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2012年8月6日月曜日

酷暑こそ自転車

私はジョギングや水泳以外に自転車も趣味で楽しんでいる。
もっと、自信があればトライアスロンと言うところだが、体力的にも経済的にも自信がないので、そこまでには至っていない。
今日は昨夜オリンピックを見ていた影響もあって、寝坊したので早朝の農作業をサボってしまった。
定期的に計っている血糖値が高いので、朝の一〇時頃から思いきって自転車に乗ることにした。
農作業をあまりしていなかった頃は、早朝は毎日自転車で運動をしていた。
このところ、早朝は農作業で、夕方は暑くて自転車に乗る気にはなれなかった。

私の自転車は25年ほど前の独身時代に、通勤のために購入したブリジストンのRadacという泥よけも付いていて、6段変速のレーサータイプが一台。
どうしても、オフロードが走りたくて、無理して買った21段変速のMTB(マウンテンバイク)が1台の計2台ある。
どちらも、思い出したように乗るだけで、特にMTBは変速機が壊れてしまって、直したがうまく使えていない。
このところは、運動はむしろ室内でエアロバイクを乗ることが多かった。
というのも、自転車はタイヤの管理や、乗る時の準備や装備でけっこう手間だからである。
そして、何よりも室内のエアロバイクに乗る時は全く服装を気にしなくて、暑くなれば上半身裸でも良い。
飽きないように工夫し音楽をかけ、流れる汗だけ拭くタオルを容易さえすればいいのである。

ところが、さすがにこのエアロバイクはクーラーの効く部屋には持ち込めない。
そこで、ジョギングよりはましな、自転車に乗ることにした。
プールはこの季節は、子ども連れの親子で混雑してまともに泳げないから敬遠した。
自転車に乗るコースは幾通りか有るが、今回は日陰が期待できるコースを選んだ。
 その日陰のあるコースとは、赤穂の有年から尾崎にかけての千種川左岸の堤防道路で、特に有年から周世までは旧赤穂鉄道のあった道沿いで、林のトンネルである。
同じ道を通るのは面白くないので、行きは国道373号沿いに周世まで行った。

走り出しは普段エアロバイクで鍛えていたので快調であったが、アスファルトの道の熱風は息をするのも苦しかった。
途中本格的な自転車に乗っている人を抜いてしまい、その人に後ろに付かれてえらい思いをした。
こういう本格的な人は一見年配でも侮れない。
周世から帰りの左岸道路は、昼間でも暗いほどの周りが孟宗竹や高木で覆われている。
車や人は滅多に通らないが、サングラスは暗くて見づらいので外さねばならないほどである。
難点は道に石や小枝が落ちていたり、ひび割れていて、細いタイヤでの走行には不向きなことである。
しかし、この道はなかなか快適で、以前授業で教えたドイツの森を思い出した。

ドイツでのシュヴァルツヴァルトではハイキングや乗馬などを市民が楽しんでいたが、酸性雨の影響で森が枯れていると、環境問題では必ず教えていた。

私も通勤に以前は自転車を使っていて、これからの通勤は自転車が良いと思うが、朝から大汗をかいて職場に行くのは現実的ではない。
できれば、夏場は木で日陰ができて、冬場は寒風を防ぐための林道や街路樹が必要だと思う。
それ程スピードを出さなかったら、夏でもそれ程汗をかかなくて済むだろう。
酷暑だからクーラーの効く部屋から、クーラーの付いた車に乗って行き来することが多いのだが、結局これは酷暑を助長してしまう。
自転車道を快適になるよう整備できれば、自転車に乗る人も増えるはずである。
自転車の盛んな西ヨーロッパは確かに、日本のように山がちではないし、気候も温暖である。
しかし、日本はそれを克服する経済力が残っているはずである。
新幹線整備の復活よりも、自転車道路の整備を至急行って欲しい。
確かに、自動車ほどの経済効果はないが、医療費削減にはつながるだろうし、環境立国としての姿勢を外国に示せるはずである。






