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2014年4月8日火曜日

寄り添うということ

家内が今日から入院した。予定では二週間の滞在だ。
家内が家を空けるのは、子供が入院した時以来である。
私は仕事や研究調査で家を空けることはたまにあったし、3年前には2週間入院した。
下宿の経験の無い家内にとって、一人で外泊するのはほとんど初めてのことである。
手術への不安も大きいだろうが、心細いだろうなと気にかかる。

いつもの場所に家内がいないというのは、寂しいと言うより、帰りが遅いなと言う感じである。
というのも、仕事の関係で家内が私より遅く帰ってくることがままあった。
先に飲んで眠ってしまうこともあって、起こされることがしばしばあった。
今日は起きているのに、当たり前のことだが、いっこうに帰ってこない。
メールが来たので、返事を書いたが、気になって電話した。
電話は会話が長く続かない。
家内とは昔から長電話したことが無いのである。
こたつに入ってテレビを見ながらやドライブだと、たわいも無いことをずっと話し続けるのに・・・
病室は大部屋で、喋ることはなるべく控えねばならなかった。
これから毎日見舞いに行くにしても、家に帰ってからは、「ああ、今日も帰ってこないのか」と思い続けなくてはならないのだろう。





2014年4月4日金曜日

駅

先日の日曜日、姫路に行った。
20年程前に勤めていた学校の友人たちと会う、毎年一度の恒例の同窓会のためである。
昨年まで姫路に勤めていたが、姫路駅を利用するのは、学校行事で出かける時だけで、年に数度だけであった。
姫路駅やその周辺が改築工事でどんどん変わっていくのは、利用する度に分かっていた。
完成した姿を見たのは初めてであった。
なにせ今の職場に移ってから、鉄道を利用したのは約一年ぶりだったからだ。
その完成された駅と駅周辺に、姫路のイメージの変貌を感じた。

私は、幼い頃から親に連れられていく、楽しい場所は姫路だった。
動物園、駅ビル、サラリーマンスタンド、ヤマトヤシキ等々・・・
父親は「バス乗って、電車乗って、姫路行こう」と自作の歌を子供に歌った。
私は中学受験で一人で通い出し、中学校から6年間通った。
駅は、駅そばの臭いの漂う、雑然とした場所だったが、一時間に一本しか無い電車を待つのに長くいる場所だった。
憧れの女性に会えるのもホームであり、同じ席に座る期待のときめきがある場所でもあった。

大学に行ってからは、帰省して乗り換えで降り立つのも姫路駅で、ホームから揖保乃糸のネオンを見て、帰ってきたなと思った。
通勤が自家用車になり、年に数度しか利用する機会が無くなったが、それでも待ち合わせる場所が駅中央だったりしたので、思い出深い
いつしかホームが高架になり、いつもの7番ホームは無くなった。
そして、50年あまりの多くの思い出が詰まった駅やその周辺が消え去った。
城は修復して原型を留めるけれど、駅は便利さと美しさを求めて変貌する。
東京駅のように歴史的な建築価値が無くても、時代に耐える継続性というコンセプトも欲しいと思った。

姫路からの帰りに、家内の車での迎えを待つのに利用した駅は有年駅だった。
連絡が遅くて、長い時間をそこで過ごすことになったので、駅周辺を眺めていた。
この駅の説明文には「明治23年以来の面影を残す駅」とあった。
その駅の前には新しい駅の完成図が掲げられていた。
気がつけば北側に新しいホームができていた。
この駅舎や、歩けば音のする陸橋ともお別れなのである。
ここも時代を変えてしまうのだなと思った。

2014年4月1日火曜日

輝やきながら、さようなら

彼女は、けなげにお手製のクッキーを、赤いハートマークの絵柄のはいったすてきな袋に包んで、お世話になった先生の机に配って歩いた。
春休みで職員室にいる先生は多くなかったが、手渡しできる先生には「ありがとうございました」とお礼の挨拶をして回った。
二年生の終わる3月31日で学校を離れる、私が担任している女子生徒である。
その姿がいじらしくて、涙が止まらなかった。
決して、きれい事で済むような一年間では無かったけれど・・・

