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2014年3月4日火曜日

軽トラの本領発揮

軽トラに乗り始めて半年以上経つが、通勤に使うことが主で、本来の力を発揮させずにいた。
雪が降った時はタイヤはスタッドレスでは無いので、家内が使っているFitで通った。
寒い朝はキャブが狭いせいか、直ぐに内側が曇り、エアコンを付けると燃費は予想以上に悪くなった。
軽トラに信頼もなく、燃費にも不満を持っている状態であった。
生徒からも、買ったばかりなのに「いつ買い換えるのか」と聞かれ、「死ぬまで乗り続ける」と見栄を張った。
内心はスバルの水平エンジンの車が欲しいとは思いつつ、自分の身の丈に合っているのはこちらだと自分に言い聞かせた。

そんな折、前々から、有機農業には必須の堆肥を作るために、落ち葉を拾いを決行した。
以前、姫路に通勤していた頃は、近くの椿峠の溝などにたまっている落ち葉が欲しいとずっと思っていた。
また、山頂集落である小野豆付近でも、いっぱい落ち葉があることは知っていた。
ところが、忙しさや寒さに負けて、どうしても拾いに行けずじまいだった。

意を決して、大きな熊手と竹箒、籾殻入れの袋をホームセンターで購入して、この週末に拾いに出かけた。
土曜日には、小野豆の山に軽トラで上り、道にたまっている落ち葉をかき集めた。
平家の史跡がある頂上付近まで上る道は急勾配で、少々不安であったが、セカンドで登り切った。
ただし、マフラーの焼ける嫌な臭いがした。
やはり、圧巻は悪路で、舗装していないでこぼこの道、水たまりをどんどん進んでいくことができた。
悪路を通るのは、以前乗っていたピックアップでの方が優れているが、何よりも落ち葉を積み上げるのが楽である。
しかも、狭い道の片隅に気兼ねなく駐車できる。
畑まで積んで帰って降ろす時も、横が開くので随分楽である。

さすがに山道を走るとガソリンも多く食って、元々少なかったので日曜日には給油した。
その帰りに、高田台から上郡に抜ける山道に入ってみた。
道ばたの落ち葉を掃除している人がいたが、その上の方で斜面に落ち葉が捨てられていたので拾った。
畑は前日に積み上げた落ち葉があったので、溝をまたいで畦にタイヤを乗せてその奥にまで進めた。
4WDなので、少々の溝や、穴にタイヤが落ちても平気であった。

まだ、新車と言うことで、オフロードで使うのはためらいもあったが、これでこの車への信頼ができた。
ピックアップに比べて、車体が低いので、大きな段差には対応できないが、その分小回りで切り抜けられる。
山に行って作業したりするのも、景色が良くて楽しいものである。
今日も仕事からの帰りに、千種川の東側の土手道(赤穂鉄道跡)を周世から通ってみた。
残念ながら落ち葉を拾うには無理があったが、通勤路に別の世界が広がったようにも思える。
軽トラは大切に乗るよりも、自由に使いこなすことの方が肝心だと分かった。

梅の開花

うちの玄関は、臘梅の香りで満たされている。
先日、畑のそばに咲いていたのを、私が二枝折ってきて、家内が活けた。
庭の白梅は、やっと数輪開きかけている。
散歩で通る道すがら、梅の咲き具合を見るのも楽しみだ。
山際のお寺の前の紅梅は、今が盛りだし、近所の家の庭の白梅はだいぶ咲きかけた。
桜が一斉に開くのとは違って、梅はかなり咲く日が違う。
観賞用の梅と、実を収穫する目的の梅とも様子が違う。
じつはうちの庭の梅は、実の収穫用の品種である。
臘梅も庭にはあるが、八重の花びらで香りはそれほど強くなく、咲くのも遅い。

