私の父親は赤穂の鳥撫(鷆和の一集落)出身で、親戚がそこには多い。父親は転職して会社勤めになり、住居もそこから遠く尾崎になった。
父親の兄弟は鳥撫に二人、妹が嫁いで加里屋にいる。ただ一人だけ遠く名古屋に叔父家族が住んでいる。
今回、その叔父が糖尿病が災いして足を切断せねばならなくなった。精神的に本人やその連れ合いの叔母も参ってしまい、赤穂の兄弟などを頼った。
そこで、親戚が手術前に出かけていって励ましてきたが、その時に都合が悪くて行けなかった私の方の妻子と母親、名古屋に住む弟が手術後に見舞いに行った。
叔父は遠くやって来てくれた親戚に励まされたのか、元気にリハビリに努めている。私たちには悲観した様子は見せなかった。
もともと私は鳥撫に生まれだったが、尾崎に引っ越した後も盆正月以外に、従兄弟や叔母のいる鳥撫の本家にはよく泊まりに行った。
小さい頃は、盆正月に鳥撫の本家に父親の兄弟姉妹が集まって賑やかにするのが、何よりも楽しみだった。
それが、中学生頃からどんどん足が遠のいていった。大人と子どもを区別する食事で、子ども扱いされるのがどうも嫌になったからだ。
成人すると葬式や法事以外の付き合いは殆ど無くなった。
今回名古屋まで叔父を見舞いに行ったのは、父親が亡くなって母親を連れて行かねばならなかったこともあるが、私自身が叔父に世話になったことからである。
都会に親戚があまりない私が大学に進む時に、名古屋の大学を選んだのは叔父がいたからである。進学してしばらくは叔父の借りているアパートを間借りして、近くの叔母のする喫茶店で食事をさせて貰った。
別のアパートに下宿してからは、叔父家族とは疎遠になり、東京の大学院に進学してからは殆ど名古屋の叔父を訪ねることはなかった。
それでも、私は叔父を頼って関わりを持った方で、もう一人の鳥撫の叔父の息子は、同じ名古屋の大学に進学しながら、一度も訪ねることはなかった。
私の弟も4年前に名古屋に単身赴任しながら、一度も訪ねていないと言うことなので、見舞いが良い機会として訪ねることになった。
どちらかというと、田舎育ちで社交下手の叔父は、家と職場を往復するまじめなサラリーマンで、趣味もゴルフ程度だった。
故郷の赤穂には元気な頃には毎年盆と正月には必ず帰省して、以前は退職後は赤穂に戻りたいと言っていた。
叔母は東京や名古屋の都会育ちだったし、子どもも名古屋で仕事して、家庭を築いていたので、叔父だけが赤穂に戻るということはできなかった。
肉親と呼べる人は家族以外に近くにいなくて、赤穂に年に戻ってくるのが楽しみだったが、退職後は患った糖尿病が元で透析を3日に一度する必要があり、赤穂に長くは滞在できなくなった。
子どもが独立して二人暮らしになった叔父夫婦だが、子どもは叔父夫婦をよく見舞っている。特に看護師をしている娘はそうである。それでも、遠く赤穂の親戚を頼ったのは、叔父には何よりも赤穂の「肉親の情」が必要だったのだろう。
私の父親は名古屋の叔父が赤穂に戻りたいといった時に、現実は難しいと言って突き放した言い方をしていた。確かに現実はそうだった。
それでも、無理して赤穂に戻ってきていたら、これほど糖尿病はひどくなっていなかったようにも思う。
赤穂市に住む叔父の兄弟は盆正月や法事以外は、それ程飲食を共にしなかったが、畠仕事を共通に持っていていた。それぞれが競い合って、薩摩芋やら野菜を作って互いに自慢し合って、配り合っていた。
同じ糖尿病の鳥撫の叔父は、毎朝鳥撫から大津まで往復10km近くを歩いて糖尿病を克服している。
そういう健康的な生活をしていたら、これほど重篤な状況には陥らなかったように思う。
私にも神奈川県の都会に住む弟がいる。私は家を建てる土地もあるから戻ってきたらと奨める。
関東の地震が心配なこともあるし、病気をよくしていて、現在も難病を患っていながら、仕事を頑張っている。
弟の連れ合いが地元育ちと言うこともあるし、仕事のない赤穂に本人は絶対戻らないという。父親の葬式や法事以外には、盆正月でさえ戻ってこない。
弟はどんなに重篤な状況になっても、こちらの親兄弟を頼らなかった。これからもそうだろう。
エリートコースを進む弟は、保険や蓄えがあるので、病気や老後の心配は無いという気があるようだ。
父親の世代は高い教育も受けさせて貰えなかったが、支え合って家業をやったり、別の職についても互いに関係を持ち続けた。
我々の世代は高い教育を受けさせて貰い、安定な職に就きながら、ばらばらの生活を送っている。地元に戻った私ら兄弟(男4人兄弟もうちの二人)の間とてもそうである。
無縁化社会は都会に限ったことではない。田舎に住んでいても、関わりを絶ってしまった親子や親戚の話はよくある。
どちらかというと、煩わしいと思った親戚関係も、年老いた親の兄弟の支え合う姿を見ると、もう一度見なおす必要を感じるようになった。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2012年6月4日月曜日
2012年6月2日土曜日
蛍の舞う川
私の住む村を流れる高田川には蛍がたくさんいて、今その真っ盛りである。
上郡でももっと山沿いの鞍居川では、源氏蛍がいて乱舞する姿がすばらしいという。
こちらは平家蛍で小ぶりではあるが、蘆の中で優しく光る姿には心が和む。
赤穂の塩田地帯に育った私には、引っ越してきて初めて味わう幻想的な景色であった。
毎年、この季節には一度は見に行くのであるが、たいていは一人でぶらりと出てみる。
自分の子どもが小さい頃は、見に連れてくると喜び、夏の風物詩を楽しんだ。
今は、今年もいることを確かめに行くのであり、風情を楽しむというわけでもない。
実はこの近くの川は、この冬場に河川改修をしていた。
ユンボーで河床を均していったので、蛍はいなくなると思った。
案の定、改修した箇所には蛍は殆どいなくなっていた。
幸いなことに、一部の区間だけだったので、残された所は却って多くいるように感じた。
このところ、千種川流域では水害が多く、本流では大規模に河川工事をしている。
2004年(平成16)の台風21号による水害では、この高田川も本流に合流する付近で浸水があった。
2009年(平成21)は台風9号による水害が、上流の佐用町を中心に広がったのはよく知られている。
