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2012年11月18日日曜日

千種への水汲み2012年秋

千種まで家内と水を汲みに行った。
夏、千種で汲んだ水も少なくなって、家内によるとお茶やコーヒーにしか使わず節約していたという。
農作業などが忙しくてなかなか行けなかったのだが、今日は雨が止みそうな夕方に行くことにした。
この季節としてはかなり強い雨が朝から降り続き、昼過ぎになってやっと小降りになったので出かけることにした。
このところ朝はせわしなく出かけ、帰って来るときは真っ暗なので、家の回りの山の風景が色づいていることに気がつかなかった。
ここはわざわざ紅葉狩りに観光地に行かずとも、紅葉のパノラマが身近に展開している。
犬の散歩で近所の人と出会うときの挨拶などで、「山がきれいね」と言葉を交わしたりする。
そんな紅葉のパノラマは千種の近くまで続く、国道373号線の道沿いにも、楓の赤や、銀杏の黄色が色を添えてくれる。

ところが、千種に近づくにしたがって、山の景色はつまらなくなる。
植林された針葉樹が多くなり、頂上付近とか一部にしか紅葉はなくて、見方によってはまだら禿のようだ。
生活のための針葉樹だから仕方ないのだが、観光に力を入れるなら、もう一度紅葉の山にしたほうが良いように思う。
山の崩壊した和歌山県ではどんぐりを植林していると報道していたので見習って欲しいと思う。
ただ、冬になると雪が積もって真っ白になるので、針葉樹は気にならない。

千種川の水は今朝からの大雨でどす黒く濁っている。
始めは河川工事のせいかと思っていたが、よほど激しく降ったらしい。
その増水した川を今日も緊急河川工事が続き、ダンプが多く行き交っていた。
土曜なのに中学生が丁度クラブの帰りか、自転車で帰宅中であった。
道幅が狭くて、ヘルメットを被った女子中学生の後をダンプがついていくのは、少々可笑しくもあり、危なかっしかった。
いつもは朝に水汲みに出かけるので、交通量は少ないのだが今日は多くて、上郡からずっと前を走るプリウスは結局千種高校の傍まで一緒だった。

水汲み場は誰もいなくてほっとしたとはいえ、夏もそうだったが水汲む人に殆ど会わなくなったのが気になった。
雨が降っていたせいもあるが、何となく不景気で水代も節約しているように思えた。
そう言えば、自分の勤めていいる学校も、ずっと教師がこことは別の処で水を汲んで来ていたのだが、負担が重くてこれからは中止になった。
健康は労力と金銭の負担に大きく関わる。
そして、何よりスキー客も減ったと聞く千種町の収入源も危うく感じてしまう。
水そのものの収入の他、ついでに道の駅なので買い物もするからだ。

家内は携帯を持ってくるのを残念がった。
水汲み場の楓の木が色づいてきれいなのだが、去年は今時分に来て、携帯のカメラに納めて待ち受け画面にしていた。
今回は私も持っていなくて、お地蔵さんの笠にもなっている、きれいな楓は写真に撮ることはできなかった。
赤と緑のコントラストが美しい楓は、雨に濡れていっそう艶やかで美しかった。

水汲んだ帰りには千種の道の駅に寄って、蒟蒻や赤米や山芋の小さいのを買った。
面白かったのは手作りの蜂箱が売ってあったのだ、杉焼きをして飾りにしても良さそうだった。
新米も出ていたが高くて手が出なかった。
今回も白旗城の麓、赤松ではペット用のでかい豚を見かけた。
お婆さんらしき人が傍にすわって眺めていたが、灰色の斑のある豚が2匹もいた。
以前はこの豚を散歩させているのに出くわして、驚いたことがある。
上郡でもペットとして飼っている人のことを聞いたが、どうしても最終的な処分を想像してしまう。

上郡に着いたときには薄暗かったのだが、途中で買い物をしている内に真っ暗になってしまった。
いつもは自宅に帰って直ぐに、家の納戸にしまうのだが今回は明日にすることにした。







