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2016年5月1日日曜日

半農半師

定時制の高校に勤めだしてから一月が経とうとしている。
私の勤める定時制は13時20分から21時50分までの勤務である。
当初、自宅にいる午前中は、自分の研究に時間を費やすつもりでいた。
ところが今は、季候も良く農作業も多い時期でもある。
私は農地を借りて畑をしているのだが、地主さんが亡くなり、畑も多く作ることになった。
そうすると、自ずから畑仕事が多くなった。

実のところは、私は部屋に引き籠もるのは子供の頃から苦手である。
人類学という学問に取り憑かれたのも、フィールドワークが魅力的であったからである。
今は出版という目的があるので、文献にひたすらあたっているのだが、早く終えてフィールドに戻りたい。
全日制校勤務の時には、週末には部活動か農作業をしていた。
今は平日でも朝6時に起き,、犬のジョグ散歩をしっかりして、午前中は農作業か読書をしている。
農繁期なので週末は晴れたら農作業一筋である。
田舎にいても、私くらいの年齢で、農作業をしている人はあまりいない。
若くて農作業をしている人は、外国からの研修生であったりする。

同じ上郡で兼業農家の先生が、私が定時制に異動することを知って言った。
「いよいよ、本格的に農業をするのですね。」
私ははっと、「そうだ!その道があった」と思った。
本当は異動に際しては農業のことは全く念頭に無かった。
しかし、運命のいたずらか、異動するとどういうわけか、農業に傾いてしまっていた。
飯が食えなくて、持ち出しの多い研究よりも、農業の方がまだ見返りがあるのも確かだ。
この際は開き直って、晴耕雨読ということにしても良さそうな気もする。
近所の農家は車よりも高いと農機を使って、やむなく田畑を守っている。
私はおいしくて安全な作物を親・家族や知り合いに食べてもらうために農業をしている。
そして、昼間肉体労働をしている生徒たちとも、共感し合うためにも農業が必要な気がする。
ただ、生徒たちの多くは室内労働で、私が一番黒いのはちょっと恥ずかしい。

2016年4月24日日曜日

夢は夜開く

定時制の学校に換わって、二週間が経った。
まだまだ落ち着いた状況では無い。
一日のペースをどのように組み立てていくかも、よく分かっていない。
今まで午前中を自由に使えたのは休日だけだった。
今は毎日自由に使える。
飼い犬との散歩も、休日と同じコースでしっかり歩ける。
畑仕事もすることができる。
当然読書や、仮眠をとることさえできる。
その一方、夕方から始まる授業は、空腹との戦いでもある。
帰宅してから飲食しようと、夕方は腹もたせしかを食べていない。
眠くは無いのだが、夜も10時頃になると頭が働かなくなる。

同じ敷地内にあった定時制の高校の様子を全く知らなかった。
夜遅く体育館で、スポーツする様子は不思議な感じがした。
全日制の生徒は、暗くなって帰宅することを心配した。
ここでは女子生徒でも、夜の10時でも自転車で帰宅する。
自由な服装、ピアスにも慣れた。
体育の授業で、ピアスを外すことから始まるのも驚いた。
多くの生徒がアルバイトなどの仕事をしてから来る。
私も農作業を午前中に頑張ったときは、夕方は体が重かった。
きっと力仕事をしている生徒は辛いこともあるだろう。
登校拒否の増えた中で、こうして頑張る生徒をみると励まされる。
生徒の服装や言動にはまだ違和感を感じているが、きっとこれが普通に思えてくるのだろう。

繊維産業などが若者に二交代勤務を課していた頃の産物である定時制。
赤穂の繊維産業は消えてしまったのに、定時制だけは残った。
学業に専念できる方が確かに良いのかもしれない。
ただ、世の中の仕事に触れながら、学業の大切さを知ることも良い勉強だろう。
生徒に課した自己紹介の書面では、夢を多くは書かれていなかった。
夢を持っていても書けないのか、書かないのかは分からない。
夢を持つことさえも忘れているはずは無いと思う。
ただ、今を精一杯生きるしか無いことも事実だろう。
私自身、教師になって初めての経験をしている。
望もうが望むまいが、退職は目の前である。
その時こうありたい夢を、今実現するためにがんばっている。
生徒と同じように、夢への可能性は、この夜のがんばりにある。
将来の夢は、夜開く扉をもっている。

