鳥はやはり減ったと思う。家内とも話したが一番に上がったのはケリだった。
ケリは上郡に来て初めて知った鳥だが、田んぼの中にいて「キキキキー」とうるさく鳴いて、人にまで向かってくる気の強い鳥だ。
この鳥は自分の縄張りを、同じケリ同士で競うが、カラスなどに対しても攻撃する。
時々夜中にも鳴いて、賑やかなやつだなと思っていた
ところが、このところいるにはいるが、数が本当に少ない
次に全く見ないのが、アマサギでこれは田植え時分に必ずいた。
最初は、季節的に頭の部分が黄色くなるのかと思っていたが、そういう種類で夏だけ来る渡り鳥だという。
サギはいろんなサギを見かける。ダイサギやコサギ以外にも、ゴイサギやアオサギも見ることもある。
ところが、田植えの時に必ず沢山いたアマサギを全く回りで見かけていない。
カラスや鳶も減ったと思う
カラスと鳶が空中戦をするのが面白くて、でかいのにカラスにやられている鳶を応援したくなるのだが、その風景をとんと見ない。
カラスは冬に集団で見かけることがあるが、夏でもいついているカラスをあまり見かけない
カラスは電柱にとまって「かあ かあ」と人が近づくとうるさく鳴くし、どういう訳か屋根の温水器をこつこつ突いていた。
相変わらず蛙は田んぼでうるさく鳴いている。
ただ、数は以前よりも減ったと思う。特にアマガエルとかツチガエルが少なくなった。
そう言えば蛇も今年はあまり見かけない。
家の近くではマムシさえ道路で車にひかれているのをたまに見かけたが、このところシマヘビやカラス蛇を見かけない。
ひょっとしたら、蛙とか小さな昆虫が減ったからかも知れない
そういえば川の小魚も減っているように思う。
哺乳類に関しても、確実に鹿以外の動物は減っている
よく見かけた狸や狐も最近見ないし、猪も降りてきていない
このところ厳重に鉄柵を山際に張り巡らしたので、降りて来られないのかも知れない。
これらの動物や昆虫が減った原因として考えられるのは、近年行われている無線ヘリによる空中農薬散布が第一に考えられる。
また、減反で草の生えている田が減ったことや、冬場から春先のレンゲ畑が減ったことなども考えられるがよく分からない。
まさか、心配している山崎断層地震の予兆とは思いたくないが、868年(貞観10年)に起こったことの再現になる。
ただ、東北大震災との関連からいくと、東北では翌年の869年に貞観三陸地震(M9.0)が起こっている。
列島の歪みの関連からすると、地震が前後してもおかしくないと思うので、用心に越したことはないだろう。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2012年6月20日水曜日
2012年6月17日日曜日
ジャガイモ掘り
ジャガイモを掘る季節になった。
この季節は雨が多いので、芋を掘るのはかなり重労働である。高齢になった家内の両親はジャガイモを作るのは数年前に止めてしまった。
一昨年はビニールマルチをしなかったので、雨上がりの芋掘りが土が重くて大変で、熱中症になってしまった。
それに懲りて、昨年からはビニールマルチを使用しているので、掘るのは幾分楽にはなった。
アルミ製のフォークス状の掘り起こし機で、家内や息子にも手伝ってもらった。
これは備中鍬を使うより簡単だが、掘り残しがでるので後でもう一度備中鍬で掘り起こしたが、一人で全部やるよりは楽ではあった。
ジャガイモは上郡の畑にキタアカリを、赤穂の畑にメークインを植えたが、上郡の方は葉が枯れる病気になったので、早々と先週から掘っていた。
キタアカリはもともとそんなに多くとれないが、早く掘ったせいもあって、小ぶりで量も多くなかった。
メークインは例年より小ぶりだが、コンテナ3杯半とれて上出来であった。
西隣の畑のNさんは、今年はジャガイモは全滅したという。万田酵素で作った種芋を貰い、切り口をよく乾燥させて、マルチも用いて植えたのだが、植えた時に3日間雨が降って、腐ってしまったという。
かつて、自分にはジャガイモを全滅させたことは無かったので、雨よりも種芋の質に問題があるように思えた。
ジャガイモ掘りで一番困るのは、蟻である。マルチをしていると特に蟻の巣が多くなる。
掘る時にその巣を壊すことになるので、怒った?蟻が服の中に入り込んで手足をかむことが多い。
蟻にかまれると赤く腫れて、痛がゆくしばらくは治らない。
私は今回、右手の二の腕の内側をかまれた。家内は肘の下あたりをかまれて、私よりもひどく腫れ上がっている。
今年は例年よりも、大きくて黒い蟻が多くいたように思う。
その一方でミミズも沢山いたが、幸いにモグラや鼠はいなかった。
掘り起こした後は虫などを求めて、よくカラスなどが来るのだが、大勢で作業をやっているので寄りつけない。
そこで近くの木の上で悔しげに?鳴いたり、バタバタ騒いでいた。
赤穂は朝曇っていたのだが、昼になるにしたがって晴れてきて、芋を掘るには過酷な状態になってきた。
先週まで喉が渇くと食べていた畑の金柑も、先日来の雨で多くが腐っていて、最後に少しだけ奥の方のが食べられただけだった。
赤穂の畑の金柑は大変甘くてみずみずしくて、喉の渇きを癒すにはもってこいだった。
わざと採らずにおいていた金柑もおしまいになった。
ジャガイモを掘る一方で、らっきょうを掘っていたが、その後にマルチを張って、薩摩芋の蔓も植え足した。
この蔓は、上郡の裏の畑で芋から生やしたものと、早くから植えていた1本50円の蔓の脇芽が伸びたものを使った。
これで買った芋づるが70本、 生やした蔓が40本ほどになった。1本50円の苗も買った20本以上は増やしたので、もし同じように芋がなってくれれば、蔓は25円以下のコストになる。
例年よりも多く植えたのは、例年よりも生活費を切り詰めたいという思いからだ。
冬場の薩摩芋と夏場のジャガイモ
どちらも主食にはならないが、食生活には欠かせない。
このところ、干した輪切りの大根の燻製が成功し、干したニンニクの燻製もまあまあなので、ジャガイモも干して燻製にしようかとも思っている。