2012年11月16日金曜日

東京(葉山・スカイツリー)へのドライブ

11月2日から3日迄、休みが取れたので家内と一緒に私の母親を連れて東京へ自家用車で行った。
この目的は神奈川県の葉山に弟が家を新築していたのに、一度も見に行っていなかったので、年老いた母に見せてやるということ。
そして、弟の健康状態が気になったので、様子を伺いに行くことだった。
自家用車を用いたのは、母が足が悪いと言うこともあるが、安く済ませることであった。
三人で行って、交通費だけでは4万円以内に収まっている。
その代わり、疲れが家内や母親には出てしまった。
名古屋までは既に日帰りで行っていたので、四日市から伊勢湾岸自動車道、東名、新東名などは初めてであった。
途中、休憩や昼食をとって、行きは朝の10時半に出て葉山の弟宅には午後7時頃着いた。
中でも景色が良かったのは、駿河湾沼津SAあたりで、そこは駿河湾を見渡せる絶好の景色、平日であるのにも関わらず混雑していた。
富士山は遠くから雪の積もった白い頭が見えていたのだが、近づくと雲に隠れてしまって麓しか見えなくなっていた。
富士山こそ見えなかったが、夕陽に赤く染まる駿河湾と沼津の町の景色は今でも脳裏に焼き付いている。

葉山では弟夫婦に御用邸近くのマーロンという有名なレストランに連れて行ってもらった。
夜なのですばらしい景色は見えなかったが、太平洋の波の音は瀬戸内海に住む私達には新鮮だった。
この、葉山は多くの人の憧れの地ではあるが、もともと地元の人には住民税が高く、夏は海水浴客で混雑して大変だそうだ。
弟の家は高台にあって、遠くに江ノ島も見えるところにある。
不便な所であるにも関わらず、地価がすごく高いのには驚いた。

別のもっと高級な高台では芸能人も別荘などを持っているようで、弟の嫁はコンビニ働いていて、有名は芸能人が何度か訪れてきたことを話してくれた。
ただ、弟宅の100m程近くで母親が子供を二人も殺害するという事件があったというし、このところ逗子での殺人事件もマスコミでよく取り上げられている。
病める都会の一面も葉山はもっていた。
何より、東名を下りてからの渋滞には閉口した。ただ、関西と違い割り込みが殆ど無く、整然と車が流れていくのには驚いた。

翌日は母の希望であるスカイツリーを見に行った。
5月に仕事で訪れた時には遠くで眺める程度だったが、傍まで行くとその巨大さに圧倒された。
スカイツリーそのものは2時間待ちと言うことで、登れなかったが、隣のビルの31階で東京の景色を眺めながら食事をとった。
私は大学院時代に1年目中野、2年目新宿区西落合、3年目横浜緑区長津田に住んでいた。
大学は東横線沿いにあった。
家庭教師のアルバイトをしていた関係で、このあちらこちらに行く機会が多くて、ある程度の土地勘があるつもりだったが、全く浦島太郎状態であった。
だいたい、新宿の高層ビルの方向でのさえ始めは分からなかった。
巨大な大都会の景色に圧倒された。

弟宅からの帰りは想い出の鎌倉から湘南の海岸線沿いを通って帰った。
学生時代は、当然、車で通ることは殆ど無かった。
江ノ電に乗るのが楽しみであった。
家内にはこの思い出話が過去への執着に感じたようで、後で嫌みを言われた。
ちょうど、湘南マラソンが終わった後で、空いた道路を夕日の中、駆け抜けることができた。
それから先は再び長い長いドライブが始まり、家に着いたのは4日深夜の1時だった。

家内と交替しながら、Stepwgnで往復した1,400km、葉山から東京は弟が運転してくれた。
燃費は12km/lと伸びたし、帰りは深夜割引で通行料も半額になって安く付いた。
この旅行から帰って暫くは、疲れもあったが、カルチャーショック状態だった。