今日は御津の綾部山の梅を見に家内と出かけた。
ここは週末は混むので、平日に休みが取れないと行けない。
4年間は特別支援学校にいた都合上、この時期に平日には休みが取れなかった。
今は普通校なので、テスト期間中に代休を取ることができて、家内も年休でつきあってくれた。
私の綾部山とのつきあいは、子供が幼児の頃からで、もう20年以上経つ。
子供らと弁当持参で来て、賑やかな山の斜面で食事をしたのを思い出す。
梅の幹もその頃よりもだいぶ太くなって、風格を感じる。

今日は天気は良かったのだが、風が冷たく、煙突の煙も真横にたなびいていた。
長い間寒かったせいか、咲き始めという段階で、山全体が色づくまでには到らない。
お客さんもそれほど多くなく、屋台の店も暇そうだった。
平日ということで、ご老人がほとんどで、寒さもあって子供連れは多くなかった。
高価なカメラと三脚をもって、年配の人たちが写真を懸命に撮っていた。
私も出かける前は覚えていたのだが、忘れてきてしまった。
家内の携帯で写した。

以前と違うと感じたのは、山からの風景である。
街の家が増えて、田園が減った。
そのかわりに、梺の菜の花畑が綺麗だった。
そして、犬連れの人が多いということである。
以前は子連れの人が多かったが、これも時代のながれだろう。
いずれ、私ら夫婦も孫ではなくて、愛犬を連れてくるのかもしれない。

以前来た時は暖かくて、梅ジュースを飲んだが、今日は甘酒を飲んだ。
ベンチに腰掛けて、瀬戸内海の景色を眺めた。
春の海というには、寒々しかったが、遠くの徳島まで見ることができた。

帰りは久しぶりに、大津のイオンタウンに寄ったのだが、いつも来る休日とは様子がまるで違う。
驚いたのは、男性の老人がたくさんベンチに腰掛けて時間を潰していることである。
確かに、家に居るよりも暖かく、馴染みの人と話もできるのだろうが、ボウーと座っている風景は少し異様である。
ただ、田舎では家に閉じこもって、テレビを見続ける老人が多いのだから、こうして外に出てくる方が健全なのかもしれない。
田舎ではしっかり歩けば、寒さも気にせず散歩で梅見ができるのだけれど、そういう人は少ない。
ダイエットで散歩と言うより、「梅見に歩いてくらー」と言った方が粋のように思えるのだが・・・

2014年3月1日土曜日

厳粛という苦行

昨日は勤務している高校の卒業式だった。
卒業式には厳粛に行うタイプと、和やかに別れを惜しむタイプがある。
自分の母校は人数も一学年140名程で、一人一人証書をもらい、校長と握手をして和やかだった。
長年勤務した特別支援(養護)学校も、式はなるべく厳粛にしたいという向きはあったが、送別会は楽しく行った。
それ以外の県立高校でも、160名程の大学附属高校は、一人一人証書の手渡しで、リアルタイムに映像を流したり、答辞の時に音楽と画像を流して和やかな雰囲気だった。

いままでどちらかというと和やかな卒業式に慣れていた身としては、今回の卒業式は辛かった。
今朝も歯医者に行って治療を受けたが、じっとすることの辛抱は同じであると思った。
歯医者は30分程で済むが、卒業式は2時間と長い。
私は顔がかゆくなっても、なるべく掻かないように努めながら、じっと同じ姿勢を保ち続けた。
静粛な時間に、会場の外のカラスの鳴き声があざ笑うかのように響きわたった。
号令とともも、一斉に立ち上がり、礼をする。まるで軍隊のようであった。
この苦行に耐えるために、思いついたのは「座禅」であった。
以前座禅のまねごとをしたことがあったが、それと同じように目を半開きにして、なるべく何も考えないようにした。
色々と式辞や祝辞があるのに失礼と思うが、あまりにも形式通りの言葉には、正直「無の境地」で望むしか無かった。

そんな中で、心を動かされたのは卒業生の答辞であった。
途中でオルゴールのメロディーも加わって、自然と涙がこぼれ落ちた。
おそらく、会場の誰もがこの答辞に救われたと思う。
残念だったのは、少々長かったことである。
それ以外は、最も素晴らしいものであった。
厳粛であったからこそ、オアシスのように潤いをもたらせてくれた答辞に、私は深く感謝した。