2012年8月4日土曜日

野良犬と野良猫

しばらく見なかった白と黒が半々の野良猫が子猫二匹を連れて現れた。
去年も二匹産んだと思うが、その子ども達がどうなったかは分からない。
というのも猫は増えていないように思えるからだ。
ひょっとして親猫がいなくなって、子猫が残ったのかも知れない。
子猫が生まれると言うことは、雄猫もいるわけで、同じ柄の猫を何回も見て、増えていないと思っているのかも知れない。
ここらの猫は、冬場は田んぼに捨てられた生ゴミを餌にしている。
夏場は、生ゴミ以外におそらく昆虫などの狩もしている。
というのも、畑の畦で一生懸命にバッタを捕って、食べているのを見かけたからである。
以前勤めていた山の上にあった学校の寮にも、野良猫がいて夜にやってくるカブトムシを餌にしていた。
ここらでは住み処は空き家や納屋などいくらでもあるので、不自由しない。

ところが、野良犬は一匹もいない。
そもそも、最近は雑種らしき犬も減った。
家で飼っている犬は雑種だが、野良犬だった雌犬を拾って飼っていた人から、10年ほど前に生まれた子犬をもらった。
それ以来、近所で雑種の犬から子犬は生まれていない。
ここいらで散歩に連れている犬を見ると、洋犬、柴犬、猟犬ばかりで、雑種は殆どいない。
このごろ、雑種と言えば洋犬をわざと掛け合わせた犬ばかりである。
従来の雑種の犬は野良犬の名残で、絶滅種と言うべきかも知れない。

思い出すのは私が育った赤穂尾崎の路地にいた雑種の犬たちである。
当時は飼い犬を放し飼いにする人もいて、首輪をした犬と無い犬が路地でケンカをしたり、仲良くしているのを見かけるのは普通であった。
子どもにとって、犬は身近な性教育の材料でもあった。
野良犬は多くいたけど、子ども達は走って逃げると追いかけてくることを知っていたので、トラブルはあまりなかったと思う。
それよりも大人しい野良犬はみんなから慕われて、大人でも何とか飼い犬にしようとする人もいたが、それは野良犬の方が嫌がった。
その犬は大きくて貫禄があり、犬同士のケンカを治めたりできる犬だった。
当時は街角に1斗缶の残飯入れがあって、豚を飼っている人が集めに来たりしていた。
それなどは格好の餌になったし、余った生ゴミを与える人もいた。

そういう野良犬を駆除する人がいることは当時から知っていたが、一度も見たことがなかった。
子供心には野良犬よりも、駆除する人の方が怖いように思えた。
そういう野良犬も、車社会になって多くが犠牲となっていった。
路地からは子どもの姿も、野良犬の姿も消えて、野良猫だけが残った。
最後まで車にひかれ続けているのは、野良猫と亀である。
田舎ではそれに、蛇と鹿とイタチ、たまに鳥が加わっている。
子どもの交通事故が減ったのも、子どもが外で遊ばなくなったからである。

自分も車で通勤しているので、車社会を否定する立場には無い。
ただ、車と軽車両と人が住み分けられる道路や街作りをしてこなかった日本社会を見なおすべきだとは言える。
電気自動車やハイブリッドとかいってエコや低燃費を宣伝しているが、自転車や歩きに勝るエコはない。
原発維持やエコ補助金に多額の税金を使わずに、人や自転車道路整備や電車への自転車乗り入れへの補助に税金を使うべきだろう。
いまさら、野良犬を復活させようと言うつもりはない。
だからせめて、野良人を復活させよう。
子ども達の最良の学び場は野良にあると思う。

そういえば、大学時代に友達が「野良の会」という妙なエコグループを作っていた。
彼は下宿の水槽でドジョウを飼って食べるような男で、探検部にも入って国内外の山野を駆け巡っていた。
田舎出身だった彼は、エコを唱えながら大都会名古屋に残って弁当屋さんを開いた。
エコに無関心だった私は田舎に引っ込んで、教師の片手間にエコな百姓をしている。
真逆になった二人の生活は楽ではないし、さほど悪くもないと思う。
ただ、これからはどちらも真剣に生活スタイルを見なおすべきだということは共通していると思う。





