアートは消滅しかかっていると言えるかもしれない。

プロレタリアートは土地や工場などの生産手段を持たず、労働力を提供して生活する人たちを指す言葉になったので、子ども有無とは関係なくなっている。

ただ、これには別の側面があって、かつて男性が労働をして賃金を稼いで、その賃金に依存した女性を専業主婦として支配していられた。

そして、法として一夫一婦制にすればますます男性への依存が高まるとともに、男性も自分の妻子のために身を粉にして働くのだ。


もう既に専業主婦で居続けている、ないし居続けられている女性は少数になっているようだ。

ただ、子育てをしたい高学歴の女性の方が、高学歴高収入の男性と結婚して専業主婦を望んでいるというのもネットで読んだことがある。

高学歴高収入でない男性は子どもを望む女性と結婚できないし、男性に支配されたくない女性は結婚して子どもを産もうと思わないのは理解できる。

かつて、狩猟採集から農耕社会まで専業主婦でいられた女性は存在しえなかった。

江戸時代の町でも武士や貴族の妻以外は、商売や内職やらをして女性も稼いでいたようだ。

近代の産業社会になって初めて無産市民といわれながらも、ブルーカラーのプロレタリアートは妻子を自分の賃金だけで養えたのだ。

そして、ホワイトカラーが増えた現代では女性もしっかりと収入を得られる時代になっているので、男性に依存する必要が無くなっている。

しかし、それもAIの進歩で危うい立場となり、むしろブルーカラーが見直されている。

このように男性にとっても女性にとっても熾烈な競争社会となってしまったので、それに取り残された人は結婚しても苦しい生活を強いられ、離婚も増えている。

Youtubeで繰り返し夏休みに給食がなくなり、母子家庭の子どもが食事をまともに食べられないという広告を見るたびに現代の残酷な一面を思い知らされる。

北朝鮮から兵士がロシアへ送り込まれるのを見ていると、兵士として戦地へ行く方がまだ食糧にありつけるのかと思ったりもする。

今のオーストラリアでちゃんとしたビザを持たず、性風俗店で働く多くの日本人女性がいて問題になっているという。

日本の円が安くなり、貨幣価値の高いところで容易に高収入を得られるのが性風俗であるからだ。

これが一世を風靡したプロレタリアートが消滅していく中での、日本のひとつの姿なのだろう。

アメリカの兵站を担ってきた日本の企業兵士が、アメリカの衰退によって必要でなくなっただけのことであろう。

企業兵士を産んで国家に貢献するプロレタリアートの消滅である。

その一方で、高収入を得られるヘッジファンド、ハッカー集団、特殊詐欺グループのようなアウトロー(無法・超法規者)が大量発生してきた。

その頂点にアメリカ大統領のトランプがのさばっているように思える。









2026年7月28日火曜日

父親との確執と和解

 私は特に高校から大学に入るまでの期間は父との言い争いが絶えなかった。

私は父が求めるように勉強に励まず、好きなロックバンド活動をしていて、成績も振るわなかった。

造船所の職工だった父は、親から家業の海運業を継がせるのに中等学校を中退させられて、その仕事も結局家族のために辞めて造船所に入社した。

その職場において高学歴の上司から低い扱いをされるのをいつも悔しがっていた。

自分の悔しい思いをさせたくないと、高い授業料を払って私学に通わせているのに、まともに勉強しない私が許せなかったようだ。

それに対して、男ばかりの男子校に入った私は、剣道部には入ったものの夏の合宿までしか持たなかった

小学校でやっていた剣道のいい加減な練習とは違って、高校生も混じった厳しい練習に自分はついていけなかった。

だから、勉強以外の楽しみや気晴らしが無くて、それを音楽に求め始めたのだった。


大学の進路に関しても、工学系の理系に進ませたい父と理学・農学系の理系に進む気の自分との葛藤もあり、好きな生物を履修できなかった私は高3で文系に転じてしまった。

文系に転じたものの暗記科目はどちらかというと苦手で、受験勉強をしっかりできず、成績が悪くて父に責められていた。

また、進路に関しても父と口論が絶えず、家の中が荒んだ状態になってしまっていた。

父は大学受験に必死に取り組み将来につなげられる有名な国立大学への進学を強く望んでいた。

また、兄弟が4人もいて、国公立でないと下宿させられないという経済的な事情があった。

まさしく受験戦争の中で、私は家の経済状況も考えずに、気ままにしているように思えたのだろう。

私の方は大学受験経験も無い父に自分の気持ちが分かってたまるかと勉強もせずに反抗していた。

そのくせ周りから取り残されていくのは不安に思っていた。

結果は1年浪人しても国公立大学には行けず、三流の私立大学にしか受からなかった。


周りは恥ずかしいからもう一年受験しろと言われもしたが、家から離れられるのなら不本意な大学でも良いと喜んで入学した。

名古屋には叔父さんがいたのでそこで居候させてもらえば、私学でも何とか暮らせると言うことで話は収まった。

私の両親は私が入学した南山大学がどういう大学かも知らなかったし、私に聞こうともしなかった。

ただ、母だけは私が大学を落ち続けていたので、どんな大学か知らないのに、一つだけでも受かったと喜んでいた。

私は嬉しくも無かったので、その母の喜んでいるのに対し複雑な気持ちでいた。


居候の方は友だちのアパートに転がり込んで、結局安い下宿代でそのまま乗っ取った形で卒業まで過ごすことができた。

親からは授業料は払ってもらい、途中から奨学金が36,000円入ったが、仕送りは4年間毎月2万円だけだった。

私は大学では好きなロックを目一杯するつもりでいて、できればプロになれれば良いとも思っていた。

ところが、その道も上手くいかず、文化人類学の村落調査が自分にはとても魅力的なものとなった。

それには、そのサークルで彼女ができたのも大きな理由でもあった。

そして、もっと研究がしたくなって大学院にも進もうと思った。

これも就職できる当てもなく、無謀な選択であったのだが親には理解できていなかった。

私が研究を続けることを知って母は、あれだけ勉強を嫌がっていたのにと不思議がった。

要するに勉強が嫌いなわけでは無くて、大学受験科目に興味が持てなかったし、入ってからしたい事が勉強と関係なかっただけだったのだ。


いろいろと無理して入った大学院だったが、博士課程に進めず研究者になることを諦めざるを得なかった。

そして、生活も破綻して実家に戻ってきた時は、父は冷淡極まりなく、厄介者が帰ってきたという態度だった。

私は親への反発心などよりも、何とか生きていくための職を得るために教師を目指した。

教員採用試験の一次に合格したくらい頃から、父の態度も変わってきて応援してやろうという雰囲気も出てきた。

そして、教師に正式採用された時には、もう過去のわだかまりもなくなっていた。

結婚して子どもができてからは、実家に子どもを連れて行くと喜んでくれた。