50年に一度の水害と2004年の時は言われたが、地域は違うが、その5年後にはそれを上回る水害となった。
私の育った赤穂でも1974年(昭和49)に大水害に見まわれたが、赤穂の有年地区はそれから30年後の2004年の台風21号による大被害を受けた。
50年に一度の水害が50年も経たないうちに起こる。
「その水害は100年に一度というのか」と冗談にもならぬことを家内と言い合ったりする。
これだけ水害が多いと、河床を浚って備えねばならないことはよく分かる。
毎年、冬場には枯れた蘆を焼いて、ゴミもついでに燃やして綺麗にするが、土までは浚わない。
もともとは扇状地で氾濫するのは当たり前だったのだろうが、今は氾濫させるわけにはいかない。
予算が無くて、全面的に河川改修できなかったことが幸いして、蛍は残ったが、できれば今後は場所をとびとびに改修して欲しい。
高齢化で村の溝掃除も苦労するようになった今、自然を守る力を維持するのも難しくなっている。
台風で倒された木を放置して山は荒れ、ますます山肌は削られ、そしてその土が川に流れ込む。
里山や村の藪や河原は、本来手を加えて管理して維持するものである。
管理できなくなった竹林や大木は根こそぎ切られ、美しくさえずる鳥は来なくなった。
せめて、子どもや孫に蛍を見せてやれるように、知人に蛍を見においでと言えるように川を守りたい。
不便な田舎を大きくアピールできるのは、華やかな花火ではなくて、仄かで優しい蛍の瞬きなのだから。
上郡でももっと山沿いの鞍居川では、源氏蛍がいて乱舞する姿がすばらしいという。
こちらは平家蛍で小ぶりではあるが、蘆の中で優しく光る姿には心が和む。
赤穂の塩田地帯に育った私には、引っ越してきて初めて味わう幻想的な景色であった。
毎年、この季節には一度は見に行くのであるが、たいていは一人でぶらりと出てみる。
自分の子どもが小さい頃は、見に連れてくると喜び、夏の風物詩を楽しんだ。
今は、今年もいることを確かめに行くのであり、風情を楽しむというわけでもない。
実はこの近くの川は、この冬場に河川改修をしていた。
ユンボーで河床を均していったので、蛍はいなくなると思った。
案の定、改修した箇所には蛍は殆どいなくなっていた。
幸いなことに、一部の区間だけだったので、残された所は却って多くいるように感じた。
このところ、千種川流域では水害が多く、本流では大規模に河川工事をしている。
2004年(平成16)の台風21号による水害では、この高田川も本流に合流する付近で浸水があった。
2009年(平成21)は台風9号による水害が、上流の佐用町を中心に広がったのはよく知られている。
50年に一度の水害と2004年の時は言われたが、地域は違うが、その5年後にはそれを上回る水害となった。
私の育った赤穂でも1974年(昭和49)に大水害に見まわれたが、赤穂の有年地区はそれから30年後の2004年の台風21号による大被害を受けた。
50年に一度の水害が50年も経たないうちに起こる。
「その水害は100年に一度というのか」と冗談にもならぬことを家内と言い合ったりする。
これだけ水害が多いと、河床を浚って備えねばならないことはよく分かる。
毎年、冬場には枯れた蘆を焼いて、ゴミもついでに燃やして綺麗にするが、土までは浚わない。
もともとは扇状地で氾濫するのは当たり前だったのだろうが、今は氾濫させるわけにはいかない。
予算が無くて、全面的に河川改修できなかったことが幸いして、蛍は残ったが、できれば今後は場所をとびとびに改修して欲しい。
高齢化で村の溝掃除も苦労するようになった今、自然を守る力を維持するのも難しくなっている。
台風で倒された木を放置して山は荒れ、ますます山肌は削られ、そしてその土が川に流れ込む。
里山や村の藪や河原は、本来手を加えて管理して維持するものである。
管理できなくなった竹林や大木は根こそぎ切られ、美しくさえずる鳥は来なくなった。
せめて、子どもや孫に蛍を見せてやれるように、知人に蛍を見においでと言えるように川を守りたい。
不便な田舎を大きくアピールできるのは、華やかな花火ではなくて、仄かで優しい蛍の瞬きなのだから。
2012年5月31日木曜日
親父の残してくれたニンニク
今、私が作っている作物の中で、唯一自家製の種(鱗片)を用いているのがニンニクである。
これは父親から受け継いだもので、市販されているニンニクよりも数倍臭いがきつい。
というのも、学校の調理実習で持って行ったら、うちのニンニクを使うと、手に付いた臭いが三日落ちないと、苦情を若い人から言われたことがある。
それはちょっと大袈裟だと思うが、市販のニンニクは臭いが少なく、大玉になっている。
特に中国産などはその傾向が強く、値段も安い。
だから、自分や家内の実家を除いて、他の人にあげることは殆ど無い。
そもそも父親がニンニクを作り始めたのは、自分たち兄弟の健康のためだった。
始めはクコの葉や実を採ってきたり、栽培した。臭いのきつい豆乳も飲まされたりした。
自分は今でこそ身体は強い方だが、小さい頃は気管支炎を起こして直ぐに熱を出した。
弟たちも胃腸が弱かったりした。そこで、親は色々と健康に良いものを探して、ニンニクを作り始めたようだ。最初は小さいものしかできず、大した物がとれなかったという。
ところが、私の憶えている限り、父親の作るニンニクは、非常に大きい。
父親は薩摩芋を作ることと、ニンニクを作ることが得意であった。
私もニンニクを作ろうと、借りている畑で作ってみたが、小さい物しかできない。
ところが、父親が調子を崩してから、赤穂の唐船の近くにある実家の畑で自分が作り出したが、父親と同じ様な大きいニンニクができる。
父親は極端に畑に金を掛けるのを嫌がって、あまり買った肥料を使わず、古くは下肥を、近年では薩摩芋の蔓を埋め込んだりしていた。
私は買ってきた菜種油滓、鶏糞、有機石灰を基本として、堆肥を畑の枇杷の木の根元で作って与えており、父親とはやり方が違う。ということは、肥料の差で大きさが違うということではない。
今年は実家の畑だけでなく、上郡の家の裏で借りた水田転用の畑でも植えた。
それは、あまりにも里芋がセスジスズメにやられたからである。