2012年7月31日火曜日

念願のポンプ

ここ数年前から、畑に水をやるポンプが欲しかった。
それでも、最低16,000円はするエンジンポンプには手が出なくて、柄杓で水を汲んでいた。
涼しい内は、これも筋肉トレーニングだとやせ我慢できた。
去年は朝早く起きて、大きなポリ容器に数10m先から汲んで、台車で運んだ。
今年の春から、用水路に水をくみ上げて、畑に流した。というのも、長く休耕田になっていたので、水路は塞がれていた。

さすがに今年の夏は、連日35℃を超える暑さ。念願のポンプを買った。
16,000円の一番安いのを買って、早速使ってみると本当に便利である。
ホースは経の違うリールホースがあったので、それを繋いで、用水路から水をくみ上げる。
畑だけでなく、家の庭にもたっぷりと水をやることができるようになった。
柄杓でくみ上げていた頃は、頑張っても200Lもくみ上げればへたってしまったし、水道の水は後の料金を考えると怖くて多く使えない。
赤穂の畑に持って行って、井戸からも水をくみ上げられるようになった。

ところが、これで楽になったと思ったら、豈図らんや!
余裕が出てきたので、草抜きを頑張るようになった。
柄杓の頃はえらくて、草は放っておいたのだが、水を吸われるのが癪で抜いてしまう。
そうすると、しっかり根の入った草はいくら水を掛けても、なかなか抜けない。
結局はえらい思いをすることは一緒である。ただし、これで作物は水不足や栄養不足から解放された。
そのお陰で、茄子も勢いを盛り返し、他の作物も元気を維持している。

機械化とは結局人を楽にするようで、新たな仕事に追い込む道具でもある。
機械化の進んだ稲作農家は、確かに昔に比べて楽になった。
しかし、機会代やその倉庫などを考えると割に合わなくなっている。
経営規模の小さい農家は買った方が安い米を、休日を使って作るのだから、くたびれ損になっている。
畑作りも、できるようになると欲が出て、機械も買うので、その分頑張ってしまう。
機械の減価償却に見合うことを考えて、機械化するのが賢明なのである。
今のところ、草刈り機と管理機(耕耘機)と今回のポンプだけだが、本当はもっと買いたいの物がある。
それは軽トラである。
機械を運ぶだけでなく、臭い肥料や作物(タマネギ、ニンニク)をステップワゴンで運ぶのは辛いものがある。
だんだんと、専業農家に近づいてきた・・・

ところで、アメリカの穀倉地帯が旱魃だと報道されている。
ついに、来るべきものが来たような気がする。
地球温暖化の影響で、食糧不足に陥ることが研究者の間で叫ばれていたが、それが現実化しつつある。
農業は初心者に直ぐに出来るものではない。
私も作物がまともに作れるようになったのは、20年以上やって、つい最近のことである。
いくら田畑があっても、経験のない跡継ぎには農業はすぐには無理である。
深刻な事態に陥る前に準備し始めた方が良いと思う。老婆心ながら・・・

2012年7月28日土曜日

ウナギ捕りし彼の川

先日、広場の草刈り作業があった。そこで近所の人が「先週は33匹釣ったで」という話をしているので、何のことかと聞いてみるとウナギを夜に釣ってきたと言うことである。
そう言えば、赤穂の隣の畑の人が、ミミズを捕ってウナギの餌にすると話していた。
千種川の河口などは昔からミミズを細い竹の針先に付けて、石垣の間などに差し入れて釣っている人がいた。
養殖ウナギが稚魚がいなくなって高騰しているというニュースとは全く無縁の話に驚いた。

私が赤穂の尾崎に住んでいた頃は、千種川は子どもの遊び場であり、漁場であった。
小さい頃は絶対行くなと親から言われていたが、大きくなるにしたがって自由に行くようになる。
当時は安い竹竿でハゼやテンコチを釣ることが多かったが、ヤスを使ってウナギやカレイを突いた。
当時はウナギは大きな石をめくれば、それ程大きくはないが、おかずになる程度のウナギは簡単に捕れた。
大人は釣ったり、潜ったりしてウナギの大きいのを捕まえていた。