最近弟に孫ができて、その可愛がる様子を見ていて父のことを思い出した。

父も孫が大好きで、一緒に遊んだりして可愛がっていた。

特に、末弟の子どもが近くにいたので、しょっちゅう訪ねていっていたようだ。


そして、忘れていたのは父がその末弟をすごく可愛がっていたことだ。

私は既に小学校3年生だったので、父が末弟を可愛がる様子を傍で見ていて記憶している。

夕方に仕事から帰ってくると、末弟を抱いて歌を歌ったりしてよくあやしていた。

母や他の兄弟も可愛い末弟と関わるのが楽しみだった。

その父が可愛がる様子をクラスの詩集に書いて、担任の先生がみんなの前で読んでくれて少々恥ずかしかったのを憶えている。

父はどちらかというと子どもが好きで、最初から厳しい人では無かったのだと思う。

子どもが成長するに従って、子どもに厳しく接するようになり、時に体罰もともなった。


その末弟がよく口にするのは、いやいや畑でいい加減な態度で草抜きをしていて、父に叱られて、「いね(帰れ)」と叱られたことだ。

それ以来、末弟は畑で農作業が嫌いになったと言うことだった。

確かに、父の末弟への扱いはまずかったかもしれないが、甘やかしすぎたと思っていたのかもしれない。

父は歳がいってからの末弟を非常に可愛がっていたが、一方で他の息子との関わりに手を取られて躾が疎かになっていたことも確かだった。

父親は子どもの世話そのものよりも、独り立ちできることを考えねばならない立場だ。

ちょうど時代の変わり目であった父は、難しい立場にあったのだと最近分かるようになった。

祖父が父に無理矢理家業を継がせたのとは逆に、学歴を付けて良いところに就職させようとする父の強引な意図が私との確執になっていた。

父と息子の確執はその時代が作るもので、必ずしも性格の違いとは言い切れない。

私は父同様に上の世代が置かれていた状況を正しく理解できていなかったようにも思う。

しかし、私が教師になって家族をもって平凡に暮らし始めると、和解できて喧嘩をすることはなくなった。

大切にすべきなのは家族だということで、世代が違っても理解し合えたのだと思う。

本当に親を理解するには、自分で子どもを育ててみないと分からないのかもしれない。

といういことは、子どもを持たない子どもからは死んでも理解されないのかもしれないと思ってしまう。

そういう人を身近に知っているだけに……






2026年7月27日月曜日

避暑と避難のショッピングモール

 先週の日曜は気温の低そうな山地に行った。

しかし、思ったほど涼しくもなく、少しでも気温の低い場所に駐車することもできなかった。

そこで、今週は人は多いだろうと覚悟を決めて、倉敷にあるショッピングモールに出かけた。

近くの姫路にも大型ショッピングモールはあるが、昼食を食べるの魅力ある店があまりない。

岡山には岡山駅近くにも魅力ある飲食店があるショッピングモールはあるが、そこまでたどり着くのに渋滞が多い。

田舎に住む我々夫婦にとって渋滞が一番耐えがたいものなのだ。

倉敷には駅前にも大型ショッピングモールがあるが、飲食店に魅力が無い。

だから、倉敷郊外にある大型ショッピングモールにいつも出かけている。

そこは無料駐車場があるのだが、モール付属の駐車場はいつも満車で、南側の青空駐車場にいつも車を停めている。

そこから、モールまでは信号があったりして、たどり着くのにも一苦労ではあるが、駐車は簡単にできる。


モールの中は予想したとおり多くの人で賑わっていた。

やはり、子連れの家族が多くて、少子化という言葉とは無縁の空間だ。

ただ、モール内の気温は思ったほど低くなく、それほど涼しいとは感じなかった。

これだけの空間を冷やすのにはどれだけ空調に電気をつぎ込んでいるだろうと思いもした。

また、室外機からの熱風は周りに影響を与えるだろうが、ここは町の郊外で幸いしているように思えた。

まずは飲食店街に行って、順番待ちの紙に名前を書いておいた。

いつもは、あまりにも多いので避ける店だったが、メニューが夏向きではないので、意外と少なくて待つことにした。

店の横で20分ほど待って、呼ばれて入ってから注文して20分ほど待ったが、それでちょうど昼の12時となって都合は良かった。

しかし、注文した煮魚定食は予想以上に身体を熱くして、汗をいっぱいかかねばならなかった。


食事後は腹ごなしにウインドーショッピングを楽しんだが、時々くたびれて通路の椅子に腰掛けて休んだ。

この椅子はたいてい座っている人がいて、二人で座る場所を見つけるのはそう簡単では無かった。

通路は人の行き来が激しくて、子どもも走っていたりするので、落ち着いて座っていられる場所では無かった。

モールには学習できる場所も用意していると言うことで、親が買い物している間にベン居雲もできるという気の配り方だった。

広い店内を歩いて運動にもなるし、飲食できてゆっくり過ごせる避暑地でもある。

ここの大きな問題は自家用車で無いと来られないことだろう。


最近はお年寄りが家の中で熱中症で無くなる人が増えているという。

これだけの酷暑なのだから、その避難所としてショッピングモールの役割も重要だろう。

駅近くにあるモールでは公共交通機関を利用して来られる。

災害時に避難する体育館や自治会館と違って、中で歩くこともできるし、イベントを楽しむこともできる。

モールによってはプールやトレーニング施設も兼ね備えている。

できれば、寝そべったり横になって昼寝ができる場所があれば嬉しい。

これからは、老人も楽しめるようなコーナーも作って、自治体とタイアップしながら老人を呼び込むべきだと思う。

イートインなどを利用して飲食もそこで行ない、健康管理で一日過ごすこともできたら、医療費や介護負担も減らせることになる。


追記

このブログを書いた後に熊本で大地震が起こり、その影響でショッピングモールが爆発事故を起こしてしまった。

それで思い出したのは、以前勤めていた学校で、もし、ショッピングモールのフードコートで大きな地震に見舞われたらどうするかということをテーマにした授業があったことだ。

生徒に色々考えさせる授業だったが、今回の震災ではお客さんの避難においては上手くいっていたようだ。

おそらく、職員が大地震を想定した研修や訓練を行っていた成果だと思う。

これから、こういう爆発を想定した研修や訓練がなされていたかどうか分かるだろうが、おそらく徹底してなされていなかっただろう。

実は以前勤めていた特別支援学校でも校舎からガス漏れが見つかって、校舎にはガス管が張り巡らされていることも気がつかされた。

石油ストーブの方が危険で管理が難しいこともあって、ガスを使った暖房が行われている学校もある。

特に準備室などではガスストーブがあるし、家庭科教室だけでなく科学などの実験室ではガス設備などがあって当たり前だ。

今回の事故はショッピングモールだけでなく、避難所となるはずの学校などの施設に関しても大きな問題を投げかけていると思われる。




2026年7月25日土曜日

夏はつとめて(早朝)