2014年2月23日日曜日

成否を分けたもの

このところソチの冬季オリンピックの話題がマスコミで多く流れる。
授業でも浅田真央選手のことを取り上げた。
本番で実力を出し切ることの難しさを受験に絡めた。

私は中学受験も予備校入学試験も、大学院修士も、教員採用試験も一度で合格した。
ところが、大学受験は一校の一コースしか合格していない。
現役も浪人も私学や国公立を含めて、多く受験したが全部不合格だった。
自分でも何がそうさせたかを、深く考えることさえ避けてきた。
今思うと、大学受験以外は落ちても他に行くところもあったし、駄目元というところがあった。
何せ大学院などは指導教官からは、受かるのに3年はかかるだろうとまで言われていた。
受かると思っていなかったので、合格発表時に与路島に調査に行っていた。
結局、それがもとで奨学金をとりそこねて、その後の研究生活面での致命傷になった。

開き直りというのは、いつでもできるわけではない。
浅田選手のように金メダルを期待された立場で、開き直りなどできないだろう。
期待をプレッシャーに感じず成功する選手もいるわけだから、皆がそうだとは言い切れないのだろうが。
ここまで練習したのだからとか、これほど勉強したのだからと後は運しか無い、と開き直れる程、強い人はそう多くはいないだろう。

ただ、人生という長いスパンで考えると、成功と失敗というのは分からない。
たまたま、合格した大学のコースが肌に合ってその道を進むことになった。
しかし、うまく合格した大学院は、多くを失って転向せざるをえなかった。
教員になって良かったかどうかは、まだ結論は出ないが、次のステップでそれが分かるだろう。
要するに、次にうまくつなげられるかどうかが、成功と失敗の評価だろうと思う。
次を見据えることはできないにしても、努力したのだからどんな状況でも何とかなるだろうと思うしか無い。
そう受験生にエールをおくるしかないのです。



2014年2月11日火曜日

書き終えた墓碑銘

赤穂の地元紙「赤穂民報」に西畑俊昭氏が、広島大学より博士号の学位を授与された記事が載った。
私は生徒に、先輩であり、この学校の教師でもあった西畑氏の功績を説明し、このように研究分野でも活躍している人を目標にして欲しいと説いた。
そんな矢先、西畑氏の訃報を聞いた。

私は西畑氏とは教師として新任の時からの知り合いで、広山先生の片腕で大先輩であった。
一年程前は、定期検査で病院に行くとよく出会うので、待ち時間の良い話し友達にもなっていた。
これまでの研究を本にまとめ上げていたことは聞いたので、病気を押して無理をしていたのかなと思った。
氏の著作を手に取ると、その長年の積み重ねと、緻密な研究がよく伝わってきた。
64歳という若さなので、これからもっとこの研究を、多くの人に伝えられるはずだった。

ただ、一年前に病院で話していて、一番楽しそうに話してくれたのは、孫の子守のことだった。
通夜の会場でその様子がスクリーンに映し出された時に、よく伝わった。
会場の前に飾られた学位証も立派だったが、家族との写真の方が西畑氏の誇りのように思えた。


赤穂弁丸出しで、形式張らずにざっくばらんに、しかも、鋭い指摘を良くされていた。
腰に手ぬぐいをぶら下げて、スクーターに乗って通勤していた様子を今でも思い出す。
広山尭道氏は塩業史の研究を、「終わった塩業の墓碑銘を書くようなものだ。」と言われていた。
西畑氏は広山氏から受け継いだその仕事を立派になし終えたように思う。




2014年1月26日日曜日

小樽の苦い思い出

修学旅行の最終日より早いもので一週間経った。
もう遠い昔のように思えてくる。
だから苦い思い出も、笑い話にできる。
実は、旅行前に土産代や食事代のためにお金を用意していなかった。
現金をかき集めて、8000円程でクレジットカードもあるし何とかなると思っていた。