彼女はフルートが上手で、吹奏楽部のステージ演奏では、輝いて見えた。
それと同じくらい、今日の彼女は輝いて見えた。
明るい笑顔で去って行く生徒を見送りながら、気持ちのやりどころは無かった。



2014年3月31日月曜日

久しぶりのこうちゃん

先日、たまたま姫路に行くのに利用した駅で、前任校で担任したことのあるこうちゃんに再会した。
介助の人と一緒に、ホームにベンチに座っているこうちゃんに、懐かしくて話しかけた。
こうちゃんはよく発作を起こすので、ヘッドギアーを付けている。
電車が大好きで、電車の絵のカードを見て、有名な列車を言い当てた。
本物を見たり、乗ったりするのも大好きで、今日も一駅だけ乗って戻り、その後マクドナルドで昼食をとるという。
こうちゃんに「先生の名前は?」とたずねる
答えられないので、
私から「い」というと彼は「い」
「し」というと「し」
次は自分で「ら」と続けてくれた。
以前から彼は、「いしはら」とは言えずに、「いはら」となってしまっていた。
覚えてくれていて、嬉しかった。
介助の人とこうちゃんの高等部での様子を話をした。
 乗り込んだ電車は赤と緑のツートンで、その電車もお気に入り、一番先頭の車両で、人が多くて立ったまま話をした。
 たった一駅はあっという間に時間が過ぎてしまった。

出かける前は雨が降っていたので、億劫な感じがしたが、こうちゃんに一年ぶりに会えたので、これだけでも気持ちが晴れた。
姫路では、以前勤めていた学校の仲間と一年に一度の同窓会だった。
こちらはそれぞれの職場の、世知辛い状況報告のようになった。
帰りは家内に家の近くの駅まで迎えに来てもらったが、その時にこうちゃんのことを思い出して
「ブン ブン ブーン 蜂が刺す チクッ」と歌った。
実は、こうちゃんは人差し指を立てて振りながら、 「ブン ブン ブーン」とよく歌った。
そこで私は 「ブン ブン ブーン 蜂が刺す チクッ」とこうちゃんのほっぺをつついた。
本当は 「ブン ブン ブーン 蜂が飛ぶ」なのだが、静かにしなくてはいけない時にするので、少々懲らしめの意味もあった。

こうちゃんは障害が重くて、トイレに行く時にもいつも付き添わなくてはいけなかった。
わがままを言ったり、わざと悪戯をすることもあったが、何故か憎めなかった。
彼の担任になる教師はいつも大変苦労したが、皆彼のファンになった。
実は、私は去年一年間、一度も電車に乗っていなかった。
一年に一度の電車の利用で、こうちゃんに再会するとは奇跡だった。
こういうことがあると、ファンの一人としては神様がいると思いたくなる。
、


2014年3月22日土曜日

クラス解散会

私は前任校の特別支援学校以来、ここ5年間担任をし続けてきた。
授業形態も内容も大きく違う学校で共通して心がけたことは、家族的な雰囲気にクラスがなることだった。
だから、少々の言葉使いのまずさも大目に見てきた。
それは、親に対してずっと敬語で接する子供がいないのと同じだと思っていた。
確かに教師は社会に出た時に身につけなければならない、言葉遣いや礼儀作法を教えねばならない。
しかし、生徒はそこのところは、分かっていて卒業してから出会うときちっとできている。

管理職になったある教師は、「教師は役人だ」と言った。
私は常々、「教師は職人だ」と思ってきた。
確かに、明治以前の寺小屋や塾の先生と、それ以降の学校の先生とは大きく違う。
ただ、役人的な教師が犯した間違いで、戦時中いかに多くの教え子が死んでいったかをずっと語り継がれたはずだ。
いつの間にか、文部省対日教組というような図式に置き換えられてしまった。
しかし、職人である教師は組織を超えて、自分の信念と力量で教育ができると私は思い続けてきた。