ジャガイモは日持ちは良いが、芽を出させて捨ててしまうことが今年は多かった。
一方でポテトチップスを買って食べるので、日頃から簡単に食べられるようにしておくのも、食べ切ってしまうこつのように思った。
この季節は雨が多いので、芋を掘るのはかなり重労働である。高齢になった家内の両親はジャガイモを作るのは数年前に止めてしまった。
一昨年はビニールマルチをしなかったので、雨上がりの芋掘りが土が重くて大変で、熱中症になってしまった。
それに懲りて、昨年からはビニールマルチを使用しているので、掘るのは幾分楽にはなった。
アルミ製のフォークス状の掘り起こし機で、家内や息子にも手伝ってもらった。
これは備中鍬を使うより簡単だが、掘り残しがでるので後でもう一度備中鍬で掘り起こしたが、一人で全部やるよりは楽ではあった。
ジャガイモは上郡の畑にキタアカリを、赤穂の畑にメークインを植えたが、上郡の方は葉が枯れる病気になったので、早々と先週から掘っていた。
キタアカリはもともとそんなに多くとれないが、早く掘ったせいもあって、小ぶりで量も多くなかった。
メークインは例年より小ぶりだが、コンテナ3杯半とれて上出来であった。
西隣の畑のNさんは、今年はジャガイモは全滅したという。万田酵素で作った種芋を貰い、切り口をよく乾燥させて、マルチも用いて植えたのだが、植えた時に3日間雨が降って、腐ってしまったという。
かつて、自分にはジャガイモを全滅させたことは無かったので、雨よりも種芋の質に問題があるように思えた。
ジャガイモ掘りで一番困るのは、蟻である。マルチをしていると特に蟻の巣が多くなる。
掘る時にその巣を壊すことになるので、怒った?蟻が服の中に入り込んで手足をかむことが多い。
蟻にかまれると赤く腫れて、痛がゆくしばらくは治らない。
私は今回、右手の二の腕の内側をかまれた。家内は肘の下あたりをかまれて、私よりもひどく腫れ上がっている。
今年は例年よりも、大きくて黒い蟻が多くいたように思う。
その一方でミミズも沢山いたが、幸いにモグラや鼠はいなかった。
掘り起こした後は虫などを求めて、よくカラスなどが来るのだが、大勢で作業をやっているので寄りつけない。
そこで近くの木の上で悔しげに?鳴いたり、バタバタ騒いでいた。
赤穂は朝曇っていたのだが、昼になるにしたがって晴れてきて、芋を掘るには過酷な状態になってきた。
先週まで喉が渇くと食べていた畑の金柑も、先日来の雨で多くが腐っていて、最後に少しだけ奥の方のが食べられただけだった。
赤穂の畑の金柑は大変甘くてみずみずしくて、喉の渇きを癒すにはもってこいだった。
わざと採らずにおいていた金柑もおしまいになった。
ジャガイモを掘る一方で、らっきょうを掘っていたが、その後にマルチを張って、薩摩芋の蔓も植え足した。
この蔓は、上郡の裏の畑で芋から生やしたものと、早くから植えていた1本50円の蔓の脇芽が伸びたものを使った。
これで買った芋づるが70本、 生やした蔓が40本ほどになった。1本50円の苗も買った20本以上は増やしたので、もし同じように芋がなってくれれば、蔓は25円以下のコストになる。
例年よりも多く植えたのは、例年よりも生活費を切り詰めたいという思いからだ。
冬場の薩摩芋と夏場のジャガイモ
どちらも主食にはならないが、食生活には欠かせない。
このところ、干した輪切りの大根の燻製が成功し、干したニンニクの燻製もまあまあなので、ジャガイモも干して燻製にしようかとも思っている。
ジャガイモは日持ちは良いが、芽を出させて捨ててしまうことが今年は多かった。
一方でポテトチップスを買って食べるので、日頃から簡単に食べられるようにしておくのも、食べ切ってしまうこつのように思った。
2012年6月15日金曜日
平家伝説と小野豆
私の住んでいる上郡の高田地区には小野豆という山頂集落があり、今では廃屋も目立つが、何軒かまだ暮らされている。そこには平家伝説が残っていて、上郡町のホームページには次のような物語が載せてある。
小野豆の集落は、寿永4年(1185年)、壇ノ浦で源氏との戦いに敗れた経盛たちが、播磨の国の西端、相生の入り江に上陸し、人目を避けて山深いこの地に隠れ住んだといわれています。その小野豆へ源氏の追手が現れ、川に茄子の蔕が流れているのを発見し、草や木を掻き分けて探している最中、鶏の鳴き声が聞こえ、経盛はジャンジャン穴と呼ばれる洞窟に潜んでいるところを見つけられてしまい、助かる見込みがないと判断し、自害したと伝えられています。経盛の死後、家来たちは小野豆で一番見晴らしのよい場所に主を弔いました。その後、そこに建てられた寺は経盛の法名の真勝院から真勝寺と名づけられ、山号は三位卿の三位をとって三位山としました。また、小野豆の集落では、この由緒から昭和6年まで鶏を飼ったり、茄子を作ることはしていませんでした。[http://www.town.kamigori.hyogo.jp/cms-sypher/www/info/detail.jsp?id=7069]
この小野豆にはよく運動がてら散歩に行くのだが、たまにジャンジャン穴にも立ち寄ったりする。ただ、入口がえらく狭くて本当に中に入ったのかと思うくらいである。
そこから少し上にある平家塚からは遠く瀬戸内海を見ることができ、確かに物語の叙情を醸し出してくれる。
真勝寺も以前は残っていたが、いつの間にか取り壊されて、跡地だけが残っている。住んでいる方もご老人が多いので、不便なこともあり、いずれ廃村になってしまうかも知れない。ただ、寒い上郡にあっては霜も降りず、意外と暖かい暮らしやすいところと言われている。
もっと山奥に入れば、ゴルフ場にしかかって道だけが残った所が広がり、山歩きやモトクロスもできる。
私は以前は桑の実などを採りによく山に登った。ここには以前住んでいた人が植えていた桑以外に、柚なども残っており、誰も採らずに放置されていたりする。
しだれ桜は有名だが、道が狭いため事故が起きたりするので、シーズンでは麓の空き地に車は停めて、歩いて上がった方が賢明である。途中で見える風景もなかなか良い。