ウナギは今でこそご馳走になったが、当時は牛肉が一番のご馳走で、穴子などと同様に骨まで食べさせられる普段のおかずだった。
ドジョウなどは田んぼの井戸にいっぱいいたので、それを捕ってきて飽きるほど食べさせられた。
今はそれが逆転してしまい、高級魚になってしまったのである。
牛肉はご馳走の座から、普段のおかずに落ちてしまった。

そう言えばラジオでメダカの研究者が、絶滅種であるメダカの生態がよく分かっていないということを言っていたのに驚いた。
ウナギも穴子もメダカもドジョウの身近な存在だったのに、その生態が分かっていなかったのである。
考えてみれば、蝉でさえ地中の様子などは知らないし、ツバメが冬どんなところで過ごしているのかもよく知らない。
夏になれば訪れる生き物との関わりを当たり前のこととして接していたのであるが、それらの生き物がいなくなってしまおうとしている。
家の庭のかなめの木にはニイニイ蝉が毎朝うるさく鳴いているのだが、この蝉も最近は貴重らしい。

子どもがいなくなったとか、過疎化で老人ばかりになったという寂しい話はよくマスコミに話題になるが。
ウナギがいなくなったら寂しいのではなくて、値段が上がって食べられないという話題にしかならない。
確かに安ければ食べたいというのは本音だけれど、それ以上に絶滅していく生き物を食い飽きない我々日本人のどん欲さに呆れる。
鯨は欧米人に責められて食べないけれど、ウナギは地球の果てまで行って食い尽くす勢いである。
江戸時代にうなぎ屋のために作られた食文化が、経済大国になって台湾や中国を巻き込み、世界を席巻する。
自然を愛する日本の伝統文化というのは、鯨、マグロ、ウナギを食い尽くすことだったのか。
と、食べられない負け惜しみを言いたくなる。

せめて、完全養殖が軌道に乗るまで我慢しよう。
土用の日は豚肉丼で済ました・・・ただ、ウナ肝は200円奮発して1本食べさせてもらった。
本当は安ければ鰻丼食べたかった・・・・・。
大学生の時にボーナスの出たゼミの先生が、おごってくれた専門店のウナギ尽くしが、未だに忘れられない。
二段重ねの鰻重に、ウナギの卵巻、ウナ肝のお吸い物etc 30年も前の話である。


2012年7月25日水曜日

エコな暗い夜

節電の意味もあって、夜は極力エアコンは使わずにベランダに扇風機を出して、網戸も開いて送風する。
そうすると外から虫が入ってくるので、それを防ぐことと、節電のために照明も暗くしている。
照明はまず、昼間蓄電するライトをベランダの物干しに置いていおき、夜に部屋の中に入れる。
それだけではパソコンを使うには暗いので、LEDの懐中電灯をキーボードに照射している。
暗いのに目が慣れてきたが、何よりも却ってリビングの明るさの方が落ち着かなくなる。
以前から寝る前には気分を落ち着かせるために、小さな明かりに変えていたのだが、仕事をする時もあまり明るくない方が疲れないし、落ち着くことがわかった。
以前は目が悪くなるから明るくするように言われてきたが、最近はそう言われなくなったので目に不安を感じていない。
そもそも、ディスプレーが充分明るいのである。

暗いのが落ち着くことでふと思い出したのは、やはり奄美のことである。
私が調査していた奄美の村落の家屋には、まだあまりガラスサッシが無かった。
暑い夏の夜は板戸を開け放っていたので、蚊取り線香は欠かせなかった。
当然当時は島に発電所があって、時々停電はしたもののちゃんと電灯は点いていた。
知り合った青年団の仲間と飲むと、決まって電気を消して懐中電灯を蛍光灯に照射して雰囲気を出していたことを思い出す。