残念ながら私はクラスの生徒とはうまくやれても、教員組織とはあまりうまくやれなかった。
前任校などでは高等部の副部長という立場でもあったが、組織をうまくまとめることはできなかった。
今は役職はついていないが、組織の流れにうまくなじめないことをよく感じている。
だから、クラスの生徒には「私の指導が悪いので、来年度は担任はクビだろう」といってきた。
これはクラスの単語テストなどの合格者が少ない事への、生徒に対する叱咤の意味を込めて言った。
実のところは、自分の不適応の本音だった。
そして、クラス全員が英単語テストで合格したら、家でとれたサツマイモをご馳走すると、黒板の上にサツマイモを飾っておいた。
生徒たちは「イモパ(サツマイモパーティー)やろう」と言い続けたが、結局最後までできなかった。
仕方ないので、終業式の日のLHR終了後に解散会をすることにした。

学級の何人かが、歌を歌ってくれた。
学級委員長などは、黒板の上に飾っていたイモをマイクに見立てて踊りながら歌ってくれた。
私は包みの裏に「From Kiyo With Love」と書いた、キットカットをご馳走した。
そして、選曲に困ったけど、前日書いてもらった作文に、「先生のB'zが聞きたかった」というのがあったの思い出した。
「いつかのメリークリスマス」を歌った。

そして、最後は皆で「ultra soul」で盛り上がった。
皆で記念写真を撮る前に、二学期の委員長が代表して色紙を渡してくれた。
その色紙を持って写真を皆で撮った。
後で読んだ色紙にはお礼の言葉などや、来年もよろしくという言葉が書いてあった。
中でも、いつも叱っていたある生徒が「先生にはお世話になりすぎました」とあった。
そのウィットに富んだ言葉を同僚の教師に見せると感心された。
私は「これは、もうこれ以上必要ないと言うことやろね」と苦笑した。

「今回の解散会のような楽しくて、心温まる機会があると教師になって良かったと思う。
自分は良い生徒たちに恵まれている。
ただ、教師になって8割方は失敗したと思っている。」
と色紙を見ながら隣の若い先生に呟いた。

「いつまでも、手をつないでいられると 思っていた」 

組織にうまく適応できない老教師の心のつぶやきがもう一方であった。





2014年3月15日土曜日

早春の鳥たち

口笛を吹いたら、鳥がやってくるというようなメルヘンチックな場面なら良いのだけれど、簡単に呼び寄せる方法がある。
この季節に、畑で耕耘機を使えば良いのである。
先週の週末には、冬の間放っておいた畑を、小型耕耘機で耕した。
すると、地中の虫を食べる小鳥が色々と寄ってくる。
小鳥に関しては、大目に見ているのだが、カラスだけは例外である。
いつも作物を荒らすカラスは追っ払う。
小鳥たちの様子を見ながら畑を耕すのも楽しいものである。

そして、毎年うちの庭で繰り広げられる、赤い実の争奪戦。
うちの庭には、柊南天、紅白の南天、先祖返りしたバラの赤い実がなる。
それらは真冬にはあまり見向きもされないが、この季節には主にヒヨドリがやってきて食べてしまう。
一番人気なのは柊南天の実だが、葉っぱが尖っていたそうなのに、まるで急降下爆撃機のように、木の中に突撃して食べていく。
困るのはあたりに糞をまき散らして、おいていくことである。
近くに置いてある車の窓ガラスに付くとやっかいである。
本当に見事に平らげていって、一つも残らない。

ここまでは我慢するのであるが、我慢できないのは梅の花を食べる雀である。
毎年、梅の花を食べて実が少なくなるので、ネットをかけたり、百円ショップのカラスを使ってみたりした。
ネットは確かに良いのだが、後で外すのがやっかいである。
テングス糸も使ってみたが、それほどの効果が無い。
おもちゃのカラスもそれほどの効き目は無かった。
今年は駄目元で、黒マルチの使い古しで破れたのを、くくってみたら意外と効果があった。
だから、やと遅咲きの梅の花が満開である。
今晩は月も大きく、夕方には梅と月が重なって趣があった。
もう少しすれば、如月の望月【きさらぎのもちづき】と家内は言ったが、それに梅の花が加わるのである。