移り住むか、山小屋を持ちたいと思った集落だが、大雨で道が途絶したりする。
手入れできない植林された場所は木が倒れたまま放置されたり、山肌が崩れたりしている。
ちょっと住むのをためらう場所となってしまった。
最近奄美のことを色々調べる内に、喜界島には小野津という所があり、そこの近くにも平家伝説が残されていることが分かった。
観光案内のホームページには次のようなことが書いてある。
その昔、壇ノ浦の戦いに敗れ、南島に落ち延びた「平家の落人」が残したものであると伝えられております。
1202年、平盗盛を主将とする平家の残党200余名が志戸桶の「沖名泊」に流れ着き、島に上陸すると、源氏の追っ手に備えて陣地を作り、現在の早町港の監視と海上の見張りをした場所が「平家森」と言われております。[http://kikaijimanavi.com/rekisibunka/a/heikemori.shtml]
奄美諸島には数多く平家伝説が残っており、たまたま地名が「おのず」と「おのつ」と似通っているだけかも知れない。
そもそも、奄美では与路(ヨロ)は本来、本来ユンと発音していたりして、漢字読みが従来の発音ではない場合が多い。
これは上郡に関しても昔発音されていたのとは違う漢字表記音になっているかも知れない。
共通しているのは、外部からの侵入に対する警戒である。上郡の小野豆は昭和初期まで警戒を続けていたことが分かる。
喜界島は琉球王朝に対しても最後まで抵抗していたことから分かるように、本来は独立性の強い先進地域であった。
また、加計呂麻島(カケロマジマ)の生馬(イケンマ)の生まれ、美人 ウラトミは役人の妾になるのを拒み小舟に乗り流されて小野津に着きここで暮らす、娘のムチャカナも美人であったが故に友の嫉妬にあい死を遂げる[http://www.synapse.ne.jp/~bak/kikai/introduction/kikai2.html]。という抵抗の物語も体制への抵抗を物語っている
上郡の歴史も赤松氏の嘉吉の乱における室町幕府への抵抗はあまりにも有名である。
この上郡は中世において播磨の中心であったのにも関わらず、現在はあまり知られていない。明治維新期に活躍した大鳥圭介と上郡を結んで考えてくれる人も少ない。
一端歴史の時流から離れてしまうと、忘れられるところは喜界島と共通しているのかも知れない。
現代の上郡町は兵庫県で学校給食が唯一無い校区として保護者には評判が悪い。市町村合併の際も、すったもんだして結局赤穂市との合併は果たせなかった。
赤穂生まれの私はまた赤穂人にもどれることを楽しみにしていたが・・・
ただ、私のような東京から都落ちした者にとって、晴耕雨読のできる自然豊かなふさわしい場所のように思えたりもしている。別に隠れて住んでいるわけではないが・・・
小野豆の集落は、寿永4年(1185年)、壇ノ浦で源氏との戦いに敗れた経盛たちが、播磨の国の西端、相生の入り江に上陸し、人目を避けて山深いこの地に隠れ住んだといわれています。その小野豆へ源氏の追手が現れ、川に茄子の蔕が流れているのを発見し、草や木を掻き分けて探している最中、鶏の鳴き声が聞こえ、経盛はジャンジャン穴と呼ばれる洞窟に潜んでいるところを見つけられてしまい、助かる見込みがないと判断し、自害したと伝えられています。経盛の死後、家来たちは小野豆で一番見晴らしのよい場所に主を弔いました。その後、そこに建てられた寺は経盛の法名の真勝院から真勝寺と名づけられ、山号は三位卿の三位をとって三位山としました。また、小野豆の集落では、この由緒から昭和6年まで鶏を飼ったり、茄子を作ることはしていませんでした。[http://www.town.kamigori.hyogo.jp/cms-sypher/www/info/detail.jsp?id=7069]
この小野豆にはよく運動がてら散歩に行くのだが、たまにジャンジャン穴にも立ち寄ったりする。ただ、入口がえらく狭くて本当に中に入ったのかと思うくらいである。
そこから少し上にある平家塚からは遠く瀬戸内海を見ることができ、確かに物語の叙情を醸し出してくれる。
真勝寺も以前は残っていたが、いつの間にか取り壊されて、跡地だけが残っている。住んでいる方もご老人が多いので、不便なこともあり、いずれ廃村になってしまうかも知れない。ただ、寒い上郡にあっては霜も降りず、意外と暖かい暮らしやすいところと言われている。
もっと山奥に入れば、ゴルフ場にしかかって道だけが残った所が広がり、山歩きやモトクロスもできる。
私は以前は桑の実などを採りによく山に登った。ここには以前住んでいた人が植えていた桑以外に、柚なども残っており、誰も採らずに放置されていたりする。
しだれ桜は有名だが、道が狭いため事故が起きたりするので、シーズンでは麓の空き地に車は停めて、歩いて上がった方が賢明である。途中で見える風景もなかなか良い。
移り住むか、山小屋を持ちたいと思った集落だが、大雨で道が途絶したりする。
手入れできない植林された場所は木が倒れたまま放置されたり、山肌が崩れたりしている。
ちょっと住むのをためらう場所となってしまった。
最近奄美のことを色々調べる内に、喜界島には小野津という所があり、そこの近くにも平家伝説が残されていることが分かった。
観光案内のホームページには次のようなことが書いてある。
その昔、壇ノ浦の戦いに敗れ、南島に落ち延びた「平家の落人」が残したものであると伝えられております。
1202年、平盗盛を主将とする平家の残党200余名が志戸桶の「沖名泊」に流れ着き、島に上陸すると、源氏の追っ手に備えて陣地を作り、現在の早町港の監視と海上の見張りをした場所が「平家森」と言われております。[http://kikaijimanavi.com/rekisibunka/a/heikemori.shtml]
奄美諸島には数多く平家伝説が残っており、たまたま地名が「おのず」と「おのつ」と似通っているだけかも知れない。