 清少納言は枕草子では「夏は夜」と言っているが、夜には農作業ができないし、熱帯夜に外に出て涼む気にもならない。

今の時代のように殺人的な猛暑では夏はつとめて(早朝)に限るのだ。

このところ、夜が早く明けるので、早朝は机に向かうことが多かった。

本を読んだりブログを書いたり、ネットを見たりしていた。

そして、家の裏にある畑での農作業は夕方に行っていたのだが、もう暑くて耐えられなくなった。

去年はもっと早くから早朝に水やりを中心とした農作業をしていた。


今年も先日(7/22)から午前5時前に起きて、空調服を着て農作業を始めた。

水やりをするのだがエンジンポンプをかけると近所迷惑になるので、リールコードを自宅から延ばして電動ポンプを使っている。

去年もスプリンクラーで散水している間に、犬の散歩に出かけてきて先日もそうしていた。

戻ってくると電動ポンプが止まっている。

また、やってしまった家のブレーカーが落ちたのだ。

というのも、早朝は炊飯器を使っていて、容量を超えてしまって去年もよくブレーカーを落としていたことを忘れていた。

そこで家内に炊飯器は午前五時までに炊き上がるように言っておいたので、今朝(7/24)は同じようにしてもブレーカーは落ちなかった。


朝は農作業にも散歩にも涼しくて良いのだが、最大の問題は蚋(ブヨ)という刺されたら腫れ上がる虫に狙われることだ。

虫除けのミストを露出部分に振りかけているのだが、顔の周りにまとわりついてくる。

被っている竹笠に「オニヤンマ君」をぶら下げてみるのだが、完全に追い払うことはできない。

夕方は暑い代わりに蚊やブヨの心配が要らないのとは対照的だ。

人が活動しやすい時は虫たちも元気なので、農作業をするにはその対策が大変だ。

私は空調服も長袖を着るのはその対策で、腕にも電池式の虫除けを付けてきた。

今回は背中の中程にファンを取り付けられるフード付きの長袖空調服を新調して着てみた。

これだと、顔に風が多くかかるので、蚊やブヨを追い払うことができているようだ。

早朝はポンプだけでなく草刈り機も静かな充電式を使ってラジオを聞きながら作業をしている。

こんなに涼しいのに近所の人はあまり農作業をしたがらないのは、農機具がエンジン式が多いことも原因しているようだ。


このところ、うちの村では子どもの数も減ったし、ラジオ体操を以前のように六時半に公園でしなくなった。

ラジオ体操があった頃は、朝でも賑やかな感じがしていた。

これだけ猛暑のなか熱中症で亡くなる人も多く出ているのだから、政府はサマータイムで対処すべきだと思う。

そしたら、日の出前にエンジンの音を立てても苦情は出ないだろう。

真昼の農作業や土木建築工事などで熱中症を減らすこともできると思う。

特に老人にとっては生死に関わる問題だ。

こういう国民の困難を無視した国会運営を行う高市総理の支持率が落ちても当然だと思う。



2026年7月24日金曜日

海を見ていた午前

 ユーミンの「海を見ていた午後」は私の大好きな曲で、ひとりでカラオケやギターを弾いてよく歌っている。

弟夫婦が三浦半島の葉山に住んでいるし、私も横浜に住んでいた時に山下公園は想い出の場所となっている。

実際にモデルとなったドルフィンからは、三浦半島ではなくて房総半島が見えるそうだが、どちらにしろ自分の想い出を重ねられる。

地元の赤穂でも想い出の残る海岸は色々あるのだが、地元では綱崎という恋ヶ浜は私の生まれ故郷の鳥撫(となぜ)の海岸で特別な海辺だ。

ジェットスキーが荒らすので立ち入り禁止になったと思ったら、いつのまにかプライベートビーチになっていた。

そして、先日は女子大生がジェットスキーにはねられ心肺停止になって、ドクターヘリで運ばれるような大事故が起こってしまった。

そもそも、恋ヶ浜のいわれとなった物語では、江戸時代に岡山から駆け落ちした夫婦の悲しい死が語られている。

武士の娘と駆け落ちした下男がその妻のために漁に出て帰らぬ人となり、妻は夫を浜に出て待ち続けて亡くなってしまったという伝承物語だ。

私は幼い頃には父と貝掘りに行った場所で、鳥撫の親戚とも海水浴に来ていたし、結婚してからも子どもが小さい頃に家族で泳ぎに来ていて、その物語とは無縁だった。

今回の事故で、却って恋ヶ浜の物語が因縁じみて感じた。

ただ、赤穂の海岸には事故や自殺の話がどこでもあって、それを気にしていたら来られなくなってしまう。

喜びも悲しみを飲み込んでしまうのが海だと船乗りの息子の私は思っている。


この恋ヶ浜での近年での一番の思い出は、娘のようなALTのメグと一緒にSUPをして楽しんだことだ。

土曜日の午前に彼女を誘って恋ヶ浜でSUPを楽しみ、海を眺めながら途中でコンビニで買ったおむすびを二人で分けて食べた。

メグはアウトドアのインストラクターをしていたこともあってSUPも上手かったが、着替えも平気で草むらに入ってしていた。

メグは両親が離婚して父親とは行き来が無かったので、私を父親のように思ってか慕ってくれてた。

一緒に自転車で赤穂御崎や唐船海岸を走ったり、カラオケやギターで歌って二人で楽しんだりした。

メグがアメリカに帰っても恋ヶ浜にずっと通っていた。

ジェットスキーが我が物顔で噪音を立てているところからなるべく離れて、ひとりでもSUPをよく楽しんでいた。

そして、立ち入り禁止で閉め出されてしまった。


閉め出されてから、恋ヶ浜には行けなくなったので、最近は赤穂御崎の大塚海岸や東御崎展望台に立ち寄ることが多くなった。

そこも中学生頃からの想い出の残る場所であるが、最近は大塚海岸ではSUPをしようと下見のつもりできている。

先日(7/22)も家内を病院に朝早く連れて行って、図書館が開く10時までの時間つぶしに大塚海岸に行った。

日除けのポンチョを羽織って海岸の遊歩道を歩いたが、日陰も無くて暑いだけであった。

大塚海岸は以前は海水浴場だったので屋根付きの休憩所がある。

以前からそこに年配の男性が集まって会話を楽しんでいるのを見かけていた。

私は御崎地区の生徒と同じ中学校に通う尾崎育ちなのだが、中学校から姫路に通ったので地元とはなじみがない。

だから、そういう地元の人と関わるのは敬遠して、そばに行くことも無かった。

しかし、今回はあまりにも暑かったので、少し離れたコンクリートのベンチで休憩をすることにした。


年配の男たちは賑やかに会話していたが、それを聞き流しながら海をながめていた。

涼しい風が吹き抜けて気持ちいい。

そこで、冷たいベンチに横になってしばらく目をつぶっていた。

そのそばの山の上には思い出の展望台がある。

今はひとりベンチで海をながめているが、かつてはそこで二人だけで眺めていた。

ユーミンの歌のようにロマンチックでは無いけれど、それを思い出すひとときである。

その後行った赤穂図書館には老人を中心に人で溢れていた。

確かに冷房がよく効いた図書館は快適だったが、そこを出た時の息苦しさは耐えがたかった。

それよりも、大塚海岸の休憩所で過ごした時間の方がすごく心地よかった。


御崎の海岸は子どもの頃からの海水浴・魚獲り、思春期での物思い、恋人とのデート、教師としてのキャンプの引率と半世紀以上の付き合いがある場所だ。

大塚海岸だけでなく、丸山海岸にも家族や親戚と海水浴などでよく行ったが、そちらは駐車場が有料になってから行っていない。

今はこうして大塚海岸の休憩所のベンチに座って、ひとりでただ海を眺めて涼んでいるだけなのだ。

奄美の与路島に通っていた頃も、時間があるとひとりで集落の東にある前浜に出て、海や請島を眺めて色々考えをめぐらせていた。

その時も、シマのオッショー(爺)が堤防に立って海を眺めたり、アダンの木陰で年老いたアンマ(婆)が海を眺めていたのを憶えている。

私もそのオッショーやアンマのように、ただ海をひとり眺めてボーと過ごす歳になったようだ。

海をボーといつまで眺めていても飽きることは無い。

ボーと生きていると言われて叱られない場所でもある。


2026年7月23日木曜日

沈黙の夏

 かつてアメリカの生物学者レイチェル・カーソンが『沈黙の春』を1962年出版して、殺虫剤や農薬の影響で春になっても鳥が鳴かなくなることを警告した。

今年は夏になっても蝉が鳴かない静かな日々が続いている。

我が家には生け垣や庭木に木を多く植えている。

夏の初めにニイニイゼミから始まって、アブラゼミ、クマゼミと鳴いていき、朝早くから夕方遅くまでうるさく鳴き通す。

以前はあまりうるさいので、水鉄砲などを使って追い払うこともあった。

ところが今年は蝉はあまり鳴いていなくて、例年より静かである。

その分、小鳥などが鳴いているのが気持ちよく聞こえている。

テレビやネットでは気候との関係を指摘して、梅雨が早く開けて異常高温が続いているからだという。

そうすると、こういう夏が毎年やってくると、蝉はいなくなってしまうのだろうか?