ニンニクは唐辛子や酢と混ぜて、害虫の忌避剤にもしていたし、赤穂の畑は比較的虫の被害が少ないのはニンニクのお陰ではないかと思ったからである。
ところが、赤穂の畑は分けつした芽も取らずに放っておき、一方で上郡の畑では脇芽も取ったり、肥料も多めにやったのにも関わらず、断然赤穂の方が大きいニンニクができた。
赤穂が砂地、上郡が粘土質という土質の違いもあるし、赤穂は海のそばでマグネシウムなどの成分が良いのかも知れない。
確かに、赤穂では隣の畑もニンニクを作っていて、品種も違うこともあって大きいのができている。
ただ、その市販で買った種を用いたニンニクは病気に弱いらしく、自分の家の畑は良いできであった年に、隣では枯らしてしまっていた。
家内の実家はあげた種で作っているが、うまくいったと言うことを聞いたことがない。やはり、父親が残したニンニクは、長年種として残してきたことと、畑がニンニクにあった土壌になったことが幸いしているのだろうと思う。
上郡の畑は、水田の転用地なのでどうしても水はけが悪く、あまりニンニクには合っていないかもしれないが、何年も作り続ける内に、土壌も変化して、ニンニクに適してくるかも知れない。残念ながら借地なのでいつまで続けられるか分からないが・・・
癌の予防に良いと言って母親も、作ってあげると喜んでくれる。
私が食べ過ぎてニンニク臭いと家内は嫌がるのだが、調子が悪い時や、疲労が溜まったり、頑張る必要があるときにはニンニクに頼っている。
親父の残してくれたニンニクは自分にとって宝物である。
そのうち見なおされて、出荷したら売れるようになるかも知れない。
その日が来るまで、赤穂の畑とニンニクの種は守り通さなくてはいけない。
それがちょっとした、親父への供養だと思っている。ちょっと臭い浪花節になってしまった・・・。
これは父親から受け継いだもので、市販されているニンニクよりも数倍臭いがきつい。
というのも、学校の調理実習で持って行ったら、うちのニンニクを使うと、手に付いた臭いが三日落ちないと、苦情を若い人から言われたことがある。
それはちょっと大袈裟だと思うが、市販のニンニクは臭いが少なく、大玉になっている。
特に中国産などはその傾向が強く、値段も安い。
だから、自分や家内の実家を除いて、他の人にあげることは殆ど無い。
そもそも父親がニンニクを作り始めたのは、自分たち兄弟の健康のためだった。
始めはクコの葉や実を採ってきたり、栽培した。臭いのきつい豆乳も飲まされたりした。
自分は今でこそ身体は強い方だが、小さい頃は気管支炎を起こして直ぐに熱を出した。
弟たちも胃腸が弱かったりした。そこで、親は色々と健康に良いものを探して、ニンニクを作り始めたようだ。最初は小さいものしかできず、大した物がとれなかったという。
ところが、私の憶えている限り、父親の作るニンニクは、非常に大きい。
父親は薩摩芋を作ることと、ニンニクを作ることが得意であった。
私もニンニクを作ろうと、借りている畑で作ってみたが、小さい物しかできない。
ところが、父親が調子を崩してから、赤穂の唐船の近くにある実家の畑で自分が作り出したが、父親と同じ様な大きいニンニクができる。
父親は極端に畑に金を掛けるのを嫌がって、あまり買った肥料を使わず、古くは下肥を、近年では薩摩芋の蔓を埋め込んだりしていた。
私は買ってきた菜種油滓、鶏糞、有機石灰を基本として、堆肥を畑の枇杷の木の根元で作って与えており、父親とはやり方が違う。ということは、肥料の差で大きさが違うということではない。
今年は実家の畑だけでなく、上郡の家の裏で借りた水田転用の畑でも植えた。
それは、あまりにも里芋がセスジスズメにやられたからである。
ニンニクは唐辛子や酢と混ぜて、害虫の忌避剤にもしていたし、赤穂の畑は比較的虫の被害が少ないのはニンニクのお陰ではないかと思ったからである。
ところが、赤穂の畑は分けつした芽も取らずに放っておき、一方で上郡の畑では脇芽も取ったり、肥料も多めにやったのにも関わらず、断然赤穂の方が大きいニンニクができた。
赤穂が砂地、上郡が粘土質という土質の違いもあるし、赤穂は海のそばでマグネシウムなどの成分が良いのかも知れない。
確かに、赤穂では隣の畑もニンニクを作っていて、品種も違うこともあって大きいのができている。
ただ、その市販で買った種を用いたニンニクは病気に弱いらしく、自分の家の畑は良いできであった年に、隣では枯らしてしまっていた。
家内の実家はあげた種で作っているが、うまくいったと言うことを聞いたことがない。やはり、父親が残したニンニクは、長年種として残してきたことと、畑がニンニクにあった土壌になったことが幸いしているのだろうと思う。
上郡の畑は、水田の転用地なのでどうしても水はけが悪く、あまりニンニクには合っていないかもしれないが、何年も作り続ける内に、土壌も変化して、ニンニクに適してくるかも知れない。残念ながら借地なのでいつまで続けられるか分からないが・・・
癌の予防に良いと言って母親も、作ってあげると喜んでくれる。
私が食べ過ぎてニンニク臭いと家内は嫌がるのだが、調子が悪い時や、疲労が溜まったり、頑張る必要があるときにはニンニクに頼っている。
親父の残してくれたニンニクは自分にとって宝物である。
そのうち見なおされて、出荷したら売れるようになるかも知れない。
その日が来るまで、赤穂の畑とニンニクの種は守り通さなくてはいけない。
それがちょっとした、親父への供養だと思っている。ちょっと臭い浪花節になってしまった・・・。
ペーロン花火
行くつもりの無かったペーロンの花火大会に行くことになった。理由は留守番である。
家内の実家が相生にあるが、用事があって家を空けなければならない。
花火の日は留守が多いので空き巣にやられるという。家の前に車があって電気が点いていれば大丈夫だろうと言うことで、とりあえず行って花火を見ることにした。
家内の実家から港までは少し距離があるが、打ち上げる音を聞いてから歩いていって充分間に合う。渋滞する車をよそに、家族と花火を見ながら港まで行く。
子供の小さかった頃は、歩道には歩いて港に向かう人がいっぱいいたのに、若い人夫婦の連れが少しいただけ、釣具屋の前の歩道橋あたりで、やっと見物客に出会った。