そもそも、奄美では与路(ヨロ)は本来、本来ユンと発音していたりして、漢字読みが従来の発音ではない場合が多い。
これは上郡に関しても昔発音されていたのとは違う漢字表記音になっているかも知れない。
共通しているのは、外部からの侵入に対する警戒である。上郡の小野豆は昭和初期まで警戒を続けていたことが分かる。
喜界島は琉球王朝に対しても最後まで抵抗していたことから分かるように、本来は独立性の強い先進地域であった。
また、加計呂麻島(カケロマジマ)の生馬(イケンマ)の生まれ、美人 ウラトミは役人の妾になるのを拒み小舟に乗り流されて小野津に着きここで暮らす、娘のムチャカナも美人であったが故に友の嫉妬にあい死を遂げる[http://www.synapse.ne.jp/~bak/kikai/introduction/kikai2.html]。という抵抗の物語も体制への抵抗を物語っている
上郡の歴史も赤松氏の嘉吉の乱における室町幕府への抵抗はあまりにも有名である。
この上郡は中世において播磨の中心であったのにも関わらず、現在はあまり知られていない。明治維新期に活躍した大鳥圭介と上郡を結んで考えてくれる人も少ない。
一端歴史の時流から離れてしまうと、忘れられるところは喜界島と共通しているのかも知れない。
現代の上郡町は兵庫県で学校給食が唯一無い校区として保護者には評判が悪い。市町村合併の際も、すったもんだして結局赤穂市との合併は果たせなかった。
赤穂生まれの私はまた赤穂人にもどれることを楽しみにしていたが・・・
ただ、私のような東京から都落ちした者にとって、晴耕雨読のできる自然豊かなふさわしい場所のように思えたりもしている。別に隠れて住んでいるわけではないが・・・
2012年6月12日火曜日
姫路城
私は赤穂生まれの赤穂育ちでありながら、赤穂城より姫路城の方が馴染みが深い。
赤穂で育ったのが尾崎で、お城から離れていたのに対し、姫路城は中高一貫の私学に通っていて直ぐ傍にあったからである。
今でもよく思い出すのは、学年が上がって教室が3階になったが、その階のトイレから見える朝日に輝く姫路城である。小用をたしながら、真正面に見えるお城。
「今日は格別、綺麗に見える」とすっきりと呟いたものである。
当然、このお城は体育の授業で冬場のランニングに用いられた。内堀の回りを3周することが多かった。城前のお土産物屋付近から漂う、たこ焼きの臭いが空きっ腹には堪らなかった。
クラブではもう少し離れた男山の階段での筋トレがなされた。校内合宿での姫山公園の夜のハイキングは、先輩から受け継いだ楽しみの一つであった。
友人の多くは、デートの場所として、姫山公園を用いた。男子校だったので隣の女子校の生徒とカップルになることが多かった。
ただ、姫山公園でデートをすると別れるというジンクスがあった。友人の殆どはジンクス通りになった。
学生時代、姫路城に入場料を払って上ったのは一度だけで、あまり暇なので友達とふざけて上った。ところが、私は概観の美しさより、内部の神秘的な雰囲気が意外にも良いと思った。
どちらかというと不真面目な生徒だった私は、朝の姫路駅からの通学のコースをわざと遠回りで、大手門から三の丸広場を通って、動物園の傍の道を通り抜けて、美術館の傍に出てくるコースをたどった。(生徒の頃は、まだ美術館ではなく、裁判所だったと思う)
雪が降ると、わざと遅刻して、友達と雪の中ふざけ合って遊び、休み時間を見計らってこっそりの教室に入って、濡れた靴下をストーブで乾かした。
雪の姫路城は、日本で一番美しい風景と今も思っている。
世界遺産になってあまりにも有名になった姫路城だが、自分たちは天守閣周辺よりも、その北側の公園の方が馴染みがあった。
天守閣の北側は鬱蒼とした森となっていて、狸でも棲んでいる雰囲気があった。公園に設けられた屋根付きの休憩所では、平日でも暇な人が将棋をしていたりした。
学校の運動場は狭かったので、ソフトボールやサッカーを楽しんだり、国語の教師は授業中に散歩させて、俳句を作らせた。他にはない格好の材料だったのだろう。
美術の教師は日本画家で、姫路城を専門に描く東北なまりの先生だった。
私らも城を何度か描かされたが、ややこしい造りだったので面倒だった。
朝敵になったが故に、明治以降は恵まれなかった姫路。
城は売りに出されたのは有名な話だし、空襲に遭わなかったのは単に暗くて標的にならなかっただけと聞く。
本来は姫路が中心となって独立した県になるべきだったが、特に大久保利通を中心とする薩摩閥の政策で、神戸の後背地の座に甘んじた。
それに沿って置かれた大日本帝国陸軍の第10師団の本部の跡地に我が母校はあるのだが、戦後カトリック系のミッションスクールの敷地になったのも皮肉なものである。
私が奄美の研究のついでに、薩摩を調べるのも何か因縁めいて愉快である。
そういえば同じカトリック系のラサール校は鹿児島が有名だ。 あちらは母校に比べて、お城から遠いようだけど東大には近い・・・
赤穂で育ったのが尾崎で、お城から離れていたのに対し、姫路城は中高一貫の私学に通っていて直ぐ傍にあったからである。
今でもよく思い出すのは、学年が上がって教室が3階になったが、その階のトイレから見える朝日に輝く姫路城である。小用をたしながら、真正面に見えるお城。
「今日は格別、綺麗に見える」とすっきりと呟いたものである。
当然、このお城は体育の授業で冬場のランニングに用いられた。内堀の回りを3周することが多かった。城前のお土産物屋付近から漂う、たこ焼きの臭いが空きっ腹には堪らなかった。
クラブではもう少し離れた男山の階段での筋トレがなされた。校内合宿での姫山公園の夜のハイキングは、先輩から受け継いだ楽しみの一つであった。
友人の多くは、デートの場所として、姫山公園を用いた。男子校だったので隣の女子校の生徒とカップルになることが多かった。
ただ、姫山公園でデートをすると別れるというジンクスがあった。友人の殆どはジンクス通りになった。