2016年4月17日日曜日

離任式のYou Raise Me Up

4月8日の午後に前任校(といっても同じ敷地内)の離任式があった。
私は以前から離任式で歌を歌うことが、何度かあった。
肢体不自由の特別支援学校では、生徒と一緒に歌った「風になりたい」をギター1本で歌った。
総合科学の大学附属高校では、オリジナルの「心の絆」という曲を、録音とともに歌った。
前任校では、離任式にふさわしい曲を探して練習していたが、間に合わなかった。
そこで、文化祭で他の職員と体育館で歌い、昨年はYou Tubeでも流したYou Raise Me Upを歌うことにした。
アカペラで、間奏はハーモニカを使うことにした。
ハーモニカはチューニングの意味も持っていた。

当日、私はいつでもまた話はできるので、思い出の曲を歌いますといきなり歌い出した。
文化祭の時と違い、厳粛で静まりかえっていた。
途中のハーモニカの間奏もとちって、生徒が笑うのも見えたが、そのまま続けた。
そして、歌い終わったとき、温かい拍手をもらった。
離任式というのでは無くて、一つのステージのようだった。
後で聞いたのだが、司会の先生が号令をかけるのを忘れてしまったようだった。
その先生には気の毒だったけど、自然にわき起こった拍手が何よりもの「礼」に思えた。

実は歌の前に、一言言葉を添えようかと考えていた。
何故定時制に移ったかとか、この歌にどんな気持ちを込めようとしたかとか。
他の先生との時間配分も考えて、ただ歌うことにした。
だから、異動の理由は前回のブログで書いたので、この歌への気持ちを今回書くことにした。
実は私は、55歳の免許更新をせずに教師から別の職業に転職するつもりでいた。
しかし、転職は果たせず、免許更新を行い続けることになった。
そんな自分でも、生徒たちは慕ってくれたし、逆に励まされた。
生徒のそばにいられれば、自分は何とか教師を続けられると思った。
本当は生徒のそばで、支えて上げるのが教師の務めであるけれど、教師も生徒によって支えられていると心から思った。
だから、2年前の文化祭ステージでも「懸命にがんばる君たちを見て逆に励まされた」と前置きして歌った。

今回も君たちに励まされて、次の学校でもがんばっていく勇気をもらったと言い添えたい。
新入生や2年生とは関わりがあまりないのだけれど、3年生はきっと私の気持ちを汲んでくれるだろう。
最後の花束贈呈で、生徒会執行部の生徒と肩を抱き合ってそれを確かめることができた。


2016年4月2日土曜日

最後の異動

この4月1日付で定時制に異動となった。
私も今年57歳になるので、最後の異動ということになるだろう。
ただ、定時制は前任校と同じ敷地内にある。
いわば、お隣に引っ越しということだが、意外と隣づきあいは少なかった。

もともと、定時制か通信制への異動を希望していた。
一番の目的は研究にもう少し時間を費やしたいこと。
二番目の目的は、年老いた母親の万一に備えること。
三番目の目的は、本来は一番であるべきなのだが、苦学生の力になることである。
定時制・通信制を希望しながら全日制に赴任したのは、学校が親元の近くなので二番目の目的が叶うこと。
そして、もう一度進学指導やクラブ指導もやってみたいとも思った。
また、55歳の免許更新をせずに転職するのが、本来の目的でもあった。
つまり、担任した生徒と一緒に巣立つのが夢だったのである。
しかし、それは果たすことが出来なった。

私は初任が知的障害の特別支援学校、当時は養護学校と言っていた。
二校目が職業高校、三校目が肢体不自由の特別支援学校、四校目は農業科もある全日の総合高校。
五校目は総合科学の進学校、六校目は知的障害の特別支援のマンモス学校、そして七校目が全日の普通高校だった。
正式採用されて、今回の定時制で八校目と言うことになる。
これに加えて、臨時常勤講師として、姫路の中学校で英語、赤穂の中学で数学、尼崎の普通高校で現代社会を教えた経験を持つ。
そうすると、学校で教えた経験は11校ということになる。
また、特別支援学校では小学部の児童も指導しているので、小中高はすべて経験した。
経験できなかったのは、通信制、聴覚、視覚の特別支援学校などである。

多くの学校を経験していることはあまり自慢にはならない。
それだけ同じ学校に長くいなかったことだからだ。
さらに私の場合は途中の二年間、兵庫教育大の大学院に研修に行っている。
だから、平均すれば今までは一校あたり4年ほどしかいなかったことになる。
異動の理由は様々だが、研究を続けるために教師になりながら、それができなかったことも大きい。
単に、時間が無かったということでは無く、例えばクラブの指導などにのめり込んだこともある。
教師の仕事に夢中になって、研究なんかどうでも良いように思えたときもあった。
ただ、理想と現実はいつも乖離したままであった。
だから、本質は青い鳥症候群なのかもしれない。
今回は希望が叶ったことは嬉しいが、その責任の重大さも感じている。