仕事で行ったときは仕事の方に気が向いていたので、それ程感じなかったのだが、自分の生活を再認識する機会ともなった。

あの巨大な東京には、今は住む気になれない。
巨大地震の畏れよりも、異常に増幅した人口都市の不気味さが堪えられないように思えた。
上郡のど田舎で、畑をいじりながら生活している者にとっては、観光する魅力はあっても住む魅力は無い。
転職して東京に暮らすと言うことも考えたことはあったが、今はもういいという感じである。
東京から田舎に戻ったときは、挫折感に苛まれたが、田舎で何とか暮らせる今の方が良かったようにも思えるようになった。

仕事のしすぎで健康に問題を抱えている弟は家を建てたこともあって、二度と赤穂には住むことはないという。
確かに、葉山は魅力的な街だが、老後を過ごすには過酷なところのようにも思えた。
それは、この上郡の田舎の高台に住む老人にも言えることなのだが、車が運転できないと暮らせない。
葉山近辺では、運転できても駐車場がゆったり利用できる店が少ないそうだ。
金さえあれば何とかなりそうだが、無ければ無縁社会の悲劇を招きそうだ。

今回、まさに葉山とスカイツリーは今まで読んだ多くの文献以上に私の思考を変えてくれた。


2012年10月28日日曜日

愛車Vitzとの別れ

別れは突然におとずれた。
何のことはない、たまたまStepwgnのオイル交換に行き、壊れているバンパーや傷のいったヘッドガラスの見積もりを聞いた。
車検を通すには修理に20万円近くかかる、実はVitzもエアコンのコンプレッサーが壊れて修理に10万円かかるというので、替わりの車の購入を考えていた。
前からVitzがミッション車なので、今度もミッション車にしたかった。
今はオートマチックの方がアイドリングストップなどで燃費が良いとされている。
ただ、ミッション車は自分で乗り方を工夫できるので、燃費も良くできるし、走りも面白い。
Vitzが27万kmも乗ることができたのも、1000ccのミッション車だったから燃費が普段でも20km/lとよく、故障も殆ど無かったからだ。
12年前に購入したVitzは当時も人気車だったが、オートマチックが主流でその燃費は15km/lほどだった。

Vitzは家内がMoveで事故をして廃車にしたことをきっかけとして購入した。
事故で軽四の恐さを思い知ったので、せめてリッター車にすることにした。
今回は軽四も考えたが、確かに税金は安いが多くの距離を長く乗るには軽四は適さないことが分かった。
ハイブリッドも確かに燃費は高いが、私のような乗り方をすると充電器を途中で交換しなければならなくなると言われた。
ホンダで勧められたFitはミッション車もまだ普通に出しているので、購入は以前から考えていた。
たまたま、売れ残って工場にあるFitのミッション車が、破格の値段で買えると言うことに心を動かされた。

Vitzは元々家内の買い物用の車であって、私は殆ど乗っていなかった。
7年前に長期研修で上郡から社町まで大学院に通うことになり、燃費の良いVitzに乗ることになった。
往復150kmほどで、ガソリンは満タンにしても一週間持たなかった。
その時に2年間乗り続け、鹿児島に資料収集に行く際も往復1600km以上を乗り切った。
その後はしばらくStepwgnで通勤していたが、4年前に往復80km今の姫路の職場になってからもう一度Vitzが私の通勤車となった。
4年前にも名古屋までVitzで小さな学会にも行き、新名神を乗り切った。
1000ccのVitzの最大の欠点は上り坂の弱さであり、高速道路などではトラックにあおられたりして、嫌な思いをした。
それでも、満タンにすれば上郡から鹿児島まで途中給油せずに行けることは嬉しかった。
確かに渋滞している時はクラッチを踏む左足がだるくなったが、それも慣れると平気になった。
狭い路地でも走行でき、駐車も転回も容易にできた。
姫路バイパスでは婦人用とみなされて、割り込まれやすいのだが、逆に割り込むのも容易である。
エアコンが壊れてから暫く暑い日はバイパスでも窓から手を出して走行したが、心なしか後ろの車は車間距離を取ってくれた。