学生時代、姫路城に入場料を払って上ったのは一度だけで、あまり暇なので友達とふざけて上った。ところが、私は概観の美しさより、内部の神秘的な雰囲気が意外にも良いと思った。
どちらかというと不真面目な生徒だった私は、朝の姫路駅からの通学のコースをわざと遠回りで、大手門から三の丸広場を通って、動物園の傍の道を通り抜けて、美術館の傍に出てくるコースをたどった。(生徒の頃は、まだ美術館ではなく、裁判所だったと思う)
雪が降ると、わざと遅刻して、友達と雪の中ふざけ合って遊び、休み時間を見計らってこっそりの教室に入って、濡れた靴下をストーブで乾かした。
雪の姫路城は、日本で一番美しい風景と今も思っている。
世界遺産になってあまりにも有名になった姫路城だが、自分たちは天守閣周辺よりも、その北側の公園の方が馴染みがあった。
天守閣の北側は鬱蒼とした森となっていて、狸でも棲んでいる雰囲気があった。公園に設けられた屋根付きの休憩所では、平日でも暇な人が将棋をしていたりした。
学校の運動場は狭かったので、ソフトボールやサッカーを楽しんだり、国語の教師は授業中に散歩させて、俳句を作らせた。他にはない格好の材料だったのだろう。
美術の教師は日本画家で、姫路城を専門に描く東北なまりの先生だった。
私らも城を何度か描かされたが、ややこしい造りだったので面倒だった。
朝敵になったが故に、明治以降は恵まれなかった姫路。
城は売りに出されたのは有名な話だし、空襲に遭わなかったのは単に暗くて標的にならなかっただけと聞く。
本来は姫路が中心となって独立した県になるべきだったが、特に大久保利通を中心とする薩摩閥の政策で、神戸の後背地の座に甘んじた。
それに沿って置かれた大日本帝国陸軍の第10師団の本部の跡地に我が母校はあるのだが、戦後カトリック系のミッションスクールの敷地になったのも皮肉なものである。
私が奄美の研究のついでに、薩摩を調べるのも何か因縁めいて愉快である。
そういえば同じカトリック系のラサール校は鹿児島が有名だ。 あちらは母校に比べて、お城から遠いようだけど東大には近い・・・
2012年6月11日月曜日
砂糖と塩
私が奄美諸島を研究し始めたのは、南山大学の文化人類学研究会の先輩が与論島を村落調査しており、それに憧れを持っていたからである。
ただ、思い起こせば、高校生の頃たまたま近くの唐船という海岸でに夜行った時、不思議な人達が太鼓を打ち鳴らして、踊っているのをずっとながめていたことがある。
沖縄の人か、奄美の人か分からないが、八月踊りを浜辺でやっていたのだろう。
考えてみれば、兵庫県は神戸を中心に奄美や沖縄出身者が多く住んでいるので、そういう人と出会うことは別段不思議ではなかった。そもそも、神戸の川崎重工は鹿児島出身者川崎正蔵が創立した。有名な松方コレクションは、川崎重工の前身川崎造船所の社長松方幸次郎が収集したものである。その父親は有名な松方正義で鹿児島県出身者であった。
この川崎重工には奄美諸島の沖永良部からの出身者が多く働いていることは、『阪神都市圏における都市マイノリティ層の研究』 西村雄郎 2006 社会評論社を読めばよく分かる。
このところ、奄美に関する2冊目の出版を手がけて、あれこれ文献にあたっているのだが、島津藩の奄美に対する植民地支配との関連から、砂糖の文献をいくつか読んだ。砂糖という物が世界的にいかに植民地支配と関わっていたことがよく分かった。
一方、塩は殆ど自分には関心がなかった。私の赤穂での師匠、故廣山堯道氏(元赤穂高校の教師 元赤穂歴史博物館館長)は赤穂の塩の研究の権威であるし、知人には何名か塩業の研究者がいるのだが、研究しようとは思わなかった。
江戸時代の専売制ということを調べると、砂糖と塩は類似点が多いと言うことも分かった。知人西畑俊昭氏によれば赤穂は専売制とは言えないということだから、飛び抜けた塩業経営者の支配と言うべきなのだろう。
奄美は世界史的には植民地的支配による黒糖政策と言うべきだろうが、日本史的には最も過酷な専売制とも言える。その中で、ヤンチュと呼ばれる人身売買された人が多く生じたことは有名である。
一方の赤穂は過酷な労働を行う浜子という塩田労働者がいたことで知られ、私の住んでいた尾崎は塩業労働でトラコーマになる人が多かったことが、世界的に知られていたという。 ただ、浜子は契約によって働き、人身売買によるものではなかった。
奄美は沖縄と並んで黒糖の生産地として有名であり、一方赤穂は先進的な塩田技術による塩の生産地として有名である。労働形態の大きな違いはあるが、過酷な労働が行われていたこと以外にも、飛び抜けて富裕な現地経営者がいたことが共通している。
奄美大島では衆達として、田畑家が有名だが、赤穂では柴家、田淵家、奧藤家が有名である。江戸時代に行政支配者であった士族との関連も調べてみると面白いかも知れない。
明治以降は砂糖は台湾などの植民地支配によって廃れていき、一方、塩は専売制によって生きながらえていった。赤穂はイオン交換技術での生産が融雪剤生産や、海洋深層水の生産、赤穂ブランドによる「天塩」の販売として生き残ってはいる。奄美諸島ではキビ酢などの新商品も開発されているとはいえ、黒糖そのものは沖縄県ほどのブランド価値は維持できていない。
こうやって奄美諸島を研究し続けていることが、赤穂の歴史への関心にも繋がったことは愉快でもある。 廣山堯道氏の恩にも報いるためにも、その比較をいずれ行ってみたいと思っている。
ただ、思い起こせば、高校生の頃たまたま近くの唐船という海岸でに夜行った時、不思議な人達が太鼓を打ち鳴らして、踊っているのをずっとながめていたことがある。
沖縄の人か、奄美の人か分からないが、八月踊りを浜辺でやっていたのだろう。
考えてみれば、兵庫県は神戸を中心に奄美や沖縄出身者が多く住んでいるので、そういう人と出会うことは別段不思議ではなかった。そもそも、神戸の川崎重工は鹿児島出身者川崎正蔵が創立した。有名な松方コレクションは、川崎重工の前身川崎造船所の社長松方幸次郎が収集したものである。その父親は有名な松方正義で鹿児島県出身者であった。