夏が暑いということでいつも思い出すのは、東京の大学院で研究していた頃に、下宿のお婆さんから聞いたことだ。

それは関東大震災が起こった時の夏は非常に暑かったということだ。

このところ毎年異常な高温が続いているので、そのことはあまり気にかけなくなっている。

関東の方はまだ梅雨も明けずに雨が続いていたが、一転して酷暑に襲われている。

今年はスーパーエルニーニョとも言われていて、本来は冷夏になりやすいはずなのだが、暑いし台風も多く発生している。

ヨーロッパの異常高温、ベネズエラで巨大地震、カナダで猛烈な山火事などとんでもないことが続いて起きている。

以前読んだ本で、地球の温暖化は極地帯の氷を溶かして海水の量が増して重くなり、地殻に影響を与えるということを知った。

そうすると、地震も関連してくることになるだろう。


戦争も環境破壊と言われているが、ウクライナによるロシアの石油基地攻撃、イランとアメリカとの戦争による石油施設の破壊は、重大な環境破壊である。

日本では南海トラフ地震が予想されているが、これだけ温暖化が進むと発生周期が縮まってしまう可能性も考えられるだろう。

蝉の鳴き声が消えた沈黙の夏を、その予兆と捉えるか、ただの温暖化の一現象と捉えるかは結果が出てしか正解は分からない。

どちらにせよ、10年に1度の暑い夏だそうだ。

我が家の作物もオクラ以外はまともに育ってないし、近隣の畑もキュウリやトウモロコシが枯れているのを見かける。

だから、地温が上がりすぎないように雑草を伸ばしており、旱魃飢饉に備えてサツマイモに水をやって大事に育てている。




2026年7月20日月曜日

親からの負の遺産に悩む地方

 法律の改正で親の不動産の名義変更を死後3年以内に行わねばならなくなった。

私の親は改正前に亡くなったので、法の制定後の3年ということで余分に1年だけ余裕があったことは後で知った。

バブル期頃までなら売却して兄弟4人でその利益を分割すれば良かった。

しかし、今の時代はこういう地方ではまともに売れず、捨て値で業者に売却するには、私は非常に抵抗を感じた。

親が懸命に働いてやっと新築の家を手に入れた苦労と、その時の悦びを知っていた。

また、その家で兄弟は育ち結婚して離れていったが、盆正月や連休にその家族が集まって賑やかに過ごした。

そういう思いの詰まった家が十数万円の安い値段と引き換えにするのは悔しかった。

確かに兄弟家族の誰もが住まない家を誰かに活用してもらった方が良いとは思う。

親が一代で築いた家で、先祖代々というものでもないし、さほど立派な家でも無い。

だけど、親の思い以外にも祖父が息子のために作った庭はそれなりに見事である。

それなりに価値を理解してくれる人に使ってほしいと思おうが、それを不動産屋に期待することはできない。


私は長男として一番両親と関わったので、その家を維持するために固定資産税と電気・水道料金を払い続けている。

その費用は今の年金暮らしには負担とはなっているが、そもそも私が就職できて年金ももらえるようになったのは両親の支えのおかげなのだ。

そして、家を更地にすれば国に返納できるが、旧来の土壁であるし庭の石の処分をを含めれば処分費用が1000万円は近くになる。

それだけの費用を超える地価価格でも無く、売れる見込みが立たない家を高額の費用で解体する馬鹿もいない。

先日大工の棟梁と話す機会があって、そういう家が赤穂でも増えていて、もう放置するしか手が無いという。

山間部などの家はこっそりと安く埋めてしまっていることも聞いたし、実際に近くで目撃している。

かつては木造の家が廃屋となったら、その場で土で埋めたり、川や池の埋め立てに用いたりしていた。

それができない現代では、家を建てる時に壊すことも考えておかねばならなかったのだ。


両親は昔のように不動産には価値があって、後を見てくれる子どもに相続させれば良いと思っていたようだが、そもそもすでに均等分割の時代にはそぐわない。

今回も私の名義にするのは、そのままにしていると兄弟みんなに罰金がかかるからで、処分にかかる費用は負担し合うことになっている。

とにかく、兄弟はそのことで長男である私に早く名義変更をするように迫ってきた。

業者に頼むと多額の費用がかかるので、自分の手でするために末弟が法務局へ出向いてその書類の書き方も聞いてくれていた。

そこで勘違いがあって、母が亡くなって3年目の今年の7月までが期限だと思っていたのが、亡くなったのが法律の成立までで来年まででよかったのだ。

勘違いしたまま急いで必要な書類を取り寄せたり、文書の作成は家内にかなり手伝ってもらって行った。

そして、法務局に予約を取って必要な書類の点検をしてもらっていたときに、大きな不備が発見された。

ギリギリに行ったので期限を越えるかと心配したが、そこで法務局の相談員の方に来年まで期限があることを聞いてほっとした。


実は宅地は隣に一緒に住むこととなった母方の家族と父親名義で共有していたのだが、その後分筆したのに、両方とも建物はもとの地番ままになっていた。

つまり市役所は同じ地番の建物二つに固定資産税をかけていたことになる。

そこで、市役所で実家の建物の地番を変えてもらう手続きを取らねばならなかった。

それでなんとか書類申請ができたのだが、その点検で今度は畑の名義になっていた父の住所が以前のままだったので、その住所に同姓同名の人がいないことの証明が必要となった。