それでも、本町商店街の前の交差点では、通行止めにした道を右折させるために、警察官や警備が沢山立っており、そこからは大勢の見物客がひしめいていた。
本町商店街の方に目を転じると、シャッターが下ろされて閑散としている。いくら花火がみられないとはいえ、以前はこの通りにも人が溢れていた。
出店の数も少なくなっていて、やっと播磨病院あたりになって昔の賑わいを感じた。そこからは、いつも見物する市役所の前まで行くのが大変で、たどり着いても多くの人がロータリーの道路に座って見物している。
高い駐車場ができた関係で、見通しは良くないのだが、市役所の植え込みの段に腰を掛けて、見物することにした。腹に応える懐かしい「ドン」という音。
音に驚いて泣いている赤ん坊。街は寂れていくが、花火は昔よりも数倍賑やかに夜空を彩っていた。
ただ、賑やかだけではなく、スイカを象ったものやら、顔らしきものやら工夫がなされていた。怖がる子供をよそに、花火は老若男女楽しめる。
特に若い男女や子連れの家族にとっては、想い出作りの良い機会である。私らのような熟年夫婦にとっても、昔のことを話題にしながら楽しめる良い機会である。
帰りの渋滞が心配なので、後ろ髪を引かれる思いで帰路に就く。これは以前からそうなのだが、何度も何度も花火を振り返りつつ、時に名残惜しんで立ち止まったりして、また、人通りの無くなった家内の実家に戻った。
花火は見ているときは楽しいのだが、終わってしまうと、いつもうら哀しい気持に襲われる。来年まで見ることができないというだけではなくて、儚さの最たるものだから、行く時の流れを投影してしまうのだろう。
幼い時に見た自分、学生の頃の自分、幼い子供と見た自分、そして今の自分。花火の姿はどんどん変わり、それを見る人の様相も変わり、そして、何より街が変わった。
それでも、花火を見てその幻想的な時間を過ごしたいという気持は変わらない。
毎日巨額の費用を掛けて楽しませてくれるディズニーランドとは違って、一年に一度だけの精一杯の時間を超えた「夢と奇蹟の世界」は掛け替えのないものに感じる。
震災の影響で中止された去年の分まで、楽しませてくれた花火を、誰もが讃えた。
子ども達は絵に残していくだろうし、実際に絵に描かない多くの人でも、カメラやビデオ以上に美しい花火を心に描くことができたと思う。
家内の実家が相生にあるが、用事があって家を空けなければならない。
花火の日は留守が多いので空き巣にやられるという。家の前に車があって電気が点いていれば大丈夫だろうと言うことで、とりあえず行って花火を見ることにした。
家内の実家から港までは少し距離があるが、打ち上げる音を聞いてから歩いていって充分間に合う。渋滞する車をよそに、家族と花火を見ながら港まで行く。
子供の小さかった頃は、歩道には歩いて港に向かう人がいっぱいいたのに、若い人夫婦の連れが少しいただけ、釣具屋の前の歩道橋あたりで、やっと見物客に出会った。
それでも、本町商店街の前の交差点では、通行止めにした道を右折させるために、警察官や警備が沢山立っており、そこからは大勢の見物客がひしめいていた。
本町商店街の方に目を転じると、シャッターが下ろされて閑散としている。いくら花火がみられないとはいえ、以前はこの通りにも人が溢れていた。
出店の数も少なくなっていて、やっと播磨病院あたりになって昔の賑わいを感じた。そこからは、いつも見物する市役所の前まで行くのが大変で、たどり着いても多くの人がロータリーの道路に座って見物している。
高い駐車場ができた関係で、見通しは良くないのだが、市役所の植え込みの段に腰を掛けて、見物することにした。腹に応える懐かしい「ドン」という音。
音に驚いて泣いている赤ん坊。街は寂れていくが、花火は昔よりも数倍賑やかに夜空を彩っていた。
ただ、賑やかだけではなく、スイカを象ったものやら、顔らしきものやら工夫がなされていた。怖がる子供をよそに、花火は老若男女楽しめる。
特に若い男女や子連れの家族にとっては、想い出作りの良い機会である。私らのような熟年夫婦にとっても、昔のことを話題にしながら楽しめる良い機会である。
帰りの渋滞が心配なので、後ろ髪を引かれる思いで帰路に就く。これは以前からそうなのだが、何度も何度も花火を振り返りつつ、時に名残惜しんで立ち止まったりして、また、人通りの無くなった家内の実家に戻った。
花火は見ているときは楽しいのだが、終わってしまうと、いつもうら哀しい気持に襲われる。来年まで見ることができないというだけではなくて、儚さの最たるものだから、行く時の流れを投影してしまうのだろう。
幼い時に見た自分、学生の頃の自分、幼い子供と見た自分、そして今の自分。花火の姿はどんどん変わり、それを見る人の様相も変わり、そして、何より街が変わった。
それでも、花火を見てその幻想的な時間を過ごしたいという気持は変わらない。
毎日巨額の費用を掛けて楽しませてくれるディズニーランドとは違って、一年に一度だけの精一杯の時間を超えた「夢と奇蹟の世界」は掛け替えのないものに感じる。
震災の影響で中止された去年の分まで、楽しませてくれた花火を、誰もが讃えた。
子ども達は絵に残していくだろうし、実際に絵に描かない多くの人でも、カメラやビデオ以上に美しい花火を心に描くことができたと思う。
2012年5月30日水曜日
久々の東京(修学旅行)
この5月27日(日)から29日(火)まで修学旅行で生徒を引率をして東京まで行ってきた。
東京は2007年に行って以来であるが、今回のように上野・浅草やディズニーランドへは1997年に家族で行って以来である。横浜の中華街や山下公園はもっと古い。
私の通った大学院は東京にあったので、東京都の中野区中野(1985年)、新宿区西落合(1986年)、横浜市の長津田(1987年)に住んだことがある。
特に私は院生と言っても、半分は主に家庭教師などののアルバイトで明け暮れていたので、方々に行く機会が多かった。
しかも、毎年引っ越しをしてその界隈のことは詳しい。2007年は自分が教えていた学年が修学旅行でその期間の授業が無くなったので、年休をとって住んでいた界隈を訪問した。
住んでいた地域はどちらかというと、開発から取り残された地域であまり変貌は無かったが、今回行った上野・浅草はスカイツリーの影響という面で、ディズニーランド、横浜の山下公園付近はは湾岸開発という面で大きく様変わりしていた。