3月まで関わった生徒には、それなりに思いはある。
ただ、どちらかというと裏方やサポートの仕事が多くて、十分に関わることができなかったのが心残りでもある。
本来はクラブや学年集団の中で、もっと親密に関わることができれば良かった。
この全日制は初任校とおなじ最短3年であり、担任が1年間のみというのはかつては無かった。
ただ、担任した生徒と一緒に北海道に修学旅行へ行けたのは、楽しい思い出となった。
礼儀正しくまじめな生徒が多かった。
私は最後の1年間は、毎朝の校門立ち番で、おはようの挨拶をし続けた。
すべての生徒ではないが、返事を返してくれると嬉しかった。
今度は定時制働きながら、そばで応援したい。
そして、私の生き様も視てもらいたいとも思っている。
現役生とも、卒業生も顔を見せてくれたら、うれしいんだけどね!
 

2016年3月27日日曜日

心遣いに感謝

3年生が卒業してから1ヶ月。
3月は入試や、次年度の準備でゆっくり振り返る余裕がなかった。
春休みになって、余裕ができて、やっと3年生からの贈り物を手にして、その心遣いに心が目覚めることができた。
生徒会の執行部が、卒業式の日に、プレゼントしてくれた。
わざわざ、姫路まで買いにいってくれたらしい。
私は彼らのために、余りしてやれなかった。
むしろ、彼らのほうがどんどんと前向きに仕事をこなしてくれた。
贈り物をされるなんて、後ろめたい気もするが、ありがたく活用しようと思う。
きっと彼らは、どこへ行っても、執行部で活躍した力を発揮してくれるだろう。
ありがとう。生徒会執行部

2016年1月28日木曜日

すばらしい贈り物

今日で三年生の授業は終わった。
去年の三年生はは担任した学年と言うことや、朝補習などで深く関わった
特に朝補習や受験指導で多く関わったクラスでは、最終授業で花束をもらってお礼の挨拶を受けた。
感激のあまり涙が出て、ありがとうとしか言えなかった。
今年の三年生は朝補習もしなかったし、センター受験生徒の多いクラスは週二時間だけだった。
そのセンター受験の多いクラスは、最終の授業もセンター試験の前で終わり、その後は午前中授業になった。
センター試験前では最終授業という思い入れは、どちらも起こらなかった。

その後、午前中にある一般クラスの授業があった。
当然一般のクラスからは、最終授業に花束などもらうことも無かったし、お礼の言葉もなかった。
こんなものだろうなと思って、欠席を確認するために三年の学年団席の黒板を見に行った。
あるクラスの担任の先生が昨日Aさんが来ていたのを知っているかと言った。
当然一番前の席だったので知っているというと、彼女は私の4時間目にあった最終授業を受けるためだけに出てきたという。
その前も休んでいたし、今日も休んでいるという。
そう言えばしばらく休んでいたので、昨日も「久しぶりやね」というと、にこっと笑っていたのを思い出した。
調子が悪いのかなと思っていたので事情を聴いてみると。
登校しても意味が無いと言ってずっと休んでいるそうである。
その生徒が私の最終授業の一時間だけのために出てきたという。
実は最初言われた時にはピンとこなかった。
担任の先生は私の授業だけのために来たと言うことを言いたかったのだ。

私は調子が悪いと決めつけていただけに、自分の授業だけのために出てくる意味を理解できないでいた。
後でその意味が飲み込めて嬉しくなった。
たとえ花束をもらわなくても、こんな嬉しいことは無いと思った。
自分の授業だけは特別に学校へ出てきてくれることは、どんな花束よりも、素晴らしい贈り物に思えた。
長く教師生活しているが、こんな素晴らしい贈り物は初めてのように思えた。

2015年11月30日月曜日

10年ぶりのレース

きっかけはちょっとしたことだった。
本校の水泳部の主顧問が、別件の校務のために生徒引率できなかった。
私は代行を頼まれたのだが、今回の相生コスモスのレースは選手登録の必要が無かった。
私は10年前までは、マスターズの選手登録をして上郡のチームからレースにたまに出ていた。
本校の水泳部は男子の正選手が3人、女子が一人、そしてマネージャーが女子二人である。
そして、肢体不自由の選手が一人いるが、選手登録はしていなかった。
男子3人の内の一人は開催者の相生コスモスの選手でそちらから出場し、私が入らないとリレーは組めなかった。
どうせ引率するなら自分も出場し、リレーも参加しようと思った。