法務局の人の説明では不在証明だけで良いように電話で言われたのだが、家内が持って行ったら不在籍証明も必要だとまた市役所に行くことになった。

結局、法務局には弟が1回、夫婦で2回、家内だけで2回行き、赤穂市役所には夫婦で合計5回出向いたことになる。

これは夫婦とも自由な時間があったからできたのであって、普通の仕事をしていたらできなかっただろう。

書類を取得するのと申請するので合計すると5万円以上かかったが、業者に頼んだらもう15万円ほどかかっただろうと法務局での相談員に言われた。

これだけの労力と費用を支払って負の遺産を相続する悲哀を感じざるを得なかった。

これを大学の仲間のラインで報告したら、やはり地方の地元に戻った仲間から同じことを聞いた。

都会の仲間の方はうまく処分できれば利益にもなるので、関心が薄いこともよくわかった。


荒廃する空き家対策で作られた法律に、田舎に住む多くの人は多額の費用や労力を強いられている。

赤穂の実家の周りも空き家だらけになっているし、今暮らしている上郡の村でも日々空き家が増えていっている。

しかし、その空き家が壊されているのを見たのは、山裾で古い廃屋が壊されて地中に埋められているときだけだ。

こっそりとそれができない家屋は、名義が換わっても放置され続けるしかないだろう。

私はすでに40年ほど前に奄美の与路島で同じ風景を見ていた。

40年の年月が経って奄美の孤島と変わらない風景が眼前に展開している。

当時、研究調査で世話になった奄美在住の故山下欣一(学者)さんに、「過疎は本土と一緒だろう!」と言われて、当時は違うと思っていたが、今は同じと答えるしかない。

しかし、考えようによっては上郡の村にはコウノトリが住み着いたし、赤穂も公害が減ってきているように思える。

地方に残る者がその自然と引き換えに負担すべき代償なのかもしれない。

ただし、それが負担できない人はますます地方から出ていくだろう。

また、与路島でオッショーからよく聞かされた「ガクシェイシャン(学生さん) おしまいぜすぞ」の声が聞こえてきそうだ。









2026年7月18日土曜日

酷暑に欠かせぬ水対策

 私は去年から300リットルのポリタンクを買って、雨水をそこに受けて利用している。

梅雨が上がって貯めた水を二階のバルコニーや庭の鉢上の木や生えている草木に電動ポンプを使ってかけてやっている。

それまでは二階のバルコニーには水道水を使ってミストを噴霧して鉢上の木に水を与えたり冷やしていた。

これだと水道代が月あたり1万円ほどかかるので、タンクに貯めた雨水や用水路の水を使うことにした。

ただ、それらの水には細かいゴミが混じるので、繊細なミストに使うとすぐに目詰まりを起こしてしまう。

そこで去年からはホースに小さな穴の開いた散水器具でバルコニーで水を撒いている。

庭の草木にはホースを繋いでそのままかけてやれば良い。


問題なのは用水路は庭から道路を挟んで流れていて、近くの用水路かあ水をくみ上げるにはホースを道路に渡さねばならない。

そうすると車がそのホースを踏んでいくことになるので、ホースも痛むし近所の人はホースを踏むのに気を遣ってくれている。

そこで、50mほど離れてはいるが、庭から道路を跨ぐことをせずにホースや電気コード伸ばせる場所の用水路で水をくみ上げることにしている。

一番長いホースは30mなので庭のポンプには、もう20mのホースを繋いでいる。

300リットルのタンクは二日もすればなくなってしまうので、そのたびにエンジンポンプか電動ポンプを使ってくみ上げてきた。

朝早くやる時にはエンジンポンプだとうるさいので、コードリールの電気コードを延ばして電動ポンプを使っていた。

裏の畑の散水にも同じような方法をとっていたが、こちらは水を貯めておくための容器を3カ所くらい置いておいて、そこに水を貯めもヒシャクなどを使って散水した。

それは毎日ポンプを回すのはけっこう手間がかかるからだ。


以前は軽トラを使ったりしたが、今は小さめのアルミ製のリアカーを使って、そこにポンプなどを載せて用水路まで運んでいく。

エンジンポンプの場合は取水ホースもかさばるし、3リットルのガソリンタンクも用意しておいたりする。

用水路が畑のぞばにある人は、畑に小さな屋根をつけてポンプを設置したままにしているが、うちは設置したままにするわけにはいかない。

さすがに長いホースだけは畑においてベランダボックスを逆さにして覆っておいている。

これで昨年は家の草木対策、暑さ対策、畑の散水を乗り切ってきた。


去年までの作業は非常に手間がかかるので、今年は充電式の電動ポンプを使いたいと思ってネットで調べてみた。

最近は中国製の5000円前後の安価な物と、日本製の2万円近くする高価な物が売ってある。

レビューを見るとやはり中国製の物には多くの問題があるようだが、日本製はあまりにも高すぎる。

せっかく買った電動ポンプを活用した方が良いと、蓄電池も考えたがそちらは色々応用できた伸しても値段が高すぎる。

そこでふと思いついたのは、今使っているマキタのバッテリー活用だ。

最近はマキタも40vのバッテリーを使って、農機具以外にも電動アシスト自転車なども販売している。

うちではまだ18vのままだが、18vのバッテリーを使って家電の電源に変換させるコンバーターがないか調べたら、見事に見つけることができた。

中国製で不安はあるのだが、7000円ほどでリスクを感じながら注文して、配達されてきた。


試しに電動ポンプをつないでみたが、負荷がかかると止まってしまった。

負荷のあまりかからない扇風機などは普通に使えるので、水中ポンプでもバスポンプや水槽用の小型ポンプなら使えそうだ。

それはいずれ買うことにして、当面はエンジンポンプでの冠水を続ける予定だ。

300リットルのタンクの水は12時間ほどしか持たないので、毎日のように用水路から水をくみ上げねばならない。

エンジンポンプを使った作物への水やりと、貯水タンクへの水の補充が大切な日課となった。



2026年7月16日木曜日

債務強制労働と債務返済労働、徴兵制

 私は長年奄美諸島の家人(ヤンチュ)の問題に取り組んでいる。

今その論文発表に向けての執筆中なのだが、これがなかなか進まない。

現在のところ、ヤンチュは債務奴隷ではなくて、債務強制労働というところで論を進めている。

  ウォーラーステイン,Iは債務強制労働を次のように述べている。

  [「債務強制労働」のような]換金作物栽培のための強制労働に従う労働者とそれに近い形態の者は、雇用主の管理の及ばない土地で、食糧用作物のかたちで自らの「賃金」の一部を生産しており、雇用主にすれば、この分の労働コストを削減することができたのである。したがって、労働の再生産コストは、奴隷労働の方が、[「債務強制労働」のような]換金作物栽培のための強制労働より高かったのである[I.ウォーラーステイン2013(2011):.197]*1


そもそも、江戸時代で遊郭に身売りして売春をさせられていた遊女が債務奴隷とはいわない。

一方、身売りしたけれど村で自活して暮らしていた家人が債務奴隷というのでは釣り合いがとれない。

詳しくは将来発表する論文で読んでもらいたいのだが、考えてみれば我々は債務を抱えてその返済のために懸命に働いてきた。

住宅ローンはれっきとした債務だし、他に大きなローンは車があり、少額な買い物でも普通にカードローンを使ってきた。

本来はしっかりと貯金をしてローンをせずに支払えば利子もかからなくて良いのだが、住宅が建てられる金額まで待っていたらその子どもは自立するまで借家暮らしになる。

就職してすぐに自家用車がいるのに、学生にはそれだけの現金は支払えない。

ローンを債務と表現したら重く感じるのでローンと軽く流しているのだろう。

しかし、現実には高い金利のローンに手を出して、自己破産してしまう場合もある。

また、ヤミ金に手を出して返済できなければ、それこそ奴隷並みの扱いを受けることにもなる。


また、強制労働という点でいけば、兵役がまさにそれにあたる。

戦前の日本や現在の韓国のように徴兵制度があるところは強制労働に等しい。

何が根本的に違うかは、「名誉」である。

これは奴隷研究の大家オルランド・パターソン が『世界の奴隷制の歴史』 (

2001(1982)明石書店)の中で述べている。

つまり、奴隷には名誉がないが、兵士には名誉がある。

しかし、扱われ方は大差なく、むしろ兵士の方が死の危険性が高い。

現代ででは徴兵制のないところでは、高額な金銭目当てであったり、刑務所から出してもらうために兵士になっている。

そして、刑務所での懲役(現代日本では拘禁刑での刑務作業)は奄美の家人よりも不自由な生活を強いられることになる。

しかし、懲役(拘禁)囚には奴隷という言葉は使われない。

実は古来の中国では強制労働させる犯罪者に対して奴隷という言葉をまれに用いていた。

そして、シベリア抑留で有名なに近代における強制収容所や捕虜収容所などでの労働は奴隷以下と称される。

ほとんど死ぬのをいとわない労働や生活を強いるからだ。


奄美の家人を債務奴隷とあたかもアメリカでの黒人奴隷を連想させる用語で、過去の悲惨な存在として歴史家の中には描く人が少なからずいた。

そして、発展した現代とは違う過去の歴史として現在の社会状況と類似することを隠蔽してきた。

しかし、現実の今の日本の社会はその延長上にある。

奇しくもデヴィッド・グレーバーは『ブルシット・ジョブ―クソどうでもいい仕事の理論』(2020年 岩波書店)や『負債論―貨幣と暴力の5000年』(2016年 以文社) で述べている

「今も昔も、賃労働と奴隷制のあいだには興味深い類似性がある」ことを

だからもし、家人をあえて債務奴隷というのならローンを抱えた我々も奴隷に似てることを述べるべきだ。

しかし、家人も我々も負債を抱えていても、普通の人と同じように祭りに参加できたし、負債を返したり対価を支払ってその立場を解消することもできた。

それがアメリカの黒人奴隷と根本的に違うことなので、私は奴隷という言葉は使わない。



*1 ウォーラーステイン,I 川北稔訳 2013(2011)『近代世界システムⅡ』 名古屋大学出版会 THE MODERN WORLD-SYSTEM II :   Mercantilism and the Consolidation of  the European World-Economy, 1600-1750 (New Edition) 2011 by The Regents of the University of California