これから琉球諸島では八月行事という夜の祭りに向かっていく。
本土でも盆踊りの季節になる。今でこそ照明機器で明るいので月の光は必要ないが、昔は月の光が大切な照明だった。
だから、十五夜に合わせて踊りが行われたのである。
電灯無かった頃、普通の家では蝋燭なども滅多に使わず、月が昇るのを心待ちにした。
それが、月待ちであった。
テレビもラジオもなく、歌ったり話したりするしか娯楽がなかった頃の夜の風景である。

そう言えば私も幼い頃、夏の夕方になると路地に出て、夕涼みをした。
母親は温もった石に腰掛けると気持ちいいと言っていた。
玄関先で穴子などを七輪で焼いていたりした。
路地は大人や子どもの憩いの場でもあった。
だいたい、車など通ることはなかったからだ。
何よりも蚊帳が夏には欠かせなかった。網戸など無かったからだ。

上郡の今住んでいる村は夜だけでなく、日中も川の端の家などは涼しい。
それなのにエアコンを使う家が多い。特に最近建てた家は風通しを考えていない。
太陽光や都市ガスを使ったエコも良いが、もう一度自然に寄り添う生活スタイルを、新しい形で実現してみても良いような気がする。
明かりの少ない暗い夜の生活も良い。
治安が悪いヒートアイランドの都会ではできないことかも知れないが・・・

2012年7月21日土曜日

悲しき上郡

私は上郡には住んでいるが生まれ育ちは赤穂なので、郷土愛というのはあまりない。
ただ、「ど田舎の上郡」と職場で言われると「ムカ!」とくる。
室町時代にこの播磨の地を支配していたのは、この上郡の赤松氏である。
むしろ、播磨の国一揆を起こしたのはあなた方の先祖じゃないのと馬鹿げた反論を内心したくなるが、日本史でもマイナーな歴史なので面白くも何ともなく、口にできない。
赤穂事件よりも嘉吉の乱の方が将軍を殺したのだから、すごいことなのに上郡をそれに結びつけて捉えてくれない。
ただ、赤穂は塩田が事件後も栄えたが、上郡は乱後寂れていった。

始め何でこんな千種川の狭い平地にそのような力を持った勢力が誕生したのかよく分からなかった。
それは、鳥取・島根の日本海側の古代先進地域と、瀬戸内海側の中央先進地域を結ぶラインとして流通を抑えていたこと。
そして、千種川沿いのたたら鉄の生産との兼ね合いが大きいと言うことを知った。
赤穂は塩田開発される前は、海の迫った何もないところだった。
赤穂の人は千種川沿いの人が多く移り住んだように思える。
実は私の父方の祖母は、小赤松という上郡よりも奧の上月町出身である。
何の縁もゆかりもない赤穂の鳥撫へ嫁ぐはずもないので、 昔からのつながりが有ったのだろうと思う。
石原という姓も赤松氏の関連で見いだされるし、上郡には石原姓が多い。
出自をたどればひょっとして私の祖先も上郡かも知れない。
そうすると、「ど田舎上郡」と言われたら、素直に「ごもっとも」と言ってはならないと思うのである。

ただ、悲しいのは上郡は中世の先進地域でありながら、いや、それ故かも知れないが、近代化の波に乗りきれなかった。
現在、網干のJRの車両施設は、当時の計画では上郡に作ろうとして地元の反対でできなかった。
大鳥圭介という明治でも活躍した有力な官僚がいながら、企業誘致は図っていない。
その流れは、今でも市町村合併の失敗。給食がない県下唯一の町となってしまっている。
それでも、私は近代化から取り残されて、昔そのままの村と、一部開発されたベッドタウンの上郡は 気に入っている。
椿峠から眺める高田の扇状地は夏は「我谷は緑なりき」と言いたくなるし、秋は「黄金の稲穂」を輝かせてくれてる。
また、赤穂のように松をあまり植林していないので、秋の紅葉は最高に美しいパノラマを展開してくれる。