この川崎重工には奄美諸島の沖永良部からの出身者が多く働いていることは、『阪神都市圏における都市マイノリティ層の研究』 西村雄郎 2006 社会評論社を読めばよく分かる。
このところ、奄美に関する2冊目の出版を手がけて、あれこれ文献にあたっているのだが、島津藩の奄美に対する植民地支配との関連から、砂糖の文献をいくつか読んだ。砂糖という物が世界的にいかに植民地支配と関わっていたことがよく分かった。
一方、塩は殆ど自分には関心がなかった。私の赤穂での師匠、故廣山堯道氏(元赤穂高校の教師 元赤穂歴史博物館館長)は赤穂の塩の研究の権威であるし、知人には何名か塩業の研究者がいるのだが、研究しようとは思わなかった。
江戸時代の専売制ということを調べると、砂糖と塩は類似点が多いと言うことも分かった。知人西畑俊昭氏によれば赤穂は専売制とは言えないということだから、飛び抜けた塩業経営者の支配と言うべきなのだろう。
奄美は世界史的には植民地的支配による黒糖政策と言うべきだろうが、日本史的には最も過酷な専売制とも言える。その中で、ヤンチュと呼ばれる人身売買された人が多く生じたことは有名である。
一方の赤穂は過酷な労働を行う浜子という塩田労働者がいたことで知られ、私の住んでいた尾崎は塩業労働でトラコーマになる人が多かったことが、世界的に知られていたという。 ただ、浜子は契約によって働き、人身売買によるものではなかった。
奄美は沖縄と並んで黒糖の生産地として有名であり、一方赤穂は先進的な塩田技術による塩の生産地として有名である。労働形態の大きな違いはあるが、過酷な労働が行われていたこと以外にも、飛び抜けて富裕な現地経営者がいたことが共通している。
奄美大島では衆達として、田畑家が有名だが、赤穂では柴家、田淵家、奧藤家が有名である。江戸時代に行政支配者であった士族との関連も調べてみると面白いかも知れない。
明治以降は砂糖は台湾などの植民地支配によって廃れていき、一方、塩は専売制によって生きながらえていった。赤穂はイオン交換技術での生産が融雪剤生産や、海洋深層水の生産、赤穂ブランドによる「天塩」の販売として生き残ってはいる。奄美諸島ではキビ酢などの新商品も開発されているとはいえ、黒糖そのものは沖縄県ほどのブランド価値は維持できていない。
こうやって奄美諸島を研究し続けていることが、赤穂の歴史への関心にも繋がったことは愉快でもある。 廣山堯道氏の恩にも報いるためにも、その比較をいずれ行ってみたいと思っている。
2012年6月9日土曜日
薩摩芋の植え付け
今年は苗をいっぱい採ろうと、5月の連休には赤穂の瀬尾種苗店で、品種改良をしたという1本50円もする「べにあずま」の芋づるをを20本買って植えたのだが、温度が低かったり雨が降らなくて、いっこうに苗は伸びなかった。
上郡の方でも冬を越させた種芋を畑に植えて、トンネルをしたのだが、水をやるのを忘れたこともあって、最近になって少し伸び始めた。
仕方ないので、上郡の旬彩蔵で1本25円の「鳴門金時」を50本買った。その苗は近所の農家が作った物で、なかなか苗としては茎も葉っぱも元気の良い物だった。
その蔓は、赤穂高校の近くにある畑に持って行き、先週収穫した玉葱の畝をそのまま利用して、マルチを張り、大きなスコップで穴を開けて植えていった。先に植えた「べにあずま」もようやく蔓を伸ばしてきたので、6本ほど取って植え付けた。
昨夜から雨は降っていたが、水をたっぷり、井戸からバケツで汲んでかけてやった。
この薩摩芋、小学校でも学習で栽培するし、勤めている特別支援学校でも農園でよく栽培するのだが、簡単そうに見えて、意外と手間がかかって難しい。
雨が少なかった一昨年は、担当した学校の農園の芋に水をバケツに汲んでかけ続けたが、結局は収穫も少なく、バザーで販売することができなかった。
昨年は逆に雨がよく降って蔓もよく伸びたので、 蔓を刈り取って苗にして多く増やした、その苗にもそこそこの芋が秋にはついた。安納芋だけは駄目だった。
学校の農園の方は別の教師が主に担当していた。化成肥料を多くやったせいかもしれないが、「べにあずま」は多くとれたのは良いが、カボチャのようなでかい芋が殆どだった。
どうも、形から想像するに、何個かの芋が成長の過程でひっついてしまったような感じがした。
姫路で家庭菜園をしている人も「べにあずま」は同じ状況だったことから、品種と気候のせいかもしれない。
因みに私は「金時」系の「べにあずま」や「なると」を植えていたが、そういう状態にはならなかった。ただ、蔓を刈って少しずつ増やしたのだが、遅くなったのは殆ど芋は大きくならなかった。
実は、薩摩芋は赤穂の畑の隣や近くの人は、砂地で適しているのにも関わらず、あまりうまく作っていない。西隣はうまくできなくて、作るのを止めてしまい。水やりの大変な里芋を主に作っている。
昨年は、東隣は安納芋を作っていたが、葉が多く茂りすぎて、蔓呆けをした感じだった。そのまた東隣もうまくいかなかったとぼやいていた。
西隣の人は私の父親が薩摩芋を作っている様子を見ていたので、教えてくれたのだが、父親は薩摩芋を作る場所は毎年同じ場所にして、冬場はマルチを張って他の作物は植えていなかったそうである。
私は子どもの頃に芋を掘る手伝いをした憶えはある。芋の畝にはモグラのトンネルがあり、それを掘り続けて、モグラが出てきて驚いたのをよく憶えている。
刈り取った蔓は、畑に大きな溝をこさえて、その中に埋め込んでいた。
父親は薩摩芋を非常に大事にして、温度が15度以下にならないように、暖房をした居間のタンスの上などに新聞紙などで一つ一つ包んで段ボールに入れて保管した。
親戚から貰った紫芋なども、自分で苗を作って増やした。収穫した沢山の芋は、干して乾燥させて粉にしてパンケーキなどの生地に混ぜて食べたりもした。
学生時代、仕送りの少なかった私は家から送ってもらった薩摩芋を、ガスストーブで焼いて、食事代わりにした。だから、薩摩芋は食べ飽きて、しばらくは自分で作る気にはなれなかった。