数々の思い出のあるVitzを手放すのは寂しい。
前にトランクのある古いミゼットを大切に乗っていた人がいたが、クラッシックカーにするほどの値打ちはない。
燃費の悪いStepwgnを廃車にして、Vitzを乗り続けることも考えたが、便利さでStepwgnに軍配が上がった。
飼っていたペットが死んだ時とも少し違うが、昔の人が愛馬を手放す時と同じ気持ちなのかも知れない。
たかが、鉄の塊の機械ではあるが、ハンドルを叩きながらよく頑張ってると夫婦で賞め合ったVitz。
もうすぐお別れである。





 


2012年10月21日日曜日

鳥撫の祭り

私の本籍は未だに鷆和(天和)である。
鷆和は鳥撫と眞木の村を合わせた地名で、親からは家の先祖が名付けたというが真偽の程は分からない。
私は幼稚園に上がる前まではこの鳥撫で育った。
今でこそ近くに三菱の工場などがあるが、以前は地名通り鳥が撫でていくような自然豊かな所であった。
本家は鳥撫なので親に連れられて、盆や正月は必ず来たし、夏休みには独身の叔母や6歳年上の従姉もいたので長い間預けられたりした。
そういう時には海でカブトガニを捕ったり、山で蝉をとったりしてよく遊んだ。
近所の子どもとも仲良しだったが、幼い頃は従姉の関係から女の子と遊ぶことが多かった。
また、鳥撫の子供会の行事にも参加したりしていた。

鳥撫の荒神社の玉垣の一番目立つ所に祖父の名前がある。
祖父は元御影石を運ぶ船乗りで、一匹狼のような人だった。
祖母が信心深い人だったので、神社の方への寄付はちゃんとしていたのかも知れない。
ただ、祭りそのものには伯父や祖父はあまり関係していなかった。
それでも昔は10月25日は祭りと言うことで呼ばれていった。
鳥撫の祭りは赤穂市 の無形民俗文化財にも指定されていて見所が多い。
尾崎の祭りは鼻高や獅子舞は男舞といって雄壮なのだが、鳥撫は曲芸に近い。
獅子が梯子を使ったり、肩の上に立ったりする。
(そのあたりは新聞社などのネットに写真やYouTubeに映像があるので見て貰いたい。)

尾崎の祭りは鼻高にあこがれるが、鳥撫では子どもは唐子にあこがれた。
幼い頃はオタヤンといって、獅子頭をかぶった人の後ろでお多福の面をかぶり女装した人がふざけるのが恐かった。
囃子の音も笛が中心で、哀愁が感じさせられ、一度聴くと耳から離れない。
曲芸有り、道化有りの楽しめる祭りである。
 
 

姫路の祭り

私は中学校・高校と姫路に通っていたが、一度も姫路の祭りを見に行ったことがない。
ただし、たまたま一度だけ姫路城内の屋台の繰り出しに出くわしたことがある。
市内から多くの大人屋台が練りだして壮観な眺めであった。
私らが子どもの頃はどこの地域も平日に秋祭りが行われ、地元の学校や仕事は休みか時間短縮が多かった。
地元から離れていたので、学校は当然休みではない。
それでも、飾磨の生徒は平気で学校を休んだり、早退しているのを見てうらやましく思っていた。
これは今も変わらない。先日の15日の朝も姫路バイパス・姫路東ランプに降りる時は車は全く渋滞しなかった。
地元の生徒も祭りと言うことで休んでいる。灘のケンカ祭りである。
教師も地元の人はしっかり年休を取る。そうしないと地元では白い目で見られるらしい。
飾磨だけではなく、網干の魚吹神社の祭りも同じで、学校や仕事を休むのに躊躇いはないようだ。
多くの地区が休日に祭りをするようになったのに、飾磨と網干は従来の暦通りである。
驚くのは祭りの前日と当日、そして翌日の3日休む人もいることだ。
祭りの翌日は後片付けということらしい。