上郡にもっと人が住んで欲しいのだが、気をつけて欲しいのは村と街を混同しないことである。
村付き合いは戦前からの流れがそのまま残っている。
高田台や近年開発されている山野里あたりの住宅地とは全く付き合いが違う。
新興住宅街の感覚で 移り住むと直ぐに引っ越しせねばならなくなる。
私の生家の赤穂の新興住宅地は地元の人が多いので、業者の開発した宅地よりも閉鎖的であるが、村よりは開かれている。
村の中で歴史を背負う気持ちでないとやっていけない。
私は「いつでも赤穂に帰ってやる」と思いながら、根を下ろしてしまった。
家内は折角仲良くなった友達と離れるつもりはないようだ。
それも「悲しき上郡」の魅力によるものかも・・・







2012年7月18日水曜日

Smoke on the water

ジョンロードが亡くなった。これでDeep Purpleも終わりだろう。
私たちの世代だけでなく、Deep Purpleは特に、Smoke on the waterを、ロックをやり始めた頃に練習する。
私が中学校の3年頃から大学に入った頃まで、一番のめり込んだのは実はロックバンド演奏であった。
ギターは本当に哀しいくらいへたくそだったのだが、ボーカルには少々自信があった。
当時ヤングリクエストというラジオの深夜放送でアマチュアバンドの演奏を流してくれるコーナーがあった。
高校2年の時にその番組に出るために、バンドを組んで練習して出演した。
その時にドラムを叩いてくれたのが、今はサッカーの全日本チームのチームドクターをしている柳田君である。
彼はドラムは初心者だったが、サッカーをやっていたこともあって、リズム感が良かった。
ただ、キダタロー氏はわざわざ音声室にまで行って、加工前の音まで確認してくれたのだが、賞めてくれた後で、批評されたのはドラムとボーカルのリズムが時々狂うということだった。
その時は、Deep Purpleはやらなかった。あまりにも一般的すぎたからだ。

私は高校2年の文化祭で体育館ステージにバンドを組んで出場した。
勉強も運動もせずに輝ける唯一の機会であった。
ところが、私は歌詞を憶えるのが大の苦手で、しかもSmoke on the waterを書いた歌詞の紙をステージで見失ってしまった。
仕方ないので、憶えていた1番を3回繰り返した。英語なので誰も分からなかった。

2年前、職場の忘年会で前年に引き続きバンド演奏をすることになった。
初心者のベースの人がレッスンで習っているSmoke on the waterを演奏することになった。
メインはEric ClaptonのLaylaで、軽く入りに使うつもりであった。
ところが、思い出して練習してみるとボーカルが結構難しい。
全部旋律が違うのである。
ということは 1番を3回繰り返すなんてあり得ないのである。
私のボーカルは全くド素人であったことを再認識した。

その姫路の忘年会会場では、他の職場の忘年会もやっており、リハーサルの段階でクレームがついてしまった。
というのも、セミプロだったリードギターがマーシャルアンプのでかいのを持ち込んで、がんがんやり始めたのだからたまったものではない。
結局、音量を調節できず、演奏はあまり良いできではなかったが、何とかLaylaの高音もこなすことができた。
51歳にして、やっとLaylaを曲がりなりにも、ステージで演奏することができてそれで満足だった。
しかし、本当は歌詞の内容も理解せず、ボーカルとしての表現力を一番試されるSmoke on the waterに内心ショックを受けていた。
その前年はDeep PurpleのHighway Starをそれなりにこなしていたので、余計にショックだった。

おそらく、これからも演奏し続けられるだろうSmoke on the waterは、シンプルに思えて非常に奧の深い音楽だった。
華やかなリードギターやボーカルに比べて、テクニックは評価されながらあまり表に出てこなかったジョンロード。
ステージを見たリードギターのTさんによれば、一番誠実に演奏していたという。
若い頃は何も見えていなかったことも、この歳になって見え始めて、また演奏し治すことに別の価値を見いだせそうである。

仕事が終わってからの練習は大変で、去年は病気を理由にパスした。
今年は是非忘年会で演奏したくなった。