戦時中にカボチャを食べ飽きたと言って、カボチャをあまり作らなかった父親と同じである。
私は父親ほど薩摩芋には入れ込んでいない。ただ、薩摩芋の場所はできるだけ同じにしているが、冬場には玉葱やニンニクを作っている。馬鈴薯だけは避けている。
去年は久しぶりに収穫が良かったので、薩摩芋の好きな母親にあげると喜んだ。
私は石油ストーブに石を敷き詰めた土鍋を置いて、その中で焼いて食べたし、干してつまみ代わりに食べたが、なかなかいけた。家内や息子は好みではなくて、あまり食べなかったが、弁当のおかずなどにはよくしていた。
何より、薩摩芋は上郡から遠くにある赤穂の畑で、夏場は放っておけるありがたい作物だ。
スイートコーンや落花生のようにカラスの被害もない。 肥料もあまりやらなくていい。
上郡では山に近いので猪の心配もあるし、粘土質の土壌にはあまり適していない。
今年は天候が不順な感じがする。雨も例年になく少ないので、あまり期待はできない。
去年の安納芋のように失敗しないか不安もある。
2250円の元手は何とか取り戻したいものである。
上郡の方でも冬を越させた種芋を畑に植えて、トンネルをしたのだが、水をやるのを忘れたこともあって、最近になって少し伸び始めた。
仕方ないので、上郡の旬彩蔵で1本25円の「鳴門金時」を50本買った。その苗は近所の農家が作った物で、なかなか苗としては茎も葉っぱも元気の良い物だった。
その蔓は、赤穂高校の近くにある畑に持って行き、先週収穫した玉葱の畝をそのまま利用して、マルチを張り、大きなスコップで穴を開けて植えていった。先に植えた「べにあずま」もようやく蔓を伸ばしてきたので、6本ほど取って植え付けた。
昨夜から雨は降っていたが、水をたっぷり、井戸からバケツで汲んでかけてやった。
この薩摩芋、小学校でも学習で栽培するし、勤めている特別支援学校でも農園でよく栽培するのだが、簡単そうに見えて、意外と手間がかかって難しい。
雨が少なかった一昨年は、担当した学校の農園の芋に水をバケツに汲んでかけ続けたが、結局は収穫も少なく、バザーで販売することができなかった。
昨年は逆に雨がよく降って蔓もよく伸びたので、 蔓を刈り取って苗にして多く増やした、その苗にもそこそこの芋が秋にはついた。安納芋だけは駄目だった。
学校の農園の方は別の教師が主に担当していた。化成肥料を多くやったせいかもしれないが、「べにあずま」は多くとれたのは良いが、カボチャのようなでかい芋が殆どだった。
どうも、形から想像するに、何個かの芋が成長の過程でひっついてしまったような感じがした。
姫路で家庭菜園をしている人も「べにあずま」は同じ状況だったことから、品種と気候のせいかもしれない。
因みに私は「金時」系の「べにあずま」や「なると」を植えていたが、そういう状態にはならなかった。ただ、蔓を刈って少しずつ増やしたのだが、遅くなったのは殆ど芋は大きくならなかった。
実は、薩摩芋は赤穂の畑の隣や近くの人は、砂地で適しているのにも関わらず、あまりうまく作っていない。西隣はうまくできなくて、作るのを止めてしまい。水やりの大変な里芋を主に作っている。
昨年は、東隣は安納芋を作っていたが、葉が多く茂りすぎて、蔓呆けをした感じだった。そのまた東隣もうまくいかなかったとぼやいていた。
西隣の人は私の父親が薩摩芋を作っている様子を見ていたので、教えてくれたのだが、父親は薩摩芋を作る場所は毎年同じ場所にして、冬場はマルチを張って他の作物は植えていなかったそうである。
私は子どもの頃に芋を掘る手伝いをした憶えはある。芋の畝にはモグラのトンネルがあり、それを掘り続けて、モグラが出てきて驚いたのをよく憶えている。
刈り取った蔓は、畑に大きな溝をこさえて、その中に埋め込んでいた。
父親は薩摩芋を非常に大事にして、温度が15度以下にならないように、暖房をした居間のタンスの上などに新聞紙などで一つ一つ包んで段ボールに入れて保管した。
親戚から貰った紫芋なども、自分で苗を作って増やした。収穫した沢山の芋は、干して乾燥させて粉にしてパンケーキなどの生地に混ぜて食べたりもした。
学生時代、仕送りの少なかった私は家から送ってもらった薩摩芋を、ガスストーブで焼いて、食事代わりにした。だから、薩摩芋は食べ飽きて、しばらくは自分で作る気にはなれなかった。
戦時中にカボチャを食べ飽きたと言って、カボチャをあまり作らなかった父親と同じである。
私は父親ほど薩摩芋には入れ込んでいない。ただ、薩摩芋の場所はできるだけ同じにしているが、冬場には玉葱やニンニクを作っている。馬鈴薯だけは避けている。
去年は久しぶりに収穫が良かったので、薩摩芋の好きな母親にあげると喜んだ。
私は石油ストーブに石を敷き詰めた土鍋を置いて、その中で焼いて食べたし、干してつまみ代わりに食べたが、なかなかいけた。家内や息子は好みではなくて、あまり食べなかったが、弁当のおかずなどにはよくしていた。
何より、薩摩芋は上郡から遠くにある赤穂の畑で、夏場は放っておけるありがたい作物だ。
スイートコーンや落花生のようにカラスの被害もない。 肥料もあまりやらなくていい。
上郡では山に近いので猪の心配もあるし、粘土質の土壌にはあまり適していない。
今年は天候が不順な感じがする。雨も例年になく少ないので、あまり期待はできない。
去年の安納芋のように失敗しないか不安もある。
2250円の元手は何とか取り戻したいものである。
2012年6月8日金曜日
作物と暮らし
私は結婚して子供が生まれてからこの方、畑仕事を続けている。
父親の手伝いをさせられていた頃は嫌で仕方なかったが、子どもの健康のために、無農薬で有機肥料を使って作るようになった。
畑をする人の中には、自家用の作物にもたっぷり農薬をかけて、化成肥料だけで育てる人もいる。
それなら、買って食べた方が余程安上がりだと思う。
そういう人は食の安全のためではなく、立派な作物が沢山とれるのを目的としている。