送り返す荷物に入れるために、まず宿泊ホテルで土産のチョコレートを買った。
本当はここでクレジットカードを使うべきだった。
最終日の小樽では、自由行動で昼食を食べる
私は他の多くの職員と何も考えずに寿司屋に入った。
これが大きな間違いだった。
品書きを見ると、最低でも1300円程、家内から北一ガラスが欲しいと言われていた。
出発前日にお金を用意していなかったので、買ってこなくても良いとは言われていた。
それでも、一度欲しいと言う言葉を聞いたからには安物でも買おうと思っていた。
他の職員全員が同じ倍の値段のする寿司を頼み、私一人だけ一番安いものを頼まざるを得なかった。
他の職員にも気まずい思いをさせているなとは思ったが、財布を空にして帰る勇気はなかった。
サービスで出してくれた、タコの卵の寿司も便乗して申し訳ないと思いながら頂いた。

食事が終わると逃げるように、私は一人北一ガラスのアウトレットの店に行った。
アウトレットとはいえ2~3割引き程度で、そこそこの値段はした。
100円ショップのコップと変わらないのにと思いながら、安いコップを2つ買った。
本当はペアグラスという要望だったが、アウトレットでは無理であった。
店員さんがなぜアウトレットかを説明してくれたが、私には安ければそれで良かった。
財布の中には1000円札一枚が残った。
生徒に会ったので昼食は何を食べて、いくらしたか参考までに聞いた。
1500円くらいが多かったが、中には3000円以上や、節約して500円という生徒もいた。
皆、お目当ての海鮮丼が多かったが、ラーメンという生徒も少なからずいた。
生徒と同じ値段くらいの昼食をとったと言うことで、少しはほっとした。

家に戻ってから、北一ガラスのコップを開けてみた。
100円ショップと変わらないと思ったコップが、一つは綺麗な薄ピンク色をしていた。
もう一つは、歪んではいたのだが、手作りの味が良かった。
買ってこなくて良いよと言っていた家内も喜んでくれた。
普段のビールを飲むのに使えば良いと思っていたのに、しまい込まれてしまった。
今日も、口元の少しかけた陶器のコップで、第三のビールを飲んだ。
北一ガラスには、本物のサッポロビールが似合うのだろうと苦笑いである。





2014年1月21日火曜日

富良野

正直に言うと、引率で行く修学旅行には苦い思い出が多くて、気が重かった。
しかも、スキーは20年ほど前に信州に修学旅行に行き習った程度である。
私は特別支援学校では東京ディスニーランドや長崎、普通高校では海外が多かった。
2学期の球技大会でクラスのメンバーが足りなくて、卓球を行い腕が上がらなくなった経験から、今回はスキーはするつもりはなかった。
出発も早朝で、4時には起きなくてはいけなかった。

家を出かけるときに、ふと走り去るものがいる。
キツネだ!
これから行く北海道にはキタキツネがいるが、上郡にだっているぞと愉快になった。
何となく幸先がいいような気がした。

伊丹空港までバスで行き、飛行機で千歳空港に向かう。
伊丹空港で生徒と待機していると、後ろで聞いたような声がする。
前任校の教頭である。
聞くと引率で団長として沖縄の宮古島に行くという、私にはそちらの方が断然魅力的に思えた。
上空から眺める琵琶湖あたりの冬景色も素晴らしかったが、中央の席だったので景色はあまり楽しめなかった。
着陸間近になってみる北海道の白一色景色は、いよいよ別世界に来たという気持ちにさせた。

初めて見る北海道の広大な冬景色にしばらく圧倒された。
バスガイドさんが北海道の方言を話してくれたが、「手袋をはく」という播州弁との共通の言葉にガイドさんがかえって驚いた。
ただ、北海道には方々から移民があったので、兵庫県からの移民者の影響ではないかとガイドさんは解釈された。
淡路島からの移民は有名だが、一番不毛な場所の開拓で苦労したようだ。
私はなるべく自分の研究から気持ちを離そうと心がけたが、どうしても移民やアイヌの民族問題を考えてしまい素直にガイドさんの説明を聞けなかった。