私は特別支援学校に現在勤めているが、普段あまり音楽が得意ではない生徒も祭り太鼓の囃子を打つのがうまい。
しかも、全部の流れを憶えていて、「よーいやさ」以外の囃子声もちゃんとつける。
小さい頃から聞いたり見たりして身体にしみこんでいるのだろう。
学校の音楽の授業が安っぽく思えたりする。
そういえば、私も赤穂尾崎の祭りの「ドン ドン ドデドン」という単調な拍子は身体にしみこんでいる。
私の父親は赤穂鳥撫出身だったので、太鼓より笛の音をよく口ずさんでいた。
灘は時に死者も出るケンカ祭りだから、若干問題も感じるが、祭りは生きる張り合いにもなる。
寂れた田舎で祭りが廃っていくのを経験するにつれうらやましくなる。
赤穂の尾崎でも大津でも練習の太鼓の音が夜に聞こえ出すと、回りの空気が変わったように思えた。
生活に根ざした祭りとその音色は、どんな芸術的な音楽よりも、心を時めかし時間を超えさせてくれる。



2012年10月7日日曜日

薩摩芋の収穫

少し早いと思ったが、ニンニクを植える場所をつくるために掘ってみた。
今年は雨が少なく、学校の農園の薩摩芋は生育があまり良くなかった。
我が家の赤穂の畑では意外にできが良い。砂地という条件が良かったのかも知れない。
今日掘ったのは、ベニアズマのハイブリッドだと勧められて1本50円もしたものだ。
高価な苗は蔓が伸びた際に切って増やしていった。
結局20本買って3倍近く増やしたので、1本あたりは15円程度にはなった。
今回良くできていたのは、ちゃんとマルチを敷いていた所の物で、かなり大きいのもあり、量も多かった。
ハイブリッドと言うから何と何を掛け合わせたのか聞くべきだったが、まるで、教科書に出てくるキャッサバのような感じだった。

農作業はたいてい家内と一緒にするのだが、芋掘りは私が備中鍬で掘って家内が芋づるの始末をなどをした。
隣接したカボチャを植えていた所は、今年は雨が少なくさっぱりで草まみれになってしまった。
隣の畑のお婆さん達も見物にやってきて、「雨が降らんのに、草だけは ようはえる」と言っていた。全く同感である。
切った蔓で増やすのは、なるべく早い時期にせねばならないが、やはり遅くした所はできが悪かった。
私がよく通った奄美では収穫しながら、芋づるを植えていくことを考えると、その気候の違いがよく分かる。
結局、25株ほど掘って、コンテナ1杯半強になった。
曇り空でそれ程暑くはなく、作業ははかどったが、蚊にはまいった。
そして、何よりも大変だったのは、蟻に脛のあたりを何カ所か咬まれて、痛がゆく腫れ上がったことだ。
生のヨモギを揉んですり込んだが、あまり効き目はなかった。
やはり大事なのは、ちゃんとズボンの裾を締めておくことである。
いちよう靴下の中に入れて、地下足袋を履いたのだが、途中で外れていた。

農作業は収穫が多くあると嬉しいが、家内と一緒にやれるのも嬉しい。
私の父親は自分の思うようにしたい方だったので、母親はあまり手を出さなかった。
それでも私らが小学生の頃は、薩摩芋の収穫には必ず家族に手伝わせた。
以前はモグラや鼠が多くいて、その穴を掘り進んで父親と捕まえたことが懐かしい。
私は農作業は家族でやれるから楽しく感じられ、ずっと続けたいと思うのだ。
私の父親は、薩摩芋には執念とも思えるほどの力が入っていて、色んな品種ににもチャレンジしていた。
収穫した芋は家で殆ど食べるのだが、親戚にも配っていた。
父親は弁当にも薩摩芋を持って行くくらいの芋好きだったが、私は下宿していた時に、家から送ってもらった薩摩芋を冬場の主食にしたことがあった。
アパートのガスストーブの上で、アルミ箔に包んで焼いて食べた。
貧しい学生時代に食べ飽きていたのだが、最近はまた美味しく感じるようになった。
今日の夕食に出された2週間前に試し掘りした芋は、油であげただけのものだったが美味しかった。