2026年7月15日水曜日

もはや普通の農機具となったドローン

 このところ近所の米農家は軒並み農薬や肥料散布にドローンを使い始めた。

以前はJAや大規模農家だけだったのだが、中規模農家まで持って使っている。

さすがに小規模農家は持っていないが、JAなどにドローンでの農薬散布を委託している。

私は畦の虫まで殺してしまう空中散布は反対しているのだが、ここまで来るとその使用方法の改善を求めるしか無い。

とにかく、ドローンでは高濃度の農薬を使うので、なるべく作物に近い位置で農薬散布してほしい。

本当は村に居着いているコウノトリの餌や健康のためには農薬散布はできる限りしてほしくない。

しかし、農家も生活がかかっているし、対策に手間と時間がかけられないだろうから無理は言えない。

もはや稲作専業農家も絶滅危惧種である。


この空中ドローン以外にも自動草刈り機があるのだが、リモコン式のエンジン仕様のものは以前は見かけていたが、最近は見ない。

調べてみると、芝草用のものは全自動で電動式の物が低価格で販売されているようだ。

これも性能が上がっていけば、畦や広場の草を小まめに刈っていくこともできるだろう。

最近は水田の除草用の太陽電池式ロボットがアイガモの代わりに泳いでいる。

ただ、身動きがとれなくなってしまっているのも見かけるので、アイガモとはいかないようだ。

今後は地上や水中でのドローンが期待できるようだから、開発してほしいと思う。

例えばイノシシやシカなどを追い払う地上ドローン

昨日は鷹匠がカラスを追い払っていたが、サルにも使う空中ドローン

池のヌートリアなどを追い払う水中ドローン

ウクライナ戦争で活躍しているドローンをもっと平和利用してほしい。

もうすぐ、農村地帯には働き手がいなくなってしまうのだろうから・・・・・・




2026年7月13日月曜日

トンネルや峠は避暑地

 この日曜のドライブは少しでも涼しいところと思って、波賀町から千種町にかけてのいわゆる「シソイチ」と呼ばれるサイクリングコースに出かけた。

途中によく立ち寄る農産物の直売所では、この季節に出回る特産のブルーベリーを買ったりした。

揖保川沿いの道路は、さすがに暑さの中、自転車よりもバイクの方が多い。

いつもよく昼食で利用する川の傍のドライブインは着くのが早すぎてまだ開いていなかったので、波賀町の道の駅に行くことにした。

そこではもう車がいっぱいで、食堂のテーブルはなんとか座れたが、後から来たお客さんは待っていた。


昼食を済ますともう少し北に進んで千種に抜ける道に左折する。

そこから上り坂で以前に来た時にはトンネルの付近に雪も残っていた。

涼しくなることを期待したのに、トンネル付近でも車についている車外の温度表示は33℃と暑い。

トンネルに入っていくと、さすがに27℃まで下がっていった。

残念なのがトンネルの中では停車すらできない。

いつも、こういう涼しいトンネルに入った時に思うのだが、夏場の避暑地として活用できないのかということだ。

もっと標高の高いところではトンネルに入らなくても峠あたりでけっこう温度は下がっている。

しかし、そういう所には道の駅などの施設はない。


これだけ酷暑で涼しいところを求めているのだから、気楽に立ち寄れる避暑地があってもいいと思う。

やはり人気なのは川縁での水遊びができる道の駅で、千種の道の駅は満車で入れなかった。

道の駅では食事をするか買い物をするかで時間をあまり潰せないので、水遊びができる方が家族連れには良いのだと思う。

千種では以前に夏場の観光客を呼ぼうと百合をスキー場に植えたが、シカに全部食べられてしまったそうだ。

お年寄りでも楽しめるのはゆっくりと見て回れる花園だろうから、狙いは悪くなかったと思うが、鳥獣対策が難しいようだ。

その失敗に懲りずに花や果樹、野菜などを体験的に取って楽しむ施設を作っても良いと思う。

また、トンネルの活用は無理でも、洞窟や廃坑を使った食堂や喫茶店があってもいいと思う。


暑い日はエアコンの効いた部屋でテレビでも見た方が良いと言うが、それではますます温暖化が進むだろう。

せめて週末はこういう避暑ができるところに出かけることが便利になれば、過疎地域の活性化にもなるだろう。

冬のスキーが人気を失っているのだから、夏の避暑に力を入れてほしいと思う。



2026年7月8日水曜日

哀しき教師

 東京都の小学校で起きた火災は、教師が朝6時に学校へ来て私物を洗濯してストーブで乾かしていたのが原因とされている。

経費節減のためなのか、多忙のためにそうせざるを得なかったのかで、全く見方が分かれてしまうだろう。

ただ、思い出したのは私のある教師のことだ。

私はとある寮のある高校に勤務して、その寮の夜の宿直の勤務をしていた。

たいがいは二人で行うのだが、その時には私より少し年上の先輩男性教師と宿直をしていた。

その人は奥さんも教師で共稼ぎあったが、朝早く一度自宅に帰って子どもの弁当を作っていたがその日の朝も帰って行った。

二人で高校教師として働いているので経済的には全く問題はない。

別の高校勤務の奥さんには宿直はないので、弁当も作れるはずだ。

どうも、夫婦間の問題でそういうことを行っていたようだ。

この場合は勤務の持ち場を離れて、自宅に帰ったわけだが、もし、交通事故でも起こしていたら重大事になっていただろう。

宿直勤務はその人にとっては大きなリスクを伴う勤務でもあった。

別の教師は奥さんが病気がちなのを理由に宿直を免除してもらっていたが、子どもの弁当で免除してもらうことはできなかっただろう。


早朝に学校に来るケースは中学校や高校ではクラブ指導や、朝の補習で珍しくは無い。

また、朝の渋滞を避けるために早く学校に来るケースもあった。

家庭科教室など特別教室や準備室を私的に利用することもそう珍しくは無かったし、以前は校内で生徒とバーベキューをすることも有った。

文化祭などでは屋台を出すために同じようなことをするので、あまり問題に思わなかったように思う。

また、教室を宿泊するように畳などを敷いて、夏休みに合宿したこともある。

校務員さんの部屋は畳が敷いてあって横になれるので、そこで昼寝をさせてもらっている教師もいた。

また、寮の宿直は手当が付くので、若い独身教師は魅力であって、他の教師から頼まれて宿直を多くして、その手当が通常の給料を上回ることもあった。

しかし、それはさすがに途中から止められたようだったが、それまでは、ほぼ寮生と同じような生活をしていたことになる。

そして、定時制の教師は若い人が多かったので、勤務時間を超えてみんな一緒に明け方まで学校で過ごしていたことも聞いたこともある。

当時の定時制の教師はそういう勤務で、多発する生徒の問題行動に対処していたようだった。

今回の音楽担当教諭が学校を自宅代わりにしていたとしても、そう不思議には思えない。

後日のネットニュースで熱心な先生だったと書かれてあって、多忙でそうせざるを得なかったと確信した。


問題なのは、そういう行為は必ず他の教師も知っているわけで、管理職の耳にも入ったはずだ。

知っていて敢えて目をつぶったのか? 本当に知らなかったのか?