始めた頃は失敗の連続で、バージンラックで成功することもあったが、玉葱でさえまともに作れなかった。
除草剤やマルチを嫌がって、草だらけになった畑の作物は非常に貧弱だった。
化学農薬の代わりに、酢や馬酔木や煙草の吸い殻などを自然農薬として使うこともあった。
それでも病気には勝てなかった。
紙マルチを使ったがコストが高く、結局ビニールの普通のマルチを使っている。
寒冷紗を多用して、これが無農薬の本領と言える。
また、寒冷紗が無理な作物のウリバイなどにはニンニク、酢、唐辛子を混ぜた忌避剤なども使ったりもする。
意外と草木灰が青虫に効いたりする。
肥料は以前は堆肥や液肥、米糠(EMボカシ)が主力だったが、今はそれを補助的に使い(EMボカシは現在作っていない)、鶏糞と菜種油糟、有機石灰が中心となっている。それで充分である。
トラックがあれば、近くで鶏糞はただで、牛糞は安く手に入るが、残念ながら今は家にはない。
機械は草刈り機と小さな耕耘機、三カ所ある畑は広さを合計すると200坪ほどになるので必要。
畦や道の草を刈るのも一仕事である。村作業にも草刈り機は欠かせない。
それでも、なるべく運動のためと思い、備中鍬や平鍬をつかって耕したり、大鎌で草を刈ったりする。
水も用水路から柄杓でくみ上げて運んでいる。
肝心なのは無理のないように機械を用いることである。
夢は玉村豊雄さんのような生活だが、才能が違いすぎると諦めてはいる。夢は夢・・・
彼のようにはなれなくても、畑仕事が暮らしの中にあるのは、健康的で生きているという実感を感じさせてくれる。
因みに勤めている特別支援学校でも農園作業を担当している。 少しは役に立っているのである。
このような田舎でも陽に焼けることを嫌って、畑仕事を嫌がる女性や、畑仕事そのものを面倒くさがる男性も少なからずいる。
畑仕事は時給計算で行くと採算に合わない。パチンコや釣りの方が楽でスリリングだろう。
でも、それに伴う健康と美味しさと収穫の楽しみは、その採算やスリルとは別次元である。
夫婦や親子でも、畑作りは一緒にできる。人にあげても喜んでもらえる。
これをスポーツと言うべきか、ゲームと言うべきか、レクレーションというべきか・・・否
畑仕事は単なる消費ではないし、運動を伴う生産であり、暮らしの一部でもある。
発展途上国と違い、生きるためにやむなくする農業ではなくて、生きる証としての物作り。
夜勤や肉体労働で疲れている 人には無理かも知れないが、そうでない人はスポーツとはひと味違う畑仕事を味わって欲しい。
作物は天候に左右されるが、子どもよりは言うことを聞いてくれる。
畑仕事で汗をかいた後のビールはたまらない。
死んだ親父の残した畑で家内や息子と一緒に過ごす時、ささやかな幸せを何よりも感じる
父親の手伝いをさせられていた頃は嫌で仕方なかったが、子どもの健康のために、無農薬で有機肥料を使って作るようになった。
畑をする人の中には、自家用の作物にもたっぷり農薬をかけて、化成肥料だけで育てる人もいる。
それなら、買って食べた方が余程安上がりだと思う。
そういう人は食の安全のためではなく、立派な作物が沢山とれるのを目的としている。
始めた頃は失敗の連続で、バージンラックで成功することもあったが、玉葱でさえまともに作れなかった。
除草剤やマルチを嫌がって、草だらけになった畑の作物は非常に貧弱だった。
化学農薬の代わりに、酢や馬酔木や煙草の吸い殻などを自然農薬として使うこともあった。
それでも病気には勝てなかった。
紙マルチを使ったがコストが高く、結局ビニールの普通のマルチを使っている。
寒冷紗を多用して、これが無農薬の本領と言える。
また、寒冷紗が無理な作物のウリバイなどにはニンニク、酢、唐辛子を混ぜた忌避剤なども使ったりもする。
意外と草木灰が青虫に効いたりする。
肥料は以前は堆肥や液肥、米糠(EMボカシ)が主力だったが、今はそれを補助的に使い(EMボカシは現在作っていない)、鶏糞と菜種油糟、有機石灰が中心となっている。それで充分である。
トラックがあれば、近くで鶏糞はただで、牛糞は安く手に入るが、残念ながら今は家にはない。
機械は草刈り機と小さな耕耘機、三カ所ある畑は広さを合計すると200坪ほどになるので必要。
畦や道の草を刈るのも一仕事である。村作業にも草刈り機は欠かせない。
それでも、なるべく運動のためと思い、備中鍬や平鍬をつかって耕したり、大鎌で草を刈ったりする。
水も用水路から柄杓でくみ上げて運んでいる。
肝心なのは無理のないように機械を用いることである。
夢は玉村豊雄さんのような生活だが、才能が違いすぎると諦めてはいる。夢は夢・・・
彼のようにはなれなくても、畑仕事が暮らしの中にあるのは、健康的で生きているという実感を感じさせてくれる。
因みに勤めている特別支援学校でも農園作業を担当している。 少しは役に立っているのである。
このような田舎でも陽に焼けることを嫌って、畑仕事を嫌がる女性や、畑仕事そのものを面倒くさがる男性も少なからずいる。
畑仕事は時給計算で行くと採算に合わない。パチンコや釣りの方が楽でスリリングだろう。
でも、それに伴う健康と美味しさと収穫の楽しみは、その採算やスリルとは別次元である。
夫婦や親子でも、畑作りは一緒にできる。人にあげても喜んでもらえる。
これをスポーツと言うべきか、ゲームと言うべきか、レクレーションというべきか・・・否
畑仕事は単なる消費ではないし、運動を伴う生産であり、暮らしの一部でもある。
発展途上国と違い、生きるためにやむなくする農業ではなくて、生きる証としての物作り。
夜勤や肉体労働で疲れている 人には無理かも知れないが、そうでない人はスポーツとはひと味違う畑仕事を味わって欲しい。
作物は天候に左右されるが、子どもよりは言うことを聞いてくれる。
畑仕事で汗をかいた後のビールはたまらない。
死んだ親父の残した畑で家内や息子と一緒に過ごす時、ささやかな幸せを何よりも感じる
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