以前は東京で高くて目立つ存在は新宿副都心の高層ビルという風に思っていたが、スカイツリーの存在はそれを変えてしまった。
浅草は特に近くにあって、浅草寺の境内でもそれをバックに記念写真を撮ったりした。
日曜ということもあったが、仲見世通りは人通りで溢れかえり、ここでこれだけ人手が多い経験は、東京在住していたときに行った三社祭以来である。
バスガイドさんも観光の人の流れが変わってしまったので、現在分析中だという。どちらかというと一歩裏に入るといかがわしい感じのした浅草が、国際的な観光地に変わりつつあった。
少し立ち寄ったお台場のフジテレビ付近は、ウォーターフロントと呼ばれる以前しか知らなかったので、まさしく初めての経験である。
私はそこから少し離れるが、家庭教師をした生徒が大田区にいた関係で、その生徒と海岸に魚釣りに行ったことが何度かあって、喧噪な都心から離れた隠れた憩いの場所という感じだった。
また、奄美に調査に行くときは晴海埠頭からフェリーに乗ったので、その近辺はバスで何度か通っていたが、そこは殺風景なゴミの島というイメージしかなかった。
この臨海副都心こそ今の東京を代表しているのだという感じがした。新宿副都心しか知らなかった私はまさしく過去の人であった。
ディスニーランドはたまたま近隣の学校が日曜に運動会が開かれて、その代休ということで、月曜であるにも関わらず超満員状態であった。
「夢と魔法の国」はまさしく現実から別世界に案内してくれたのだが、自分の子どもを喜ばせようと来たときと違って、作られたアニメーションの世界は手が込んで、すばらしい演出にも関わらず、何時間も並んで味わうに値するものとは思えない。
確かに夜のパレードなどは華やかで、その雰囲気に我を忘れるほどであるし、日中もあちらこちらで生演奏をして楽しませてくれている。
でも、出発前夜に見た相生のペーロン前夜祭の花火大会の方が、同じ一瞬の別世界体験でありながら、時間を超えた記憶と感情を呼び起こしてくれた。
自分には小さいときにディズニーランドで楽しんだ経験がないからか知れない。
ただ、小さいの時にテレビで見たウォールト・ディズニーの世界の方が、雄大な自然とのふれ合いや、アニメの愉快さが有ったように思う。
その番組は楽しみで欠かさず見ていた。それに対して、最新技術の3Dやロボット仕掛けの人形での演出が手が込めば手が込むほど、却ってその作為的な部分だけが目に付くようになり、孫のができれば連れてきたいとは思うが、自分が楽しむために来たいとは思わない。
歳のせいなのかもしれない。
むしろ、今回行った中で山下公園の氷川丸は過去の世界を臭いと共に再現してくれた。調査でフェリーに乗る経験の多かったので、この船が大海原を進んでいく様子が想像できる。
操舵室の古めいた羅針盤や、通信室のモールス無線機など、映画でしか見たことのない物に触ってみると、本物でしか味わえない想像を得られる。
昔、デートで来た時には素通りした氷川丸は、今も修学旅行の生徒とご老人にしか人気がないようだ。
一般が200円、障害者は無料のこの船は、高額なディズニーランドとは違った想像豊かな世界に連れて行ってくれた。
また、中華街の食事は、料金の高くてまずいホテルのバイキングよりも数倍美味しくて、お腹が一杯になった。
東京での3日間は、変わりゆく世界と変わらない世界を目の前にして、どう本物を見極めていくかを考えさせられる良い機会になった。
修学旅行は仕事として精神的も肉体的にも厳しいものではあるが、生徒だけではなく教師にも勉強になる機会でもあるように思える。
それは体験によって作為的に得ようというのではなく、楽しみながら自然に味わえる現実と想像の世界でもある。
できればもっと費用を安くして、ゆっくりと体験できればもっと良いものになるような気がするが・・・
東京は2007年に行って以来であるが、今回のように上野・浅草やディズニーランドへは1997年に家族で行って以来である。横浜の中華街や山下公園はもっと古い。
私の通った大学院は東京にあったので、東京都の中野区中野(1985年)、新宿区西落合(1986年)、横浜市の長津田(1987年)に住んだことがある。
特に私は院生と言っても、半分は主に家庭教師などののアルバイトで明け暮れていたので、方々に行く機会が多かった。
しかも、毎年引っ越しをしてその界隈のことは詳しい。2007年は自分が教えていた学年が修学旅行でその期間の授業が無くなったので、年休をとって住んでいた界隈を訪問した。
住んでいた地域はどちらかというと、開発から取り残された地域であまり変貌は無かったが、今回行った上野・浅草はスカイツリーの影響という面で、ディズニーランド、横浜の山下公園付近はは湾岸開発という面で大きく様変わりしていた。
以前は東京で高くて目立つ存在は新宿副都心の高層ビルという風に思っていたが、スカイツリーの存在はそれを変えてしまった。
浅草は特に近くにあって、浅草寺の境内でもそれをバックに記念写真を撮ったりした。
日曜ということもあったが、仲見世通りは人通りで溢れかえり、ここでこれだけ人手が多い経験は、東京在住していたときに行った三社祭以来である。
バスガイドさんも観光の人の流れが変わってしまったので、現在分析中だという。どちらかというと一歩裏に入るといかがわしい感じのした浅草が、国際的な観光地に変わりつつあった。
少し立ち寄ったお台場のフジテレビ付近は、ウォーターフロントと呼ばれる以前しか知らなかったので、まさしく初めての経験である。
私はそこから少し離れるが、家庭教師をした生徒が大田区にいた関係で、その生徒と海岸に魚釣りに行ったことが何度かあって、喧噪な都心から離れた隠れた憩いの場所という感じだった。
また、奄美に調査に行くときは晴海埠頭からフェリーに乗ったので、その近辺はバスで何度か通っていたが、そこは殺風景なゴミの島というイメージしかなかった。
この臨海副都心こそ今の東京を代表しているのだという感じがした。新宿副都心しか知らなかった私はまさしく過去の人であった。
ディスニーランドはたまたま近隣の学校が日曜に運動会が開かれて、その代休ということで、月曜であるにも関わらず超満員状態であった。