うちの近所には、カラスや鳶以外にもいろいろな猛禽類が飛んでくる。
大きさも鳩程度のものから、鳶くらいのものまである。
おそらく鷹や鷲の一種なのだが、飛び方がカラスや鳶とも違うし、留まっているのに近づくと直ぐ逃げる。
また、毎年おなじみのケリも賑やかに田んぼを飛び回っている。
そうそう、ヒバリも日中は元気に歌っている。

貯水池

泳いでいるカモ

散歩道の梅
散歩をしていて楽しいのは、そういう鳥たちに出会えるからである。
わざと貯水池の土手に上ると、カモなどの水鳥たちがいっぱいいる。
飛んで逃げるのもいるが、平気で向こう岸に行って泳いでいるのもいる。
水鳥といえば、赤穂の千種川の河口付近のカモの多さである。
おそらく猟ができないので、安心して過ごしているのだろう。

冬の鳥たちが、また去って行くと夏の鳥たちが訪れる。
もう少しすれば鶯もやってくるだろう。
名も知らないが、竹藪で綺麗な声でさえずる鳥もやってくる。
そういう鳥たちを見るたびに、図鑑で名前を調べようと思う。
カメラで撮っておきたいと思ったりもする。
しかし、一番良いのはいつでもそういう鳥たちが周りにいて見られるということである。
田舎の里には鳥たちを呼び寄せる魅力がある。
忙しくて時間の無い人をには、何の魅力も感じないだろうけれど・・・

2014年3月9日日曜日

パッチアダムス

私は機会をみてパッチアダムスという映画を生徒に見せている。
実話に基づいているが、かなり脚色されていることも確からしい。
生徒は自分なりに理解して、映画から学ぶものが多いようだ。
担任しているある生徒は、ことあるごとに「パッチアダムス」と唱えている。

私が、この映画を見せる目的は、既成の権威にとらわれずに、自分が正しいと思うことを学び、そういう仕事に就いて欲しいと言うことだった。
自分の進路選択や取り組みの参考になればと思って見せていた。
しかし、現実は大学進学にしても、その後の就職にしても、厳しいことの含みも持たせていた。
実際のパッチアダムスにしてももっと、泥臭く活動していたようだ。
私自身も、理想とする教育と、実際の学校現場での違いという現実。
自分がしたかった仕事と、生活のために続けている仕事の違いを身にしみて感じてきた。

何度も何度も生徒とこの映画を見ていたのだが、何度見ても同じ場面で涙が出てしまう。
一番の感動は、退学を取り消すための公聴会の場面だが、その時の演説と途中で登場する癌患者だった子供に心が動かされる。
最近、どうしてもある生徒のことを理解してもらいたくて、映画のこの演説を引用した。
映画では医師の資格が無いのにも関わらず、医療行為をしたことのかを問われた時
「医師だけがケアを行うのでは無く、患者もまたケアを行う。誰もが医師で有り患者である。」
というシーンがあるのだが、これを学校にも当てはめた。
「君たちは生徒だが、同時に先生でもある。困っている仲間を見たら先生になったと思って接して欲しい」と呼びかけた。
どこまで、私の真意が伝わったか分からないが、その後の生徒の変化から気持ちは伝わったと思っている。

しかし、教師としての現実は権威というものの一人歩きに立ち向かう術を、組織の中では持てないということである。
仲間が救おうと努力しても、組織の枠の中では救えないこともある。
ただ、その人が生きていこうとする過程の中では、いくらかの手助けになったであろうと思っている。
真の医療を行うために、実際のパッチアダムスは他の所で仕事をせねばならなかった。
真の教育活動や学問を行うためには、それを成り立たせるための現実の仕事をせねばならない。
映画のように最初から寄付などというのはあり得ないのである。
私はパッチアダムスのように、もう若くは無いけれど、自分なりのパッチアダムスを組織を超えて実行したいと思っている。
そもそも、私はいつも組織からはみ出していて、居場所がころころ変わってしまう・・・