九州や奄美沖縄では薩摩芋は主食であったり、加工品であったり日常的なものだ。
こちらでは、おかずの意味もあるが、焼き芋などはおやつに近い。
職場でも芋を掘る話をすると、焼き芋を食べたいと若い女性などは暗に要求するほど人気がある。
私は親兄弟や親戚以外には、あまり収穫物をあげられない。
というのは、やはり売っている野菜と比べられるのが怖いというのがある。
プロの作った品物にはかなわない。見栄えや味が違うからである。
薩摩芋も売っているような形の良い芋はあまりとれない。
薩摩芋はコツさえ知っていれば、手間の少なくて収穫の多い優れた作物だ。
今後は自信を持って、職場や近所に配れるほどの物を作りたいと思っている。

2012年10月6日土曜日

尾崎の祭り

尾崎のトーニン(頭人)ヤイイェー ホイホイー
というかけ声は、尾崎の八幡さん(赤穂八幡神社)の祭りでおどけたヤッコが囃す言葉である。
私は元々は尾崎の生まれではなかったのが、3歳頃に家族で引っ越しをして、祭りを経験してきた。
一番思いで深いのは、近所の家が 頭人があたり、父親がそのヤッコ役をやった時である。
今は、地区自治会で 頭人をつとめているが、当時は個人の家が行っていた。
これは塩田地主の名残で、頭人があたると散財しなくてはならなかった。
おそらく浜子(塩田労働者)のご機嫌をとる目的もあったのだろう。

尾崎でトーニンというと肩車を意味するように、頭人の家の縁者の子どもが稚児となり、ヤッコに肩車される。
私は一番前で鉾を肩にしている人が一番えらい人と思っていたが、どうも露払いの意味らしい。
この行列には親戚縁者が正装して並ぶのだが、そのしんがりに昔の衣装箱を担いだヤッコが数人ふざけて回る。
この役を私の父親はしたのだが、顔はおしろいをして、紅や墨で落書きをしている。
このヤッコは酔ってふざけて盛り上げる役である。
八幡神社からノットと言われる分社まで、獅子舞や御輿、屋台、頭人行列が連なるのである。

普段は無骨な父親だったが、酒を飲むとやたら陽気な一面が出る。
父親がふざけている様子を見るのはどうも恥ずかしかった。
祭りが終わって、出されたサイダーを持ってヤッコの格好そのまま家に戻ってきて、大泣きしたのはまだ幼かった三番目の弟である。
顔を落書きしたままで、おそらく喜ばせようとしたのが、却って恐がらせてしまった。
私はそんなヤッコよりも、幼心に獅子舞の鼻高をやりたかったが、祖母は鼻高をすると運が悪いといつも言っていた。
それでも、男の子は小さい頃は皆、その鼻高の舞の真似をして遊んだ。

祭りはもう一つ幼い頃の思い出がある。
この尾崎の祭りには出店が多く出るのだが、ある年には南京鼠を売っていた。
私はその鼠を買って、チュータと名付けて遊んだ。
その鼠は自分の服の懐の中に入れて、動くのを楽しんだりもした。
祭りの後もあって、食事後、不覚にも私は服のままつい眠ってしまった。
親から「チュータは?」と起こされた時には、無残にも私の身体に押しつぶされた亡骸があった。
「チュータ チュータ チュータが死んでもた!」と泣き叫んだが、まさしく後の祭りである。
その後、ことある毎に親からは、 「チュータが死んでもた!」とからかわれた。
今となっては懐かしい思い出である。