「夢と魔法の国」はまさしく現実から別世界に案内してくれたのだが、自分の子どもを喜ばせようと来たときと違って、作られたアニメーションの世界は手が込んで、すばらしい演出にも関わらず、何時間も並んで味わうに値するものとは思えない。
確かに夜のパレードなどは華やかで、その雰囲気に我を忘れるほどであるし、日中もあちらこちらで生演奏をして楽しませてくれている。
でも、出発前夜に見た相生のペーロン前夜祭の花火大会の方が、同じ一瞬の別世界体験でありながら、時間を超えた記憶と感情を呼び起こしてくれた。
自分には小さいときにディズニーランドで楽しんだ経験がないからか知れない。
ただ、小さいの時にテレビで見たウォールト・ディズニーの世界の方が、雄大な自然とのふれ合いや、アニメの愉快さが有ったように思う。
その番組は楽しみで欠かさず見ていた。それに対して、最新技術の3Dやロボット仕掛けの人形での演出が手が込めば手が込むほど、却ってその作為的な部分だけが目に付くようになり、孫のができれば連れてきたいとは思うが、自分が楽しむために来たいとは思わない。
歳のせいなのかもしれない。
むしろ、今回行った中で山下公園の氷川丸は過去の世界を臭いと共に再現してくれた。調査でフェリーに乗る経験の多かったので、この船が大海原を進んでいく様子が想像できる。
操舵室の古めいた羅針盤や、通信室のモールス無線機など、映画でしか見たことのない物に触ってみると、本物でしか味わえない想像を得られる。
昔、デートで来た時には素通りした氷川丸は、今も修学旅行の生徒とご老人にしか人気がないようだ。
一般が200円、障害者は無料のこの船は、高額なディズニーランドとは違った想像豊かな世界に連れて行ってくれた。
また、中華街の食事は、料金の高くてまずいホテルのバイキングよりも数倍美味しくて、お腹が一杯になった。
東京での3日間は、変わりゆく世界と変わらない世界を目の前にして、どう本物を見極めていくかを考えさせられる良い機会になった。
修学旅行は仕事として精神的も肉体的にも厳しいものではあるが、生徒だけではなく教師にも勉強になる機会でもあるように思える。
それは体験によって作為的に得ようというのではなく、楽しみながら自然に味わえる現実と想像の世界でもある。
できればもっと費用を安くして、ゆっくりと体験できればもっと良いものになるような気がするが・・・
2012年5月26日土曜日
夏をつげるペーロン
今年もペーロンがやってくる。去年は東北大震災のため自粛して無かった。
子どもの頃から私にとってペーロンは、舟漕ぎ競争よりも花火である。今でこそあちこちで花火大会は催しされるが、夜空に大輪を咲かせる花火は、この地方では相生のペーロンしかなかった。
自分の母親が相生育ちであり、小学生の頃までは母方の祖母家族が旭町に住んでいた。
そこにはIHI(石川島播磨重工)の社宅があって、棟続きの長屋のような造りであった(因みに私の父はIHIの修理工であった)。ペーロンではよくその祖母の家に行ったのだが、始めは立ち並ぶ長屋作りの家の中で、祖母の家を探すのが難しくて、間違えて他の人の家に入ってしまったこともあった。
港まで親たちと一緒に花火を見に行くこともあったが、人混みで父親に肩車して貰わないと、仕掛け花火は見えなかった。港まで行かずに祖母の家の二階から眺めることもあった。
幼い自分にこの花火のどーんと腹に響く音と、夜空を彩る光の渦がまるで別世界にいる気持ちにさせた。
泊まりがけで見に行ったときは、翌日のパレードや屋台も楽しかった。ただ、舟漕ぎはあまり見る気にはなれなかった。
ところが、このペーロンの時期は中学高校時代には中間試験の期間に近く、さすがに行くことができない。
相生出身の家内もわざと中間試験をペーロン時期にしていたと怒っていたが、五月の末が中間試験というのは学校の日程上仕方ないのである。
それより、姫路の私学に通っていた私には、義士祭が期末試験中であることの方が悔しかった。近隣の公立校では期末試験は終わっていた。
ただ、このペーロンは年によっては中間考査が終わっていることもあり、高校2年の時には相生の友達に誘われて、地元の会社社長の家に呼ばれたことがある。
IHIの関係者とも関わりのあるその家で、パーティーというのを初めて味わった。
また、バンドを一緒に組んだ先輩の親はIHIの重役で、大きな家に住んでいたが、そこにはバンド仲間や先輩の同級生が集まった。
花火は特別にビルの屋上から見ることもできたし、花火の後は歌って騒いで大騒ぎをした。
私は勉強をするために私学に行ったのに、音楽と遊びに目覚めてしまい。
高校3年という受験生にとって大切な年に、こともあろうに当時付き合っていた年上の彼女と試験中であるのにも関わらず、花火を見に行ったことがある。
悪いことは出来ないもので、私を見かけた近所の人に、母親に告げ口されてしまった。私は当然、友達の家に勉強しに行くと言っていたのだが、見事にばれてしまった。
ただ、理解があったのか諦めていたのか、叱られはしなかった。勉強には口うるさい母親だったので、不思議に思えた。18歳のほろ苦くて忘れられないペーロンである。
大学に入ってからしばらくはペーロンとは縁がなかったが、結婚して家内が相生であったことから、家内の実家に呼ばれて花火を見に行くことが多くなった。
家内の家は駅近くなので、家からは見えない。歩いて港まで行って見ることが多かった。
近隣から大勢の人が集まってくるので、車は大渋滞だし、歩く暴走族までやってきて喧噪な雰囲気の中、昔より派手になった花火を堪能した。
一度、子どもを連れて行って、途中で雨に降られて困ったこともあったが、家内の親戚なども訪れて賑やかで楽しい夜であった。
このペーロンが白龍の中国語読みであることは、若い頃は知らなかったし、この祭りが長崎の造船所の職人がもたらしたものであることも、ニュースなのでは報道されていたが、あまり関心はなかった。
ところが、学生時代、私は奄美諸島の与路島と言うところに研究で訪れるようになり、このペーロンと同じ舟漕ぎを経験することになった。
その島ではフナショというが、沖縄のハーリーと同じである。ペーロンのような舟漕ぎ競争は東南アジアを中心に広く行われていて、近年世界大会も開かれていた。