音楽教師は入学式、卒業式での大切な学校行事ではピアノでの号令など大切な役割を担当する。

他に音楽会やクラブ担当でも責任ある役割が多いだろう。

学校を中心にして生活する熱心な先生に対して、その行き過ぎた行為を周りからも止められなかったように思えてならない。

確かに音楽教師が重大な過失をしたことには間違いないが、そういようにならないように周りや管理職が配慮していなかったことも問題だろう。

事故や事件が起こってしまったら、起こした本人だけに責任を押しつけて組織としての問題点を隠してしまったら、同じ事の繰り返しになる。

特に校長は音楽教師をかばうでもなく、責任を全部押しつけようとする態度がテレビニュースの画面から伝わってきて、正直憤りを感じていた。


因みに教師の懲戒免職はそう珍しくない。

私が勤めていた学校でも、不正経理や生徒への性的行動で懲戒免職になった人を複数知っている。

特に不正経理の方は、よく知っている教師だったが、余分な仕事を多く引き受ける代わりに、その代償としてちょっとした金をごまかしたように自分には思えた。

懲戒免職にならなくても、自主的に退職せざるを得なかったケースはもっと多く知っている。

また、過労が原因で病気になって現役で亡くなる先生も珍しくなかった。

その一方で、途中で公立から私学に変わったり、転職したりする人も少なからずあった。

また、近年は教師への志望者も減っているし、採用しても続かないということを聞いた。

私と同じ歳の人がまだ特別支援学校に常勤で働いているので理由を聞くと、若い先生に任せておられないという。

人気を失い教師の質の低下を招いていることを危惧せざるを得ない。

教師だけがそういう組織にしたのではなく、政府の教育政策もそういう組織を生み出した責任者だと私は思っている。









2026年7月6日月曜日

やはり芋より米飯

 映画「ひまわり」の中で、ソフィアローレンが皮ごと茹でたジャガイモをむいて食べるシーンがあった。

そういう食べ方をしたことが無かったので新鮮に感じて、何度か自分も同じようにして食べてみたのだが、それが長く続くことが無い。

今年も比較的多くのジャガイモが家でとれたので、早速まるごと蒸かして食べてはみたが、やはり続かなかった。

大学時代に友達からアメリカに留学したときにホームステイして、毎日そういう丸ごとのジャガイモが出されてうんざりしたことは聞いていた。

子どもの頃からそういうジャガイモの食べ方をしていたら、日本人が米を毎日食べるように食べられるのかとも思う。

奄美などでも今のように米が行き渡る前は、サツマイモが主食だった。

20年ほど前に奄美の与路島に行った時に、民宿の年配のご主人が夕食時に米飯は食べずにサツマイモを食べているのをみて、その習慣がまだ活きていることを感じた。

私もサツマイモは蒸かしてよく食べるが、酒のつまみとか小腹が空いた時に食べるのであって、天ぷらなどのおかず以外に米飯代わりには食べない。


うちの母は戦時中にサツマイモやカボチャをよく食べさせられていたので、あまり好きでは無いと言っていた。

お米が無い時にはそれを食べるしか無いのだが、米飯の魅力を超えるものでは無い。

米飯の魅力に対抗でできるものは麺類やパン、豚まんくらいだろうと思う。

しかし、米飯なら三食食べられるが、それらを三食とも食べようとは思わない。

米価の高騰に対抗するために一日一膳として、米飯は朝食だけにしてきて、昼食は麺類が多く、夕食は晩酌をするのでなるべく豚まんなどで済ますようにしている。

世間も私のような米離れが進んできたようで、ようやく米価も下がり始めた。

しかし、これを単に喜んではいられない。

米農家は大規模以外では利益を上げるのが難しいのに、これから採算割れして離農していくだろう。

原因の多くは米農家にあるのでは無くて、政府とJA、米取引業者にあることは確かだろう。

しかし、日本の果樹農家が美味しさで力をつけたように、安全で美味しくしたブランド米を作る努力をしていない原因もあるだろう。

また、逆に徹底的にコスト削減によって安くした米を作る努力もあまりなされていないよう思う。

従来の機械を多用するやり方を変えるには、直播きなどの農法の転換や、共同したり委託しての大規模化が必要だろう。


その一方で、水田は地域の経済だけで無く、環境を担うものである。

近所でも水田ダムという幟を立てて、水田の持つ貯水力を訴えているところもあるが、気温の上昇を抑えたり、豊かな生物の生息地になっている。

近年では農業体験やボラッティアも増えてきたと思うが、米をお金代わりにして雇ったり、お礼にしても良いと思う。

農村地帯も自分たちが草刈りや溝掃除をしてできたお米を実際に食べることで、その奉仕作業の実感を得ることができるだろう。

歴史的に日本は貨幣から米に転換したことがある。

食糧の確保と環境保全から現物の米をもっと利用すべきだろう。

昔のように地域の石高のような数値で示すのも面白いかもしれない。

因みに東京都の生産高は約3000石で、消費高は530万石という計算になる。

江戸時代は全国総石高3000万石で江戸人口が100万人で幕府が天領に400万石持っていたのと現在を比較してみるのも面白い。




2026年7月3日金曜日

生けるもの同士の命を支えつなぐ匂い

 ビル・S・ハンソン著  『匂いが命を決める―ヒト・昆虫・動植物を誘う嗅覚』 (2023 亜紀書房 2021 DIE NASE VORN Eine Reise in die Welt des Geruchssinns)は、匂いがいかに大切なものか教えてくれる。

著者は次のように訴える


間違いなく言えるのは、わたしたちの嗅覚はけっして取るに足らないものではないということだ。嗅覚は激しい感情を呼び覚まし、記憶を喚起し、病気の診断を助けさえする。匂いを嗅げるからこそ、人は人生や愛の生活を存分に楽しめる[前掲書:77]。


実は父が晩年にアルツハイマー型認知症になり、幻嗅に悩まされたり匂いを失ったりしてしまった。

そのことで父は人と会うことを嫌がったり、食事をすることの楽しみを失ってしまっていた。

誰でも風邪を引いたりすると、匂いを感じなくなった経験があると思うので、いかに食事には匂いが大切かを知っていると思う。

近年ではコロナウィリスに感染して発症して、後遺症として匂いを失ったままでいる人もいるという。

これは生活の楽しみを失うということで深刻な事態だと思う。


匂いは人の感情と深く関係していて、母子関係について次のように述べられている。


いくつかの研究が、赤ん坊は、母乳をあたえられているときに母親の匂いの特徴を学習し、やがてその匂いだけで母親を識別できるようになると結論づけている。母親もまた、自分の赤ん坊をその特別な匂いによって識別している。母親の匂いは赤ん坊にとって非常に大きな意味をもっており、その匂いだけでぐずっている赤ん坊をなだめることができ―そのときお腹が空いていれば乳を飲むよううながすことができる。[前掲書:77]


このことから授乳は免疫や栄養面だけの問題では無くて、母子の愛情を深める重要なことであることがわかる。

たとえ、母乳が出なくても肌と肌の触れ合いで匂いを確かめ合う必要があることが分かる。

以前に特別支援学校で重い自閉症の児童を担当した時に、その生育歴に関して母親が育児を拒んでいたことを思い出した。

これは母子関係だけで無く、父子関係にも重要であり、次のように書かれている。


この研究からわかったのは、一般に男性のほうが幼児と新生児をうまく識別する能力をもっているということだった。男性に、乳幼児の匂いを形容してほしいと言うと、彼らは「ほっとする」とか「落ち着く」、そして「甘い」匂いだと表現する。どれも肯定的な表現で、総じて匂いがもっていると考えられる心を鎮める効果を示す言葉だ[前掲書:57-58]。


私の知り合いに赤ん坊の匂いが好きだから、多くの子どもを奥さんに産んでもらったと言っていた人がいる。

そのことを聞いた時は変わった人だと思ったが、考えてみれば我が子を抱いて安らいだ気持ちになったのはその匂いにも大きな理由があったようだ。

それは次のことが理由だと思われる。


モネル化学感覚研究所のヨーアン・ルンドストレームによると、赤ん坊の頭の匂いは、母親の脳内に報酬回路を作り出す(子どもをもたない女性はその限りではない)。赤ん坊の頭の匂いは、空腹な人が美味しそうな料理を見たときに経験するのとよく似た生理的反応を引き起こす[前掲書:54]。