私は生徒と練習に普段付き合ったり、自分でも気が向いたら泳ぎに行っていた。
しかし、ここ数年は肩を壊したり、腹部を手術をしたりでまともな練習が出来ていなかった。
そこで、このレースに向けて練習を頑張りすぎたら、3週間前に痛風発作を起こしてしまった。
練習を積むどころか、まともに歩くことさえ出来なかった。
やっと一週間前くらいから泳げるようになって、今日の日を迎えた。
いつものことながら、レース前の朝は逃げ出したくなった。
特にリレーがあると、プレッシャーが倍増した。
それでも会場について、多くの人が集まってくると自然に気持ちが入ってきた。
ちびっ子や初心者が多いかと思ったら、意外と現役の選手も多く来ていた。

アップの練習で早くもM君が鼻血を出してしまった。
彼は肢体不自由なのだが、練習を頑張って全国の強化選手にも選ばれていた。
しかし、脚力が弱いのと、飛び込みの練習不足で苦手だった。
水面で顔面を打って鼻血が出てしまったのである。
彼は一般の人に交じってのレースで、リレーに出るのは初めてだった。
それでも200mメドレーリレーは何とか上手くいった。
しかし、自分のバタフライのタイムを知って情けなくなった。
M君がフリーしか泳げないので、私がバタフライを泳いだのだが、このリレーの結果では一番遅くて足を引っ張ってしまった。

リレーは周りは速いチームで気後れしたが、個人種目になると同じ年齢層でほっとした。
今まで滅多に出なかった50mフリーに出たのだが、やはり哀しい結果だった。
それでもM君より少しだけ速かったので、ほっとした。
彼には申し訳ないが、彼が出場してくれていなかったら私も出場していなかった。
顧問が生徒の足を完全に引っ張って、しゃしゃり出るわけにはいかなかった。
M君には56のジジーに負けたことに発憤して、世界を目指してくれることを願っている。
体のハンディーと年齢のハンディーでは、体のハンディーの方が厳しいことは分かる。
ただチャンスと言うことでは、彼の方が余程開けているのである。
私はどうあがいても世界で活躍できそうには無い。

昼休みに食事をとっていると、懐かしい人が挨拶に来た。
親子三人なのだが、父親は直ぐに分かった。
しかし母親は旧姓を名乗られても分からない。
話をしていてようやく、分かった。
この家族は前に勤めていた学校の水泳部の卒業生だったのだが、結婚していたとは知らなかった。
母親は近畿大会にも出場する選手だったが、体型も容貌も変わっていたので分からなかった。
可愛い子供を連れて挨拶してくれたのに、午後からのレースが気になってゆっくりと話が出来なかった。
こういうことがあると、クラブ顧問をやっていて良かったと思う。
彼らも子育ての余裕が出来たら、きっとまた泳いでくれるだろう。
そしたら、このコスモスで一緒にレースを楽しめそうだ。

午後からは25mバタフライに出場した。
当然、若かりし頃のタイムには遠く及ばなかった。
以前のマスターズチーム仲間は60代で14秒台で泳いでいた。
それよりも4秒も遅いタイムで、まだまだ頑張らねばと思った。
いよいよ、最後のフリーリレーとなった。
トータル年齢で区分してあるので、社会人チームと同じ組になった。
中学・高校生と同じ組より、私としては気分的には楽なのだが、周りは断然速かった。
結果はどうあれ、やっと無事終わってほっとした。
万一気分でも悪くなって、生徒に心配を掛けるようになってはいけないと思っていた。
老若男女、色んなハンディーを持っている人も一緒に楽しめる良いレースだった。
圧巻は全国大会に出場している赤穂の中学生だった。
こんな田舎の片隅で、全国レベルの泳ぎも見せてもらった。
単に競走だけで無く、応援やレクレーションのある楽しいレースだった。
頭が下がるのはコスモスプールのスタッフである。
休憩時間も殆どとらずに、レースを運営してくれた。
こういうレースがあるから水泳は楽しい。
私は久しぶりに、爽快な気持ちになれたことを、水泳仲間皆に感謝したいと思う。

なお、メドレーリレーで2位になっていた。
後日、表彰状がと届いた。
一生の宝物である。
職員室で他の教師に見せびらかしてやった!