海の神や稲作との関わりがあると思われるが、琉球諸島の舟漕ぎ競争は地域や村で行われる大きな祭りである。
与路島では青年団の舟に乗って、桃の木で作った手製の櫂を握らされて、練習から本番まで付き合った。壮年団とビール1ケースのかかった本番では、直線では青年団が速いのだが、折り返しで技術の差がでて、破れてしまった。
ずぶ濡れになるし、横腹は痛くなるし大変な競技だったが、美しい珊瑚礁の浜で、貴重な体験をさせて貰った。
本来のペーロンは花火ではなくて、舟漕ぎ競争が主なのだが、私の記憶には花火とパレードしかない。相生市民にはチームを作って参加する舟漕ぎ競争の方が大切なのだろう。
本来は海の神への安全祈願のあった祭りは、みんなの娯楽になったが、世代を超えて続けていく行事に根付いたことは良いことだと思う。
一企業がもたらした外来文化ではあるが、遠く琉球諸島や東南アジアと連なっていることもイメージして、祭りを継承して欲しいと思う。
子どもの頃から私にとってペーロンは、舟漕ぎ競争よりも花火である。今でこそあちこちで花火大会は催しされるが、夜空に大輪を咲かせる花火は、この地方では相生のペーロンしかなかった。
自分の母親が相生育ちであり、小学生の頃までは母方の祖母家族が旭町に住んでいた。
そこにはIHI(石川島播磨重工)の社宅があって、棟続きの長屋のような造りであった(因みに私の父はIHIの修理工であった)。ペーロンではよくその祖母の家に行ったのだが、始めは立ち並ぶ長屋作りの家の中で、祖母の家を探すのが難しくて、間違えて他の人の家に入ってしまったこともあった。
港まで親たちと一緒に花火を見に行くこともあったが、人混みで父親に肩車して貰わないと、仕掛け花火は見えなかった。港まで行かずに祖母の家の二階から眺めることもあった。
幼い自分にこの花火のどーんと腹に響く音と、夜空を彩る光の渦がまるで別世界にいる気持ちにさせた。
泊まりがけで見に行ったときは、翌日のパレードや屋台も楽しかった。ただ、舟漕ぎはあまり見る気にはなれなかった。
ところが、このペーロンの時期は中学高校時代には中間試験の期間に近く、さすがに行くことができない。
相生出身の家内もわざと中間試験をペーロン時期にしていたと怒っていたが、五月の末が中間試験というのは学校の日程上仕方ないのである。
それより、姫路の私学に通っていた私には、義士祭が期末試験中であることの方が悔しかった。近隣の公立校では期末試験は終わっていた。
ただ、このペーロンは年によっては中間考査が終わっていることもあり、高校2年の時には相生の友達に誘われて、地元の会社社長の家に呼ばれたことがある。
IHIの関係者とも関わりのあるその家で、パーティーというのを初めて味わった。
また、バンドを一緒に組んだ先輩の親はIHIの重役で、大きな家に住んでいたが、そこにはバンド仲間や先輩の同級生が集まった。
花火は特別にビルの屋上から見ることもできたし、花火の後は歌って騒いで大騒ぎをした。
私は勉強をするために私学に行ったのに、音楽と遊びに目覚めてしまい。
高校3年という受験生にとって大切な年に、こともあろうに当時付き合っていた年上の彼女と試験中であるのにも関わらず、花火を見に行ったことがある。
悪いことは出来ないもので、私を見かけた近所の人に、母親に告げ口されてしまった。私は当然、友達の家に勉強しに行くと言っていたのだが、見事にばれてしまった。
ただ、理解があったのか諦めていたのか、叱られはしなかった。勉強には口うるさい母親だったので、不思議に思えた。18歳のほろ苦くて忘れられないペーロンである。
大学に入ってからしばらくはペーロンとは縁がなかったが、結婚して家内が相生であったことから、家内の実家に呼ばれて花火を見に行くことが多くなった。
家内の家は駅近くなので、家からは見えない。歩いて港まで行って見ることが多かった。
近隣から大勢の人が集まってくるので、車は大渋滞だし、歩く暴走族までやってきて喧噪な雰囲気の中、昔より派手になった花火を堪能した。
一度、子どもを連れて行って、途中で雨に降られて困ったこともあったが、家内の親戚なども訪れて賑やかで楽しい夜であった。
このペーロンが白龍の中国語読みであることは、若い頃は知らなかったし、この祭りが長崎の造船所の職人がもたらしたものであることも、ニュースなのでは報道されていたが、あまり関心はなかった。
ところが、学生時代、私は奄美諸島の与路島と言うところに研究で訪れるようになり、このペーロンと同じ舟漕ぎを経験することになった。
その島ではフナショというが、沖縄のハーリーと同じである。ペーロンのような舟漕ぎ競争は東南アジアを中心に広く行われていて、近年世界大会も開かれていた。
海の神や稲作との関わりがあると思われるが、琉球諸島の舟漕ぎ競争は地域や村で行われる大きな祭りである。
与路島では青年団の舟に乗って、桃の木で作った手製の櫂を握らされて、練習から本番まで付き合った。壮年団とビール1ケースのかかった本番では、直線では青年団が速いのだが、折り返しで技術の差がでて、破れてしまった。
ずぶ濡れになるし、横腹は痛くなるし大変な競技だったが、美しい珊瑚礁の浜で、貴重な体験をさせて貰った。
本来のペーロンは花火ではなくて、舟漕ぎ競争が主なのだが、私の記憶には花火とパレードしかない。相生市民にはチームを作って参加する舟漕ぎ競争の方が大切なのだろう。
本来は海の神への安全祈願のあった祭りは、みんなの娯楽になったが、世代を超えて続けていく行事に根付いたことは良いことだと思う。
一企業がもたらした外来文化ではあるが、遠く琉球諸島や東南アジアと連なっていることもイメージして、祭りを継承して欲しいと思う。
2012年5月22日火曜日
苺とそら豆のシアワセ 2012/05/22
先日来裏の畑で苺が沢山色づき始めた。旬彩蔵という上郡のJAの直販の店で、24ポット2000円という安い苗であったので少々心配したが、立派な実がなり味も良い。
近所でもさすがに色づき始めるとネットを苺にかけ始めたが、全く掛けていない畑もある。カラスもあまり沢山苺がなっているので、食べ飽きたのかも知れない。
苺は一年中畑の一角を占領するし、手間もかかるので面倒な作物だが、家族が喜んでくれるし、小さな子どもや孫がいるところでは必ず作っている。