母親だけで無く匂いに敏感な父親にもそれがあてはまるようだ。


私が村落調査で通った奄美諸島与路島では「乳親(ティオヤ)」という習慣がかつてあった。

それは屋崎氏の報告(屋崎 一 2002   『与路島誌』 (自家版))に詳しく書かれており

 授乳は、予め親戚や隣人等を頼んでおき、生まれたらすぐ駆けつけて来て乳を与え、母乳の出るまで続けた。これを乳親(ティオヤ)と称しその子が大きくなっても親子のように双方とも愛情が生まれ交流を深めていたという。[前掲書:345]


赤ん坊に与える母乳は母親から乳が出るまでの単に栄養だけの問題では無く、子どもの性格や将来にも関わるとしたようだ。

そして、実の親以外にも深い関わりをもち続けることは、現代社会で失われてしまった子育ての意味を考え直させられる。

おそらく、母乳をもらった子どもは、その時に感じた味と匂いを深く心の中に刻み続けているのだろうと思う。

そして、母乳を与えた人だけで無く、その赤ん坊と関わった人がその時の赤ん坊の匂いを同じように心に刻み続けているのだと思う。

私自身、自分の息子や娘を抱いていた時の記憶はその匂いとともに鮮明に憶えている。

赤ん坊の匂いが好きで子どもを多くもうけたのと同じように、祖父母が孫と接したいのは昔の感情を呼び戻したいからだと思う。


最近は子や孫の代わりに犬や猫を飼う人が増えたが、私は子犬の匂いが大好きでいつも子どもの頃は抱いて嗅いでいた。

特にお腹のあたりは、暖かくて良い匂いがした。

近所で仔犬などをもらってくると夜泣きするので、母犬の匂いのした布などをもらってきて仔犬に与えたりすると治まったりした。

匂いは犬も人も大切なもので、小型犬をずっと抱いている人は、ひょっとしたら互いに匂いを感じ合っているのかとも思う。

私の子どもの頃は自分の弟と親密に接することはあったが、よその赤ん坊と接する機会はなかったし、大人になっても我が子以外には殆ど無い。

その代わり子どもの頃は雑種の子犬や猫が捨てられていたりして街で接する機会も多かった。

また、ひよこが学校近くで売ったり、祭りで売るテキ屋がいて、それを買ってくることも多かったがそのひよこの匂いも好きだった。

時にツバメや雀の子も拾ってきたりしたのだが、これらの動物の子ども匂いをよく今でもよく憶えている。

動物の子どもには独特の匂いがあって、決して不快には思わない。

オオカミが人間の赤ん坊を食べずに育てたのも、ひょっとして生きものの赤ん坊が放つ独特な匂いのお陰かもしれない。

ただ、虫の幼虫はアゲハチョウなどのように臭くて触る気がしなかったのは、食べられるのを防ぐためだろう。

こう考えると作られた人工的な香りが満ちあふれて、同じ生きものの持つ大切な匂いが失われることは、全ての生き物の命を失うことに通じるのかもしれない。

自然の中でつながって生きていく感覚こそ匂いなのだと思う。








2026年7月1日水曜日

草刈り恐竜クサノザウルスの進化と今後の期待

 前々から欲しくて検討していた自動走行の草刈り機を購入することにした。

「PLOW クサノザウルス 草刈り機 WGC530プラス HONDAエンジン搭載」を通販で予約購入してしばらくして配達されてきて組み立てた。

この草刈り恐竜は、今までの草刈りの常識を一変させてしまった。

とにかく、速い、しかも刈り丈がそろって綺麗に刈れる。

今までの肩掛けや背負いの草刈り機の進む速さとは格段に違うので、一番遅くして今回は刈ったが、慣れてきたらスピードを上げることができるだろう。


ただ、使用には気をつけねばならない点もそれなりにある。

まず、エンジン始動と停止に始動バーを必ず用い、本体を動かす走行バーとは別についている。

自動チョーク式で便利だが、始動バーを握ってないとエンジンはかからないくて、片手だけで行うヒモを引っ張る始動グリップは少し力が要る。

このエンジンを止めないために始動バーはずっと握り続けていなくてはならない点は、これまでの管理機などの機械と大きく違う。

これは急停止させるのには便利なのだが、方向転換をする時にはじめはうっかりと始動バーを離してしまって停止させてしまっていた。

今まで30分ほどかかっていた広さを数分ほどで刈ってしまう。

ただ、溝端や急斜面、狭い畝などでは使えないので、肩掛けの充電草刈り機でやるしかない。

気をつけておかねばならないのは、この草刈り機は平地を想定しており、斜面では使わないようにと注意がある。

ネットで買う前の質問では大丈夫と答えられていたので安心していたのだが、斜度20度を超えたところでは使えないのを後で説明書で知った。

この時は緩い法面で短時間使ったのだが、これからは気をつけないと、エンジンオイルの関係でエンジンが焼け付いてしまうそうだ。

ここが従来の値段の高い自走式草刈り機と大きく違うところで、田んぼの急な角度の畝刈には使うことができないようだ。

とにかく、私が使おうとしているのは平地が中心なので、幸いにもそのことは大きな問題にはならない。


私はなるべく自然農法に近づけようとしているので、まずは除草剤は農地や自宅では厳禁としている。

しかし、空き家となった赤穂の実家では、近所迷惑も考えて駐車場や、庭の一部で除草剤を用いている。

理由は、小石の砂利を敷いているので、草刈り機での作業は難しいことと、庭に生えたイタドリは何度刈っても繁茂するからである。

一番厄介なのは、赤穂の実家の畑で、こちらの畑に手を取られて手が回らなくて、セイタカアワダチソウが蔓延ってしまっている。

こちらは、背負いのエンジン草刈り機で先日刈り倒してきたが、疲れてへとへとになった。

今回、10万円近くの高い費用を費やして、クサノザウルスを購入したのは、その赤穂の畑での負担を減らすためだった。

こちらの畑は農地用の除草剤を使う事も考えたが、防草シートを敷くことにしてネットで注文して買っておいた。

しかし、このところの食料品の値上がりを受けて、来年から作物を作って活用することに変更した。

考えているのはあまり手がかからないもので、夏場はモリンガや、サツマイモ、カボチャ、冬場は麦類、ジャガイモである。

とにかく、まともに作物が作れるように除草しなくてはいけないが、普通の草刈り機では労力もかなりいるし、刈った後の草の始末が大変だ。

昔のように燃やすわけに行かないし、埋めてしまうのも大仕事になる。

その点でいえば草を粉砕してくれるクサノザウルスは優れものである。


村でも自動走行の草刈り機を持っていて使っている人もいる。

しかし、田んぼの畦の一部に使うだけで、村作業には持ってこない。

理由は簡単で燃費が悪いし、村から支給されるのはガソリンの混合油なのでその機械には使えないのだ。

クラッチ操作を誤ると故障をしたりするのでメンテナンスも大変だという。

何よりも価格がクサノザウルスの二倍ほどしていて、耐久性もそうなくて、今使っている機械は3台目だという。

そのことを聞いていたので、クサノザウルスの評判をネットで見聞きして、迷わず購入を決めた。

しばらく使ってみて燃費がそれほど悪くないのなら、村作業にも平地に限って使おうかと思っている。

村の多くの人が使うようになれば、もっと草刈り作業は楽になると思う。


自然農法を志す者としては、ガソリンエンジンを用いるのは心苦しいのだが、酷暑の中で自分の身体を守るためである。

マキタの充電式の農機具も40Vまでパワーアップしてきており、いずれ自動走行の大型の機械も電動化されると思う。

今出回っているエンジン式の大型リモコン草刈り機は、価格が高すぎて一般の家では手が出ない。

これからはガソリンを食うクサノザウルスから進化して、電気で動く手軽な草刈りドローンがいずれ誕生してくれるのを心待ちにしている。