旭山動物園ではペンギンの行列をまず見ることができた。
小規模なこの動物園が、あの巨大な上野動物園をしのいだことに改めて驚いた。
ただ、サファリーパークとは違い、動物にずいぶん無理をさせているように感じた。
沖縄の美ら海水族館もそうだが、観光のためには必要な施設なのかもしれない。

夕方の四時半には、暗くなり車はヘッドライトをつけなくてはいけない。
三〇分ほど時差で明るい時間帯を損した気持ちになった。
富良野のスキー場に近づくと、あたりは真っ暗でその中にナイターのオレンジ色の明かりが山の斜面を照らしていた。
稲作のためにわざと街灯を少なくしている地元上郡の暗さと対照的に思えた。

富良野の景色は素晴らしかった。
私は生徒の様子を見るために歩いて上まで上がった。

なるべく、ゲレンデに入らないように、隅っこを歩いたので、雪に足がのめり込んで歩くのが大変だった。
ただ、斜面でスキー板をはいて、我慢して静止している生徒が愉快に思えた。
滑ることができない状態では、歩いた方が便利なのである。
危険を冒して雪山に登る登山者の気持ちの一端も少しはわかった。

二日間も講習を受けると、生徒たちはずいぶん上達した。
日頃、体育などが苦手な生徒も、楽しんでいるのが嬉しかった。
私も滑りたい気持ちになったが、また肩を痛めて迷惑をかけてはならないと気持ちを抑えた。

スキーも終わり、富良野からの帰りに立ち寄った小樽は、まさしく観光地で、兵庫県からの3校の高校生で溢れていた。
家内に頼まれていた北一ガラスのコップを買うために、昼食を節約した。
それでも普段食べている弁当寿司の3倍の値段を出したが、味はむしろ落ちた。
そばでその倍の値段のを、食べている同僚の寿司は、ずいぶんおいしそうだった。
観光地は安くておいしいものは、よほど慣れていないと無理だということを、付き添いの地元の看護師さんから教わった。
生徒の方も、とてつもない値段の昼食をとるものもいれば、普段と同じ額の生徒もいた。
北一ガラスのコップの値打ちはわからなかった。
百円ショップのコップの方がいいように思えたが、家に戻って来て改めてながめると、手作りの良さが伝わってきた。

今回は私としては二度目のスキーの修学旅行だったが、出発や到着時の引率以外の教師の応援には頭が下がった。
出発時は朝の5時前から、帰着時は夜の11時近くまで交通整理などを行ってくれた。
来年からは信州なのでこういうことは無いという。
この高校にとって最後の北海道の修学旅行になるかもしれない。
私にとっては、初めての北海道だったが、今まで経験した修学旅行の中でも、いい経験になった。
心配された大きなけがや病気、トラブルもなくて、生徒も楽しそうだった。
私は年齢的にもこれが最後の修学旅行の引率になるかもしれない。
生徒たちにも、おそらく授業風景は忘れても、修学旅行の思いでは忘れないだろう。
江戸時代には若者はお伊勢参りをして大人になったいうが、生徒たちも一歩大人に近づいてくれたかなと思う。

旅から戻って見る日常の周りの景色は違ってみえる。
景色だけではなくて、なぜか将来に対する自分の気持ちも変わったようにも感じた。
私はかつてフィールワークに出かけて、何ヶ月も旅に出たこともあったが、たった三泊四日の旅でも意味のある旅はある。
キタキツネには残念ながら会えなかったけれど、青い鳥ならぬ、幸いをもたらすキツネさんはそばにいた。
丹頂鶴も見なかったけれど、コウノトリが地元にはいる。
北海道の素晴らしさと、地元の良さを教えてくれた旅だった。