だから、自分の家で作らなくても、お裾分けが期待できるのだが、今年は畑も広くなったので自分でも作ることにした。
取れたてででかいを、憚ることなく口に入れる至福は何よりも代え難い。農薬など一切使っていないので、全く安心なのである。
今年は他に今まであまり成功しなかったそら豆も植えた。そら豆は小さい頃私の親は沢山作っていて、この季節は甘く炊いたのを毎日のようにおかずに出された。
それでも余るのであんこのようにして、蒸しまんじゅうの中に入れておやつにしてくれたが、小豆よりも生臭いのであまり好きではなかった。今は種自体が高くて多くは植え付けられない。
今回も10株程度である。
それでも、昔に比べて粒が大きくて、電子レンジで加熱しただけなのにすごく美味しい。買ってきたそら豆と比較にならない。
まさしく産地直送の味は自分で作っている者しか味わえない最大の贅沢である。赤穂では高い会費を払って市民農園が貸し出されるようになったが、非常に人気があると地元の新聞に書いてあった。上郡では農家の跡継ぎが意外と畑仕事をしない。
そもそも、男は田で、女が畑という役割分担もあったのだが、田をしない男は畑もしない。やる人は徹底的に綺麗にするので、私のように草と共に育てていたら顰蹙ものであるが、私はそういう批難に屈することはない。
農薬も化成肥料も使ってないのだぞという、プライドもある。趣味で畑作りをする人でも農薬や化成肥料を平気で使う人がいるが、それなら買ってきた方が安くて済む。
農家は見た目を気にする消費者のために農薬を使い、採算を取るために化成肥料を用いる。
自分で作る価値は、惜しまぬ労力と工夫に裏付けられた安全である。しまも、うまく作れば絶対味も良い。
今は普通にいろんな作物が作れだしたが、かれこれ20年の経験の結果である。父親と一緒にしていたときは、草抜きや芋の掘り起こし作業を主にさせられていたので、あまり好きではなかった。
家族のために自分でやり始めて 、最初は玉葱でさえうまく作れなかったが、難しい作物を除いてだいたいうまくいくようになった。
ただ、白菜のように夏の暑いときに種から作ることは、一度成功はしたが手間が多くて今は敬遠している。種まきは家内の仕事だったが、勤めに出始めてあまり出来なくなった。
畑仕事を夫婦や親子で力を合わせてするときには、ささやかな幸せを感じる。
この経験は今の特別支援学校での農園作業と指導でも役に立っている。
家でも職場でも農作業をするのは辟易するところもあるし、顔は日焼けして真っ黒になって教師には見えないのがちょっと気になる。
それでも、こうして美味しい収穫物を口にすると、労を惜しまず頑張ってしまう。田舎ではパチンコが一番賑わっているが、不景気なご時世こそ畑が若い人で賑わって欲しい。
農作業は新しいスポーツであり、ゲームだと思えばパチンコやゴルフよりも、エコで生産的で格好良い。
近所でもさすがに色づき始めるとネットを苺にかけ始めたが、全く掛けていない畑もある。カラスもあまり沢山苺がなっているので、食べ飽きたのかも知れない。
苺は一年中畑の一角を占領するし、手間もかかるので面倒な作物だが、家族が喜んでくれるし、小さな子どもや孫がいるところでは必ず作っている。
だから、自分の家で作らなくても、お裾分けが期待できるのだが、今年は畑も広くなったので自分でも作ることにした。
取れたてででかいを、憚ることなく口に入れる至福は何よりも代え難い。農薬など一切使っていないので、全く安心なのである。
今年は他に今まであまり成功しなかったそら豆も植えた。そら豆は小さい頃私の親は沢山作っていて、この季節は甘く炊いたのを毎日のようにおかずに出された。
それでも余るのであんこのようにして、蒸しまんじゅうの中に入れておやつにしてくれたが、小豆よりも生臭いのであまり好きではなかった。今は種自体が高くて多くは植え付けられない。
今回も10株程度である。
それでも、昔に比べて粒が大きくて、電子レンジで加熱しただけなのにすごく美味しい。買ってきたそら豆と比較にならない。
まさしく産地直送の味は自分で作っている者しか味わえない最大の贅沢である。赤穂では高い会費を払って市民農園が貸し出されるようになったが、非常に人気があると地元の新聞に書いてあった。上郡では農家の跡継ぎが意外と畑仕事をしない。
そもそも、男は田で、女が畑という役割分担もあったのだが、田をしない男は畑もしない。やる人は徹底的に綺麗にするので、私のように草と共に育てていたら顰蹙ものであるが、私はそういう批難に屈することはない。
農薬も化成肥料も使ってないのだぞという、プライドもある。趣味で畑作りをする人でも農薬や化成肥料を平気で使う人がいるが、それなら買ってきた方が安くて済む。
農家は見た目を気にする消費者のために農薬を使い、採算を取るために化成肥料を用いる。
自分で作る価値は、惜しまぬ労力と工夫に裏付けられた安全である。しまも、うまく作れば絶対味も良い。
今は普通にいろんな作物が作れだしたが、かれこれ20年の経験の結果である。父親と一緒にしていたときは、草抜きや芋の掘り起こし作業を主にさせられていたので、あまり好きではなかった。
家族のために自分でやり始めて 、最初は玉葱でさえうまく作れなかったが、難しい作物を除いてだいたいうまくいくようになった。
ただ、白菜のように夏の暑いときに種から作ることは、一度成功はしたが手間が多くて今は敬遠している。種まきは家内の仕事だったが、勤めに出始めてあまり出来なくなった。
畑仕事を夫婦や親子で力を合わせてするときには、ささやかな幸せを感じる。
この経験は今の特別支援学校での農園作業と指導でも役に立っている。
家でも職場でも農作業をするのは辟易するところもあるし、顔は日焼けして真っ黒になって教師には見えないのがちょっと気になる。
それでも、こうして美味しい収穫物を口にすると、労を惜しまず頑張ってしまう。田舎ではパチンコが一番賑わっているが、不景気なご時世こそ畑が若い人で賑わって欲しい。
農作業は新しいスポーツであり、ゲームだと思えばパチンコやゴルフよりも、エコで生産的で格好良い。
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